池田大作先生

(建築中)


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2024年2月25日

池田先生の業績をたたえる

欧州議会の行事から

池田氏の哲学が平和と共生の世界築く

 

 ベルギーのブリュッセルにある欧州連合(EU)の欧州議会の施設内で20日に開かれた、池田先生の業績をたたえる行事「対話と人間革命による平和の推進――池田大作の生涯」。登壇者の発言を要旨で紹介する(㊦は後日掲載)。

 

欧州議会 ピナ・ピチェルノ副議長

理想と現実埋める実践の人

 会場にいる皆さん、そしてオンラインで参加している多くの皆さん。人類に偉大な範を示された池田大作氏の生涯を多くの友人と共に記憶し、たたえるために、欧州議会に皆さんを歓迎できることは、私にとって大きな名誉です。

 池田氏は、哲学者、詩人、平和と人権の活動家、若者と女性の偉大な支持者であり、気候変動対策に多大な貢献をされた方です。氏は、このような多様なテーマに生涯を捧げられました。

 ご存知のように、池田氏は欧州を含む世界192カ国・地域に広がる、世界的な仏教団体である創価学会の第3代会長を務められました。世界各地で地域に根差し、SDGs(持続可能な開発目標)の推進に積極的に取り組む組織である創価学会と知り合えたことは、とても光栄なことです。

 私は2022年、イタリア創価学会の核兵器廃絶運動などを通して、創価学会を深く知るようになりました。

 池田氏は理想と現実のギャップを埋めるため、世界を舞台に行動した、実践の人です。

 池田氏は、小説『人間革命』を執筆されました。そのテーマは、“一人の人間革命が国家の運命を変え、最終的には全人類の運命をも変革する”ということです。特に今、気候変動や地球規模の危機にさらされている世界において、池田氏の哲学を実践する時が来ていると信じています。

 氏はヨーロッパの団結を信じていました。氏は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵をはじめ、ヨーロッパの多くの識者と交流を結び、対談をされました。だからこそ、ヨーロッパの市民と共に皆さまの師匠を偲ぶのです。

 皆さまと共に、池田氏が求めていた理想の実現に向けて出発してまいりたい。ヨーロッパを良くするために何ができるのか、平和と社会の正義を実現するために何ができるのか――共に考えていきたいと思います。平和は抽象的な概念ではなく、正義から切り離されているものでもないのです。

 国家という違いを乗り越え、人々のために一緒に働きましょう!

 

欧州仏教連盟 ステファノ・ベッテラ会長

開かれた社会へ不断の貢献

 フランスの哲学者ミシェル・オンフレは、真の文明を創出する土台を形づくることができるのは、ただ宗教のみであると指摘しています。開かれた対話の社会を創るのか、その反対に、他者を信用しない、疑いに覆われた社会を創るのか――いずれの場合も、土台となる宗教の性格が決定的な影響を及ぼすことは、決して偶然ではありません。

 池田大作氏は、仏教の非常に豊かな価値と思想に基づいて、この問いに答えを示そうとした一人であります。

 氏のメッセージには普遍的な希望があり、紛争や気候変動、貧困をはじめ、人々を脆弱にする諸課題に直面している今日の社会において、とりわけ輝きを増しています。

 氏が遺した文章は数多くありますが、私はここで、小説『人間革命』と国連への「平和提言」を通して学んだことに言及したいと思います。氏の教えや著作にはどれも、誰もが地球規模の問題の解決に貢献できること、また、人はバラバラに生きているのではなく相互に連関していることを認識させる仏教の英知が満ちています。これは極めて氏に特有の力であります。

 移民の問題、そして宗教共同体間の対話の問題は、西洋社会が直面する複雑な課題を何よりも象徴しているように思われます。これらは安全保障上の課題であるだけでなく、むしろ欧州社会のあり方について、また、現代の民主主義の脆弱さについて早急に熟考する必要性を浮き彫りにしているからです。

 まず、ヨーロッパの宗教界が、より大きな政治的共同体と自分たちとの関係性を認識しているかどうか、またどのように認識しているかを改めて問い直す必要があります。

 つまり、欧州には異なる文化との接触を通じて生まれた新たな文化や社会、自己認識はあるのか、あるいは今後生まれる可能性があるのか。そして、それをどのような価値観に基づいて根付かせることができるのか。この複雑な構造の中で仏教はどのような役割を果たせるか――これこそが問うべき課題です。

 あらゆる人々に開かれた欧州を志向していく上で、異なる文化の流入は何をもたらすのでしょうか。私たちはそうした価値観と共存しながら、欧州の文化的伝統の上にある生活様式の何を守ることができるか、また何を守らねばならないかを自問せねばなりません。開かれた信頼ある欧州であるために、多様な文化との対話が必要です。未来への橋を架けるために、現在の複雑な事態を受け入れる必要があります。まさにこうした点において、池田氏は不断に独創的な貢献をされました。

 氏は人間性の根本かつ中心的要素として、共同体における一人一人の人間の尊厳を訴えています。仏教の本質的なメッセージは、苦しみを癒やし、連帯を再構築し、現代の特徴でもある分断を乗り越える方法を教える点にあります。そして仏教において社会とは教えを実践する場であり、確信をつかみ、孤独から抜け出し、自らの活動が持つ意味を体得する場なのです。

 この点について、イタリアのミラノ郊外にある創価学会の会館を訪れた時のことを思い出します。それは7月末の日曜日で、耐え難い暑さにも関わらず、何百人もの人々が宗教間集会に出席するため会場に集まっていました。仏教を含め、さまざまな異なる伝統に対し創価学会の方々が示した熱意と関心に、私は衝撃を受けました。

 これほど多くのメンバーが集い合っている姿を目にし、私は創価学会への認識を改めて深くしました。そして数十年前から倦むことなく、時空を超えて世界のあらゆる場所に届いている池田氏のメッセージの力を実感しました。多くの心と人生を結びつける氏の精神に、敬意と献身をもって頭を垂れずにはいられません。

 創価学会のコミュニティーには、私の冒頭の問いに対する答えの一部があるに違いありません。今後も仏教界だけでなく世界のために力を合わせていけることを願い、池田大作氏と創価学会のすべての姉妹、兄弟の皆さんに、重ねて敬意を表したいと思います。


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2024年2月22日

欧州議会で池田先生を追悼

 

「対話と人間革命による平和の推進」

 ピチェルノ副議長が発起人ブリュッセルの議場内

 

各界を代表する識者がスピーチ

 

欧州仏教連盟 ベッテラ会長

ローマクラブ ディクソン=デクレーブ共同会長

ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン) パーク事務局長

 

 ブリュッセルにある欧州議会の施設内で行われた池田先生の追悼行事。終了後には、出席者全員が立ち上がり、たぐいまれな平和指導者の信念と行動を継ぐ思いを込めて拍手した(20日)

 

 池田大作先生の追悼行事「対話と人間革命による平和の推進――池田大作の生涯」が20日、ベルギーの首都ブリュッセルにある欧州連合(EU)の欧州議会の施設内で行われた。

 同議会のピナ・ピチェルノ副議長が発起人となり、欧州仏教連盟のステファノ・ベッテラ会長、ローマクラブのサンドリン・ディクソン=デクレーブ共同会長、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のメリッサ・パーク事務局長らが池田先生の業績についてスピーチし、欧州SGI(創価学会インタナショナル)とベルギーSGIの代表ら、約130人が出席した。

 池田先生が欧州に第一歩をしるしたのは、1961年10月。東西両陣営の対立が激化の一途をたどり、“分断の象徴”であるベルリンの壁が建設された直後のことだった。

 “対話によって民衆の心を結び、恒久平和を実現する”――先生は、この確固たる信念を胸に、20日間にわたって9カ国を歴訪。以来、18度に及ぶ訪欧で、眼前の一人一人の心に励ましの灯をともし、“世界平和の種”を蒔き続けた。

 その間、歴史学者のアーノルド・J・トインビー博士や欧州統合の父リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、ローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイ博士ら、欧州を代表する知性と信義の対話を展開した。

 欧州SGIの友は、その先生の志と行動を継いで、社会に開かれた平和・文化・教育の運動に力を注ぎ、信頼と友好の輪を広げてきた。

 追悼行事では冒頭、平和の構築に尽くした池田先生の足跡をたどる映像を視聴。欧州SGIのスザンヌ・プリチャード共同議長が、追悼行事の開催に感謝する池田博正SGI副会長のメッセージを紹介した後、ピチェルノ副議長があいさつに立った。2022年に現職に就任。イタリア創価学会が推進する核兵器廃絶運動に深い感銘を受け、今回の行事の開催に尽力した発起人である。

 同副議長は、創価学会は欧州を含む192カ国・地域に人間共和のネットワークを広げ、SDGs(持続可能な開発目標)を力強く推し進める平和団体であると称賛した。

 欧州仏教連盟のベッテラ会長は、開かれた対話を通して、人々の苦悩を取り除き、心を結び付ける創価学会のコミュニティーに期待を寄せた。

 ローマクラブのディクソン=デクレーブ共同会長は、地球規模の課題が山積し、混迷を極める現代にあって、“一人の変革が世界を変える”との池田博士の人間革命の哲学が、いやまして求められていると強調。有志によるバイオリン演奏に続き、欧州青年委員会のアクペネ・ベナール共同委員長が、池田先生の平和行動に連なり、欧州の天地を人間主義の希望の光で照らしゆく決意を披歴した。

 「レリジョンズ・フォー・ピース・ヨーロッパ」のルイージ・デ・サルヴィア会長、北アイルランド・アルスター大学のポーリーン・マーフィー名誉教授、先生と対談集を発刊した天文学者のチャンドラ・ウィックラマシンゲ博士のメッセージが紹介された後、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のパーク事務局長が、核兵器禁止条約の採択へ、共に手を携えてきたSGIとの歩みを振り返りつつ、核兵器廃絶への誓いを新たにしたいと力説した。

 欧州SGIのロバート・ハラップ共同議長は追悼行事の開催に深謝しつつ、青少年の可能性を引き出す創価教育を世界中に展開した、教育者としての池田先生の足跡を紹介した。 


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2024年2月16日

池田先生への追悼文

 仏教研究者クラーク・ストランド氏

 

アメリカSGI機関紙から転載

逆境という炎で鍛え打たれた「全人類の幸福を築く」との決心

 

 池田先生の逝去に際して、アメリカの仏教研究者クラーク・ストランド氏が、アメリカSGIの機関紙「ワールド・トリビューン」の本年1月2日付に追悼文を寄せた。その要旨を紹介する。

 

 「ワールド・トリビューン」から、学者、哲学者、そして世界最大の在家仏教運動の指導者である池田大作氏から学んだことについて、振り返ってほしいとの依頼を受けた時、私は、自らの体験を書かずして、それに応えることは不可能だと思いました。

 精神的指導者が、どれほど偉大な人物であったかを判断する真の尺度は、どれだけの個人の人生に影響を与えたかにあります。

 過去20年間にわたり、私は何百人もの創価学会メンバーにインタビューしました。その中には、多くの日本のリーダーも含まれています。その出会いのたびに、私はメンバーと池田氏の関係について質問しました。

 宗教運動史を専門とするジャーナリストとして、もし私がその運動を組織の内側から書いてしまえば、池田氏や彼が推進した運動について、説得力を持って書くことはできません。その意味から、早い段階で、自分はSGIのメンバーにはならないでおこうと決めました。

 その後、SGIについて学ぶために日本を2度訪れ、SGIの歴史と世界宗教における位置についての本を出版しました。その過程で、何年にもわたって池田氏にインタビュー(往復書簡等=編集部注)し、交流するという前例のないジャーナリストとしての経験をしたのですが、実を言うと、私は池田氏を「先生」や「師匠」と呼ぶことができるSGIの友人たちを、うらやましく思っていました。

 

初代・2代の闘争を基に池田先生が永続する運動を確立

何百万もの弟子の心に生き続ける

 

 私は何度か、SGIについて書くことをやめて、皆と同じようにSGIのメンバーになりたいとも思いました。しかし、それはできませんでした。なぜなら、そうしてしまうと、池田会長と、宗教思想に対する会長の並外れた貢献について、語れなくなってしまうからです。

 〈ストランド氏はSGIのメンバーにならないものの、日々、題目を唱えている〉

 私は長年にわたって池田先生から多くのことを学びました。その多くは、御書、法華経、SGIの歴史に関する先生の膨大な著作を通して得られたものです。また、その他のことは、先生との交流を通じて理解しました。

 私が最も感銘を受けたのは、先生の智慧が持つ実践的な価値です。先生が示された智慧は、厳密に見られても正しく、どんな圧力にも屈しないものであり、闘争の中で生まれたものです。逆境という炎の中で鍛え打たれた、「全人類の幸福を築く」という先生の決心は、何ものにも打ち砕かれることはないでしょう。

 私は著書『Waking the Buddha』の冒頭で、永続する精神的伝統の創造を土鍋作りに例えました。このプロセスには、三つの段階があります。

 まず、粘土をろくろの上で強くたたき、しっかりとした足場を作ること。次に、陶芸家の手で回転させて、使いやすい形に仕上げること。そして、最後に釉薬を塗り、窯に入れて火で焼くことです。全てがうまくいけば、作品は美しく、耐久性のあるものになるでしょう。しかし、作品の出来は、窯の中で何が起こるかに全てが懸かっています。私はこの例えを使って、創価学会の形成期と三代の会長の生涯を表現しました。

 初代会長・牧口常三郎氏は第2次世界大戦中、国家主導の神道への支持を拒否することで創価学会の揺るぎない信仰の「足場」を確立し、第2代会長・戸田城聖氏は創価学会に独特の現代的な「形」を与えました。

 そして第3代会長の池田氏に、プロセスの成否を左右する最も重要な部分が委ねられたのです。池田氏によって、創価学会は、冷戦時代の最も危険な時代の中、国際対話の「火」によって精錬されていきました。

 冷戦が終わりを告げたように見えたときでも、SGIが平和に対して変わらぬ取り組みを続けていたことは、私が日蓮仏教をさらに深く探究するきっかけとなりました。

 SGIは、暴力に対して、池田先生が示した「歓喜」で毅然と立ち向かいました。信心、そして朗らかな決意を胸に実践する信仰活動に裏打ちされた、何ものにも崩されない幸福――これこそが、人間の不幸の究極の原因として日蓮が語った「元品の無明」への対抗手段なのです。

 それも、伝わり続けなければ意味がありません。一本のろうそくから、別のろうそくへ火がともされ、やがて、全世界を照らすように――。

 釈尊は法華経の随喜功徳品で、こう説いています。

 “法華経を聞いて随喜した一人の人がその喜びを人に伝え、その人がまた別の人に伝えていき、50番目まで受け継がれた随喜の功徳ですら莫大である”と。

 私はアメリカと日本でSGIを研究していた数年間に、何百人、否、何千人もの“歓喜に満ちた50番目”に出会いました。池田氏の教えの真実性や、現代史における意義について示す事実はあまりに多く、疑いようがありません。

 この追悼文を書いている時、長年、信心をしているメンバーから次のような話を聞きました。その話は、私が書く池田氏の逝去についての文章以上に、氏が人々の人生に、どのような影響を与えたかを雄弁に物語っています。

 「池田先生が、お亡くなりになったと聞いた翌日に、私は座談会に出席しました。そこで、年配のアフリカ系アメリカ人のメンバーが、こう語られたのです。『先生は、私の心の中に生きています』と」

 これこそが、弟子として先生に代わって広宣流布の夢を前進させるというSGIメンバーの大多数の反応であり、決意であると私は理解しています。

 ガンジーのような偉大な人物の死を悼むのではなく、池田先生が育てた何百万人ものガンジーは、人々に力を与え、目覚めさせ、目に見えるものをはるかに超えてSGIの平和運動を継続・発展させていくという使命を果たしゆくことは間違いないと確信します。


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2024年2月15日

ウズベキスタン・ナワイー市で追悼式

 

池田先生の平和の功績たたえ

写真作品の展示会も

ナワイー市で行われた池田先生の追悼式。クジーエフ元文化・スポーツ大臣をはじめ各界の代表、学生らが参列した

 ウズベキスタン共和国のナワイー市で5日、池田大作先生の追悼式が行われ、各界の識者らが参列した。

 同市は2007年、ウズベキスタンが誇る民衆詩人ナワイーの精神を宣揚し、両国友好に貢献した功績をたたえ、池田先生に「名誉市民」称号を授与している。

 追悼式では、平和と人道に尽くした先生の足跡をたどる映像が上映され、参列者から大きな拍手が送られた。

 続いて、ナワイー州のサドゥル・ミルザエフ副知事、トゥルスナリ・クジーエフ元文化・スポーツ大臣、ナワイー市のジルムロド・イルガシェフ市長らが、文化・教育の連帯を世界に広げた池田先生の生涯を称賛。ナワイー国立大学の学生らが先生にささげる詩を朗読した。

 この模様は地元テレビやラジオ等で中継され、市内のメイン通りには、式典の開催を伝える横断幕やポスターが掲げられた。

 また追悼式に先立ち、池田先生が撮影した写真作品の展示会が同日、同市内で開幕。ナワイー州政府の代表をはじめ、各大学の学生らが多数、鑑賞に訪れた。


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2024年1月28日

第2287回

池田先生のご遺言を

共々に誓願成就しよう!

