2022年1月6日
第1853回
「池田門下生も、かくあれ!」
<君よ卑怯者になるな!
倣慢になるな!
恩知らずになるな!>
日興上人は仰せである。
「この大聖人の法門は、
師弟の道を正して、
成仏していくのである。
師弟の道を、
少しでも誤ってしまえば、
同じく法華経を持っていても、
無間地獄に堕ちてしまうのである」
(「佐渡国法華講衆御返事」
竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編』37所収、
東京堂出版。通解)と。
私は十九歳から、
戸田先生を師匠として仰ぎ、
全生命を賭して、
お仕え申し上げた。
師を護り、
師の建設された創価学会を
世界的にするために、
それはそれは、全身全霊、
死にものぐるいで戦いぬいた。
「先生、私が必ずやります。ご安心ください」
こう言いきって、
あらゆる闘争の指揮を執り、
同志とともに一切を勝ち越えてきた。
まっすぐに、師弟に生きぬいた。
まっすぐに、師弟の約束を貫いた。
私の人生は、一点の後悔もない。
戸田先生は、
第一の難をば、
獄中において、
耐え忍ばれた。
会員は激減し、
学会は存亡の危機に陥ってしまった。
第二の難は、
戦後、学会発展の途上において、
事業の大敗北として競い起こった。
多くの弟子たちは、
偉大なる師匠を、
恩師でありながら、
軽んじていた。
ある悪者は、
非難中傷した。
そして、ある恩知らずの弟子たちは、
難が来ると師匠を侮辱して、
あざけり笑って、
去っていった。
その光景は、
私の胸に焼きついて離れることはない。
当時の理事長も、
師である戸田先生を誹謗したのである。
多くの大恩を受けながら、
畜生のごとき心をもって、
偉大な師匠の恩を仇で返した輩は、
当然のことながら、
その最終章は
あまりにも見苦しく、
みじめであった。
「君よ卑怯者になるな!
倣慢になるな!
恩知らずになるな!」
これは、
牧口先生、
戸田先生以来の叫びであるのだ。
仏法は勝負である。
師も勝った。
弟子も勝った。
師弟不二にして、
永遠の勝利を、
私は築いた。
なんという誉れか。
なんという満足か。
大聖人と同じ心をもって、
広宣流布のために、
不惜身命の者として、
大勝利者として、
その、永遠の生命は続くのだ。
「池田門下生も、かくあれ!」と、
私は叫んでおきたい。
2006年1月2日 第二総東京最高協議
2021年12月21日
第1837回
永遠の創価の魂
<いささかたりとも私利私欲があれば>
邪悪と戦い三類の強敵と戦い、
三障四魔を引き受けて、
広宣流布へ戦おうではないか!
それと「不二の心」で弟子も立つのだ。
大聖人は、凡夫そのままの姿で、
「凡夫即仏」の極理を示された。
一面から言えば、
凡夫の姿であるゆえに、
人々からさげすまれ、
大難にもあわれた。
増上慢になり、
小生意気になって、
反逆した愚かな弟子もいた。
しかし、
真実の門下は大難のときこそ、
大聖人をお守りしようと、
喜び勇んで戦った。
私も、打ち続く苦難のなかで、
断じて戸田先生を守りぬくのだと、
猛然と阿修羅のごとく戦った。
ここに、
学会の世界的発展の因がある。
この師弟の闘争こそ、
永遠の創価の魂である。
戸田先生が、
よく話してくださった中国の『十八史略』。
そのなかに、唐の名君・太宗の言葉があった。
「人君の心はただひとつ、
しかるに、
その一心をなんとかしてかき乱そうとするものは、
おおぜいいる。
勇力を誇示して自分を売りこもうとする者、
弁舌巧みにいい寄ろうとする者、
娼びへつらって機嫌をとろうとする者、
嘘いつわりでだまくらかそうとする者、
嗜欲しよく(=嗜み好むこと)につけとんで誘惑しようとする者、
このように、
四方八方からいろいろな人間が、
それぞれ自分を売りこもうとする。
だから、
人君たるものが、
少しでも気をゆるして
これらのうちのひとりにでも
つけいる隙をあたえたら最後、
国はたちまちにして
滅亡のせとぎわに立たされることになる」
(『十八史略』4、花村豊生・丹羽隼兵訳、徳間書店)
いわんや、
広宣流布の「将の将」たる者に、
いささかたりとも私利私欲があれば、
多くの同志を守り、
励まし、
幸福にすることはできない。
「すべて禍は上より起こるものである」
(『言志四録』1、川上正光訳注、講談社)
とは、江戸後期の思想家・佐藤一斎の警句である。
2006.3.17最高協議会
2021年12月13日
第1825回
正師
(1/3)
<正義の師を求めよ、悪師を見ぬけ>
ここで御聖訓を拝したい。
「師弟契約御書」と言われる「最蓮房御返事」の一節である。
「今の時代は、師に正師と邪師、善師と悪師がいる。その違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである」(御書1340頁通解、新版1780頁)
師匠といっても、
正義の師匠もいれば、
邪悪の師匠もいる。
正義の師を求めよ!
邪悪の師を避けよ!
その違いを、鋭く見ぬけ!
決して、だまされるな!
――これが、蓮祖の峻厳なる戒めである。
邪悪な師には、従つてはならない。
従えば、皆が悪に染まってしまうからだ。
日顕がそうである。
宗門が、あれほど腐敗し、堕落したのも、
誤った指導者に従ったゆえである。
邪悪な人間は、たとえ師であっても、
それを遠ざけ、叩き出していかねばならない。
どこの世界でも、同じことである。
わが学会も、断じて油断してはいけない。
役職や立場を利用してインチキをしたり、
同志を苦しめる人間が出たならば、
絶対に許してはならない。
「あなたは、間違っている!」
「おかしいではないか!」と厳しく責めぬいて、
その悪を暴いていくのだ。
そうでなければ、学会を破壊し、
同志を不幸にしてしまうからだ。
その点を厳しく見極めていかねばならない。
これが大聖人の厳命であり、
私の遺言であると申し上げておきたい。
(つづく→2/3)
2021年12月14日
第1826回
正師
(2/3)
<大聖人こそ、正義の師匠>
それでは求めるべき「正義の師」とは、だれか?
それは三類の強敵と戦い、
身命を惜しまず、
妙法を唱え広めていく人である。
つまり、法華経のとおりに「難」を受けているかどうか。
それを大聖人は、最大の眼目とされた。
そして、
「自分こそ法華経を知り、
法華経を修行している者である」
と思いあがっている輩に対しては、
「日蓮が受けたような難にあっていないではないか」
と厳しく切り返し、
責め返しておられる。
(=「最蓮房御返事」のなかで、大聖人は
「先に挙げた諸宗の人々は、自分とそ法華経の意を心得て、法華経を修行する者であると名乗っているけれども、日蓮が受けたような難にあっていない」(御書1341頁通解、新版1782頁)と仰せになっている)
大聖人の御生涯は、
まさしく迫害の連続であられた。
卑劣な讒言などによって二度、流罪された。
頸の座にもつかれた。
種々の難は数知れない。
すべて経文どおりであられる。
ゆえに大聖人は、
「難を受けていない格好だけの者は、
ことごとく邪な師である。
難を受けきってきた日蓮こそが、
正義の師である」
と厳然と宣言されたのである。
(=「日蓮は弘長元年には、伊豆の固に流され、文永八年には、佐渡の島に流され、あるいは竜の口で頸の座にすえられる等の難を受け、このほか種々の難は数え切れないほどである。経文のとおりであるならば、自分こそ正師であり、善師である。諸宗の学者は、ことごとく邪師であり、悪師であるとお考えなさい」(御書1341頁通解、新版1782頁)
(つづく→3/3)
2021年12月7日
第1815回
戸田城聖先生の証明
<無私>
そのホテルには、戸田城聖が、生前、懇意にしていた実業家が宿泊していた。伸一もよく知っている人物であった。
夜更けて、この実業家が、伸一の部屋を訪ねて来た。二人の話題は、戸田の思い出になっていった。
「山本さん、戸田さんのすばらしいところは、学会を組織化したことではないだろうか。
そうしなければ、学会はここまで発展しなかったと、私は思う。これからは組織の時代だ。組織があるところは伸びる」
伸一は言った。
「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。
組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、組織化すれば、うまくいくかといえば、逆の面もあります。組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。
組織というのは、人間の体にたとえれば、骨格のようなものではないでしょうか。必要不可欠なものですが、それだけでは血は通いません。
戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。
私の知っているだけでも、先生から直接、指導を受け、人生の最大の窮地を脱し、人間として蘇生することができたという人が、何万人といます。苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、信心によって立ち上がることができたという事実──これこそが学会の発展の源泉です。
同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです。ゆえに、それぞれが戸田先生を自身の師匠と決めて、喜々として広宣流布の活動に励んできたんです。
同志は、決して先生の役職や立場についてきたわけではありません。ですから、もしも、戸田先生が会長をお辞めになっていても、先生は常に皆の先生であり、仏法の指導者であり、人生の師であったはずです」
実業家は、驚いたように伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、静かな声で言った。
「なるほど……」
「しかし、社会はそれがわからないんです。この同志の心を知ろうとしない。したがって、学会を論ずる評論家も、マスコミも、浅薄この上ない批判に終始してきました」
「確かにそうかもしれない。私も、学会のことはよくわかっているつもりでいたが、そこまではわからなかった。また、そうした学会への批判の背景には、おそらく嫉妬もあったでしょう。戸田さんへの、そして、学会の力に対する……。
正直なところ、私だって嫉妬したいくらいだ。今の世の中、金の力で動かせぬものはない。しかし、学会は、金の力なんかではびくともしない、偉大な精神の世界をつくってしまったんだから……。
こんなことは、誰もできやしないだろう。だから、ほかの勢力にしても、また、為政者にしても、悔しいし、怖いようにも感じるのだろうね」
実業家は、率直に自分の胸の内を伸一に語った。
「もう一つ、戸田さんのすごさは、あなたという後継者を育てたことではないかと思う。
戸田さんが亡くなった時は、これから学会はどうなるのかと思った。しかし、山本さん、あなたは見事にそのあとの流れを開いた。
学会は、空中分解するどころか、ますます大きくなった。たいていは、先代の中心者がいなくなった段階で、分裂していくものだ。あなたより、古参の幹部もたくさんいたはずだ。
あなたは、それを一つにまとめ、学会を引っ張り、今やこうして、世界にまで開こうとしている。その経営手腕はたいしたものだ。どうやって、人心を掌握しているのか、ぜひ教えてほしい」
「私には、そんな策や方法はありません。ただ弟子の代表として、戸田先生の言われた通りに実践し、その構想を実現しようとしているのです。そして、先生に代わって、ひたすら、会員を守ろうとしているだけです。
そのために自分をなげうっています。もし、学会を利用し、同志を足蹴にするようなものがいれば、誰であろうと、私は命がけで戦います。あえて申し上げるとすれば、無私であるということです。そこに皆が共感し、賛同して、ついてきてくれるんです」
「あなたのような後継者をもった戸田さんがうらやましい。いや、実にうらやましい……」
この実業家は、伸一と二時間ほど懇談すると、「勉強になった。ありがとう」と言い残して、ホテルの自分の部屋に帰って行った。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 264頁~268頁
2021年11月13日
第1782回
『牧口は死んだよ』
<誰がやったか忘れるな!敵を討て!>
戸田は生前、獄中で牧口の死を聞いた折のことを語り始めると、目は赤く燃え、声は憤怒に震えるのであった。
「牧口先生は、昭和十九年(一九四四年)十一月十八日、冬が間近に迫った牢獄のなかで亡くなった。栄養失調と老衰のためだ。
私たちは、その前年の秋に警視庁で別れを告げたきり、互いに独房生活で、会うことはできなかった。私は、毎日、毎日、祈っていた。〝先生は高齢であられる。どうか罪は私一身に集まり、先生は一日も早く帰られますように〟と。しかし、先生は亡くなられた。私がそれを聞いたのは、先生の逝去から五十日余り過ぎた翌年の一月八日、予審判事の取り調べの時だった。
『牧口は死んだよ』
その一言に、私の胸は引き裂かれた。独房に帰って、私は泣きに泣いた。コンクリートの壁に爪を立て、頭を打ちつけて……。
先生は、泰然自若として、殉教の生涯を終えられたことは間違いない。しかし、先生は殺されたのだ! 軍部政府に、国家神道に、そして、軍部政府に保身のために迎合した輩によって……。先生がいかなる罪を犯したというのか! 『信教の自由』を貫いたがゆえに、殺されたのだ。
あとで聞いたことだが、先生の遺体は、親戚のところで働く男性に背負われて獄門を出た。戦時中のことでもあり、たった一台の車さえも調達することができなかった。
奥様は、その遺体を自宅で寂しく迎えた。葬儀に参列した人も、指折り数えられるほど少なかった。皆、世間を、官憲の目を恐れていたからであろう。民衆の幸福のために立たれた大教育者、大学者、大思想家にして大仏法者であった先生に、日本は獄死をもって報いたのだ!」
そして、いつも、最後には、阿修羅のごとく、言うのであった。
「私は必ず、先生の敵を討つ! 今度こそ、負けはしないぞ。
先生の遺志である広宣流布を断じてするのだ。永遠に平和な世の中をつくるのだ。そして、牧口先生の偉大さを世界に証明していくのだ。伸一、それが弟子の戦いじゃないか!」
怒りに体を震わせて語る戸田の姿を、伸一は一人、生命に刻みつけた。
戸田は、師の牧口の命を奪った〝権力の魔性〟に対する怒りと闘争を忘れなかった。邪悪への怒りを忘れて正義はない。また、悪との戦いなき正義は、結局は悪を温存する、偽善の正義にすぎない。
<新・人間革命> 第2巻 勇舞 260頁~262頁
2021年10月24日
第1755回
師弟の勝利の大叙事詩を
師弟不二――
真実の戦いは、
ここにしかない。
ここにしか、仏法はない。
深き人間の道もない。
師匠に応えんとする、
その一念、その祈りから、
勝利の力が生まれるのだ。
師匠に心を合わせる。
師弟の熱き魂を
叫び抜いていく。
そうすれば、
もっともっと
力を発揮できる。
変わっていける。
全て「心」で決まるのだ。
師匠に対して、
「きょうも、
新しい勝利の道を
開きました!」と
毎日、報告するような
気持ちで戦うことだ。
師匠は大地であり、
弟子は草木である。
報恩の弟子の勝利は、
稲の命が
大地に還るがごとく、
師匠の栄光となり、
福徳となる。
そして、
その師弟の大地から、
新たな勝利の花が
永遠に咲き誇る。
「決意」は即
「行動」である。
立つべき時に立つ!
時を逃さずに戦う!
電光石火の共戦こそ、
創価の師弟の心であり、
楽土を築きゆく
地涌の闘争なることを
忘れまい。
三世永遠の
「師弟の絆」で結ばれた
わが同志よ、
今こそ前進だ!
対話だ!
励ましだ!
快活に動こう!
この世の誓いを、
尊き地涌の使命を
果たし抜くために!
君よ、
君でなければ
創ることのできぬ、
偉大な使命の物語を創れ!
そして、共々に、
師弟の勝利の大叙事詩を
生き抜いて
いこうではないか!
2021年10月24日〈池田大作先生 四季の励まし〉
2021年4月11日
第1710回
師弟桜に誇りあり
偉大な師匠をもてる人は
幸福だ。
「師弟」とは、
親子以上の、
人間の究極の絆である。
そこには策もない。
要領もない。
本当の生きた魂と魂の
触発であり、交流である。
戸田城聖先生と共に、
私はいつも歩んでいる。
私の頭からは、
瞬時たりとも、
師の面影が消えない。
永遠に、
師とは一体である。
永遠に、
師弟は不二である。
私の人生は、
恩師に捧げた人生である。
恩師ありて、
今の自分がある。
本当に幸せだ。
この師弟の道を、
まっすぐに
走り抜いてきたゆえに、
すべての労苦は今、
世界一の栄誉となって、
満開の桜のごとく
花開いている。
「創価」とは、
また「創華」である。
それは、
遙かな万年の未来へ、
人類平和と
価値創造の人華の園を
広げていくことだ。
万人が、苦悩と不幸の
冬を乗り越え、
人生の勝利の春を
謳歌しゆくことだ。
わが創価の宝の城は、
御聖訓のままの
苦難を生き抜き、
勝ち抜いてきた、
師弟の誇りと民衆の
歓喜の桜花で彩られた、
永遠の桜の城なのである。
我らの前には
「師弟の大桜」が咲き誇り、
晴れやかな「創価桜」の
大道が広がっている。
さあ、
正義と勇気の前進だ!
君たち、貴女たちよ、
対話の春を
舞いに舞いゆけ!
朗らかに、
自身の凱歌の花、
民衆の勝利の花を
咲かせよう!
2021年4月4日〈池田大作先生 四季の励まし〉
2020年7月20日
第1690回
ナポレオン補佐の将軍たちは、
ナポレオン直接指揮のもとに部隊を動かすときは優秀であるが、
自分たち自身の着想で大軍を指揮するだけの力量はなかった
<「師匠ならば、どうされるか」>
ナポレオンは、奥が深い。その「光」と「影」、「栄光」と「悲劇」、「勝利」と「敗北」から、じつに多くの教訓を引き出すことができる。
たとえば、「ワーテルローの戦い」で、ナポレオンは、なぜ敗れたか?
