慈悲

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2023年9月5日

第2244回

日蓮大聖人の大慈悲

 

 

 末法の御本仏・日蓮大聖人の大慈悲は、

 一切衆生に平等に注がれている。

 国や民族によって差別があるはずもない。

 日本だけとか特別の立場の人だけに

 大きな功徳があるなどということも、まったくない。

 大切なことは、「信心」があるかないか、

 御本仏の御心に適(かな)うかどうか、なのである。

 (中略)

 信徒を代表する立場にあった

 四条金吾や、富木常忍も、また無名の熱原の信徒も、

 大聖人の目から御覧になれば、

 ともに愛すべき末法の衆生であり、

 門下のだれかを特別視したり、

 えこひいきされるようなことは絶対になかった、と。

 

 さらに、

 大聖人を迫害した平左衛門尉などの権力者たちでさえも、

 御本仏の大慈悲の目からみれば、

 憐れみ、救うべき、

 末法の迷える衆生の一人にすぎなかった、

 と仰せである。

 

 佐渡御流罪中に、大聖人は

願くは我を損ずる国主等をば

 最初に之を導かん、

 我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、

 我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん

 (顕仏未来記、新612、全509)

 ──願わくは、

 私を迫害した国主等を、

 まず最初に導いてあげよう。

 私を助けてくれた弟子たちのことは、

 釈尊に申し上げよう──と仰せになっている。

 

 御本仏には、

 一切衆生──全人類をことごとく救って成仏させたい、

 という慈悲の御心しかないのである。

 

 太陽は平等である。

 全地表の生命を照らす。

 人類の太陽であられる御本仏の大慈悲の光も

 世界のすべての人々の上に、

 平等に注がれている。

 

 いわんや仏の御使いとして、

 苦悩の友を救おうと広布に励む、

 地涌の先駆の皆さまの信心は、

 即座に御本仏の御心に通じ、

 三世にわたる福運が積まれていることを

 確信していただきたい。

 

 1992年2月9日インド広布31周年記念総会

インド・ニューデリーにて

 『池田大作全集』第80巻、107頁


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2018年3月7日

第1494回

師匠の大慈大悲

 

<因果は厳然!

その確信があってこそ仏法者>

 

 山本伸一は、さまざまな苦難の風雪を乗り越えてきた秋田の同志に、自分の真情を率直に語っていった。
 「私は、ずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。
 弟子を名乗る者のなかにも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と言ってくる人もいました。それでも私は、寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気強く、対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。
 なぜか――騙されても、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ尽くすのが師であるからです。それが、私の心です。
 しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならば、それは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに、躊躇があってはなりません。
 人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃する――それが、私の三十数年間にわたる信仰生活の実感です。
 だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。
 私どもは、広宣流布のため、世界の平和と人びとの幸福のために、献身し抜いてきました。しかし、悪僧や、それにたぶらかされた人たちは、この厳たる事実を認識することができない。大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、悪人がどう見ていたかを述べられている。
 『或は悪人はすみ(炭)とみ(見)る・或は悪人ははい(灰)とみる・或は悪人はかたき(敵)とみる』(御書一三〇三ページ)
 歪んだ眼には、すべては歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」
 小説『新・人間革命』語句の解説
 ◎色相荘厳/色相荘厳とは、衆生に仏を求める心を起こさせるため、三十二相八十種好という超人的な特徴をそなえた仏の姿をいう。

 

新・人間革命 勝ち鬨 七十四

 


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2016年9月18日

  慈愛の力

 

<学会活動こそ最高の慈愛の行動>

 
 アショカも、ガンジーも、そしてネルーも、「慈愛」と「非暴力」と「対話」の力で、人々の心を変えていった。
 「慈愛の力」──。学会活動も最高の慈愛の行動である。
 学会活動には、さまざまな苦労がある。本当に大変である。家庭訪問や、個人指導、そして弘教の際にも、いやなこと、つらいこと、悲しい気持ちになることも多々あろう。
 しかし、「それでも自分は行こう! 行って、何かしてあげよう」と思う慈愛が尊いのである。
 そこに仏道修行があり、その慈愛が、仏界に通じている。
 いばる幹部や、不誠実で好きになれない幹部もいると思う。時には、「もう学会活動はいやだ!」となることも(爆笑)。
 しかし、大切なのは「自分」である。「自分」が仏になればよいのである。自分が「慈愛の力」で、すべてを包容していけばよいのである。その人こそが、仏になる。
 反対に、慈愛もなく、″自分中心″であれば、仏になれるわけがない。
 退転し反逆した幹部は、すべて″自分中心″で、″学会利用″の人間であった。それを皆に見破られて、学会にいられなくなったのである。

