2017年4月15日
開会の法門
「絶待妙」
<21世紀の哲学としていよいよ重要に>
天台大師は、「妙法蓮華経」の「妙」の一字について、「相待妙」「絶待妙」から解釈しています。
いずれも「妙」の卓越性を示していますが、諸経への執着を捨てさせる「相待妙」に対して、「絶待妙」には法華経の立場から一切を活かす「開会(かいえ)」の法門があります。
「諸宗問答抄」には次のように仰せです。
「絶待妙というのは方便の教えを開いて真実の法に入らしめる開会の法門である。この立場に立てば、爾前権教であるとして捨てた教えも皆、法華経の大海に収められるのであり、法華経の大海に入れば、爾前権教の教えとして嫌われることはないのである」(御書377頁、趣意)
釈尊の爾前権教はもとより、仏教以外の教えであったとしても、真実の片端片端を説いているのであれば、法華経の全体観の上から正しく位置づけ、用いていくことができるということです。
また「法華経の大綱であり、爾前は法華経のための細目であるから、大綱のために細目を用いるのである」(御書973頁、趣意)とも仰せです。
大聖人御自身、「立正安国論」をはじめとする諸御抄で、法華経の正しい理解のために、爾前権教の文証や中国の故事などを自在に引用されています。これは「開会の法門」に即したものであり、また「絶待妙」のお立場から展開されたものです。
「分断」から「調和」の時代へ――仏法の英知の一つである「開会」の思想は、21世紀の哲学としていやまして重要になっています。
人類の平和や幸福を目指す思想や信条というものは、根底では万人尊敬の妙法と合致するものです。それゆえに、妙法という希望の光明に照らされることによって、一切の哲理は、人類益のための共通の善として生き生きとその真価を発揮する。全てが、民衆のために善の働きをしていくのです。
大白蓮華2017年4月号№810 37頁