2021年6月27日
第1721回
貫き果たしてこそ「誓願」
誓願の人生を歩むうえで
最も不可欠な要件は
いったい何であろうか。
それは「不退の心」だ。
誓願は、
貫き果たしてこそ、
真の誓願である。
立つべき時に
立つかどうか。
それで
人間の真価は決まる。
肩書でもない。
立場でもない。
大事なのは、
苦難を恐れず、
師と「不二の心」で
立ち上がる勇気である。
誰だって、
勇気を出す時は
ドキドキするし、
恐怖を覚える。
「こわくない」のが
勇者なのではない。
ふるえながらでも
「一歩前に出る人」が
「勇気ある人」なのだ。
自分の心がどうかである。
他人が決めるのでも、
環境で決まるのでもない。
愚痴や文句を言う前に、
一歩踏み出してみよう。
「自分は、これでいく」と
腹を決めるのだ。
そして、
強く朗らかに進むのだ。
最高峰を目指して
ベストを尽くし、
「これでよし」と
悔いなく叫ぶのだ。
私は心から願う。
愛する同志が、
喜び勇んで
広布に邁進することを!
私は懸命に祈る。
一人ももれなく、
絶対の幸福の人生を
悔いなく勝ち切ることを!
広宣流布とは、
全人類を幸福にし、
平和を築きゆく大偉業だ。
人生を懸けて悔いなき、
最高にして
名誉ある
大目的ではないか。
進もう!
師弟不二の王道を!
登ろう!
未踏の
広布の王者の山を!
2021年6月27日〈池田大作先生 四季の励まし〉
2020年3月17日
第1652回
誓願の祈りは決意の唱題
〈ブラジルのサンパウロの座談会で伸一は、農業を営み、不作に悩む壮年の質問に答える〉
「仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも“誓願”の唱題でなければならない」
「セイガンですか……」
壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
伸一が答えた。
「“誓願”というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです。祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、棚からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。
日蓮仏法の祈りは、本来、“誓願”の唱題なんです。その“誓願”の根本は広宣流布です。
つまり、“私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください”という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです」
新・人間革命 第1巻 開拓者
2019年4月20日
第1601回
広布の自覚こそ
功徳と歓喜の源泉
<使命と責任、雇われ根性を排せ>
食事をしながら、十条が伸一に尋ねた。
「沖縄の同志は、本当にはつらつとしているし、功徳と歓喜にあふれている。また、大変な発展をしています。海外ということで、本部の指導の手もあまり入らなかったのに、どうしてなんでしょうか」
「沖縄のメンバーは、沖縄を幸福にするのは、自分たちしかいないと自覚して頑張ってきた。人に言われてやっているのではなく、それぞれが広宣流布の主体者の使命と責任を感じている。だから、歓喜がわき、功徳も受け、発展もするんだよ」
「なるほど。主体者の自覚の如何ですね」
相を打ちながら、十条が語り始めた。
「実は、海軍兵学校におりました時に、よくカッターの帆走をやりましたが、どうしても舟に酔うものが出ます。ところが、カジをとらせると酔わないのです。
自分がやるしかないという責任感と緊張感によるものと思えます。結局、舟に酔うのは、自ら舟を操ろうというのではなく、舟に乗せられているという、受け身の感覚でいるからだということを学びました」
伸一は十条の話を聞くと、面白そうに頷いた。
「そうかもしれない。広布の活動を推進するうえでも、自らが責任をもってカジをとろうとするのか、それとも、ただ舟に乗せられている乗客になろうとするのかによって、自覚も行動も全く違ってくる。
乗客のつもりでいれば、何かあるたびに舟が悪い、カジ取りが悪いということになって、グチと文句ばかりが出る。それでは、自分を磨くことはできない。
私は戸田先生の会社に勤めた時から、先生の会社も、学会のことも、すべて自分が責任をもつのだと決意した。当時は、職場でも一介の社員に過ぎなかったし、学会でも役職はなかった。しかし、立場の問題ではない。自覚の問題です。
