2022年1月15日
第1865回
仏法とは生活法
<「常識」豊かに、誰からも尊敬される自分に>
伸一のあいさつとなった。
彼は、ここでも、
「常識」の大切さを語り、
信心即生活、仏法即社会の原理を示していった。
「私どもが信心をしているということは、
あくまでも『信心即生活』のためであります。
観念論でもなければ、
精神修養のためでもありません。
仏法とは生活法なり──これが、
牧口先生、戸田先生の達見でありました。
生活のなかで、
最高の価値を創造していく
根本法が仏法です。
大聖人は
『一切の法は皆是れ仏法』
とお説きになっていますが、
これを現代的に申せば、
『信心即生活』ということです。
であるならば、
私どもの行動は、
社会人として、人間として、
誰が見ても納得する
というものでなくてはなりません。
そこで、大切になってくるのが、
私たちの『常識』です。
信心をしているのだから、
何をしてもかまわないなどと考え違いをし、
思い上がった行動をして、
批判されるならば、
法を下げることになります」
鳥には鳥の道がある。
魚にも魚の道がある。
そして、人間には、
人間の生きるべき道がある。
その最高の人間の道が仏法である。
日蓮大聖人は
「教主釈尊の出世の本懐は
人の振舞にて候けるぞ」
(御書一一七四㌻)と仰せである。
仏の悟りといっても、
現実生活のうえに、
行動のうえに現れるのである。
ゆえに、
仏の別名を「世雄」というように、
仏法を実践する人は、
人間社会の王者であり、
最高の常識人でなければならない。
伸一は、さらに、
身近な具体例をあげながら、
常識の大切さを語っていった。
「信心していない親類や友人のところで、
葬儀があった場合、
他宗だから葬儀には行きたくないと、
思う人もいるかもしれません。
しかし、それは社会の常識に反します。
私たちは、
他宗に祈りを捧げに行くわけではありません。
人間として、
親類や友人の死を悼み、
冥福を祈るために葬儀に参加するのです。
どのような葬式であっても、
そこへ行って、
故人のために題目を唱えること自体が、
最高の供養であります。
いかなる場合でも
題目を唱えていけば、
強い信心であれば、
いっさいの人に仏縁を結ぶことになるし、
亡くなった方の生命に、
題目を送ってあげることができるのです。
また、たとえば、
折伏に熱が入り、
夜遅く人の家を訪ねる。
そして、相手の方が休もうとしているのに、
深夜の十一時、十二時になっても
話し込んでいるとすれば、
これも非常識です。
自分では一生懸命に、
真心を込めて話しているつもりでも、
結局、相手にとっては、
ただ、迷惑な話でしかありません。
しかし、それがわからずに、
”なぜ、あの人は素直に信心できないのだろう”
などと頭をひねっている人もいる。
これでは信心などできるわけがありません。
もちろん、このなかには、
そんな方はいないと思いますが……」
爆笑が、会場をつつんだ。
多少、覚えがあるのか、
頭を掻いている人もいる。
「相手のことを思い、
折伏をするのは仏法者として当然ですが、
あくまでも常識のうえに立ち、
知恵を働かせていくことです。
非常識な行動があれば、
どんなによい話をしても、
その人を心から納得させることはできません。
理屈ではわかっても、
やっぱり学会は嫌いだ、
ということになってしまう。
それが人情というものです。
だからこそ、
私どもは、
知恵を磨き、
人格を輝かせて、
常識豊かに、
誰からも尊敬されていく
一人ひとりになることが大事である
と申し上げたいのであります」
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 14頁~16頁
2022年1月12日
第1861回
常識ある行動
<仏法は最高の道理>
第1715回常識ある行動の大切さ
一九六一年(昭和三十六年)二月十四日、アジア訪問から帰った山本伸一は、早くも十六日には、愛知県の豊橋市で行われた豊城支部の結成大会に出席した。
帰国直後の結成大会とあって、地元のメンバーには、山本会長の出席はないかもしれないという思いがあった。それだけに、伸一が会場の豊橋市公会堂に姿を現すと、大歓声と嵐のような拍手が起こった。
この日、伸一は、
常識ある行動の大切さを訴えた。
「仏法は最高の道理であります。
その仏法を信奉する私たちは、
常に、礼儀正しい行動を
心がけていかなくてはなりません。
たとえば、座談会に行っても、
まるで自分の家のように振る舞い、
会場を提供してくださっているご家族に、
迷惑をかけたりするようなことは、
あってはならないと思います。
さらに、折伏をするにしても、
また、指導をする場合も、
暴言を用いて、
人を見下したような態度は、
絶対に慎まなければならない。
そうした非常識な言動というものが、
どれだけ学会に対する誤解を生んでいるか、
計り知れません。
周囲の人が見ても、
”学会の人は礼儀正しく、立派であるな”
と思えるようでなければ、
本当の信仰の姿とはいえないと思います」
伸一は、このあと、
御本尊は、
わが胸中にあることを述べ、
一人ひとりが信心で生命の宝塔を開き、
幸福な一生を送るよう念願して話を結んだ。
彼がここで、
あえて「常識」を強調したのは、
信仰の深化は人格を磨き、
周囲に信頼と安心を広げていく
最高の常識を育む力となるからである。
また、このころ各地で、
学会員に対する
村八分などの排斥の動きが
激しさを増していたからでもあった。
その経過を見ると、
ちょっとした非常識な言動が
誤解をもたらし、
それが、排撃の糸口にされる
ことが少なくなかった。
もちろん、そのことが、
村八分などの仕打ちの
本当の原因ではなかった。
より根本的には、
学会への無理解と偏見による
感情的な反発であった。
さらに、
学会の折伏を恐れる他教団の意図もあった。
山本伸一が会長に就任して以来、
折伏の波は、
怒濤となって広がっていった。
ゆえに
「魔競はずは正法と知るべからず」
(御書一〇八七㌻)
との御聖訓のうえからも、
法難が競い起こるのは当然であり、
それは、避けることのできない
試練でもあろう。
しかし、非常識な言動から、
社会の誤解を招き、
無用な摩擦をもたらすようなことは、
あまりにも愚かといえよう。
仏法は本来、最高の道理であるからだ。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 7頁~9頁