日興遺誡置文

2019年4月14日

第1600回
日興遺誡置文(3)

 

<いかに大聖人直結の信心を継承していくか

そのための規範とは何か>

 

 牧口常三郎は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との、この遺誡置文の御精神のうえから、「神札は絶対に受けません」と答えたのである。
 当時、牧口は国民の塗炭の苦しみに胸を痛め、国家神道を精神の支柱として、戦争の泥沼に突き進む軍部政府に対して、国家諫暁する好機ととらえていた。
 しかし、それは、牧口個人ではなく、日蓮大聖人の法灯を受け継ぐ門流の代表者である法主がなすべきであり、そのことを僧侶が進言するのが筋であると考えていた。
 だが、宗門の僧侶に、その気はなかった。牧口はやむなく、六月二十八日再度、登山すると、時の日恭法主に、国家諫暁に立ち上がるべきであることを直諫したのである。
 しかし、軍部政府の権力を、ひたすら恐れる法主には、国家諫暁など思いもよらなかったにちがいない。牧口の至誠の言が受け入れられることはなかった。
 そして、その直後の七月六日、牧口、戸田をはじめとする学会の幹部が、次々と逮捕されていったのである。大法難が学会を襲ったのだ。
 牧口の一門が逮捕されると、宗門は、慌てて学会を登山停止とした。関わりを恐れてのことである。
 まさに「貫首」自らの手で、正法正義はねじ曲げられ、大白法は滅せんとしたのだ。だが、正法護持の勇者・創価学会によって、大聖人の信心の血脈が保たれたのである。
 山本伸一は、「貫首」でありながら正法に背き、我見の邪説を立てる人間が出ることを、既に日興上人が予見されていたと思うと、深い感慨にとらわれた。
 彼は、未来もまた同じ事態が起こるかもしれないことを憂慮した。しかし、この日の講義では、多くは語らなかった。
 「……時の法主上人であっても、大聖人の教えに、仏法に相違して、己義、すなわち自分勝手な教義を説くならば、それを用いてはならないとの仰せです」
 彼は意義だけを簡潔に述べた。宗門が二度と法滅の過ちを繰り返さぬことを、深く願いながら。
 ──衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
 「これは、前の御文と対をなしております。今度は反対に、『衆議』、たとえみんなで決めたことであったとしても、それが仏法に相違するならば、これを打ち破っていきなさいとの御指南です
 山本伸一は、コップの水を口にすると、力強い声で講義を続けた。
 「つまり教えの根本は、どこまでも日蓮大聖人の御言葉です。御書でなければならないということです。
 学会は牧口先生以来、御書が根本です。その仰せのままに実践してきたがゆえに、数々の法難も競い起こりました。それによって御書を身で読むことができ、法華経の行者としての、信心の正道を進むことができたのです。
 だからこそ、学会の信心の功徳は無量なのです。永遠の福徳を積むことができるのです。私たちは、これからも、御書を心肝に染めて、広宣流布に邁進していこうではありませんか」
 講義は順調に進み、やがて二十六箇条が終わった。
 時間はあっという間に過ぎていった。伸一は、チラリと腕時計を見た。既に八時半近かった。
 「皆さん、あと、もう少しいいですか。疲れていませんか」
 伸一が聞くと、即座に、「はい」「大丈夫です!」と声が返ってきた。
 「そうですか。あと最後の、御言葉だけですから」
 ──万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず。
 「……末法万年の衆生を救護、救済するために、二十六箇条を書き置く。後の世の僧侶は疑いをいだくことなく、これを守り、実践していきなさい。このうち一箇条でも破る者は、日興上人の門流ではないとの仰せです。それは、同時に大聖人の弟子でもないことになります。
 この二十六箇条の精神を守り、実践した人こそが真実の大聖人の弟子であり、日興上人の門流です。儀式や形式ではなく、そこにこそ、信心のまことの血脈があるのです。
 私たちは、本日より、この御遺誡を胸に刻み、大聖人の弟子たる誇りと使命をもって、勇んで広宣流布を推進していこうではありませんか!」

