2024年2月21日
第2293回
歴史を変えるのは、
民衆一人一人だ!
<さあ、皆で悪と戦うのだ!>
「世界の指導者と語る」(「聖教新聞」日曜版に連載)で、
チェコの哲人政治家・
ハベル大統領について書いた。(1994年9月25日付)
大統領は、
1989年の″ビロード革命″に成功する前から、
″歴史を変えるのは、民衆一人一人だ″と主張されていた。
「歴史は″よそ″にあるのではないのです!
ここにあって、
われわれみんなが歴史をつくっているのです」
「われわれの日常の
善行や悪行がその根本的な構成要素であり、
生活は歴史の外になく、
歴史は生活の外にないのです」
(『ハヴェル自伝』佐々木和子訳、岩波書店)と。
世界的な革命家の大統領らしい、素晴らしい言葉である。
民衆一人一人が、
日常生活の中で何をしているか。
どっちの方向へ動いているか。
その集まりが、歴史の″大河″をつくっている。
決して、どこか遠いところに「歴史」はあるのではない。
ゆえに、皆が悪を許したならば、
歴史は悪の方向へと進んでしまう。
その責任は、「悪を行う人間」とともに
「悪を許した人間」にもある。
ゆえに″皆で悪と戦うのだ″と。
これが、「もう悪は許さない!」と
民衆を立ち上がらせた、
大統領の哲学である。
1994.9.29 第80回本部幹部会、第29回婦人部幹部会
池田大作全集第85巻
2023年9月17日
第2253回
「人間」に焦点を当てよ!
昭和五年(一九三〇年)、
牧口先生は『創価教育学体系』の第一巻を出版された。
当時は、世界大恐慌の嵐が吹き荒れ、経済の不況は深刻。
時の総理大臣・浜口雄幸が狙撃されるなど、
騒然たる時世であった。
今の世相と似ている。
軍国主義の暴走も始まっていた。
「立正安国論」には仁王経の文を引かれ
「国土乱れん時は先ず鬼神乱る
鬼神乱るるが故に万民乱る」(新43・全31)と。
その混迷のなかで、
牧口先生の慧眼、鋭い洞察力は、
すべて「人間」に光を当てておられた。
仏法の哲学を根底に「
人間」をつくり、「人間」を育てることを、
すべての機軸とされ、根本とされた。
政治も経済も宗教も、
“人間をつくる”ことを忘れれば必ず行き詰まる。
「人間」に焦点を当てるしかない。
「人間」をつくる以外にない。
『池田大作全集』第85巻、378頁
2023年1月4日~8日
第2169回
日蓮仏法において
「本門の時」とは
<民衆が底力を発揮する時>
今、私たちは「本門の時」を迎えている。
日蓮仏法において、
「本門の時」とは、一次元から言えば、
「自分自身の生命の本領を発揮する時」であり、
「民衆が底力を発揮する時」にほかならない。
法華経文上の本門では、
釈尊の本地が、永遠の昔からの仏であることが明らかにされた。
大聖人の文底下種仏法では、
全民衆、全生命が「妙法の当体」であることが明かされ、
事実の上にその偉大な生命を開花させる法が示されているのである。
本門の如来寿量品第十六の「如来」について、
「如来とは一切衆生なり」(全752㌻)と、
大聖人が宣言しておられるとおりだ。
民衆が、妙法の当体としての
″生命の底力″を思うぞんぶんに発揮して、
平和と幸福の社会を大建設していくことが、
仏法の究極である。
そのための一大民衆運動が、
わが創価学会の運動なのである。
今年は、一人一人が、
みずからの本領を悔いなく発揮していく年としたい。
その原動力こそ、
厳として何ものをも恐れぬ信行である。
2004.1.3第二総東京代表協議会
2022年9月26日
第2113回
学会は永遠に
民衆の大地に立つ
<迫害など、ものともせずに!>
「人類の前進のためには、
勇気というけだかい教えが、
永遠に山々の頂にかかげられなければない」
(辻昶訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』3所収、潮出版社)
フランスの文豪ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』の有名な一節である。
(中略)
「私は、いじめられている側に立つ」
――そこにユゴーの変わらぬ信念があった。
『レ・ミゼラブル』の意味も、「惨めな人々」である。
ユゴーの作品には、
貧しい人々、苦しむ母子に対する
深い慈愛があふれでいる。
また随所に、傲慢な権力者への
強い怒りがほとばしっている。
私は、
いじめられている人の側に立つ!
悪口され、批判され、
試練を受けている
正義の人々のために私は戦う!
私は叫ぶ!
迫害など、ものともせずに!
――これがユゴーの魂である。
われらの学会精神もまったく同じだ。
虐げられ、苦しめられ、
ばかにされてきた民衆が、
「特権者がふんぞりかえる社会」ではなく、
「民衆の幸福のための社会」をつくるために立ち上がった
――それが創価学会である。
どこまでも民衆が基盤である。
だから強い。
だから勝ってきた。
学会は永遠に民衆の大地に立つ。
この一点を絶対に忘れてはならない。
2005.8.19各部合同研修会
2022年9月10日
第2097回
民衆の幸福のために戦え、
私利私欲の輩を許すな!
<原点の精神>
さらに、戸田先生の指導に学びたい。
「学会は、信心が中心である。
政治の世界に同志を送り出したのも、
信心をした者として、
社会をよくしよう、
民衆が本当に喜べる政治を実現しようとの、
人間としての真情の発露からである。
信心を根本にして、
日本の民衆を、
世界の人々を幸せにしようというのが、
創価学会の心である」
ここに、私どもの原点の精神がある。
私たちの信仰は、
自分だけが幸せになればいいというような、
狭い、ちっぽけなものではない。
自分自身が人間革命しながら、
社会のため、世界のために、
勇敢に行動していくのだ。
反対に、社会とのかかわりを失った宗教は、
独善におちいり、
生き生きとした生命力を失っていく。
今は、五濁悪世の時代である。
社会とかかわるがゆえに、
さまざまな問題に直面する。
とくに、政治の世界は、
権力の魔性がうごめいている。
戸田先生は、すべてを予見しておられた。
「政治の世界というのは、
権力と野望と駆け引きの、
魑魅魍魎の世界だ。
私の心を忘れない者は、
政治の革新を成し遂げ、
民衆のための偉大なる政治家に育つであろう。
しかし、私利私欲に狂えば、
広宣流布を破壊する魔の働きになってしまうだろう」
「民衆のため」との原点を忘れ、
私利私欲に狂った卑しい人間が、
いつか現れるかもしれない。
もしそういう輩が出てきたならば、
徹底して責めぬけ!