 

1994年12月21日 第12回中部総会


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2015年12月3日

学会は人間と人間の

こころのつながりだから強い

 

<組織の機構上のつながりではない!>

 

「世音を観ずる」慈愛と智慧を


池田 人の心を一番深くとらえるものは何だろうか、さまざまに言えるだろうが、やはり「慈愛」であり「優しさ」ではないだろうか。
 「あの人は、自分のことを、本気になって心配してくれた」
 「わがことのように祈ってくれた!」「大事にしてくれた!」「目に涙して叱ってくれた」「優しかった」
 その思い出は、生命に刻みつけられて離れない。指導者の根本条件も「慈愛」です。これしかない。大事に大事に、皆を守っていくことだ。
 私は観音品(観世音菩薩普門品)というと、この「慈愛の指導者」を思い浮かべる。
斉藤 はい。観音の姿も、慈母のような優しさに、あふれています。


  一生を支えた母の一言


遠藤 「悲母観音」というのもありますね。
池田 お母さんは、だれにだって懐かしい。
 昔、ある壮年からこんな話を聞いた。
 小さい時、父は毎日、酒ばかり飲んでいた。「兄弟は多いし、貧乏も貧乏。乞食のような暮らしでした」と。
 お母さんが細々と働いて、父の酒代まで工面していた。父は、母や子どもをよく殴った。酒を買いにやらされるのは、いつも男の子。ある寒い日の夕方、一升ビンに酒を入れてもらって、七、八歳の少年は日の暮れた道を一人たどっていた。
 父親のことは大きらいだったが、「母ちゃんの苦労が、しみこんだ酒だ」と思って、大事に抱えて歩いた。しかし、ビンは重いし、だんだん手がかじかんできた。もう少しで家に着く。明かりが見えた。ほっとしたのでしよう。しびれた手から、するっと、酒ビンが落ちてしまった。
 ガチャン! ビンは割れて、酒はみるみる流れていく。「しまった! どうしよう」。
 少年は泣きながら、玄関まで着いたが、家に入れない。中では父親が「酒はまだか!」と、どなっている。その時、少年の声を聞きつけたのか、お母さんが血相を変えて、表に出てきた。
 少年は「怒られる!」と思って、びくっと一歩下がった。
 ところが、お母さんは、少年を見るなり、抱きしめて、「足に当たらんかったか。けがはなかったか。お前に、けががなかったんなら、なんも泣かんでええんよ」と、背中をさすってくれたのです。その温かい一言が、その後も苦しいことがあるたびに自分の一生を支えてくれたと振り返っておられた。
「あのとき、叱られていたら、心がねじけてしまっていたかもしれません」と。
 自分のことを無条件に愛し、大事にしてくれた人がいる──その自覚が人間に「生きる力」を与えてくれるのではないだろうか。
遠藤 そう思います。観音菩薩が、どうしてこんなに人気があるのか。その秘密も、母のような慈愛にあると思います。
須田 創価学会も、ある意味で、親もおよばないほどの優しさで、一人一人を大切にしてきました。どんな悩みにも寄りそって、親身に、一緒になって励ましてきました。
遠藤 その実例は、文字通り「無数」にあります。
斉藤 だから強いんですね。
池田 組織の機構上のつながりではないから強い。人間と人間の心のつながりだから強い。観音──観世音菩薩。観世音とは「世音を観ずる」という意味です。
 世の中の、ありとあらゆる音声を、悩みの声を、大きな慈愛で受けとめ、抱きとって、その声に応えてあげる。一人一人の切実な思いを「聞いてあげる」「わかってあげる」「駆けつけてあげる」。その「限りない優しさ」が、観音菩薩ではないだろうか。そこに慕われる秘密もある。

 

法華経の智慧 観世音菩薩普門品 第二十五章


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2015年9月15日

抜苦与楽

(完)

 

