諸天善神

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2022年8月20日

第2079回

諸天善神も悪鬼神も表裏一体

 

<「信」は諸天善神と働き、

「不信」は悪鬼神と働く>

 

 大事なことは諸天善神も悪鬼神も、

 自身の生命に根ざした働きであり、

 両者は表裏一体の関係にあるということです。

 

元品の法性は梵天・帝釈と顕れ、

 元品の無明は第六天の魔王と顕れたり

 (新1331・全997㌻)と仰せの通りです。

 

 不信によって、

 生命が元品の無明に覆われてしまえば、

 自分を取り巻く環境が悪鬼神の働きとなって現われてしまう。

 

 それを、打ち破っていけるのが信心の利剣です。

 

 妙法への信を貫き

 広宣流布という師弟の大願に生き抜くならば

 その瞬間瞬間の生命に如々として仏界が現れ、

 周囲は諸天善神の働きとなって動き始めていきます。

 断固として守られるのです。

 いわば、”仏の入其身”であり、

 「内薫外護」です。

 

 どこまでも諸天の守護は、

 自身の「信心の厚薄」によって決まります。

 だからこそ、魔は魔と鋭く見破って打ち払い、

 決定した題目で諸天を揺り動かしていくのです。

 

※内薫外護

 一切衆生の生命に内在する仏性が妙法の信によって、

 香りが染みわたるように顕現していくことを内薫といい

 この内薫に呼応して、

 外からその生命を護り助ける働きが起こることを外護という。

 

2022年大白蓮華8月号№874 18㌻

 

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2022年8月11日

第2070

「絶対勝利の信心」

たとえ事態が思い通りにいかなくとも

諸天の加護は絶対

 

肝に命じておくべき御金言>

 

 

 「各々、天の御はからいとおぼすべし

  (伯耆殿並諸人御書、新1936㌻)――。

 これこそ、私たちが肝に命じておくべき御金言です。

 

 たとえ事態が思い通りにいかなくとも、

 御書には、全て

 「天の御計らい」(新1508㌻、全1107㌻)、

 「十羅刹女の御計らい

 「釈迦仏の御計らい」(新1583㌻、全1164㌻)

 と受け止めていくことを教えられています。

 

 戸田先生の事業が破綻した折も、

 先生と私は、

 まさしく諸天の「御計らい」と定めて、烈風に向かったのです。

 

 諸天の加護は絶対です。

 その時その時の結果は、

 仮に自分が望んだものとかけ離れていたとしても、

 最終的に、”あれは守られていたのだ”

 ”全部、深い意味があったのだ”と、

 感謝できる勝利の結果になります。

 

 ですから、どこまでも、

 「天の加護なきことを疑わざれ」(新117㌻、全234㌻)

 との仰せのごとく、

 どんなことがあっても「疑う心なく」(同)、

 大確信をもって前進していくことです。

 

 決然と「絶対勝利の信心」に立っていけば

 「自然に仏界にいたる」(同)のです。

 

 どんな逆境にも、妙法を唱え、

 大生命力を発揮していけば、

 時を創り、

 味方を増やしながら勝ち進んでいくことができます。

 

 人間は決して、

 運命に翻弄されるだけの存在ではありません。

 「生老病死」を「常楽我浄」へと転じゆく、

 仏界の生命という宇宙大の根源の力を具えた存在なのです。

 計り知れない地涌の底力を秘めているのです。

 

 

常楽我浄・・・仏の生命に備わる徳目で、四徳波羅蜜ともいう。

 とは、仏が完全な永遠性を実現していること。

 とは、完全な安楽。

 とは、完全な主体性。

 とは、完全な清らかさをいう。

 

2022年大白蓮華8月号№874 19~20㌻

 

2018年11月29日

第1563回

祈りは諸天善神を動かす

 

<最高の法を持つ人こそ尊貴>

 

 私たちの祈りは、諸天を動かす偉大な力用を備えている。私たちが南無妙法蓮華経と唱えるとき、無量の諸天善神が、私たちの後ろに並んでいるのである。
 戸田先生は、その意味について、わかりやすく語ってくださった。
東の方に向かって、諸天善神にたいして、あいさつするときに、それは、わが心の中にある諸天善神が、そのまま大宇宙にうかぶのです。そうして、御本尊に向かうときには諸天善神が、ぜんぶうしろにすわるのです」「そして、私たちが御本尊に向かって唱える経文、題目をきちんと、聞いているのだ」と。

 一人で題目をあげているようであっても、決して一人ではない。皆さまの題目に合わせて、何千何億もの諸天善神が一緒に御本尊に向かっている。そうやって諸天善神が、こぞって集まり、身近な人間や同志の働きなどとなって、皆さま一人一人を守るのである。
 広宣流布に戦う同志の皆さま方が、どれほど尊貴であり、どれほど偉大であるか。
 大聖人は門下への御手紙の中で、次の法理を示しておられる。
 「法が妙であるゆえに、その法を受持する人が貴い。人が貴いがゆえに、その人がいる所も尊い」(御書一五七八ページ、通解。以下同じ)と。
 お金持ちだから偉いのではない。社会的地位があるから偉いのでもない。そうではなく、本当に尊貴なのは、最高の法を持った人なのである。そして、その尊貴な人がいる場所が、そのまま「本有常住の常寂光土」なのである。
 大聖人は、こうも仰せである。
 「持たれる法さえ第一ならば、持つ人もまた第一なのである」(御書四六五ページ)と。
 妙法を持った皆さまが、第一に尊い方々である。ゆえに、皆さまをいじめれば、厳しい仏罰を受けることは、御書に示されているとおりである。

 

2001年12月13日 第十二回本部幹部会

2014年9月28日

諸天が信心を試す

 

<更なる強盛の信心で、諸天も強く守護する>

  
『まこと(実)やらむ・いえの内に・わづらひの候なるは・よも鬼神のそゐには候はじ、十らせち女の信心のぶんざいを御心みぞ候らむ、まことの鬼神ならば法華経の行者をなやまして・かうべをわらんとをもふ鬼神の候べきか、又釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと・ふかくをぼしめし候へ、恐恐謹言』(上野殿御返事、1544頁)
 ――一族に病気の人が出たことを心配されて、病は十羅刹女が信心の強弱を見ているのであるから、なお一層、強盛な信心を貫いていくよう励まされています。(中略)
 『此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし、十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん、それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし』(兄弟抄、1083頁)
 法華経の行者を守護する十羅刹女が、私たちの信心を試すことがある――これは、私たちにとって重要な原理です。
 諸天の守護といっても、何か漠然と加護を待つということではありません。『必ず心の固きに仮(よ)りて神の守り則ち強し』(1220頁)です。
 病気や宿命などの困難に直面した時に、強盛な信心で立ち上がることで、諸天善神の守護の働きがさらに強くなるのです。
 日蓮仏法は、どこまでも自身の強盛な信仰心を根本に、わが生命力を湧きたたせ、自らの意志と努力で断固として逆境を打開していく現実変革の宗教です。
 一切は「信心」で決まります。病気や困難に対して、信心が後退してしまうのか、一歩も引かずに前進するのか。何よりも、私たち自身が「不退の信心」を貫けるかどうか、私たちの覚悟を試されているのです。

 

大白蓮華No.779号2014.10月号38~40頁

 

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第2320回

 

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