これが先生の精神であった。
悪を黙って見過ごしてはならない。
どんどんしゃべることである。
叫ばなければ、
将来、必ず報いを受ける。
青年部、立ち上がれ!
異体同心の団結を破ろうとした人間の末路は悲惨である。
仏法は厳しい。
とくにその厳しさは、臨終にあらわれる。
御書には、
破和合僧などの大罪によって
無間地獄に堕ちる苦しみが、
随所に説かれている。
それらはすべて、
日蓮大聖人の大慈大悲のあらわれである。
不幸な境涯に堕ちていく人々をあわれに思い、
救わんがために、
厳しい生命の法則を教えてくださっているのである。
2005.8.15代表幹部研修会
2022年8月24日25日
第2083回
「民衆こそ王者」と胸を張れ
<創価の連帯こそ、
「現実変革]の大いなる希望>
近代中国の父・孫文は語った。
「皇帝時代においては
ただ一人の人間が皇帝だったが、
民国になってはこの四億人がすべて皇帝なのです。
これが、民をもって主となすということであり、
これこそ民権の実行であります」
(「講演集」堀川哲男・近藤秀樹訳、『世界の名著』78所収、中央公論社)
民主主義の社会である以上、
指導者は民衆の僕しもべである。
民衆のために苦しみ、
命を使うべきである。
それでこそ、
民衆は指導者を信頼し、
尊敬することができる。
しかし、傲慢や、保身や、
つまらない欲のために、
権力を悪用する者がいる。
放っておくと、つけあがり、威張り始める。
本来は″主″のはずの民衆が、
″僕″のはずの権力者から、
馬鹿にされてしまうのである。
そのような転倒を正して、
「民衆こそ王者」と胸を張れる社会をつくらねばならない。
私たち創価の連帯こそ、
「現実を変革するため」の大いなる希望であることを、
強く申し上げておきたい。
2005.8.12創立七十五周年幹部特別研修会(4)
(池田大作全集第99巻)
2022年8月18日
第2077回
今まさに、
日蓮大聖人の大師子吼を!
<民衆の笑顔輝く新時代へ!>
戸田先生は、私たち青年に、
「開目抄」の
『我日本の柱とならむ
我日本の眼目とならむ
我日本の大船とならむ等
とちかいし願やぶるべからず』
(新114、全232㌻)を拝し、
こう呼びかけられました。
「『不幸』よ!
汝はいずこよりきたり、
いずこへ去らんとするか。
目をあげて見るに、
いま、国を憂い、
大衆を憂うる者は我が国人に幾人ぞ。
国に人なきか、
はたまた、利己の人のみ充満せるか。
これを憂うて、
吾人は叫ばざるをえない、
日蓮大聖人の大師子吼を!」
日蓮仏法を現代に弘める創価学会は、
社会の希望の柱であり、
世界を照らす精神の眼目であり、
人類の境涯を高める大船です。
さあ、民衆の笑顔輝く新時代へ!
創価の帆を高く掲げて、
幸福航路を勇敢に、
朗らかに進みゆこう!
共々に、楽しく、
月々日々に「行学の二道」に励みながら!
2022年大白蓮華8月号№874 20~21㌻
2022年7月10日
第2049回
庶民こそ偉大な歴史の主人公
<今日を悔いなく、「希望の太陽」であれ!>
安逸に流されても一生。
激流と戦い切っても一生。
同じ生きるならば、
悔いなく、
最高の充実と
誇りの人生を飾り、
永遠に消えざる
福運を残していきたい。
そのための信仰である。
悔いなく戦い切った時、
考えてもみなかった
人間革命のドラマが
待っている。
わが地域に、
功徳の華花が
咲き薫ることだろう!
創価の同志よ、
誇り高く前進しよう!
目の前の一人から、
朗らかに永遠の
勝利の道を開きゆくのだ。
自らの幸福だけを
追い求めても、
結局、崩れざる幸福を
つかむことはできない。
自他共の幸福を祈り、
他者の幸福のために
尽くして行動する。
そこに真の充実があり、
自ずと幸福がついてくる。
希望がなければ、
希望をつくればよい。
光がなければ、
自分が太陽になればよい。
一人の人間が、
わが生命に
「希望の太陽」を
輝かせていくならば、
その光彩は、わが家族、
わが地域、わが国土を
照らしながら、
必ずや大いなる変革を
可能にする。
私たちの信心の根本は
題目である。
広宣流布へ、
師弟が心を合わせて祈る。
同志が異体同心で祈る。
そこから
新しい前進が始まる。
戦いの勢いも生まれる。
功徳も大きく広がる。
偉大な歴史の主人公は、
誠実な庶民だ。
誰が見ていなくとも、
愚痴もこぼさず、
広宣流布の大理想に
生き抜かれる
第一線の皆様方こそ、
第一に尊貴な
人間の英雄なのである。
2022年7月10日池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」
2022年3月23日
第1943回
楽観主義で、民衆が連帯し、
より良い世界へ
<私たち一人一人には物事を変える力がある>
今(当時)、私は、ノーベル平和賞受賞者のジョセフ・ロートブラット博士と対談を続けている。
博士は、核兵器と戦争の廃絶をめざす科学者の連帯「パグウォッシュ会議」の名誉会長として、平和のために人類の良心を結集してこられた。
私より二十年も年長で、今年で九十七歳。その博士が、はつらつと語っておられた。
「(被爆六十周年の今年に行われる)広島でのパグウォッシュ会議には、必ずまいります。池田会長と日本でお会いできることを楽しみにしています」と。本当にうれしく、ありがたいことである。
さて、対談で、
「人類の未来について楽観的か否か」
が話題になったときのこと。
博士は毅然と次のように言われた。
「私は、楽観的でなければならない、と思います。
その反対は、たがいに破壊しあうことしかないからです。
楽観主義しか道はありません」
「楽観主義であるためには努力が必要です。
自然に楽観的であることはできません。
私が『楽観主義である』と言う時、
それは、私が単純に世界が良くなる
と信じているということではありません。
私たちが、
より良くするために何かをしないかぎり、
世界は良くなりません。
自分にできる何かを、
自分にできる貢献をしなくてはなりません」
さらに、ロートブラット博士は、
民衆運動について、こう期待する。
「私個人としては、すべての人が、
外部に影響を与えられる
力を持っていると信じています。
どんな努力も無駄にはなりません」
「私たち一人一人には物事を変える力があります。
それが、創価学会インタナショナル
のようなNGO(非政府組織)の形で連帯すれば、
間違いなく外部に影響を与える力も増すでしょう。
連帯をして世界を変えていきましょう。
時間はかかるかもしれません。
しかし長い目で見れば、
最後には民衆が勝利します」
これが、激動の世紀を生きぬいてとられた
「平和の信念の闘士」の叫びである。
2005.1.2新春代表協議会
2022年1月12日
第1860回
民衆の連帯に新しき歴史あり
民衆のなかへ。
この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、
新しき歴史は生まれゆく。
民衆ほど、偉大な力はない。
民衆ほど、確固たる土台はない。
民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。
民衆の前には、
いかなる
権力者も、富豪も、名声も、
煙のようなものである。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 7頁
2021年12月19日
第1833回
民衆のなかへ!