 

<世界平和の揺るぎなき礎を>

 

 私たちは皆、

 地涌の菩薩の誓願によって

 使命の大地に出現しました。

 

 その上で、

 非難や悪口も覚悟し、

 他者を敬い続ける行動は、

 不軽菩薩の「紹継」でもあります。

 

 各国・各地域で、

 忍耐強く、

 ”創価の不軽”として進める

 「勇気の下種」「友情の対話」

 こそが、

 

 地球民族の善性を薫発する

 尊極の歴史を創るのです。

 

 永遠の世界平和への

 揺るぎなき礎を

 築く大事な七年が、

 遂に幕を開けたのです。

 

池田先生最期の御書講義より

2023年大白蓮華12月号№890 25頁

 


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2024年1月24日

イタリア・フィレンツェ市で

 池田先生をしのぶ追悼式

 

市庁舎ヴェッキオ宮殿で

ナルデッラ市長が弔辞

 「若き世代に啓発与えた 平和の建設者」

 

 絢爛たるルネサンス芸術の至宝に彩られた、ヴェッキオ宮殿の五百人広間で執り行われた池田先生の追悼式。会場には、多数のメディアが駆けつけた。

 

 イタリア・フィレンツェ市とイタリア創価学会の共催による池田大作先生の追悼式が20日、同市庁舎であるヴェッキオ宮殿の五百人広間で執り行われ、トスカーナ州のエウジェニオ・ジャーニ知事、同市のダリオ・ナルデッラ市長をはじめ、近隣の市長、宗教界関係者、欧州SGI(創価学会インタナショナル)とイタリア創価学会の代表ら約500人が参列した。

 池田先生は小説『新・人間革命』第30巻〈上〉の「暁鐘」の章に、1981年のフィレンツェ初訪問の広布史をつづった。イタリアの同志に対して、山本伸一が次のように期待を寄せる。

 「生命のルネサンスをめざす私どもの運動は、今は山中を下り始めたばかりかもしれないが、やがて30年後、50年後には、滔々たる大河の流れとなり、人類の新しき平和の潮流になるであろう」

 この言葉の通り、師の心をわが心とする創価家族の奮闘によって世界各地に後継の人材群が続き、イタリアの天地にも地涌の同志が澎湃と躍り出ている。

 この人間共和のスクラムに信頼と共感の輪が広がり、同市からは池田先生の平和・文化・教育への多大なる貢献をたたえ、

 「フィオリーノ金貨」(1992年)、

 「平和の印章」(2007年)、

 「名誉市民」称号(2017年)

 が贈られている。

 同市が三つの最高栄誉を授与しているのは、

 歴史上、池田先生ただ一人である。

 追悼式では、池田家を代表して池田博正SGI副会長が寄せたメッセージが紹介された。同SGI副会長は、今後もフィレンツェ市と手を携えながら、平和・文化・教育の大いなる価値を創造していきたいと述べた。

 次いで、ナルデッラ市長が、池田先生は若い世代に深い精神の啓発を与えるとともに、核兵器廃絶や環境保護、国家間の関係構築などに尽力した“平和の建設者”であると強調。“歴史上の偉大な革命は、一人一人の心の変革から始まる”との先生の思想に学び、人間主義の対話を広げていきたいと訴えた。

 ジャーニ知事は、池田先生の存在は、行動啓発の源泉、真の価値の模範として記憶に刻まれ、世界中の人々の中に生き続けるであろうと力説。イタリア創価学会のアプレア会長が、先生の平和創造の行動に続いていきたいと語った。

 有志による「森ケ崎海岸」の弦楽四重奏の演奏に続き、新宗教研究所のマッシモ・イントロビーニェ所長が、池田先生は日蓮大聖人の仏法をグローバルに広めた“精神の巨人”であると言及。イタリア創価学会のクリスティーナ・マルシリさんが先生との出会いを胸に、幸福な人生を歩んできた日々を述懐し、欧州SGIのプリチャード共同議長が、追悼式の開催に尽力した関係者に感謝を述べた。


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2023年12月21日

[1]先生の生い立ち

 

<強情さま>

 

 

 私の履歴書はいたって平凡である。最近、羽田の東京国際空港の世話になることがひんぱんになったが、大森ちかくの高速道路を通るたびに、きまって幼いころのことが一瞬に頭に浮かんで消えるのである。なにしろ生まれ故郷のことだ。いまは昔とすっかり変わってしまったが、それでも昔の俤の痕跡がまったくなくなったわけではない。私はいまの東京・大田区の入新井に昭和三年(一九二八年)正月二日、海苔屋の伜として生まれ、幼時を糀谷で過ごした。

 私の幼いころは、浜の潮風が野面を渡り、その野原のあちこちに、海苔製造業の家々が散在していた。海岸から沖へかけて、海苔の竹ヒビ(篊)が均等な間隔で美しい模様を見せながら遠く広がっていた。四季折々の花が咲く野原と波が打ち寄せる砂浜は、私たちの格好の遊び場で、赤トンボが姿を消す秋の終わりごろには、澄んだ空の下で銀色の薄の波がさわさわと揺れていた。そのころ右手にあった羽田飛行場は、のんびりしていて、練習機がときたまプロペラを鳴らしていた。

 かつて大森一帯が、浅草海苔の製造で全国一の覇を唱えたことなど、いまは昔話になってしまったが、今日のように家が密集し、町工場がひしめき始めたのは、昭和も数年すぎて、日本が第二次大戦への道に傾斜したころからのようである。今日の工業地帯が現出する前は、大森海岸の一帯は漁村のたたずまいで、空にはスモッグもなく、海は透明で青かった。

 子年生まれの父は、名を子之吉といい、母は一で、私はその五男である。妙なことだが、生まれてすぐ私は捨て子にされた。私の生まれた昭和三年に、父は四十一歳で、ちょうど前厄の年に当たっていた。それで厄よけの迷信的風習から、私はとんだ目にあった。もっとも捨てた途端に、拾う人もあらかじめ決めていて、そんな手はずになっていた。

 ところが知人が拾う前に、だれかが拾って駐在所に届けてしまったから、一時は大騒ぎになった。消えた嬰児に、父母は大あわてにあわてたらしい。この話はよく聞かされたが、迷信はともかくとして、父母の心情には私が丈夫に育ってほしいという祈願がこめられていたのだろう。

 父は一言でいえば、頑固な人であった。十八年前に亡くなったが、生前、近所の人びとから“強情さま”と呼ばれていた。それで、私たちも「強情さまの子だな」で通ったものである。頑固の裏に、ばか正直な生一本さが貫かれていて、結局は人の好い父であった。

 この頑固さは、先祖伝来の気質であったらしい。江戸時代の後期、天保の大飢饉の時(一八三六年)、打ちつづく天候異変から全国的な凶作となり、農民の餓死が各地で起こった。この惨状に、幕府は救助米を放出した。ところが、村の池田の祖先は「もらう筋合いはない。草を食べてもなんとか生きていける。他の人に回してくれ」と言って、頑として救助米を受け取らなかったという。この話は、後でいろいろ粉飾されているとは思うが、このとき以来、村人たちは“強情さま”という名を奉った。父もこの子孫である。

 また、六尺のかつぎ棒があったというが、この棒は、何代か前の当主が、品川から不入斗(後に新井宿村と不入斗村が合併して、入新井町になった)まで、「もし運んだら、米二俵やる」との話を真に受けて、下駄ばきのまま五キロの道をウンウンうなりながら帰ったという、そのかつぎ棒である。強情の血筋は、代々みがきがかかったらしい。

 この強情の父に、母はよく仕えた。海苔の仕事は手間暇のおそろしくかかる仕事である。朝早くから海苔採り、日中は海苔干し、それに炊事と育児、最盛期の秋から冬にかけては、昼食など忘れたとのことだ。手はいつもあかぎれができていて、五十過ぎるともう白髪が目立つ母であった。

 昭和にはいってからの父や母は、二・二六事件、日中戦争、第二次世界大戦、終戦へとつづく激動期に、いつも戦争の影を背負わされて、思いまかせぬ人生を、精いっぱい耐えて生きたことは確かである。平凡ではあったとしても、善良な庶民の誇りを、私は愛惜したい。

 いまはすっかり年老いて七十九歳になる母は、病弱だった私を気づかって、会えば「体だけは丈夫にね」としか言わない。母はいつまでたっても母である。

 

「私の履歴書」(池田大作全集第22巻)

 


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2023年11月26日

〈特集 師弟の力はかくも偉大 池田先生の95年〉

第6回=完

 わが最終の事業は教育

 

創価三代の教育の夢は

世界へ未来へ果てしなく広がる

労苦と使命の中に人生の価値が

 

   

 特集「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」の最終回は、「わが最終の事業は教育」。日本そして世界に創価教育の学びやを創立し、平和を守り、社会に貢献する人材の育成に尽くしてきた軌跡を追う。

 

 1930年(昭和5年)、小学校校長だった牧口常三郎先生は『創価教育学体系』を著した。その編集・出版に奔走したのは戸田城聖先生であった。

 世界では経済恐慌の嵐が吹き、日本では軍国主義の暴走が始まっていた時代である。

 『体系』の奥付には、発行日の「11月18日」の横に、印刷日が「11月15日」と記されている。

 奇しくも、創価教育の父は「11・18」に崇高な殉教を遂げられ、創価教育の大城を創立した池田大作先生は「11・15」に霊山へ旅立った。

 先師と恩師の遺志を継ぎ、池田先生が築き上げた創価教育の連帯は、地球規模で大きく広がっている。

 東京と関西にそれぞれ小学校から高校までの創価学園を創立。今や67カ国・地域の251大学と交流を結ぶ創価大学、女子教育の殿堂たる創価女子短期大学に続き、新世紀開幕の2001年には、アメリカ創価大学が開学した。

 幼稚園は札幌に次いで、香港、シンガポール、マレーシア、韓国に誕生。ブラジル創価学園は幼稚園から高校までの一貫校に発展し、本年8月には、創価インターナショナルスクール・マレーシアの第1回入学式が行われた。

 

「大作、頼むよ」

 創価教育の大城の建設――その夢は、苦境の中、師から弟子に託された。

 50年(同25年)11月16日、都内の大学の学生食堂で戸田先生は池田先生に語った。

 「大作、創価大学をつくろうな。私の健在のうちにできればいいが、だめかもしれない。そのときは大作、頼むよ。世界第一の大学にしようではないか」

 戸田先生は3カ月前、事業が「業務停止命令」を受け、窮地に立たされていた。社員が次々と去る中、孤軍奮闘していたのが池田先生だった。

 この日、22歳の若き池田先生は、恩師の言葉を深く心に刻んだ。学校の設立は、牧口先生の願いでもあった。

 先師と恩師の熱願を胸に、池田先生は、幼稚園から大学に至る一貫教育の構想を人知れず練り上げていく。

 第3代会長に就任する1カ月前の60年(同35年)4月5日には、香峯子夫人と共に東京・小平にある創価学園の建設候補地を視察。敷地の購入を決意している。

 64年(同39年)6月30日には「世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていきたい」と、創価大学の設立構想を正式に発表。やがて設立審議会が発足し、建設が本格的に始動した。

 

何のため

 68年(同43年)、東京・創価学園が中高一貫の男子校としてスタートする。

 71年(同46年)には創価大学が開学した。大学紛争に揺れる時代。行き詰まった大学界に希望の灯をともすため、「人間教育の府」の開学を2年早めた。

 池田先生は設立資金を捻出するためにも、執筆活動に力を入れた。原稿を書き、働きに働いた。著作の印税等を資金に充てた。教育理念に共感する多くの人々の支えもあった。建設予定地の整地や清掃に汗した人、事業に参加したいと真心の寄付を申し出た人も多かった。

 そうした無名の庶民の手によって創られた「民衆立の大学」であることを、先生は折あるごとに創大生に語った。

 “いい大学に入り、いい会社に就職する”ことが幸福という風潮がある中で、「大学で学ぶのは、大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためである」との信念からだった。

 創大開学に寄せて、先生は一対のブロンズ像を贈った。その台座には、こうある。

 「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」

 「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」

 

21世紀とその先へ

 学園や大学を創立後、池田先生は生徒や学生たちの中に飛び込み、自らの姿を通して「人間教育」の範を示した。

 ある時は、卓球やテニスなどを共にした。一緒に釣りをしたり、俳句を作ったりもした。西洋料理の会食会に招待し、テーブルマナーの基本を教えたこともあった。

 「教育というのは良い刺激を与え続け、良い思い出をつくってあげることです」と教員に語っている。

 成績不振の生徒や、途中で退学することになった生徒も、ずっと見守り続けた。その中からは大学教授など、使命の道で奮闘する友が数多く誕生している。

 全国各地から生徒が集まる東京の創価学園では“夏休み前に地方出身者のための思い出づくりを”と提案。そうして始まったのが、伝統行事となる「栄光祭」だった。先生は24年連続で出席し、学園生と時間を共にした。

 「みんなと一緒に見てもいいかな」

 第2回が行われた69年(同44年)7月17日、会場のグラウンドに到着した池田先生は、真っすぐに生徒席へ向かった。近くに座る生徒に名前や出身地などを尋ね、優しく励ます。舞台で繰り広げられる民謡大会や創作劇などに、惜しみない拍手を送った。

 先生は呼びかけた。

 「21世紀の初めには、この1期生、2期生から、社長や重役、ジャーナリスト、あるいは、科学者、芸術家、医師など、あらゆる世界で、立派に活躍する人がたくさん出ていると、私は信じます」

 そして21世紀最初の7月17日に、ここにいる全員で集い合おうと述べ、「私も、2001年を楽しみにして、諸君のために道を開き、陰ながら諸君を見守っていきます。それが、私の最大の喜びであるし、私の人生です」と。

 成長し、勝って創立者のもとへ!――楽しい「思い出」は、学園生の大いなる「誓い」となった。

 「戦争の世紀」から「平和の世紀」へ、教育に懸ける先生の目は、常に21世紀とその先の未来に向けられていた。

 

創価三代の教育の夢は 世界へ未来へ果てしなく広がる

私は 永遠に 諸君と共にいる!

