2023年12月8日
第2279回
民衆が、
仏界の生命を現し、生命の底力を発揮
<熱原の三烈士の人権闘争>
池田 広宣流布に戦う信心強き庶民群の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。
3年前の建治2年(1276年)に著された「報恩抄」に仰せのように、南無妙法蓮華経が万年の未来まで流布して末法の人々を救っていける大法である。
しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。
捕らえられた20人は信念を揺るがさずに毅然たる姿を示した。このことは、何の力も持たない民衆が、障魔の強大な圧力を信心の力で跳ね返したことを示している。
民衆が、仏界の生命を現し、生命の底力を発揮していくことこそが広宣流布の根本方軌です。
熱原の民衆の深く強い信心は、妙法五字の大光明が、虐げられた末法の人々の胸中を赫々と照らしうることを証明しているのです。
(中略)
池田 しかし、1人として退転するものはいなかった。平左衛門尉は最初から処刑するつもりではなかったかもしれない。しかし、権力の中枢に登り詰めている自分に対して、農民が断固抵抗し、自身の信念に殉じようとしている。
この時、権力者の胸中にどうしようもない瞋恚の心が湧き起こっていったのではないか。
(中略)
池田 この20人の勇敢なる庶民の行動は、13世紀の封建時代の日本で起きた偉大な先駆の人権闘争です。苗字もない一介の農民が、厳然と宗教的信念を貫き、権力者の横暴に対して断固として「ノー」と叫ぶ。人類の人権の教科書の一頁を飾るべき出来事とも言えるのではないでしょうか。
講義「御書の世界」(下)池田大作全集第33巻
2023年10月15日(未掲載)
熱原法難
<三烈士の精神は学会の中に>
きょうは十月十七日。弘安二年(一二七九年)十月十五日に「熱原の三烈士」が殉教し、その報が大聖人にもたらされたのが十七日である。大聖人の出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される機縁となった、この法難について、少々、語っておきたい。
熱原法難は、無名の民衆が、強大な権威・権力による弾圧に対して、身命を惜しまずに戦った誉の″先駆の歴史″である。また、今、法難の経過を振り返った時、そこから数々の教訓をくみ取ることができる。
なお、熱原法難の史実を初めて詳かにされたのは、日亨にちこう上人であられる。上人の『熱原法難史』、私が願主となって発刊された『富士日興上人詳伝』など、その御研究の成果を基本としてお話ししたい。
法難の発端となったのは、日興上人の富士地方(駿河国富士郡=現・静岡県富士市、富士宮市等の一帯)への折伏・弘法が拡大したことによる。
もともと富士地方は、日興上人にとって、縁の深い地である。幼少時を過ごされたのは、母方の由比入道の屋敷があった河合(現・富士郡芝川町)。修学されたのは、富士川の対岸にあった蒲原庄(現・庵原郡富士川町)の天台宗寺院・四十九院であった。また、須津庄(現・富士市)の東光寺の美作阿闍梨に外典(儒教等)を、同地の地頭・冷泉中将に歌道や書道を学んでおられる。
正嘉二年(一二五八年)、日蓮大聖人は「立正安国論」の構想を練ねられるため、岩本(現・富士市)の天台宗寺院・実相寺で一切経の閲覧えつらんをされた。日興上人は、ここで大聖人にお会いし、自ら願って弟子となられた。
この有縁の地に対して、日興上人は早くから正法弘通の手を差し伸べられていた。特に、文永十一年(一二七四年)五月、大聖人が身延に入られた後、本格的な弘法を始められている。
祖父の河合の由比入道、日興上人のおばの嫁いでいた賀島(現・富士市)の高橋六郎兵衛入道、南条時光の姉の嫁いでいた重須(おもす=現・富士宮市)の石河新兵衛入道などが、日興上人の折伏によって入信している。
また、それまでに、日興上人によって四十九院、実相寺の僧侶の中にも、正法を信じ、大聖人の門下になる者が数多く生まれていた。さらに、下方庄熱原郷の南部の市庭寺の地に、天台宗の滝泉寺という大寺があり、そこの住僧の少輔房が由比家と縁があった関係から日興上人の折伏を受けて入信したのをきっかけに、下野房・越後房・三河房などが相次いで正法に帰依していった。
駿河の国は執権・北条時宗が守護であり、特に富士の下方庄は、時宗の母で、時頼の後家尼の所領だったのである。そのため、下方庄には、北条家の政所(所領の管理をつかさどる役所)があり、住民を支配していた。
滝泉寺の院主は不在で、院主代(住職代理)の平左近入道行智が実権を握っていた。行智について、日亨上人は次のように述べられている。
「当時の滝泉寺には院主はあったが親しく寺務を取る事出来ぬ事情であった、其所そこで北条家の庶流いちもん(本家から分かれた一族)で此の辺土に漂泊して居た平左近入道行智と云ふ生道心(にわか坊主)の痴漢(愚か者)が鎌倉(幕府)に運動して一時の預り手となり院主代として専ら寺務を取扱うて居いたが、学問が有る訳でなく修行が積んでるのでも人徳が高い訳でもない、執権家を笠に被(き)て威張散らして居た」(熱原法難史)と。
行智は「左近入道」というから在家の入道にすぎない。政所の住民支配を陰から助けるためもあって、滝泉寺という大寺の院主代になれたというのも、住民ににらみがきく北条一族の出身だったからである。そしてその権威をカサに威張りちらし、政所の住民支配を側面から手助けしていた。
信仰を失った宗教が、権力と結託して、民衆を抑圧し、支配する道具となった事例は、古今の歴史にこと欠かない。
僧の権威化と堕落が仏法を破壊
僧侶は、本来、民衆を救うために、正法へ導き、成仏への道を教え、信仰を励ますなど、信徒の幸福に尽くすのがその使命のはずである。僧侶の権威をかざして信徒を抑圧し、従属を強いて、信徒に奉仕させるというのは、本末転倒である。そのような者は、もはや仏弟子ではなく、僧侶ともいえないであろう。
仏教史をひもとくと、インドにおける、初期の仏教教団では、出家の修行者も、在家の信者も、ともに「教えを聞く人」として平等であったといわれている。
ところが、教団が発展し、教団の権威が確立すると、出家の修行者は、在家の信者に対して、権威をもつ者として、一段と高い所に立つようになっていった。そして、やがて、在家の信者は、「仕える人」と呼ばれるようになり、出家の修行者に対して、仕える存在とされていったという。
また、アショーカ王の時代になると、教団に分裂の傾向が表れ始めた。しかし、教団の僧侶は、自分たちの所業を反省しようとせず、むしろ、信徒に向かって「僧侶を尊敬せよ」といって、従順と尊敬とを強要した。それは、教団を維持するには、どうしても信徒の寄進が必要だったからである。ついには「僧侶を害すると地獄に落ちるぞ」という脅おどしを使うようになった、とされている。(中村元『原始仏教の成立』秋冬社)
