2018年6月24日
第1512回
竜女の成仏
<「我が成仏を観よ」>
『夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり、されば権教を修行する人は火にやくるもの又火の中へいり、水にしづむものなをふちのそこへ入るがごとし、法華経をたもたざる人は火と水との中にいたるがごとし、法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ・阿弥陀経・大日経等を信じ給うは・なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし、いかでか苦患をまぬかるべきや、等活・黒繩・無間地獄の火坑・紅蓮・大紅蓮の冰の底に入りしづみ給はん事疑なかるべし、法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。
故聖霊は此の苦をまぬかれ給い・すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、若し大水に漂わされ為も其の名号を称れば即ち浅き処を得ん」又云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」云云、あらたのもしや・たのもしや、詮ずるところ地獄を外にもとめ獄卒の鉄杖阿防羅刹のかしやくのこゑ別にこれなし、此の法門ゆゆしき大事なれども、尼にたいしまいらせて・おしへまいらせん、例せば竜女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法をとき給いしがごとし、これをきかせ給いて後は・いよいよ信心をいたさせ給へ、法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり』(上野殿後家尼御返事、1504頁)
大聖人は、提婆達多品に説かれる竜女の即身成仏を通して、さらに励ましを送られています。
ここで、竜女の成仏の劇を追ってみたい。
経文では、文殊師利菩薩が、竜宮において、竜王の娘である8歳の竜女が菩提を成じたことを報告すると、智積(ちしゃく)という菩薩は、とても信じられないと言下に否定します。それは、仏の覚りは菩薩が無量劫の間、難行苦行を重ねて初めて得られるものであり、女性は成仏できないと決めつけていたからです。
ところが、その智積菩薩の前に、忽然と竜女が姿を現し、釈尊にこう誓います。
「唯仏のみ当に証知したまうべし 我は大乗の教えをひらいて 苦の衆生を度脱せん」(法華経407頁)
仏だけが自分の成仏を知ってくださっています。だれが何と言おうと、私は、自分を救ってくれた妙法の力で、人々を救っていこう――報恩と一体不二となった。この竜女の誓願は、なんと力強いことでしょうか。(中略)
竜女は、智積菩薩や舎利弗の前で、宝珠を釈尊に捧げます。ここで表されている宝珠は、仏性です。一切衆生が生まれながらに、平等に仏性を具えていることを示しているのです。
竜女は、幼い女性として、即身成仏を示しました。ありのままの姿によって、一切衆生に無限の希望を与えることができたのです。(中略)
竜女は、智積菩薩らに宣言します。
「我が成仏を観よ」(法華経409頁)
竜女が、こう言い切って即身成仏の姿を示した光景は、病や人生の苦難を打開しゆく同志と二重写しになります。
「わが姿を見よ」と、誇らしく、宿命と戦う尊貴な自分の生命を堂々と開き示していく。「宿命」を「使命」に転ずる逆転劇こそが、仏法の偉大さの証明になるのです。
さらに、「普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説する」(同頁)と、竜女は一切衆生のために法を説いていきます。
その誓願の行動を目の当りにした衆生は、「心大いに歓喜して、悉く遙かに敬礼(きょうらい)」(同410頁)したのです。
「心は大いに歓喜(心大歓喜)」です。一人の生命の輝きが、周りの人を歓喜させていく。暗闇の中に、一つの明かりがともり、それに感応して、周りがいっせいに輝きだすような希望の連動です。(中略)
一般的な成仏観は、はるかかなたの高い頂上を目指して、どこまでも険難な山道を登り続けます。あまりにも困難で、山頂にたどり着けるかどうか分からない。また、自分のことで精いっぱいで、人ことまで関われません。
大聖人の仏法は、まったく異なります。だれもが、瞬間に、頂上の高みに到達できる教えなのです。それが「受持即観心」の妙法の大功力なのです。
そびえ立つ山頂から、周囲をはるかに見下ろしていける大境涯に、今この瞬間に、その身のまま、今いる場所で到達できるのです。
しかし、この大仏法の功徳は、そこでとどまるものではありません。
日蓮仏法の真実の醍醐味は、仏界の山頂から、九界の麓へ勇んで向かい、人々にこの喜びを伝え抜いていくところにあります。現実の世界の中で、妙法を語り、自らの実証を示し、希望の行進を広げていく。そして、今度は、大勢の民衆と共に大歓喜の山頂に登り立つ。仏界から九界へ、そして皆と一緒に九界から仏界へ。この歓喜の往復の連続こそが、我らの広宣流布の行動なのです。(後略)
大白蓮華2018年6月号№824 15頁~
2017年2月24日
竜女の成仏
(完)
<未来永遠の女性の幸福の道を開く!>
すべての母たちの幸福のために!
すべての女性たちの栄光のために!
