----------------------------------------------------
2022年1月22日(未掲載)
村八分
(1)
<宗教的行事の強要>
このころ、学会員への不当な村八分が、各地で深刻さを増していた。
兵庫県の青垣町の、ある山間の地域では、神社の守り番を、毎年、住民が順番で行うことが、慣習になっていた。守り番というのは、神社を守る係で、掃除や建物の修理のほか、花を供えたり、参拝することなどが役目であった。
その地域は、約六十世帯の地区民で構成され、そこに、立田治男という学会の組長をはじめ、数世帯の学会員がいた。
この年は、立田の家が守り番に当てられていたが、彼は、神社への奉仕や参拝をしなければならないことが、自分の宗教的な信条から、納得できなかった。
それは、ほかの学会員も同じであった。
一月に行われた地域の総会で、立田は言った。
「宗教は自由やないですか。私は、ほかの行事には喜んで協力させてもらうが、守り番のような宗教的な行事には参加しません」
当時、学会の折伏が急速に進んでいたこともあり、神社にかかわりの深い、地域の役員は、学会を快く思っていなかったようだ。
ほどなく、学会員を除外して、地域の臨時総会が開かれた。そこで、地区規約の改正が行われた。そして、地域の親睦のために、順番に神社の行事の係になることが規約に盛り込まれ、その義務を果たさない者は、地区民としてのいっさいの権利を失うことが明記されたのである。
その後、今度は学会員も参加して総会が行われた。この席で、地域の責任者である区長は、学会員に、神社の行事への参加を求めるとともに、学会をやめるように迫った。
しかし、同志たちの決意は固かった。
「絶対にやめへん!」
皆、胸を張って答えた。
翌日、学会員の家に、地域の水道委員がやって来た。家族が出てみると、家の前にある簡易水道の元栓を止め、栓の蓋の中に赤土を詰め始めた。
「なにするんや!」
「地区の規約で、義務を果たさん者は、水道も使えんことになる。地区の水道やからな」
元栓は、目の前で赤土に埋もれていった。同志の目に、悔し涙があふれた。
さらに、地域の行事などの連絡に使われていた有線放送の設備も取り外された。共有の山林の権利も剥奪されてしまった。
水道を止められた学会員は、天秤棒の両端に瓶をぶら下げ、川まで水を汲みに行き、それを飲んで暮らさなければならなかった。
近所の人たちは、あいさつもしなくなった。子どもへのいじめも始まった。
青垣町の一地域で起こった、学会員への村八分事件は、憲法に保障された、信教の自由、基本的人権を脅かすものであることは明白である。
しかし、立田治男をはじめ、地域の学会員は、法的な知識には乏しく、なんの対抗策も、もたなかった。
だが、信心はいささかも揺るがなかった。こう言って、互いに励まし合った。
「大聖人は『此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり』(御書一一三六㌻)と仰せや。この信心が本物である証拠や」
山本伸一が訴えてきた教学の研鑽が、信心の確信を深めさせていたのである。
この事件を知った、学会本部では、直ちに大阪の幹部を現地に派遣した。同志を激励する一方、人権擁護委員会などにも出かけ、交渉にあたった。
学会員への仕打ちの違法性は、誰の目にも明らかであった。調査に来た人権擁護委員は、この事実を知ると、地域の役員のところへ行き、速やかに水道の給水を再開するように訴えた。こうしたなかで、これ以上、学会員への締めつけを続ければ、自分たちが、不利な立場に追い込まれかねないと判断した区長らは、学会員の地区民としての権利を、認めることにした。
青垣町の村八分事件が、一応、落着を見せるのは、事件の発生から二週間ほどあとのことであった。
区長らが役場で学会員に謝罪し、地区民としての権利の回復を認め、和解するというかたちがとられた。
しかし、その後も、いやがらせは続いた。雑貨店を営む立田治男の家には、地区民は誰も買いに来なくなった。近隣の人は、小声でこう言うのであった。
「あんたのところで買いたいんやけど、偉いさんがうるさいもんやで……」
立田は、やむなく行商に歩いた。地域の人たちの多くは、道で会っても、声一つかけなかった。
しかし、彼らは意気軒昂であった。青垣町での布教は以前にも増して進んだ。
学会員の主張は、法律に照らしても正しいことは明確であったし、明るさを失うことのない同志の姿に、皆が心をひかれ始めたからである。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 47頁~52頁
----------------------------------------------------
2022年1月22日(未掲載)
村八分
(2)
<寄付の強要>
