2022年2月24日
第1917回
惰性になるな!
我見になるな!
増上慢になるな!
<退転者の末路は御書に明らか>
日蓮大聖人の仏法は、「一人の人間革命」を成し遂げ、ついには全人類の宿命の転換をも可能にする「希望の大法」である。
しかし、せっかく、この大仏法にめぐりあいながら、何か起こると、心ゆらぐ弟子もいた。いくら大聖人が弟子たちのために真剣に析られでも、弟子のほうが「不二の心」でなければ、祈りはかなわない。
御書には、こう仰せである。
「あなたがたはそれぞれに、日蓮の大切な味方である。ところが、私が頭を砕くほど真剣に祈っているのに、今まで明らかな現証がないのは、このなかに心の翻る人がいると思われるのである。思いの合わない人のことを祈るのは、水の上に火をたき、空中に家を建てるようなものである」(御書1225㌻、通解)
御書には、信心退転の者の末路が、いかに悲惨であるか、繰り返し述べられている。それは、断じてそうなってはならないとの厳愛の御指導と拝せよう。
身は退転していなくても、心が退転している者。
自分が退転するだけでなく、同志を悪道に転落させる者。
あろうことか、師匠を誹謗し、広宣流布を破壊する者。
そうした人間の姿が、御書に厳然と留められている。少々、長くなるが、心して拝したい。
「法華経を経文のように持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは自分の貪り・瞋り・癡の三毒の煩悩のために、あるいは世間的なことに寄せて、あるいはさまざまな行動を見て、憎む人がいる。この人は、法華経を信じていても、信ずる功徳はない。それどころか、かえって罰を受けるのである」(御書1247㌻、通解)
「この法門についた人は数多くいたけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180㌻、通解)
「はじめは信じていたのに、世間の迫害が恐ろしくて、信心を捨てた人は数知れない。そのなかには、もとから誹謗していた人々よりも、かえって強く誹謗する人々もまた多くいる。仏(釈尊)の在世にも、善星比丘などは、はじめは信じていたけれども、後に信心を捨てたばかりでなく、かえって仏を誹謗したゆえに、仏の大慈悲をもってしても、いかんともしがたく、無間地獄に堕ちてしまった」(御書1088㌻、通解)
「日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのような大難(佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような歪んだ心の者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不憫としか言いようがない」(御書960㌻、通解)
「(歪んだ心の者たちが)『日蓮さんは私たちの師匠ではあられるが、あまりにも強引だ。私たちは(師匠と違って)柔らかに法華経を弘めましょう』と言うのは、ホタルの光が太陽と月を笑い、蟻塚が華山(約二千メートルの中国の名山)を見下し、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小鳥のカササギが偉大な鸞鳥と鳳凰を笑うようなものである、笑うようなものである」(御書961㌻、通解)
いまだ勝れた法を得ていないのに、それを得たと思いあがる。
この「増上慢」を仏法は厳しく戒めている。
「開目抄」には「智慧がない者は、増上慢を起こして、自分は仏と対等だと言う」(御書226㌻、通解)との摩訶止観の言が示されている。
惰性になるな!
我見になるな!
増上慢になるな!
この大聖人の叫びを、断じて忘れてはならない。
2006年2月19日最高協議会
2018年3月6日
“何があっても、御本尊に向かい、
唱題していこう!”
という一念
<退転者の共通項は、
全て自分自身が根本>
佐藤宅での勤行を終えると、山本伸一は、遺族らに、しみじみとした口調で語った。
「幸治さんは、本当に人柄のいい、信心一筋の人でした。大功労者です」
それから、皆の顔に視線を注いだ。
「幸治さんによって、佐藤家の福運の土台は、しっかりとつくられた。これからは、皆さんが、その信心を受け継ぐことで、永遠に幸せの花を咲かせ続けていくんです。
トップで後継のバトンを受けても、走り抜かなければゴールインすることはできない。後に残った人たちには、あらゆる面で、周囲の人たちから、“さすがは佐藤家だ!”と言われる実証を示していく責任がある。
これからは、いよいよ佐藤家の第二章です。一緒に新しい前進を開始しましょう」
この十一日の夜、伸一は、秋田文化会館での県代表者会議に出席した。
席上、県婦人会館の設置や、県南にも文化会館を建設する構想が発表され、歓喜みなぎる出発の集いとなった。
伸一は、マイクに向かうと、まことの信仰者の生き方に言及していった。
「それは、決して特別なことではありません。人生には、いろいろなことがあります。
しかし、
“何があっても、御本尊に向かい、唱題していこう!”
という一念を持ち続け、
堅実に、
学会活動に邁進していくことです。
そして、何よりも、
自分の生き方の軸を広宣流布に定め、
御書を根本に、
法のために生き抜いていく人こそが、
真実の信仰者です。
これまで、
一時期は華々しく活躍していても、
退転して、
学会に反旗を翻す人もいました。
そうした人をつぶさにみていくと、
決まって、
わがままであり、
名聞名利、
独善、
虚栄心が強いなどの共通項があります。
結局は、自分自身が根本であり、
信心も、組織も、
すべて自分のために利用してきたにすぎない。
いかに上手に立ち回っていても、
やがては、
その本性が暴かれてしまうのが、
妙法の厳しさであり、
信心の世界です」
新・人間革命 勝ち鬨 七十三