妙法を持った一人の真剣な女性には、だれもかなわない。
今日、広宣流布を最大に支えてくださっているのは女性の皆様である。
なかんずく、白樺の皆様方、そして女性ドクターの健気にして勇敢な奮闘は、学会の宝である。
男性リーダーは、このことを、ゆめゆめ忘れてはならない。
仏に等しい女性の同志に対して、威張ったり、叱ったりすれば、厳しい仏罰が出る。
大聖人は、「女人成仏」を説き明かした法華経こそが、悲母の恩を報ずることのできる真実の「報恩経」(御書1312頁)であると述べられている。
御義口伝では、「竜女の二字は父子同時の成仏なり」(同746頁)と仰せである。
また、開目抄において、「竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」(同223頁)と断言されている。
広宣流布に生き抜く行動こそが、母も父も、さらに縁するすべての人々を成仏に導いていく、大直道なのである。
現実は、さまざまな苦難の連続である。竜女がそうであったように、驕慢や無理解や偏見が、渦巻いているかもしれない。
しかし、妙法の師弟の道を生き抜く女性が、負けるわけがない。不幸になるわけがない。
そして、「今」「ここ」で、自分自身が断固として勝ちきっていくことが、未来永遠の女性の幸福の道を開くのである。
すべての母たちの幸福のために!
すべての女性たちの栄光のために!
これが、広布の道である。日蓮大聖人の御心であり、我ら創価学会の大願である。
2007.8.12 ドクター部・白樺会・白樺グループ合同研修会
2017年2月22日
竜女の成仏
(6)
<性別や社会的地位などは一切関係ない。
ただ「信心の厚薄」によって成仏が決まる。>
法華経では、真の成仏である「即身成仏」を示すにあたり、「女人成仏」という形をとっている。その意義は、まことに甚深である。
朝な夕な、読誦している寿量品の自我偈には、「質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命」と説かれる。
「質直意柔軟」は、心がまっすぐで(質直)、囚われるものがない(柔軟)という意味である。
一心不乱に身命を惜しまず、求道心を燃やし、師とともに、広宣流布の大道を歩む。
その模範が、女性の弟子たちによって示されていることこそ、よくよく知らねばならない。
大聖人は、「諸法実相抄」に綴られた。
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女をきらふべからず」(御書1360頁)
「四条金吾殿女房御返事」には、「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり」(同1134頁)と仰せである。
大聖人の仏法は、性別や社会的地位などは一切関係ない。ただ「信心の厚薄」によって成仏が決まる。
そして信心強盛な女性こそが最も尊貴なりと、大聖人は賞讃され、成仏は間違いないと励ましておられる。
鎌倉から、はるばる佐渡の一谷(いちのさわ)まで大聖人をお訪ねした女性門下を、「日本第一の法華経の行者の女人」(同1217頁)と賛嘆なされ、「日妙聖人」の尊称を与えられた。そのほかにも、健気な信心を貫く女性に「上人」の号などを贈り、讃えておられる。
(つづく)
2017年2月21日
竜女の成仏
(5)
<「竜女の成仏」とは「即身成仏」、
「即身成仏」とは
「師との誓願のままに広宣流布への具体的な実践をする姿」
即ち「師弟不二」そのもの>
竜女の成仏の本質は「即身成仏」にある。
大聖人は、「(法華経)の第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり」(御書1311頁)、「この経は女人成仏を手本としてとかれたり」(同頁)等と仰せだ。
法華経では、それまで成仏できないとされていた二乗にも、悪人にも、成仏の道が開かれた。
これらは画期的なことであるが、いずれも未来の成仏であり、「未来に成仏できる」と仏から保証されたものである。
竜女の成仏は、「即身成仏」であり、成仏の「現証」である。
「即身成仏」が示されなければ、法華経で説かれる「万人の成仏」も、結局、絵に描いた餅になってしまう。
この、重要な「即身成仏」の証明役を、最も虐げられ、軽んじられてきた竜女が、堂々と、晴れ晴れと果たしたのである。
私は常々、「一番、苦労した人が、一番、幸せになる権利がある」と訴えてきた。
この確信もまた、法華経に説かれた成仏観によるものであることを、知っていただきたい。
先にも述べたように、竜女が師・釈尊に手渡した宝珠は、わが生命に具わる仏性である。
その宝珠を、師・釈尊は莞爾として受け取ってくださった。
それは、竜女の仏性が、まぎれもなく、仏の生命と一体であることを示している。
さらに、竜女は、師への誓願のままに、ただちに広宣流布へ、行動していった。
この具体的な実践が、即身成仏の姿そのものといってよい。
(つづく)
2017年2月20日
竜女の成仏
(4)
<竜女成仏の劇>
さて、舎利弗の不信を受けて、竜女は、三千大千世界――宇宙大の価値にも等しい、一つの「宝珠」を取り出して、釈尊に捧げた。
釈尊は、宝珠を温かく受け入れた。
この宝珠は、その深義をいえば、宇宙の根本の法である「妙法」を表している。また、仏性を具える「生命」を表している。