また、同じ兵庫県の三田市のある地域でも、同様の事件が起こっていた。
この年の一月初めに、浄土真宗の寺院の報恩講が行われ、その費用が各戸に割り当てられた。それは地域のしきたりとなっていた。
しかし、学会員の福田民人という青年が、支払いを拒否したのである。地域の六十数世帯のうち、学会員はわずか一世帯であった。
福田民人の入会は、一九五九年(昭和三十四年)の三月のことであった。
彼は、大阪の豊中に出ていたが、翌年の四月、広宣流布への使命に燃え、故郷の三田市に帰って来た。
そして、山本伸一が会長に就任すると、彼も、地域のなかで、折伏に立ち上がった。しかし、旧習の深い土地柄のせいか、それが、学会への反発を招いてしまった。そのなかで、割り当てられた、寺の行事の費用の支払いを拒否したのである。福田は、自分が信じてもいない宗派の寺の宗教行事に、金を出さなければならないというのは納得できないと、主張していた。
彼の父親は既に入会していたが、以前、その寺の檀家総代もしていただけに、地区民の反響は予想以上に大きなものがあった。だが、福田は、むしろ、この機会に、さらに地域の人たちを折伏し、宗教に正邪があることを訴えようと思った。
そこで、大阪の組織の男子部に応援を頼むと、二十人ほどのメンバーが喜んでやって来た。そして、面識のない家々を訪ね、軒並み折伏をして歩いた。最後には勝鬨をあげ、学会歌を歌って意気揚々と引き揚げていった。
六一年(昭和三十六年)の一月半ばのことである。青年たちは、意気盛んではあったが、いささか常識を欠いた、自己満足的な行動ともいえた。
夜になると、地域中から、福田の家に抗議が殺到し、怒鳴り込んで来る人もいた。これを契機に、福田が寺院への費用を拒否したことに対する、地域の人たちの、激しい批判が沸騰した。
地域の区長は、福田に寺の行事の費用を出すように説得したが、彼は断った。
「なんと言われようが、今後、寺や神社の費用はいっさい出しません」
すると、区長は地域の役員会を開き、地区民で決定した事項を守らない行為があった場合、地区民としてのいっさいの権利と資格がなくなることをうたった地区規約を、弁護士と相談して作成したのである。
そして、二月の二十二日には、地域の臨時総会を開催し、この規約が決議されることになった。地域の役員は、総会の開催を伝えるために、家々を訪ねながら、こう触れ回って歩いた。
「この総会で、福田の家は村八分や。そのための規約を決めるさかい、印鑑を忘れんようにな」
福田が定刻に総会の会場に着くと、既に、地域の全世帯の人が出席していた。彼に、一斉に視線が注がれた。冷ややかな、とげとげしい目であった。
総会が始まった。
区長は初めに、別件について語ったあと、おもむろに話を切り出した。
「皆さんもご存じのように、福田さんが大阪から帰って来て、この地域で宗教活動を始められてからというもの、これまで何も波風の立ったことのない地区の平和が、壊されようとしております。
寺の報恩講の費用を皆で出し合うことは、この地区の伝統であり、文句を言う者など、誰もいませんでした。しかし、福田さんは、それも断ってきた。そのうえ、学会員が集団でやって来て、強引に勧誘するようになった。恐ろしいことやと思います。私は、これから先のことを考えると、心配でなりません。
そこで、この際、地区民の統制のために、寺の行事への協力を拒否するなど、地区のしきたりに従わん行為に対しては、地区の共有財産権を失う旨、明確に地区規約に定めることを決議したいと考えております。皆さん、どう思いますか」
場内に歓声があがった。
何人かの人が勇んで発言した。福田民人の吊し上げが始まった。
最初に一人の壮年が話し出した。
「わしは福田さんに言いたい。創価学会なんていうものが、永遠に続くと思っとるんか。そんなもの、すぐに消えてなくなるで。そうしたら、死んだ時に、誰に葬式出してもらうんや。そやから、地域の寺は大切にせなあかん。それを否定し、秩序を乱す者は、地区の共有財産権を失うのは当然や」 「そうや!」
「そうや!」
次第に地区民はいきり立っていった。
「地区の秩序を乱すようなことをする者には、地区の水道も止めるべきや」
「学会をやめんのなら、地区の道も歩くな!」
「子どもの遊び場も使わせへんで!」
もはや、脅迫といってよかった。皆の発言が一通り終わると、区長が言った。
「福田さん、反論があれば、どうぞ」
福田が立ち上がった。
一斉に、罵声と怒号が浴びせられた。
「みんなが、今やろうとしていることは、憲法違反や、人権侵害や。こんなことは、絶対に許されることやない。私は、寺の費用は何があっても出せません。これだけは、絶対に譲れません」
福田が話し終わると、区長が言った。
「地区の平和を守るため、作った規約を発表します」
区長は、新しい地区規約を読み上げていった。