 

   

わが子以上に大切に

 開学以降、池田先生が初めて創価大学を公式訪問したのは、学生たちの真心の招待を受けた第1回創大祭だった。

 先生は模擬店などを巡り、創大生が懸命に作り上げた展示を観賞。「よく研究したね。大変だっただろう」。学生たちをねぎらいつつ、3時間以上かけて全てを見て回った。皆が、夜遅くまで準備に当たっていたことを知っていたのだ。

 また、寮生が開催した「滝山祭」の第2回(1973年〈昭和48年〉7月)には、3日間の全日程でキャンパスを訪れ、学生たちを激励。最終日の盆踊り大会では、手の皮がむけるほど力強く太鼓を打ち続けた。

 先生は常々、教職員に「わが子以上に、学生を大切にするんだよ」と語り、自らの一挙手一投足で「学生第一」の精神を示した。「世界で一番、学生を大事にした大学が、世界で一番の大学になる。それが方程式です」と。

 同年10月の第3回創大祭。企業のトップや就職関係者ら約700人の来賓を招き、祝賀会が行われた。

 「創立者の池田です。学生が就職活動で伺った折には、どうか、よろしくお願いします」。池田先生は一人一人に名刺を渡し、深々と頭を下げた。体調が優れぬ中、汗びっしょりになりながら、約2時間、体育館中を歩き回った。新設校である創大に進学してくれた1期生たちのために、自らが企業の代表に会って、創大生のことをお願いしようと決めていたのである。

 そんな創立者の姿に触れ、1期生は奮起した。就職活動が始まり、会社訪問をしても指定校ではないという理由で断られることもあった。それでも、毅然としていた。

 「私は結構です。しかし、私の後には、優秀な後輩たちが続いています。来年の後輩たちについては、どうかよろしくお願いします」

 オイルショックによる不況で就職難となったが、1期生は名だたる企業から内定を勝ち取り、就職率100%を達成した。高い就職率の伝統は今も脈々と続いている。

 

地球規模で考える

 海外平和旅を重ねる池田先生は、訪問先の絵はがきなどを学園生に贈り、世界市民の心を育んできた。

 73年(同48年)5月、歴史学者トインビー博士との対談などのためにヨーロッパを訪れた先生は、パリでフランス人形を買い求め、「園子」と命名。この年に開校した創価女子学園に贈った。女子学園は82年(同57年)から関西創価学園となり、東京の学園と共に男女共学校として新出発した。

 学園生は、創立者を通じて世界を身近に感じてきた。

 先生が交友を結んだ、欧州統合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵、フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏、世界的絵本作家ブライアン・ワイルドスミス氏など、東西の学園には、5000人を超える海外の識者が訪れている。

 正しい人生とは何か。先生は、識者の生涯や古今東西の偉人を紹介しながら、学園生や創大生に語った。

 97年(平成9年)11月20日、錦秋の関西学園にゴルバチョフ元ソ連大統領夫妻が来訪。その際、先生はトルストイの寓話『若い皇帝』を紹介した。

 ――巨大な権力の座に就いた若き皇帝に、三つの声が呼びかける。

 第一の声は“あなたの責任は、与えられた権力を維持していくことだけだ”。

 第二の声は“自分の責任を上手に回避すればよい”。

 最後に第三の声は言った。“「皇帝」としてではなく、

 「人間」としての責任を果たせ!

  苦しむ民衆を救うために、行動せよ!”

 そして、先生は訴えた。

 「第三の『人間指導者』の道を選択した勇者こそ、ゴルバチョフ博士であると、私は断言したいのであります」

 

 先生は随筆に記している。

 「日本の小さな物差しではなく、地球規模のスケールで考え、手を打っていけるリーダーが躍り出なければならない。私が『君たちの舞台は世界だ』と語り、学園生や創大生に、世界の指導者や一流の文化人や芸術と触れ合う機会を数多く作ってきたのも、そのためである」

 

かけがえのない宝

 「先生の夢は何ですか?」

 2000年(同12年)2月28日、関西学園の卒業予定者との懇談で、女子生徒が尋ねた。

 池田先生は「夢を考える暇がないくらい忙しいんだよ。世界中のことを考えているから」とユーモアを交えつつ、恩師の構想実現を夢として、一心不乱に駆けてきた人生を述懐。あふれる期待を込め、こう言葉を継いだ。

 「皆さんが将来、名実ともに立派な博士となり、指導者になってもらいたい。それが最大の私の夢である」

 先生は、学園生・創大生・短大生の卒業文集や署名簿を「私のかけがえのない宝」とし、手元で大切にしてきた。

 同窓生の幸福勝利を祈り、励ましを送り続けてきた。

 先生は詠んだ。

 

 創価同窓の友の

 活躍を知るとき

 どれほど

 胸が弾むことか

 悲しい知らせを聞くとき

 どれほど

 胸を痛めることか

 この思いは

 創立者でなければ

 絶対に わからない

 私は 永遠に

 諸君と共にいる!

 私は 永遠に

 諸君の味方である!

 

 先生の心には、いつも創価教育の友がいた。そして同窓生の心に先生は生き続ける。

 先生の夢は、創価教育のスクラムと共に、世界へ未来へ果てしなく広がっていく。

 

※『創価教育学体系』第1巻の奥付。牧口先生と戸田先生の師弟の結晶である同書の印刷日として、「11月15日」の日付が刻まれる


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2023年11月25日

〈特集 師弟の力はかくも偉大 池田先生の95年〉

第5回 

命を削るペンの闘争 

 

燃えあがる信仰で 無辺の言葉をわれはつくる

 

文の生命に限りはない

 小説「人間革命」「新・人間革命」

恩師と学会の真実を綴る

 

 長野研修道場にある「新・人間革命の碑」。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」との冒頭の一節と「一九九三年八月六日 広島原爆投下の日 書き始む 全三十冊の予定なり」との言葉が刻まれる

   

 11月18日付の学会創立記念日を飾る本紙の1面には、池田大作先生が生前、全同志に詠み贈った和歌が掲載された。20日付には創価学園生へのメッセージ、21日付には「御書と未来へ」――命の燃え尽きるまで、師子吼の言葉を放ち続けられた先生。特集「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」の第5回は「命を削るペンの闘争」。時に法悟空として、時に桂冠詩人として展開された、言論闘争の足跡をたどる。

 

山本伸一郎の名で

 「燃えあがる信仰で 無辺の言葉をわれはつくる」

 池田大作先生は、そう詠んだことがある。

 友を励ますためには、わが身を惜しまない。

 しかし、直接会える人には限りがある。

 ならば、ペンの力で励まそう。

 人間の命は有限であるが、言葉の命は無限である。

 時代を超える普遍の仏法哲理を、師弟の真実をつづり残そう。

 それが池田先生の決意であり行動であったに違いない。

 

 その言論闘争は、

 戸田城聖先生のもとで薫陶を受けた青春時代に始まっていた。

 池田先生が、恩師の経営する出版社・日本正学館に初出勤したのは1949年(昭和24年)1月3日。21歳になった翌日である。

 同年5月には、少年雑誌「冒険少年」(のちに「少年日本」)の編集長に就任。“日本一の少年雑誌を!”と、夢中で取り組んだ。

 東京・西神田の小さな出版社で、連載の企画や原稿の依頼・受け取り、挿絵の依頼、レイアウトなど、一人で何役も担った。書き手の都合がつかない時は、「山本伸一郎」の名で自らペスタロッチやジェンナーの伝記も書いた。

 しかし、ドッジ・ラインがもたらした戦後不況のあおりで、戸田先生の出版事業は挫折。会社は信用組合に業態を変え、池田先生も編集の仕事を離れることになった。

 しかし、その組合の事業も50年(同25年)夏にはいよいよ行き詰まり、戸田先生は絶体絶命の苦境に陥る。その中で師弟は、新聞創刊の構想を語り合った。

 この頃、戸田先生は池田先生に「なぜ、日蓮大聖人の一門は、あれほどの大難の連続も勝ち越えることができたのか」について論じている。

 「大聖人は、お手紙を書いて書いて書き抜かれて、一人ひとりを励まし続けられた。だから、どんな人生と社会の試練にも、皆、負けなかった。この大聖人のお心を体した新聞を、大作、大きく作ろうではないか!」

 池田先生の陰の闘争ありて窮地を脱した戸田先生は51年(同26年)5月3日、第2代会長に就任。その直前の4月20日、聖教新聞が創刊された。恩師は自ら健筆を振るった。創刊号の1面を飾った「信念とは何ぞや?」の記事も、コラム「寸鉄」も手がけた。

 弟子も懸命にペンを握った。「これでは、人の心は打たぬ!」「論旨が不明瞭である!」と、師の訓練は厳しかった。戸田先生の膝下で池田先生は、広宣の闘士の腕を鍛えるだけでなく、ペンの剣をも磨き上げていった。

 

妙悟空と法悟空

 戸田先生は「妙悟空」の名で連載小説も書いた。タイトルは『人間革命』。主人公の「巌九十翁」は、小説の後半から自身がモデルに。牧口常三郎先生と共に投獄された獄舎で、“われ地涌の菩薩なり”と自覚する「獄中の悟達」の場面で小説は終わる。

 それでは、戸田先生が「巌窟王」となって、獄死した牧口先生の仇を討たんと広宣流布に一人立ち、75万の地涌の菩薩を呼びいだした後半生を誰が書き残すのか――。

 池田先生が、恩師の伝記小説をつづる決意をした主な契機が3度あった。

 51年(同26年)春。戸田先生が、小説『人間革命』の原稿を見せてくれた時。

 54年(同29年)8月。恩師の故郷、北海道・厚田村(当時)に同行した時。

 そして57年(同32年)8月。戸田先生と最後の夏を過ごした長野・軽井沢での語らいである。

 「先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の、私への期待であり、弟子としての私の使命であろう」と、先生は固く誓ったのである。

 60年(同35年)5月、その弟子は第3代会長に。

 64年(同39年)4月、戸田先生の七回忌法要の席上、恩師の伝記小説である『人間革命』の執筆を宣言する。

 会長就任から4年。恩師の遺言である300万世帯を既に62年(同37年)に達成し、青年会長のもと、学会は日の出の勢いで躍進を続けていた。

 64年12月2日、先生は沖縄の地で執筆を開始。翌65年(同40年)1月1日付から本紙で連載がスタートした。ペンネームは「法悟空」。仏法の原理に則れば、“妙”が師、“法”が弟子となる。半世紀を超える“師弟の物語”が始まった。

 

激闘の中で

 「新聞の連載小説は過酷な作業である」と、池田先生は記している。まして、広布のため平和のため、東奔西走の日々。それでも、海外訪問や地方指導の折にも小説の構想を練り、原稿用紙に向かった。

 69年(同44年)11月末ごろからは、いわゆる「言論・出版問題」が勃発。先生は一切の矢面に立った。

 70年(同45年)2月9日付の本紙から、第6巻「七百年祭」の連載が始まっている。当初は戸田先生の生誕日である「2月11日」開始を予定していたが、「一日も早く再開してほしいとの全国の読者の強い要望等もあり」掲載が早まった、と記事にある。土曜、日曜は休載の予定だったが、読者の要望に応えて、日曜のみ休載になったとも。

 学会丸を荒波が襲う中で、懸命に操舵しながら、先生はただ同志のために執筆を続けた。

 体調を崩し、ペンを握ることができない日には、口述し、テープに吹き込んだ。

 第9巻「発端」の章の原稿には、欄外に「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と記したものがある。この時、夫人が使用した小さな机は「香峯子机」と呼ばれた。

 しかし、これほどの執念で続けた連載も、一時は休止を余儀なくされた。79年(同54年)4月、第3代会長を辞任。宗門の悪侶と退転・反逆の徒らが結託し、学会から師弟の精神を消し去ろうと画策していた。先生は行動を制限され、本紙の紙面からも先生の指導の掲載が消えた。同志にとっては、暗夜をさまようような日々であった。

 「このままでは、同志がかわいそうだ。励まそう。勇気を送ろう。『人間革命』の連載を開始しよう。そのための非難は、私が一身に受ければよい」

 翌80年(同55年)7月、先生は2年間休載していた『人間革命』の再開を決意し、第11巻の執筆を始める。体調が優れず、何度も体を横たえながら、担当記者に口述して、連載を続けたこともある。その一文字一文字は、同志の希望の光となり、反転攻勢への勇気の炎をともしていった。

 

永遠に指揮を

 小説『人間革命』は、93年(平成5年)2月11日、恩師の生誕93周年の日に連載が完結。11月18日からは続編となる『新・人間革命』の連載が開始された。

 執筆を開始したのは同年8月6日。恩師と最後の夏を過ごした、あの軽井沢である。

 第1巻の「はじめに」で、先生はつづっている。

 「『新・人間革命』の執筆をわが生涯の仕事と定め、後世のために、金剛なる師弟の道の『真実』を、そして、日蓮大聖人の仰せのままに『世界広宣流布』の理想に突き進む尊き仏子が織りなす栄光の大絵巻を、力の限り書きつづってゆく決意である」

 小説だけではない。98年(同10年)1月からは随筆「新・人間革命」の掲載も始まった。第1回のタイトルは「日に日に新たに」。そこに先生は、80歳以降を展望して「このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとる」と記した。

 2018年(同30年)8月6日、先生は『新・人間革命』の筆を置き、9月8日に全30巻の連載が完結。連載回数は『人間革命』『新・人間革命』を合わせて7978回。400字詰め原稿用紙で2万枚を超えた。日本の新聞小説史上、最長の金字塔である。

 

 

燃えあがる信仰で 無辺の言葉をわれはつくる

 

クマナン議長

 「師匠とは弟子が一番苦しんでいる時に力を与えてくれる人」

 

 メキシコ・ベラクルス国際空港で、出発までの寸暇を惜しんで、同志への励ましを色紙にしたためる池田先生。香峯子夫人が見守る(1996年6月)

  

 最終章には、2001年11月の本部幹部会で、先生が呼びかける場面が描かれた。

 「どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です」

 場所は東京戸田記念講堂。先生の創価学会葬が営まれた師弟の殿堂である。

 随筆の掲載は1998年から今月まで、25年間続いた。最後の掲載は11月15日、読者のもとに届いた。霊山へ旅立つその日である。

 先生は、その最後につづった。

 「『世界青年学会』の礎は盤石である。いやまして地涌の青年の熱と力を結集し、地球民族の幸福の価値創造へ、『人材の城』を築き、『平和の園』を広げようではないか!」

 

聖教を主戦場に

 「私は聖教新聞を主戦場として、創価の師弟の真実を永遠に刻み残す決意で、一人一人に励ましの手紙を綴る思いで、ペンの闘争に挑み抜いてきた」

 世界聖教会館の「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には、池田先生の碑文が刻まれている。

 まさに池田先生ありての聖教新聞。先生は自ら筆を振るうだけでなく、記者の育成にも力を尽くした。

 かつて、ある宗教社会学者は「聖教新聞を見るたびに、私には池田名誉会長が『この記事で会員が本当に納得し、喜ぶか、満足するか』等とスタッフを厳しく叱咤しておられる声が聞こえてくるようです」と語ったことがある。

 小説『新・人間革命』には、随所に聖教新聞の使命がつづられ、記者・職員を励ます場面が描かれた。

 日刊化当時の奮闘を描いた第10巻「言論城」の章に、会長の山本伸一が、紙面を講評し、厳しくも温かいアドバイスを送る場面がある。

 「最初の入り方が平凡だ。冒頭で、人の心をつかむことだよ」「体験談の文章というのは、生き生きとした状況の描写が大事だ」「ともかく、新聞の生命は正確さだ」

 記者だけではない。写真部員や整理記者、さらに広告や輸送・配達担当など、聖教を支える全ての職員に“聖教魂”を打ち込んでいった。

 「聖教らしさ」とは何か。先生は書き残している。

 第一に、どこまでも、広宣流布のための機関紙。民衆の幸福と平和のために立ち上がろうという思いが湧き起こる新聞。

 第二に、すべての人が、真実の仏法とは何かを、よく理解することができる新聞。

 第三に、読者に勇気と希望を与える“励ましの便り”。

 その範は、先生の言論と行動の中に示されている。

 今や聖教電子版も220カ国・地域で閲覧される時代に。「聖教新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」という戸田先生の熱願は、池田先生のもとで現実になった。

 聖教新聞は、師の薫陶のままに「人間の機関紙」の言論を届け続ける。何より池田先生の真実を伝え、友に勇気と希望を送る「師弟の機関紙」であり続けたい。

 