いつの時代であれ、仏教の「平等」の精神に反して、僧侶が権威を振りかざし、信徒に従順と尊敬を強要するようになった時に、教団は腐敗ふはいし、僧侶は堕落している。信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。
御本仏・日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本からはずれて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない。
腐敗を指摘された悪侶らは逆恨みして弾圧
弘安二年十月、日興上人が幕府へ提出された「滝泉寺申状」には、滝泉寺の院主代・行智の悪行の数々が暴かれている。
すなわち、法華経をバラバラにして柿紙(渋紙)に作り(張り合わせて柿渋を塗り、敷物や包み紙などにした)、堂舎の修理用に使った。寺の財産を私用にした。寺の財産を私用にした。賄賂をとって無知悪才の盗人を供僧にとりたてた。寺内の農民を使って鶉狩り、狸狩り、鹿狩りなどをして、住職の坊でその獲物を食べた。寺内の池(殺生を禁じた池)に毒を流して鯉や鮒を殺して村で売った、等々──。とうてい僧侶とは思えない醜行ばかりである。
「見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基い悲んで余り有り」──(その悪行を)見聞きした人は、目や耳を疑い、驚かない者はなく、仏法破滅のもとであり、どれほど悲しんでもたりないほどである──と日興上人は嘆かれている。
外敵によってではなく、悪侶による悪行によって、仏法は破壊されるのである。悪侶が実権を握った場合には、寺が荒廃し、他の善良な僧や信徒の心が離れていくのは当然であろう。
そこへ、日興上人が、末法の正法を掲げ、腐敗の根源である邪義を破り、「改革」を訴えられたのだから、保身の僧は驚き、恐れ、一方、心ある僧侶は正義に目覚めていった。下野房日秀らは、法華経を読誦し、唱題に励み、折伏を実践するとともに、腐敗した滝泉寺の改革を強く要求した。
しかし、悪人に共通するのは、詭弁を弄して自己正当化するのが巧みで、他人や環境に責任を転嫁し、少しも恥じないことである。そして、自己の非が批判されると、逆恨みして、反対に相手を激しく非難し、攻撃する──。
今回の「宗門の問題」の発端の一つも、目にあまる、ぜいたくな行為などの僧侶の非行が指摘されたことに対して、激しく反発した宗門が、″信徒のくせに僧侶を批判するとは生意気な″と逆恨みし、感情的に学会を攻撃してきた点にある。
行智は、日興上人の門下となった下野房ら四人を呼びつけて、信仰の弾圧に乗り出した。行智はこう命じた。
「法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむ」──法華経は不信用の法であるから、すぐに法華経を読誦することをやめて、阿弥陀経のみを読み、念仏を唱えることを誓う起請文を書けば、許してやる(さもないと、追放する)と命じた──と。
「道理」でかなわず「権力」を使う理不尽な行智の言葉に、下野房はこう反論した、と日亨上人は述べられている。
「其(それ)は院主代の仰せとも心得ぬ当寺は天台宗で叡山の末寺である其その根本大師の御精神に従って法華読誦を為するのが何で悪い、日蓮聖人の御主義に移ると思ふから僻が出るであらう、伝教大師の源に還ると思うて御身等(あなたたち)とても吾等と共に法華読誦を始められよ、彌陀念仏は当山では幾代前から始まった事か極近代では御座らぬか早々邪見を飜して吾等の正義に従いめされ此れが却って釈仏の御本意で御座る」(熱原法難史)
まったくの道理である。正論である。それに対して、仏法に無知な行智は、一言の反論もできなかった。そればかりか、ただ、やりこめられたという悔しさから怒り狂って、「イヤ此處は論場(法論の場)でなければ法論無益である吾等院主職の下知(命令)に従はぬとなら早々此この寺を立退をれ」と叫んだ。
議論、道理で勝てないとみるや、「従わねば、出ていけ!」と。これが「権力化した宗教」のやり方である。
仏法は道理、道理は権力に勝つ
大聖人は「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」──仏法というものは道理である。道理というものは、主君という権力者にも勝つものである──と仰せである。
これは、四条金吾が、同僚から讒言され、信仰をやめよと主君から迫られて、最大の苦境におちいっていた時、大確信をもって激励されたお言葉である。
その後、間もなく、主君も、金吾を讒言した同僚たちも、当時流行していた病に倒れている。大聖人は、十羅刹女が金吾を助けるために、この病が起きたのであろう、とされている。医療の心得があった金吾は、その主君の病を治療し、救う。そして、ちょうど一年後には、主君の信用も以前に増し、所領も三倍になるという、大勝利の実証の姿を示している。
強盛な信心さえあれば、″最大の困難″の時こそ、″最大のチャンス″である。偉大な変毒為薬がなされ、福運を無量に積みゆくことができる。ゆえに、何が起ころうとも、心配することはない。いよいよ「信心」を奮い起こせばよいのである。
対話を抜きにした、一方的な「処分」は権力者の手口である。開かれた話し合いを拒否しての「策謀」や、破門・追放などと脅す「脅迫」も、仏法者の行動ではありえない。しかし、大聖人が仰せのごとく、必ず「道理」は「権力」に勝つことを確信していただきたい。
大聖人は、熱原の法難の際、「いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほう吼るなり日蓮が一門は師子の吼るなり」と仰せである。
──どのように人が脅しても、決して恐れることがあってはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである。かれらは野干(狐の一種)が吼ほえているようなものであり、日蓮の一門は師子の吼えるのと同じである──。
憶病な狐が、遠くで叫んでいるような脅しなど、少しも恐れることはない。私どもが、師子の吼えるがごとく、正義の叫びを続けるならば、ネズミや狐狸のような輩は、必ず恐れて退いていくからである。
戸田第二代会長「大聖人が創価学会を召し出された」
従わなければ、追放する──行智の脅しに、信心の定まっていなかった者たちは恐れを抱いた。三河房頼円は、寺から追われることを恐れ、起請文を書いて退転し、難を逃れている。いかなる理由があり、どう正当化しようとも、退転すれば、成仏の″種子″を自ら壊すことになる。
現在でいえば、大聖人の御遺命の通りに広宣流布を実現しゆく仏勅の団体、仏子の団体である学会を誹謗し、脱会して、他に成仏の道を求めてもむなしい。
戸田先生は、こう指導されている。
「白法隠没というが、釈尊の仏法だけではなく、日蓮大聖人の仏法も七百年にして、まさに隠没せんとしていたのです。しかし、牧口先生によって、大聖人の御精神は守られ、学会によって、大聖人の仏法はふたたび隆昌した。じつに不思議なことです。大聖人が創価学会を召し出だされたのでありましょう。