「当地区の協議決定事項のいかなる事についても、自分の好むものはよし、好まぬものは知らぬというような事になると、地区全体の統制がとれなくなる。
よって、次の申し合わせ規約を定む。
一、当地区自治体の協議において決定した、あらゆる共同事業の経営に際し、地区の財産及び資金をもって充当するも、何人たりとも、異議の申し立てをする事はできない。
二、地区の協議において決定せられたすべての協議事項を履行せざる者は、(原則として)地区の一員(戸主)としての権利と資格を放棄したものと認む。
三、この規約に違反したる者は、違反したると認めた時日より満一カ年後において、地区の一員(戸主)の資格を失うものとする」
そして、この新規約の決議に移った。
福田民人以外は、一人の壮年が反対しただけで、あとは全員が賛成であった。新規約に皆が署名、捺印していった。
区長は言った。
「これで多数決により、可決いたしました。この規約は、本日より施行されることになります」
拍手と歓声があがった。信教の自由も人権も奪う、憲法に反する地区規約が成立してしまったのだ。
会場を後にする福田の背に、嘲りの声が浴びせられた。福田は、胸の底から怒りがあふれ、体はワナワナと震えた。
〝こんなことが許されてええんか! 日本は法治国家や。人権が踏みにじられてなるもんか。俺は戦う。断固、戦ってみせる。絶対に負けるもんか……〟
福田は関西の幹部らと連携を取り、地元の三田署に人権侵害、名誉毀損で区長を告訴した。また、法務局にも、地区規約には憲法違反の疑いがあることを告げて、調査を要請した。
法務局は、すぐに調査を開始し、区長に対して、地区規約を破棄するよう勧告した。しかし、地元の警察は、地区の役員らと密接な繋がりがあるせいか、いくら窮状を訴えても、なかなか動き出そうとはしなかった。
また、勧告を受けても、地区の役員は、考えを改めようとはせず、役員の一人は、こう言ってはばからなかった。「憲法違反であろうが、なかろうが、地区のことは地区の規約によって運営するものや」
福田の一家には、さまざまな圧力がかけられた。
福田民人の地域では、竹細工が名産であり、彼の家でも竹カゴなどを作っていたが、問屋がそれを引き取らなくなった。問屋はこの時、寺の檀家総代であった。福田が勤めに出ていたことで、一家は辛うじて生計を立てることができた。
そんな彼にとって、「我々は、戦おうじゃないか!」との、三月十六日の山本会長の指導は、大きな勇気となり、力となった。
〝いよいよ魔が競い起こって来たんや。信心が試されているんや〟
彼はへこたれなかった。
この事件は、区長らが地区規約を破棄し、福田が告訴を取り下げて、和解が成立するまでに、実に約二年間の歳月を要している。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 52頁~59頁
----------------------------------------------------
2022年1月22日(未掲載)
村八分
(3)
<「個」の自立の排除>
こうした事件は、兵庫県だけではなかった。やはり同じころ、三重県の熊野市のある漁村では、学会員十三世帯が、地域で祭っている「山の神」の行事への参加を拒否したことから、地区の決議によって、共有林などの財産権を剥奪されるという事件が起こっている。
さらに、熊本県阿蘇郡小国町や群馬県安中市では、神社の行事に協力しなかったとして、学会員には、農業に必要な共同機材などを使用させないといった村八分事件があった。
なかには、神社の寄付を断ったことから、祭りのたびに、学会員の店に、神輿を乱入させるというものもあった。祭りを利用しての悪質な集団暴力といってよい。
地域の祭りなどの場合、現代では、宗教的な意味合いは薄く、文化・社会的な習俗となり、地域の親睦の場となっていることが少なくない。したがって、祭りなども、信仰として参加するのでなければ、直ちに謗法となるわけではない。
しかし、各地に起こった村八分のケースを見ると、宗教色の極めて強い行事に、しかも、半ば強制的に参加させられることへの同志の拒否に始まっている。それは、彼らが学会員となることによって、信教の自由に目覚めたからにほかならない。
もともと、折伏を受け、対話の末に、入会すること自体が、信教の自由を前提に、自らの意志で宗教を取捨選択することであり、人間としての自立を意味しているといえよう。
山本伸一は、村八分事件の報告を聞くたびに胸を痛めた。自分のこと以上に辛かった。彼は、励ましの言葉を送るなど、さまざまな激励の手を差し伸べた。
また、最高幹部をはじめ、各地の幹部にも、一人ひとりを温かくつつみ、応援していくよう指示していった。
伸一は、なんの罪もない同志が、理不尽な圧迫を受けていることが、かわいそうでならなかった。しかし、それは仏法の法理に照らして考えれば、当然のことでもあった。