そう決意した私には、給料が遅配になっても不平など微塵もなかった。また、自分の部署を完璧なものにするだけでなく、常に全体のことを考えてきた。それが現在の私の、大きな力になっていると思う」
それから伸一は、青年部長の秋月英介を見て、話を続けた。
「戸田先生が、こんな話をされたことがある。
──ある工場が倒産し、機械が差し押さえられ、競売に出された。そして、落札者が機械を運び出すことになった時、その工場で働いていた一人の職人が必死になって叫んだ。
『この機械は、俺が何年も可愛がってきた機械なんだ。この機械を持っていくんなら、俺も一緒に連れていってくれ』
戸田先生は、この話をされて、こう言われた。
『見上げたものじゃないか。職人魂がある。月給いくらで雇われているというような根性ではなく、機械と心中しようというのだ。機械に対する彼の愛情は、仕事に対する情熱の表れにほかならないだろう』
先生は″雇われ根性″を最も醜いものとされた。特に青年で、そういう根性のあるものは、将来は見込みがないと断定された。これは、広宣流布という″仕事″にも通じることだよ。
何ごとも″雇われ根性″では、習得などできない。青年は、万事、自分が主人のつもりで、何事にもぶつかっていくことだ。
『習得する』ことを『マスター』と言うが、英語の『マスター』には『主人』の意味があるじゃないか」
伸一は、愉快そうに笑った。彼は、学会の後継者となる青年部に、まず広宣流布の「主体者」「主人公」の自覚を植えつけておきたかったのである。
創価学会の会長としての山本伸一の責務は、人々を学会丸という大船に乗せ、幸福と平和の広宣流布の大陸まで、無事に運ぶことにあった。
それには彼とともに、濃霧の日も、波浪すさぶ嵐の夜も、友を幸の港に運ぶために船を守る、さまざまな乗組員が必要である。
いな、船長ともいうべき自分が、いつ倒れても不思議ではないだけに、彼と同じ決意、同じ自覚に立ち、大船を担える人材を、彼は必死になって育成しようとしていたのである。
しかし、そんな彼の胸中を、正しく理解する幹部はいなかった。
彼らには、伸一の考える壮大な広布の構想が理解できずにいたし、三十二歳という彼の年齢から、まだ先のことは何も心配はいらないという、安易な安心感があった。
ましてや、戦いに臨む烈々たる伸一の気迫に触れると、すべて伸一に任せてさえおけば、大丈夫だとの思いを強くするのであった。
新・人間革命 第2巻 先駆 59頁
2018年7月8日
第1514回
広宣流布の「大願」に生き抜け!
<小我から大我へ>
大いなる理想に向かって進む
「向上の人生」――
その人には、
いつも希望がある。
充実がある。感動がある。
内面からあふれ出る
生命の輝きがあり、
何ともいえない魅力がある。
人間は、孤独に陥り、
自分ばかりが大変なのだと思うと、
悲観的になり、
心も弱くなってしまうものだ。
しかし、自分より、
もっと大変ななかで
頑張っている人もいる。
それを知れば、勇気が湧く。
そして、
悶々と悩む自分を見下ろしながら、
むしろ、試練と戦う友を
励ませる自分に成長できる。
苦難の時こそ、
勇気ある信心を奮い起こし、
生命の苦悩の流転を断ち切り、
境涯を開いていくチャンスなのだ。
大きな目的のために
「行動」すれば、
それだけ自分の「夢」が広がる。
大きな「歴史」が輝く。
私たちも
広宣流布の「大願」に生きぬく時、
自分の「小我」は
「大我」となっていく。
法のため、人のために
「行動」した分だけ
「大きな自分」となる。
それは即「大きな幸福」である。
我らの挑む広宣流布の戦いは、
この地球上に共に生きる
全ての人々を
幸福にしていこうという、
大いなる夢への挑戦である。
なれば、
大空を見上げながら、
心広々と朗らかに、
粘り強く進むのだ。
池田大作先生 四季の励まし「勇気ある信心」を今こそ 2018年7月8日
2018年1月6日
「今年こそ」と立てた誓願は
必ず実証できる!
わが師・戸田城聖先生は、正月の折によく言われた。
――妙法受持の我らは、宇宙運行の根本のリズムに乗って、心新たに「今年こそ」と立てた願いを、必ずその年の生活に実証していけるんだよ、と。
御本仏に直結する我らの誓願の祈りが、叶わないわけがない。
「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(同1351ページ)
いやまして強盛に題目の師子吼を轟かせ、一つ一つ「人間革命」の旗を打ち立てゆく大前進、大勝利の一年とするのだ。
世界の創価家族と共々に、勇気凜々と大仏法を語りゆこう!
学会歌を声高らかに歌いながら、広布と人生の「栄光の年」を勝ち進もうではないか!