将来のためにも、はっきり断言しておきます。この学会の信心以外に、大聖人の御心に適う信心などありません。大御本尊の本当の功力もありません」
「仏法の勝負は厳しいぞ。やがて、すべては明確になる。学会に敵対するならば、いかなる者であれ、大聖人様が許しません。その確信がなければ、学会の会長なんてできません。まあ、ゆっくり見ていてごらんなさい。
それにしても自分から学会を出ていくなんて、あまりにも愚かなことです。あとでどんなに悔やんでも悔やみきれん。上役と喧嘩して会社をやめても、収入の道が断たたれるだけで、その苦しみは一時的なものです。しかし、学会に敵対したらそうはいかんよ。生々世々にわたって福運の道を断ち、苦しみ抜かねばなりません。私は、それがかわいそうでならない。だから、今、そのことを教えておきたいのです」
先生のご指導は、詳しく、小説『人間革命 第十一巻』の「大阪」の章で紹介したが、重ねてその一部を申し上げた。
使命の学会員として信心を貫くか、退転するか。それは、各人の自由ともいえる。しかし、その因果の報いを受けるのも自分自身である。
ゆえに、退転した後の苦悩を思いやると、あまりにもかわいそうでならない。邪義にたぶらかされて永劫に悔いを残してはならない。どうかリーダーの皆さまは、会員の方々に対して、大聖人の仏法の本義にのっとった、納得のいく明快な指導をお願いしたい。
「経を弘めて人に利益する」のが僧侶
行智の迫害は、建治二年(一二七六年)ごろのことと考えられる。その後、少輔房日禅は坊を出て河合の実家へ移った。一方、下野房日秀と越後房日弁の二人は、行くあてもなかったので、坊を明け渡したかたちををとって、なお滝泉寺内に隠れ住む。しかし折伏・弘法の戦いは、少しも止まることなく、熱原から富士地方一帯へと続けられたのである。
難に屈せず、民衆の中へ飛び込み、人間の中へ分け入って、邪義を打ち破り、正法を教え、一人また一人と救っていく──こうした日興上人とその門下の姿こそ、真の仏法者であり、真の御僧侶であるといえよう。
大聖人は、末法の僧侶の在り方について、「末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり」──末法の法華経の行者は、人に憎まれるほどに受持し、実践していくのを、真実の大乗の僧とするのである。また(それが)経を弘めて人を利益する法師なのである──と仰せになっている。
難にも遭あわず、折伏もせず、民衆のために尽くそうともしない僧侶に、どうして仏弟子の資格があろうか、との大聖人の厳しい戒いましめであられる。
本来、正宗の僧侶が用いる衣も、決して権威の象徴でも、尊敬を強要するためのものでもない。
日寛上人は、正宗で「素絹五条の衣」(素絹とは粗末な絹、五条とは五幅の布で作った法衣のこと)を用いる理由を、こう述べておられる。
「素絹五条其その体短狭にして、起居動作に最も是便なり、故に行道雑作衣と名づくるなり。豈東西に奔走し、折伏行を修するに宜に非ずや」(当家三衣抄)
──素絹五条の衣は、短くて狭せまくつくられているので、立ち居い振る舞いに最も便利である。
そこで行道雑作衣(仏道修行の作業衣)と名づけるのである。東西に奔走して、折伏を実践するのにふさわしいではないか──と。
日寛上人は、正宗における衣の意義を、僧侶の身を権威で飾るものではなく、「仏道修行の作業衣」、いわば折伏に奔走するため、民衆救済のための「広布の行動服」である、と定められているのである。
「三烈士にはすこしも権威に屈せぬ法華魂」
日興上人の指揮のもと、熱烈で確信に満ちた弘法の戦いは、人々の共感を広げていく。やがて熱原の地一帯には多くの同信の友が生まれていった。そして、弘安元年(一二七八年)、神四郎・弥五郎・弥六郎の三兄弟が入信。熱原の農民信徒からの信頼も厚く、中心的存在となるのにそう時間はかからなかった。
三人の名は、日興上人が、「本尊分与帳」(白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事)において、在家の弟子分の最初に挙げられ、「此の三人は越後房下野房の弟子二十人の内なり。弘安元年信じ始め奉る」と記しるされている。
なお、「神四郎」という名前であるが、兄が弥藤次入道、弟が弥五郎、弥六郎なら、「神四郎」というより「弥四郎」というのが普通である。通例、庶民が名前に「神」の字を使うことは考えられない。
日亨上人は、「弘安二年十月十五日の御勘気已後にか……興師(日興上人)に追善供養を営まれた折に、神四郎と賞美(ほめたたえる)の改名を為なされたのでは無からうかと思はるゝ」(熱原法難史)との見解を示されている。
すなわち「神四郎」というのは、後にその功績をたたえて日興上人が与えられた名と考えられている。また、大聖人の門下に、弥四郎という信徒が、何人かいたため、区別するためもあったかもしれない。
神四郎兄弟は、入信する前から、地域の人々の信頼を集めていた″庶民のリーダー″だったと考えられる。また、農民の身分ではあったが、名主自作地を持つ農民、自作農)クラスだったとされている。
日亨上人は、「此この三人兄弟は在家の身ながら多少の文武の嗜もあり従って律義に強胆で士分も恥しき程の大丈夫であったので、此これが後に大難に丁りて寸毫も権威に屈せぬ法華魂を作ったのである」と述べておられる。
「地涌の義」といわれるが、時が来れば、民衆の中から、地域や社会に深く根を下ろした人材が出現する。使命を自覚し、広布を推進していく。これは、不思議というしかない。
社会の大多数は、いわゆる「庶民」である。その民衆が、押しつけられた宗教的権威には何の実体もなく、かえって自分たちを搾取し、苦しめる存在にすぎないと見抜いた時、偉大な変革が始まる。
いつの時代の、いかなる宗教であれ、「改革」を必要とする場合の主要テーマは、常に「目覚めよ、民衆」「反省せよ、聖職者」なのである。しかし、権威によって立つ聖職者が、みずから目覚めて自己を変革することは、歴史的に見てもきわめて難しい。
まず、民衆が自覚し、目覚めることである。正義によって「眼」を開いた、民衆の勇敢な前進があってこそ、大聖人が教えられた偉大な宗教革命の夜明けが始まる。
「大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟につく」
行智は、滝泉寺から大聖人門下を追放したものの、正法信仰の火の手が少しも消えないばかりか、ますます燃え広がったことに驚いた。このままにしておけば、自分の地位が危ない──彼は、悪智慧の限りを尽くして役人を抱きこみさ、仲間を集め、″反法華党″の形成をはかった。そして、なんとかして弾圧しようとして躍起となったのである。
″魔の集団″″悪の野合″──群るもの、正法破壊の勢力の特徴である。
行智が、まず神四郎兄弟の長兄の弥藤次入道に目をつけた。彼は念仏の在家の入道だったようで、日亨上人は「強欲奸智の曲者で村での口利」(熱原法難史)と記されている。欲深く、悪知恵にたけた村の顔役だったようだ。