彼の会長就任以来、新たな弘法の波が広がり、日本の広宣流布は飛躍的に伸展しているのである。
学会員への村八分の理由となったのは、
いずれも、
寺院や神社の行事への不参加や、
寄付の拒否であったが、
それらは、むしろ、
口実にすぎなかったようだ。
本当の理由は、
それぞれの地域で、
本格的な折伏が始まったことへの〝恐れ〟
にあったといってよい。
学会の布教によって、
まず、既成宗派の寺院や神社が、
檀家や氏子が奪われてしまうという
危機感をいだいた。
さらに、寺院や神社にかかわりのある
地域の有力者たちが、
学会員が増えていけば、
地域の秩序が乱され、
自分たちの立場も危うくなる
かのような錯覚をもち、
学会員を締め出しにかかったのである。
また、そこには、
他宗派や一部のマスコミの喧伝による、
学会への歪められた認識もあった。
大聖人は、
「大難なくば法華経の行者にはあらじ」
(御書一四四八㌻)と仰せである。
難がなければ、まことの信心ではない。
広宣流布が進めば、
必ず嵐が競い起こるはずだ。
しかし、確かに嵐は吹き始めたが、
それは、まだまだ本格的な嵐というには、
ほど遠いことを伸一は感じていた。
彼は「難来るを以て安楽と意得可きなり」
(御書七五〇㌻)との御文を思い起こした。
そして、全同志を、どんな大難にも、
喜び勇んで立ち向かっていける、
強き信仰の人に育て上げなくてはならないと思った。
伸一は、この村八分事件を、
そのためのステップと、とらえていたのである。
また、これらの事件は、
社会的に見れば、
日本という国の、未成熟な民主主義と人権感覚を
物語るものであったといってよい。
古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、
地域の共同体と宗教とが、
密接に結びついてきた。
江戸時代になると、
幕府の宗教政策によって寺檀制度がつくられ、
寺院によって民衆が管理されるようになった。
そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、
本来の人間の道であるかのような意識が、
人びとに植えつけられていった。
さらに、明治以降、神社神道が、
事実上、国教化されたことで、
神社はもとより、宗教への従属意識は、
ますます強まっていった。
地域の寺院や神社に従わなければ、
罪悪とするような日本人の意識の傾向は、
いわば、政治と宗教が一体となり、
民衆を支配してきた、
日本の歴史のなかで、
培われてきたものといえよう。
戦後、日本国憲法によって、
信教の自由が法的には完全に認められても、
国民の意識は旧習に縛られたまま、
依然として変わることがなかった。
そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、
地域の寺院や神社を崇め、
寄付や宗教行事への参加が、
すべての地域住民の
義務であるかのように考えられてきた。
では、なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも、
無批判に共同体の宗教を受け入れ、
旧習から脱することができなかったのか。
それは、民主主義の基本となる
「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。
一人ひとりの「個」の確立がなければ、
社会の制度は変わっても、
精神的には、集団への隷属を免れない。
さらに、日本人には、
「個」の自立の基盤となる
哲学がなかったことである。
本来、その役割を担うのが宗教であるが、
日本の宗教は、
村という共同体や家の宗教として
存在してきたために、
個人に根差した宗教とはなり得なかった。
たとえば、日本人は、
寺院や神社の宗教行事には参加しても、
教義などへの関心はいたって低い。
これも、宗教を自分の生き方と切り離して、
村や家のものと、とらえていることの表れといえる。
もし、個人の主体的な意志で、
宗教を信じようとすれば、
教えの正邪などの内実を探究し、
検証していかざるを得ないはずである。
こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、
日本人は、自分の宗教について尋ねられると、
どこか恥じらいながら、
家の宗教を答えるか、
あるいは、無宗教であると答える場合が多い。
それに対して、欧米などの諸外国では、
誇らかに胸を張って、
自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。
宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、
信念の骨髄といえる。
その宗教に対する、
日本人のこうした姿は、
世界の常識からすれば、
はなはだ異様なものといわざるを得ない。