〈池田先生と共に 新時代を進む〉24 2018年1月5日
2015年5月29日30日
真の「人間としての偉大さ」
<「自分が仏になったら救う」は、まだまだ無慈悲!>
我らの誓願は「人間を救え!」
池田 戸田先生は、この「誓願」について、おっしゃっていた。
「(安楽行品の)誓願なんて、とってもノンキなものだよ。『もし、自分が仏になったら助けてやる』という、誓願を立てるのだ。そうなれば安楽だろう。折伏なんか、今すぐすることないから。『ワシが仏になったらそのときに縁を結んだヤツは助けてやる』と」
自分が仏になったら救ってあげようというのは、まだまだ無慈悲なのです。
遠藤 たしかに、誓願の経文では「自分が最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得た時に」人々を救うとあります。法華経を求めず信じようとしない人々を、「自分が悟った後に」救おうというのです。
斉藤 本来は、「一切衆生を救い尽くすまで自分は成仏しない」という強烈な誓願をもつのが真の菩薩ですね。
遠藤 それこそ、学会の同志だと思います。安楽行品の誓願とは比べものにならないほど偉大な実践をしています。草創の方々は、自分がどんなに貧しくて、苦しい生活をしていても、他人を救うために必死で正法を教えに歩いたのですから。
斉藤 「この信心をしたら、絶対に幸せになれるのよ」と語っても、相手から「あんたが金持ちになったらやってやるよ」とバカにされ、ののしられ、追い返された。それでも、毅然として正義を叫びきってこられました。
池田 あまりにも崇高です。自分のことなど後まわしにしても悩める人を救う。“それこそが真の菩薩なんだ。地涌の菩薩の心意気なんだ”──皆、この誇りに燃えていた。だから、身は貧しくとも、心は幸福であった。境涯は大富豪であった。慈悲の折伏をやりきった時点で、その相手よりも根本的な「安楽」の境涯になっていたのです。
斉藤 このすばらしい「菩薩の行動」で、今日の大創価学会が築かれてきたのですね。
池田 ロマン・ロランは叫んでいる。
「自分の魂が救われるか救われないかということにばかりこだわっていれば、救われることからかえって遠ざかる。君が君自身を救いたいなら、人間を救え! もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ! そうすれば、それ以外のたいせつなことはみな君につけ加わって来るだろう」(『内面の旅路』片山敏彦訳、『ロマン・ロラン全集』17所収、みすず書房)と。
この究極を実践しているのが、我が地涌の同志です。「貧乏人と病人の集まり」と、ののしられながら、心は人間王者であった。じつは本来、仏でありながら、そういう姿をとって、妙法を証明してきたのです。学会の世界は、地位でもない、学歴でもない、財産でもない、真の「人間としての偉大さ」を追求する世界なのです。
法華経の智慧 安楽行品 第十四章
2015年4月22日
「大願」に立てば一切が生きてくる
<わが使命のドラマを演じ切れ!>
池田 「大願」に立てば、一切が生きてくるのです。何ひとつむだがない。
大聖人は『願くは我が弟子等・大願ををこせ』(御書1561頁)と叫ばれた。そして、こう仰せです。
『をなじくは・かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ』(同頁)と。
また『露を大海によせ土を大地に加(くわう)るがごとし生生に失せじ世世にく(朽)ちざらむかし』(御書968頁)との御金言もある。
「つゆ」のように、はかない命。「ちり」のように、取るに足らない我が身。それが信心の「大願」によって、永遠となる。
法華経の大海とともに、妙法の大地とともに、永遠に消えることも朽ちることもない。仏の大境涯に連なるのだ、とのお約束です。私たちは、そういうダイナミックな劇を演じているのです。
須田 “演じている”といえば、五百弟子品には『内に菩薩の行を秘し、外に是れ声聞なりと現ず 少欲にして生死を厭(いと)えども 実にはみずから仏土を浄む』(法華経330頁)と説かれています。
外側には、生死を厭う声聞の姿を現しているけれども、本当は仏土を浄化する菩薩行を実践しているのだ、と。
斉藤 続いて『衆に三毒有りと示し、又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便もて衆生を度す』(同頁)とあります。自ら貪・瞋・癡の三毒に侵されている姿を示すのも、邪見にとらわれている姿を現すのも、すべて人々を救うための方便である、と。
池田 私どもでいえば、久遠以来の「大願」を果たすために、今世に生まれてきた。そう確信すれば、今世の苦悩の姿も、迷いの姿も、全部、人を救うための方便だとわかるのです。