 

新・人間革命2巻 練磨の章 134頁~

2019年4月14日

第1599回
日興遺誡置文(2)

 

<いかに大聖人直結の信心を継承していくか

そのための規範とは何か>

 

 講義が始まった。
 「この二十六箇条は、日興上人が御年八十八歳、元弘三年(一三三三年)の正月十三日に残された御抄であります。日興上人の御遷化は、その年の二月七日でありますから、亡くなる二十数日前の遺言状と拝すべきであると思います」

 山本伸一の凛とした声が場内に響き渡った。
 「本来、この御遺誡は、富士門流の『僧』に与えられたものです。しかし、創価学会は、日興上人のこの御精神を、厳格に実践してきました
 その御精神とは何か。
 日興上人は序文に明快に認められております。
 『……後学の為に条目を筆端に染むる事、偏ひとえに広宣流布の金言を仰がんが為な』(御書1617頁)
 広宣流布のため──これこそが、日興上人の根本の精神であられた。我が創価学会の目的もまた、そのためにほかなりません。
 広宣流布とは、日蓮大聖人の慈悲の哲理をもって、全人類の幸福、全世界の平和を実現することであり、それが私どもの使命なのであります……」
 彼は、序文について述べた後、「日興遺誡置文」の第一条から、各条を講義していった。
 ──富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
 「この『富士の立義』というのは、日興上人の教えです。それは大聖人の仏法に寸分も相違していない、大聖人の御指南の通りであると仰せなのです。
 つまり、先師大聖人の御弘通に『相違しない』ことこそ、富士門流の根本であり、それは『大聖人直結』の信心こそ、正法正義であることを宣言する文証と拝せます」
 講義は次第に熱を帯びていった。
 ──未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。
 「第五十九世日亨上人は『富士日興上人詳伝』のなかで、この御文を″万代法則″″重要永遠的の第一法則″として位置づけられ、最重要の条目の一つとされております。
 これこそ、我が創価学会の精神です。学会は、この仰せのままに、広宣流布にまっしぐらに進んでまいりました。
 初代会長牧口先生は、戦時中のあの軍部政府の弾圧のなか、国家諫暁を叫ばれて、秋霜の獄舎で、七十三歳で殉教の生涯を閉じられました。そして、『不惜身命』の精神を現代によみがえらせた。
 それは、まさに滅せんとした大聖人の仏法を、永遠ならしめる光源であり、ここに、創価学会の正義と真実の証明があります。
 更に、第二代会長の戸田先生もまた、二年間の獄中生活を送られ、御自身が虚空会の会座に連なった地涌の菩薩であることを悟り、出獄すると、広宣流布に生涯を捧げられたのです」
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「戸田先生は、敗戦の焼け野原に立たれると、ただ一人、広宣流布を決意された。その胸には、地涌の菩薩の使命の火が、赤々と燃えていたのであります。
 そして、七十五万世帯の大願を立てられ、会長就任後、七年を待たずして、それを成就された。これによって、広宣流布は初めて現実のものとなったのです。大聖人以来七百年、未聞の広宣流布のが、戸田先生の手によって、学会によって開かれたのです。
 日興上人のこの御遺誡を現実に実践してきたのは、創価学会だけではありませんか!
 それは、学会が日蓮大聖人に直結した唯一の団体であり、地涌の菩薩の集いである、何よりの証明であります。
 なれば、私たちの使命もまた、広宣流布こそ、我が生涯と定め、その達成のために生き抜くことにほかなりません。そこに、まことの信心があり、歓喜のなかの大歓喜の人生があることを、知っていただきたいのであります」