<大哲学と大慈大悲をもって世界をリードする大指導者に!>


  著名な経済学者であり、晩年には創価大学で青年を薫陶してくださった故・大熊信行教授はこう結論されていた。
 「平和国家においては、政治万能の思想は存在せず、すでに政治を越えたものが、政治を指導する関係にある
 「およそ平和主義の原点といえば、東洋でも、西洋でも、実は宗教なのであった
 平和な国家を築くためには、人間のあらゆる営みにあって、精神性を開花させゆく「哲学」「宗教」の力が絶対に不可欠である。ゆえに大熊教授も、創価の前進に未来の希望を託してくださったのです。
 戸田先生は、青年部にこう呼びかけられました。
 「根本の哲学は、生命哲学である。我々は、この大哲学によって、世界をリードするのである。諸君は、既に世界的な指導者なのです
 若くしてこの最高哲学を実践しゆく、わが青年部・未来部の友は、民衆のため、広布のため、強力な指導者に陸続と育ってもらいたい。
 大事なことは、広宣流布を前進させることです。広宣流布を邪魔したり、足を引っ張ったりする魔の蠢動を断じて許してはいけない。
 戸田先生は「仏道修行をやりぬけば、あらゆる衆生を堂々と導いていける大境涯になる」と言われました。
 リーダーは、皆の苦しみをわが苦しみとし、皆の喜びをわが喜びとして、親身になって尽くしていくことです。一緒に勤行をし、一緒に題目を唱えていくことが大切です。
 そして、師の如く自分自身が先頭に立って、勝利の道を断固として切り開いていくことです。ここにこそ、真実の人間指導者の王道があります。
 日蓮大聖人の御心のままに、「一切衆生の同一苦」に打ち勝ちゆく創価のスクラム。この学会を護り、学会と共に歩む人生こそ「慈悲の中の大慈悲」(御書P1467)の前進です。
 尊極無上の正義の大連帯を一段と広めながら、朗らかに勝ち進みましょう!
 歓喜と幸福の「師弟桜」「勝利桜」を悠然と咲かせゆこうではありませんか!


 新世紀
  我らの舞台と
    晴れやかに
  右手に哲学
    左手に慈悲もて

 

御書と師弟 第11回抜苦与楽の英雄(2009.4.2聖教)


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2015年9月11日12日

抜苦与楽

(5)

 

<「言葉」と「行動」>

 

仏法に国境なし


 ロシア科学アカデミー哲学研究所・東洋哲学センターのM.ステパニャンツ・センター長は、語っておられました。
 「仏教は、暴力や軍事力を一切使わずに地球上に思想を広め、世界宗教となった唯一の例です。広める方法は二つだけでした――言葉(仏の教え)と行動(仏教者の振る舞い)です
 まことに鋭い洞察です。「言葉」と「行動」というソフト・パワーを武器とした仏教興隆の歴史は、人間精神の輝かしい勝利の軌跡なのです。
 武力に対する対話の勝利!
 権力に対する民衆の勝利!
 不信に対する信念の勝利!
 憎悪に対する慈悲の勝利!
 邪知に対する智慧の勝利!
 その最先端を行くのが、日蓮仏法であります。

 私たちが進めている、平和と文化と教育の世界的な大運動は、仏法の「大慈悲」と「大英知」の結晶にほかなりません。
 この生命哲学を根幹にしているという一点で、我らの運動は、過去のさまざまな運動とは、まったく次元の違う深さを湛えているのです。
 いかに高邁な理想を掲げた運動も、確たる生命観や生死観がなければ、人間不信や嫉妬・憎悪などの感情に足を取られ、結局は分裂し、衰亡せざるを得ない。これは、古今の歴史の痛切な教訓でありましょう。
 仏法は、人間の「一念」に光を当てます。相手の「境涯」を見つめます。人種や民族、学歴や肩書きなど、あらゆる差異を超え、「生命」という最も普遍的な大地に拠って立ちます。
 それゆえに、狭い通年や偏見に囚われず、大胆かつ率直に、心と心、生命と生命を結び合いながら、人類の新たな価値創造の活路を開いていけるのです。
 「仏法に国境はない」―これが恩師の叫びでした。私はその直弟子として、世界を舞台に、人間主義の対話のうねりを起こしてきました。
 動くことです。語ることです。たゆみなき一波また一波が、「分断」から「結合」へ、「対立」から「融和」へ、「戦争」から「平和」へ、人類史を転換しゆく潮流となることを信じて、私は戦ってきました。

(つづく)


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2015年9月4日~6日

抜苦与楽

(4)

 