民衆とともに! 民衆のために!
<指導者は民衆に奉仕するのだ>
スペインの作家セルパンテスはつづった。
「気取るのは何にかぎらずよろしくないからな」(『ドン・キホーテ』続編2、永田寛定訳、岩波文庫)
ドン・キホーテのせりふである。
とくに、
若い幹部は、
気取らないことだ。
よく注意すべきである。
見栄や格好ではない。
はいつくばってでも、
勝利をもぎとる。
民衆のために尽くす。
その執念がなければならない。
インド独立の指導者、
マハトマ・ガンジーの直弟子に、
パンディ博士(ガンジー記念館副議長)がおられた。
かつて何度も語り合ったことが懐かしい。
博士は、十四歳の時に、
ガンジーの弟子になる。
民衆への奉仕を身をもって教えられた。
「『国会に入った政治家は大衆から遊離する』
――と、マハトマ・ガンジーは常に強調していました」
と博士は言う(「聖教新聞」一九九二年五月二十八日付)
だから博士は、自分が州知事になっても、
民衆のなかで、喜びも悲しみも、ともにしていった。
民衆に奉仕する。
それが指導者の役目である。
民衆のなかへ!
民衆とともに!
民衆のために!
その魂を絶対になくしてはならない。
2006年3月19日最高協議
2021年12月3日
第1810回
絢爛豪華の陰
<民衆の苦しみを見逃すな!>
タージ・マハルの庭を歩きながら、日達法主が伸一に語りかけた。
「昨日のジャマー・マスジッドも、また、このタージ・マハルにしても、立派で大きな建物ですね。日本とはスケールが違う。まさか、これほどとは思いませんでしたよ」
「確かに豪華で、立派ですね。しかし、強大な権力をもっての造営です。そこには、人びとの苦役という犠牲があります。私は、どうしても、その民衆の苦しみを考えてしまうんです。すると、この絢爛豪華な建物も色褪せて見えます。
私たちが、これから総本山に造ろうとしている大客殿は、権力によるのではなく、民衆の力によるものです。一人ひとりが喜びと誇りをもって、建設のための御供養に参加しようとしています。だから、最も尊いのではないでしょうか」
太陽の光に輝く白亜のタージ・マハルが池に映り、それが、微風の立てるさざ波に、静かに揺れていた。
日達が、微笑みながら答えた。
「確かにその通りです。権力というものは、いつかは必ず滅んでいる。ムガル帝国も、ほぼインド全域に勢力を広げましたが、最後は滅んでいます。でも、イスラム教という宗教は、今もこのインドに生き続けている」
伸一が言った。
「やはり、深く民衆の心に根差したからであると思います。結局、民衆とともに進むなかに、仏法の永遠の栄えがあるのではないでしょうか」
「そうです。本当にそうです。私は、そこに学会の強さもあると見ています。
今、私は五十八歳になりますが、山本先生が私の年になるころには、学会も、宗門も、広宣流布も、どのように発展しているかと思うと、本当に楽しみです」
日達と伸一の語らいは尽きなかった。この天地が興亡盛衰の歴史の舞台であったことから、二人の話は、自然に未来への展望と決意となって、弾んだのであろうか。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 145頁~146頁
2021年11月14日
第1783回
民衆こそ主人公!
民衆!
あなたこそ、
永遠に
社会と歴史の主人公だ。
いかなる理想も、
民衆の心を忘れれば、
観念と独断と偽善になろう。
正義も、
真理も、
民衆の幸福のなかにある。
<新・人間革命> 第2巻 民衆の旗 266頁
2021年11月11日
第1780回
誰も成しえなかった事実
<民衆の救済>
幹部指導のあと、あいさつに立った山本伸一は、ここでも、支部長、婦人部長を讃え、団結を呼びかけた。そして、こう力強く訴えていった。
「学会に対して、さまざまに批判する人がおりますが、では、誰が、いかなる理念をもって、この日本の民衆を救いうるのか。
口では皆、立派そうなことを言いますが、本当に民衆の幸福を考え、現実に、かくも多くの人びとを救ってきた人も、団体も、ないではありませんか。
学会には、仏法という明確な哲理があります。そして、学会だけが、誰も救済の手を差し伸べなかった民衆のなかに分け入り、人びとに勇気と希望を与え、実際に、幸福の道を開いてきました。これは、誰も成しえなかった事実です。
ゆえに、その最前線で戦ってこられた皆さんこそ、仏の使いであり、いかなる地位や肩書をもった人よりも尊く、偉大な指導者であると、私は申し上げたいのであります。どうか、その確信と信念をもって、仕事のうえでも、家庭にあっても、模範の皆さんであっていただきたいと念願いたします」
社会の繁栄といっても、その根本は民衆の幸福である。彼の人生の闘争の目的もまた、そこにあった。
<新・人間革命> 第2巻 勇舞 207頁~208頁
2021年4月14日
第1711回
民衆の力
民衆のなかへ。
この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、新しき歴史は生まれゆく。
民衆ほど、偉大な力はない。
民衆ほど、確固たる土台はない。
民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。
民衆の前には、いかなる権力者も、富豪も、名声も、煙のようなものである。
<新・人間革命>第4巻 春嵐 7頁
2018年12月16日
第1570回
人間、だれが本当に偉いのか?