 伸一は次に「随力弘通」の意義に触れた。
 「広宣流布を人生の根本の目的とし、おのおのの立場で、おのおのの境遇で、大御本尊のお使いとして、広宣流布に励むことが『身命を捨て随力弘通』することに通じます。
 広布の使命に生きようとするならば、力が出ます。そして、自分のいるその場所で勝ち、幸せになった姿を、社会の人々に示していくことが、自身の広布の証であり、それが、とりもなおさず随力弘通になっていくのです
 伸一は、額の汗を拭おうともせず、講義を続けた。
 ──身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
 「『身軽法重の行者』とは『身は軽く法は重し』とあるように、正法のためにいっさいを捧げゆく、行動の人であります。
 『当如敬仏』とは、『法華経』の最後の普賢品の一節で、釈尊が普賢菩薩に対して、もしも『法華経』を受持した者を見たならば、『当起遠迎。当如敬仏』、つまり『当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし』と仰せになった言葉です。
 これは『法華経』における釈尊の最後の説法であり、大聖人は、これを法華経の『最上第一の相伝』とされている。まことに意義の深い言葉といえます」
 大講堂に集った約四千人の友は、全身を耳にして、会長山本伸一の講義を聞いていた。
 「つまり、経文のままに法華経を受持し、弘める人こそ、最も尊く、仏のごとく敬わなくてはならないとの仰せです。
 法のために何をなしたかという、実践、行動が大事なのです。大聖人の仰せのままに行動する人が最も偉大であり、尊いことを示されたのがこの御文です。
 『身軽法重の行者』は、現代では牧口先生であり、戸田先生です。
 そして、その遺志を受け継ぎ、日夜、広宣流布のために戦う、私たち創価学会員であると、私は宣言しておきます。
 ゆえに、敬うべきは権力者でも、高位の人間でも、金持ちでもないのです」
 伸一は、いわれなき非難と中傷にさらされながら、健気に折伏・弘教に励む学会員が、いとしくてならなかった。彼は、その姿のなかに″仏″を感じていた。
 しかし、愚かなことに、宗門の僧侶のなかには、昔ながらの身分意識にとらわれてか、「僧侶は上」で「信徒は下」であるとの錯覚に陥り、学会員を見下し、む態度をとる者も既にいたのである。
 それは、大聖人の御精神を踏みにじる、謗法以外のなにものでもない。僧俗一致といっても、その根本は広布への「心」を一つに合わせることだ。日興上人の門流を名乗る僧侶が、法を弘める人を尊敬しないで、どうして広宣流布ができようか。
 伸一は、僧侶がこの御遺誡に目覚める日を祈り、願いながら、講義を続けた。
 ──時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
 この御文の講義に移ろうとした時、伸一は、戸田から幾たびとなく聞かされた戦時中の神札事件が頭をよぎった。
 軍部政府から神札をまつるよう強要された宗門は、それに屈して、一九四三年(昭和十八年)六月、会長の牧口常三郎、理事長の戸田城聖をはじめ、幹部に登山を命じ、法主立ち会いのもとに「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と、言い出したのである。
 それは、四一年(同十六年)、御書の一部を削除する通達を出したのをはじめ、保身のために、権力への迎合をなし崩し的に進めてきた宗門の、至るべくして至った帰結といえた。
 しかし、牧口は、その申し出を決然と拒否した。
 また、このころ、軍部に接収された総本山の大書院には、神札がまつられている。(つづく)

 

新・人間革命2巻 練磨の章 134頁~

2019年4月14日

第1598回
日興遺誡置文(1)

 

