様
いつもご苦労様です。お世話になっております。
早速ですが、ご家族・親類、ご友人・知人の方で「癌と闘っている」方がいらっしゃいましたら、次の『癌と闘う友へ』をご紹介させて頂きますので、宜しければ、ご病気の方の“励まし”にお使い頂ければ幸いです。
贈る:癌と闘う友へ
創価学会は病院を持っていません。※7
何故かと言えば、
どんな病気でも治すことができるからです。
誰が治すのかといえば、
「病気を治すのは自分自身」だということです。
言い換えれば、
自分自身の「生命力」「自然治癒力」が
病気を治す根本の力なんです。
医師は、それをお手伝いするだけです。 ※1
人間の細胞は60兆個くらいといわれ、
毎日3000億個が死に、3000億個が生まれ、
数ヶ月で自分の体の細胞が一新されてしまうそうです。
その「生命力」を出すのが、
「南無妙法蓮華経」と唱えることなんです。
仏法は道理なんです。
仏法は科学なんです。
我々の生命には、元々、
そういう「無限の力」が備わっているんです。
※1、※4
いままで、その力の出し方が
分からなかっただけなんです。
そして、その力の出し方を
皆さん方にお伝えするために、
創価学会はこの世に生まれ、
無名の庶民と共に、立ち上がったのです。
他の宗教・宗派は、
この力の出し方が、残念ながら分からないんです。
本当に哀しいことです。残念なことです。
さて、「南無妙法蓮華経」と唱えるその心構えは、
「自分の全細胞を一新させる」くらいの決意で祈るのです。※1
「60兆の全細胞ひとつひとつの薬王菩薩(製薬工場)をたたき起こして、発動させる」のです。
自分で自分の体を自分の力で治す方向に働かすのです。
どうか「南無妙法蓮華経」を唱えてください!
行住坐臥に唱えるのです。※2、※3
要するに、何処にいても、
何をしてても構いません。
歩いている時、立っている時、
座っている時、寝ている時、
私は風呂の中でも唱えますよ。
もちろん、駅までの徒歩中でも、
他人様に、奇異に思われない程度の声で、
勿論、声を出さなくとも、心の中でもOKです。 ※5
どうか、「南無妙法蓮華経」を唱えて、
最大の「生命力」を出して、
癌細胞を、元気な細胞に、
入れ替えていきましょう。
御聖訓に、「月月・日日につより給へ・
すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」
(聖人御難事:全集1190㌻、新版1620㌻)とあります。
毎日毎日が発心なんです。
日ごとに発心していくんです。※6
そして、
人のために戦い続ける一念を忘れず、
「生死を超えて、汝の為すべきことを為せ!」
と、池田先生は仰せです。※8
最後にもう一度、
病気を治すのは「あなた」しかいません。
医師はそのお手伝いしかできないんです。
腹を決めて、題目に挑戦して下さい。
私もあなたに題目を送っています。
さあ、闘いを開始しようじゃありませんか!
負けるな!
君よ!
あなたよ!