弥藤次は、日ごろの言動や性格から、何とか神四郎たち兄弟と対立することが多かった。弟たちが正法を信じてからは、家兄の権威をもって反対し、もとの念仏信仰に戻させようとした。しかし反対に、弟たちから「念仏は無間地獄の業である」と破折された。そのくやしさもあってか、弟たちを退転させようと機会をうかがい、行智の甘言に誘われて、その一味になったようである。
不信と不安、嫉妬と憎悪をかき立てて、親しい人の間を裂き、信仰者のつながりを内側から分断しようとするのが、魔の策略の常である。さらに行智は、正法の信仰者の中から、信心弱く、同志に怨嫉を抱いだいていた不満分子などを、脅したり、利益で誘ったりして退転させ、反逆させている。″弱いところ″ばかり、ねらったのである。
同様に、入信間もない大田次郎兵衛親昌、長崎次郎兵衛時綱らの武士や、日興上人の弘法の応援に派遣されていた三位房などの僧侶が、退転し、正法を弾圧する側に回っている。
日亨上人は、三位房について「三位房と云ふのは下総出身の日行の事で御弟子としては老輩であり、叡山長時の学問の功も積まれてあるが、残念にも信行不足であった為ために遂に師敵対謗法の悪道に落ちて死に方も悪るかった」「四五年も存命せられば、六老の第二位に必ず在るべき仁(じん=人)」だったとも述べておられる。
三位房は、日昭に次ぐ長老であり、日興上人の先輩にあたっていた。京都に遊学し、竜象房を論破した桑ケ谷く問答でも活躍するなど、学才もあった。法論に巧みで、門下でも重きをなしていた。
しかし、大聖人の御指示で、熱原の弘法の応援に向かった際、三位房は、日興上人の先輩であり、格が上であるとの権威を振りかざし、指導しようとした。
三位房は教条的、観念的な説法はできても、民衆の中へ飛び込んで弘法し、指導するという実践に欠けていた。この傲慢で、権威主義的な本質は、賢明な庶民に見抜かれて、思うような尊敬を集めることはできなかった。
それに対し、日興上人は、身命を惜しまずに広布の道を開かれる果敢な実践と、優れたお人柄によって、人々に慕われ、尊敬されていた。それを見た三位房は、自己を反省するどころか、日興上人を″嫉妬″し、瞋恚(自分の心にかなわないものに対して、怒りうらむこと)の炎を激しく燃やし、ついには憎しみを抱くようにさえなったようである。
そこへ、行智の誘惑の手が差し伸べられた。三位房は、やすやすと師敵対の反逆者、広布の妨害者へと転落してしまい、最後は堕地獄の苦悩を受けることになる。″やきもち″の心のスキ間に「魔」が入ったのであろうか。
「大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり」──大悪魔は、貴い僧となり、あるいは父母や兄弟などについて、人々の成仏の障りとなるのである──と大聖人は教えられている。
たとえ、地位の高い、尊敬される立場の高僧であっても、邪義に迷い、また嫉妬や瞋恚等の感情にかられて「正法」を見失った場合には一転して、人々の成仏を妨げ、広布を妨害する「大悪魔」と化す場合がある。
大聖人の仰せには、一分の誤りもない。現在の問題の本質も、御書に照らせば、すべて明らかである。
また大聖人は、三位房等の退転者に共通する生命の本質を、次のように指摘されている。
「をくびやう臆病物をぼへず・よくふか欲深く・うたがい多き者ども」──憶病で、求道心がなく、欲が深く、疑い深い者たち──と。
これは、自分を守るのに汲々として、広宣流布しようとか、和合僧を広げようとか、そういう思いはなく、貪欲で、猜疑心が強い人間のことである。
これまでの、退転・反逆の輩の言動を思い起こしてみれば、だれしも、なるほどと納得できよう。また立場や役職が上であるほど、退転し、反逆した場合の影響は大きいし、その罪も、重く深い。
以上、述べたことを前提にして、次に法難が本格化した時期の具体的経過にふれておきたい。現在の状況にあまりにも多く通じる面があるからだ。
(ここまで修正)
「謀略文書」に正しい情報で対応
弘安元年(一二七八年)の五月ごろ、行智は、偽の御教書(幕府の命令書)を作った。「法華経を信じる者は、重罪にあたり、咎めがあろう、と鎌倉より下知があった」と触れ回らせ、幕府の権威で人々を退転させようと謀ったのである。
大聖人は、すぐさま、真相を見抜かれた。直後にしたためられた窪尼への御消息に、このことが記しるされている。その中で、佐渡においても、三度にわたって偽の御教書が作られ、弾圧の口実にされたことを指摘され、今回の熱原の件も、同様の手口である、と教えられている。当然、日興上人に対しても、その旨の御指示があったと拝察される。
大聖人の御指導によって、幕府の御教書が偽物であり、恐れることも、従う必要もないことが、信徒の人々に徹底された。そのため、行智の謀略も、ほとんど効果がなかった。
悪の謀略に対しては、常に本質をついた、正しい情報を、広く人々に知らせる必要がある。そのことによって、悪の意図を、いち早く挫き、打ち破っていくことができる。
″閉ざされた世界″にだけ通用する″閉ざされた論理″で、いかに詭弁を繰り返しても賢明な民衆はだまされない。また社会的にも、良識ある人々の笑いものになるだけであろう。それでは法を下げてしまう。
大聖人は「異体同心なれば万事を成し」と激励
行智らによる迫害は、弘安二年の四月ごろからさらに激しくなった。
四月八日、恒例の流鏑馬(馬上で的を射る行事)が、大宮(現在の富士宮市)の浅間神社が定期造営中のため、熱原郷内の三日市場にあった分社で行われた。
その流鏑馬見物の雑踏の中で、熱原の信徒の一人である四郎が襲われた。
「滝泉寺申状」によると、下方政所の代官の指示で、刃物で傷つけたとあるので、犯人は武士だったようだ。
また八月には、信徒の弥四郎が襲われ、首を切られ法華宗へのみせしめにされた。やはり、武士による暗殺を示唆しており、権力側の暴行であったと考えられる。
こうした暴虐にあいながらも一歩もひるむことなく、熱原の人々は、大聖人の激励にいよいよ団結し、強盛な信心を貫き通した。
「あつわら熱原の者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし(中略)日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」
──熱原の者たちの信心の志が、異体同心であるならば、万事を成し遂とげることができる。同体異心であれば、何事も叶うことはない。(中略)日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども、大事を成し遂げて、必ず法華経が弘まるであろうと思われる。悪は多くても、一善に勝つことはない──。
大聖人は、このように、門下を励まされたのである。
「魔」とは、梵語の「マーラ」の略で、「破壊(はえ、はかい)」とも訳される。個人の信心を破るとともに、和合僧──信心の団結を壊す働きをする。魔とは「破壊者」なのである。