<いかに大聖人直結の信心を継承していくか

そのための規範とは何か>


 この夏季講習会で、伸一は会長講義として、「日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきもん)」の講義をすることになっていた。彼がこの御文を研鑚することに決めたのは、熟慮の末のことであった。
 伸一が第三代会長に就任してから、弘法の波は怒涛のように広がっていった。七月二十九日の本部幹部会では、早くも年間目標の百五十万世帯を突破したことが発表されていた。
 また、この席上、関東に五総支部が設置されるとともに、六名の新理事が誕生したのである。
 三百万世帯の達成へ、学会は新しき躍動の前進を開始し、広宣の布陣も、着々と整いつつあった。
 その拡大のうねりを、永遠なる広宣流布の大河にするにはどうすればよいのか──伸一は一人考え続けてきたのである。
 彼は、自分の会長就任とともに戦いを開始した同志の多くが、短期間のうちに生活のうえで苦境を乗り越え、それなりに安定していく姿を目にしていた。そして、その喜びが、更に折伏の力となっていることを実感していた。
 しかし、大難に立ち向かい、広宣流布を成就していくには、個人の小さな満足を追い求めるだけの信仰であってはなるまい。
 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるは悉ことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書758頁)と仰せである。つまり、全民衆の苦悩をわが苦とし、諸難を覚悟で、広宣流布の戦いを起こされた。その信心をいかに継承していくかである。
 自己の小さな満足を突き抜け、更に全民衆の救済という大願に生きてこそ、日蓮門下の信心である。
 そこに、永遠にして不滅なる広布の大河も開かれる。また、佐渡に流罪されながらも、「喜悦はかりなし」(同1360頁)と言われた、あの大聖人の御境界に連なり、大歓喜にあふれた絶対的幸福境涯を会得しゆく直道もある。
 では、そのための実践はいかにあるべきか。守るべき規範とは何か──。
 山本伸一は、ここまで思いを巡らした時、「日興遺誡置文」の二十六箇条にわたる遺誡の御文が、彼の胸に鮮烈に浮かんだ。
 それは、日興上人が、大聖人に直結した不二の信心を貫くために定められた、永遠不変の規範にほかならない。
 思えば、この御遺誡のままに信心を貫いてきたのが創価学会であった。初代会長牧口常三郎は、正法正義を守り抜いて、獄中で死身弘法の生涯の幕を閉じた。その遺志を継いだ弟子の戸田城聖は、七十五万世帯の大願を立てて、それを見事に成就し、大聖人の御遺命たる広宣流布を現実のものとした。
 そこに、創価学会が、まことの仏意仏勅の教団である証明がある。
 彼は、この夏季講習会では、「日興遺誡置文」を徹底して研鑚することにしようと決めたのである。
 伸一は、正午過ぎに総本山へ到着すると、大御本尊に御目通りした。そして、休む間もなく、理境坊での教学部の教授会に臨んだ。
 ここでは、教授に登用するメンバーの、教学の論文審査が行われた。
 厳格な審査の結果、この日、十四人が新たに教授に登用されたのである。このうち女性二人を含む十二人が、青年部であった。
 伸一は、教学陣にも、着々と若い力が台頭しつつあることが、何よりも嬉しかった。
 夏季講習会の初日のいっさいの行事を終えると、彼は一人、理境坊の二階で、机に向かった。会長講義の準備のためである。
 塔中を流れる小川のせせらぎが響き、蛙の鳴き声が聞こえていた。
 伸一は、静かに室内を見渡した。
 戸田城聖が、逝去前のひと月余を過ごした部屋である。彼もその間、常に師の側で仕え、幾たびとなく、師弟の語らいを重ねた。それは黄金の光に包まれた感動の絵巻であった。