当然、さまざまな角度から分析できるが、一つの要因として、ナポレオンの側近や部下たちの多くが命じられなければ動けない、動かないという、いわば「指示待ち」の体質になってしまっていたことが指摘される。
一人一人が″ナポレオンだったら、どうするか″を考え、責任を担って行動する、一騎当千の獅子の集団ではなくなった。「保身」と「事なかれ主義」が横行する、硬直した組織になってしまったというのである。
ある将軍は、こう記している。
「ナポレオン補佐の将軍たちは、ナポレオン直接指揮のもとに二万五千の部隊を動かすときは優秀であるが、自分たち自身の着想で大軍を指揮するだけの力量はなかった」(長塚隆二『ナポレオン』下、読売新聞社)
著名な作家ツヴアイクも、そうした視点から「ワーテルローの戦い」の敗因を論じている。
すなわち、ナポレオン軍の勝敗の帰趨を握った将軍(グルーシー)が、他人の命令に従うことに慣れ、自分で決断できない人物だったために、いたずらに命令を待つだけで、突入する時を逸し、勝てるチャンスを逃してしまった。
肝心の、ナポレオンの″突入せよ″との命令も、伝令が遅れ、その将軍のもとに届いたときには、一切が手遅れになっていたというのである。(『人類の星の時間』片山俊彦訳、みすず書房、参照)
もしも、その将軍が、ナポレオンと同じ責任感に立って、決断し、行動しゆく勇気をもっていたなら、歴史は変わっていたかもしれない。これは、あらゆる組織に当てはまる示唆をはらんでいると言えよう。
いわんや、広宣流布の組織において、指示待ちゃ受け身の心があれば、前進を阻んでしまう。その行き詰まりを打開しゆく根本の力が、「師弟」なのである。
私は、若き日から、つねに″戸田先生なら、どうされるか″を念頭に置き、先生と同じ責任感に立って、思索し、動き、戦っていった。三障四魔、三類の強敵と戦い、難を受けきられながら、広宣流布の指揮を執られる先生の「境地」を、私は信じぬいて、先生にお仕えした。
私が音楽隊や鼓笛隊をつくり、文化祭を推進し、新しい文化運動の流れを起こしたのも、戸田先生の遠望を拝察して、その具現化のために、絶対に必要であると着想したからである。当時の幹部はだれもが反対したが、戸田先生は、「大作がやりたいように、やってみなさい」と、応援してくださった。
今日の創価学会の「平和」「文化」「教育」の世界的な運動の広がりは、すべて、この「師弟不二」の一念によって成し遂げられてきたものである。このことを、深く知っていただきたい。
2006.3.29「5・3」記念協議会
2020年5月16日
第1667回
自分は師によって救われた。
師があって自分の一生がある。
人と会い、人と語る。
そうやって私は、友情を結び、英知を集め、平和への道を開いた。
イギリスの大歴史家トインビー博士との出会いは忘れられない。
博士は、子息に、こう語っておられる。
「人生は闘争なのだ」
「安閑としていてはなにも得られない」(フィリップ・トインビーとの共著『現代人の疑問』黒沢英二訳、毎日新聞社)
戦いなのだ。
戦う人がいなければ、
何一つ、つくれない。
私は、だれよりも、
一番、試練を受け、
一番、悪人から憎まれ、
それを乗り越えて、
今日の盤石な学会を築いた。
死にものぐるいで、
恩師戸田先生に仕えた。
最大の苦境のなか、
やっかいな渉外に体当たりでぶつかった。
なかには、
「あなたの誠実さには、頭がさがりました」と言って、
味方になってくださる方もいた。
今も心に残る思い出である。
私は、すべてを恩師から学んだ。
「自分なんかは、まだまだだ。
仏法の『ぶ』の字も分かっていない。だから学ぼう。勉強しよう」
ひたぶるに、師を求め、最高の哲学を求めていった。
若き日から愛読してきた武者小路実篤の小説にこういう言葉があった。
「自分は師によって救はれたものだ。
師があって自分の一生があるのだ」(『幸福者』、『武者小路実篤全集』4所収、小学館)
これが弟子の心だ。
わが人生は、
師とともに!
師のために!
――ここに永遠の勝利の軌道がある。
反対に、
謙虚な気持ちを忘れたら、成長はとまる。
立場が上になるほど、
厳しく自身を戒めなければならない。
幹部だからといって、人の意見も聞かない。
胸襟を聞いて、相手の懐に飛び込んでもいけない。
それでは独善だ。
「あの人に本当の大事な話はできない」と思われるようでは、
幹部失格といわざるをえない。
真に広布の責任者としての自覚に立つならば、
わが地域の全同志を抱きかかえ、
勇気と希望を贈っていく。
たとえ一人でも、
少しでも苦しんでいる人がいれば、
駆けつけて支え、
励まし続ける。
その慈愛がなければならない。
一人も残らず幸福に!
その祈りこそ、仏法の指導者の根幹である。
虚栄や権勢に、とらわれてはならない。
広布の同志を大事にすることだ。
自分がどうあれ、学会員が幸福になればいい。
こう決めて私は生きてきた。
このことを、
若き皆さんは、よく覚えておいてもらいたい。
2006.4.5 「5・3」記念最高協議会
2023.7.5整理
2019年7月7日
第1612回
弟子の使命
<師の心を現実社会に>
また韓国SGIは、
いよいよ11月には、
地上13階、地下五階建ての
堂々たる新本部が完成する予定である。
おめでとう!
(=新本部は2003年4月に完成。開館式には池田SGI会長がメッセージを寄せた)
これまで私は、
「韓日友好」を願い、
国立済州大学の前総長である
趙文富博士と
対談を続けてきた。
その対談集も、
本年、発刊されることになっている。
韓国の方との対談集は、
これが初めてである。
(=対談集は『希望の世紀へ 宝の架け橋――韓日の万代友好を求めて』とのタイトルで2002年11月に徳間書店から発刊された。その後、2冊目の対談集が『文化と人間の宝の橋――韓日の万代友好のために』と題し、03年9月より04年7月まで教育月刊誌「灯台」誌上で連載され、『人間と文化の虹の架け橋』として05年3月に徳間書店から発刊された。両書は、『池田大作全集』第112巻に収録)
趙博士は、
韓国の模範の教育者として
尊敬される指導者である。
今回の来日中、こう語ってくださった。
「池田先生は、
韓国のことを一貫して『文化大恩の国』と
讃えてくださいました。
だからこそ、
日本人のみならず、
韓国人も、
相手の国の人に感謝できる
『価値創造の人間』へ成長する方途に、
気づくことができたのです。
また池田先生は、
日本人であるとか、
韓国人であるとかに関係なく、
全人類が、
そのような価値創造の人間になることを
切に願っておられる。
これが私の結論となったのです」
ご寛大な、深い理解に感謝を申し上げたい。
また博士は、真剣な面もちで語られていた。
「池田先生のお弟子さんたちも、
まだまだ池田先生の理想と思想に対する、
本当の意味での理解が足りません。
私たちは、池田先生から学び、
そのことを現実社会で実現していく
使命があるはずです。
ところが、
私たちは、先生についていくことさえ
できないでいるのです」
韓国の大教育者の言であり、
ありのままに紹介させていただいた。
2002.7.25第十九回本部幹部会、第二回信越総会 文化大恩の国
2019年6月22日
第1610回
牧口先生
獄中の崇高なる最期
<師の正義を証明するのが弟子>
先日、牧口先生の三男・洋三さんの
夫人である金子貞子さんが、
牧口先生の最期の様子について、
貴重な証言をしてくださった。
きょうは、歴史に残す意味でも、
そのお話を皆さんに紹介させていただきたい。
貞子さんのご主人の洋三さんは、
昭和十九年八月に戦死された。
残された貞子さんは、
当時、獄中におられた
義父の牧口先生を最後までお世話された。
先生の精神を受け継いで、
今日まで、
しっかりと信心を貫いてこられた
立派な方である。
貞子さんは、こう語っておられる。
「じつは、牧口先生が亡くなられた
(昭和十九年の)十一月十八日の前日、
東京拘置所から、
先生の危篤を知らせる
電報がまいりました。
その電報は、夕方、
薄暗くなったころに届きました。
私は、すぐに拘置所に向かいました」
(この日、貞子さんは、牧口先生への差し入れの準備のため、疎開先から目自の先生の自宅に戻っていて、この電報を受け取った)
「拘置所に着くと、
看守の方が、
その日の牧口先生の様子を
語ってくださいました。
すでに真っ暗になっていたので、
おそらく、時間は、
午後七時くらいではなかったでしょうか」
(看守は、重体の牧口先生に、再三にわたって病監に移ることを勧めたが、先生は頑として拒否し続けていた。ようやく、この日、牧口先生は、病監に移りたい旨を申し出て、午後三時ごろ、歩いて病監に移動した。七十三歳の高齢の体は、長期の独房生活で、すでに極限の状態にあったのである)
「看守の方によると、
病監に移るとき、
看守が『おぶってさしあげましょう』と言うと、
牧口先生は『とんでもありません。
私は歩いて行きます』と、
ふらふら、途中、
何回か転びそうになりながらも、
みずから歩いて病監に行き、
そこで眠りにつかれたそうです」
貞子さんは、
病監で眠っている牧口先生と対面された。
「私は、何回か『おとうさん』
と呼びかけましたが、
返事はありませんでした。
私は心配になって、
足袋や下着をそっと確認したところ、
いずれも、きれいなものに着替えていらっしゃったので、
牧口先生は、
覚悟のうえで、ここにいらっしゃったのだと思いました。
枕の下には、
きちんと手紙が重ねて置いてありました。
ご立派なその姿を通して、
いろいろと教えていただいたことが忘れられません」
(この日、貞子さんは終電車で自宅に戻った。そして、翌十八日の午前六時ごろ、牧口先生は静かに息を引き取り、偉大なる生涯の幕を閉じた)
「拘置所から、
日自の自宅まで、
牧口先生のご遺体を背負って歩いてきた方が、
『背中がとてもあたたかかった。
そして柔らかかった』と言ったことを、
たいへん印象深く覚えています」
これが、創価の父である牧口先生の
崇高なる殉教のお姿である。
牧口先生は、
傲慢な国家権力によって、
非道にも獄死させられた。
戸田先生は、
そのことを、片時も忘れられなかった。
そして、その話になると、
いつも涙し、
怒りに全身を震わせて、
「おれは絶対に師の仇を討つ。
師の正義を証明してみせる。
それが弟子ではないか!」
と叫ばれたのであった。
私も、
牧口先生、戸田先生のおっしゃったことは、
どんなことも実現してきた。
そして、
厳然と師匠の仇を討ち、
事実のうえで、
師匠の正義を世界に宣揚してきた。
それが、本当の「師弟の道」であり、
「人間の道」であると確信するからである。
貞子さんは、こうも語ってくださった。
「ともかく、
牧口先生は『自分は小さいときから、
学校教育にはたいへんに苦労した。
だから行きたくても行けない人のために、
奨学金を出してあげて、
大学まで行けるようにしてあげたい』
と言っていました。
ですから、
牧口記念教育基金会が
奨学金制度を始めたときには、
『おとうさんのおっしゃったとおりの
制度ができた』と感動しました」
「牧口先生が念願されていた、
幼稚園から創価大学まで、
それもアメリカ創価大学まで、
池田先生がつくってくださったことが、
うれしくて、うれしくて、
こんなにうれしいことはありません」
2002.7.25 第十九回本部幹部会、第二回信越総会
2018年11月28日
第1562回
1943年10月11日
どこまでも師とともに
<東京拘置所>
牧口先生が牢獄で精読された
哲学者カントは言う。
「ソクラテスのような人をまで
誹謗して、
何人か徳を信じようとするものを
妨害したりするということは、
人間性に対して仕向けられる
大反逆である」
(『人間学・教育学』清水清訳、玉川大学出版部)
牧口先生を
国粋主義の日本が弾圧したのは、
まさに、「人間性に対する大反逆」であった。
正義の創価学会を迫害する日顕宗も、
「人間性への大反逆」にほかならない。
人類の師ソクラテスは、
嫉妬の謀略によって、
毒杯をあおって死んでいく。
その時、弟子プラトンが立ち上がる!
牧口先生は牢獄で殉教する。
その時、弟子・戸田先生が立ち上がる!
戸田先生が、あらゆる迫害と戦い、死んでいく。
その時、弟子の私が立ち上がった!
偉大なる師の心を継いで、
必ず″不二の弟子″が立ち上がるものだ。
この方程式が仏法である。
真実の「師弟」の道である。
きょう、
十月十一日は、どういう日か。
それは五十八年前(一九四三年<昭和十八年>)、
戦時中のことである。
稀代の悪法である
治安維持法違反と不敬罪によって、
不当にも逮捕された戸田先生が、
警視庁から巣鴨の東京拘置所に移されたのが、
この日だったのである。
その半月ほど前の
九月二十五日、
牧口先生が、先に東京拘置所に移された。
真の弟子である戸田先生は、
勇んで師匠の後に続かれたのである。
「どこまでも師匠とともに!」
「どこまでも師匠のために!」
これが弟子である。
私も、同じ決心で、
戸田先生にお仕えしてきた。
創価学会の三代の「師弟の道」
――これを、若い皆さんは、
よく覚えておいていただきたい。
この最高の人間の道を
忘れない限り、
踏みはずさない限り、
創価学会は永遠に繁栄していく。
自分自身も、
永遠の勝利王となり、
人間王者となることは、
絶対に間違いない。
大聖人は仰せである。
「よき弟子をもつときには、
師弟はともに仏果(成仏の境涯)にいたり、
悪い弟子をたくわえてしまえば、
師弟はともに
地獄に堕ちるといわれている。
師弟が相違すれば(師匠と弟子の心が違えば)
何ごとも成し遂げることはできない」
(御書900頁、通解)
この師弟の大道を、
まっすぐに走りながら、
私は、牧口先生、戸田先生のお名前を
全世界に宣揚してきた。
それまで、世界はおろか、
日本でも知る人は少なかった。
中国に行っても、
韓国を訪れても、
私は、
師匠の偉業を語りに語りぬいてきた。
今や、両先生のお名前は、
世界中で讃えられている。
これが私の人生の誉れである。
2001年10月11日 第十回本部幹部会、第二回関東総会
2018年10月13日
第1537回
『師弟』を忘れたら
学会は崩壊する
『師弟の道』を誤ったら
成仏はできない
<全員が池田大作たれ>
「真の池田門下として、毅然と立ち上がり、必死の祈りと行動で、一生涯、戦って戦って戦い抜く人間こそが『弟子』なのだ。
仏法の根幹は『師弟』である。創価の三代に連なる師弟の道に生き抜いていただきたい。
『師弟の道』を誤ったら成仏はできない。折伏を忘れ、広宣流布を忘れ、一番大事な師弟を忘れたら、学会は崩壊である。
かつて戸田先生の時代、私たち青年部は、『全員が戸田城聖たれ!』と叫んで戦った。
全員が会長であり、
全員が大将軍であり、
全員が広布の総責任者
――その自覚で大前進していっていただきたい」
大白蓮華2018年10月号№828 28頁
2018年9月19日
第1526回
師弟の真実を
正しく後世に残せ!
<師弟は不二でなければ仏法の生命はない>
「真実」とは
↓
広宣流布あるのみ
↓
創価学会を守れ
↓
「大切な仏子を、一人残らず幸福にさせたい」
一、大変にご苦労さま! また、祝賀の集い、本当におめでとう!
一、私が『人間革命』の執筆を決意したのは、戸田先生の「真実」を、正しく後世に伝えたい、残しておかねばならないとの思いからであった。
戸田先生の弟子と名乗る人は多かった。また、戸田先生にお世話になり、直接、指導を受けた人も数多くいた。
にもかかわらず、戸田先生の死後、師敵対して、学会に反逆する者も出ている。
それは、戸田先生の「真実」を知る人が極めて少なかったことを物語っている。
事実と真実――これほど判別の難しいものもない。人間の目に映った「事実」が、必ずしも「真実」を表しているとは限らないからである。
「事実」は、ある意味で、だれにでも見える。しかし「真実」は、それを見極める目を磨かなくては、決して見抜くことはできない。
悠然たる心
一、こんなエピソードがある。
戦前のことだが、初代会長の牧口先生が一生懸命に講義をされているのに、理事長の戸田先生は、よく将棋をさしていたというのである。
周囲の人は、それを見て、「会長は講義、理事長は将棋」と陰口を言い、「不遜極まりない、傍若無人な振る舞いである」と非難した。
しかし、そこには、戸田先生の深いお考えがあった。
当時、厳しく罰論を説く牧口先生についていけず、一部に離れていこうとする人々もいた。
そこで戸田先生は、悠々と将棋をすることで、学会の自由さを示しながら、雰囲気をなごませ、励まし、退転への防波堤となっておられたのである。
そうした戸田先生の「真実」を、牧口先生だけはご存じであった。
だからこそ、あの厳格な牧口先生が、そうした振る舞いを、決して咎めようとはされなかったのである。
境涯で決まる
一、また、戦後、戸田先生の事業が暗礁に乗り上げた時のことである。莫大な負債。会社は倒産。給料も、もらえない。人々も去っていった。
しかし、そのさなかで、先生は私に言われた。「大作、大学をつくろう、創価大学をつくろうよ。いつごろつくろうか」と――。
他の人が聞いたら、何を“ほら話”をと思ったであろう。
苦境という「事実」はどうあれ、この悠然たる心に、先生の「真実」があった。その壮大なる希望、闘争の一念、絶対の確信――私は知っていた。私は忘れない。
だが、その先生を、「ペテン師」「詐欺師」と非難する者は多かった。一時の姿のみで、先生を悪人と決めつけたのである。
先生は、まったく弁解されなかった。そうした人々とは、あまりにも「次元」が違っていた。「境涯」が、人間としての「格」が違っていた。
一、「事実」といっても、一断面のみ見れば、「真実」とまったく違った様相を呈する場合もある。
また、同じ「事実」を前にしても、そのとらえ方、見方は、人によって異なる。歪んだ鏡には、すべてが歪んで映る。歪んだ心の人には、一切が歪んで見えてしまう。物事を見極める眼力――それは、自らの「境涯」で決まる。
御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(237ページ)と。また戸田先生も、この御聖訓を拝して、「大聖にほめらるるは一生の名誉なり」と言われていた。
使命の生涯を
一、戸田先生の「真実」とは何か。
結論して言えば、「広宣流布あるのみ」――ただそれしかなかった。そして、「広宣流布」を進めゆくための「創価学会」を築き、守りぬいていく以外にない――ここにこそ、先生の「真実」があった。
そして「大切な仏子を、一人残らず幸福にさせたい」との一念――先生のお考え、行動の一切は、そこに発し、そこに尽きていた。もとより、相手の地位や名声、財産など、まったく眼中になかった。
ある時は、阿修羅のごとく悪を砕き、ある時は、大海のごとき慈愛で同志を包んでくださった――ただ一人、広布の前進を担われた先生であられた。
一、私は、19歳の夏、先生とお会いした。1年数カ月後、21歳からは直接、先生のおそばで働いた。365日、朝から夜中まで、懸命にお仕えした。
――「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、その一つの前提となろう。
なかでも、その人物が、「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要であろう。
人物の真価は窮地にあってこそ、明らかとなる。
その意味で私は、先生を、あらゆる面で、つぶさに見てきた。先生の「真実」を、魂の奥底に刻んできた。
一、私は「先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう」と決めた。弟子として先生の志を受け継ぎ、広宣流布の一切の責任を担いゆかんと決めた。
その時から、先生のお気持ち、お考えが、鮮明に心に映じはじめた。師の真の偉大さ、すばらしさを、胸中深く焼き付けることができた。
また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。
私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも「不二」でなければ、仏法の生命はない。
最後に、尊き使命の生涯を、ともどもに、見事に「満足」で飾っていただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとします。
ありがとう! お元気で!