すなわち、初めから何の悩みもない恵まれた姿で人々の前に現れたのでは、だれも妙法の偉大さが分からない。また、そういう人には、民衆の心もわからないでしょう。
どんな宿業の苦しみも、それを克服して勝利の実証を示すために「あえて自分が選んだ苦しみ」なのです。そう確信することです。勝つために自分があえてつくった苦悩なのだから、勝てないわけがない。負けるはずがないのです。
「大願」を自覚すれば、すなわち「我、本来仏なり」と自覚すれば、自身の宿命すら使命に変わるのです。多くの人々と同じように「悩める民衆」の姿で生まれ、どこまでも「民衆とともに」幸福になっていく――それが私どもの使命のドラマなのです。
法華経の智慧 五百弟子受記品・授学無学人記品 第八章、第九章
2014年6月5日
「誓いを果たす」人がいちばん幸福
決意はたやすい。が、それを実現することは容易ではない。反逆者たちも、皆、口がうまかった。それぞれに立派な決意を述べていたが、結局、裏切っていった。
口ではない。行動である。結果である。事実である。
いったん約束したことは必ず実行する――これが私の、また恩師戸田先生の精神である。また国際社会における信義の根幹でもある。
口先だけでは通用しない。その場しのぎの言葉や、ソロバン勘定だけではかえって信頼を失ってしまう。軽蔑の対象となる。
日本が国際社会において信用を得られるかどうかも、結局、こうした基本を大切にしているかどうかにかかってこよう。(中略)
「約束を守る」人が人間としていちばん偉い人である。「誓いを果たす」人が、いちばん苦しそうに見えて、いちばん幸福な人である。
1991.5.5創価教育同窓の集い
2014年5月4日
「誓願」とは
自身の生きる証しの異名
混迷深まる時代に生まれることを自ら求め、失意に沈む人々のために行動する生き方を貫くことを、釈尊の前で「誓願」した地涌の菩薩(中略)
ここで言う「誓願」は、誰かが行動することを期待して事態の変化を待ちわびるような願望でも、状況が厳しくなった時にに吹き飛んでしまうような約束でもない。
どんな困難や試練が押し寄せても、どれだけ歳月や労力がかかっても、成し遂げていく――自分の全存在を賭けた“生きる証し”の異名ともいうべきものに他なりません。
2014.1.26第39回「SGIの日」記念提言
2014年3月9日
誓願は
貫き通してこそ誓願
仏が滅後の法華経の受持・弘教を強く勧めているのです。困難(六難九易)を示したうえで、あえて弘教を勧められているのですから、そこに甚深の意義を拝することができる。
大聖人は、その仏の心、仏自身がもつ大願の心に深く触れて、己心の魔を完全に打ち破り、末法の全人類の救済に立ち上がられたと記されています。
言い換えれば、仏界の生命を涌現させて己心の魔を打破し、広宣流布の大願に立たれたとの仰せです。(中略)
大聖人の誓願は、御年三十二歳の時から佐渡流罪を経て、御入滅のその日まで、終始一貫しています。何も変わりません。
誓願は貫き通してこそ、誓願です。
戦い続けてこそ、生きた真の仏法です。
譬えて言えば、弓を的に向かって射る。射た瞬間に、矢は真一文字に的に当たるまでの軌道を飛び続ける。最初から軌道を外れたり、射る力が弱ければ、失速してしまい、的に当たるはずはない。
反対に言えば、深い決意で立ち上がった人は、もう、だれも止められないということです。
御書の世界(上) 第三章 立宗宣言
2014年3月7日
誓願で
「強き自分」の確立を!
何事であれ、偉大なことを成し遂げる根本には誓願があります。いかなる理由があっても、途中であきらめたり、退転するのでは、誓願とは言えません。中途半端な願望では、誓いの意味をなしません。
「いかなる大難も風の前の塵のように吹き払おう」と大聖人は言われています。
強い自分こそ、真の安穏があるのです。
誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれるのです。
反対に、「善につけても、悪につけても、法華経を捨てるのは地獄の業である」と厳しく言われている。魔性に負けて、自己自身に負けて、途中で挫折する「弱い自分」は地獄に通ずる。どこまでも人生は勝負。ゆえに仏法もまた勝負です。勝つことが正義であり、幸福であるからだ。
あの『我並びに我が弟子・・・』の一節を挙げて、大願に生きぬけば、求めずとも一生成仏が達成されると明言されています。
誓願は「人間性の真髄」です。
仏の大願という最高の願いに生きぬけば、いかなる大難に遭っても真実の人間性の柱が厳護され、そこにこそ生命の魂が輝いていくのです。ゆえに悪世、そして五濁の末法に、人間が人間として生きぬくには、誓願の力が大切なのです。
御書の世界(上) 第一章 御書は「末法の経典」