音声

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2022年6月23日

第2033回

正義と真実を

しゃべって、しゃべって、しゃべりぬけ!

 

<われらの声は″正義の大砲″>

 

 戸田先生は、どんなに忙しくても、

 青年たちを温かく迎えられた。

 「よく来たな! 

 未来に大きく羽ばたく諸君だ。

 私は期待し、信頼しているよ」

 

 先生は、青年を、こよなく愛された。

 とくに晩年は、

 ″もう青年しかない。

 青年しか信頼できない。

 青年が後を継ぐのだ。

 青年が伸び、青年が増えれば、

 学会は大きくなり、

 広宣流布はもっと早く進んでいく″

 というお心であられた。

 

 私も今、戸田先生とまったく同じ気持ちである。

 創価学会は、これからいちだんと、

 青年に力を入れていきたい。

(中略)

 

 また戸田先生は言われた。

 「広宣流布は、

 思想戦であり、言論戦だ。

 書きに書かねばならないし、

 しゃべりにしゃべり

 まくらなければならない作業であり、

 大運動なのだ」と。

 どんどん書け。

 しゃべりにしゃべれ。

 黙っていてはいけない。

 言うべきことは、強く言いきっていけ。

 それでこそ、広宣流布は進むのだ、

 との戸田先生の厳命である。

 

 もちろん、聞くべきときは、

 きちんと聞かなければならない。

 そのうえで、青年ならば、

 邪悪を許さぬ、鋭い言論の力を持つべきだ。

 「一」言われたら、「十」言い返し、

 打ち返す「反撃力」を磨きぬいていくのである。

 

 いわれない非難を受けて、

 黙って下を向いているような

 意気地なしの青年であってはいけない。

 

 お見合いじゃあるまいし(笑い)、

 おとなしくして、

 かしこまっていては損するだけである。

 

 相手の生命に叩き込むくらいの執念と勢いで、

 これでもか、これでもかと反論することだ。

 真実を語ることだ。

 沈黙しないことだ。

 

 生命力に満ち満ちた私たちの力強い「声」

 ――それが″広宣流布の弾丸″である。

 偏見や無理解の壁を破る″正義の大砲″である。

 

 わが信念を、わが正義を、

 どんな相手にも、

 しゃべって、しゃべって、

 しゃべりぬいていくのである。

 それが愉快で、

 楽しくてしかたないという

 一人一人になっていってこそ、

 広宣流布は、

 いちだんと勢いを増して進んでいく。

 青年部の皆さん、よろしく頼みます!

 

2005.7.7第51回本部幹部会、第5回関西総会他

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2022年4月16日

第1974

声仏事を為す

 

今の「十倍の力」を発揮できる

 

 仏法では「声仏事を為す」と説く。

 声が大事である。

 学会はつねに、この「声の力」で勝ってきた。

 いくら心ですばらしいことを思っていても、

 それだけでは、相手にはわからない。

 黙って笑顔を浮かべているだけでは、伝わらない。

 ゆえに、大事なのは、

 心の思いを言葉に表していくことだ。

 

 ことばと云うは心の思いを響かして声を顕す」

 と仰せのとおりである。

 

 みずからの信仰体験を堂々と語っていく。

 そしてまた、自分が感じた学会の真実の姿を、

 ありのままに訴えていく。

 その生き生きとした声の響きが、

 広宣流布の勝利と前進の原動力なのである。

 

 たとえば、商売をするにも、

 やはり、しゃべった分だけ、宣伝になる。

 勢いが出る。繁盛もする。

 広宣流布も同じだ。

 リーダーは、しゃべらなければいけない。

 言うべきことを言いきっていかねばならない。

 語らなければ、心は伝わらない。

 心を伝えることができなければ、人は動かない。

 

 また、頑張った人、

 努力している人、

 苦労している人を、

 率先して、讃えてあげることだ。

 

 ″よく頑張ってくださいました!″

 ″本当に、うれしいです!″

 ″ありがとうございました!″と。

 

 わざわざ口に出して言わなくても、

 きっとわかっているだろう

 ――そう思うのは、幹部の怠慢である。

 

 さらにまた、

 真剣に広布に戦っている同志を、

 澄ました顔で眺めているだけの

 幹部であるならば、あまりにも無慈悲である。

 

 邪悪には、厳しく「糾弾の声」を上げることだ。

 幹部が、悪に対して、

 おとなしくして、何も言わない。

 それは、偽善であり、

 保身であり、臆病である。

 そこに、「魔」はつけいってくる。

 