暴力による肉体的迫害や、処罰や処分という社会的制裁、脅迫や情実などの精神的圧迫、利益をちらつかせる経済的誘惑などにより、個人の信心を破壊し、退転させるのは、魔の常套手段といってよい。
ゆえに魔が跳梁する時こそ、いよいよ信頼の絆を強め、異体同心の前進が肝要となる。「正義の団結」こそ、魔の謀略を遮る防波堤となるからだ。
だからこそ、大聖人は「かへすがへす・するが駿河の人人みな同じ御心と申させ給い候へ」──くれぐれも、駿河の人々は、皆、同じお心でおられるように、とお伝えください──と、門下を激励されている。
これは、富士郡の上方庄(現・芝川町)に住む三沢小次郎に与えられたお手紙の一文であるが、興津(現・清水市)に住む浄蓮房にも、時期は違うが、まったく同じお言葉の指導をされている。このことからも、機会のあるたびに団結の大切なことを教えられていたことが拝察される。
徒党を組んでの襲撃に民衆は応戦
さまざまな策謀がすべて失敗し、広布の前進を阻むことができなかった行智らは、行き詰まってしまった。しかし、もはや退くに退けない。魔がその身に入った者たちは″暴走″した。
弘安二年九月二十一日、農民信徒二十人を、暴行のかぎりを尽くし、不当に逮捕するという暴挙に出たのである。
その日、下野房日秀の自作の持ち田で、稲刈りが行われていた。下野房によって折伏され、指導を受けている感謝の気持ちもあって、神四郎はもとより多数の農民信徒が喜々として手伝っていた。
行智らは、絶好の機会とばかりに、政所の役人、行智一派の武士たち、滝泉寺内や弥藤次一味の農民などをかたらい大挙して弓矢や刀で武装し、稲刈りの場を襲った。
いつもならば反抗せずに逃げるところを、再三にわたる不当な仕打ちに、もはや神四郎たちも我慢の限界を超えた。なんとか止めようとする下野房を逃がし、ついに彼らも応戦した。
その場のありさまについて、日亨上人は、次のように描かれている。
「信徒側では此迄これまでは興師(=日興上人)の訓戒と秀弁両師(=日秀・日弁の二師)の懇諭を堅く守って、擲れ放題切られ放題大概は逃ぐるか定手(いつもの手)になって居たが、再三の乱暴に堪忍袋の緒が切れて、一人として逃ぐればこそ聞かばこそ秀師等が何と止ても却って秀師を退散せしめて神四郎が指揮をして持ち合せの棒や鎌で応戦をした。
何れ殺伐時代の百姓であれば腕力もあれば武伎も出来る。況や神四郎は身は農夫であれど武道の心得疎うとからぬ者なれば、小勢の駈引自由である、中には暴徒の武器を奪ひ取って命限りに師子奮迅の勇を振るうた。
何日もの弁論の折伏を今日こそは武力に替へて働いた、己憎にっくき行智奴め弥藤次の死に損ひ、年頃の無念を晴すは今日である。四郎の敵弥四郎の怨敵覚悟せよ、法華折伏の利剣の味を受けて見よと、何れも劣らず奮闘して思ふままに多勢の悪徒を悩ましたが、残念ながら多勢に無勢遂ついに二十人の信徒は力尽きて残らず政所へ縛られた」(熱原法難史)
その場におられたような、生き生きとした情景描写である。
暴力への″応戦″──現代では民衆の″大言論戦″が、正義の主張の展開につぐ展開が、それに当たろう。
語りに語ることだ。声は力である。語った分だけ正義は広がっていく。広宣流布が広がっていく。
ともあれ、″迫害する側″に、人々を納得させる道理がないからこそ、力によって正義を押しつぶそうとするのである。すなわち、権威・権力や暴力など、力による迫害を加える者は、本質的には、また仏法の眼から見れば、すでに″迫害される側″の民衆に敗北しているのである。やがて必ず、滅びていく。
無実の罪を着せて処分が棚角パターン
行智らは、捕らえた二十人を下方政所へ連行するとともに、弥藤次が訴人(告訴人)となって訴状を提出。政所では、それを鎌倉へ送った。二十人に着せられたの罪状は、現在でいえば不法侵入、強盗、暴行、傷害であった。もとより、事実無根の濡れ衣である。
その訴状の内容について、御書にこう仰せである。
「今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢ぬ」
──今月(九月)二十一日、多数の人数を集め、弓矢を持って、(滝泉寺の)院主の坊内に打ち入り、下野房日秀は馬に乗って、熱原の農民・紀次郎は(院主の田に)立札を立てて、実った稲穂を刈り取り、日秀の住坊に運び込んだ──と。
″それが原因で争いになり、死人や負傷者が出るに及んだ。したがって早くこの乱暴人を召して、式目(幕府の法令)通りに裁いていただきたい″と訴えたのである。まさに″でたらめ″である。事実と正反対である。
さらに、彼らは卑劣にも、熱原の信徒、四郎や弥四郎の傷害・殺人事件まで、下野房などの犯行であろうと讒訴した。もちろん、こうした罪状はたんなる口実で、日蓮門下の信仰を弾圧することが目的であったことは明らかである。
──″無実の罪を着せて処分する″というのも、権威・権力が、信仰を弾圧するさいの典型的なパターンである。
大聖人に対する伊豆流罪、佐渡流罪等も、悪口の罪などの無実の罪を着せられて処分されたと推定されている。
(今回の宗門問題でも、いわゆる「11・16のスピーチ」が発端のように宗門は偽装してきたが、決してそうではない。スピーチに対する宗門の批判は、盗み取りしたテープをもとに、しかも誤った反訳をしたうえで、それに曲解と歪曲を加えたものであり、学会が事実誤認を指摘すると、柱となる項目について「お詫びし、撤回します」という、お粗末なものであった。もともと、何ら批判されるような内容ではないにもかかわらず、意図的にこじつけて誹謗する──すべて、おとしいれんがための言い掛かりにすぎなかった。
なお、正本堂の意義に関して、「日達上人も言われていなかったことを、信徒の分際で先んじて断定した、慢心である」と批判してきたことも、すぐに「日達上人の確かなお言葉があったので訂正する」と撤回している。日達上人の御指南を正しく踏まえた発言だったことを認めたわけであり、初めから批判すべき点などなかったのである。
何の証拠もなく、初めから有罪と決めつける──まさに「冤罪(無実の罪)事件」の典型であろう)
さて、二十人に着せられた罪状は、当時の法律(貞永式目)によれば、重罪にあたり、検断沙汰(刑事事件)ということになる。そのため侍所の管轄下におかれ、ただちに二十人は鎌倉へ送られた。おそらく侍所の所司(次官)である平左衛門尉頼綱の指示であろう。
二十人が鎌倉に着いたのは、十月の初めごろと考えられる。旧暦の十月初めは、現在の十一月半ばごろにあたろう。当時は、今より冬の気温が低く、雪も多く、はるかに寒かったようである。また、ろくに食事も与えられなかったと考えられる。
大聖人は、十月一日、門下一同に対して「聖人御難事」をしたためられ、鎌倉の四条金吾に送られている。ここで大聖人は、「出世の本懐ほんかい」であられる大御本尊御建立こんりゅうの日が近いことを宣言されたのである。