“一人”を励ます

 小説やエッセーに加えて、先生のペンは数限りない句や歌、短文や長編詩を紡ぎ出してきた。それは「なんとか、わが友が、苦境を乗り越えて、その人らしい成長と逞しい自信をもってくれればという、悲願にも似た心情から、できるだけ、一人一人に適するように書き送ったまでである」。

 1976年(昭和51年)7月、先生は新しい学会歌の制作に取り組んだ。一部のマスコミや宗門僧らによる、学会への攻撃が始まっていた頃。

 その中で誕生した「人間革命の歌」は、戸田門下にとっての「同志の歌」と同様、池田門下が生涯の師弟共戦を誓う魂の歌となった。

 宗門事件の嵐が激しさを増した78年(同53年)には、次々と各部や各方面の歌が生まれた。

 学生部歌「広布に走れ」、未来部歌「正義の走者」、東京の歌「ああ感激の同志あり」、東北の歌「青葉の誓い」、中部の歌「この道の歌」、中国の歌「地涌の讃歌」。そして関西の歌「常勝の空」――先生の魂は、これからも同志の「正義の闘魂」を呼び覚ますに違いない。

 

桂冠詩人の衝撃

 詩を通じた人間交流は、同志だけに限らない。国境を越え、民族や宗教を超えて、先生の詩は人々の心を打った。

 インドのセトゥ・クマナン議長が創価池田女子大学を設立したきっかけも、クリシュナ・スリニバス博士から贈られた書籍で先生の「母」の詩を読み、「雷光を目にしたような衝撃」を受けたからだった(本紙11月17日付インタビュー)。

 スリニバス博士とは、先生に「桂冠詩人」の称号を贈った世界芸術文化アカデミーの事務総長であり、「世界桂冠詩人」賞を贈った世界詩歌協会の会長である。

 クマナン議長は語る。

 「池田先生を師匠と決めたのは、先生の『詩』を読んだ瞬間です。詩人と詩人は、すぐに共鳴するものです」「先生の詩は、どんな人にも分け隔てなく力を与えています」

 「私は知りました。師匠とは、弟子が一番苦しんでいる時に『力』と『幸福』を与えてくれる存在なのだと」(同)

 先生に「桂冠詩人」の称号が贈られることが決まったのは81年(同56年)7月1日。

 先生が桂冠詩人として始めて作詞した学会歌は「紅の歌」であり、初めて詠んだ長編詩は「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」であった。いずれも、宗門の迫害に苦しみに苦しみ抜いた地で、青年よ立ち上がれと、青年と共につくった共戦の歌である。

 「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」は12月10日、大分で苦闘の同志を励ます反転攻勢の激闘の中で紡がれた。

 大分平和会館の管理者室で、先生の口述を5人の青年が必死に書き取る。青年たちは、先生が県の代表メンバーとの懇談に向かった間、必死で清書に当たった。

 懇談から帰った先生はすさまじい気迫で「原稿はどうなった!」。

 詩が発表される予定の大分県青年部幹部会は午後7時開始の予定。時間がない。続々と参加者が集い、会合開始は1時間早められた。それでも先生は真剣勝負で推敲に当たり、直しの口述が終わった時、既に幹部会は始まっていた。

 詩作は戦いであり、詩とはやむにやまれぬ魂の叫びであった。

 

 青年とは

 希望とは

 真実とは

 広宣流布という

 友のための法戦を

 貫きゆくことなのだ――

 (長編詩をもとにした歌「青年よ広布の山を登れ」)

 

 その法戦の旗は今、いよいよ、21世紀を生きゆく我らの腕に託された。

 


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2023年11月23日

〈特集 師弟の力はかくも偉大 池田先生の95年〉

第4回

人類の宿命転換への挑戦

 

文明を超え壁をとかした 人間主義の対話の旅路

戦争の世紀を断じて不戦の世紀に

 

 池田先生の巨大な足跡を6回にわたって特集する「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」。第4回は「人類の宿命転換への挑戦」と題し、戦火の青春を歩んだ先生が戸田先生の不戦の松明を継ぎ、世界に平和と対話の行動を起こした軌跡を追う。

 

 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」

 小説『人間革命』第1巻の「はじめに」の言葉は、同小説と続編の『新・人間革命』を貫く主題であり、同時に、池田先生が自らの人生を懸けた挑戦の宣言でもある。

 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」。先生は1964年(昭和39年)12月2日、沖縄の地で『人間革命』を書き起こした。沖縄は先の大戦で凄惨な地上戦の舞台となり、最も民衆が苦しんだ地であったからだ。

 そして、若き日の池田先生もまた、その戦争で苦しんだ青年の一人だった。

 

戦火の青春

 1928年(昭和3年)、東京の現・大田区に生まれた先生は「日本中が異常なまでに、戦争の動向に関心を払わされた時代」(『私の履歴書』)に少年期を過ごした。

 9歳で日中戦争が勃発。14歳を目前に太平洋戦争が始まる。4人の兄は次々と兵役に取られた。強制疎開で家を追われ、移った家も空襲で焼かれた。敗戦後には長兄の戦死公報を受け取り、慟哭する母の背中を見た。自身の体は肺病に侵され、生命の内にも外にも、常に死の影がつきまとっていた。

 「私は、戦争を憎んだ。民衆を戦争へと駆り立てた、指導者を憎んだ」

 17歳の夏に敗戦。多くの青年と同様、「こんな歴史を二度と繰り返さぬために、自分は何をすべきか」を先生は問うた。そんな中で、一人の壮年と出会う。47年(同22年)8月14日の夜であった――。

 誘われて出席した創価学会の座談会で、その人、戸田城聖先生は「立正安国論」を講義していた。

 「正しい人生とは」「真の愛国者とは」「天皇制について」。三つの質問にも、簡潔で明快な答えが返ってくる。しかも、あの戦争で軍部に抗し、投獄された人だという。“この人なら信用できる”。池田先生は10日後に入信し、戸田門下生となった。

 立正安国論に「すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱るべきものか」(新44・全31)と。信仰の道への出発は、世界平和への秘めたる一歩ともなったのである。

 

社会への宣言

 池田先生は30歳になる目前、過去と未来の10年ごとの歩みを日記に書き残した。

 

 十歳まで……平凡な漁師(海苔製造業)の少年時代

 二十歳まで……自我の目覚め、病魔との闘い

 三十歳まで……仏法の研鑚と実践。病魔の打破への闘い

 四十歳まで……教学の完成と実践の完成

 五十歳まで……社会への宣言

 六十歳……日本の広布の基盤完成

 

 医師からは「30歳まで生きられない」と言われた体。この時点では、60歳より先は記していない。

 ――68年(同43年)9月8日。第3代会長就任から8年、40歳を迎えていた先生は、世界に向けて大きく「社会への宣言」を放った。第11回学生部総会で発表した「日中国交正常化提言」である。戸田先生が「原水爆禁止宣言」を行ってから満11年が、この日だった。

 冷戦の激化、中国の文化大革命の影響で、日中関係は冷え切っていた。過去には、両国友好の復元に努めた政治家が刺殺される事件もあった。厳しい社会情勢の中、なぜ命の危険を冒して提言したのか。

 「私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である」(小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章)。それが先生の真情だった。

 「光明日報」の劉徳有記者は、提言を受け、いち早く中国に打電。外交の全権を担っていた周恩来総理のもとにも、その報は届いた。

 反発、警戒、あるいは脅迫――提言は内外に負の反応を呼び起こしたが、一方で、中国文学者の竹内好氏が「光りはあったのだ」と評し、政界の重鎮・松村謙三氏が「百万の味方を得た」と語るなど、両国関係の打開を願う人々からは大きな支持が寄せられた。

 72年(同47年)9月に国交正常化が実現する過程で、公明党が橋渡し役となったのも、党創立者である先生の提言への中国側の評価、とりわけ周総理の信頼があったからである。

 池田先生の逝去にあたって中国外務省が「中国人民が信頼し尊敬する古き良き友人」「先生が築かれた『金の橋』が永遠に後世へ続いていくことを念願している」(毛寧報道官)とコメントしたことには、こうした半世紀以上にわたる歴史の背景がある。

 池田先生は74年(同49年)5月30日、初めて中国の地を踏んだ。まだ直行便がない時代。英国領だった香港から列車で境界まで行き、鉄橋を歩いて中国に渡った。

 行程は約2週間。ある時、一人の少女に聞かれた。

 「おじさんは、何をしに中国に来たのですか?」

 先生は言った。「あなたに会いに来たのです!」

 池田先生は、世界を平和と共存の時代へと動かす挑戦を続けながら、その視線は常に、庶民の一人一人に向けられていた。

 

友誼のバトンを

 2度目の訪中の機会はその年のうちに訪れた。

 周総理と池田先生の会見が実現したのは12月5日。訪問最後の夜である。

 総理は当時、全身をがんに侵され、病床にいた。医師や周囲も反対する中、総理はそれを退けて、会見に臨んでいた。

 総理は、ゆっくり歩み寄り、先生の手を握った。

 「どうしてもお会いしたいと思っていました」

 「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどうしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが、私にはとてもうれしい」「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」

 総理から託された友好の志を受けて、先生は国交正常化後の第1号となる国費留学生を、自ら身元保証人となって創価大学に受け入れるなど、青年交流、教育・文化交流に心血を注いでいった。

 

世界的な歴史学者

 「2人で有意義に意見交換できれば幸いです」

 日中国交正常化提言を発表した翌年、一通の書簡が池田先生のもとに届いた。差出人はアーノルド・J・トインビー博士。20世紀を代表する歴史学の巨人である。

 

文明を超え壁をとかした 人間主義の対話の旅路

トインビー博士 私たちの語らいは後世のため

 

 

 対談は1972年(昭和47年)5月、イギリスの博士の自宅で実現した。

 当時、ベトナム戦争が泥沼化。核兵器使用の脅威も高まっていた。この年、ローマクラブのリポート「成長の限界」では「100年以内に地球が成長の限界に達する」と示され、世界に衝撃を与えた。

 博士は、現代文明の危機を乗り越える道を示す高等宗教として、以前から仏教に強い関心を寄せ、“生きた仏教”の指導者として先生に注目したのである。

 対談はこの時と、翌73年(同48年)5月に、年をまたいで約40時間に及び、対談集『21世紀への対話』に結実した。現在までに31言語で刊行され、いわば「人類の教科書」になっている。

 73年の対談の最終日、イギリスのテレビは、ソ連の首脳と西ドイツ首相の会見を、大きく報じていた。

 それを見ながら博士は言った。「私たちの対談は地味かもしれません。しかし、私たちの語らいは、後世の人類のためのものです。このような対話こそが、永遠の平和の道をつくるのです」

 対談を終える際には、こうも語っている。「人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください。ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも」

 さらに、人を介して、一枚の紙片を先生に託した。そこには「可能ならば、お会いしていただければ」と、米国の微生物学者デュボス博士や、ローマクラブの創立者ペッチェイ博士などの名前が記してあった。

 先生はこれらの人々をはじめ、世界の識者と21世紀を展望する語らいを繰り広げながら、言葉だけでなく自らの足で平和の橋を架けていった。

 

「人間」に会いに行く

 74年(同49年)9月8日、5月の初訪中に続いて、先生はソ連を初訪問する。

 「鉄のカーテン」で世界を二つに分断していた、社会主義陣営の“盟主”。その国に行くことに対して、日中提言と同様に、「宗教否定の国に行くのか」等と、強い反発があった。

 先生の答えは「そこに、人間がいるからです」。

 モスクワ大学のホフロフ総長、ノーベル文学賞受賞者のショーロホフ氏といった著名人だけでなく、宿舎の鍵当番の婦人、釣りをしていた老人と孫、モスクワ大学の学生――市井の人々や青年・学生に語りかけ、思い出を刻んだ。あたかも、凍てついた心の大地をとかすように――。

 滞在の最終日、クレムリンで会見したコスイギン首相に「あなたの根本的なイデオロギーは何ですか」と問われると、先生は即答した。

 「平和主義、文化主義、教育主義です。その根底は人間主義です」

 「その原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」と首相。

 今度は先生が問うた。「ソ連は中国を攻めますか」

 当時、中ソ対立も、米ソ対立と同様に激しさを増していた。

 首相は「攻撃するつもりはありません」。

 「それを伝えてもいいですか」と聞くと「結構です」と。

 この発言は、3カ月後の先生2度目の訪中の際、中国首脳へ伝えられた。「この情報を周総理は非常に重視した」(中国・南開大学周恩来研究センター所長を務めた孔繁豊氏)とされる。

 翌75年(同50年)1月、先生は米国でキッシンジャー国務長官と会談。米中ソの3カ国を巡り、平和と核戦争回避のための民間外交を展開していったのである。

 

新思考の指導者と

 70年代に本格的に開始された先生の平和行動が、さらに大きく開花していくのは、79年(同54年)4月24日、第3代会長を辞任し、名誉会長となってからである。

 既に75年(同50年)の1月26日にSGI(創価学会インタナショナル)会長となっていた先生は、82年(同57年)6月、第2回国連軍縮特別総会に寄せ、核兵器廃絶を訴える提言を発表。翌83年(同58年)の1月には1・26「SGIの日」を記念し、「平和と軍縮への新たな提言」を発表する。

 以後、この記念提言の発表は昨年まで続いた。

 89年(平成元年)11月、ベルリンの壁が崩壊すると、翌年末に明らかになった宗門の謀略を見下ろしながら、先生の平和建設は、文明間、宗教間に対話の橋を架け、よりスケールを大きくしていった。

 80年代から90年代にかけて会見した国家元首・指導者には、統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領、南アフリカのマンデラ大統領、キューバのカストロ議長、インドのラジブ・ガンジー首相、シンガポールのリー・クアンユー首相、マレーシアのマハティール首相らがいる。

 またアメリカ公民権運動の母ローザ・パークス氏、音楽家のユーディー・メニューイン氏、科学者のライナス・ポーリング博士、経済学者のガルブレイス博士らと交友を結んだ。

 とりわけ、池田先生の逝去の際、内外のメディアで大きく報じられたのが、ソ連元大統領のミハイル・ゴルバチョフ氏との友情である。

 ゴルバチョフ氏とは、90年(同2年)7月27日、モスクワのクレムリンで初会見。

 氏は疲弊する社会の立て直しを図る「ペレストロイカ(改革)」を断行。前年12月、マルタでの米ソ首脳会談で冷戦終結を宣言し、ソ連の初代大統領に就任していた。

 先生は開口一番、「きょうは、大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう! 人類のため、日ソのために!」と。

 大統領は、思わぬ一言に、にっこり笑って応じた。

 「わかりました。やりましょう!」

 語らいは白熱し、ペレストロイカの現状や意義、青年への期待などを巡って、1時間以上に及んだ。

 会見で大統領は語った。「ペレストロイカの『新思考』も、池田会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」

 さらに大統領は翌年春の訪日の意向を明言し、日本でもこの発言が、その夜のトップニュースとして報じられた。

 約束通り、翌91年(同3年)の4月、ソ連の国家元首として初の訪日を果たした大統領は、過密スケジュールの合間を縫って、先生と再会。

 大統領辞任後も、家族ぐるみの交流は続き、対談集『20世紀の精神の教訓』を発刊。計10度会談した。創価大学には、周恩来総理夫妻との友情を記念する「周桜」「周夫婦桜」と共に、ゴルバチョフ氏夫妻が先生ご夫妻と植樹した「ゴルバチョフ夫婦桜」が咲き誇っている。

 

生も歓喜 死も歓喜

 指導者や識者との語らいとともに、池田先生が力を注いだのが、大学や学術機関での講演だった。

 なぜか。「人類は、大学において一致できる。融合できる。学問は国家を超え、体制を超え、民族を超えるからだ」と先生は記している。

 アメリカ屈指の名門・ハーバード大学では2度講演した。91年(同3年)9月の初講演が「ソフト・パワーの時代と哲学」をテーマとしたのに対し、93年(同5年)9月の2度目の講演は「21世紀文明と大乗仏教」と題し、仏法の生命観、生死観を真正面から論じた。

 戦争など現代文明の混迷の根っこには、死を避け、死を忘れた人間の傲慢さがあり、大乗仏教が説く「生も歓喜、死も歓喜」の哲理に触れながら、生命尊厳と「開かれた対話」をもとにした人類文明の建設を展望した。

 約40分の講演を終えると、会場を深い感嘆のため息と大拍手が満たした。

 以後も先生は、モスクワ大学(2度目)、イタリアのボローニャ大学、米コロンビア大学、キューバのハバナ大学、インドのラジブ・ガンジー現代問題研究所などで、人類の宿命転換に向けた、壮大な人間主義のビジョンを提示し続けていった。

 

永遠に平和の道を

 先生は70歳を迎えた98年(同10年)1月、随筆に記した。

 「ここに、六十歳以降の、わが人生の歩みと推測を記せば、たとえば、次の如くなる哉。 

 七十歳まで……新しき人間主義の哲理を確立

 八十歳まで……世界広布の基盤完成なる哉

 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」

 今、核兵器の問題、民族対立、気候危機など、古くて新しい課題が我々の前に立ちはだかっている。

 だが、その解決のための方途と原理は、池田先生の声と対話と行動の中に全て示されている。あとは、後継の青年のアクション――行動に託されている。

 


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2023年11月22日

〈特集 師弟の力はかくも偉大 池田先生の95年〉

第3回

世界に続く励ましの道

 

「妙法という平和の種を蒔く尊い一生を!