 リーダーは、

 こうしたスキを断じてつくってはいけない。

 声を上げなければいけない。

 正義の声が「魔」を切っていくのである。

 

 だからこそ、大聖人は若き門下に

 「いよいよ声を張り上げて、責めていきなさい」

 (御書1090㌻、通解)と教えているのである。

 

 これまで学会は、

 「女性の声」で勝ってきた。

 婦人部の皆さま方の「勇気の声」で、

 勝利また勝利の道を、敢然と開いてきたのである。

 

 その点、どうしても、男性幹部は弱い。

 外に向かってしゃべれない。

 組織に守られている場合が多い。

 わが学会は、

 リーダーの一人一人が、もう一歩、

 勇気を出して、思ったとおりに語っていけば、

 心の底から叫んでいけば、

 まだまだ、今の「十倍の力」を発揮できる。

 私はそう思っている。

 男性の皆さん、よろしく頼みます!

 

 声を出すことが、

 自分自身を変える。

 他人を変える。

 さらに、社会を変え、

 時代を動かしていく。

 まさに「声」が仏の仕事をするのである。

 この一点を、ともどもに銘記してまいりたい。

 

2005.4.4総東京代表協議会

 

2020年5月20日

第1671回

 「声の力」で新しい前進を 

 

<ありのままの自分で>

 

 

 声は力である。

 声の響きこそが、

 人に勇気を送る。

 いざというときの

 「信頼の一言」

 「励ましの一言」

 「確信の一言」が、

 どれほど皆に

 力と勢いを与えることか。

  

 大事なのは、

 励ましである。

 励ましの声である。

 仏典には、

 「声仏事を為す」と

 仰せである。

 現実に生きゆく人々に、

 希望と勇気を送るのは、

 真心からの

 「励ましの声」である。

  

 自分を

 よく見せようとすると、

 しゃべるのが苦痛になる。

 ありのままの

 あなたでいい。

 背伸びせず、

 自分の短所も長所も

 正直に知ってもらえば

 いいのである。

  

 親身になって、

 話を聞くことである。

 悩みを「聞いてもらう」

 だけでも、ぐっと心が

 軽くなるものだ。

 前へ進む力になる。

 今、手を差し伸べれば、

 全ての人を

 輝かせていける。

  

 一本の電話の持つ力は

 計り知れない。

 顔が見えない分だけ、

 声や話し方が大事である。

 一本一本の電話、

 そして一回一回の対話が

 仏縁を結び、福運を広げる

 仏道修行と思い、

 深き祈りを込めて、

 声を響かせていくことだ。

  

 「声」を

 惜しんではならない。

 「声」の限りを尽くして、

 語りまくり、

 しゃべりまくって

 いくことだ。

 「新しい前進」――

 それは

 特別なことではない。

 「新しい息吹」で、

 「新しい声」を

 発するところから

 始まるのだ。 

 

2020年5月17日〈池田大作先生 四季の励まし〉

2017年3月12日

「声仏事を為す」

声は力!会って励ませ!

 

<遠慮してはいけない。
言うべきことは明快に言うのだ。>

 

 人を動かすのは人だ。心を揺さぶるのは心だ。
 直接会う。会って語る。そこに生命の触発が生まれる。
 新しい出会いには刺激があり、新鮮味がある。人を励ませば、自分の心が励まされ、開かれていく。
 会えなければ、電話でもいい。声がつながればいい
 「声仏事を為す」(御書708頁)である。また「音(こえ)も惜しまず」(同504頁)とも仰せだ。真剣な声、誠実な声、正義の声――そこに込めた思いは、必ず通じていく。
 声が心を変える。「楽しくやろう!」「自分らしく!」「朗らかに!」――たった一言でも、皆、元気になる。
 声が力になる。「無事故でね!」「気をつけて!」。その一言が事故を未然に防ぐ。
 遠慮してはいけない。言うべきことは明快に言うのだ

 

2012年9月30日付 聖教新聞 今日も広布へ 33

2015年5月11日

 

人類の宿命転換へ、

生命の妙音の大行進曲を奏でよ!