<民衆よ立ち上がれ!>
明2002年(当時)は、文豪ヴィクトル・ユゴーの生誕200周年である。ユゴーは呼びかけた。
「ああ! 民衆よ!」
「思いもおよばぬ巨大な姿を見せてやりなさい。あなたが目覚めるという、あっと驚く奇跡を見せてやりなさい」
「立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい!」(「言行録」稲垣直樹訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』9所収、潮出版社)
偉大な力があるのは、権力者でもなければ、有名人でもない。「民衆」である。
民衆よ、小さくなるな。民衆が動く、巨大な姿。それを敵に見せつけるのだ!――と。
日蓮大聖人の仏法は、「民衆のための仏法」である。
民衆よ立ち上がれ!
これがユゴーの叫びであり、戸田先生の叫びであり、創価学会の叫びである。
近代中国の父・孫文博士の有名な言葉がある。
「政治の力は大きな善もできるし、大きな悪もできる」
「国を救い人を救おうと思えば、悪い政治を除かなければだめである」(横山英・中山義弘『孫文』清水書院)
政治は良いこともできるが、悪いこともできる。悪い政治は、たたき壊せ!――こうして孫文博士は、大中国の革命の火蓋を切ったのである。
今は民主主義の世の中だから、上も下もない。人間は全部、平等のはずである。
「そうは言っても、テレビをつけると、いわゆる有名人ばかりが脚光を浴びて、なぜか偉そうにしていますね」と、ある人が言っていた。
では、人間、だれが本当に偉いのか。
御書に「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(南条殿御返事、1578頁)――法が妙であるゆえに、その法を受持する人が貴い。人が貴いゆえに、その人がいる所も尊い――と。
「最高の法」を持った人間が「最高に尊貴」なのである。これが本当の人間主義である。妙法を弘めている皆さまが、どれほど尊いか。
戸田先生は、よく言われていた。「自分がどれだけ偉いか。それを、皆、忘れているのだ。たしかに、うちに帰っても、たいした食事もない。家も、宮殿みたいに大きくはない。だから貧乏人根性で卑下するけれども、とんでもない。人間それ自体が偉大なんだ。建物なんて、将来、買えばいいし、それに、いつかは壊れてしまうものだ」と。
また戸田先生は、「四信五品抄」を引いて指導された。こういう御文である。
「南無妙法蓮華経と唱えるわが弟子の位は、諸宗の元祖よりも勝れること、百千万億倍なり。国中の諸人よ、わが末弟等を軽んじてはならない」(御書342頁、趣意)
皆さまは、妙法を唱えるのみならず、全国へ、全世界へ弘めている。広宣流布しておられる。すごい立場である。
″日本中の人よ、全人類よ、わが弟子たちを軽んじてはならない″――そう大聖人が仰せである。これに背く人間には、仏罰は厳然である。
無認識の壁にぶつかったとしても、「あんな人間がなんだ!」「こんな迫害がなんだ!」と笑いとばしながら、誇り高く、胸を張って生きぬいていただきたい。
2001年5月21日 第六回本部幹部会、第二回全国婦人部幹部会、第二回九州総会、第一回中国総会、第一回沖縄総会
2017年5月11日~13日
詩
「民衆」
<君が主役だ!今こそ共に躍り出でん!>
それは、太陽のような輝きに満ちていた。
さわやかな希望の笑顔があった。清らかな生命の光彩があった。誇らかな青春の躍動があった。
鼓笛隊総会は、メンバーの練習の成果をいかんなく発揮する華麗なる祭典となった。
プロローグでは、山本伸一が作詞した鼓笛隊愛唱歌「平和の天使」の軽快な調べに合わせ、ブルー、ピンクの旗を使ったフラッグ隊の巧みな演技が喝采を浴びた。
第一部「世界の広場」では、フランスのロワールの古城やシャンゼリゼ通り、中国の天安門広場、アメリカ・ニューヨークの摩天楼、パリの凱旋門と、次々と背景が変わる舞台で、ドラムマーチやドリル演奏が、華やかに、力強く繰り広げられていく。愛らしいポンポン隊の演技には、微笑みが広がった。
第二部「希望の行進」では、「『軽騎兵』序曲」「さえずる小鳥」の演奏のあと、交響詩「民衆」となった。
〽水平線の彼方
大いなる海原のうねりにも似た民衆……
友情出演した壮年部「地涌合唱団」、婦人部「白ゆり合唱団」、男子部「しなの合唱団」、女子部「富士合唱団」が、荘重な調べに合わせて、見事に歌い上げていく。
詩「民衆」は、一九七一年(昭和四十六年)九月、東京・墨田区の日大講堂で行われた女子部幹部会を祝して山本伸一が贈った詩である。彼はこの詩で、本来、最も尊ぶべき民衆の歴史は、常に権力者によって蹂躙され、受難と窮乏の涙で綴られてきたことを訴え、沈黙と諦観と倦怠に決別し、民衆が主役の歴史を創ることを呼びかけたのだ。
僕は生涯 君のために奔る
一見 孤立して見えるとしても
僕はいつも君のために
ただ君のために挑戦しゆくことを
唯一の 誇りある使命としたい
〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 三十九 2017年5月10日
民衆
水平線の彼方
大いなる海原のうねりにも似た民衆
よろこびも 悲しみも
轟々と雪崩をつつみながら
今日も何かに戯れながら
共々に生きゆく民衆
本来
民衆の叫びと強さを 超えたものはない
本来
民衆の英知の歩調を 凌いだものはない
本来
民衆の正義の旗に 勝れるものはない
だが これまで
そして今も――
民衆の 民衆のための歴史は
受難と窮乏の涙で綴られてきた
ある詩人は謳った――
地上に無知と悲惨とがある限り
われらの戦いは 已むことがない
黒き権力者よ
汝には敏感にして病める民衆の
孤独の嘆息が聞こえないのか
世の識者よ
汝には一原子の中に
全宇宙の法則が充満していることを
見抜けないのか
汝には遥か遠く彷徨(さすら)い歩む大衆が
無気力な忍従の道具としか見えないのか
「民衆」――
それは私の好きな言葉
民衆よ!