<苦難に打ち勝っていく姿を示すことこそ

「慈悲の行」>


 青春時代は、自分自身も苦しみや悩みの連続です。しかし、大きな苦難を勝ち越えてこそ、強くなれる。
 順風満帆に甘えてしまえば、確固たる人生の土台はできない。苦しんだ分だけ、人の苦しみがわかり、慈悲が深くなる。広宣流布の使命の戦いの中で、人の何倍も苦労することは、それ自体が「同一苦」に挑む誉れある格闘なのです。
 自分自身の勝利が多くの友の励ましとなり、あとに続く後輩たちの希望となる。リーダーが難に遭い、そして難に打ち勝っていく姿を示すことは、「慈悲の行」そのものです。
 折伏精神で進む、わが創価の青年こそ、全人類の「同一苦」に挑戦しゆく、「抜苦与楽の大英雄」なのであります。
 牧口先生は厳然と戒めておられました。
 「法律にふれさえしなければ不善(善をしないこと)でもかまわないと誤解しているところに、現代の病根があり、独善偽善者が横行する結果となっている
 自分さえよければ、他の人がどうなってもかまわない。見つからなければ、何をやってもかまわない・・・・・・。こうしたエゴや不正が渦巻く社会にあって、創価の友の仏菩薩にも等しい行動は、想像もつかないほど崇高なのです。だからこそ嫉妬され、中傷されるのです。
 戸田先生は厳命されました。
 「我が学会は宇宙尊厳の和楽の世界である。決して魔に崩されてはならない
 戸田先生が御自身の命より大切とされた創価学会は、今や、日本、そして世界の心ある識者・指導者から、全幅の信頼と期待を寄せられております。時代は大きく変わりました。

(つづく)


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2015年8月30日

抜苦与楽

(3)

 

<仏の「慈悲」とは何か>


  そもそも、仏の「慈悲」とは何か。
 「大智度論」では一切衆生に楽を与えること(=与楽)が「慈」であり、一切衆生の苦を抜くこと(=抜苦)が「悲」であるとされています。万人の救済のために「抜苦」そして「与楽」の道を開くことこそが仏の慈悲なのです。
 ″同苦″とは″同情″ではありません。苦しみを乗り越えるには、その人自身が生命の底力を湧き起こして、自ら強く立ち上がる以外ない
 戸田先生は語っておられました。
 「かわいそうだ、だけでは、人は救えませんぞ。信心の指導、励ましのできるリーダーになりなさい。言うべきことはきちっと指導し、御本尊と共に祈っていくことです
 仏法で説く真の慈悲は、感傷や安同情とは無縁です。それは結局、人生の勝利に価値を生まない。根本の「同一苦」を破れず、抜苦与楽になりません。
 先生は「慈悲があるということは、即智慧につながっていく。その人のためにどうしてあげたらいいか。その慈悲から、一つ一つ具体的な智慧が生まれる」とも教えてくださった。
 仏法は勝負です。人生も社会も勝負である。大聖人は、門下が仏の力を奮い起こして、断じて幸福を勝ち取るよう、厳愛をもって励まされたのです。


師弟が生む大感情


 仏の慈悲とは、人々の魂を揺さぶり、″絶対勝利の生命″を湧現させずにはおかない、燃え上がる大感情と言ってよい。
 ただ御一人から破邪顕正の大法戦を開始された大聖人は、日本国中の緒人にあだまれ、嫉まれながら、あらゆる大難を忍び人類救済の大道を開かれました。
 『大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり』(御書721頁)と仰せです。大慈悲の師に心を合わせるから抜苦与楽の力が湧く、「師弟」こそ慈悲の原動力なのです。
 戸田先生は言われました。
 「大聖人ほどの大慈悲の仏様は、断じて他におられません。この大聖人の大慈大悲を、全世界に宣揚しなければならない
 この使命の直道こそ、日々、皆様が生き生きと行じている正義の対話であります。
 草創以来、わが学会の同志は、悩める友に同苦し成長と幸福を祈り、大確信で仏法を語り抜き、大勢の人々を救い切ってきました。
 どんなに冷笑され、罵倒されても、一歩も引かず、悩める人のもとへ飛んでいって面倒を見てきました。
 「この信心で幸せになりましょう!」「絶対に乗り越えられますよ!」と、力強い励ましを送り続けてきたのです。それがどれほど勇敢で忍耐強い仏の振る舞いであることか。
 戸田先生は語られました。
 「凡夫には慈悲など、なかなか出るものではない。だから慈悲に代わるものは『勇気』です。『勇気』をもって、正しいものは正しいと語っていくことが『慈悲』に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です
 「その心に満ちて、相手を折伏するならば、相手がきかないわけがない。どんなきかない子でも、母親の愛情には、かないません
 この「勇気」即「慈悲」の連帯は、今や世界百九十二カ国・地域に広がりました。こんなにも、人々を暖かく励まし、希望を送ってきた神々しい団体が、どこにあるでしょうか。
 私が対話を重ねてきたインドの哲人ラダクリシュナン博士が、SGIの青年たちに語ってくださいました。
「皆さんが他人の苦しみと悲しみを取り除き、喜びを与える──すなわち『抜苦与楽』の戦いができた時、そこから『人間革命』は始まる」
(つづく)