 

<音楽には、

国土・社会を変え、

時代を動かし、

未来をよりよく創りゆく

エネルギーが秘められている>

   

 万物は奏でる。

 生きとし生けるものは歌う。

 この宇宙は、

 賑やかな音楽で満ちている。
 日蓮大聖人は、

 『音の哀楽を以て国の盛衰を知る』

 (御書88頁)との要文を留められた。


 躍動のリズムのあるところ、

 明るい希望が輝く。

 

 美しき旋律のあるところ、

 生きる喜びが湧く。

 

 妙なるハーモニーのあるところ、

 平和の共鳴が広がる。


 音楽には、

 国土・社会を変え、

 時代を動かし、

 未来をよりよく創りゆく

 エネルギーが秘められているのだ。


 世界に、

 いまだ戦禍はやまず、

 災害も絶えない。

 

 妙法という

 大宇宙の究極の音律を唱え、

 行じながら、

 音楽の真髄の力を発揮し、

 哀音を滅し、

 喜音を生じゆく、

 君たち創価の楽雄の使命は、

 いやまして尊く、深い。


 破壊の爆音を、建設の槌音に!
 反目の怒号を、友情の調べに!
 母子の嘆きを、安穏の笑い声に!
 疲労の溜息を、前進の足音に!
 不信の罵声を、連帯の交響楽に!


 若き地涌の菩薩の

 精鋭たる音楽隊には、

 限りない価値創造の響きがある。
 その渾身の演奏は、

 民衆を強く朗らかに

 闊歩せしめずにはおかない。

 それは、一人一人に、

 「人間革命」へ挑みゆく

 勇気を漲らせる師子吼である。


 そして、

 異体を同心とする

 団結を織り成して、

 人類の宿命の転換へ

 大行進曲を奏でる

 生命の妙音なのだ。

 

2015.5.11付聖教新聞 5・6「音楽隊結成の日」に寄せて

2015年4月21日

 

『声仏事を為す

之を名けて経と為す』

 

<「声」は生命全体の響き、

その人の生命、人格そのものが現れる>

 

池田 大聖人も『此の経は専ら聞を以て本と為す』(御書416頁)と仰せです。だから、仏の「声」が重要な意味を持っている。「妙法蓮華経」の「経」の意義について、『声仏事を為す之を名けて経と為す』(御書708頁)と述べられるゆえんです。
 遠藤 大聖人は、仏の三十二相の中では「梵音声相」が第一の相であると仰せになっています。(御書1122頁)
 「梵音声相」とは、音声が遠くまで明瞭に達し、しかも清浄で、聞く人を喜ばせるような声です。実際に釈尊の声も、そうだったのでしょう。
 池田 すばらしい声だったからこそ、人々の生命を揺るがし、蘇らせることができたのだろうね。それは、仏の己心に悟った成仏の法を顕す「真実の声」であった。
 「声」は生命全体の響きです。声にはその人の生命、人格そのものが現れている。あるフランスの作家は「声は第二の顔である」と言った。姿・形はごまかせても、声はごまかせないものです。
 須田 イギリスの科学雑誌「ネーチャー」(1995年2月2日、第373巻6513号)に興味深い記事が載っていました。人々はどのようなメディアの情報に騙されやすいか、調べる実験をしたというのです。新聞とテレビとラジオを使って、同一人物が真実を語るインタビューと、嘘をついているインタビューを並べて掲載・放送し、読者・視聴者に嘘を見破ってもらうというものです。
 その結果、人々が一番だまされやすいのはテレビ。逆に、四分の三もの人が嘘を見破ったのはラジオでした。新聞はその中間だったそうです。人々は、映像にはだまされても、声にはだまされなかったと見ることもできます。
 斉藤 「南無妙法蓮華経」という題目自体に不思議なリズムを感じます。念仏が“哀音”といわれるように、陰々滅々とした暗い音調であるのにくらべて、題目には人を勇気づけ、躍動させる力強い音律があります。
 須田 題目のリズムといえば、世界的バイオリニストのユーディー・メニューイン氏が、池田先生と対談されたときに語っておられたことを思い出します。
 ──「南無妙法蓮華経」の「NAM(南無)」という音に、強い印象を受けます。「M」とは命の源というか、「マザー(MOTHER)」の音、子どもが一番、最初に覚える「マー(お母さん)、マー」という音に通じる。この「M」の音が重要な位置を占めている。そのうえ、意味深い「R」の音(蓮)が中央にある──(「聖教新聞」1992年4月7日付)と。
 池田 いずれにせよ、題目こそ宇宙の根源のリズムであり、尊極の音声である。
 大聖人は仰せです。南無妙法蓮華経には、一切衆生の仏性を『唯一音(ただひとこえ)』に呼び現す無量無辺の功徳がある(御書557頁)。また、凡夫という無明の卵を温め、孵化させ、仏という鳥へと育てる「唱(とな)への母」である(御書1443頁)と。
 そして大聖人は『声もをしまず唱うるなり』(御書328頁)と述べられている。声も惜しまずといっても、声の大小ではない。一切衆生を成仏させようという慈悲の大音声です
 学会の行動も、この大聖人のご精神を我が心とし、広宣流布のための「声も惜しまぬ」行動である。
 題目を真剣に唱える声を根本として、あたたかい励ましの声、毅然とした勇気の声、心からの歓喜の声、真剣な誓いの声、明快な智慧の声、等々に満ち満ちているのが創価学会である。そこに無量の功徳がわいているのです。
 学会こそが、惜しみない声また声で、広宣流布という偉大な「仏事」を為している教団なのです。 