このことは、熱原法難が、単に一地方の、一部の信徒の問題ではなく、門下全体にかかわる事件であり、大聖人の一代の御化導のうえで、重大な意義をもっていたことを示していると拝される。
その中で、大聖人は仰せである。
「彼のあつわら熱原の愚癡の者ども・い言ゐはげ励まして・をどす事なかれ、彼等にはただ一えん円におもい切れ・よ善からんは不思議わる悪からんは一定とをもへ、ひだるし空腹とをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん寒地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたか鷹にあへるきじ雉ねこ猫にあえるねずみ鼠を他人とをもう事なかれ」
──かの熱原の愚直な者たちには、強く励まして、脅おどしてはならない。彼らには、ただひたすらに思い切りなさい、良い結果になるのは不思議であり、悪い結果になるのは当然と思いなさい、と教えなさい。空腹に耐えられないようだったら、餓鬼道の苦しみを教えなさい。寒さに耐えられないというなら八寒地獄の苦しみを教えなさい。恐ろしいというのなら、鷹にあった雉、猫にあった鼠を他人の事と思ってはならない、と教えなさい──と。
鎌倉で捕らわれている信徒を心配され、″きっと寒かろう、さぞやひもじかろう、どれほど恐ろしいことであろうか″と、深く思いやられながらも、成仏のためには断じて負けてはならない、挫けてはならない、と激励される大聖人──。
その大慈悲に感動し、確信を失わなかったからこそ、だれ一人、退転する者がいなかったのであろう。そこには、深く清らかな、″師弟の絆″があり、″信仰の真髄″があり、″生命の連帯のドラマ″があったと拝されてならない。
それにひきかえ、″信徒の信心のことなど、どうでもよい、ただ言われる通りに破和合僧に励め″──などという冷酷で、無慈悲、傲慢の姿があるとすれば、″御本仏の世界″と対極の″大魔の使い″の姿であろう。
「滝泉寺申状」に主張──「堂々と公場の対論を」
日興上人は、弥藤次の訴状の内容がわかると、それに対する申状(幕府への上申書、反訴状)の原案をしたためられ、身延の大聖人のもとへ届けられ、御指示を仰がれた。
日興上人の文案は──弥藤次の訴状に対し、それがいかに不当であるかを事実の経過を追って明らかにし、捕らわれた二十人の無実を主張、また行智の悪行の数々を逐一指摘して、その罪を正しく裁いてほしいと訴えたものである。
大聖人は、この文案を後半として、前半を書き加えられた。すなわち、冒頭から「此等の子細御不審を相貽のこさば」までの前半を大聖人はが執筆され、「(不審者)高僧等を召され」から最後までの後半を日興上人がしたためられている。まさに、「師弟一体」「師弟共著」の御抄なのである。これが「滝泉寺申状」(原文は漢文)である。
申状では「立正安国論」の主張を繰り返され、日秀・日弁らが日蓮大聖人の弟子となって南無妙法蓮華経と唱えることは、国を思うための行為であること、不審があれば高僧と公場で対論させるべきことを訴えられている。
そして「謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈あに在世の調達に非ずや」──はかりごとを構えて、種々のでたらめを訴えるというのは、釈尊在世の提婆達多だいばだったと同じではないか──と。すなわち、堂々と公開の対話をできないで、謀略ばかり考えているのは「提婆達多」の存在であるとの仰せである。
大聖人は、こうした権力による弾圧の機会をとらえ、幕府に対して再び仏法の正義を訴えようとされたのである。
難の時こそ、正義を主張すべき時である。牧口先生は、獄中にあってさえ、検事を相手に一歩も退かず、学会の正義を叫び続けておられる。
鎌倉に着いた二十人は、横暴な取り調べを受け、「法華経を捨て、念仏を唱えるという起請文(誓約書)を書けば、罪を許してやる」と威嚇されたようである。
これに対して大聖人は、「かの大進房や弥藤次らが、行智にそそのかされて、暴行・殺傷事件を起こしたのが事件の真相である。それを、被害者側(の農民たち)が謝って起請文を書くなどということは、『古今未曾有の沙汰』であり、いまだかつて聞いたことがない」と仰せになり、絶対に起請文を書いてはならない、と教えられている。
(被害者に謝罪させる、といえば、宗門からも「謝罪要求書」というものが出された。弁護士の小谷野三郎氏は、未入会であるが、宗門の強圧的なやり方について、憤って、こう語っている。
「今、宗門がこのように発展しているのは、まさに池田名誉会長をはじめ学会の皆さんが、宗門を命懸で守ってきたことによることは、言うまでもありません。″親の心、子知らず″という諺があるが、″子の心を知らない親″があってはなりません。信徒の心を知らない宗門であってはならないと思います」
「信徒に尽つくすだけ尽くさせておいて、都合が悪くなったら、″ハイ、さようなら″といったことは絶対に許されないことと思います。『宗門』のやり方が間違っていたらこれを批判し、正すことはまさに信徒の義務ではないでしょうか」宗門のやり方は、平左衛門尉らの手口とまったく同じなのである)
三烈士の殉教
弘安二年十月十七日の酉とりの刻(午後六時ごろ)、日興上人のお手紙を携えた鎌倉からの急使が、身延の大聖人のもとに到着した。
十月十五日に、捕れた熱原の二十人が、平左衛門尉によって拷問を受けても、少しも屈しなかったため、″首謀者″とみられた、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人が処刑されたという報告であった。また、残りの十七人は、追放された。
日興上人は、「本尊分与帳」の中で、後世のために次のように記されている。
「此の三人は……終ついに頸を切られ畢んぬ、平の左衛門入道の沙汰さたなり。子息飯沼判官十三歳ひきめ蟇目を以て散散に射いて、念仏を申すべき旨の再三之を責せむと雖も、二十人さらに以て之を申さざる間張本三人を召し禁めて斬罪せしむる所なり」
──この三人は……ついに首を切られてしまった。平左衛門入道(頼綱)の命令である。その子で十三歳の飯沼判官資宗すけむねが、蟇目の矢でさんざんに射って、念仏を唱えよといって、再三にわたって責めたが、二十人の内、だれ一人承知しなかったので、ついに″張本人(首謀者)″とみられた(神四郎ら)三人を斬罪に処したのである──と。
この日、二十人は、平左衛門尉の私邸の広庭に引き出された。もとより公平な裁判など行われるはずもなく、取り調べもそこそこに、頼綱自ら「法華経の題目を捨てて、念仏を唱えよ。そうすればゆるして故郷に帰してやろう。さもなくば重罪に処す」と責め立てられたのである。
ふつうなら恐ろしくて縮みあがるはずだった。だが、神四郎は声もさわやかに反論。だれ一人、屈するふうもない。驚いた頼綱は「なんと不敵なことよ。きっと天魔がついて言わせるのであろう」と、次男の十三歳の少年に、蟇目ひきめの矢で神四郎たちを射させた。