君はなにゆえに
心の嵐をおさえて
圧制の巌(いわお)の下のみが
己れの運命と思っているのか!
なにゆえに
古い鎖を切り落とさないのか!
君には
死者の歴史より生者の歴史の
主人公としての権利が あるではないか
流された血は償うべくもない
溢れた涙は返すべくもない
ああ しかし――
君よ 黙するな
君よ 諦観してはならない
君よ 倦怠してはならない
ひとにぎりの権力者が支配する
愚劣な歴史の反復(リフレイン)に終止符を打つために
その哀しい啜り泣きに止めを刺すために
民衆の群舞の波で
未来の民衆(とも)のために
勝利を飾らなければならない
今こそ――
権謀をめぐらす元老や
佩剣(はいけん)を鳴らす将軍や
きらびやかな貴顕富豪のみが往来する
虹の劇の幕を下ろすのだ
そして
天を仰ぎ 地に転びながら
君たちが舞台の主役となる
もう一つの歴史の劇を作業しゆくのだ
民衆よ――
君こそ 現実だ
君をはなれて 現実の世界はない
時代は真(まこと)の民衆運動を
祈り待っていることを忘れまい
君こそ――
すべての者が流れ入る大海であり
すべての者が 混沌のなかから
新しき生成のために鍛錬される
溶鉱炉であり
坩堝(るつぼ)であることを忘れまい
そして すべての者の
真正と邪偽とを峻別する
試金石であるのだ
科学も 哲学も
芸術も 宗教も
あらゆるものは
民衆の赴くものでなければならない
君のいない科学は冷酷――
君のいない哲学は不毛――
君のいない芸術は空虚――
君のいない宗教は無慙――
君を睥睨する者どもは
脚下にするがよい
冷たく分析し 裁断する者には
拘泥すまい
君の土の匂いを嫌う人間は
無視するがいい
黙々と労働する君よ
陽に灼けて逞しい筋骨の君よ
僕は 秘められた君の心臓の
純なる溌剌たる鼓動を聞く
僕は生涯 君のために奔(はし)る
一見 孤立して見えるとしても
僕はいつも君のために
ただ君のために挑戦しゆくことを
唯一の 誇りある使命としたい
僕も戦う
君も戦う
君の無骨な手がふるえ
素朴な顔に輝きわたる生の歓喜を
この地上に獲得するまで戦う
僕も戦う!
君も戦え!
君たちのいる涯(はて)の涯まで
確かなる速度をもって
今日も戦う!
1971年9月28日 「民衆」(青年の譜より)
2017年5月14日~16日
創価学会の使命
今回の第三回鼓笛隊総会では、壮年・婦人・男子・女子部の合唱団が一体となって交響詩「民衆」を歌い上げた。まさに多様な民衆が力を合わせ、凱歌を轟かせていったのだ。
山本伸一は、詩「民衆」に綴っている。
科学も 哲学も
芸術も 宗教も
あらゆるものは
民衆に赴くものでなければならない
君のいない科学は冷酷――
君のいない哲学は不毛――
君のいない芸術は空虚――
君のいない宗教は無慙――
君を睥睨する者どもは
脚下にするがよい……
伸一は、交響詩を聴きながら、学会が担っている使命の意味を、深く嚙み締めていた。
“あらゆる権力の軛から、そして、宿命の鉄鎖から民衆を解放する――それが創価学会の使命だ! それがわれらの人間主義だ! 私は戦う! 断じて戦う! 民衆のため、広布のために。そして、何があっても民衆を守り抜き、民衆の時代を開いてみせる!”
鼓笛隊総会はフィナーレとなった。メンバーが場内通路をパレードし、全出演者が舞台に上がり、「平和の天使」を大合唱する。
〽平和の天使 鼓笛の同志よ……
熱唱する乙女らの頰に感涙が光っていた。それは、清らかな青春の魂の結晶であった。
伸一は、あいさつの要請を受けていた。彼も、メンバーの健気な努力と精進に、御礼と感謝の励ましの言葉をかけたかった。
観客席でマイクを手にして立ち上がった。歓声と雷鳴のような拍手が起こった。
「大変に美しく、立派な演技であり、見事な総会でした。感動いたしました!」
〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 四十一 2017年5月12日
2017年3月21日
会員厳護の決意
<善良な仏子を、
誰が守っていくのか!
誰が幸福にしていくのか!>
山本伸一のあいさつに与えられた時間は、十分にも満たなかった。
これまで本部総会では、伸一から広宣流布の遠大な未来構想や希望の指針が示され、また、社会、世界の直面するテーマに対して解決の方途を示す提言が発表されることも少なくなかった。さらに、参加者と一対一で対話するような、ユーモアを交えた心和む話に、皆は時に安堵し、時に大笑いしながら、新しい前進への決意を固め合ってきた。しかし、そんな心の触れ合いもない、あまりにも形式的な総会になっていた。
伸一のあいさつに続いて、法主・日達の特別講演があり、新理事長の森川一正、新会長の十条潔のあいさつと進んだ。
十条は、これまで三代の会長が築いてきた盤石な基盤のうえに、安定と継続、そして着実な発展を図っていきたいと抱負を語った。
総会は型通りに終わった。
この時、狂ったように学会を誹謗し、信徒支配を狙っていた宗門の悪僧や、背後で暗躍した邪智のペテン師らは、“計画通りだ。これでよし!”と、ほくそ笑んでいたにちがいない。伸一には、妬みと欲望の虜となった、その滅びゆく実像がよく見えていた。
彼が体育館を出て渡り廊下を歩いていると、幼子を背負った婦人など、広場にいた数人の人たちが伸一の姿に気づき、「先生! 先生!」と叫び、広場の手すりまで駆け寄って来た。本部総会の参加者ではない。一目でも会いたいと、外でずっと待っていたのであろう。その目には涙が光っていた。
伸一は大きく手を振った。
「ありがとう! お元気で!」
一瞬の出会いであった。しかし、そこには何があっても変わらぬ、深い魂の結合があった。創価学会の真実の絆があった。
“これから、こういう尊い方々を、本当に善良な仏子を、誰が守っていくのか! 誰が幸福にしていくのか! 私は、必ず守り抜いてみせる!”