 伸一は、懐かしさと慕わしさが、胸に渦巻くのを覚えた。
 戸田城聖は、この理境坊にあって、命の尽きる間際まで、広宣流布の精神を、直弟子の山本伸一に伝えようとした。
 あの三月十六日の広宣流布の記念の式典を前に、伸一が戸田の体を気遣って作った車駕を見た時も、「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ」と、実戦に即した立案、計画が肝要であることを、厳愛をもって教えたのである。
 また、腐敗・堕落した僧侶を、青年たちが戒めた報告をした折には、戸田は最後の力を振り絞るようにして叫んだ。
 「日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない。そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!
 その一つ一つの指導は、永遠に正法正義を守り、広宣流布を成しゆくための指標であった。それらはすべて、戸田が生涯の戦いのなかから紡ぎ出した、未来を思う魂の叫びにほかならなかった。命を削っての鍛錬であり、教育であった。
 伸一は、在りし日の師の姿に思いを馳せると、目頭が潤んだ。
 彼は、今、日蓮大聖人亡き後、日興上人が遺誡置文として、大聖人の御精神を誤りなく後世に伝え残そうとされた御胸中を、痛いほど感ずることができた。
 日興上人は、ともに大聖人の弟子として広宣流布を誓いながら、師亡き後の五老僧の無残な姿を目の当たりにされた。彼らは、権力の弾圧を恐れて、臆病にも「天台沙門」を名乗り、御書さえも″スキカエシ″にして、正法正義を破っていったのである。
 ことに、身延山にあっては、学頭となった民部日向が、地頭の波木井実長の釈迦仏像の造立など、数々の謗法を認め、日興上人に敵対するに至った。そこで、やむなく身延を離山された。その御胸中はいかばかりであったか。
 日興上人は大檀越・南条時光の外護の赤誠を得て、富士に大石寺を建立され、正法正義を守られた。
 しかし、その富士の清流も、信心を失えば濁流と化し、途絶えかねないことを憂慮された。そして、永遠の信心の規範として、遺誡置文を留め置かれたのであろう。
 伸一は、深い感慨に打たれながら、御文に視線を注いだ。令法久住を願う日興上人の烈々たる御遺言が、強く胸に迫った。
 それは、永遠の未来へと流れ通う、広布の大河を開かんとする、熱い誓いとなっていった。
 講習会は二日目である。
 空は晴れていた。
 山本伸一は、女子部の質問会、男子部の相撲大会など、精力的に青年の鍛錬のために駆け巡った。
 夕刻、彼は全理事をともなって、戸田の墓前に詣でた。三百万世帯達成への誓いを込めて、深い祈りを捧げ、広宣流布の構想をことごとく実現しゆくことを決意した。
 帰途、理事長の原山幸一が伸一に話しかけた。
 「現在、新しい支部が誕生し、組織の発展にともない、多くの幹部を必要としておりますが、それだけの人材がいないというのが実情です。たとえば、支部長にしても、昔の支部長に比べると、格段の差があるような感じがしますが……」
 「いや、人材はいないわけではない。必ずいます。要は幹部が、見つけられるかどうかです
 「はあ……」
 「人間というのは、どうしても、自分の尺度でしか人を評価できなくなってしまう。たとえば自分が理論的なタイプだと、理屈っぽい人の方が人材に見える。逆に、自分があまりものを考えずに行動するタイプだとすると、同じタイプの人が人材に見える
 また、自己中心的で、俺が、俺がという思いが強いと、人の功績も、長所もわからず、欠点ばかりが目についてしまうものです。
 結局、人材を見つける目というのは、人の長所を見抜く能力といえるのではないでしょうか。それには、自分の境涯を開いていく以外にありません。
 私には、むしろダイヤモンドのような人材が集って来ているように思える。後はいかに訓練し、磨くかです。ダイヤを磨くには、磨く側もダイヤモンドでなければならないし、身を粉にしなければならない。今、私は、それを全力で行おうと思っているのです
 夕なずむ杉木立に、涼風がそよいだ。伸一は唇をみ締めるようにして、杉の巨木を見上げた。
 いよいよ午後六時半からは会長講義である。
 大講堂の広間には続々と友が集まり、定刻には、立錐の余地もないほどの受講者で埋まった。
 会長山本伸一が場内に姿を現すと、参加者の顔がほころび、目には求道の光が走った。(つづく)

 

新・人間革命2巻 練磨の章 134頁~

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