1991年10月16日の「世界広布新時代第37回本部幹部会」関西総会
※2018年9月1日「世界広布新時代第37回本部幹部会」で紹介された池田先生の指針「師弟は不二であれ! 師の真実に生きよ」9月17日付聖教新聞
2018年9月8日
第1522回
一人の本物の弟子がいれば、
広宣流布は断じてできる
山本伸一の厳とした声が響いた。
「私は、戸田先生が『水滸会』の会合の折、こう言われたことが忘れられない。
『中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる』
その『一人』とは誰であったか。誰が戸田先生の教えのごとく、命がけで世界にこの仏法を弘めてきたか――私は“その一人こそ、自分であった”との誇りと自負をもっています。
どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です。また、それこそが、創価学会が二十一世紀を勝ち抜いていく『根本の道』であり、広宣流布の大誓願を果たす道であり、世界平和創造の大道なんです。
頼んだよ! 男子部、女子部、学生部! そして、世界中の青年の皆さん!」
「はい!」という、若々しい声が講堂にこだました。
会場の後方には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖の肖像画が掲げられていた。二人が、微笑み、頷き、慈眼の光で包みながら、青年たちを、そして、同志を見守ってくれているように、伸一には思えた。
彼は、胸の中で、青年たちに語りかけた。
“さあ、共に出発しよう! 命ある限り戦おう! 第二の「七つの鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ”
彼の眼に、「第三の千年」の旭日を浴びて、澎湃と、世界の大空へ飛翔しゆく、創価の凜々しき若鷲たちの勇姿が広がった。
それは、広宣流布の大誓願に生き抜く、地涌の菩薩の大陣列であった。
(小説『新・人間革命』全三十巻完結)
二〇一八年(平成三十年)八月六日
長野研修道場にて脱稿
創価の先師・牧口常三郎先生、
恩師・戸田城聖先生、
そして、尊き仏使にして「宝友」たる
全世界のわが同志に捧ぐ 池田大作
小説「新・人間革命」(6469) 誓願 139 2018年9月8日
◆原田会長の談話◆
命を削る「ペンの大闘争」に感謝
小説『新・人間革命』が本日、ついに連載完結を迎えました。
1993年8月6日に、池田先生が長野の地で執筆を開始されてから25年。64年12月2日に沖縄で筆を起こされた小説『人間革命』から数えれば、半世紀以上という長きにわたる執筆となります。
池田先生が命を削る思いで続けてこられた「ペンの大闘争」に、池田門下を代表して、満腔の感謝を捧げるものです。
池田先生の戦いを貫くものは、ひとえに、恩師・戸田城聖先生への誓願に、ほかなりません。
戸田先生ご執筆の小説『人間革命』は、戸田先生の分身ともいうべき「巌さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わります。
獄門を出た戸田先生が、若き日の池田先生と出会ったのは47年8月14日。それからちょうど10年後の57年8月14日、池田先生は恩師と訪れた長野の地で、発刊まもない戸田先生の小説『人間革命』の単行本を読み終えた感動のままに、執筆の誓いを固められました。“先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”と。
この峻厳な歴史に思いをはせる時、小説『新・人間革命』の完結とは、私たち門下にとって、その続編を自身の姿と行動でつづり始める“誓願の出発点”であると言っても、過言ではありません。
『人間革命』『新・人間革命』は、広宣流布の歴史を通して「学会精神」を刻み残した「信心の教科書」です。一人一人が、山本伸一の分身たる思いで進むことが、“人間革命”の「精読」であり、「実践」となります。
また、『人間革命』『新・人間革命』は、「未来を照らす明鏡」であります。先生はご自身の足跡を通し、未来永劫にわたって弟子が広布と人生に勝ち続けるための方途を、示してくださいました。
さらに『人間革命』『新・人間革命』は、「師匠との対話の扉」でもあります。
インドのある青年リーダーは、若い友から「池田先生にご指導を受けたいのですが」と尋ねられるたび、こう答えているそうです。「簡単さ。『NHR』を開こう!」と。
「NHR」は「New Human Revolution」の略。つまり、『新・人間革命』を開くことは、先生と心で対話できる“扉”を開くことに通じる――というのです。
『人間革命』『新・人間革命』を学び続ける限り、学会が永遠に勝ち栄えていけることは間違いありません。
新たな人間革命の歴史を開く戦いを開始して、師恩に報いる弟子の道を貫こうではありませんか。
2018年9月8日付 聖教新聞一面
2018年7月28日
第1516回
弟子が本当に勝負すべき時
<師が、直接、指揮を執らなくなった時こそが勝負>
出でよ!戦う勇者よ!
彼は、すべての質問に、率直に答えた。
午後八時前、記者会見は終わった。
受付の女子職員が、心配そうな顔で伸一を見ていた。彼は、微笑を浮かべて言った。
「大丈夫! 私は何も変わらないよ!」
それから別室に移り、青年部幹部らと懇談した。彼は魂を注ぎ込む思いで訴えた。
「私が、どんな状況に追い込まれようが、青年が本気になれば、未来は開かれていく。
弟子が本当に勝負すべきは、日々、師匠に指導を受けながら戦っている時ではない。それは、いわば訓練期間だ。師が、直接、指揮を執らなくなった時こそが勝負だ。
しかし、師が身を引くと、それをいいことに、わがまま放題になり、学会精神を忘れ去る人もいる。戸田先生が理事長を辞められた時もそうだった。君たちは、断じてそうなってはならない。私に代わって、さっそうと立ち上がるんだ! 皆が“伸一”になるんだ!」
彼が聖教新聞社を出て、自宅に向かったのは、午後十時前のことであった。
空は雲に覆われ、月も星も隠れていた。
これで人生ドラマの第一幕は終わったと思うと、深い感慨が胸に込み上げてくる。
すべては、広布と学会の未来を、僧俗和合を、愛するわが同志のことを考えて、自分で決断したことであった。彼は思った。
“これからも、学会の前途には、幾たびとなく怒濤が押し寄せ、それを乗り越えて進んでいかなくてはならないであろう。私が一身に責任を負って辞任することで、いったんは収まるかもしれないが、問題は、宗門僧らの理不尽な圧力は、過去にもあったし、今後も繰り返されるであろうということだ。それは広宣流布を進めるうえで、学会の最重要の懸案となっていくにちがいない。
学会の支配を企てる僧の動きや、退転・反逆の徒の暗躍は、広宣流布を破壊する第六天の魔王の所為であり、悪鬼入其身の姿である。信心の眼で、その本質を見破り、尊き仏子には指一本差させぬという炎のような闘魂をたぎらせて戦う勇者がいなければ、学会を守ることなど、とてもできない。広宣流布の道も、全く閉ざされてしまうにちがいない”
未来を見つめる伸一の、憂慮は深かった。
新・人間革命 第30巻 上 大山 85頁
2018年7月16日
第1515回
創価の師とは、
現代に出現した「地涌の菩薩」の棟梁
<師弟の結合こそが創価の生命線>
伸一は、首脳幹部の一人ひとりをじっと見つめた。皆、眉間に皺を寄せ、口を開こうとはしなかった。長い沈黙が続いた。
伸一が、一人の幹部に意見を求めると、つぶやくように語った。
「時の流れは逆らえません……」
なんと臆した心か――胸に痛みが走った。
伸一は、自分が頭を下げて混乱が収まるならば、それでよいと思っていた。辞任は避けられないかもしれないとも考えていた。また、皆が対応に苦慮し続けてきたことも、よくわかっていた。しかし、それにしても不甲斐ないのは“時流”という認識である。
“ただ状況に押し流されて、よしとするなら、いったい学会精神はどこにあるのか! 大事なのは、広宣流布のために学会を死守しようという奥底の強い一念ではないか!”
伸一の声が静寂を破った。
「わかった。私は、法華講の総講頭も、学会の会長も辞めよう。一切の責任を負う。それでいいんだな! すべては収まるんだな!
しかし、会長の辞任は、宗門ではなく、学会が決めることだ。私が会長を辞めるのは、前々から考えてきたことであり、学会の未来を開くためだ」
伸一には、“宗門が創価学会の会長を圧力で辞めさせるなどという前例を、絶対につくってはならない。また、そんなことになれば、宗門の歴史に、永遠に汚点を残すことになるだろう”との思いもあったのである。
戦後、宗門が危殆に瀕した時、外護の赤誠をもって、それを救ったのは学会である。そして何よりも学会は、伸一を先頭に死身弘法の戦いをもって、実際に大聖人の御遺命通りに広宣流布を推進し、世界に妙法を流布してきた唯一無二の仏意仏勅の団体だからだ。
伸一の話に感極まった首脳が言った。
「先生! 誠に申し訳ありません……」
広布の道は、第六天の魔王との壮絶な闘争である。信心をもって、その魔を見破り、戦い、勝ってきたからこそ、学会は広宣流布の大潮流をつくることができたのである。
戸田城聖は、弟子たちに、「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と遺言していた。ここに、常勝の道を開く団結の要諦がある。
伸一は、自分を守ってもらいたいなどという気持ちはなかった。しかし、恩師が広宣流布のために言い残した精神を皆が忘れかけていることに、心が震撼する思いがした。
彼は、学会の前途を見すえながら、祈るような気持ちで首脳幹部に言った。
「私は師子だ! 何も恐れはしない。皆も師子になれ! そうでなければ、学会員がかわいそうだ。烈々たる闘争心と勇気をもって、創価の師弟の大道を歩み抜くのだ。その一念が不動ならば、いかなる事態にも学会は揺らぐことはない。戸田先生は見ているぞ!」
彼は席を立ち、部屋を出ていった。
窓の外で、桜の花が舞っていた。
伸一は、その花を見ながら、牧口常三郎と戸田城聖の師弟の大闘争を思った。
一九四三年(昭和十八年)六月、国家神道を精神の支柱にして戦争に突き進む軍部政府の弾圧を恐れ、宗門は「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と言いだした。
牧口は、それを拒否し、大難を覚悟で国家の諫暁に立ち上がった。その時、弟子の戸田もまた、死身弘法の決意を固めたのである。そして、牧口と共に逮捕・投獄された戸田は、獄舎の独房にあって、“罪は私一身に集まり、先生は一日も早く帰られますように”と、ひたすら祈り続けたのだ。
宗門が謗法の濁流に没しようとしていたなかで、師弟のこの魂の結合が、日蓮大聖人の正法正義を守り抜いたのである。牧口は獄中にあって殉教するが、生きて獄門を出た戸田は、師の遺志を受け継いで学会を再建し、日蓮仏法の悠久なる流布の道を開いていった。
創価の師とは、広宣流布を誓願し、現代に出現した「地涌の菩薩」の棟梁であり、前進の主軸である。そこに弟子の一念が噛み合ってこそ歯車は大回転を開始する。ゆえに、師弟の結合こそが創価の生命線となるのだ。
新・人間革命 第30巻 上 大山 34頁
2017年6月10日~21日
師弟不二の道
戸田先生と池田先生
(6/6)
<創価の中核中の中核たれ!>
一九五四年(昭和二十九年)の春三月のことであった。
私は戸田先生から、「大作が立つ時が来た。大作よ、青年部の室長になれ。俺も少々、疲れた。一切、頼むぞ」と、直接の任命をいただいたのだ。
ともあれ、戸田先生が、約三千人の同志と共に、第二代会長として立たれ、広宣流布の大進撃を開始して、間もなく満三年を迎えようとしていた。広宣流布の構想はすべて先生の胸中から発し、折伏弘教の波も、いよいよ十万の大波となってきていた。
しかし、大躍進とはいえなかった。
当時の学会は、すべてが、戸田先生の双肩にかかっていた。個人指導も御書講義も、青年たちの訓練育成、そして、地方への広布の展開も、すべてが先生の陣頭指揮で行われた。
学会を「船」だとすれば、先生お一人で、船のスクリューと操舵を兼ねておられたようなものであった。
御本尊を根本として、同志の信心のエンジンは回転を増していた。その勢いが確実にスクリューに連動し、正しく舵取りされてこそ、船は波を蹴って前進する。
先生は、新しいスクリューをつくろうとされた。そして私に広宣流布の全責任を担うべき立場を与え、訓練してくださったのである。
任命のその日、三月三十日の日記に、私は綴った。
「一段、一段、学会の中核となって、広布の推進をせねばならぬ。
これが、自己の使命だ。草花あり、花を咲かせる。これ使命なり。
自己あり、妙法の流布をいたす。これ使命なり」(本全集第36巻収録)
そして、仏と魔の大闘争に立ち上がる決意を込め、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」と記した。仏法は、あくまでも勝負である。わが使命は勝つことなりと、私は生命に刻みつけたのであった。
五十年前(当時)のこの年、戸田先生は、年頭から青年部幹部の会合に出席し、「次代の学会は青年に託す!」と、烈々たる気迫で叫ばれた。
私に対する毎朝の講義も続いていた。「勉強せよ、勉強せよ」と、先生のお声には、遺言の響きさえあった。
そうしたなかでの、青年部の室長の任命であった。それは、創価の中核中の中核である。
私は、「自分の成長が青年部の成長である。いな学会の前進である」と決心したのである。
何があろうが、歯を食いしばって、一歩でも、二歩でも前に進むことだ。私は、毎日、寸暇を惜しんで御書を拝した。読書にも挑戦した。仕事も、学会活動も、全責任を持ちながら、戦い、走り回った。一日一日が激戦であり、勝負であった。
あまりにも多忙極まる日々であり、私の弱い体は、重苦しい疲労が重なり、微熱はいっこうに下がらず、いつ倒れても不思議でない生命の状態になっていた。
先生は、魔を断ち切るように厳しく言われた。
「三障四魔との戦いだ。泣いて、御本尊を拝みゆく以外に打開はないよ」
断じて、強くなれ!
強く立て!
強く生きるのだ!
私は、色心の宿命を革命する思いで、猛然と怒濤に立ち向かっていった。
室長になったからといって、戸田先生から、こうしなさい、ああしなさいといった話は全くなかった。
「まず、全部、自分たちで責任をもって考えよ」という先生の訓練であった。
ある地方で、既成宗教から布教が妨害されたと聞けば、すぐ青年部が現地へ飛んだ。
現場第一である。そして、同志が苦しまないよう、戦いやすくなるよう、また、広布の長い展望のうえから、電光石火のスピードで、あらゆる課題に手を打っていった。
机上で小手先の策を練るのではない。自らが最前線に飛び込み、誰よりも苦労して、智慧を湧かせ、活路を開いていくのだ。
戸田先生は、「あくまでも自己に厳しく、人びとを大きく包容していくことを常に心がけなければ、強力なる推進力となることはできない」と将軍学を教えられた。
当時は、本当によく先生に叱られた。情報が遅いと言っては叱られ、何かの対応について、また怒られる。直接、関係ないことでも、どうなっているかと叱責された。
すべて、青年部が広宣流布の責任を担えとの、ありがたき厳愛の指導であったのだ。
一人立つ――師の深き期待に応える大道は、この一念を定める以外にない。
わが青年部の戦友もまた、自分のいるその場所で、断固として、勝利の全責任を担い立て!
広宣流布の激戦が行われているところなら、どこにでも駆けつけ、逆転の突破口を切り開け!