そのなかで、
日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。
そして、同志は「個」の尊厳に目覚め、
自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。
いわば、
一連の学会員への村八分事件は、
民衆の大地に兆した「民主」の萌芽への、
「個」を埋没させてきた
旧習の抑圧であったのである。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 59頁~64頁
----------------------------------------------------
2022年1月22日(未掲載)
村八分
(4)
<憲法二十条>
この村八分事件を、参議院議員であった、理事の関久男は、極めて深刻な問題として受け止めていた。
仏法という次元でとらえれば、それは御聖訓通りの法難であることは間違いない。しかし、関は、政治家としての良心のうえから、信教の自由が保障されている法治国家で、信ずる宗教によって人間が差別されていることを、見過ごすわけにはいかなかった。
しかも、各地の村八分の状況は、事と次第によっては、生命にもかかわりかねない問題をはらんでいる。
関は考えた。
〝これを放っておけば、信教の自由などなくなってしまう。また、人権を守ることなどできない。人権のために戦ってこそ、本当の政治である。しかも、これは、ただ学会員だけの問題ではない。すべての宗教者の人権にかかわっている。いや、宗教者に限らず、人間への不当な差別を許すことになる。
こうした差別を放置しておけば、日本という国の未来に、大きな禍根を残すことになるだろう。これを解決していくことは政治家の義務だ〟
関は、学会推薦の他の参議院議員たちとも話し合い、国会でこの問題を取り上げることにした。
三月二十三日の参院予算委員会で、彼は一般質問に立った。そこで、海外移住や保育所、青少年問題などについて質問するとともに、この村八分事件を取り上げ、関係大臣らに、ただしていった。
「最近、各地で、神社、仏閣への寄付にまつわる村八分事件が起こっております。これらの寄付は、敬神崇祖などの美名のもとに、祭礼等の際に強制されている。そして、それを拒否すると、村八分にしたり、あるいは神輿を乱入させるなどの、悪質な暴力事件まで起こっております。このことについて、まずご存じなのかどうかを、お伺いしたい」
最初に答弁に立ったのは自治大臣であった。
「神社、仏閣、あるいはお祭りなどに際しまして、寄付行為が日本の慣習としてあることは事実でございます。それを和気あいあいとして行っているのであれば、必ずしも、とやかく言う筋のものではないと思います。
しかし、お話のように寄付が強制的であったり、出さなければ神輿を担ぎ込むといったような、暴力的なことに対しては、従来もそうでしたが、これからも十分に取り締まりたい。また、そうしたことのないように、気をつけてまいりたいと思います」
関久男は、さらに質問を続けた。
「寄付をするか、しないかは、あくまでも個人の自由であるはずです。ゆえに宗教上の信念の相違とか、経済上の理由などで、寄付をしないという人もいるわけであります。
その寄付を強制し、無理強いするようなことがあれば、法律違反は明らかであります。当然、警察が調査に乗り出し、取り締まらなければならないと思う。
ところが、警察に訴えても、警察官は消極的であることが多い。なかには、寄付は志だから、出した方がよいのではないかという警察官もいる。警察官の在り方として、これでよいのかどうか、お伺いしたい」
自治大臣が答えた。
「そうしたケースも、あったかもしれませんが、今後は厳重に取り締まり、そういうことのないようにしていきたい」
関は、そこで、水道までも止められてしまった兵庫県の青垣町の例や、地区の共有林等の財産権を失った三重県の熊野市の例などをあげながら、いかに深刻な事態が起こっているかを語っていった。
「……この熊野市の場合など、駐在所に届けたところ、一週間もそのまま放置されておりました。たまりかねて本署の方へ行ったところ、署長はうすうす知ってはいたが、『告発していないから手をつけない。それは、法務局の人権擁護委員の仕事であって、法務局の要請がなければ動かない』と言っている。
こうした村八分は、
憲法第二十条にある
『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式
又は行事に参加することを強制されない』
という条項に違反すると思います。
また、刑法の第二二二条に定められた
『脅迫』でもあると思いますが、
当局の見解はどうか、
明確に答えていただきたい」
自治大臣は大儀そうに立ち上がると、目をしばたたきながら言った。