南無妙法蓮華経
勇猛精進
合掌
以上
詳しくは、次の機会にでもお話できれば幸いです。
これからも、いよいよの気概で前進してください。
お体を大切に、ご健康・ご長寿をお祈りいたします。
年 月 日
支部
地区
ブロック
氏名
<御書並びに先生の指導>
※1
池田 法華経の教相で、それをおさえたうえで、観心というか、「己心の薬王菩薩」とは何か。
法華経はすべて「己心の儀式」です。経文を向こう側においていては、肝心なことはわからない。
我が生命の薬王菩薩とは、名前の通り、心身の病気を治し、生命を「健康」にする力用と言ってよい。その本体は「妙法」であり「仏界」です。仏界の大生命力が生命の苦しみを癒す働きを「薬王」と名づける。
ゆえに御本尊に向かって唱題するとき、己心の薬王菩薩が働くのです。
戸田先生は「医者に行って、どんなボロ医者でも、こっちの薬王が働いていますから、医者が自然にいい治療をせざるをえなくなるのです」と言われていた。
医者を選ばなくてよいということではなくて、「病気を治すのは自分自身」だということです。なかんずく自分自身の「生命力」「自然治癒力」が病気を治す根本の力です。医者は、それを手伝うだけです。
須田 「医師が傷を縫い、神これを癒したまう」という言葉も、そういうことですね。
遠藤 「神が病気を治し、医者が金を取る」(笑い)というのもあります。
斉藤 その「治癒力」の本源が「仏界」ですね。「不老不死の大生命力」です。
池田 戸田先生の確信はすごかった。質問会では、病気の質問がいっぱい出る。
先生はよく言われた。
「『治りますか』という質問をしては、いけません。治るに決まっているから信心させているのです」と。
「それを治るか、治らないかと、そこに疑いがある」。それでは祈りは叶わない。
「人間というものは、胃ガン、胃病、肺病になる体をもっているのです。同様に、病気になった体から、病気を治す力も持っているのです。ちょうど、坂を登った人が、必ず坂を降りるようなものです。これが私自身の生命論です。生命哲学から、そう言うことができるのです」とも言われていた。
斉藤 よく、「まだ治らないのですが……」という質問に、叱られていたとうかがいましたが。
池田 戸田先生は、病気の人の話を聞くと、その晩、その人の夢を見ることがあるくらい、一緒に苦しんであげていた。そのうえで、本気で信心しないで功徳だけ欲しがったり、少しでも良くなったのに「まだ全快しない」と愚痴を言うような人には、厳しく信心の姿勢を正しておられた。
「形式ではなく、命を打ち込んで、御本尊にすがりつくのです。命を御本尊に差し上げるくらいの、本当の決意をもった題目ならば、治らないわけがありません」
「それを御本尊にご奉公もせずに、大病院ですら治らぬ病気を治せというのは横着すぎます。仏には、治してやらねばならない義務はありません! どれだけの人々を折伏したのか、支部をどこまで盛り上げたのか、よく反省しなさい。心を入れかえ、広宣流布へのご奉公ができたならば、私の命をかけて、必ず治ると申し上げます」
「少しでも良くなったならば、心から感謝することです。それなのに、まだ悪いところがある、まだ良くならないと、まるで御本尊様に貸しでもあるように考えているのではないですか。それではだめです。不知恩の行動に出ると、治ったものまで悪くなります。少しでも良くなったことを深く感謝して、感謝に満ち満ちて信心をしなさい! 早く治してくれなどと、ご奉公もしないで要求ばかりしていると、御本尊があいそをつかします」
まさに、薬王菩薩の「報恩」の信心を教えられたのです。この信心に立ったときに、己心の「薬王菩薩」が意気さかんに活動を始めるのです。自分の全細胞を一新させるくらいの決意で祈るのです。六十兆の全細胞ひとつひとつの薬王菩薩をたたき起こして、発動させるのです。私だって、三十歳までしか生きられないといわれた体で、ここまで働いて、ここまで長寿を勝ち取った。
寿量品の「更賜寿命(さらに寿命を賜え)」の一文の通りと感謝しています。「寿量」には「命数」とか「寿命」の意義がある。端的に言えば、寿命を延ばして、生きて生き抜くための本源の生命力を寿量品は教えているのです。
(法華経の智慧 薬王菩薩本事品 第二十三章 抜粋 より)
※2
『問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし』(唱法華題目抄12頁)
※3
『十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給うを大覚世尊讃めて言く善き哉善き哉汝南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳いくら程とも計りがたく・めでたき功徳なり神妙なりと仰せられたる文なり、是れ我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと等』(法華初心成仏抄557頁)
※4