私は、その模範の開拓者になって、戦い進んだ。そして、新しき勝利と拡大の渦を巻き起こしていったのである。
任命から一カ月余が過ぎた五月には、「青年部五千人の結集」を行った。
そのわずか半年後には、倍増の「一万人の大結集」も実現した。
翌年(一九五五年)、日蓮宗(身延派)との「小樽問答」でも勝った。「札幌・夏の陣」でも日本一の弘教を敢行した。
一九五六年(昭和三十一年)の「大阪の大法戦」では、一支部で一万一千百十一世帯の折伏という不滅の金字塔を打ち立てた。
続く「山口の開拓指導」も勝った。
学会員を苛め、信教の自由を侵すような勢力と戦った「夕張炭労事件」でも、私は勝ってきた。
さらに、第三代会長に就任した翌年には、国立競技場を埋め尽くした「精鋭十万の大結集」を達成した。これには、日本中が驚き、幾多のマスコミが走った。
私は、この大結集を、青年部の室長としての決着点と決めていた。私は、満天下に完勝の旗を悠然と打ち立てたつもりだ。
楽な戦いは一つもなかった。誰もが「難しい」「無理だ」と後込みする激戦ばかりであった。しかし、偉大なる師匠の弟子として、断じて負けるわけにはいかなかった。
一つひとつが「壁を破る」戦いであった。
「邪悪を打ち破る」戦いであり、
「正義を打ち立てる」戦いであった。
「創価の使命と偉力を示しきる」戦いであった。
今度は、わが本門の弟子である青年部諸君が、誇り高く立ち上がる時だ。
若き英雄の君よ、広宣流布の法戦にあって、わが支部の勝利の″青年室長″たれ!
同志が信頼する、わが地区の″青年室長″たれ!
2004年1月6日 随筆 人間世紀の光1(135) 新しき一年の旅立ち
2017年6月1日~6月9日
師弟不二の道
戸田先生と池田先生
(5)
<仏法の生命は師弟不二にあり>
戸田先生の「真実」とは何か。
結論して言えば、
「広宣流布あるのみ」──ただそれしかなかった。そして、
「広宣流布」を進めゆくための「創価学会」を築き、守り抜いていく以外にない──ここにこそ、先生の「真実」があった。そして
「大切な仏子ぶっしを、一人残らず幸福にさせたい」との一念──先生のお考え、行動の一切は、そこに発し、そこに尽きていた。もとより、相手の地位や名声、財産など、まったく眼中になかった。
ある時は、阿修羅(あしゅら)のごとく悪を砕(くだ)き、ある時は、大海のごとき慈愛で同志を包んでくださった──まさに、天を支える巨人アトラス(ギリシャの伝説に登場する巨人)のように、ただ一人、広布の前進を担(にな)われた先生であられた。
私は、十九歳の夏、先生とお会いした。一年数カ月後、二十一歳からは直接、先生のおそばで働いた。三百六十五日、朝から夜中まで、懸命にお仕えした。
ある時など、朝の四時ごろ、急に呼ばれたこともある。今と違って、車など簡単に見つからない。それでも不思議とタクシーが見つかり、先生のもとに駆け付けた。一事が万事で、毎日が、それは厳しい訓練の連続であった。
──「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、その一つの前提となろう。なかでも、その人物が、「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要(かんよう)であろう。
『よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ』(聖人御難事1190頁)──よいことは不思議であり、悪いことは決まりきっていると思いなさい──と大聖人は仰せである。
人物の真価は窮地(きゅうち)にあってこそ、明らかとなる。その意味で私は、先生を、あらゆる面で、つぶさに見てきた。先生の「真実」を、魂の奥底(おうてい)に刻んできた。
私は「先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう」と決めた。
弟子として先生の志(こころざし)を受け継ぎ、広宣流布の一切の責任を担いゆかんと決めた。
その時から、
先生のお気持ち、お考えが、鮮明に心に映じはじめた。
師の真の偉大さ、素晴らしさを、胸中深く焼き付けることができた。
また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。
私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも「不二」でなければ、仏法の生命はない。
師の教えを守ってこそ弟子である。「師弟」である。
1991年10月16日 関西総会
2017年5月25日
師弟不二の道
戸田先生と池田先生
(4)
<師弟の誓い(後半)>
題目、題目、題目・・・!!!
さて五十五年前、昭和二十六年の一月六日のきょうこの日、私は、正午近く、戸田先生のご自宅に呼ばれ、先生の部屋に入った。二十三歳になったばかりであった。
あの剛毅な、偉大な戸田先生が、このときばかりは、憔悴しきっておられた。
事業の状況は悪化の一途であった。まさに絶体絶命の危機に追い込まれていたのである。厳しい表情であられた。
部屋にいたのは、先生と先生の奥様と私の三人だけ。そして先生は、「きょうはよく聞いてもらいたいことがある」と私に、こう話されたのである。
「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、いっさい、君に任せるから、全部、引き受けてくれないか」
先生は、さらに声を強められた。
「何が起きたとしても、私と君とが、使命に生き切るならば、きっと大聖人の御遺命を達成する時が来るだろう。誰が何と言おうと、強く、強く、君は、学会のために前へ進むのだ」
戸田先生の遺言と、私は厳粛に受け止めた。
そして、この日の誓願を、″大楠公″の精神に託して、次のように日記に書き留めたのである。
「先生は、正成の如く、吾れは、正行の如くなり。奥様は、落涙。此の日の、感動、厳粛、感涙、使命、因縁、生き甲斐は、生涯、忘るることはない。
後継者は、私であることが決まった。
激越の、年も刻々と明けて来た。いかなる苦悩にも打ち勝ちて、男らしく、青年らしく、若人らしく、本年も戦いきろう」(『若き日の日記』本全集36巻収録)
この日、この時の「師弟の誓い」のままに、私は死にものぐるいで戦った。広宣流布の大師匠であられる戸田先生に、ただ一人、お仕えし、ただ一人、お守りしぬいた。これが学会の歴史である。師弟の本当の姿である。この一点にこそ、学会の魂があり、原点がある。
幹部であっても、戸田先生と苦衷を分かつ者は、ほとんどいなかったといっていい。理事長を務めた人間までが、戸田先生を誹謗したのである。
しかし、だれがどうあろうとも、私は心に決めていた。
″断じて、戸田先生に、次の会長になっていただくのだ。そして、広宣流布の指揮を縦横無尽に執っていただくのだ″
私は祈った。先生のために。学会のために。激闘のなかで祈りぬいた。
丑寅勤行もやった。もう寝ても覚めても題目。歩いていても題目。車の中でも、電車に乗っても、時間さえあれば、すべて題目。ただただ、題目を抱きしめて、この世の残酷な苦難をはね返し、戸田先生が第二代会長に就任される道を、命を賭して、切り開いていったのである。
そして迎えた昭和二十六年の五月三日。苦悩の激動を耐え忍ばれ、ついに、戸田先生は、晴ればれと第二代会長に就任された。その盛大な推戴の儀式の日。戸田先生は、そっと私に「君の、おかげだよ。本当にありがとう」と落涙された。
また晩年、私の義父母と数人の学会首脳がいる席で、戸田先生は語っておられたという。
「私の人生は、良き弟子を持って、本当に幸せだった」と。
思えば、初代の牧口先生が軍部権力と対決して牢獄につながれたとき、獄中までお供し、最後まで戦われたのは、戸田先生、ただお一人であった。この「一人」が大事なのである。
その戸田先生を、人生のすべてを捧げて、お守りしぬいたのは私である。ゆえに私は、第三代会長となった。
この究極の「師弟不二」の大闘争にこそ、今日にいたる学会の大発展の根本の因がある。それを、断じて忘れないでいただきたい。
2006年1月6日 第56回本部幹部会、第13回全国婦人部幹部会
2017年5月24日
師弟不二の道
戸田先生と池田先生
(3)
<師弟の誓い(前半)>
本年七月、男子部は結成五十五周年(2006年当時)を迎える。おめでとう!
――五十五年前(一九五一年=昭和二十六年)の一月、戸田先生の事業は最大の苦境にあった。すでに前年の夏には、当局から営業停止命令を受けていた。
さんざん先生に、お世話になってきた人たちが、ひとたび風向きが悪くなると、一人また一人と、先生のもとを去っていった。、なかには、「戸田のバカ野郎!」と不知恩の罵声を浴びせて、離れていった者もいたのである。
最後に残ったのは、実質的に、私一人。若き私は、悪口と中傷を浴びながら、先生の事業の再建へ駆けずり回って働いた。給料は何カ月ももらえない。食事も満足にできない。せめて体が、もう少し丈夫であったなら。苦しみ、悩み、もがきながら、新たな活路を求めて、真剣に唱題を重ねた。毎晩のように御書を拝した。
戸田先生は、さまざまなととを熟慮された末に、理事長の職も辞任されたのである。(=戸田先生が理事長辞住の意向を発表したのは昭和二十五年八月二十四日)
私は、思いあまって戸田先生にうかがった。
「先生、先生が理事長をお辞めになれば、新しい理事長が、私の師匠になるのですか」
戸田先生は言った。
「それは、ちがう。苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は私だ」
わが人生の忘れ得ぬ一場面である――。
あまり自分で自分のことを言いたくはないけれども、次の学会を背負っていく青年部には、すべて知っておいてもらわねばならない。あえて、きょうは、真実の歴史のい一端を語らせていただく。
(この一ヶ月後の9月21日、池田先生は、ただ一人で師を支え抜く思いを、
「古(いにしえ)の
奇しき縁(えにし)に
仕へしを
人は変われど
われは変わらじ」
との和歌に託して戸田先生に贈った。
戸田先生は返歌として、即座に
「幾度か
戦の庭に
起てる身の
捨てず持(たも)つは
君の太刀ぞよ」
「色は褪せ
力は抜けし
吾が王者
死すとも残すは
君が冠(かんむり)」
と、二首の和歌を詠んだ。峻厳な師弟のドラマである。)
(つづく)
2017年5月9日
師弟不二の道
戸田先生と池田先生
(2)
<本当の弟子には厳しい>
山本伸一は、青年たちと、忌憚なく話し合えることが何よりも嬉しかった。
伸一は、彼らに大きな期待を込めて語った。
「青年には、学会の後継として、一切を担っていく重大な使命がある。
ゆえに、戸田先生は、青年を本気で育てようと訓練された。とりわけ、私には人一倍厳しかった。大勢の前で、激しく叱咤されたこともあった。ほかの人の失敗でも、叱責されるのは常に私だった。特に、皆に対して、広宣流布に生きる師弟の道の峻厳さを教える時には、私を対告衆にされた。
獅子がわが子を、あえて谷底に突き落とすような訓練でした。先生は私を、後継の師子に育てようとされたからです。
私が、首脳の幹部を厳しく指導してきたのも、これから学会の全責任を背負っていく重要な立場だからです。
最高幹部は、常に真剣勝負でなければならない。また、何があっても、必ず勝ち抜いていく強さが必要である。ますます成長して、立派な指導者に育ってほしい。だから私は、広布に生きる人生の師として、これからも厳しく言っていきます。それが慈悲です。
師匠というのは、本当の弟子には厳しいものなんです。この年になって、戸田先生のお気持ちが、よくわかります。
先生を知る人は多い。直接、指導を受けたという人もいる。しかし、先生に仕え抜き、その遺志を受け継いで、仰せ通りに広宣流布の道を開いてきたのは私だけです。したがって、あえて申し上げるけれども、学会のことも、先生の真実も、誰よりも私がいちばんよく知っている。その意味からも私は、世界の同志が、また、広宣流布のバトンを受け継ぐ後世の人たちが、創価の師弟の道をまっすぐに歩み通していけるように、小説『人間革命』を書き残しているんです。
君たちは、常に、勇んで試練に身を置き、自らを磨き、鍛えてほしい。そして、どこまでも団結第一で、共に前へ、前へと進んで、二十一世紀の学会を創り上げていくんだよ」
〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 三十五 2017年5月4日
2017年5月8日
師弟不二の道
戸田先生と池田先生
(1)
<戸田先生の人物像>
人生の師である戸田第二代会長の偉大な人格者であった。杉並や目黒には、戸田先生とゆかりの深い方も多い。また、未来部、学生部の諸君からも″戸田先生とは、どんな方だったのか″との質問の手紙を、数多く受け取っている。これまでも、機会あるごとに話してきたつもりだが、なかなか全体像は分らないものかもしれない。
先ほど、思いつくままに、師への真情を簡潔な文につづってみた。戸田先生の人物像への示唆ともなれば、との思いで述べさせていただきたい。
厳しい先生であられた
やさしい人生の師であった
鋭くして剛毅な先生であった
大らかな師であった
情熱の先生であられた
知性の師であった
邪悪と傲慢に激怒する先生であった
涙脆い師であった
総ての事象の本質を見抜く先生であった
数学の天才の師であった
巌の如き信心、信念の先生であった
大法外護の忠誠の師であった
秋霜の如き厳しき性格の先生であられた
常に春風の如き微笑の師であった
「君、一献」と笑みの先生であった
王者の風格湛(たた)える師であった
常に一流の次元の風格の先生であられた
常に庶民の味方の師であった
「苦」と「死」に悩む人々を忘れぬ先生であった
常に悩みを共にしてくれる師であった
楽観と悲観の両面をもつ先生であった
邪悪に対しては死力を尽くす師であった
その人の本質を見抜く先生であった
その人の本質を昇華させゆく名人の師であった
立正と安国を叫ぶ先生であった
貧しき家に涙する師であった
一次元、苦闘の連続の先生であった
人々の喜びと楽しみをうれしく思う師であった
教祖と言われるのをもっとも嫌った先生であった
凡夫と大信者を誇りゆく師であった
常に大衆を愛する先生であった
一人の生命の深源を見極めゆく師であった
緻密にして隙のない先生であられた
常に豪放磊落の師であった
弟子を教えるに峻厳な先生であった
弟子のためには生命を賭す師であった
燃えあがる情熱の先生であった
常に知性そのものの人生の師であった
1986年12月25日 東京第三・第四総合本部合同代表者会議
2017年4月9日~11日
師弟不二の道
牧口先生(6)
<同じ獄中で師の証明を誓う弟子>
同じ獄中にあって、戸田先生は、ただただ、ご高齢の師を心配される日々であった。
「三日会わなければ、一年も会わないような気持ちでお仕えした」と、のちに述懐されているが、二十一歳から四十五歳まで、戸田先生は、牧口先生に仕え、ささえきられた。その師の逝去を知らされたときの落胆、怒り、悲しみ――。その、筆舌に尽くしがたい絶望のなかから、戸田先生は、ただお一人、真実の弟子として雄々しく立ち上がられた。
その心境について、戸田先生はこう語られた。
「よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう」(『戸田城聖全集 第四巻』)
昭和二十九年十一月の牧口先生の法要の折にも、このことにふれられた。
「いまはまだ先生のためになすべきことはなされていないが、かならずや一生を通して、先生の行動が正しいか正しくないか、その証明をする覚悟です」(同前)――と。
烈々たる師弟の誓いの言葉である。戸田先生は、この宣言のとおり、牧口先生の「正義の証」を立てるために、戦いに戦いぬかれた。そして見事に、師の正義の証明を果たされた。この真摯な精神と実践にこそ、崇高な師弟の真実があると私は信ずる。ゆえに私も、戸田先生の命をわが命として、今日まで、走りに走りぬいてきたつもりである。
戸田先生は、同じ法要の席で述べられた。
「牧口先生と私とは、親子であると信じています。親子という意味は、先生の精神的財産を、私が受け継いだことであります」「私は、精神的財産を受け継いできましたが、またここに、大きな使命を残されました。それは、『価値論を世に出さなければならぬ』ということです。先生の精神的財産を継いだおかげで、また大きな仕事をもらったのです」(同前)
まさに、このとおりの恩師の生涯であった。さらに戸田先生は、仏法を基調とした「平和」「文化」「教育」の運動への第一歩の理論体系についても、よく話されていた。
ともあれ、牧口先生が生命を賭して築き、残された「創価」という広宣の精神の城、その尊き遺産を、絶対に崩されてはならない。侵されてはならない。さらに強固に、さらに盤石に構築していかねばならない。
1989年8月24日第一回東京総会
2017年4月8日
師弟不二の道
牧口先生(5)
<三畳の板の間の独房で
軍国主義と戦いぬいた牧口先生>
牢獄にあって、軍国主義と徹底して戦われた牧口先生、そして戸田先生。その壮絶な戦いは、まさに王者の姿であった。
検事の取り調べを受ける牧口先生の姿は、むしろ反対に、検事を折伏するかのような、毅然たる態度であった。当時はだれも言えなかった言葉を、決然として言い放っておられた。つまり牧口先生は、公正な論理、人間の生きる道理のうえから、正面きって堂々と主張された。過酷な審間の合間をぬって看守を折伏し、検事に「価値論」を説き、絶えず御書を拝読される日々であった。
なんという高潔なお姿であろうか。強靭なる信仰であろうか。
こうした偉大なる創立者を持つことは、創価学会の大いなる誇りであり、誉れである。また、いかなる権威、権力にも妥協せず、ひたすら大法流布のために行動された牧口先生の精神は、確固たる伝統精神として、今も学会に脈々と受け継がれていることを、私は確信してやまない。