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2015年8月28日29日

抜苦与楽

(2)

 

<ただ「一人」>

  

貪・瞋・癡への挑戦


 末法の人々が等しく苦しむ「同一苦」とは、謗法による本源的な苦しみのことです。
 貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)という生命の「三毒」が盛んになる末法にあって、この「同一苦」に立ち向かい、自他共の幸福の道を開く実践が、我らの折伏行です。
 大聖人は仰せであります。

  『飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚しんによりをこる、今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれども同じく一(ひとつ)の三毒なり』(御書1064頁)
 人間生命と社会現象の深き関連性を、ダイナミックに把握された御文です。飢饉や疫病や戦争は、「三毒」が強盛なゆえに起きるのだと喝破されています。
 人間の歴史は、一次元から見れば、この「三毒」によって憎しみ合い、傷つけ合ってきた業因・業果の流転の劇であったと言わざるを得ません。
 この悲劇に終止符を打ち、地球に平和と共生の楽土としゆくためには、「生命」そのものを変革する大哲理が絶対に不可欠です。それこそが、私たちの唱える南無妙法蓮華経の大白法なのであります。
 「如来一人の苦」
 「日蓮一人の苦」
 釈尊も、日蓮大聖人も、徹頭徹尾、ただ御一人で一切衆生の苦悩を受け止められ、その打開のための大法を弘め抜かれました。
 ただ「一人」です偉大な歴史は、常に偉大な一人から創られます。そして、その一人に続く不二の弟子によって受け継がれ、広がっていくのです
一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」この小説『人間革命』の主題も、大聖人の御聖訓を現代に実践しゆく師弟の誓願にほかなりません。

(つづく)

 


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2015年8月24日

抜苦与楽

(1)

 

<一切衆生の「異の苦」を背負う>

  

 私は、常住不滅なる師弟の対話を重ねながら、生死を超克した弟子の闘争を貫いてきました。
我らが信心をなす目的は、永遠の生命のなかに、幸福に生きんがためである
 ある時、先生は、こう語られました
 「この大宇宙の運行それ自体が、慈悲の行(ぎょう)そのものである。我らが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。なんとなれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に、他の貧窮の衆生にも、その幸福を分かち合おうとするのであるから、これ以上尊い仕事はない
 生老病死の苦悩に沈む友に、妙法の世界を指し示して導きゆく信念の対話は、最高に尊い「慈悲の行」であります。
 御本仏・日蓮大聖人のお遣いとして、声の力で「仏事(仏の仕事)」を行う尊極の振る舞いです。

 大聖人は「諫暁八幡抄」で、「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるはことごとく是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦はことごとく是日蓮一人の苦と申すべし」(御書587頁)と仰せです。
 ここで引かれてた涅槃経の文は、苦悩を受けている人々を見て、我がこととして苦悩する如来(仏)の慈悲の大いなる力を讃えた一説です。
 「一切衆生異の苦」とは、人々が受ける種々の異なった苦しみのことです。仏は、すべて自身の問題として背負い、その解決を願われたのです
 これを踏まえつつ、大聖人はあえて「同一苦」と仰せになられました。これは、一切衆生のさまざまな苦悩が、同一の原因によって起こることを明快に示され、その一切を担い立たれた大宣言と拝されます。

(つづく)


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2015年1月8日

慈悲

(4)

 