伸一は、会員厳護の決意を新たにした。
〈小説「新・人間革命」〉 大山 六十五 2017年3月20日
2017年2月13日
民衆に光をあてよ!
創価学会は「民衆の砦」
<創価学会の地盤を固めるために、
広く社会に打って出て、痛快な勝利の歴史を!>
権力には死を覚悟して立ち向かえ!
戸田先生は言われた。
「政治家から学者から役人にいたるまで、宗教の何ものなるかを知らない。実に哀しむべし、哀しむべし」
これが、日本の状況であった。
宗教に対する無知。生命に対する無知。それが社会全体を広く覆っている。宗教は一切の根本である。根本が揺らいだとき、そこから、社会は崩れていく。
創価学会は人類の宿命を転換を成し遂げる、偉大な宗教を実践する団体である。
大事なのは、学会を強くすることである。広布の土台を堅固に固めることである。
戸田先生は、かつて綴られた。
「(大聖人の)おおせには、『大衆一同の異の苦しみは、日蓮一人の苦しみ』と。慈悲の広大をうかがえるとともに、政治の要諦は、この一言に帰するのである」
御書に「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(758頁)と仰せである。
この御文を拝しての戸田先生のお言葉には、世を思い、民衆の幸福を思う、真情があふれている。
権力の悪を、どう抑えるか。いかにして理想の社会を築くか――この点も、戸田先生の考えは明快であった。
戸田先生は、こう指導されたことがある。
「政体とか政権といったものは、大きくみれば、民衆の意思によって、その時代時代で変わっていくものだ。
そんな移ろい易いものに眼を奪われ、民衆自身に光をあてなければ、この厄介な社会を寂光土化する広宣流布の仕事は決してできない」
大事なのは「民衆」である。学会の広宣流布の運動の目的は、どこまでも「民衆の幸福」にある。
「権力というものは一切を飲み込んでしまう津波のようなものだ。生半可な人間の信念など、ひとたまりもない。死を覚悟しなければ立ち向かうことなどできない」
これが、国家権力と戦い、投獄まで経験された先生の結論であった。
権力は魔物である。権力は恐ろしい。その虜になり、堕落していった人間が、これまでもいた。
戸田先生は慨嘆しておられた。
「日本の現勢をみるに、ただただ、おのれの権勢を張り、名誉欲を満たさんがために、一党一派のなかに閉じこもり、その党派のなかに、また党派を作って、しのぎを削っている」
権力に屈せず、権力者に断じて威張らせず、「民衆の砦」として前進する創価学会が、どれほどすごい団体であるか。
学会という尊い民衆の団結を、断じて崩させてはならない。
創価学会の地盤を固めるために、広く社会に打って出て、痛快な勝利の歴史をつくろう!
2007年9月28日 全国代表協議会
2016年10月22日
「人間の中へ」そして「社会の中へ」
人間性あふれるそのままの姿が感動を与える
<この実践がなければ架空の話にすぎない>
1930年(昭和5年)。当時、インドは帝国主義の支配下にあった。
インドに君臨していたイギリスは、塩に”高い税金”をかけて専売していた。
インドの人々が”自分たちの手で塩を作りたい”と思っても、認めなかった。ガンジーは、そこにまっこうから挑戦した。
彼は「塩づくり」のために、はるかな海岸へ向かって、78人の弟子たちとともに、大行進を開始した。24日間で、約386キロを歩きとおした。
ガンジーは、「塩」という、もっとも身近な必需品を、独立へのシンボルとした。
その明快な、わかりやすさに、民衆は一日ごとに続々と行進に加わっていった。
民衆にわかりやすく訴えた、生活に密着した運動であった。
学会の強さも、生活に密着しているところにある。
口先だけで高尚なことを語るのとは、根本的に違う。
学会は民主主義であり、一貫して「信心即生活」「信心即社会」で進んできた。
ガンジーは、こう語っている。
「おそらく今日、わたしほどインドを隈なく歩いた者はおりますまい。そして、この国の声なき民衆が、わたしのうちに彼らの友や代言者を見出したのです。わたしの方も、一人の人間としてできうるかぎり、彼らの中に入ってまいりました。わたしは彼らの目に信頼のまなざしを読みとりました」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)
ガンジーは、インドの大地を、歩いて、歩いて、歩きぬいた。
われわれの広宣流布の行動と同じである。
「一人の人間」として、民衆の中に入り、会い、語っていった。
会って話せば、心が通じる。本当に正しい話であれば、民衆は信頼してくれる。
”この人だったら「一緒に平和を築ける」「一緒に幸福な世界ができる」”――と。
上から見おろすのではなく、自分で歩いて、人に会わなければいけない。
これが、ガンジーの叫びであったし、私たちも、そうしてきたから、勝ったのである。
私どもは、朗々と題目を唱えながら、明るく軽快に、また忍耐強く、人間の中へ、社会の中へと行動してまいりたい。
「人間の中へ」そして「社会の中へ」――この二つの実践がなければ、いくら理想を唱えても、それは架空の話である。結果は敗北となる。
これは、商売でも何でも、社会のあらゆる分野の鉄則である。
大切なのは、明るく、さわやかな振る舞いである。
学会員の人間性あふれる姿が、仏法のすばらしさを知るきっかけとなったという人が多い。なかでも、女子部や婦人部の方の、にこやかで聡明な振る舞いが感動を広げてきた。
2015年3月2日付聖教新聞本部幹部会での池田SGI会長メッセージ
2016年10月18日
万事は庶民から生まれる。
平凡な庶民から生まれる。
私は第三代として立ち上がって以来、自身のことなど、何一つ考えていない。
すべては、会員の皆様のために生きてきた。未来を生きる青年の皆様のために生きてきた。そう誇りをもって言い切ることができる。
それが、偉大なる師に広宣流布の一切を託された、第三代の変わらぬ決心であることを、後世のために申し上げておきたい。
アメリカの民衆詩人ホイットマンは言う。
「万事は庶民から生まれる、平凡な庶民から生まれるのだ」
広宣流布の前進と勝利も、平凡にして最も偉大な最前線の同志から生まれる。この最前線の友へ賞賛と感謝を、断じて忘れてはならない。