獄中にあっても、悠々たる境涯であられた牧口先生。そのご心境について、先生は、次のように記されている。(以下、書簡は『牧口常三郎全集 第十巻』第三文明社から引用)
「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。それさへして居れば、何の不安もない。心一つのおき所で、地獄に居ても安全です」(昭和十九年一月十七日、家族あての手紙。ただし、「地獄」の二字は検閲で削られている)
先生の獄舎は、独一房。むろん暖房器具など一切なく、三畳の板の間に、一枚の硬い畳が敷いてあるだけである。冬は身を切るような極寒の環境であった。
しかも、高齢であったにもかかわらず、先生は「何の不安もない」と記されている。
何ものにも負けない、また何ものにも崩されない「信仰の勇者」「信仰の王者」の姿が、ここにあった。
牧口先生の絶筆となった家族あての書簡には、次のようにつづられている。
「カントの哲学を精読して居る。百年前、及び其後の学者共が、望んで、手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いて居る。これ故、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(昭和十九年十月十三日。原文のかなは片仮名)
現在では、当時の数千倍、数万倍の規模で、広布は進み、隆々たる発展を遂げている。障魔が競い起こるのは、御書に照らし、経文に照らして必然であり、多少のことで愚痴を言ったり、信心を動揺させるのであれば、あまりにも情けない。
ともあれ、牧口先生の透徹した信心、不動の決意、そしてあふれんばかりの正義感と情熱を、永遠の学会精神として後世に継承していくことこそ、私どもの使命である。
1989年8月24日第一回東京総会
2017年4月6日
師弟不二の道
牧口先生(4)
<すべては民衆の幸福のためにある>
牧口先生が、一生を通じて追求されたものは何か。私どもの初代会長は、何を為そうとされていたのか。
それは「民衆を利口にすること」であった。民衆が、自分自身の知恵を開発し、その知恵で幸福になることを目指された。そのために「教育革命(教育改造)」を唱えられ、やがて、根本的には「宗教革命」が必要だと悟られた。その道を、まっしぐらに進まれ、そして殉教──。
牧口先生が一貫して改善しようとされたのは、「権威に従順な民衆の卑屈さ」であった。そして、民衆の卑屈と無知を改善するどころか、それを助長し、利用し、つけこむ「指導者の利己主義」を憎まれ、戦われた。
また、人間の実際生活に根差さない空理空論を、常に批判された。
『創価教育学体系』には、こうある。
「従来学者ならざる一般人は、自分の頭脳では、とても六ヶ敷むつかしい理窟は考えられないから、考える事の上手な人、即ち学者として尊敬する人の考えを、無条件に承認し、これに服従するのが、生活上に間違いない方法であると、断念して生活している」(『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明者。新かなづかいは編集部、以下同じ)
学者を僧侶に置き換えても同じである。
″自分で考えない″″人まかせにする″″黙って権威に従う″──これが昔からの民衆の態度であったと、牧口先生は言われるのである。
一方、こういう従順さにつけこみ、指導者のほうは民衆を見くびって、″我々の言うことを黙って聞いていればよいのだ″と、ますます権威主義になる。
「汝等の低い頭脳では、とても覚れる筈はない。(中略)無益の煩悶をしているよりは、寧ろ自分等の云うことには間違いないとして信頼するのが、最善の方法であると説く」
こうして民衆は、指導者に盲従させられる。これが今までの日本の歴史であった。まさに「知らしむべからず、依らしむべし」の権威主義である。
ゆえに「生活に学問なく、学問に生活なく」、生活も学問も、ともに貧しい。これが日本社会のゆがみであった。
牧口先生は、これを変えようとなされた。「もはや、そんな時代ではない」と。
「どんな偉い人の言うことでも、軽々しく信じない。同時に、どんなに地位のない無名の人の言うことでも、それが自分の経験に合致しているか、実験で証明されたものについては、自分にとっての善し悪し、損得がどうであろうと、だれもが素直に認め、従うべき時代となった。これはまた、理性に照らして当然のことである」(同前、現代語訳)
権威が何だ、地位が何だ、有名人が何だ、学歴主義が何だ。そんなものよりも民衆が大事だ。真理を知り、価値を生んで民衆を幸せにすることが大事だ。そうではないか。
そのための学問であり、そのための指導者であり、そのための教育であり、宗教ではないのか。そうわかれば、これまでの不幸な状態は即刻、改善すべきではないか。
牧口先生の大音声は、今もなお切実に社会に轟く。
1993年12月8日各部協議会での語らい
2017年4月4日
師弟の道
牧口先生(3)
<教育勅語>
軍国主義
牧口先生について、教え子の方々が、先生を慕い、偲びながら、さまざまな回想を残されている。
牧口先生が白金小学校の校長を務めていた時のことである。牧口先生は、校長でありながら、ご自身も、国語や算数、修身などの授業を担当されていたという。校長となっても、つねに教育現場の最前線に身を置いて、愛する子どもたちとふれあっておられた。
牧口先生は、習字も教えておられた。そのさい、書の基本について、こう語られたそうである。
「書は、個性を字に表すことであって、一人一人の字は違っていてよい。そういう違いのなかでも、共通する大事なことは、希望に燃えていること、前進していく気持ちが表れていることである」と。
この「つねに希望に燃えて、前へ進んでいく」心を、牧口先生はつねづね、強調されていた。よく次のようにも話されたという。
「人間はつねに前進していかねばならない。つねに生きがいをもって、前進していくことだ。もちろん、人間であるから、時には失敗したり、間違ったりすることもあるだろう。その時は、反省すればよい。反省しなければ、前進はありえない。それが、最近、世の中を見ると、『反省とは″後ろ向きの教え″だから、してもしようがない』という人がいる。しかし、反省と後悔は違う。それを混同している人が多い。後悔をしても、しようがない。反省して前進していくのだ」
まことに味わい深い教えである。
当時の学校教育では、「教育勅語」の学習が必須とされていた。多くの教師は、子どもたちに頭ごなしに暗唱させた。しかし、牧口先生はまったく違っていた。
たとえば、「教育勅語」の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(危急の場合は、義勇を国に捧げ)のところでは、牧口先生は、こう教えられた。「平和が大事である。平和を考えていきなさい。平和を守れば、『緩急あれば』などということは必要ない」と。
教え子の方は、「牧口先生は、軍国主義の教育はまったくされなかった。『平和しかない』と教えた。あの時代の中で、まったく驚くべき教育でした」と述懐されている。
世の中すべてが戦争へと傾斜していくなか、平和教育を推進されたのである。
また、牧口先生は、『人生地理学』において、人道的競争の理念を示されるとともに、紛争防止のために信頼を醸成していくという、現在の「予防外交」にも通ずるビジョンを抱いておられた。
この勇気、この先見、この信念――牧口先生の偉大さは、調べれば調べるほど、いよいよ深く胸に迫ってくる。
「どんな劣等生も、必ず優等生にしてみせる」「皆を自分以上に偉大な人物にしてみせる」――これが、牧口先生、戸田先生の一貫した慈愛であり、気迫であられた。
2001年8月21日北陸・信越合同研修会
戦争を前提に、
「お国のために命を捨てる」ことを教えた
「教育勅語」
あの太平洋戦争。相手は、世界一のアメリカです。冷静に考えれば、とうてい勝てるわけがない。それなのに、日本は戦争を起こしてしまった。しかも、みんなは驚くかもしれないが、当時、国民の大部分は、戦争に反対するどころか、賛成したのです。それは、なぜだと思う?
もちろん国民に「真実が知らされていなかった」ということがある。それも含めて、私は、戦争を止められなかった根本の原因は「教育」にあると思う。教育によって、国家の命令には絶対に服従するように教えこまれていた。
「お国のため」に命を捨てることこそ、立派な生き方だと植えつけられたのです。これが「教育勅語」に説かれた精神で、みんな、それを学校で暗唱させられたのです。
教育勅語が出されたとき、小学校一年生だった人は、太平洋戦争が始まったとき、五十八歳くらいです。その子どもたちが、およそ二十歳から三十歳。
つまり親子二代――戦争に出ていく兵士も、送り出す親も、両方が「教育勅語」で育てられていたのです。
「希望対話」(65) 平和って何?
道徳の最低基準
牧口が、父たちに向かって、「教育勅語、あれは道徳の最低基準です」と言うのを聞いた時の驚きを、少年の頭脳は覚えていたのである。なんの話題につながる話か、それはきれいに忘れたが、牧口の、この一言は消えなかった。
小説『人間革命』3-4巻 (145) 道程
牧口は、当時、東京市の教育界では、一風変わった存在であった。一家言をなした彼の教育理論の実践は、識者の注目を集めていたのである。
しかし、彼の教育観は、戦前、教育の金科玉条とされた教育勅語を、「道徳の最低基準」と喝破するほど、進みすぎていた。そのため、頑迷な俗吏は、彼を白眼視していたのである。
牧口もまた、先駆者の悲哀を感じていたにちがいない。彼の卓越した理論は、時の教育官僚の用いるところとはならなかった。それどころか、愚かな為政者たちは、この市井の先覚者を冷遇し、迫害し続けたのである。
小説『人間革命』1-2巻 (144) 地涌
天皇制の「教育勅語」
日本の社会構造の面においては、古来の伝統である天皇制と家父長制が支えあいながら、ある種の家族的な一体感をかもしだすことによって、人々が″いわずもがな″″以心伝心″の絆で結びつけられてきたことがあげられます。
明治維新が、いわゆる″無血革命″であったことも、それが西欧的な意味での″革命″ではなく、本質的にはむしろ、家族的な共同体への″回帰″であったことによるとみることができます。
このことは、明治政府が国民を天皇の「赤子」とする天皇制イデオロギーを推進していく過程からも明らかです。その象徴が「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ……」に始まる、有名な「教育勅語」です。
家庭から地域、企業、国家にいたるまで、暗黙の家族的紐帯によって支えられてきた「イエ社会」。これが、よい意味でも悪い意味でも、「ソト」に対しては残虐であっても、「ウチ」と認識された狭い枠のなかでは、あらゆる社会的な破綻や歴史的な惨事を回避するクッションの役目を果たしてきたというのが、私の一つの見方です。
「20世紀の精神の教訓」ゴルバチョフ(105) 二十一世紀を担う世界宗教の条件
2017年4月3日
師弟不二の道
牧口先生(2)
師とは
だれより「強く」
だれよりも「優しい」
戸田先生は、だれよりも「強い人」だった。そして限りなく「優しい人」でした。どんな貧しき庶民にも、渾身の慈愛を注いでおられた。その戸田先生が、「この人こそ」と感動したのが牧口先生です。牧口先生も「強く」そして「優しい」人だった。(以下、牧口初代会長のエピソードは『牧口常三郎』聖教新聞社を参照)
北海道で教師をされていた時は、雪が降る日など、生徒が登校してくるのを迎えに行き、下校の時には送っていかれた。体の弱い子が皆に遅れないように気をつけながら、小さな生徒は背中におぶって、大きな生徒は手を引いて――。また、お湯をわかして、子どものあかぎれだらけの手をとり、お湯の中に静かに入れてあげた。「どうだ、気持ちがいいか」「うん、ちょっと痛いけど」――本当に美しい情景です。
牧口先生は、東京に来られてからも名校長として有名だったが、権力のある者に、へつらわないものだから、いつもにらまれていた。それで、いつも迫害を受け、左遷です。
貧しい家の子どもだけが集まる小学校(三笠小学校)に赴任した時もある。雨が降っても、傘もない子が、たくさんいるほどの貧しさだった。
牧口先生は、弁当を持ってこられない生徒のために、自腹を切って、豆もちや食事を用意した。ご自分も八人の大家族を抱えて大変だったころです。日本で学校給食が始まる十何年も前のことでした。しかも先生は、子どもたちの気持ちが傷つかないように、用意した食事を用務員室に置いて、皆が自由にもっていけるようにしたのです。
―― 教員室に置いていたら、皆、来にくいし、教室に置いていたら、友だちの手前、恥ずかしい人もいるだろうし……。こまやかな心づかいですね。
人を苦しめる悪と命をかけて
優しい牧口先生は、「子どもたちの幸福のためなら、何でもしよう」という心だった。個性を殺す「詰め込み教育」などで苦しむ子どもたちを思うと、何とか救ってやりたいと「気が狂いそうなほど」だったと書き残されている。(『創価教育学体系』緒言、参照)
また、子どもたちのためなら、どんな権力者とも一歩も引かなかった。 「怒り」をもって戦われた。当時、絶大の権威をもっていた「視学」(旧制度の地方教育行政官。学校の視察および教育指導を行った)に対して、いたずらに教育を画一化させるとして「視学無用論」を堂々と主張したほどです。
だから、権力ににらまれた。だから、民衆には慕われた。牧口先生が学校を変わるとなると、生徒は泣き出し、父母から教職員まで、先生を慕って、すすり泣くほどだったという。
そして牧口先生は、最後は軍国主義に抵抗して獄死です。先生は、我が身はどうなろうとも、民衆を不幸にする軍国主義は許せなかった。間違った思想は許せなかった。
優しさは、悪に対しても強い。仏法では、「怒り」は善にも悪にも通ずると説いている。善のための怒りは必要なことです。自分の感情だけで怒るのは畜生の心です。人間は偉大であるほど、その愛も大きい。愛が大きいから強いのです。優しいのです。
青春対話
2017年4月2日
師弟不二の道
牧口先生(1)
<初めての「広宣流布」宣言>
初代会長・牧口先生以来、創価学会の目的は「広宣流布」である。
では、牧口先生が「広宣流布」という言葉を公式の場で初めて使ったのは、いつか。いつ、「創価学会は広宣流布を目指す団体である」ことを宣言なされたのか。
それは決して、学会が順風の時ではなかった。それどころか、弾圧のさなかであった。
日本は狂気の国家主義によって、戦争を始めた。国民の自由はなくなり、学会にも弾圧の魔の手が強まってきた。暗雲が立ちこめ、闇はさらに深くなっていった。まさに、その時に、牧口先生は「広宣流布」を叫ばれたのである。何と偉大な先生であろうか。
今また、日本は国家主義の道を歩もうとしている。私は、その傾斜を深く憂慮している。
今から五十五年前――昭和十七年(一九四二年)五月。創価教育学会の第四回総会が開かれた。
太平洋戦争の開戦から、半年余りたっていた。
初めのうち、日本は連戦連勝だった。しかし、続くわけがない。すぐに行き詰まった。転落が始まった。それなのに、国民には「ウソ八百」の情報しか流されなかった。だから、本当のことがわからず、「すごい日本だ」「神国日本だ」と、国中が戦勝気分に酔っていた。
しかし、すでにその時、牧口先生は「日本は滅亡する。絶対に滅びる」と鋭く見抜いておられた。法眼というか、仏眼というか、透徹した信心と人格の明鏡があった。
総会で、先生は訴えた。「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」(『牧口常三郎全集』第十巻。以下、引用は同書から)
わからずやの悪人ばかりのなかに入って大善を教えるのは、″敵の目前に上陸する″のと同じであるというのである。
敵前上陸――迫害があるのは当然であった。この五月、機関誌『価値創造』も廃刊させられていた。
牧口先生は、毅然と語った。「同じ正宗信者でも自分だけがよいという独善主義の従来の信仰者は個人主義(=利己主義)の信仰であります」
従来の信仰者、すなわち宗門・法華講は、利己主義である。本当の信仰者ではないと、真っ向から叱ったのである。
自分が拝んでいるだけでは、単なる「拝み屋」である。宗門も、法華講も、折伏精神を忘れ果てていた。「広宣流布」を完全に忘れていた。
牧口先生は、こういう人間と妥協しなかった。戦った。だから、激しく憎まれた。
憎まれるのが当然であったろう。しかし憎まれても、きらわれても、それは「正しい道」であった。「信念の道」であった。そして先生は叫ばれた。
「(我々は)家庭を救い社会を救い、そうして広宣流布に到るまでの御奉公の一端もできると信ずるのであります」
これが、「広宣流布」の初めての公式発言であった。
「広宣流布に到るまで」わが身を捧げきっていくのだとの宣言である。
牧口先生は、講演をこう結ばれる。
「お互は、この大事な使命を帯びていれば、自分本位でなく、利用するのでなく、いかなる時にも、この選ばれた大善人である事を自覚して精進せんことを誓わねばならぬと信じます」
事実、牧口先生は、「広宣流布」へと前進した。迫害のなか、二百四十回を超える座談会を開催(昭和十六年五月から十八年六月まで)。あのお年で、二百四十回である(昭和十八年当時、七十二歳)。
また、地方にも単身、出かけられた。自ら約五百人の人々を信仰に導いたといわれている(昭和五年から逮捕される十八年七月まで)。
宗門が「広宣流布」を完全に忘れていた時代である。まことに不思議なる偉大な先生である。調べれば調べるほど、学べば学ぶほど、その思いを深くする。
いちばん大変な時に大変な所から始めよ
いちばん大変な時に大変な所から始めよ
いちばん「大変な時」に、「大変なところ」から始める。ここに偉大な歴史が開かれる。本当の歴史が始まる。この学会精神を深くかみしめていくべきである。