蟇目の矢とは、桐の木で作った鏑矢のことである。蕪(カブ)の形にした木や竹の中をくり抜き、矢の先につけたもので、射ると穴に風が入って、ひゅうひゅうと音が鳴る。その音に驚いて、悪魔が退散するとされていた。鉄の矢尻ではないので、射られても体に突き刺さることはなかったが、恐ろしい音と、矢のあたる痛みで、とうてい耐えがたいとされている。
しかし、二十人は、そうした拷問に少しもひるむことなく、一同、高らかな題目の声で応えたのである。
いかに権勢を誇る頼綱も、身命を惜しまぬ庶民の強き信仰の前に、なすすべはなかった。皆がひれふす自分に従わない者がいるとは──。彼にとって耐えがたき屈辱であったろう。おそらく頼綱は、権威・権力が少しも通じない相手に、内心は恐れと、敗北感を抱きながら、それを怒りと憎悪に変えて、神四郎ら三人の処刑を命じたにちがいない。
自己の権威をたよる者ほど、それに従わない者は許せない、という″修羅の心″が強い。これが″独裁者の心理″である。
熱原の人々は教えてくれた。いかなる権威・権力も、正法を掲げ、不惜の信心で、固く団結した民衆の前には、まったく無力であり、やがては必ず敗北することを──。
表面の姿だけを見れば、三烈士は処刑され、敗北したように見えるかもしれない。しかし彼らは、″信仰者としての誉ほまれ″を、″人間としての勝利″を勝ち取ったのである。そして、民衆の間に、確固たる信心が、深く根ざしたことを身をもって実証した。
この法難を契機に、大聖人は出世の本懐であられる、「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される。ここに、三烈士の名は永久に残され、永遠に輝き続けているのである。
私どももまた、同じ道を行く。今の戦いが、「一閻浮提広宣流布」の大いなる道を開いていくことを確信したい。
「学会員には大御本尊願主の折伏の精神」
そして、我が学会の牧口初代会長もまた、正法の命脈を護らんがために、不当な弾圧と戦い、獄死された。殉教のご生涯であった。
当時、理事長であった第二代会長戸田先生も、ともに投獄された。陰険で執拗な脅しもあった。拷問もあった。
しかし、一歩たりとも退くことなく、獅子のごとく戦われた。これが、学会精神の原点である。ここにこそ、大聖人が示された死身弘法の道があると確信する。
熱原の三烈士が示した不惜身命の精神、いかなる権威・権力にも屈しない正義の行動は、初代・二代会長以来、創価学会の中に、厳然と生き続けている。脈動している。
日達上人は、こう述べられている。
「この十二日(弘安二年十月十二日)を契機とし、本門戒壇の大御本尊の建立の時来きたるとお思召ぼしめされ、神四郎等を願主に仕立てられ、神四郎はまだこの時は生きておりますから、神四郎の名は用いず、大聖人様己心の人物の名において、あるいはまた、前に殺された弥四郎の名も、いくらか御心に留められたかも知れませんが、いずれにしても、大聖人様己心の人物の名において、弥四郎国重とせられて、御本尊を御書写なさったのであります。
それ故、本門戒壇の願主弥四郎国重法華講衆等敬うやまって申す、弘安二年十月十二日と、御本尊におしたためあそばされたのであります。
皆さん、御覧なさい。わが創価学会の人びとは、この法華講衆の精神をもって、謗法退治に身命をとして戦っております」(一九六三年十月六日、法華講関西地区連合会第一回総会)
また、別の折には、こう述べられている。
「いまの時代は御本尊を護持し、付属してあることあらしめておるのはだれでありますか。学会であります。また令法久住のために死身弘法をもって、仏法を守護し、戒壇の大御本尊様を護持し、そして折伏をしておるのは学会であります。また、あらゆる謗法の難を破折し、六難九易を身をもって行ない、末法の広宣流布を実現しておるのも学会であります。
これこそ大聖人のおっしゃるところの法華講であります。法華講の真の精神は、いまの学会員にあるのであります。かかるがゆえに私は、その学会の会長である池田先生を、法華講総講頭に依頼したのであります」(一九六六年五月三日、創価学会第二十九回総会)と。
私どもこそ、「御本仏の誉れの門下」なのである。
首謀者・平左衛門尉一族に「法華の現罰」
弘安二年の八年前、文永八年(一二七一年)九月十日、大聖人は次のように平左衛門尉を諫ておられる。
「理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめ咎ありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうち同士打はじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべし」
──理不尽に(日蓮大聖人を)罪におとすようならば、国に後悔すべき大事が起こるであろう。日蓮が幕府の御勘気を受けるならば、仏のお使いを用いないことになる。(その結果)梵天・帝釈・日天・月天・四天王のお咎とがめがあって、(日蓮大聖人を)遠流や死罪にしたのち、百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条一門に同士討ちが始まるであろう。その後は、他国侵逼難といって四方から、ことに西方から攻められるであろう。その時、(日蓮大聖人を罪におとしたことを)後悔するにちがいない──と。
そして大聖人は、熱原の法難に戦われる日興上人に、この文永八年の模様を踏まえられ、断固として抗議せよ、と命じられた。
「平金吾に申す可き様は文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃わざわい未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ」
──平左衛門尉に次のように言いなさい。「文永(八年)の御勘気の時の日蓮大聖人の仰せを忘れられたのか。(謗法の罪を犯して)その罪がまだ終わっていないのに、重ねて十羅刹の罰を招き寄せられるのか」と最後に言い渡しなさい──と。
大聖人の御確信の前には、世俗の権威・権力など、なにものでもなかったのである。
その後の頼綱は、北条時宗の死後、幕府内のライバルだった安達泰盛を、執権貞時への讒言によって滅ぼし、完全に幕府の実権を握り、七年間にわたって恐怖政治を敷いた。
しかし、永仁元年(一二九三年)四月、長男・宗綱によって、「父は次男・資宗を将軍にしようと企んでいる」と讒言され、貞時の討手によって、三烈士を処刑した自邸で、一族同時に滅んでいる。また、密告した宗綱も、父と弟を訴えた不孝の者として佐渡に流罪されている。
日興上人は、熱原法難の十四年後に、頼綱・資宗父子が、謀反の罪で滅びたことを、「法華の現罰を蒙れり」(本尊分与帳)──法華の現罰を受けたものである──と記録されている。
また、日寛上人は、頼綱の滅亡の原因を、「遠くは蓮師(大聖人)打擲の大科に由より、近くは熱原の殺害に由るなり」(撰時抄文段)──遠くの原因は、日蓮大聖人を打った大罪によるのであり、近くの原因は、熱原法難の際に(三烈士らを)殺害したためである──と明かされている。