竜女は舎利弗たちに対して、「自分の成仏は、この宝珠の受け渡しよりも速やかなのです」と毅然と述べた。そして竜女は、「我が成仏を観よ」と叫び、仏として一切衆生のために妙法を説きゆく姿を、はっきりと現したのである。
大聖人は竜女の成仏について、「舎利弗よ、これを『竜女の成仏』と思うのが見当違いなのだ。『我が成仏』なのだと観ていくのだ、と(竜女が舎利弗を)責めたのである」(御書747頁、通解)と仰せになっている。
竜女の偉大な姿を見た娑婆世界の衆生は、大いに歓喜し、最敬礼を贈った。その衆生も竜女に続いて、成仏の記別を受けたのである。
厳然たる実証を前にして、竜女の成仏を疑った智積や舎利弗も、信受せざるをえなかった。これが、法華経に説き明かされた竜女成仏の劇である。
(つづく)
2017年2月19日
竜女の成仏
(3)
<「弟子が師匠を決める」>
だが、今度は、「智慧第一」と謳われる舎利弗が、竜女に対して不信を述べる。
――あなたは短い間に無上道の悟りを得たと思っているが、このことは信じがたい。
なぜかと言えば、女性の身は汚れていて、仏法を受け入れる器ではないからだ。どうして無上の悟りを得ることなど、できるであろうか(できるはずがない)――
舎利弗をはじめとする、最高峰の知性とされた人々でさえ、どれほど傲慢に、どれほど冷淡に、どれほど疑い深く、若き竜女を見下し、侮っていたかを、物語っていよう。
他人を見下す。自分がやるべきことを、だれかに任せて、何も責任をとらない。そういう人間が指導者になった組織は、周りから軽んじられ、信頼を壊してしまう。
学会の歴史においては、三代の師弟が誹謗されても、“知ったことではない”と言わんばかりの態度をとる人間が、退転していった。この峻厳な事実も、皆さんがご存知の通りである。
私は、たとえ無一文になろうと、身に危険が及ぼうと、学会の礎となり、いい学会をつくりあげよう、それだけ思って生きてきた。
牧口先生がそうであられた。戸田先生もそうであった。しかし、この心のわからない最高首脳もいた。
広宣流布の戦いは、死にものぐるいでやらねばならない。私は、不惜身命、勇猛精進で進んできた。だから学会は発展した。そうやって初めて、王者の風格が生まれる。人が育つ。
「師匠が弟子を決める」のでなない。「弟子が師匠を決める」のである。これは、わかっているようで、難しいことだ。師匠の正義を満天下に示すには、弟子が結果を出す以外にない。
(つづく)
2017年2月18日
竜女の成仏
(2)
<師匠はすべてをわかってくださっている>
提婆品では、大海の竜宮で弘教していた文殊師利菩薩(智慧を体現する。迹化の菩薩の代表)が、虚空会に現れる。
文殊に対して、智積菩薩は、「あなたは竜宮でどのくらいの衆生を化導してきたのか」と尋ねた。
すると文殊は、「竜宮において、もっぱら法華経を説いて無量の衆生を化導してきた」「竜王の娘である8歳の竜女が法華経を聞いて即座に悟りを得た」と答えたのである。
しかし智積は、竜女が成仏したという文殊の言葉を信じられない。
竜女は、成仏できないとされてきた女人であり、畜生の身であり、そのうえ、わずか8歳という幼さである。
智積は言う。
――仏の悟りとは、無量劫の間、難行苦行を重ねて初めて得られるものだ。
竜女が、即座に成仏できたなどとは、到底認めることはできない。
ところが、智積が言い終わらないうちに、竜女自身が現れる。そして、根本の師匠と仰ぐ釈尊に対して語った。
「仏のみが、自分の成仏を知ってくださっています。私は大乗の教え(法華経)を開いて、苦悩の衆生を救ってまいります」
たとえ、傲慢な者たちが、自分を認めなくとも構わない。師匠である釈尊は、すべてをわかってくださっている。竜女には、この大いなる確信があった。
妙法に生きゆく師弟不二の生命は、強く、尊く、そして朗らかである。
(つづく)
2017年2月17日
竜女の成仏
(1)
<「竜女の成仏」は「師弟不二」の勝利劇>
法華経、そして日蓮大聖人の仏法の眼目は何か。
それは「女人成仏」――
すなわち、永遠なる「女性の尊厳」「女性の幸福」「女性の勝利」である。
これまでも、幾たびとなく語ってきたが、その意義について、あらためて確認しておきたい。
大聖人は「千日尼御前御返事」において、伝教大師、天台大師の釈を引かれ、『一代聖教の中には法華経第一・法華経の中には女人成仏第一なり』と仰せである。(御書1311頁)
法華経以前の爾前教の経典は、「女人成仏」であった。
この差別を根底から覆し、「女人成仏」を厳然と示したのが、法華経であり、日蓮大聖人の仏法である。
古来、女性に対して、「五障」「三従」といわれる差別観があった。
「五障」とは、梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏にはなれないという差別である。
「三従」とは、女性は小さい時は親に従え、結婚したら夫に従え、老いたら子に従え、という差別である。実に、根深い偏見であり、因習であった。
女性は成仏できない、という差別を大きく転換して、すべての女性の勝利を謳いあげた教え。
それこそが、法華経の提婆達多品で説かれる、「竜女の成仏」のドラマなのである。
それは、まさしく「師弟不二」の勝利劇であった。
(つづく)