戸田先生も、戦後のいちばん大変な時に「今こそ広宣流布の時だ」と立ち上がった。
僣越であるが、私も、私の長い歴史において、いつもそうしてきたつもりである。
三十七、八歳のころ、「共産主義世界と友好を結ぼう」と決意し、準備を始めた(昭和四十年、四十一年〈一九六五年、六六年〉)。「共産主義国は敵」と多くの日本人が考えていた時代である。
日中国交正常化提言が四十歳(昭和四十三年)。初訪中、初訪ソが四十六歳(昭和四十九年)。当時は、冷戦のさなか。中ソの仲もいちばん、悪かった。しかし、「状況が悪い今こそ、平和の道を開くんだ」――私はこう決意した。
周囲は、全員が反対した。宗門からも、じつに、つまらない非難を受けた。「共産圏に行っても、宗教なんか必要ない国じゃないか。なぜ行くのか」(爆笑)と。このように低次元の宗門であり、日本である。
ともあれ、私はあえて、いちばん、大変なところから始めた。そして、世界に「友好」と「信頼」の道を厳然と開いた。学会は今、全世界と友情を結んでいる。(拍手)
状況が厳しければ、その時にこそ、勇気を奮い起こすべきである。
日蓮大聖人は仰せである。
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」――悪王が正法を破ろうとして、邪法の僧らが悪王に味方し、智者を滅ぼそうとする時、師子王のごとき心をもつものが、必ず仏になることができる――。
臆病者は、仏になれない。「師子王の心」をもたなければ、仏になれない。厳しければ厳しいほど勇み立つ。ここに、学会精神の真髄がある。いちばん大変な所に、みずから足を運んでこそ、「道」は開かれる。
牧口先生が「広宣流布」を叫んだころ、宗門は何をしていたか。「広宣流布」を破壊しようとしていた。昔も今も変わらない。
当時、宗門は御書の発刊を禁止し、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」の御文をはじめ、大切な十四個所の御聖訓を削り取った。
だれが、こんな非道を許せようか。私どもは許さない。大聖人も許されるわけがない。しかも宗門は、いまだに大聖人にも信徒にも謝罪さえしていない。
さらに宗門は、大石寺に「神札」をまつり、牧口先生にも「神札を受けよ」と迫った。何という大謗法か。しかも牧口先生が「絶対に受けません」と断ると、陰で学会の弾圧に味方したのである。
じつは、身延を中心にした「日蓮宗との合同」を宗門が免れたのも、牧口先生が有力者を紹介したおかげであった。
その恩も忘れて、牧口先生、戸田先生を「登山停止」にしたのである。(今、大石寺には身延僧が次々と参詣し、大聖人の精神は完全に失われている)
背中から刺すような裏切り――これが宗門である。「これが坊主根性だよ。恐ろしいぞ」と戸田先生は、よくおっしゃっていた。利用するだけ利用して、あとは切る――これが宗門の極悪の体質である。
牧口先生も宗門の利用主義を見抜かれていた。今もその本性は変わっていない。絶対に、永遠に宗門を信用してはならない。
一方、牧口先生の弟子たちは、どうだったか。皆、牧口先生の勢いに驚き、おびえた。皆、獅子ではなく、猫や鼠だったのである。
「広宣流布」「国家諫暁」――こう牧口先生は叫ぶ。
それに対して弟子たちは、「今の時期に無茶だ」「時期尚早だ」「皆、憲兵隊に連れて行かれてしまう」と、おびえた。ふだんは「牧口先生とともに」と叫んでいた幹部が、「塩を振りかけられたナメクジ」よりも、だらしなくなった。
幹部だからといって信用はできない。最前線の学会員のほうが信用できる場合が、いっぱいある。
こういうなか、戸田先生だけが「ぼくは牧口先生の弟子だ」「あくまで、ぼくは牧口先生にお供するよ」と、淡々としておられた。厳かな師弟の姿である。
そして戸田先生は「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と師匠に感謝を捧げたのである。
牢獄につながれて、文句を言うどころか、戸田先生は感謝されている。一緒に難を受けさせていただいた、何とありがたいことか、と。これが「師弟」である。
そして戸田先生は生きて出獄し、師匠が掲げた「広宣流布」の旗を、再び厳然と掲げて、一人立った。師弟は一体不二であったゆえに、恩師の死を乗り越えて、「広宣流布」のうねりは広がっていったのである。この「師弟不二の道」を、永遠に忘れてはならない。
1997年7月9日第13回本部幹部会
2017年4月1日
弟子に課せられた責務
戸田城聖の小説『人間革命』では、主人公「巌さん」の人間革命の軌跡を主軸に、広宣流布に一人立った、師である「牧田城三郎」(牧口常三郎の仮名)の死身弘法の実践が描かれていく。
戸田は、一九五四年(昭和二十九年)の十一月、初代会長・牧口常三郎の十一回忌法要で、獄中にあって大恩ある牧口の死を知った日のことに触れ、こう語った。
「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
「巌窟王」とは、アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の黒岩涙香による邦訳名である。
――陰謀によって孤島の牢獄シャトー・ディフにとらえられた船員の青年エドモン・ダンテスは、獄中で老神父からさまざまな知識を授かり、モンテクリスト島に隠された財宝の在りかも教わる。十四年の幽閉生活の後に脱獄に成功した彼は、その巨額の富を手にし、モンテ・クリスト伯と名乗り、パリの社交界に現れ、自分を陥れた者たちへの復讐を図るとともに、善良な恩人たちへの恩返しを果たすという物語である。
戸田は、この「巌窟王」のごとく臥薪嘗胆し、軍部政府の弾圧で殉教した師の敵を討つことを深く心に誓ったのだ。その復讐とは、恩師の正義を証明することであった。そして牧口を死にいたらしめ、戦争によって多くの人びとの命をも奪い、苦悩の辛酸をなめさせた権力の魔性との対決であった。民衆の幸福と人類の平和を実現することであった。
ゆえに戸田は、小説『人間革命』の主人公の名を、「巌窟王」をもじって「巌九十翁」とし、全精魂を注いで、牧口の正義と偉大さを書き残していったのである。
師の正義を宣揚し抜いていくことこそ、弟子に課せられた責務にほかならない。
〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 八 2017年4月1日
2017年3月30日
師弟関係
<師弟ほど尊いものはない。
美しいものはない。>
師弟関係について、戸田先生は、こう綴られている。
「師(先生)と弟子(生徒)の交わりは、水と魚のように切っても切れない深いものであります。師は弟子を愛し導き、弟子は師を敬い慕う――これほどの世にうるわしい情愛がまたとありましょうか」(現代語表記に)
師弟ほど尊いものはない。美しいものはない。
これが戸田先生の青年への教えであった。
戸田先生は、“牧口先生の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださった”とまで語られた。これが本当の師弟だ。仏法だ。
振り返れば、昭和25年(1950年)8月29日。戸田先生の会社の営業停止が決定した直後、22歳の私は、日記に綴った。
「戸田先生より『君を頼る』との力強き激励を受ける。
誰よりも、信頼し、期待をかけられし自分を、心から歓ぶ。
先生の激励に応え、再び、世紀の鐘を、私が鳴らそう。
先生より、離れる者は、離れろ。
若き戦士となり、若き闘士となって、先生の意志を、私が実現するのだ」
師のもとで固く心に誓った。あの苦闘の青春から60年(当時)。
わが師の構想は、すべて実現した。
これが師弟である。
2012年3月12日聖教新聞 「新時代第26回本部幹部会」(2009年2月)でのスピーチ抜粋
2017年3月14日
万策尽きた師匠と
弟子の決意
一九五一年(昭和二十六年)の一月六日、万策尽きた戸田城聖が書類整理をしながら語った言葉は、山本伸一には“大楠公”に歌われた楠木正成の心情と重なるのであった。
〽正成涙を打ち払い
我子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん
彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども
とくとく帰れ故郷へ
以来、二十八年余――伸一は今、静岡研修道場にあって、後継の人を残して決死の大戦に赴こうとする勇将の胸の内を、そして、わが師の思いを嚙み締めていた。
彼もまた、十条潔ら新執行部に、さらには後継の若き人材たちに、これからの学会を託して、新しき世界広宣流布へと旅立つことを思うと、あの時の戸田の覚悟が強く心に迫ってくるのである。
伸一は、研修道場の白いピアノに向かった。指が鍵盤を走り、“大楠公”の曲を奏で始めた。
〽父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
御供仕えん死出の旅
〽いましをここより帰さんは
わが私の為ならず
己れ討死為さんには
世は尊氏の儘ならん
…………
彼は心で恩師・戸田城聖に誓っていた。
“正成も、父の遺志を継いだ正行も、足利方と戦い、敗れ、無念の最期を遂げましたが、私は負けません。必ず全同志を守り抜き、世界広宣流布の新舞台を開きます!”
*小説『新・人間革命』文中の「青葉茂れる桜井の(大楠公)」(作詞=落合直文)の歌詞は、正規には本文中のとおりですが、学会のなかでは慣習的に、「いまし」は「汝(なんじ)」、「来(きつ)れ」は「来(きた)れ」、「わが私の」は「われ私の」と歌われています。
〈小説「新・人間革命」〉 大山 五十九 2017年3月13日
2017年2月16日
先生にお仕えする
<「有言実行」で悔いのない自分を!>
私は、一人の青年として、学会の一リーダーとして、すべて、戸田先生のおっしゃる通りに実践した。
日蓮大聖人の仰せの通りに、大難と戦い、世界広宣流布を進めてきた。
自ら誓ったことは、すべて成し遂げた。「有言実行」を貫いた。
私には、何の悔いもない。若き青年部の諸君もまた、そうであってもらいたい。
私が、若き日に、どれほど力を尽くして戸田先生にお仕えしたか。
夜中に先生から電話がかかってきて、急きょ、呼び出される――そうしたことが、何度もあった。車がないので、タクシーをつかまえて、飛ぶようにして先生のもとへ駆けつけた。
またある晩は、先生のお宅の外に立って、先生をお護りしたこともあった。
口先ではない。観念でもない。
私は、師匠のため、学会のために、すべてをなげうって戦った。「師弟不二」で戦い抜いたのである。
2007年9月28日 全国代表協議会
2017年1月24日
本物の弟子よ、出でよ!
<いよいよ、これからだ!>
遠大な広布の未来を展望する時、本当の勝負は、いよいよこれからである。
私は戸田先生の弟子として、「不二の心」で生きてきた。何があろうと、平気である。
誓いを貫き、同志を護り、正義を打ち立てる「師弟不二の弟子」がいるかどうか。
一切は、それで決まる。
ドイツの大詩人ゲーテは謳った。
「若き日々を大切に活用しなさい。早く賢明になれるよう学んでいきなさい」
「君は、上に向かって登るのか、下に向かって沈むかだ。強大な勢力を得て勝利するか、服従して敗北するかだ。苦しみ悩むか、凱歌をあげるかだ」
仏法は勝負だ。仏と魔との闘争である。勝ちか負けるか、どちらかしかない。
ゆえに青年は、心を磨き、頭を鍛え、勝ち抜く力をつけるのだ。
「本物の弟子よ、出でよ!」
こう私は声を大にして叫びたい。
2009年4月14日 全国代表協議会
2016年11月4日
恐れるな!
我が弟子ではないか!
<広布の大ドラマを創るのだ!>
ナラヤンは、すべての階層の人びとの向上をめざして運動を展開し、社会、経済、政治、文化、思想等の総体革命(トータル・レボリューション)を主張してきた。山本伸一も、総体革命を提唱・推進してきた者として、その革命の機軸はどこに定めるべきかを訴えた。
「私は、結局は一人ひとりの人間革命がその基本になり、そこから教育・文化など、各分野への発展、変革へと広がっていくと思っています。いかなる社会にせよ、それをつくり上げてきたのは人間です。つまり一切の根源となる人間の革命を機軸にしてこそ、総体革命もあるのではないでしょうか」
「全く同感です!」と力強い声が響いた。
二人は、死刑制度の是非などについて論じ合い、多くの点で意見の一致をみた。
対談を終えた伸一は、夕刻、ガンジス川のほとりに立った。インド初訪問以来、十八年ぶりである。対岸は遥か遠くかすみ、日没前の天空に、既に丸い月天子が白く輝いていた。空は刻一刻と闇に覆われ、月は金色に変わり、川面に光の帯を広げていく。
伸一は、戸田城聖の生誕の日に、恩師が広布旅を夢見たインドの、ガンジス河畔に立っていることが不思議な気がした。戸田と並んで月を仰いでいるように感じられた。また、広宣流布の険路をひたすら歩み続けた一つの到達点に、今、立ったようにも思えるのだ。
戸田の後を継いで第三代会長に就任してからの十九年、さまざまな事態に遭遇してきた。いかにして難局を乗り越え、新しい創価の大道を開くか、悩みに悩み、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。疲労困憊し、身を起こしていることさえ辛いこともあった。そんな時も、いつも戸田は彼の心にいた。そして、厳愛の叱咤を響かせた。
“大難は怒濤のごとく押し寄せてくる。それが広宣流布の道だ。恐れるな。戸田の弟子ではないか! 地涌の菩薩ではないか! おまえが広布の旗を掲げずして誰が掲げるのか! 立て! 師子ならば立て! 人間勝利の歴史を、広布の大ドラマを創るのだ!”
小説新・人間革命 源流 53
2016年9月28日
不二の弟子が立ち上がる時
<師匠の死>
牧口先生が牢獄で精読された哲学者カントは言う。
「ソクラテスのような人をまで誹謗して、何人か徳を信じようとするものを妨害したりするということは、人間性に対して仕向けられる大反逆である」(『人間学・教育学』清水清訳、玉川大学出版部)
牧口先生を国粋主義の日本が弾圧したのは、まさに、「人間性に対する大反逆」であった。
正義の創価学会を迫害する日顕宗も、「人間性への大反逆」にほかならない。
人類の師ソクラテスは、嫉妬の謀略によって、毒杯をあおって死んでいく。その時、弟子プラトンが立ち上がる!
牧口先生は牢獄で殉教する。その時、弟子・戸田先生が立ち上がる!
戸田先生が、あらゆる迫害と戦い、死んでいく。その時、弟子の私が立ち上がった!
偉大なる師の心を継いで、必ず″不二の弟子″が立ち上がるものだ。この方程式が仏法である。真実の「師弟」の道である。
きょう、十月十一日は、どういう日か。それは五十八年前(一九四三年〈昭和十八年〉)、戦時中のことである。稀代の悪法である治安維持法違反と不敬罪によって、不当にも逮捕された戸田先生が、警視庁から巣鴨の東京拘置所に移されたのが、この日だったのである。
その半月ほど前の九月二十五日、牧口先生が、先に東京拘置所に移された。真の弟子である戸田先生は、勇んで師匠の後に続かれたのである。
「どこまでも師匠とともに!」「どこまでも師匠のために!」
これが弟子である。私も、同じ決心で、戸田先生にお仕えしてきた。
創価学会の三代の「師弟の道」――これを、若い皆さんは、よく覚えておいていただきたい。
この最高の人間の道を忘れない限り、踏みはずさない限り、創価学会は永遠に繁栄していく。自分自身も、永遠の勝利王となり、人間王者となることは、絶対に間違いない。
大聖人は仰せである。「よき弟子をもつときには、師弟はともに仏果(成仏の境涯)にいたり、悪い弟子をたくわえてしまえば、師弟はともに地獄に堕ちるといわれている。師弟が相違すれば(師匠と弟子の心が違えば)何ごとも成し遂げることはできない」(御書900頁、通解)
この師弟の大道を、まっすぐに走りながら、私は、牧口先生、戸田先生のお名前を全世界に宣揚してきた。
それまで、世界はおろか、日本でも知る人は少なかった。中国に行っても、韓国を訪れても、私は、師匠の偉業を語りに語りぬいてきた。今や、両先生のお名前は、世界中で讃えられている。これが私の人生の誉れである。
2001年10月11日第十回本部幹部会、第二回関東総会
2016年8月15日
師弟不二への決意は
三世永遠の広宣流布の道なり
<正義と真実>
師弟は
同じ目的に、同じ責任で、同じ戦いを
偉大な師匠を持つ人生は、
幸福である。
偉大な師匠の弟子として
生きゆく人生ほど、
強く、深く、美しい劇はない。
「師弟不二」なれば、
何ものにも揺るがない。
「師弟不二」なれば、
何ものをも恐れない。
「師弟不二」こそ、究極の
「絶対勝利の力」なのである。
出会い――そこには、
生命と生命の触れ合いがある。
魂と魂の啓発がある。
人は出会いの中で
新しい自分を発見し、磨かれる。
善き出会いは、
より善く生きるための相互作用だ。
自分の小さな殻を破り、
他者と共に、他者のために――
このダイナミックな交流の中でこそ
成長できる。境涯も変えられる。
仏法の師弟は永遠不滅である。
私は「月月・日日に」、
恩師・戸田城聖先生と前進している。
師弟は一体である。
同じ目的に向かって、
同じ責任を持って、
同じ戦いをしていくのだ。
恩師は、私の血潮の中に
厳然と生き続けておられる。
今世も一緒であり、
三世にわたって一緒である。
わが師弟不二への決意は
偉大なる創価の足取りとなって
一段と力強く
一段と朗らかに
一段と厳然と
前進を続け始めた。
正義と真実の
師弟不二の私は
永遠なる勝利へ
永遠なる栄光へ
永遠なる完勝へと
戦い続けていくのだ。
広宣流布のために!
2016年8月14日聖教新聞 四季の励まし 師弟の道は 永遠の正義の道
2016年8月13日
原爆許すまじ!