無実の罪で大聖人を死罪・流罪にあわせ、熱原の三烈士を刑死させた張本人の平左衛門尉が、権力の座を上り詰めた末に、我が子の讒言によって滅ぼされた──この事実は、まさに「還著於本人」(還って本人に著つきなん)というべきであり、「因果の理法」の厳しき現証である。
また、鎌倉幕府も、大聖人御入滅後、五十二年目にあたる元弘三年(一三三三年)五月に、北条一門が滅んで幕を閉じている。
幕府滅亡の原因は、蒙古襲来の後遺症と、その後の悪政にあった、と分析されている。仏法の眼から見れば、その根底は、大聖人の「立正安国論」を用いなかった結果だったといえよう。
退転者、加担者の転落の末路
一方、法難の際、行智にたぶらかされた退転者、また弾圧の加担者たちは、どうなったのか。
大聖人は「聖人御難事」で「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか」──大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱、大進房の落馬等は、法華経の罰があらわれたのであろう──と仰せである。
大進房は、落馬が原因となって、やがて悶死(苦しみ抜いて死ぬこと)したようである。
御書には「又大進房が落馬あらわるべし、あらわれば人人ことにおづ畏べし」──(行智等の罪を述べることによって)また、大進房が、なぜ落馬したかも明らかになろう。明らかになれば、人々は、とりわけ(現罰を)恐れるであろう──と仰せである。
また、三位房に関しても、「此の事は彼等の人人も内内は・おぢおそれ候らむと・おぼへ候ぞ」──このこと(三位房の死亡のこと)は、彼ら(行智たち)も内心では恐れ怖じているであろう──と仰せのように、変死であったとされている。
そして、熱原法難の張本人、滝泉寺の院主代・行智や、弥藤次入道は、その後、どうなったのであろうか。
記録には残っていないが、日亨上人は、次のように推測されている。
「法難後には日秀日弁も外の法華僧も事実に寄せ附つけぬので、寺運が復興すると思ひきや田夫野人(農民)にも良心がある」
「(農民たちは)法華宗を迫害した後悔の思ひは募るに従って、院主代や弥藤次への頭の下げ方が倹約になる、寺の坊舎の屋根替がえの手伝にも気が乗らぬ、院主代方の俗僧どもは目の上の瘤が取れたので羽を広げて我侭三昧に日を送っている、寺院の経営も何にもあったものではない、其こで堂宇は荒れに荒れて自然消滅だ、其内には風もある火もある水もある頼まんでも破壊の手伝を為してくれる」
「行智や弥藤次が如何に歯軋しても追い付かぬ官権の頼みの縄も切れる、屏息して居なければ却って村方の多数に反噬(反抗)せられそうで、流石の謗徒の張本も戦々兢々として遂に地獄道に辷り落ちた、滝泉寺も三災に遇あって共に跡形なく成ったんである」
謀略を成功させ、わが世の春を謳歌するはずだった行智や弥藤次──。しかし、彼らの期待は見事にはずれた。周辺の農民たちからはうとまれ、僧からも軽じられ、その反抗を恐れてびくびくしながら暮らすようになろうとは、夢にも思わなかったにちがいない。
権威をふりかざし、正法流布を阻み、民衆の信仰を破壊しようとする悪侶らは、日亨上人の仰せ通り、「地獄道」へと堕おちていった。悪侶に支配された滝泉寺もまた、さびれる一方、滅亡の坂を転がり落ちていかざるをえない。
民衆を見くだし、信徒を抑圧する悪侶に、賢明な信徒が従うはずがない。そのもとに集まるのは、三位房や弥藤次のごとき、背信や忘恩、嫉妬や憎悪、強欲や怠惰、狂信か盲信に支配され、不信と猜疑に満ちた輩ばかりとなろう。
そうした人間は、批判はできても建設はできず、自利は計っても利他はなく、対立はしても団結はできない。すぐに内輪もめをはじめ、分裂していくものである。
悪侶に従って、信心強盛になった者など、皆無であろう。もちろん、成仏への功徳などない。惨めな末路をたどった事例は、枚挙に暇いとまがないほどである。
したがって、悪侶のもとからは、しだいに信徒が離れていき、寺も衰亡の一途をたどっていく。当時、傲おごりに傲っていた滝泉寺は今、跡形もない。
──こうして、今、熱原法難の経過をたどってみると、広布を阻む「魔」の手口は、本質的には、いつの時代も変わらないことが、改めて明らかになる。
「御本物の門下」として広布の正道を
ともあれ「世界広宣流布」は、御本仏の御遺命であり、創価学会の使命である。この前進は、だれびとも止めることはできない。だからこそ、天魔は、唯学会員に対して権威・権力を振るえる立場にあった正宗の高僧をねらい、その身に入ったと考えられる。しかし、そのもくろみも崩れた。民衆が「真実」をわかってしまったからである。
私どもは「御本仏の門下」である。七百年前と同じく、今、強権による「民衆弾圧」「和合僧の破壊」が行われようとしている。この法難を、大聖人の仰せ通り、「不屈の信心」と「異体同心の戦い」で乗り越え、晴れ晴れと″世界広宣流布の旭日″を昇らせてまいりたい。
すべて深い御仏意であると私どもは確信していきたい。今、勇んで、歓喜に燃えて、前へ進んだ人が、一生成仏と三世の誉れの人である。
1991年10月17日 関西最高協議会
池田大作全集79巻61頁~102頁
2014年9月21日22日
九月二十一日熱原の法難は
広宣流布の根本方軌を示す
<「民衆こそが仏」>
『経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、
斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、
日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、此の山にしてもをこたらず候なり、
今の経文の次下に説いて云く「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、
かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり』(寂日房御書、903頁)
まさに、立宗のその日から
大聖人御一人が無明の大闇を破る大闘争を開始されて二十七年。
大聖人の仏法を持った人々が
「民衆こそが仏」と立ち上がった。
戦う民衆が成仏への道を大きく開きつつあった。
その時に、魔の跳梁も頂点を迎えた。
それが九月二十一日の大事件(熱原の法難)です。
(中略)
捕らえられた二十人は、
信念を揺るがさずに毅然たる姿を示した。
このことは、何の力ももたない民衆が、
障魔の強大な圧力を
信心の力で跳ね返したことを示している。
民衆が、仏界の生命を顕し、
生命の底力を発揮していくことこそが、
広宣流布の根本方軌です。
熱原の民衆の深く強い信心は、
妙法五字の大光明が、
虐げられた末法の人々の胸中を
赫々と照らしうることを証明しているのです。
御書の世界 第十五章 熱原の法難(抜粋)
2023.10.7整理