 

法華経の智慧 序品 第一章

2015年1月17日 

 声仏事を為す(4)

 

<題目こそ、宇宙の最極の音声>


 躍動し、声を発する。

 ここに生命の証がある。
 健康であるにもかかわらず、

 動かなくなり、

 声を出さなくなってしまっては、

 もはや「死せる生命」である。


 森羅万象、

 何ひとつ変化しないものはない。

 止まっているものはない。

 問題は、

 良く変わるか、

 悪く変わるかである。

 

 良き方向へ、良き方向へと、

 限りなく変わりゆくために、

 人間は動かねばならない。

 声を出さねばならない。


 なかでも広宣流布のため、

 法のために、

 動き、声を出すことは、

 最大の「生命の歓喜」をもたらす。

 それが宇宙のリズムに

 もっとも合致した行動だからである。


 その根本は、

 言うまでもなく唱題である。

 題目こそ、

 尊貴にして、

 宇宙の最極の音声である。

 すばらしき「健康」と「福徳」、

 そして「勝利」をもたらす

 限りなき源泉なのである。

 

 1990. 1.18第二十五回本部幹部会

 

2015年1月16 日 

 声仏事を為す(3)

 

<万物は自分の「たどるべき道」を知っている>

   

 仏法では「声仏事を為す」という。

 “声”に深甚の意義を見ている。
 科学においても、

 進歩すればするほど、

 マクロ(極大)の世界から、

 ミクロ(極小)の世界まで、

 不可思議ともいうべき

 調和の律動を認め、

 それを音楽的ハーモニーとして

 表現する人もいる。


 生命は何らかの“音声”を発する。

 また、

 他の“音声”に耳をかたむけ、

 反応する。

 

 人間の耳には聞こえなくとも、

 宇宙は、

 にぎやかな″声と声の響きあう世界″である。

 

 花に語りかければ花もこたえる。

 草も木も、あいさつを返してくれる。


 しかも万物は

 自分の「たどるべき道」を知っている。

 自分の使命を十二分に生き、

 迷うことがない。

 わが道をいき、

 わが軌道にのっとって、

 前進し、

 みずからの「生命の歌」をうたう。


 ある意味で、

 人間のみが、

 良かれ悪しかれ

 自由な意識を持つゆえに、

 この軌道から外れてしまう場合が多い。

 本来の調和を破壊してしまう。

 

 仏法とは、

 その軌道を回復し、

 さらに無限に向上しゆくための信仰である。

 真の「人間の道」「生命の道」を

 歩むための仏道修行なのである。


(つづく)

 

2015年1月15 日 

 声仏事を為す(2)

 

<「万物はうたう」とユゴーの直観>

   

 彼の詩に、

 “宇宙に遍満する音声”のことを

 つづったものがある。


 「万物はうたう」とユゴーは言う。

 

 「知るがいい、

  万物は

  自分の掟や、

  目的や、

  たどるべき道を心得ていることを、

  星から虫けらにいたるまで、

  広大無辺な宇宙は、

  おたがいの言葉に

  耳を傾けていることを」


 「万物が話をする、

  吹きすぎる風も、

  水面を進むアルキュオン

  (=伝説上の小島の名)も、

  草の芽も、

  花も、

  種も、

  土も、

  水もが」


 「万物は声をあげ、

  香りを放っているのだ。

  万物は話しかけている、

  無限の中で、

  何者かに何かを。

  ある考えがこめられているのだ、

  森羅万象のあげる

  壮大なざわめきには」


 「万物はうめく、

  おまえのように。

  万物はうたう、

  私のように。

  万物は話をしているのだ。

  そして、

  人間よ、おまえは知っているか? 