 私もそうします」

 

一人の人間の蘇生と歓喜から

   

 池田先生の巨大な足跡を特集する「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」の第3回は、「世界に続く励ましの道」。創価の連帯がいかにして192カ国・地域へと広がったのか。その軌跡をたどる。

 

恩師の言葉を胸に

 すでにその会場には、51カ国・地域の代表158人が集まっていた。グアムの空港から程近い、白亜の国際貿易センタービルに池田先生ご夫妻が姿を現したのは、1975年(昭和50年)1月26日の午前11時過ぎである。SGI(創価学会インタナショナル)の発足となる「世界平和会議」が行われようとしていた。

 先生は入り口に置かれていた署名簿の前へ。ペンを手に取り、氏名を記すと、国籍の欄にはこう書いた。「世界」――と。万人の平等と尊厳を説いた仏法の眼から見れば、国や民族の違いなどない。池田先生の胸中には、恩師・戸田城聖先生が生前に示した「地球民族主義」という言葉が響いていたのである。

 会議の席上、SGI会長に就任した池田先生は訴えた。

 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」

 賛同と決意の大拍手が鳴り響く。参加者の誰もが知っていた。今この場に自分が妙法を持ち集った事実それ自体こそ、先生が第3代会長就任以来、各国に励ましの種を蒔いてきた証しであることを。

 

負けてはいけない

 「世界広布」という文字が初めて、見出しとして聖教新聞紙上を大きく飾ったのは、60年(同35年)10月5日付1面だった。先生が羽田の東京国際空港から初の平和旅に出発した3日後のことである。

 渡航がまだ珍しい時代。海外の会員数もわずか。“世界”の実感が乏しい当時の日本の同志が、どれほど胸を躍らせたか。国内で先生が巻き起こしてきたような折伏弘教の旋風が、いよいよ海外でも――そんなイメージを抱いた友もいたに違いない。しかし先生が何よりも重視したのは、まず「話を聞く」ことだった。行く先々での座談会は主に、会員からの質問に耳を傾ける形で行われたのである。

 ハワイ・ホノルルでの座談会で「日本に帰りたい」と言った、東北生まれの若い女性がいた。朝鮮戦争に従軍した米兵と結婚。夫の郷里であるハワイへ移り住む。だがそこに、夢見た生活はなかった。言葉の壁、経済苦、夫の暴力……。女性は「どうしていいのか、分からないんです」と肩を震わせて泣きじゃくる。会場には似たような境遇の女性がほかにもいて、涙を誘われるように嗚咽がもれた。

 先生は大きく頷き、静かに語った。「毎日、苦しい思いをしてきたんですね。辛かったでしょう。……でも、あなたには御本尊があるではありませんか。信心というのは生き抜く力なんです」。さらに仏法の「宿命転換」の法理を通して真心の励ましを重ね、こう結んだのである。「あなたが幸せになることは、あなた一人の問題にとどまらず、このハワイの全日本人女性を蘇生させていくことになるんです。だから、悲しみになんか負けてはいけません」

 サンフランシスコにも同様の女性たちが。ここでも先生は話に耳を傾け、渾身の励ましを送った。そして「市民権を取得し、良き市民に」「自動車の運転免許を取る」「英語のマスター」という三つの指針を示したのである。どこか遠くに理想を求めるのではない。現実社会に根を張り、今いる場所で信頼と幸福をつかむ生き方をと望んだのだ。

 

「あなた」が大切

 ブラジルの座談会でも、先生は「自由に何でも聞いてください。私はそのために来たんです」と気さくに呼びかけた。農業移民の壮年が「不作で借金を抱え、どうすればいいか……」と尋ねると、先生は反対に「肥料に問題は?」「土壌と品種との関係は?」と一つ一つ質問。「仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません」と、仏法者の在り方を懇切丁寧に伝えた。

 先生がアメリカ、カナダ、ブラジルの9都市を巡る中で友に強調したのは、「布教に努めよう」「会員数を増やそう」といったことではない。「あなたが幸福になることが大切だ」「あなた自身が信仰を貫くことこそ大切なのだ」と訴え続けたのである。

 平和旅は、生きる希望を失った友や、現実の課題と格闘する同志の心に“勇気の灯”を点じることから始まった。「それは、およそ世界の平和とはほど遠い、微細なことのように思えるかもしれない。しかし、平和の原点は、どこまでも人間にある。一人ひとりの人間の蘇生と歓喜なくして、真実の平和はない」(小説『新・人間革命』第1巻)

 先生のこの信念と行動は、ほかの国や地域での激励行においても変わらなかった。

 3カ月後の61年(同36年)1月28日から香港、スリランカ、インド、ミャンマー、タイ、カンボジアへ。さらに同年10月4日からは欧州のデンマーク、ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアを駆けた。

 まだ学会員が一人もいない国でも、大地に染み込ませるように題目を胸中で唱え続けた。“やがて、地涌の菩薩が必ず出現するように!”と。

 62年(同37年)1月には中東訪問、64年(同39年)には東欧・北欧へ。75年(同50年)のSGI発足までに、先生は36カ国・地域に「励ましの種」「広布の種」「平和の種」を蒔いていったのである。

 

「妙法という平和の種を蒔く尊い一生を! 私もそうします」

わが“勲章”は皆さんが幸せになること

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「センセイ! 広宣流布は私たちに任せてください!」――本年9月、SGI青年研修会で来日した44カ国・地域のリーダーらが誓いのカメラに(東京・信濃町で)

  

嵐を越えて

 いずこにも、広布が容易に伸展した所など一つもない。むしろ困難の連続であった。

 太平洋戦争で日本の侵略に遭ったアジアでは、“日本の宗教”というだけで、偏見や誤解から非難の嵐が吹き荒れた。台湾では1963年(昭和38年)に学会組織への解散命令が出され、64年(同39年)には韓国政府が「布教禁止」措置を取り、学会は“反国家的な団体”との烙印を押されてしまう。

 中南米各国では60~70年代に軍事政権が次々と樹立。集会が制限されるなど非常事態の中での活動が続き、池田先生の訪問もままならない。

 先生は各国・各地のリーダーに伝言を贈り、手紙を書いた。来日する友がいると聞けば時間をこじ開け、懇談の機会を持ち、一期一会の思いで励まし続けた。

 「焦らなくていい。私が付いているから大丈夫だ」と大きく包み込む時もあれば、青年にあえて「まず、5年間、退転せずに頑張りなさい。今は苦しみなさい。本当の師子にならなければ、広宣流布などできない!」と学会精神の真髄を打ち込むことも。一貫していたのは「この人を奮い立たせよう! この人を不幸にさせてなるものか!」との熱情である。

 東西冷戦下にあって、先生は海外の同志に「政治体制に左右されてはならない」とのメッセージを繰り返し発信し続けた。81年(同56年)、まだ東西が分断されていたドイツで、SGIの存在理由を語っている。

 「資本主義も行き詰まっている。社会主義も行き詰まっております。しかし、私どもは、それぞれの体制をうんぬんしようというのではない。どんな体制の社会であろうが、そこに厳として存在する一人一人の人間に光を当てることから、私たち仏法者の運動は始まります」

 各国・各地で一人また一人と同志が立ち上がり、良き市民として社会貢献を重ねた。SGIへの共感と信頼は年々歳々、その水かさを増していく。池田先生のリーダーシップをたたえ、名誉市民証を贈る自治体や名誉学術称号を授与する大学が相次いだ。

 87年(同62年)2月、先生はドミニカ共和国の国家勲章を受章。メンバーが集った会合で、その真情を伝えた。

 “できるなら、この勲章のメダルを細かく分けて、一人一人に差し上げたい。皆さんは本当に苦労してきたのだから”――そして、こう語ったのである。「皆さん方が幸福になることが大事なんだよ。勲章をいただいたら、皆さんがこの国で学会活動しやすくなる。学会員が幸せになることが私の勲章だ」

 

新時代の山本伸一

 学会破壊を画策した邪宗門の鉄鎖を断ち切り、「創価ルネサンス」の飛翔を開始した1993年(平成5年)――先生は北・南米やアジアの地を足かけ3カ月にわたり訪問する激務の中で、「限りある命の時間との、壮絶な闘争」と位置付けた執筆の戦いを開始する。同年8月6日に起稿した小説『新・人間革命』の連載である。

 第1巻は主人公である山本伸一が、恩師・戸田城聖先生から託された「君は世界に征くんだ」との夢を胸に、広布旅へと出発する場面から幕を開ける。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」と――。

 小説は各国語に翻訳され、世界中の同志にとって“信心の成長の糧”となっていく。池田先生と直接の出会いを結んだことのない青年たちも、先生の平和闘争を学び、心で師匠と対話をしながら、「私が21世紀の山本伸一に!」と誓い、広布に駆けた。

 連載の開始時、115カ国・地域だった創価の民衆の連帯は、192カ国・地域に。2018年(同30年)8月6日に全30巻の脱稿を経て、“新時代の山本伸一”の陣列はさらに拡大し、海外の同志は今や300万人に及ぶ広がりとなっている。

 世界五大州から寄せられる創価の平和・文化・教育運動への称賛の声も、やむことがない。かつて弾圧にさらされた台湾SGIは行政院内政部から、顕著な社会貢献を果たした宗教団体として「宗教公益賞」を21回連続で受賞。韓国においても、各自治体・諸機関から池田先生ご夫妻への顕彰が相次いでいる。

 16年(同28年)7月には、イタリア創価学会仏教協会とイタリア共和国政府との間で結んだインテーサ(宗教協約)が発効。また本年、ドイツSGIが州政府から「公法社団法人」に認可され、「ドイツ創価学会」として新たに出発した。

 ――本年9月、研修会で来日した44カ国・地域の青年をはじめ全世界の同志に、先生はメッセージで呼びかけた。

 「限りなく伸びゆく世界の“山本伸一”たちと共々に、地球民族の宿命転換を」

 先生がその生涯において蒔いた「妙法という平和の種」は、訪問した54カ国・地域だけにとどまらない。“分身の生命”たる不二の宝友たちとの師弟共戦によって、まさに名実共に全世界に蒔かれ、地涌の人華を咲かせている。


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2023年11月21日

〈特集 師弟の力はかくも偉大 池田先生の95年〉

第2回

民衆凱歌へ不惜の激励行

 

どこまでも「一人」のために

全国の同志と結んだ共戦の絆

 

“庶民の海”に飛び込んだ

 

牧口先生生誕の地・新潟、戸田先生との思い出深き長野。信越は師弟に生き抜いた池田先生の魂が刻まれている。会長辞任直後の夏、長野研修道場で未来部の友を励ます(1979年8月)

   

 池田先生の巨大な足跡を6回にわたって特集する「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」。第2回は「民衆凱歌へ 不惜の激励行」と題し、第3代会長就任以来、北は北海道・稚内から南は沖縄・石垣島まで、日本全国の津々浦々に刻まれた同志との励ましのドラマを追う。

 

青年会長の誕生

 1960年(昭和35年)5月3日の午前10時半過ぎ。池田先生が車から降り立った。場所は東京・両国の日大講堂(当時)。黒のモーニングは戸田城聖先生の形見である。

 第3代会長就任式は正午に開会した。音楽隊による学会歌の演奏が轟く中、池田先生が入場。途中、先生は歩みを止め、前方に高く掲げられた戸田先生の遺影を見上げた。

 壇上に立った池田先生は、力強く第一声を放った。

 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」

 参加者は、場内外で2万余人。雷鳴のような拍手が包む。全同志が待ちに待った、32歳の青年会長の誕生であった。

 席上、池田先生は、戸田先生の遺言である300万世帯を、4年後の七回忌までに成し遂げようと呼びかけた。

 これは、「第五の鐘」の具体的な目標となった。

 

「七つの鐘」構想

 7年ごとに広布前進のリズムを刻む「七つの鐘」――池田先生がこの構想を発表したのは、戸田先生の逝去から1カ月後の1958年(昭和33年)5月3日。当時、一部マスコミは「壊滅寸前の創価学会」などと書き立てていた。

 そうした中、悲しみに沈む同志にどうやって希望を送ればいいのか。池田先生はただ一人、思索を深めていた。

 当時の日記には、こう記されている。

 「ひとり二十年後の学会を、考えゆく。心労あり。苦衷あり」(4月30日)

 そして、5月3日の「七つの鐘」構想の発表となる。

 これは、戸田先生が生前、「7年を一つの区切りとして広宣流布の鐘を打ち、『七つの鐘』を打ち鳴らそう!」と語っていたことから、池田先生が着想したものであった。

 「第一の鐘」は、30年(同5年)の学会創立から創価教育学会が正式に発足した37年(同12年)までの7年。

 「第二の鐘」は、44年(同19年)の牧口常三郎先生の逝去までの7年。

 「第三の鐘」は、51年(同26年)の戸田先生の第2代会長就任まで。

 「第四の鐘」は、戸田先生が生涯の願業であった会員75万世帯を成就し、逝去するまでの7年である。

 その上で、我らは、このリズムのままに7年また7年、未来を見据えて「第五の鐘」「第六の鐘」と勇気と確信をもって進み、「第七の鐘」が鳴り終わる21年後を目指して戦おうとの宣言である。

 この壮大な指標は、同志が前を向く力となった。

 そして学会は「第五の鐘」の目標である300万世帯を62年(同37年)に達成。「第六の鐘」で750万世帯を突破し、「七つの鐘」が鳴り終わる79年(同54年)には、日本の広布の基盤が完成する。

 

一期一会の励まし

 「学会がここまで発展してきたのは、なぜでしょうか」

 ある識者の質問に、先生は「一人を大切にしてきたからです」と答えている。

 それは、池田先生の人生そのものであった。

 先生は未来への指標を示すだけでなく、全同志が幸福勝利の人生を歩めるよう、渾身の励ましを送った。民衆凱歌の時代を切り開くため、一人一人と共戦の絆を結んだ。

 1965年(昭和40年)3月22日、宮城・仙台市で地区部長会が開かれた後のこと。その日、先生の手は赤く腫れ上がっていた。約600人の参加者全員と、2時間にわたって握手したのだ。手に痛みが走り、万年筆を握ることすらできなくなった。

 8日後には、長野の地区部長会が予定されていた。

 “生涯の原点となる出会いをつくってあげたい”

 その一心で握手に代わる激励として考えられたのが、記念撮影だった。

 のちに、先生はこうつづっている。「できうるならば、全国の地区の柱として立つ、壮年・婦人・男子・女子・学生の中心者の方々全員と握手をして、励ましたい。しかし、それは、時間的にも次第に困難になっていった。そこで智慧を絞り、せめてもの思いで発案した」