<慈悲の発露が折伏精神>

  
 『慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり』『彼の為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』とは章安大師の言葉です。(御書236頁)
 真に相手を思って悪を除くのが慈悲の真髄の行動であり、正しき修行が折伏行です。
 大聖人は、「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」と断言されました。
 いうまでもなく、念仏宗では、娑婆世界を「穢土」として嫌います(厭離穢土)。そして、専修念仏によって「西方十万億土」の彼方にあるとされる極楽浄土に往生し、そこで安楽に修行して成仏すると説きます。
 しかし、そうした理想の場所は、観念上のものでしかありません。どこまでも、この苦難の現実の中にあって、幸福への道を開拓し、創造するしかないのです。
 大聖人は、現実逃避の“あきらめ”の思想を、一時的な慰めとなる方便にしかすぎないと破折され、どこまでも娑婆世界というこの現実で戦うことこそ、正しい末法の修行であると断言されました。
 これこそが、民衆が幸福になるための根本の道です。
 この折伏行は本来、仏事(仏の仕事)であり、まさしく慈悲なくしては為し得ぬ仏道修行です。しかし現実には、凡夫が慈悲を現すことは容易ではありません。
 ゆえに戸田先生は、凡夫において慈悲に代わるものは、「勇気」であると教えてくださったのです。
 そのご指導通りに、わが同志は、友のもとへ、人間の中へ、民衆の中へ飛び込んできました。ただただ勇気に燃えて――。
 この折伏精神に生き抜く「穢土の一日」の修行こそが最高の功徳となり、わが人間革命の黄金の歴史となり、わが生命の最高の「心の財」と輝いていくのです。

 

大白蓮華No.782号2015.1月号勝利の経典28~36頁

 


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2015年1月7日

慈悲

(3)

 

<眼前で苦しむ人に同苦を!>

  
  誰が一番、苦しんでいるのか。誰が一番、助けが必要としているのか。それは、今、眼前で苦しんでいるその人です。
 私は常々、「一番苦しんでいる人こそ、一番幸福になる権利がある」と訴えてきました。仏法とは、その一番苦しんでいる人のためにあるのです。その人に同苦する、その人のことを自分と同じだと感じる、その人の身になって考え行動する。そこに慈悲が光ります。
 より高い次元から見れば、末法という最も困難な時代、堪え忍ぶべき苦しみに深く覆われた娑婆世界で懸命に生きている、一切の人間に手を差し伸べ、苦悩を抜いていくことこそ、仏法の根本目的にほかなりません。
 苦悩から立ち上がっていくカギは何か――それは、苦悩の根本原因が尊厳性の否定であり、人間不信であるが故に、尊厳性の自覚であり、人間への信頼と尊敬です。
 いかなる生命も本来、尊極であり、この世の何一つ無駄なもの、無意味なものはない、自身もまたその尊き宝の一つであると自覚する時、強い自信と揺るぎない安心と限りない感謝が生まれます。
 そして、他の人もまた、一人残らず尊い宝であると知り、深い尊敬と固い信頼と広い慈愛が生まれてくるのです。
(つづく)

 


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2015年1月6日

慈悲

(2)

 

<慈悲とはもっとも不幸な人に向けられる>

  
 「慈悲」には、「楽しみを与える」意義と、「苦しみを抜く」意義の両面があります。
 その由来をインドの言葉にたどれば、「慈」とは梵語の「マイトリー」で、友情や友とのの結びつきを意味します。「悲」は「カルナー」あるいは「アヌカンパー」で、憐憫や同情、優しさを意味します。同苦といってもよい。
 「慈しみ」と題する初期の仏典には、こういう一節があります。
 「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(『ブッダのことば スッタパニータ』中村元訳、岩波書店)
 慈悲が包み込む世界が、どれほど広大無辺であるか、この言葉にも明らかでしょう。
 慈悲は「平等」です。それは、ヨコに無限に広がり、タテに永遠に及びます。
 と同時に、その慈悲とは単に「等しい」というものでなく、最も不幸な人に向けられたものです。大聖人は、釈尊が入滅に臨んで最も心配されたのは、罪深き阿闍世王のことであったとの経文を通し、「人にはあまたの子あれども父母の心は病する子にありとなり」(1253頁)と述べられています。(つづく)

 


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2015年1月5日

慈悲

(1)

 

<慈悲あふれる人をもっと多く!>

  
 『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ』(報恩抄、392頁)
 戸田先生は「現代の時勢に、もっとも吾人の強く感ずることは、人々の生活に慈悲の自覚が欠如していることである。無慈悲そのものが現代の世相ではないか」と喝破し、「自然の行業に慈悲があふれる人々をより多くつくらなくてはならない」と訴えられていました。
 無慈悲な社会の中に、温かな慈悲の血潮をいやまして脈々と流れ通わせ、平和と幸福の人間世紀を開いていくのが、私どもの広宣流布の運動の目的です。
(つづく)

 

世界広布新時代

創立100周年

2030年 

 

2025(令和7)年

創価ルネサンスーⅡ

開幕の年

 

世界青年学会

飛翔の年

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.12.22

第2320回

 

日天月天ワンショット

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