  なぜ万物が話すのかを。

  よく聞け。

  風、

  波、

  炎、

  木々、

  葦、

  巌、

  こうしたものすべてが

  生ある存在だからだ!」
 (「闇の国の語ったこと」から。

 『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳、潮出版社)
 詩人が、

 深き直観知で垣間見た宇宙の様相。

 

 それは「壮大なざわめき」の世界であった。
 万物が声を発し、

 万物がうたう。

 躍動する「生命」で充満した世界であった。


 (つづく)

 

2015年1月14日 

 声仏事を為す(1)

 

<音の力>

   

 英語では、

 病気を「治す(治る)」という意味の

 ″ヒール(heal)や

 「健康(ヘルス=health)」の語は、

 本来、

 「全体」を意味する″ホウル(whole)」

 と同根である。
 このことを踏まえていえば、

 病気が「治る」、

 「健康」になることは、

 宇宙の「全体」との調和を

 取りもどすことといえよう。


 生命は本来、

 宇宙の「全体」と一体である。

 その調和が崩れるとき、

 何らかの「病気」「苦悩」

 となってあらわれてくる。


 ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリス

 (一七七二件~一八〇一年)は、

 「あらゆる病気は

  一つの音楽的問題である

  ――その治癒は一つの音楽的解決である」

 (「続断片」飯田安訳、『ノヴァーリス全集 第2巻』所収、牧神社)

 と言った。

 彼も、病気とは、

 生命の音楽的なハーモニー、

 調和の律動に狂いが生じた結果と考えたのであろう。
 音楽は、

 たしかに「調和」をその生命とする。

 また、

 生命の調和に何らかの影響をあたえていく。
 最近、

 「音楽療法(ミュージック・セラピー、バイオー・ミュージック)」が脚光を浴びているという。

 その音楽を聴くことによって、

 心身両面をリラックスさせ、

 生命の自己調整の力、

 自然治癒の力が回復していく

 ――主として、

 そうした効果をねらったものである。


 音楽は心理面のみならず、

 体調をもよくしていく、

 というのである。

 本格的研究は、

 まだ始まったばかりであり、

 断定的なことは言えない。

 ただ「“音”が生命におよぼす力」について、

 社会的にも関心が高まっている

 一例として紹介させていただいた。


 この「音の力」について、

 すでに四千年前、

 古代エジプトでは

 「音楽は魂の薬」と呼んでいた。

 また健康法として、

 さまざまな利用も行われていたようだ。


 そこでは、

 音楽のことを「ヒュ」と言い、

 これは「歓喜」を本義とした。

 有名な象形文字では、

 これを「花開いた蓮華」で表したという。
 生命の歓喜である″音″が蓮華を象徴とした――。

 妙法もまた「蓮華の法」であり、

 私どもにとっては、

 たいへん興味深い話である。

 

(つづく)

 

2015年1月11日

 いわれなき批判には徹底的に素早く反論

 

 東京は、わが故郷である。私は、東京生まれの東京育ち。いわゆる「江戸っ子」である。その誇りをもっている。
 江戸っ子は、さっばりしていて、きつぷがよくて、何でも、はっきり、ものを言う。それが身上である。一見、淡泊に見えて、正義を叫ぶ時は、くどいくらいになる。悪は絶対に許さない! その怒りが、言葉となって、ほとばしるのだ。
 声は武器。声は力。口は語るためにある。勇敢に叫ぶのだ。
 いわんや、仏法においては、「声仏事を為す」である。声で勇気がわく。勢いが増す。勝利の道を開いていける。
 人間主義は正しい。仏法は絶対である。われらの前進を、世界の知性が待っている。
 今こそ打って出よ! 正義と真実を、しゃべって、しゃべって、しゃべりぬくのだ。力強い声で! そうすれば、いかなる暗雲も、いっぺんに吹き飛ぶ。
 御聖訓には「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」と仰せである。
 朗々たる題目の力で、正義の師子吼で、百獣のごとき魔軍を、敢然と打ち破ってまいりたい。

    2005. 5.21 第二総東京代表協議会

 

世界広布新時代

創立100周年

2030年 

 

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創価ルネサンスーⅡ

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祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.12.22

第2320回

 

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