 本紙記者の調べによると、先生が65年からの8年3カ月で記念撮影した相手は、少なくとも延べ71万8550人に及ぶことが分かっている。

 それも、ただ写真に納まるだけではない。“もう会えないかもしれない”との一期一会の思いで撮影の合間に真心の声をかけ、一人一人の悩みにも耳を傾けた。高熱を押して出席したこともあった。何回もフラッシュを浴び、目を痛めることも。まさに不惜身命の激励行だった。

 72年(同47年)7月14日、岩手県営体育館では12回に分けて3600人との記念撮影を行った。疲労困憊で、出された食事も喉を通らない。それでも時間になると力強く立ち上がり、同志のもとへ駆け寄った。

 この日、撮影を終えた先生は盛岡の会館に向かい、かつて小学生たちと交わした“約束”を果たしている。

 きっかけは、先生のもとに将来の夢などがつづられた子どもたちの手紙が届けられたこと。その時、先生は“岩手に行った時に会いましょう”と伝言していたのだ。

 会館に着いた子どもたちを「よく来たね」と出迎え、本の見返しに励ましの言葉を認めた書籍を贈っている。

 

どこまでも「一人」のために 全国の同志と結んだ共戦の絆

進もう! 友に希望を送りつつ

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雪空の下、勝ち鬨が響いた。逆境の友を励まそうと、冬の秋田に舞い降りた師の真心を東北の同志は忘れない。「心の宝」は永遠に崩れない(1982年1月、秋田市内で)

   

「もう心配ないよ」

 第1次宗門事件の嵐の中の1979年(昭和54年)4月24日、池田先生は宗門僧の理不尽な攻撃に終止符を打ち、会員を守るために一切の責任を負って第3代会長を辞任。師弟分断を画策した悪侶と反逆者らは、先生に“会合で指導してはいけない”“聖教新聞に出てはいけない”と押しつける一方、かさにかかって学会を攻撃し、同志を苦しめていた。

 この79年のある日、神奈川文化会館で会合が行われた。その声を会場の外でじっと聞いていた先生は、会合の進行を妨げないよう、会場前方の扉から、そっと入場した。

 先生の姿に気付いた友が、歓呼の声を上げる。すると、先生は「私は話してはいけないことになっているから」と口に人さし指を当てた。

 そして、会場内にあるピアノの方へ。「熱原の三烈士」「厚田村」など数曲を弾くと、静かに会場を後にした。

 この頃、同会館で幾度となく見られた光景であった。

 この第1次宗門事件で、大分は、悪侶の圧迫に最も苦しんだ地域の一つである。寺に行くたびに聞かされるのは、先生や学会への悪口ばかり。同志は歯を食いしばり、理不尽に耐えに耐えた。

 先生は、81年(同56年)秋から本格的な反転攻勢を開始した。“最も苦しんだ同志のために”と12月12日、大分・竹田市の岡城址を訪れている。

 「もう心配ないよ!」

 駐車場に降り立った池田先生のもとに駆け寄る学会員の安堵の表情、そして涙……。

 その場に居合わせた未入会の友がいる。当時、学会が大嫌いだった。妻に「この日だけは」とお願いされて参加したものの、「宗教の指導者なんて、どうせ威張り散らしているんだろう」と決めつけていた。しかし、先生の振る舞いを目の当たりにし、3カ月後に信心を始めている。

 その友は、先生の姿をこう振り返る。「庶民の海の中に飛び込んでいくようでした」

 この出会いの後、先生は語った。「会った人も大事だが、会わなかった人は、もっと大事だ」「旅の無事を祈り、真剣に題目をあげ続けてくださったんだ。その方々と、私は心で会った。その方々のおかげで、学会は勝ったんだ」

 先生の心は、いつも、苦しんでいる友のもとへ飛んだ。

 2000年(平成12年)2月29日には、兵庫・長田文化会館を訪問。集い合った友と勤行した。

 会場には、「阪神・淡路大震災」で最愛の父と子を失った友もいた。生き埋めの中で九死に一生を得た友もいた。

 この時、先生は力強い励ましを送っている。

 「人生は戦いです。幸福になるための戦いです」「どうか朗らかに! 朗らかな人には、だれもかなわない。そして忍耐をもって生き抜いていただきたい」

 この言葉は、今も同志の前進の力となり、師との誓いとなっている。

 

広布の大ロマン

 全国の友に希望の灯をともし続けてきた池田先生は折に触れ、21世紀が開幕する2001年(平成13年)の5月3日から第二の「七つの鐘」を打ち鳴らすことを念願してきた。

 1997年(同9年)5月には、関西で23世紀後半までの壮大な新しい「七つの鐘」の構想を示している。

 第二の「七つの鐘」となる21世紀前半の50年では、

  アジアをはじめ世界の平和の基盤を築き、

 第三の「七つの鐘」となる21世紀後半では

  「生命の尊厳」の哲学を時代精神、世界精神へと定着させる。

 第四の「七つの鐘」となる22世紀前半には、

  世界の「恒久の平和」の崩れざる基盤をつくる。その基盤の上に、

 第五の「七つの鐘」となる22世紀後半には

 絢爛たる人間文化の花が開き、それが実現すれば

 第六の「七つの鐘」、第七の「七つの鐘」と進み、

 日蓮大聖人の立宗1000年(2253年)を迎える23世紀の半ばごろから、新たな展開が始まるであろう――と。

 現在は第二の「七つの鐘」の前進の途上にある。

 先生はこの鐘が鳴り終わる

 学会創立120周年(2050年)を展望し、こうつづっている。

 「その時、仏法の人間主義の哲学が、どれほど世界を照らす太陽と輝き、我ら創価の大連帯が、どれほど人類の平和の柱と仰がれていることか。私の胸は熱くなる」

 この広布の大ロマンはつまるところ、

 「一人の励まし」に徹し抜く行動によってのみ実現する。

 その方程式は全て、池田先生の行動の中に示されている。

 


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2023年11月20日

〈特集 師弟の力はかくも偉大 池田先生の95年〉

 

第1回

戸田門下生の誉れ

 

運命的な出会いから広布の幕は開いた

再び、次の建設に進む

 前へ、前へ、永遠に前へ

 

 95年で幕となった池田先生の人生。それは、妙法の師弟の道に徹するとき、人はここまで偉大になれると、証明した人生であった。その巨大な足跡を6回にわたって特集する。題して「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」。

 その第1回は「戸田門下生の誉れ」。恩師との出会いから第3代会長就任までの、死身弘法の青春時代を描く。

 

大樹を求めて

 それは、一人の人間革命を基軸として世界平和の建設に貢献する、未曽有の民衆運動が胎動を告げた瞬間だった。

 1947年(昭和22年)8月14日、池田先生は戸田先生と運命的な邂逅を果たした。

 この日、池田先生は小学校時代の同級生に誘われて、東京・大田区での座談会に参加。会場に到着すると、戸田先生が「立正安国論」の講義をしていた。

 戦後の荒廃した社会の中で、「正しい人生」を求めていた19歳の池田先生は、恩師の人格に触れて、「我、この師に続かむ。我、この道を進まむ」と、人生を賭して師事することを決めた。特に池田先生が深く感動したのは、恩師が日本の軍国主義と戦い、獄中闘争を貫いたことだった。

 座談会の場で、池田先生は感謝の即興詩を詠じた。

 「旅びとよ いずこより来り いずこへ往かんとするか」「嵐に動かぬ大樹求めて われ 地より湧き出でんとするか」

 法華経に説かれる「地涌の菩薩」を連想させる詩を聞いた恩師は、にっこりほほ笑んだ。10日後の8月24日、池田先生は入信。「人間革命」即「世界平和」のドラマが幕を開けた。

 

窮地の中での構想

 1949年(昭和24年)1月3日、池田先生は戸田先生が経営する出版社・日本正学館に初出社。少年雑誌「冒険少年」(後に「少年日本」と改題)の編集に携わり、5月、編集長となる。

 だが、戦後の経済不況の影響で、同年10月に、「少年日本」の休刊が発表された。

 恩師は再起を図って、信用組合を設立する。だが50年(同25年)8月、業務停止が決定。池田先生は日記に記した。「私は再び、次の建設に、(戸田)先生と共に進む。唯これだけだ。前へ、前へ、永遠に前へ」

 池田先生の入信3周年の同年8月24日、恩師は学会の理事長辞任の意向を発表した。

 手のひらを返したように、恩師を罵倒し、去っていく人間もいる中で、池田先生はただ一人、恩師を支え抜いた。

 絶体絶命の窮地の中で、戸田先生は池田先生に、聖教新聞の創刊や大学の設立の構想を語っている。

 この50年の秋から、戸田先生は、池田先生を中心に、何人かの代表に御書講義を開始した。翌年2月からは、古今東西の名著などを題材とした講義も行う。日曜日の講義は、池田先生への学問百般にわたっての個人教授となった。

 この「戸田大学」の講義は、57年(同32年)まで続いた。先生は後に、数多くの大学・学術機関から名誉学術称号を受章する。「すべては戸田大学の薫陶の賜物」と、恩師への深き感謝を述べている。

 

苦楽を分けあう縁

 信用組合の整理は、至難を極めた。戸田先生は一部の債権者から告訴され、逮捕されかねない状況だった。

 だが、1951年(昭和26年)2月、事態が好転する。組合員の総意がまとまるなら、信用組合を解散してもよいという通達が、大蔵省(当時)から届いたのである。

 同年3月11日、信用組合は解散。この日の創価学会の臨時総会で、恩師は宣言した。

 「一国広宣流布の秋は今であります。既に、東洋広宣流布の兆しも現れた。仏勅を被った創価学会の闘士こそ、先陣を切って進むべき時が、遂に来たのであります」

 恩師の師子吼に、池田先生は歓喜し、同志と共に対話に駆けた。そして、自らの先駆の弘教で、5月3日、戸田先生の第2代会長就任を荘厳したのである。

 戸田先生は記念写真の裏に和歌をしたためて、池田先生に贈った。

 「現在も 未来も共に 苦楽をば 分けあう縁 不思議なるかな」

 

運命的な出会いから広布の幕は開いた

恩師の構想を叫び、達成する

それが、私のこの世の使命だ

  

弟子の証し

 第2代会長就任式の席上、戸田先生は「75万世帯の弘教」を宣言した。

 当時の会員数は約3000人。“戸田先生は長生きされるのだろう”と考える幹部もいたほど、誰もが“夢物語”と捉えた。

 広布は遅々として進まなかった。1951年(昭和26年)12月の弘教は、全国で466世帯。75万世帯は、はるか遠い未来だった。

 その「壁」を破ったのが、池田先生である。翌52年(同27年)1月、蒲田支部の支部幹事の任命を受けると、2月には1カ月で支部201世帯の弘教を達成。ここから、学会は勢いを増して前進する。

 53年(同28年)は学会の歴史の中にあって、一段と弘教が加速した年。5万世帯の弘教を年間目標として掲げ、それを達成したのである。

 この拡大の原動力となったのも、池田先生の戦いだった。同年1月、先生は男子部の第1部隊の部隊長に就任。1年間で3倍の人材拡大を成し遂げた。4月には文京支部の支部長代理に。低迷する同支部を第一級の支部へと躍進させた。

 その後も、先生は各地で「弟子としての勝利の証し」を打ち立てていく。55年(同30年)8月、札幌を舞台に10日間で388世帯という全国一の拡大を達成。翌56年(同31年)5月、大阪で支部1万1111世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てる。7月には、“まさかが実現”と世間を驚嘆させる大逆転劇を飾った。

 同年10月からは山口で指揮を執り、延べ22日間で当時の世帯数を約10倍に拡大した。

 

人権闘争の誓い

 民衆の幸福と世界の平和を建設する、SGIの新しきヒューマニズム運動は今、地球を包む。

 その大潮流をもたらす源泉は、牧口先生、戸田先生の獄中闘争とともに、1957年(昭和32年)に起こった「大阪事件」での、池田先生の人権闘争の誓いにある。

 同年7月3日、先生は公職選挙法違反という事実無根の容疑で不当に逮捕・勾留される。4年半に及ぶ法廷闘争の末、62年(同37年)1月25日、正義は証明された。

 先生は「大阪事件」の構図や背景、その事件が学会の歴史において、どのような意味を持っているか、ということについて、小説『人間革命』第11巻に詳細に書き残した。

 第11巻が本紙で連載終了を迎えたのは、91年(平成3年)10月。翌月、学会は日顕宗から「魂の独立」を果たす。そして、92年(同4年)を「創価ルネサンスの年」と定め、世界宗教としての飛翔を開始した。

 先生は「第十一巻に記した広布の軌跡は、やがて、この『創価ルネサンス』の大河の流れを形成する、渓谷を走る奔流の時代であったとの感を深くしている」と。57年の「大阪事件」の軌跡は、35年後の「創価ルネサンスの年」、さらには現在までの世界広布の流れを決定づけたのである。

 

魔性を破る闘争

 「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」

 1957年(昭和32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の「若人の祭典」の席上、第2代会長・戸田先生の烈々たる師子吼が轟いた。

 「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」

 当時、世界は東西冷戦下にあり、「核抑止論」のもと軍拡競争がエスカレート。核実験が繰り返されていた。

 人類を一瞬で滅ぼす核兵器を廃絶するため、戸田先生は青年への“遺訓の第一”として、「原水爆禁止宣言」を発表したのである。

 生命尊厳を第一義とする仏法者として、恩師は死刑制度には反対だった。それでも、あえて「死刑に」と強調したのは、原水爆を保有し、使用したいという人間の“己心の魔性”を絶対悪と断じるためである。

 宣言の発表から2カ月後の同年11月、戸田先生は広島訪問を予定していた。だが、すでに体の衰弱は激しく、出発の日の朝、自宅で倒れてしまう。池田先生は、当時のことをこう振り返っている。

 「(戸田)先生の被爆地・広島への思いは、いかばかりであったろうか。核兵器という『サタン(悪魔)の爪』に破壊された広島へ、命と引きかえで出発する覚悟だった」

 「生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった」

 戸田先生は、原水爆禁止宣言をテーマにした女子部総会に出席する予定だった。総会には、恩師の名代として、池田先生が出席し、宣言の精神の継承を呼びかけた。

 池田先生は生涯にわたって宣言の精神を、世界の識者との語らいや平和提言などで訴え、核兵器廃絶の実現に全精魂を注いだ。

 宣言の発表から60周年の2017年(平成29年)、国連で122カ国の賛同を得て「核兵器禁止条約」が採択。21年(令和3年)、50カ国の批准を得て発効した。

 

宗教界の王者

 1958年(昭和33年)3月、戸田先生は池田先生に、「将来のために、広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしようじゃないか!」と語った。

 式典は3月16日、全国から男女青年部6000人が集って開かれた。

 当時の首相が来訪する予定だったが、周囲からの横やりで実現しなかった。戸田先生は“青年たちとの約束を破るのか”と憤るも、「青年と大儀式をやろう」と決断した。

 前年12月、生涯の願業である75万世帯の弘教を達成した恩師は、すでに革靴が履けないほどの状態だった。それでも、“創価学会は宗教界の王者である”と宣言し、後事の一切を青年に託した。

 「3・16」の後、戸田先生は池田先生に「追撃の手をゆるめるな」と強調した。学会の前進を攪乱し、阻もうとする勢力には一歩も退くことなく、徹底して戦い抜くことを厳命したのである。池田先生は、この遺言を青年部、さらには学会の厳訓として、繰り返し語った。

 58年4月2日、戸田先生は58歳で死身弘法の崇高な生涯の幕を閉じた。同年4月29日、先生はペンを走らせた。

 「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」 

 

不二の心で

 戸田先生の逝去後、世間は「学会は空中分解する」などと中傷した。批判の嵐が激しくなるほど、先生は戦う魂を燃え上がらせた。

 「私の一生は、戸田先生の遺言ともいうべき構想を、叫び、戦い、達成することだ。これだけが、私のこの世の使命だ」(1958年7月6日の日記)