「お話のような事態があるとすれば、これは厳重に取り締まり、防止しなければならないと考えておりますし、至急、そうするつもりでございます。
ただ、こういった問題につきましては、往々にして複雑な原因がからんでいることがございまして、警察の力で解決することが妥当ではない面もあろうかと思われます。そうした点にも、よく気をつけながら、判断し、処理をしてまいりたいと思います」
あいまいさを残す答弁であった。
「大臣の答弁を聞いておりますと、複雑な事情がからんでおれば、村八分にされても、仕方ないこともあるように受け取れます。いかなる事情があったとしても、寄付をしないことで村八分にするというのは憲法に抵触し、刑法違反ではないかと思うのですが、この点はいかがでしょうか」
大臣は、今度は、関のあげた事例の村八分は違法であり、厳重な取り締まりを行うことを明言した。
関は、さらに、警察庁の保安局長の見解も尋ねた。
保安局長は、慎重に言葉を選びながら言った。
「それぞれのケースを詳細に見ていかなければ、結論は出せませんが、今、関委員が言われたケースは、おおむね刑法の第二二二条の『脅迫』にあたるのではないかと思います」
関の質問は、いよいよ大詰めに入っていった。
「そういたしますと、祭りや寺の修理などの寄付を拒否したことで村八分にあった場合、それを取り締まらないのは、警察官の怠慢と考えて、よろしいのでしょうか」
「ご質問にありました村八分のケースを、私が想定してみました場合、まず脅迫罪があると思われます。したがって、その訴えを受けて、ぜんぜん取り調べをしない、捜査を開始しないというのであれば、若干、警察官としては、問題があると思います」
関は鋭く迫っていった。
「しかし、さきほども申し上げましたように、実際に、そういうことがあまりにも多い。
調べてみると、警察官が町や村の役員などと知り合いであったり、飲み友達であったりする。そして、警察官がそちらの有力な方について、村八分にはかかわらないということが、現実に起こっているのです。これに対しては、どうお考えでしょうか」
「村の有力者と馴れ合いになり、被害の届け出があっても、情実にとらわれて動かないというのは、まことにまずいことであります。厳しく監督をいたさねばならないと思います」
これで、学会員への村八分は、
違法行為であり、
訴えがあれば、直ちに警察は
取り締まらなければならないことが明らかになった。
当然のことであろう。
しかし、旧習の深い地域で、
有力者と警察官とが馴れ合いになり、
これまで、その当然のことが行われず、
学会員は不当な差別に、
泣き寝入りしなければならなかったのである。
関久男の参議院予算委員会での追及以来、
警察も学会員の訴えに、
調査に乗り出し、
取り締まる姿勢を見せ始めた。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 64頁~70頁
----------------------------------------------------
2022年1月22日
第1872回
「村八分」など蚊に刺されたようなもの
<最後は、必ず勝つ!>
しかし、学会員への有形無形の
圧力や差別がなくなったわけでは決してなかった。
その後も、各地で学会員へのいやがらせや、
陰険な村八分が続いていた。
それは、正法正義のゆえに競い起こる、
経典に説かれた三類の強敵のなかの、
俗衆増上慢との戦いにほかならなかった。
しかし、同志は信心で耐え、信心で戦い抜いた。
山本伸一も、各地で、そうした同志たちから、
報告を受けることがあった。
その時、彼は、こう言うのが常であった。
「長い人生から見れば、
そんなことは一瞬です。
むしろ、信心の最高の思い出になります。
仏法は勝負です。
最後は、必ず勝ちます。
決して、悲観的になってはならない。
何があっても、堂々と、
明るく、朗らかに生きていくことです。
牧口先生は獄死された。
戸田先生は戦時中に二年間も投獄されている。
それから見れば、
村八分なんて、
蚊に刺されたようなものではないですか。
皆さんを苛めた人たちは、
やがて、あなたたちご一家が功徳にあふれ、
幸福になり、輝く人格の姿を目にすれば、
とんでもないことをしてしまったと
思うにちがいありません。
そして、生涯、後悔することになるでしょう」
伸一は、同情は、
その場しのぎの慰めでしかないことを、
よく知っていた。
同志にとって大切なことは、
何があっても、決して退くことのない、
不屈の信心に立つことである。
そこにこそ、
永遠に、栄光の道があるからだ。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 70頁~71頁
----------------------------------------------------