2008年3月5日第六回全国青年部幹部会、新時代第十六回本部幹部会
2016年1月9日
日蓮大聖人が庶民としてお生まれになった意義
<最底辺>
師弟の道をなくしたら、
仏法はもはやない。
日蓮大聖人が社会の″最底辺″の庶民としてお生まれになった意義を、よくよく考えなければならない。
「世情に応ずる」随他意の仏法を説くのであれば、貴族とか名家に生まれたほうがよかったかもしれない。しかし『民が子』(御書1332頁)『日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅(せんだら)が家より出たり』(御書958頁)として、お生まれになった。あれほどの大難が続いた理由のひとつは、大聖人が貴族の家のご出身でなかったことがあるでしよう。(中略)
逆縁の仏縁を結ぶためにも、あえて大難を受け、大難を忍ばれた。その大慈大悲を忘れて、門下生までもが大聖人を小バカにした。
『日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等』(御書960頁)がいたのです。
――「日蓮を信じているようだった者どもが、日蓮がこのように(流罪の身に)なったら、疑いを起こして、法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、「自分のほうが賢い」と思う、心の曲がった人間ども」――
情けないことだ。師弟の道をなくしたら、仏法はもはやない。(中略)
ともあれ、凡夫だからこそ凡夫の心がわかる。庶民だからこそ庶民の心がわかる。日蓮大聖人は、あえて一番、虐げられた庶民──「旃陀羅が子」として誕生なされたのです。
法華経の智慧 如来神力品 第二十一章
2015年3月30日
民衆こそ「真実の力」
<試練のときこそ底力が!>
民衆の叫びは、
真実の力である。
民衆の賑やかな行進は、
社会を動かす。
民衆の力ほど、
強きものない。
そして民衆の団結ほど、
強大にして
不敗のものはない。
民衆の団結には、
誰人たりとも敵わない。
いかなる時代にあっても!
いかなる世界にあっても!
人生には、
断崖絶壁に立たされるような
試練が何度もある。
しかし、その時こそ、
自分自身が、
いまだかつてない
底力を発揮できる。
ゆえに、何があっても、
嘆かず、あきらめず、腐らず、
今できることを、
一つまた一つ、
勇敢に誠実に忍耐強く、
全身全霊でやり切っていく。
そこから、必ずや反転攻勢して、
信頼と勝利の上げ潮を
起こしていける。
2015.3.29付聖教新聞 光の言葉 幸福の曲
2015年3月26日
民衆が賢明になるための信仰
<開くカギが「信」の一字にある>
仏教にはもともと、権力を使って信仰を押し付けようという発想はない。アショーカ大王も自身は熱心な仏教徒であったが、全宗教への寛容に徹しています。
日蓮大聖人は、佐渡流罪から戻られた時、寺を寄進しょうという幕府の申し出を断ったと伝えられている。幕府に保護してもらおうなどという発想は、微塵ももっておられなかったのでしょう。(中略)
学会は民衆の集まりです。民衆が愚弄されないために戦っている。すべての民衆が「強く」「賢明」になるために、平和と文化のネットワークを広げ、教育に力を注いでいます。
民衆が本来持っている強さ、賢さ、明るさ、あたたかさ。そうした可能性を引き出す原動力になるのが信仰なのです。
愚かになるために信仰するのではない。賢明になるためにこそ信仰はある。賢さとは、人を不幸にするような知識ではなく、自他ともに向上するための智慧です。
今の社会の狂いは、全人格的な「智慧」と「知識」とを混同し、全人格的な「信仰」と「盲信」との見わけがつかないところから起こっている、と言える。
「妙と申す事は開と云う事なり」(御書943頁)と大聖人は仰せです。どこまでも可能性を開き、向上しようとする特性が、生命にはある。その特性を、最大に発揮させていくのが妙法であり、真の宗教です。そして生命を開き、智慧を開くカギが「信」の一字にある。大聖人は「開とは信心の異名なり」と仰せです。
限りなき生命の「向上」――その心を、鳩摩羅什は「信解」と訳しました。法華経の第四章「信解品」のタイトルです。
「信解」とは、やさしく言えば「心から納得する」ということです。だれもが納得できることが大切です。法華経はそういう信仰を説いている。断じて盲信ではないのです。
法華経の智慧 信解品(第四章)
2014年12月5日
民衆のなかに生まれた
民衆のための宗教
<配達員の方々に感謝の心を忘れまい!>
伸一は、さらに「聖教新聞」の配達員への、深い感謝の思いを語った。
「新聞を届けてくださる配達員の皆さんのご苦労は、大変なものがあります。何人ものお子さんをもつ主婦もいれば、勤めに行く前に配ってくださるサラリーマンもいる。また、なかには、一流会社の重役であったり、博士の夫人という方もいらっしゃる。まさに、多士済々です。心から広宣流布のために尽くし、法友のために奉仕してくださる、こうした数多の老若男女の方々を、私どもは、どこまでも尊敬してまいりたい」
伸一は、彼の周りにいた、副会長や県長らに厳しい視線を向けて言った。
「幹部は、そういう方たちの無事故と健康を、懸命に祈り抜いていくんです。深く感謝し、偉大なる同志として、仏を敬うように大切にしていくんです。そうでないと幹部は慢心の徒になってしまう。皆がやってくれて当然であるなどと思ってはいけません。
奈良から仏教が起こったが、結局、僧侶が権威化していき、仏教本来の精神が失われていってしまった。絶対に、同じ轍を踏んではならない。私は、学会が民衆仏法の団体として永遠に発展していくために、あえて言っておきます」
創価学会は、民衆のなかに生まれ、民衆を組織し、民衆勝利の絵巻を織り成してきた。
国家に庇護され、国家の僕となった宗教ではない。民衆のための宗教であり、人類のための宗教である。権威、権力に屈服、隷属せず、人間自身に至高の価値を見いだす人間主義の宗教であるからこそ、世界宗教として広がりをもつのである。
小説 新・人間革命 26巻 法旗 149頁
2014年11月21日
我らは民衆の問題を解決するために戦う