 恩師亡き後、恩師と不二の心で、池田先生は広布の一切の責任を担い、友に励ましを送り続けた。

 1960年(昭和35年)5月3日、創価学会第3代会長に就任。恩師の広布の構想実現のために、世界を駆け巡っていく。

 池田先生は述べている。

 「皆様が『師弟』の精神を護っていけば、必ず素晴らしい指導者が湧き出てくる」

 「その未来を、私は確信している」

 

戸田城聖先生の元で、「冒険少年」「少年日本」の編集長を務め、奮闘していた若き日の池田先生

「現在も 未来も共に 苦楽をば 分けあう縁 不思議なるかな」

池田先生と戸田先生が力強く学会歌の指揮を執る(1958年3月、静岡で)


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2023年12月2日

池田先生をしのび 世界の識者から追悼の声

 

 池田先生をしのび、届けられた弔意の一部を紹介する(順不同)。

 

 天文学者 チャンドラ・ウィックラマシンゲ博士

 池田会長は生涯をかけて、人類に多大な貢献をされました。会長の存在がなければ、世界ははるかにすさんでいたでしょう。会長との出会いは私の人生のハイライトです。対談集(『「宇宙」と「人間」のロマンを語る』)は、世界と人類について考察した証しとして永遠に残ると確信しています。

 

 フィリピン・リサール協会 ヴィルヒリオ・エスグェラ元会長

 世界平和、人類の融和、国際化、環境保護主義など、池田博士の提言は、世界中の何百万もの人々に大きな影響を与えてきました。また、ホセ・リサール博士の精神の継承者として、世界のリーダーとして、愛や希望、正義などの価値を広めてこられました。その人生は多くの人々の生命と心に、いつまでも残り続けることでしょう。

 

 ◇ 

 ブラジルのフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ元大統領、エルサルバドルのマルタ・セラヤンディア元大使、クロアチアのサンドラ・ルエティック臨時代理大使、コロンビアのアンヘラ・ドゥラン臨時代理大使、パレスチナのワリード・アリ・シアム大使、ベネズエラのセイコウ・イシカワ大使、ラオスのフォンサムット・アンラワン大使、スックタボーン・ケオラ元大使、アメリカ・グアム準州のローデス・A・レオン・ゲレロ知事、ジョシュア・F・テノリオ副知事、ハンク・ジョンソン連邦下院議員、シンガポールのマサゴス・ズルキフリ社会・家庭振興大臣、オーストラリア首相内閣省のグリン・デイビス事務次官、カンボジアのプッ・チャムナン教育・青少年・スポーツ省筆頭長官、ラオスのブンティアム・ピッサマイ元首相府付大臣、ボーセンカム・ヴォンダラ情報文化観光省元大臣、中華全国青年連合会の万学軍元国際部長、中日友好協会の劉子敬理事、中国作家協会の李佩氏、広東省人民対外友好協会、広州市人民対外友好協会。

 教育・学術界からは、アメリカ・モアハウス大学キング国際チャペルのローレンス・カーター所長、ウクライナ・国立キーウ工科大学のミハイル・ズグロフスキー総長、カナダ・ラバル大学のサージ・タルボット学士課程元教務部長、スペイン・アルカラ大学のフランシスコ・ペーニャ名誉教授、アメリア・カロンヘ・ガルシア元教育学部長、カルロス三世大学のファン・ホセ・タマージョ名誉教授、ラ・ラグーナ大学のファン・ホセ・モレノ元教授、ディアス・デ・ベラスコ教授、スペイン国立通信教育大学のマリア・ノボ名誉教授、中国・清華大学の邱勇党委書記、北京師範大学の馬駿学長、東北師範大学の徐海陽学長、韓東育元副学長、同大学・歴史文化学院の董灝智院長、同大学・池田大作哲学研究所の王明兵所長、中国社会科学院の楊曽文栄誉学部委員、中国文化大学の陳泰然理事長、王子奇学長、上海財経大学の劉元春学長、マカオ大学の宋永華学長、台湾大学の黃婕伊氏、北京大学日本研究センター、佛山科学技術学院・池田大作思想研究所、井岡山大学・池田大作研究所、中央民族大学、肇慶学院、フィリピン国立カガヤン大学のウルドゥハ・アルバラード学長、ミンダナオ大学のギレルモ・トレス・ジュニア学長、フィリピン師範大学のバート・トガ学長、ブラジル・バレンサ大学理事会のジョゼ・ホジェリオ・モウラ・デ・アウメイダ・ネト会長、同大学・池田大作平和研究所のクレイソン・メロ所長、パライバ連邦大学のマルガレッチ・デ・ファチマ・フォルミガ・メロ・ジニス元総長、ホンドニア連邦大学のジョゼ・ジャヌアリオ・アマラウ元総長、州立ロンドリーナ大学のリジア・ルミナ・プパト元総長、ドン・ボスコ大学のドリバウ・アウメイダ理事長、ペルナンブコ農工連邦大学のマリア・ジョゼ・デ・セナ元総長、セルジペ連邦大学のアンジェロ・ロベルト・アントニオリ元総長、サンパウロ大学の二宮正人博士、ラオス国立大学のサヤマーン・ヴォンサック元副総長、「グローバル教育・学習のための学術ネットワーク」のダグラス・ボーン教授、マッシミリアーノ・タロッツィ教授、東京大学の市川裕名誉教授。

 また、ローマクラブのエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー名誉共同会長、ドイツのワイマール・ゲーテ協会のマンフレット・オステン顧問、国際ネットワーク「ストップ・キラーロボット(SKR)」コーディネーターのリチャード・モイス氏、アラブ首長国連邦のイスラム文化団体「シェア――文化と芸術の理解を目指すセンター」創立者のマリク・モハメッド氏、スペイン・ローマクラブのホセ・マヌエル・モラン副会長、スペイン首相府の外郭団体「多元性と共生」財団のイネス・マサラサ事務局長、スペイン仏教連盟のルイス・モレンテ会長、中国友誼促進会の陳智敏理事長、中国国家京劇院、掌門人正経塾、国家公務員局の呉安慶元処長、瀚華金控股份有限公司の呉迪理事長補佐、華人チャンネルジャパンの玉城理恵氏、フィリピンのヒラリオ・ダビデ最高裁判所元長官、ブラジル文学アカデミーのメルバル・ペレイラ総裁、パラナ中央南・文学・芸術・科学アカデミーのエルクラノ・バチスタ・ネト総裁、ブラジル日本文化福祉協会の石川レナト会長、ブラジル歴史地理院のアルノ・ウェリング総裁、フランス語版「御書」の総合監修者のデニス・ジラ博士夫妻、マレーシア芸術学院の駱麗芳学院長、マレーシア中央現代芸術研究院の黄振景主席から弔意が寄せられた。


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2023年11月29日

池田先生をしのび世界の識者から追悼の声

 

 パラオ共和国 トミー・レメンゲサウ前大統領

 「池田SGI会長が生涯をかけた平和への偉業は、世界を遠い未来まで照らし続けるでしょう。2002年6月に池田会長と初めてお会いした時のことを懐かしく思い出します。会長の遺志を継ぎ、多くの友人と共に、教育・文化を通じて平和を広げていきます。そして、会長からいただいた“環境の王者”との励ましを誇りとして、生涯をささげて、地球環境の保護を力強く進めていきます」

 

 ブルガリアの芸術史家 アクシニア・ジュロヴァ博士

 「池田先生は平和の闘争に身をささげた、全世代の“良心の代弁者”でした。偉大な人物が偉大であるのは、永遠に社会から遊離しないからです。その思想、著書、精神性は後世の人々の道を照らします。先生の記憶は私たちの中に生き続け、それぞれの責務を思い出させ、地球上の人道と正義のための闘争に力を貸してくれるでしょう」(スラヴ・ビザンティン研究所のヴァシャ・ヴェリノヴァ所長と連名)

 

 地球憲章インタナショナル ミリアン・ビレラ事務局長

 「池田博士の宗教間対話をはじめ、分野や世代を超えた協力への確固たる信念、そして若者を鼓舞する理念と積極的な行動は、全ての人の模範であり、励ましとなっています。持続可能で平和な世界の構築へのたゆまぬ努力と多大な功績を残されました。何より博士は『地球憲章』の起草過程において貢献され、地球憲章の前文にある“人類の発展とは、私たちが人間的により大きくなること”との考えを強く提唱されました。25年以上にわたる一貫した支援に深く感謝しています」

 

 聖エジディオ共同体 マルコ・インパリアッツォ会長

 「池田氏の平和を思い描く勇気、その実現のための積極的な努力、そして生命の尊厳を訴える言葉は、深く心に響いています。氏の哲学は、社会の変革に必要な内的変革を中核とし、全ての人間が本来持っている尊厳性を強調し、数多くの人々にインスピレーションを与えてきました。氏の遺された指針は、私たちを導く光となるでしょう」

 

 ◇ 

 マレーシアのマハティール・ビン・モハマド元首相、ウズベキスタンのムクシンクジャ・アブドゥラフモノフ駐日大使、タンザニアのバラカ・ハラン・ルヴァンダ駐日大使、トルクメニスタンのアタドゥルディ・バイラモフ駐日大使、パラグアイのラウル・フロレンティン=アントラ駐日大使、ルワンダのアーネスト・ルワムキョ駐日大使。

 また、マレーシアの青年スポーツ省のナグレンドラン・カンガヤカラス事務局長、ロシア・サハ共和国のニコライ・バラムイギン元第1外務副大臣、カナダのダグラス・ロウチ元上院議員、ロシアの「L・N・トルストイの屋敷博物館“ヤースナヤ・ポリャーナ”」のエカテリーナ・トルスタヤ館長。

 さらに、イギリスのバッキンガム大学のジェームズ・トゥーリー副総長(学長)、リチャード・ラングホーン名誉教授、マーチン・リケッツ名誉教授、ジェリー・ロフタス名誉フェロー、ジェイ・サンダラム法学部大学院長、ジュリアン・リチャーズ教授、インドのマーナブ・ラチャナ大学のプラシャント・バッラ総長、インドネシア大学のグミラル・ルスリワ・ソマントリ元学長、バンバン・ウィバワルタ元副学長、イ・クトゥット・スラジャヤ元事務局長、韓国の国立ソウル大学の金鍾瑞元副総長、慶南大学の朴在圭総長、国立江原大学の金憲榮総長、国立韓国交通大学の張炳輯元総長、建陽大学の金容夏総長、韓国外国語大学の朴庭運総長、慶熙学園の趙仁源理事長、慶熙大学「趙永植・池田大作研究会」の河暎愛会長、フィリピン大学のエメルリンダ・ローマン元総長、オリビア・ドミンゴ教授、キャピトル大学のカシミロ・フアレス学長、フィリピン師範大学のロウェナ・ヒバナダ教授、マレーシア・プトラ大学のサイド・ジャラルディン元副総長、ニュー・エラ大学学院の莫順宗副総長(学長)、文平強学術主任、マレーシア国際イスラム大学のズルキフリ・アブドゥル・ラザック学長、マレーシア公開大学のアヌワール・アリ元学長、マレーシア国民大学のモハマド・カシム副総長補、セランゴール大学のモハマド・オスマン副総長、マラヤ大学のガウス・ジャスモン元副総長、シンガポール経営大学のチャン・ワイ・レン副学長、ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所のイリーナ・ポポワ所長、同アカデミー哲学研究所のアブドゥサラム・グセイノフ所長代理、キューバのマルティ・プログラム研究所のエドゥアルド・トーレス・クエバス所長、エクトル・エルナンデス・パルド副所長、国際平和教育研究集会(IIPE)、東洋大学の子島進教授から弔意が寄せられた。


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2023年11月28日

池田先生をしのび世界の識者から追悼の声

 

 平和・文化・教育に貢献した池田先生をしのび、多くの識者から弔意が寄せられている。27日付に続いて、その一部を紹介する(順不同)。

 

 ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)

 メリッサ・パーク事務局長

 「池田会長の“世界から核兵器をなくす”という揺るぎない信念と決意は、世界の舞台に不朽の足跡を残しました。会長の平和提言に含まれる知恵と先見性は、核兵器の脅威のない世界の追求を粘り強く続けるよう、私たちを一貫して勇気づけてくださいました。会長の遺志は、SGIの継続的な活動と、提唱された理想への献身を通じて、間違いなく生き続けることでしょう」

 

 ブラジルの音楽家

 アマラウ・ビエイラ氏

 「池田大作先生と、長年にわたり友誼を結べたことを大変光栄に存じます。愛弟子の皆さんはこれまで以上に一致団結し進まれていくことでしょう。池田先生の民音は永遠です。素晴らしい事業を人生の使命として、目標を永続させていかれると確信します」

 

 ◇ 

 韓国の李寿成元首相、タイのアナン・パンヤラチュン元首相、ウルグアイのメルセデス・メナフラ・デ・バジェ元大統領夫人、ウズベキスタンのトゥルスナリ・クジーエフ元文化・スポーツ大臣、ドミニカ共和国のアルベルト・デスプラデル元駐日大使、韓国の権哲賢元駐日大使、ペルーのオスカル・マウルツァ・デ・ロマーニャ元外務大臣、中華全国青年連合会(全青連)、中国の劉徳有元文化部副部長、天津市人民対外友好協会の董英明秘書長、上海市人民対外友好協会、中国国際交流協会、インドネシア・ワヒド元大統領のシンタ・ヌリヤ夫人と長女のアリサ・コトルナダ氏と次女のイェニー・ワヒド氏、ワヒド財団、同国のモハマッド・ヌー元教育・文化大臣、ユニ・プルワンティ元青年・スポーツ大臣代理、プルノモ・ユスギアントロ元国防大臣、マレーシアの水・土地・天然資源省のゼイビア・ジャヤクマル前大臣、シンガポールのジャニル・プットゥチェリーGovTech担当大臣、同国のジョージ・ヨー元外務大臣、タイのウィーラ・ロートポッチャナラット元文化大臣、韓国の李相洙元労働部長官、ラテンアメリカ及びカリブ地域核兵器禁止条約機構のフラビオ・ホベルト・ボンザニニ事務局長、スロベニア外務省のブランカ・ヤムニシェック大使、イタリア・トスカーナ州のエウジェニオ・ジャーニ知事、フィレンツェ市のダリオ・ナルデッラ市長、同国のリボルノ市議会、パレルモ市のレオルカ・オルランド元市長、オーストラリア・グレンアイラ市のアラン・グロスバード元市長、韓国・城南市の申相珍市長、忠清北道の李始鍾元知事、平澤市の鄭長善市長、義王市の金成済市長、坡州市の李麟載元市長、鎮川郡守の宋起燮氏。

