2019年7月12日
第1614回
「日本人さえよければ」のエゴを捨てよ!
<「日本があって、世界がある」のではない。
「世界があって、日本がある」。>
世界全体を平和にするために、
働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいてこそ!
池田 こんなに情報は豊かに見えるが、日本にいると「世界の現実が見えなくなる」傾向がある。
―― はい。マスコミの情報も、偏っていますから。
池田 今(2000年当時)も、インドネシアでは、東部の島で、死者三千人を超す宗教対立が起こっている。避難している人は四十万人にも、のぼっている。国際的な援助を求める声も高まっている。しかし、日本では、あまり伝えられていない。(=インドネシア・マルク諸島でのイスラム教とキリスト教の対立。2002年2月に和平協定が合意された)
昔も、日本人の多くは、韓・朝鮮半島の人たちが、日本の圧制下で、どれほどひどい目にあっているか、わかっていなかった。「知らされていなかった」とも言えるし、「知ろうとしなかった」とも言える。
しかし、「日本のことしか考えない」……じつは、そこに「戦争の根っこ」があるのです。″日本だけ″なんて世界はない。「日本があって、世界がある」のではない。「世界があって、日本がある」。日本が大事なように、世界も、もっともっと大事です。
「日本だけよければ」「日本人だけよければ」という利己主義は、捨てなければならない。それが二十一世紀です。世界全体を平和にするために、働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいて、そうしてこそ、初めて日本が、日本人が、世界から感謝される。尊敬される。そのとき、初めて日本が本当に「平和」になるのです。「平和の心」が、美しく光る国になるのです。
希望対話 296頁
2013年8月22日
友好こそ最高の安全保障、人材を資源とせよ!
「国家主義」ではなく、「人間主義」で、全世界と友好を結ぶのです。友好を結ぶのが、いちばんの安全保障です。
戸田先生は、「資源なき日本は、人材を資源とせよ」と言われた。
優れた人材が各分野に育ち、世界に打って出て、その地、その国のために尽くしていく。そういう国を、どこだって、攻めるわけにはいかない。
そのような、世界の民衆からの尊敬され、賞賛される国にならなければいけない。
青春対話 2 青春の視座 303頁
2013年5月19日
2013年2月3日4日
日本は海国へ
本来、大聖人の仏法は、「島国根性」とは、まったく正反対なのである。これが私どもの誇りである。ところで牧口先生は、この「島国」に対するものとして、「海国」(海洋国)という言葉を使われた。「海国」とは、はるか広大なる大海を見晴らし、活発に世界と交流しゆく「開かれた国」のことである。まさに、今の学会の姿そのものである。大交流時代…すばらしい時代の到来である。
この「海国」にとって、海とは行動を束縛する障害ではなく、「世界の公道」「人類の道路」である。いわんや無限の大空は、さらに自由な人間交流の航路であろう。 牧口先生は、日本は今こそ「島国根性」を打ち破り、気宇壮大な「海国」にならねばならないと訴えられた。
牧口先生は、何よりもまず人間の「品性」の向上が大切とされた。どんな経済力があっても、語学力があっても、それだけでは「世界」には通用しない。一時はいいようでも、やがて相手にされなくなってしまう。「人間革命」というか、立派な「品性」「人格」が備わらなければ、本当の信用も、友情も生まれない。ここに、日本が国際的な孤立を乗り越え、世界に通ずる国になれるか否かの“カギ”がある。一人一人が「閉ざされた人間」から「開かれた人間」へと、精神革命する以外にない。牧口先生はこのように主張された。
(中略)先生は、「人道的な共生」の時代を、いち早く展望されていた。「人格の力」「文化の風」「人道の光」で、人類に「納得」と「信頼」の対話を広げること。そこにしか恒久平和はないと、見抜かれていたのである。私どもは、「世界平和」「世界広宣流布」への道をさらに堂々と進んでまいりたい。
1992年11月29日第60回本部幹部会
2013年2月2日
島国根性
(※牧口先生の『人生地理学』を参考)
1992年11月29日第60回本部幹部会 全集(81)362頁
2012年8月21日
牧口・戸田先生のアジアへの確かな「眼」
日中戦争の最中、牧口先生は、東京高等工学校(芝浦工業大学の前身)の講義で言われた。「中国人を嘘をつく民族のように言う人がいるが、それは違う。もし、中国人がそんな民族なら、なぜ五千年にわたって偉大な文化を継承できたか。道理に合わないではないか」と。こう言って、「中国人を蔑視するのは間違いだ」と厳しく教えられた。生徒たちは皆、驚き、じつに印象的だったようだ。 また太平洋戦争の開戦のころのことです。日本の中国侵略は「聖戦」とされていた。 以前、紹介した話だが、戸田先生は、ある軍人に言った。
「それは、中国にとってもいえることじゃないですか?日本の対支作戦(=中国に対する作戦)のみが聖戦で中国の対日作戦がそうでないとする論理は成り立たない。そうでしょう?あそこには四億(当時)の民がくらしているんですよ。その人たちの生活を破壊する聖戦などというものがあり得るでしょうか。聖戦は、四海(=全世界)絶対平等と平和、生命の尊厳を犯すものに対して敢然と立ち上がる場合にだけ使われることばです」 軍人は、戸田先生の言葉に、ほおを殴られたような衝撃を受けたそうです。そして「戸田先生。これが私だったからいいようなものの、他の将校だったら多分先生は憲兵隊行きでしょう」 〝当局に引っ張られますよ〟と。
青春対話 2 青春の視座 275~頁
2012年8月20日
日本人の卑屈な国民性
日本人は欧米人相手だと萎縮し、アジア人相手だと優越感をもつ。本当に、卑屈な国民性です。ある人が言っていた。「日本人は、国家と自分を切り離して考えられない。国の威勢がいい時には、自分まで偉くなったように思う。国に元気がなくなると、自分まで自信をなくしてしまう。確固たる「個人」が確立されていないからでしょう。だから、国をあげて「欧米の文化を取り入れ、欧米に追いつき、アジアを支配する」という目標を掲げた時、だれもが「右へならえ」してしまった。もちろん、そういう教育を徹底したことも言うまでもない。中国・韓国から文化を学んだ大恩を教えず、〝劣等民族〟のように教えた。アジアの人々を「日本人より劣る民族」のように言わないと、「日本がアジアを支配する」という大義名分も立たないからです。とんでもないことだ。しかし、そうしたなかでも、理性を失わない人たちはいたのです。(※牧口・戸田先生のアジアへの確かな「眼」、後日掲載、を参照)
青春対話 2 青春の視座 274頁