<師弟して人間革命挑みゆく>
我らの人間革命の前進が、
戦争と決別し、
生命尊厳の世紀を開く確かな光明
創立の父・牧口常三郎先生は、獄中での尋問で「立正安国論」を引かれつつ、戦争の元凶について「謗法国である処から起きて居る」と鋭く喝破された。社会に生命尊厳の深い哲理がないゆえと、断じられたのだ。
師と共に入獄した不二の弟子・戸田城聖先生は独房で法華経を身読し、「仏とは生命なり」「われ地涌の菩薩なり」と覚知された。
戸田先生は“地上から悲惨をなくすことこそ、信念の殉教を遂げた師の仇討ちだ。世界戦争を二度と起こさせない”と、敗戦の焦土に一人立たれた。そして地涌の菩薩を民衆の大地より呼び出していかれたのだ。
六十年前、私が「大阪の戦い」に突進していた渦中の六月、先生は福岡県を訪れ、八幡市(現・北九州市)で叫ばれた。
「原爆を使う人間は最大の悪人だ!」
さらに福岡市でも核使用を弾劾し、「二度と同じ愚を繰り返すな!」と強く訴えられている。
福岡県の小倉市(現・北九州市)は原爆投下の第一目標であった。八月九日、原爆を搭載した米軍機は、小倉上空の視界が悪く、第二目標の長崎に向かったのである。
九州の大地を踏んで、長崎の悲劇に思いを馳せ、戸田先生の胸には、原爆許すまじの憤怒が燃え盛っていた。
この正義の師子吼が、翌一九五七年の九月、横浜・三ツ沢の競技場における「原水爆禁止宣言」の原型となったのだ。
この「宣言」の要点を書き留めた戸田先生の手帳の「十一月二十二日」の予定欄には、「広島行」とあった。平和記念館――現在の広島平和記念資料館(東館)で行われる、わが同志の大会への出席を決めておられた。
何としても、自ら被爆の地に赴き、恒久平和を目指す地涌の闘士たちを励ましたいとの固い一念であったのだ。
されど、先生のご体調を案じ、私は広島行きをお止めせざるを得なかった。なればこそ、広島、長崎の友と手を携えて核兵器の廃絶に邁進することは、分身の弟子としての生涯にわたる天命であると、心に定めてきた。
(中略)
本年五月、オバマ米大統領の広島訪問は、核廃絶へ一条の光を投じた。その日は、ある広島の婦人にとっも、「亡き母に伝えたい日」となった。
婦人の母は爆心地から八百メートルで被爆した。目の前で妹を亡くし、その後、両親も原爆症で失った。母自身も放射能を浴び、市内の病院を七軒も渡り歩き、命懸けで娘を産んだ。わが子の前では気丈な様子でも、毎年八月六日になると、身を震わせて泣かれていたという。
晩年はがんと闘いながら、平和の語り部として、修学旅行生に原爆の残酷さを訴え、四年前、命の灯が消えゆく瞬間まで、平和を叫び抜かれた。
この母の人生を無駄にしてなるものかと、婦人は「核兵器なき世界」へ、仏法に学んだ生命尊厳の信念を語り続ける。
日蓮大聖人は、『一日の命は三千界の財にもすぎて候なり』(御書九八六ページ)と仰せである。
今日という一日、妙法と共に、同志と共に、生きる喜びに燃えて広布に走ることが、母娘一体の偉大な平和闘争なのだ。
(中略)
一九九三年八月六日、師との思い出を刻む長野の天地で、私は『新・人間革命』を書き始めた。
「平和ほど、尊きものはない。
平和ほど、幸福なものはない」と。
以来、二十三年――。今も日々、世界中の後継の友と、心で対話する思いで執筆を重ねている。
お陰様で、次の章で第二十九巻が終了となる。「清新」に続く章は「源流」と題して綴っていく予定である。
ともあれ、一人の声に耳を傾け、一人の友を励まし、一対一の対話を広げる。この最も地道な菩薩道こそ、新たな平和の潮流を起こす第一歩だ。
我らの人間革命の前進が、戦争と決別し、生命尊厳の世紀を開く確かな光明だ。この大情熱で、「地涌の陣列」即「平和の陣列」を幾重にも拡大していこうではないか!
師弟して
人間革命
挑みゆく
我らの一歩が
平和の光と
2016年8月11日<随筆 永遠なれ創価の大城10>被爆七十一年に誓う(抜粋)
2016年7月21日
師弟とは
物理的な触れ合いのなかにあるのではない
<心に師をいだき、
その師に誓い、
それを成就しようとする、
必死の精進と闘争のなかにこそある>
山本伸一は、下北の青年たちと記念のカメラに納まり、皆に語った。
「人生の本当の戦いは、いよいよこれからだよ。さらに十年後、いや二十年後、三十年後にどうなるかが勝負だ。今日、来られなかった皆さんに、くれぐれもよろしく!」
そして、歩き始めてから振り返って言った。
「どんなに離れていても、みんな、“わが弟子”だよ! 私は、そう信じています!」
このメンバーは、自分たちを「下北会」と名づけ、その後も折々に集っては励まし合っていった。
また、メンバーのまとめ役であった木森正志は、創価大学卒業後、大手企業に勤めたあと、故郷のために働きたいとの思いが日ごとに強くなっていった。そして、遂に、地元の教員となることを決断した。
青森県の教員採用試験を受け、下北の小学校の教員となった。やがて校長も務め、地域に大きく貢献する一方、学会にあっても、県幹部などとして活躍していくことになる。
メンバーは、それぞれが伸一との誓いを胸に、各地で人生の勝利劇を演じていった。
始まりは、一葉の写真である。誰かに言われたからではなく、皆が誓いを込めて、あの写真を撮り、自主的に伸一に送った。決して、激励を期待してのことではない。
もちろん伸一自身は、日々、すべての会員の真心に応えようと、懸命に奮闘していた。
しかし、仮に伸一からなんの返事も激励もなかったとしても、メンバーは、写真を送ったことで、人生の師と定めた伸一と、心を結び続けてきたにちがいない。既に一葉の写真を送った時から、メンバーは、己心の伸一と共に、勝利の大海原に船出していたのだ。
師弟とは物理的な触れ合いのなかにあるのではない。心に師をいだき、その師に誓い、それを成就しようとする、必死の精進と闘争のなかにこそある。そこに人生の開花もある。
「人の目を喜ばせる花や実は、必ず地中に隠れている健全な根の力です」(注)とは、青森出身の教育者・羽仁もと子の洞察である。
小説新・人間革命29巻第3章清新30
2015年11月2日
「師弟の大道」を進むことこそ
世界広布新時代
<「創価の師弟」の本舞台の開幕>
ブラジル・北パラナ大学のラフランキ総長は語って下さいました(1998年)。
「師弟の関係は大変に重要であります。師匠が計画し、弟子が実行する。師匠が成功の道を指し示し、弟子が人生をかけてその道を行く。私たちはまた、『一人の人間革命が、やがては一国の宿命をも転換する』ということを信じています」
この師弟の大道を、世界各地の地涌の菩薩が進むことこそ、世界広布新時代です。
新たな「時」が来ました。
「師子王の仏法」を世界が待っています。
「創価の師弟」の本舞台の開幕です。
さあ、一人一人が、いやまして「師子王の心」を取り出し、幸福と勝利の師弟の大陣列を、さらに強く、さらに大きく、さらに重曹的に、威風も堂々と築き上げていこうではありませんか!
大白蓮華2015.11月号 №793 41頁
2015年8月1日
師弟は「三世の契り」
『次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん」との金言違ふべきや』(秋元殿御返事、1070頁)
「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」――仏法の師弟の絆は永遠であることを教えられています。今世で初めて弟子となったのではなく、三世の契りなのです。永遠の絆であると聞いた門下の感動と歓喜は、いかばかりだったでしょうか。
また、この一節は牧口先生が傍線を引いて拝されていた御文であり、日蓮仏法、そして学会精神の根本を示す大変に重要な仰せです。
仏教は「師弟の宗教」です。師弟がなければ、民衆を幸福にする広宣流布の実践は成り立ちません。師匠は、民衆のために戦う仏の境涯を、なんとしても弟子に伝えたい。
弟子は、その師匠の生き方を、わが生き方として貫き通すなかで、不二の境涯を自身の人生に厳然と確立していく。
師と一体となって戦う民衆が出現することが、人間の境涯を高め、人類の宿命を転換する大道となるのです。
弟子を自分と同じ境地に導く師匠、また、師匠と同じ生き方を力強く歩む弟子。師弟共戦――共に戦うことが師弟不二の本義です。
そして、この師弟の絆は、今世だけのものではありません。師弟は「三世の契り」であることを、明確に教えているのが法華経です。
とりわけ法華経の焦点は、末法という法滅の時代の救済にあります。人々が正法から遠ざかり、無明が増長する闘諍の時代です。
この時に、正しき法を、正しく求めて、その法を説く正しき師匠と出会う。そして、その師匠と共に不二の不惜と誓願の人生を貫く。
そう決定した人にとって、師弟の縁は、現世だけのものではなく、過去世から未来世にわたって続くものなのです。
仏と同じ慈悲の行動を、自身の振る舞いで体現し、根源の地涌の使命を発揮しているからです。
それゆえに、三世永遠に連なっている本来の境地を、生命の奥底で会得していけるのです。これ以上の誉れの人生はありません。
大白蓮華2015年8月号№789 秋元殿御返事 12頁
2015年7月29日
師弟の因果(完)
<「師弟不二」の栄光>
わが胸中に″師弟不二の太陽″が昇れば、
その瞬間から大変革が始まる
恩師・戸田先生と出会ってから六十二星霜(当時)。先生は言われました。
「妙法実践の証明が未来にどう開花していくか、私と共に、どこまでも戦ってもらいたい」
今、私はますます健康で、世界中の指導者と友情を結び、一千万の同志と共に前進しています。世界から拝受する栄誉も、師との出会いの瞬間から広がった″栄光の因果″です。広宣流布の大師匠にお仕えし抜いた果報に他ならない。
この栄冠のすべてを、私は報恩の心で牧口先生、戸田先生に捧げております。そして、この福徳が全同志へ子孫末代まで流れ通うように、との祈りを込めてお受けしているのです。
わが胸中に″師弟不二の太陽″が昇れば、その瞬間から大変革が始まる。
打開できない宿命はない。打ち勝てない戦いなどないのです。
仏法で説く境涯革命の因果とは、現実的には、師弟がなければ実現されません。「妙法の因果」とは、いわば「師弟の因果」です。弟子は「因」です。師匠は「果」です。弟子の自覚に一切の因がある。
「開目抄」においても、大聖人は「法華経の行者」としての勝利を示されることによって、弟子が敢然と立ち上がることを促されています。
弟子の勝利が師匠の勝利である。師匠の勝利は弟子の勝利です。これが仏法の甚深の方程式であり、「師弟不二」の真髄です。
恩師の誓願であった七十五万世帯の折伏を達成した昭和三十二年の年末。私は詠みました。
冬枯れに
春の若芽は
因果倶時
不二の弟子として、未来に伸びゆく決意を託した句です。
師匠は心の大地です。その心の大地から、弟子は永遠に勝利の花を咲き薫らせるのです。
ゆえに君よ、あなたよ、断じて負けるな! 現在から未来へ断固と勝ちゆけ! 「師弟の因果」「勝利の因果」に生きゆく青春こそ、悔いなき生命の尊極の大道です。
わが尊き同志の皆様、本年も勇敢に戦い、威風も堂々と勝ち進もうではありませんか!
御書と師弟(2009.1.8付聖教)
2015年7月28日
師弟の因果(3)
<人生は強気でいけ>
今、日本も世界も大変な不況下にあります。多くの同志が必死の格闘をされている。リストラや倒産の危機と闘う壮年もおられる。厳しい就職戦線に挑み続ける青年もいる。お子さんのいじめや不登校などで悩むお母さんもおられます。さらに、病気との闘いもあるでしょう。
人生は、生老病死の闘争です。しかし、皆様には、『無上宝聚 不求自得』(無上の宝の聚りを求めずして自ら得る)という「絶対勝利の信心」があります。
最も苦しい時にこそ、最も神々しい歴史が刻まれ、最も大いなる福運が積まれるのです。
広宣流布のために戦う皆様を、ご一家を、三世十方の仏菩薩、諸天善神が守護しないわけがありません。
私も妻も、全同志が厳然と守りに護られ、信心即生活で勝利していかれるよう真剣に祈っています。
「人生は強気でいけ」とは、戸田先生の遺言でありました。我らは強気でいきましょう!
本因妙の仏法
戸田先生は語られました。
「結果を感じて結果に生きる――過去の因を考えて、今の果のみが生活の全体であるならば、人類の生々発展はありません。瞬間に起こった生活の事実を、たえず未来の原因とする、あるいは原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります」
「南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果みな消えさって、久遠の凡夫が出現するのであります」と。
過去がどうあれ、これまでがどうあれ、最も強い本因を新たに植えて生命の潮流を巻き返すことができる。そして「前へ! 前へ!」と未来を勝ち開いていけるのが、我らの信心です。
アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンも言っている。
「成功をおさめた人びとのすべてに共通に認められる点が一つある――それは彼らが因果律を信じていたということだ」「私たちの役目は瞬間瞬間にかかわっているのだから、瞬間を大事に使うことにしよう」(小泉一郎訳)
世界的な経済学者として名高い、香港中文大学の劉遵義(りゅうじゅんぎ)学長と語り合った時、「自己実現される期待」という理論が話題になりました。
つまり、人々が現在、抱いている「期待」が、未来の経済現象に反映されるという洞察です。
心の一念を明るく前向きに変えていくことは、経済の好転にも連動するのであります。それが人間社会の前進の因果です。
(つづく)
御書と師弟(2009.1.8付聖教)
2015年7月18日19日
師弟の因果(2)
<祈った瞬間、生命はすでに勝っている>
その根本が「祈り」である。南無妙法蓮華経は、最も偉大な幸福の法則です。
御書に『久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱う』(御書875頁)とあります。
妙法を唱えれば、その瞬間に、久遠元初の大生命が発動します。その時、過去の宿業に左右されるような不幸は、乗り越えているのです。
妙法の「変毒為薬」(毒を変じて薬と為す)の功力は絶対です。信心は、宿命を転換し、この人生を最高に楽しく生ききっていくための道です。
「祈り」とは、観念ではありません。燃え上がる生命の勝利の炎です。この一念の炎があれば、祈った瞬間、生命はすでに勝っている。『百千万年くら闇き所にも燈を入れぬればあか明くなる』(同1403頁)と仰せの通りです。
これが万人に開かれた人間革命の実践です。
新年を晴れやかに出発された皆様のように、「目標」を立てて、生まれ変わった決意で前進することも、偉大な「未来の果」をもたらす「現在の因」です。
戸田先生から私が、低迷していた文京支部の指揮を託されたのは、昭和二十八年の四月のことです。最初の会合で、私は同志と一緒に題目を唱えました。はじめはなかなか声がそろわない。しかし何度も繰り返すうちに皆は真剣になり、呼吸が合うようになった。そして「前進!」「前進!」と何度も声を出しながら出発した。この一念の革命から、全国が驚嘆する支部の革命が始まったのです。
広布の目標に、「よし、戦うぞ!」「断じて勝ってみせるぞ!」と挑む。この「現在」の深意の一念が、「因」となって境涯が開け、不可能をも可能にしていく力が発揮できるのです。私も、この師子奮迅の連続闘争で勝ってきました。
どうか、『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経と』(御書1143頁)唱えに唱え抜いていってください。
(つづく)
2015年7月17日
師弟の因果(1)
<「師弟不二」の烈々たる一念を因として全てに勝利!>
『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』(開目抄下231頁)
日蓮大聖人は、「開目抄」でこの心地観経の文を引用されています。
この経文は、過去世・現在世・未来世の三世にわたる生命の因果律を説いています。現在の姿を見れば、過去世の因がわかる。また現在の姿を見れば、未来の果もわかるという意味です。
この経文そのものは、通途の因果を説いたものです。しかし、佐渡流罪の大難の中で記された「開目抄」では、この経文を通して、さらに深遠なる「妙法の因果」の理法を鋭く表されていると拝されます。
すなわち、過去世からの宿命は、今世で必ず転換できる。広宣流布のために、三類の強敵と勇敢に戦い抜く中で、いかなる宿業も断ち切ることができる。難を勝ち越えて、大果報の未来を開くことができる、と示されているのです。(中略)
正義の反転攻勢へ
二十三歳の二月、戸田先生の事業の危機を打開するために奔走する中で、私は日記に記しました。
「業因、業果、善因、善果、この理法は、誰よりも悉く自己自身が知悉しているものだ。所詮、誰人を責めるものでもない。誰人の責任でもない」――。
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。いな、断固として創り変えていくものである。
わが師・戸田先生は、師子王でありました。ゆえに、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広宣流布の師匠のために命を捧げて戦う随喜が燃えたぎっていた。この「師弟不二」の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしていったのです。
仏法も人生も、成長への最高の「因」となるのが「師匠」の存在です。師と出会い、師に応え、師と共に戦い、師の勇気と智慧を生命に刻んでいく中で、自分の小さな境涯のカラを破ることができる。それこそが、大いなる未来の自己を築きゆく勝利の根源力となるのです。
「未来の果」を創れ
信心とは、過去から現在、また現在から未来への幸福を照らし出す道です。
「過去の因」に縛られ、「現在の果」を嘆く人生は不幸です。確かに、一面では「過去の因」があって今がある。しかし、今の自分の境涯を高めていくことで、過去の因は悪因ではなくして善因となる。過去に囚われない。いな、過去さえも変えていくことができるのです。
そして、今この瞬間の一念が変われば、それが「現在の因」となって「未来の果」をいくらでも変えていけます。
日蓮仏法は、太陽の仏法です。現実を変革し、未来を創る希望哲学です。わびしさや諦めなどない。くよくよ愚痴をこぼすことなどありません。
今の一念がどうか。それによって、常勝の道が深く、強く、できあがっていく。生死流転の苦しみを断ち切り、勝利と栄光の果を創造していけるのです。
(つづく)
2015年6月18日
本物の弟子
<牧口先生の獄中の戦い>
戸田先生は「私と本物の弟子が二、三人いれば、たとえ臆病者が皆、退転しても、いつでも大創価学会をつくってみせる!」との大確信をお持ちであった。
私も、この言葉の意味が、よくわかる。(省略)
牧口先生は、獄中で、特高刑事らの苛烈な取り調べに対しても、毅然たる折伏精神で、正義を訴え、真実を語った。当時の状況を知っている人は、それがどれほど勇気ある行動だったか、想像できるであろう。
「訊問調書」によれば、“「法華経」は、いかなる教えか”という質問に対して、こう答えておられる。
「仏法は、決して釈尊によって作られたものではありません。無始無終にして、始めなき久遠より、終わりなき永劫にわたり、常に流動しつつ、たえず一切の森羅万象を活躍させているところの法――その法自体に相応(合致)するように行動することが仏法であり、妙法なのであります」(『牧口常三郎全集』第十巻。一部、現代の表記に改めた)
牧口先生は、この「永遠不滅の生命の哲理」にのっとって、最後の最後まで生き生きと信念を貫かれた。
何があろうと、断じて行きづまらない。これが妙法であり信心である。
さらに、牧口先生は、当時の「大日本帝国憲法」と「法華経の大法」の関係について尋問される。これに対しても、厳然と答えておられる。
「法華経の法は宇宙根本の大法でありまして、過去・現在・未来の三世を通じて、絶対に不変であり、万古不易(永遠に変わらない)の大法であります。その時代時代によって改正されたり、廃止されたりする法律や諸制度とは違うのでありまして、終世変わらない人類の行動の規範が示し顕されているのであります。ゆえに、この大法に悖(もと)る(=反する)ことは、人類としても、また国家としても許されないことであり、これに反すれば直ちに法罰を受けるのであります」(同前)
何と勇気ある発言であろうか。何と堂々たる境涯であろうか。
皆さまも、相手がだれであろうと、こと「正義」に関しては、こびたり、へつらったりしてはならない。臆病であってはならない。堂々と、言うべきことを言いきっていくべきである。正義を、真実を叫びきっていただきたい。
1998.4.20 5・3記念第21回本部幹部会
2015年5月22日
真実の師弟の心
<戸田先生の夢が、私の夢>
本日は、ドイツをはじめロシア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアの中欧・東欧諸国、さらにオーストリア、イギリス、フランス、スペイン、アメリカ、日本など十三カ国の友人が集われた。本当にご苦労さま。
きょうの会合は、ささやかに見えるかもしれない。しかし、時とともに三十年、五十年、百年先には、たいへんな歴史的会合と意義づけられることは間違いない。「東欧」の代表の皆さまに、私は一首を贈らせていただきたい。
東欧の
友と相見る
不思議さは
大聖人の
たしかな子等かと
今回の出発の日の前夜、夢を見た。戸田先生の夢であった。先生は和服を着て立っておられた。
私は、先生の体を支えながら、申し上げた。
「先生、これから先生の思想・理念を、世界に広めに行ってまいります」
戸田先生は「私は、うれしい」「本当にうれしい」と、泣いておられた。
また「私はうれしい。ありがとう。ありがとう」と、立って、泣きながら、私を抱きかかえられた。
これが出発の日の前の夜に見た夢である。ひさかたぶりで見た、戸田先生との夢であった。きょうの歴史的な会合に当たり、真実の師弟の心を、一言言い残しておきたい。
本日のこの会合を一番、喜んでくださっているのも、戸田先生であると私は信ずる。戸田先生は、当時、東欧・ロシアの民衆のことを、深く深く思いやられていたからである。
特に、一九五六年(昭和三十一年)の“ハンガリー動乱”(東欧初の反ソ蜂起へのソ連軍介入と弾圧)の折には、先生は民衆の嘆きに、それはそれは心を痛めておられた。その直後の青年部総会の席上、先生は「ハンガリーの今度の問題などは、じつにかわいそうでたまらない。かの民衆はどれほど苦しんでいるか──」と語られている。
また、その後の論文でも「ハンガリーの民衆にたいして、(=今は)吾人らはなんの救うべき手段も方法もない。ただ、一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたいと念願するだけである」と。
こうした悲劇を転換しゆくために、先生は、私ども青年に「確固たる生命哲学を打ち立てよ!」「人間主義の行動で世界を結べ!」と呼びかけられた。私は、そうした先生の構想を一つまた一つ実現してきた。
今や、先生が憂慮しておられたハンガリーをはじめ、東欧・ロシアの天地に、このような偉大な地涌の同志が誕生した。私は、皆さまを、戸田先生とご一緒に心から歓迎したい。
1992.6.12 中欧・東欧・ロシア合同会議
2015年4月4日5日
民衆の求めに応えよ!