初代会長牧口先生は、生前、日本の国家からは、何一つ顕彰を受けておりません。否、この世界的な大教育者に、国家主義の日本が報いたのは、牢獄の死でありました。
侵略戦争に反対する「もっとも正しい賢者」「正義の人」が、国賊の汚名を着せられ、歴史の闇に抹殺されようとしたのであります。
獄死を前に、牧口先生は、取り調べの検事に対して、明快に因果の法則について論じておられます。
“人間社会には、正義の大善人が迫害されるという矛盾がある。しかし、永遠を貫く宇宙の因果の法則は絶対である。この道理を行動の規範としていけば、目先の世間の毀誉褒貶など、いささかも恐れる必要はない”
牧口先生は、このように、悠然と言いきって、殉教されたのであります。
そして、生誕百二十七周年の本日、地球の反対の、もっとも遠いブラジルから、牧口先生に、かくも意義深き顕彰が寄せられました。
「創価の父」は、生死を超えて、厳然と勝利したのであります。(拍手)
この師弟不二の栄冠を、私は、一千万の同志を代表し、牧口先生、戸田先生に、晴ればれとご報告申し上げるものであります。(拍手)
貴カンピーナス市は、二十一世紀をリードする学術と文化と経済の先進都市であり、日本の岐阜市とも交流を結んでおられる。
「カンピーナス」という名前は「平原」を意味します。環境保全の取り組みにおいても世界的に有名であり、豊かな緑の都市を建設しておられる。市民の憩いの公園は、何と二千五百カ所。そこには、五百五十万本もの木々が植えられていると、うかがっております。
その緑化計画を力強く推進してこられたのが、ここにおられる(ルイス・カルロス・)ホッシーニ議員なのであります。(拍手)
さらに、議員が「市民権の尊重」「人権の擁護」に関して、次から次へ、具体的な政策を立案され、実施されてきたことも、私たちは、よく存じあげております。また、令夫人は「血液学」の高名な医学博士であられる。夫妻して、貴き献身の歴史をつづってこられました。
議員は、こう語っておられます。
「すべてを実現することはできない。しかし、民衆の側に立ち、民衆の問題を解決するために戦うことはできる。これこそいちばん大事なことである」と。
素晴らしい言葉です。牧口先生の哲学の精髄も、この一点を強調しておりました。
要するに、「権力者が、民衆を自己の栄達の手段にしていく時代」に幕を閉じなければならない。そして「指導者が、民衆のために、自己をなげうって、貢献していく時代」を開かねばならない。牧口先生は、一生涯、この一点で戦いました。私も戦ってきました。皆さまも、戦ってください!。(拍手)
正義の人が侮辱され、迫害されているのに、本気で立ち上がらない臆病者は、来世もまた“蛇ににらまれた蛙”のような、いつもおびえている生命になってしまう。勇気こそ仏法者の資格であります。
1998.6.6ブラジル・カンピーナス市「名誉市民証」授与式、「6・6」初代会長生誕記念幹部会
2014年11月20日
“善人面した傍観者”になるな
<末法の根本指針(2)>
牧口先生は、正義の英雄を、ただ尊敬し、崇拝しているだけでは卑怯であると、厳しく戒めておられた。“傷つかないよう、自分だけ、いい子でいよう”という傍観者が、いちばん卑怯である。
これまでも、学会を利用して、人の尊敬を集めながら、大事な時に戦わず、傍観と保身に終始した人間がいる。卑怯である。
卑怯な人間は、功徳を消す。地獄界の原因を積む。仏法は厳しい。最高の善に背けば、最高の悪となるからである。
牧口先生は、鋭く問いかける。
――正義の英雄が、迫害されながら、奮闘努力して、民衆のため、万人のために戦っていた時に、それを傍観して見殺しにした、ふがいない小善人どもを軽蔑せよ! 叱りとばせ!
そして汝自身は、現在、また未来の人生において、その臆病な小善人の側に立って傍観するのか、それとも、正義の善人とともに、勇敢に戦っていくのか。それを心して定めよ!――と。
正義の英雄とともに、どこまでも勇敢に戦っていく。これが創価学会である。ここに、創価学会の本当の「師子の道」がある。「師子」とは「師匠と弟子」ということである。
この道を、敢然と進むか否か、覚悟を決めよ! これが牧口先生の問いかけであり、結論であった。
1998.6.16第二十三回本部幹部会、第七回婦人部幹部会
2014年11月19日
“善人面した傍観者”になるな
<末法の根本指針(1)>
牧口先生は繰り返し、繰り返し、主張された。
「民衆よ利口になれ! 民衆よ覚醒せよ! 民衆よ勇気をもて! 民衆よ結合せよ! 団結せよ!」と。
私が「民衆よ賢くあれ!」と何度も語ってきたのは、牧口先生、戸田先生の教えそのままなのである。その淵源は日蓮大聖人の仰せである。
末法は「五濁悪世」である。命も時代も人間も思想も心も、すべて濁りきっている。
また「闘諍言訟」の時代である。争いが絶えず、“自分さえよければ、他人なんか、どうでもよい”と、人を犠牲にしてしまう。そういう時代である。
この末法における「根本の指針」は何か。
牧口先生は、御書に引かれた涅槃経の経文を通して、喝破された。
それは『慈無くして詐(いつわり)親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』
――慈悲なくして詐り親しむ人は、相手にとっての「敵」となる。相手の悪を取り除き、改めさせる人こそ、その人の「親」の存在である――との有名な一節である。
すなわち――詐親(いつわりの親しみ、なれあい)を捨てて、正義を強く、また強く、言いきっていきたまえ! 真実を、妥協せず、徹底して叫びきっていくべきだ!――これを強調されたのである。
牧口先生は、また正義の英雄を、断じて見殺しにしてはならない! と叫ばれた。
“大善人は、古今を通じて、必ず強大なる迫害を受ける。これに対して、他の小善人どもは、内心には同情を寄せるものの、「自分たちには何の実力もない」と言って、傍観し、その英雄を見殺しにしてしまう”
小善人とは、小さい善人。大きな悪いこともしないかわりに、大きな善もしない人間のことである。
“小善人に見殺しにされるゆえに、多くの場合、孤立無援の大善人は負けてしまう。しかし、その四面楚歌の苦境にあっても、耐え抜いて、奮闘して、ついに勝利を得る勇者がいる。その人こそ、まことの英雄である”
これが、牧口先生の透徹した史観であった。
(つづく)