『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(日女御前御返事1,244頁)
※5
「題目は信と行に開かれ、行の題目に読誦があります。読(どく)とは御本尊に向かって題目を唱えることで、誦(じゅ)とは心で唱える題目のことであり、功徳は同じであります。日蓮大聖人ご在世当時の信者たちは、(大御本尊出現以前は)日蓮大聖人にお目通りして唱題したのです。師弟相対というのがこれであります。これは読の題目であります。それ以外は誦の題目となります。」
(戸田城聖全集第二巻26頁)
※6
2022年2月19日追記
2006年2月14日女子部・婦人部合同協議会での先生の指導を引用。
「毎日毎日が発心なんだ。日ごとに発心していくんだよ」
有名な御聖訓に、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」とある。「日ごとに発心せよ」云々。
※7
「学会は絶対に病院をつくってはならない!」 2023年9月29日追記
さて、あるマスコミ関係者が語っていた。
――世間には、自前の大病院を有している宗教団体もある。
しかし学会はもっていない。私はその点を評価し、尊敬する。
本来、宗教の使命とは、どこまでも内なる″精神″の次元から、人間を救っていくところにあるはずだ。人間が希望を持って生きぬいていくための″精神闘争″″生命闘争″を教えるべきである。
それが、精神的な教えを説く一方で、病院を建て、金儲けをし、人々を内面から救っていけない自分たちの無力さをごまかしている。
これは人間への欺瞞であり、宗教者としての根本の使命を忘れた、堕落の姿といってよい。
その点、創価学会は、いわゆる病院というものをもっていない。
さまざまに批判されているが、私は学会こそ、宗教者のいき方としてもっとも正しいと思う――と。
戸田先生(創価学会第二代会長)は「学会は、絶対に病院をつくってはならない」と厳しく戒められていた。
学会はあくまでも「信心」で進んでいくのだと――。
このことは、宗教人としての自覚と自負がこめられた重要な原則である。
(1990.8.17ドクター部、白樺会、白樺グループ合同研修会)
「戸田先生は、『学会は病院をつくらない』と指導されたとうかがいました。それはなぜでしょうか」(マレーシア・男性)
結論から申し上げると、どこまでも「信仰の力」で人々を幸福にする。
成仏の境界に導く、これが大聖人の仏法の目的であるからです。
病に打ち勝つ人間自身の″内なる力″を引き出していくのが、宗教本来の使命です。
ゆえに、宗教自体の力で人々を救うこともなく、教団として病院や薬局を営業していくならば、それは宗教教団としては、本道をはずれた″亜流″の生き方になってしまう。
自分たちの宗教で人々を健康にし、幸福にすることができない″力不足″をカムフラージュする姿と見ることさえできるかもしれない。
いわんや病院によって利益を得るようになっては堕落といわざるを得ない。
いうまでもなく仏法は医学を否定するものではない。
戸田先生は、「病院には病院の使命がある。私たちは、信心を根本にして医学を使っていけばいいのだ」と言われていた。
要は、次元の違いであり、仏法は生命の内側から、根底的に人間を健康の方向へと向かわせていく。
その根本的使命をこそ教団は果たすべきだということです。
(1993. 4.11 SGI春季研修)
2023年9月29日整理
※8
「健康」とは何か。
その結論は「菩薩の生命」です。
人のために戦い続ける一念──
それが真の「健康」だと私は思う。
ただ″健康食品″を食べ、自分のことだけ考えて、
安楽な暮らしを願う──それが健康だとは思わない。
「健康」を象徴する薬王は、
信念に「殉教」した菩薩であった。
「戦う生命」それが「健康な生命」です。
私もお会いしたが、
ルネ・デュボス博士(世界的医学者)は言っておられた。
「心配のない世界で
ストレスもひずみもない生活を想像するのは
心楽しいことかもしれないが、
これは怠けものの夢にすぎない」
(『健康という幻想』田多井吉之助訳、紀伊国屋書店)と。(さらに「地球は想いの場所ではない。人間は、必ずしも自分のためではなく、永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦うように選ばれているのだ。危険のまっただなかで伸びていくことこそ、魂の法則であるから、それが人類の宿命なのである」〈同前〉と)
ストレスや悩みをも、生命力に転じていく。
それが「毒を薬に変える(変毒為薬)」妙法です。
「大いに楽しく生きよう」という仏法の境涯の実現です。
そのためには、戦いです。
「生死を超えて、汝の為すべきことを為せ!」です。
この使命感の前には、生も死もない。
この献身の前には、死苦さえが前進の力に変わる。
(「法華経の智慧」薬王菩薩本事品 (第二十三章) 池田大作全集 第31)
2022年2月20日
2023年9月29日
2024年9月25日
2024年10月25日整理