 教育・学術界からは、ロシア・モスクワ大学のビクトル・サドーヴニチィ総長、ボリビアの開発イノベーション大学のアントニオ・デ・チャサール総長、ペルーの国立サン・マルコス大学のオレステス・カチャイ元総長、ミゲル・アンヘル・ポロ教授、国立ピウラ大学・大学院シヒフレド・ブルネオ院長、同大学のエドウィン・ベガス元総長(ペルー科学情報大学総長)、エンリケ・グスマン・イ・バイェ国立教育大学のマヌエル・アレハンドロ・ソリス・ゴメス元総長、中国教育学会の顧明遠名誉会長、北京大学の郝平党委書記、龔旗煌学長、同大学・池田大作研究会の宋成有会長、同大学・日本語学科校友会の林江東副会長、清華大学の顧秉林元学長、同大学・外国語学院の馮峰教授、復旦大学・池田大作思想研究センターの王栄華理事長・胡令遠主任、河北大学の郭健党委書記、武漢大学の張平文学長・胡徳坤元副学長・葛建廷講師、華中師範大学の馬敏元学長、同大学・池田大作研究所の李俄憲所長、華東師範大学の銭旭紅学長、西安培華学院の姜波理事長、同学院の池田大作・香峯子研究センター一同、華僑大学の呉剣平学長、北京語言大学の段鵬学長、厦門大学・池田大作思想研究センター、吉林大学国際協力交流室、西南交通大学、陝西師範大学、南開大学の周恩来・池田大作研究会、北京師範大学・池田大作平和教育研究センターの高益民所長、湖南師範大学・池田大作研究所の冉毅副所長、広東外語外貿大学・池田大作思想研究所の陳多友副所長、南昌大学・マルクス主義学院の陳志興教授、肇慶学院・池田大作研究所の蒋菊副所長、広西師範大学、佛山科学技術学院、淮陰師範学院、鄭州昇達経済貿易管理学院の王新奇執行理事、湖北第二師範学院の郝春静講師、中国文化大学の林彩梅元学長、同大学・池田研究センターの李彦良教授、池田思想研究者の陶金氏・陳秀武氏・陳武元氏・崔学森氏・蔡立彬氏・曹剛氏・李芳氏・李海涛氏・孫妍氏・呉光輝氏・韋立新氏・張昌玉氏・張暁剛氏・張文良氏・周長山氏・曽建平氏ほか、ナイロビ大学のヘンリー・インダンガシ名誉教授、同大学のピーター・ワサンバ教授、ドイツの宗教学者のミヒャエル・フォン・ブリュック博士。

 また、中華全国婦女連合会、紫荊雑誌社、上海魯迅記念館、日本帰僑聯誼会の陳富美元会長、韓国・中央日報の高鉉坤社長、中央日報S社の鄭鐵根代表、ハンギョレ新聞のチェ・ウソン代表理事、朝鮮ニュースプレスの李東翰代表、世界テコンドー連盟の趙正源総裁、韓国芸術文化団体総連合会の李範憲会長、イタリア・フィレンツェ大司教区のジュゼッペ・ベトーリ枢機卿、インドの社会起業家で「マハトマ賞」創設者のアミット・サチデバ氏、マレーシア・全国作家協会連盟のザイナル・アビディン・ボーラン会長、インドネシア仏教協会のフィリップ・ウィジャヤ議長、シンガポール人民協会のジミー・トウ総執行理事長、シンガポール写真家協会のデイビッド・テイ前会長、フィリピンのホセ・アブエバ博士の長女・ロサナ・アブエバ氏と次女・ラネル・フェルナンド氏、リサール協会からも弔意が寄せられた。


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2023年11月27日

池田先生をしのび世界の識者から追悼の声

 

 池田先生の功績をたたえ、多くの弔意が寄せられている。23日付に続いて、その一部を紹介する(順不同)。

 

 マハトマ・ガンジーの令孫

 エラ・ガンジー博士

 「池田氏の哲学と、私の祖父であるマハトマ・ガンジーの教えには多くの共通点があります。氏の人生は私たち全員にインスピレーションを与えました。私は、長年にわたり、池田氏の人生と人間主義の思想に関する多くの大切な教訓を、SGIファミリーを通じて知り、理解する機会に恵まれました。荘厳なタペストリーのように紡がれた池田氏の功績は、私たちや次の世代の人々を励まし続けることでしょう」

 

 ノルウェー・ノーベル委員会

 アスラ・トーヤ副委員長

 「創価学会の皆さまの悲しみがどれほどか、計り知ることができません。しかし、池田氏の功績は、これからも生き続けることを知っておいていただきたいのです。私たちは全員が共にそれぞれの立場で生涯をかけて、池田氏に敬意を表しながら、世界平和のために働いていこうではありませんか。私は池田氏にお会いしたことはありませんが、かつていただいた、優しさと率直さが込められたメッセージを読み返し、山の泉から水を飲むような清々しい気持ちになりました。池田氏は誰よりも若々しい心を持たれていました。今、大きな責任が私たちに委ねられたと感じています」

 

 IPPNW(核戦争防止国際医師会議)

 アイラ・ヘルファンド前共同会長

 「池田会長は正義と平和な世界のために戦う偉大な方でした。核兵器の脅威のない世界を築くとの会長の揺るぎない信念と行動は、後に続こうとする私たちの素晴らしい模範であり、インスピレーションを与えるものでした。会長の智慧・慈悲・勇気の心は、残された著書の中に生き続け、私たちを鼓舞し続けてくれるでしょう」

 

 ◇ 

 中国共産党中央対外連絡部の劉建超部長からは22日、訪中していた公明党の山口那津男代表に対して弔意が伝えられた。

 また、パラオのトミー・レメンゲサウ前大統領、イギリスのジュリア・ロングボトム大使、タイのロムデジ・ピサラポン臨時代理大使、パナマのカルロス・ペレ大使、リッテル・ディアス元大使、南アフリカのタニア・カネラス元参事官から弔意が寄せられた。

 さらに、中国人民対外友好協会の楊万明会長・陳昊蘇元会長・李小林元会長・林松添元会長、中日友好協会の宋健名誉会長・唐家璇会長・程永華常務副会長(元駐日大使)・許金平副会長・王秀雲副会長・袁敏道秘書長・王效賢元副会長・呉瑞鈞理事・李鉄民理事・王慶英理事・王雲涛理事、大連中日教育文化交流協会の趙亜平元会長、中華全国青年連合会(全青連)の倪健元主席補佐、広州市人民対外友好協会の李良洲元秘書長。

 赤十字国際委員会(ICRC)の榛澤祥子駐日代表、世界宗教者平和会議国際委員会のアザ・カラム前事務総長、「気候のための信仰ネットワーク」のシャノン・シャー事務局長、インド大使館文化センターのシッダールタ・シン前所長、タイの文化省宗教局のチャヤポン・スックイアム局長。

 教育・学術界からは、中国社会科学院・日本研究所、中華日本学会、東北師範大学の史寧中元学長、中国海洋大学日本研究センターの修斌主任、大連工業大学「池田大作思想研究所」の劉愛君所長、河北外国語学院の孫建忠理事長、仲愷農業工程学院「廖承志・池田大作研究センター」の高岳侖主任、北京大学の賈蕙萱元教授・牛大勇教授、広東池田大作研究会の梁桂全会長・温憲元副会長、厦門大学の黃順力教授・葉賽梅夫人、中山大学の王麗栄教授、大連海事大学「池田大作研究センター」の洪剛主任、天津社会科学院東北アジア研究所の葛建華副研究員、フィリピンのヌエバ・ビスカヤ大学のフロレンティーナ・ドゥムラオ元学長、ノルウェー・オスロ国際平和研究所のスタイン・トネソン研究教授、ニューヨーク州立大学のナムラタ・シャルマ博士、タイ・チュラロンコン大学のナンタラット・チャルーンクン博士。

 また、アメリカ実践哲学協会のルー・マリノフ会長、ブルガリアの芸術史家のアクシニア・ジュロヴァ博士、スラヴ・ビザンティン研究所のヴァシャ・ヴェリノヴァ所長、ウクライナ国立民族舞踊団のミロスラフ・ヴァントゥフ総裁、サイモン・ウィーゼンタール・センターのエイブラハム・クーパー副会長、ブロイドリック&アソシエイツ創設者のウィリアム・ブロイドリック夫妻、グローバル安全保障研究所のジョナサン・グラノフ所長、国境なき音楽家のローラ・ハスラー代表、イギリスの絵本画家ブライアン・ワイルドスミス氏の次女レベッカ・ワイルドスミス氏、敦煌研究院、北京大鸞翔宇慈善基金会の沈清理事長、天地図書の孫立川元総編集長、魯迅文化基金会の周令飛会長、王炳根元館長はじめ冰心文学館、冰心研究所、シルクロード芸術交流協会の常嘉煌会長、中華文化促進会の高占祥元主席の息女・高青氏、福建省文学芸術界聯合会の章紹同元副主席、「日本学刊」編集出版部の林昶元主任、黄山美術社の陳建中社長、国際協力NGOセンターの鬼丸昌也理事長、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」の柏倉美保子日本常駐代表、国際環境NGO「グリーンフェイス」のフレッチャー・ハーパー事務局長、水俣フォーラムの実川悠太理事長、映像作家の田邊雅章氏、SDGs・プロミス・ジャパンの鈴木りえこ理事長、グローバル連帯税フォーラムの田中徹二代表理事からも弔意が寄せられた。

 


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2023年11月23日

世界から池田先生をたたえる声

 

平和・文化・教育の功績しのび

各国首脳・大使、国際機関、大学から

 

 万人幸福の世紀を目指し、各界の指導者・識者と友情を育み、平和・文化・教育の大潮流をつくってきた池田大作先生。その崇高な生涯をたたえ、国内外から多くの弔意が寄せられている。その一部を紹介する(順不同)。

 ◇ 

 「池田大作氏は、人類に対して、今日の世界の複雑さと試練に、勇気を持って立ち向かうための希望と方向性を与えられました。私たち一人一人に内在する最良のものを引き出すために、人間の価値と理想の次元を精緻に表現された、池田氏の創造的なエネルギーと知的な広がりに敬意を表します。池田氏の人生、その教え、そして全ての人に対する限りない共感は、人類にとって真の恩恵なのです」(アンワルル・チョウドリ元国連事務次長)

 「池田氏と何度もお会いし、対話させていただいた思い出を大切にしております。悲しみとともに、多くの人々に感銘を与えてくださったことに対し、感謝します。そして、今こそ氏が示してくださった道に続く決意を新たにする機会だと思います」(ジョン・デューイ協会のラリー・ヒックマン元会長)

 「池田先生ご夫妻との出会いを思い起こします。どれほど温かく私を歓迎してくださったことか! エマソンが称賛した『おもてなしの心』をどれほど体現しておられたことか! あの時、教師として、また、平和を目指す仕事においても、励ましをいただきました。この友情を宝とし、いかなる時も平和を創造しゆく決意を今まで以上に深くしています」(エマソン協会のサーラ・ワイダー元会長)

 

 韓国の尹錫悦大統領から21日に弔意が寄せられた。

 岸田文雄首相は19日夜、東京・信濃町の総本部を弔問した。

 また22日、中国の蔡奇政治局常務委員(中央弁公庁主任)から訪中している公明党の山口那津男代表を通して、丁重な弔意が伝えられた。

 インドのシビ・ジョージ大使、エジプトのモハメド・アブバクル・サレー・ファッターフ大使、オマーンのモハメッド・アルブサイディ大使、韓国の尹徳敏大使、キューバのカティア・モンソン臨時代理大使、ジャマイカのショーナ―ケイ・M・リチャーズ大使、シンガポールのオン・エンチュアン大使、セルビアのアレクサンドラ・コヴァチュ大使、パラオのピーター・アデルバイ大使、南アフリカのルラマ・スマッツ・ンゴニャマ大使、ロシアのミハイル・ガルージン元大使(現・外務次官)、ゲンナーディ・オヴェチコ臨時代理大使、SNSでアメリカのラーム・エマニュエル大使、ジョージアのティムラズ・レジャバ大使らが弔意を表した。

 さらに、ローマクラブのマンペラ・ランペレ共同会長、サンドリン・ディクソン=デクレーブ共同会長、カルロス・アルバレス・ペレイラ副会長、地球憲章インタナショナルのミリアン・ビレラ事務局長、核時代平和財団のデイビッド・クリーガー名誉会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)のアイラ・ヘルファンド前共同会長、マハトマ・ガンジーの令孫エラ・ガンジー博士、世界詩歌協会のA・パドマナーバン名誉会長、ノルウェー・ノーベル委員会のアスラ・トーヤ副委員長、国連広報センターの根本かおる所長、UNHCRの伊藤礼樹駐日代表、国連UNHCR協会の川合雅幸事務局長。

 教育・学術界からは、インド・創価池田女子大学のセトゥ・クマナン議長、ミーラ・ムルゲサン学長、タイ・タマサート大学評議会のノーラニット・セータブット前議長、サイアム大学のポーンチャイ・モンコンワニット学長、フィリピン・イースト大学のゾシモ・バタッド総長、アメリカ・バージニア工科大学のジム・ガリソン名誉教授、イギリス・グラスゴー大学のJ・フォーブス・マンロー名誉教授、オーストラリア・シドニー大学のスチュアート・リース名誉教授、同大学ピースフェローのケン・マクナブ氏、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院のケント・カルダー教授、ネブラスカ大学リンカーン校のケネス・プライス教授、パデュー大学のイザベル・ヌニェス教授、ボストン大学のアニータ・パターソン教授、戸田記念国際平和研究所のケビン・クレメンツ所長、スペイン・アルカラ大学「池田大作『教育と発達』共同研究所」のアレハンドロ・イボラ所長、アナ・ベレン・ガルシア・バレラ副所長、スペイン語版「御書」の総合監修者のカルロス・ルビオ博士。

 また、インド文化国際アカデミーのロケッシュ・チャンドラ理事長、インド・ガンジー研究評議会のニーラカンタ・ラダクリシュナン議長、聖エジディオ共同体のマルコ・インパリアッツォ会長、アルベルト・クァットルッチ事務総長、平和と対話のための聖エジディオ財団のアンドレア・バルトリ会長、欧州仏教連盟のステファノ・ベッテラ会長、国際通信社INPS(インターナショナル・プレス・シンジケート)の総裁兼編集長のラメシュ・ジャウラ氏、アラブ首長国連邦の詩人のシハブ・ガネム博士からも弔意が寄せられた。

 ロイターやAP通信、イギリスのBBC、ロシア通信など、世界の主要メディアが逝去を速報した。


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2023年11月19日

訃報

池田大作先生が霊山へ

 

仏法史上不世出の大指導者

師弟不二を貫き世界広布の壮挙

 

 SGI(創価学会インタナショナル)会長の池田大作先生が15日夜半、老衰のため、東京・新宿区内の居宅で霊山へ旅立たれた。95歳のご生涯であった。葬儀は17日、近親者のみで家族葬として執り行われた。池田先生は19歳で入信。第2代会長の戸田城聖先生に師事した。恩師が掲げた広宣流布の願業の実現に青春をささげ、戸田先生の後を継いで32歳で第3代会長に就任。以来、世界広布のために東奔西走し、学会を192カ国・地域に広がる平和のスクラムに大発展させた。

 仏法史上不世出の大指導者である池田大作先生は1928年(昭和3年)1月2日、現在の東京都大田区に生まれた。

 47年(同22年)8月14日、第2代会長・戸田城聖先生と運命的な出会いを結び、10日後の24日に信仰の道へ。

 初代会長・牧口常三郎先生の遺志を継いだ戸田先生から広宣流布の後事の一切を託され、60年(同35年)5月3日、第3代会長に就任。先師と恩師の峻厳なる魂を胸に、師弟不二を貫いた池田先生の指揮のもと、創価学会は飛躍的な発展を遂げた。

 64年(同39年)には公明党を創立。75年(同50年)にSGI会長、79年(同54年)に名誉会長に就任し、各界の指導者・識者らと対話を重ねながら、世界に平和・文化・教育のネットワークを広げてきた。

 創価学園・創価大学をはじめとする教育機関や、民主音楽協会、東京富士美術館等を設立。贈られた名誉学術称号は400、名誉市民称号は800を超える。

 池田先生の不惜身命の闘争に連なり、創価の同志の連帯は今、五大州の192カ国・地域に拡大。仏法の生命尊厳の哲学を時代精神に高め、学会を世界宗教へと飛翔させた先生の壮挙は、未来永劫に輝きわたる。

 ご逝去に当たり、原田会長は談話を述べた。

 また、香峯子夫人は次の談話を発表した。

 「もともと医師からは、30歳まで生きられるかどうかと言われていた主人が、信心と戸田先生の薫陶のおかげで、ここまで長寿を重ね、使命を全うすることができました。

 10年以上前に『この後は、妙法に説かれる不老不死のままに永遠に指揮を執る』と語りつつ、幸い全てを託してバトンタッチできましたので、安祥としていました。

 今日まで支え、共に広布にまい進してくださった会員同志の皆さまに心から感謝申し上げます」 

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.11.21

第2318回

 

日天月天ワンショット

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