<師弟に徹せよ!求道せよ!使命を自覚せよ!>
池田 大通智勝仏が出現する前は、衆生は苦悩し、時代は行き詰まっていた。経文では、その閉塞状況を「冥(くら)き従り冥きに入って」(法華経280頁)と表現している。人々は闇から闇へという悪の流転を止める仏の出現を生命の奥底では求めていた。その心が表されています。
戸田先生もよく「商売でも何でも、民衆が求めているものが広まるのです。広宣流布も民衆が今、妙法を求めているから、必ずできるのです」と言われていた。(中略)
池田 (大通覆講の時に生命の奥深くに持った「無上の願い」)その根源的な願いを、私たちの実感できる言葉で言い換えれば、「自他ともの幸福を願う心」とでも言えようか。言ってしまえば何だ、と思うかもしれない。だれでも知っている心ですから。しかし、この心に生ききることは至難だ。煩悩、無明、欲望、エゴイズム、分断の心などが妨げるからです。
だから、この心を生ききるには、「師」が必要なのです。そのことを、長遠の時間にわたる師弟の因縁を通して、化城喩品で教えているのではないだろうか。
要は、ここでいう因縁とは「人間と人間の永遠の絆」のことです。決して、人間を離れたものではない。人間を外から縛るものでもない。
反対に、弟子の自分が、自分の生命の根本にある「成仏の因」を自覚する。すなわち久遠の「本願」を思い出す。そして、その因を仏果へと育ててくれる師匠という「縁」のありがたさを自覚するこの「最高の絆」への感謝と感動が、化城喩品の心なのです。
斉藤 天台は、仏の「一大事因縁」について「衆生に此の機有って仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす」(『法華文句』)と言っています。
やはり弟子(衆生)を因、仏を縁に配しています。
池田 そう。因と縁では当然、因が中心です。縁はそれを助けるものです。師弟の道も、弟子の自覚が中心です。弟子がどれだけ強き求道心に立つか、どれだけ強き使命感に立つか、その一念の強さに師匠が応じるのです。
それを前提にして、仏はいかなる弟子も見捨てることなく、三世にわたって営々と化導している。教育している。慈愛を注いでいる。この大慈悲を法華経は強調していると思う。
弟子は師匠を信じ、求める。師匠は弟子を守り、鍛える。誓いを忘れた弟子たちをも最終的には見捨てない。この最高に麗しい「人間の絆」こそ、仏法の師弟です。
法華経の智慧 化城喩品 第七章
2015年3月23日
前進だ! 追撃だ!
最激戦地へ打って出よ!
<闇が深いほど、希望の夜明けは近い>
「3・16」から「4・2」、そして「5・3」へ、
学会は大いなる前進の節を刻む。
もうすぐ桜の春が来る。
恩師・戸田先生の雄姿を思い出す。
民衆を苦しめる邪悪と戦われた師であった。
巌のごとき信心の先生であった。
世界広布、立正安国を願われた師を偲び、
私は先日、恩師記念会館で全同志の健康と幸福と勝利を祈念した。
思えば、昭和33年3月16日、広宣流布の記念式典に、
6000人の青年が電光石火で集まった。
今、あの誓いのままに、戦う心を燃やす多宝の友がいる。
勇んで駆け付ける心意気を継ぐ、
頼もしき後継の勇者がいる。
恩師は青年を信じ、愛し、大激励された。
励ましを送ろうと自ら大太鼓を打ち鳴らし、
その雄渾の響きに思いを込めた。
前進だ! 追撃だ! 最激戦地へ打って出よう!
勝利、勝利のリズムで進め!――と。
私も同じ心である。
嵐も怒涛も乗り越えて、青春の命で生き抜こう。
闇が深いほど、希望の夜明けは近いのだ。
戸田先生は烈々と叫ばれた。
「師と苦楽をともにする弟子たれ!
師と目的をともにする弟子たれ!
師と勝利をともにする弟子たれ!」と。
この心で私は全てに勝った。
大変であればあるほど、強盛の信心を奮い起こし、
いよいよ喜びをなして、勇み戦い、断じて勝つ!
これが常勝の魂だ。
何があろうとも、我らには題目の師子吼がある。
異体同心の団結がある。
何も恐れるものはない。
断じて負けない。
広布の行動は、全部が仏縁となる。
諸天を動かす。
功徳に変わる。
今再び
「異体同心なれば万事を成し
同体異心なれば諸事叶うことなし」(御書1463頁)
との大確信で、「いざや前進」だ。
忙しい時こそ励まし合い、
讃え合って歴史を創ろう。
常勝の太陽の皆さん方の健康と、
満々たる生命力の行進を祈ります。
2015.3.22付聖教新聞 新時代を駆ける10
2014年9月27日
己心の師
谷沢徳敬は、山本伸一に語った。
「母は、山本先生をわが家にお迎えするのだと言って、前々から準備し、祈り続けておりました。二階にお上がりください」
徳敬は、伸一を、座談会などの会場として提供している二階へ案内した。仏壇の前には、真新しい紫色の座布団が置かれていた。
「母が、『先生に使っていただくのだ』と言って、縫ったものです」
老いた母親が、真心を込め、目をしばたたかせながら、一針一針縫い上げてくれたのであろう。伸一は胸が熱くなった。
彼は、徳敬に言った。
「では、一緒にお題目を三唱しましょう。真心にお応えするために、この座布団を使わせていただきます」
伸一は、感謝の思いを込め、谷沢一家の繁栄を願い、題目を唱えた。
千秋は、伸一を迎えることを思い描いて、部屋の畳替えもし、湯飲み茶碗等も用意していたという。
彼女は、伸一とは、会ったこともない。しかし、心のなかには、常に、信心の師としての伸一がいた。よく、「もっと、もっと、山本先生のお心を知る自分になりたい」と語り、日々、真剣に唱題を重ねてきた。そして、“今日も弟子らしく戦い抜きました”と、心の師に、胸を張って報告できる自分であろうとしてきた。
日蓮大聖人は、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書三八三㌻)と仰せである。師もまた、厳として己心にいてこそ仏法である。師弟の絆の強さは、物理的な距離によって決まるのではない。己心に師が常住していてこそ、最強の絆で結ばれた弟子であり、そこに師弟不二の大道があるのだ。
小説 新・人間革命 27巻 求道66
2014年9月20日
いざという時の信心
『もし・さきにたたせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事は候はじ』(南条兵衛七郎殿御書、1498頁)
『中有の道にいかなる事もいできたり候はば・日蓮がでしなりとなのらせ給へ』(妙心尼御前御返事、1480頁)
いざという時に、胸を張って「日蓮の弟子」と言い切ることができるかどうか。
日蓮仏法の根幹は、どこまでも師弟です。
三世にわたって師弟に生き抜く誓願と実践が、一切を勝ち開きます。私たちの日々の実践に即するなら、「我、創価学会員なり!」と喜びの唱題を重ね、広布の活動に励むことです。その信心があれば、三世十方の仏菩薩。諸天善神が動きます。そして、その人自身が、未来永遠に「仏」と輝くのです。
大白蓮華No.778号2014.9月号44~46頁(抜粋)
2014年9月7日
師弟の生命は永遠に若い
空には、鳥の飛ぶ道がある。
海には、魚の泳ぐ道がある。
人には、人の歩む道がある。
人間が、最も人間らしく、
価値ある人生を歩み、
向上していくための道が、
「師弟の道」である。
人間だけが、
師弟をもつことができる。
師弟の道によって
自分を高めていける。
ここに人間の究極がある。
後継の青年たちには、
伝え遺せる限り
私のもっているものを
すべて伝えたい。
一切の後事を託したい。
その私の心を、
弟子たる君たちは
深く知ってほしいのだ。
若き日に人生の師に巡り合い、
真実の人間の練磨を
受けることは
青春の最高の誉れである。
この人生の真髄がわかれば、
富や名声などの飾りに
惑わされることもないし
何ものをも恐れることはない。
真剣勝負の出会いは
人の心を変え、生命を変える。
さらに地域を変え、社会を変え、
世界をも大きく変えていく。
師匠と近くにいるから
偉いのではない。
師匠の「心」を身に体して、
現実の上に
実現していく人が偉い。
どんな場所であれ
そんな立場であれ
その自覚があれば、
立派な弟子の戦いはできる。
「心」が大事なのである。
正しき師匠を求め
師の心に応えんとする
弟子の一念にこそ、
前進と勝利の本因が刻まれる。
師弟に生き抜く生命は
永遠に若い。
その人が
永遠の青年なのだ。
聖教新聞2014.8.31付 光の言葉 幸福の曲
2014年8月3日
師弟不二の永遠の闘争
師匠の示した構想を、弟子が、わが誓いとし、わが使命として実現していく。その継承があってこそ、慈折広宣流布大願成就の大道を開くことができる。つまり、師弟不二の永遠の闘争なくして広宣流布はない。
伸一は、そのために、いかなる生き方が重要になるのかについて、言及していった。
「それは、地道な実践です。一攫千金を追い求めるような生き方では、人生の勝利も、広宣流布の本当の前進もありません。大事なことは、しっかりと、自身を磨き鍛え、社会に、深く信頼の根を張っていくことです。
長い目で見た時、時代の流れは、地道さが求められる時代にならざるを得ない。基礎がしっかりと築かれていなければ、時代の変化のなかで、はかなく崩れ去っていきます。人生も広宣流布も持久戦です。
したがって、地道に精進を重ね、持続の信心、水の流れるような信心を貫いた人が、最後は勝ちます。堅実な戦いの積み重ねが、広宣流布の新しい時代を開いていくんです。」
「小説 新・人間革命 27巻 求道39
2014年6月18日
恩師の広布の半生(後半)
やがて、会長に就任したとき、私は七十五万世帯の折伏を誓った。最初は、誰も本気にさえしなかった。
しかし、そんなことは、私の眼中にはなかった。自分一人でも、やろうと思っていたことだからだよ。それは、私がこの世で果たさなければならぬ、私の使命なのだからな。
人をたのむ心があれば、ほんとうの戦いはできない。人をたのみ、数を頼る――その心にこそ、敗北の要因があるものだよ。
私は、この世でやるべきことは、すべてやったと思う。人間として、なんの悔いがあるものか」
戸田はさも満足そうに、山本伸一に笑いかけた。それから彼方を仰ぐように眼を細めて言った。
「人間一人ひとり、皆、生涯になすべき仕事をもっている。私は、広宣流布の未来のために幕を開いたと思っているが、いまになってみると、それが私の仕事であったことがよくわかる。
伸一君、君は生涯を賭けて果たすべき自分の未来の仕事について、考えたことはあるかな。・・・・・僕が大きく幕を開いた舞台で活躍するのは、ほかならぬ君たちなのだ。しっかり頼むよ。
ひとたび広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。戦いを起こしておいて負けるのは、人間として最大の恥だ」
伸一は、戸田の話を心に刻みこむ思いで聴いていた。
小説 人間革命 12巻 憂愁 179頁
2014年6月17日
恩師の広布の半生(前半)
(戸田は)そして、穏やかな口調で、自分の半生を回顧するかのように語りはじめた。
「私は、広宣流布という尊い仕事に、自分の命を賭けさせていただいた。どんな人間でも、崇高なる目的に生きることによって、強く、大きな力を得ることができるものだ。
私にとって、もっとも厳しい人生の試練は戦時中の獄中生活だった。
軍部政府は私の最愛の恩師の命を奪い、学会を壊滅状態に追い込み、私の体も、事業もボロボロにした。
しかし、私は、この二年間の獄中生活に勝った。おのれを捨てたからだよ。広布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時からなんの迷いも、恐れもなかった。
この決意をもって唱えた独房での二百万遍の唱題のなかで、御本仏とともにある久遠の自分を知り、地涌の菩薩としての使命を自覚するにいたった。
独房という地獄のなかで最高の歓喜と法悦につつまれ、不可思議な境地を会得したのだ。金色の光を一身に浴びるような無量の随喜に打ち震えながら、私は妻の両親に手紙を書き送った。――私がいる限り富める者なれば落胆しないでくれ――と。
平凡な取るに足らぬ男が、偉大な使命を知り、不動なる大確信を得たのだよ。
(つづく)
2014年5月17日
弟子の道は、如説修行の道
戸田先生は、「弟子の道」と題する講演で明確に語っています。(昭和十六年十一月二日)
「日興上人は、日蓮大聖人様をしのごうなどとのお考えは、毫もあらせられぬ。
われわれも、ただ牧口先生の教えをすなおに守り、すなおに実行し、われわれの生活のなかに顕現しなければならない」
師匠の教えは、民衆救済です。その教えを素直に守り、素直に実践する弟子もまた、民衆救済に徹していかなければならない。
師匠が、不惜身命・死身弘法ならば、弟子もまた、不惜身命・死身弘法でなければならない。
不遜どころか、師匠の振る舞いと一致しなければ「弟子の道」は存在しない。
大前提は、仏の生命は「戦う心」の中に顕現するということです。戦い続ける人は、つねに「まだまだ」「いよいよ」と、ますます師匠と同じ戦いを繰り広げようとする。
戸田先生は、講演をこう結ばれている。
「弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない」
私も、同じ覚悟で戦ってきました。
創価学会は、「日蓮大聖人が如く」そして「牧口先生が如く」「戸田先生が如く」の精神で進み、発展してきた。師弟不二を目指す実践があったからこそ、広宣流布が進んできたのです。
「弟子の道」という観点から言えば、一切の諸仏もまた、根源の「法」を師匠として仏になったのですから、「法」の前では「弟子」です。
釈尊も、絶えず自身の胸中の「法」に基づいて行動した。日蓮大聖人も外用の振る舞いとしては、久遠の釈尊の弟子である地涌の菩薩の実践を貫かれたと言えます。
ありがたいことですが、大聖人御自身が、法華経の経文どおりの如説修行の在り方を、身をもって門下に教えてくださった。
弟子の道とは、如説修行の道です。師の教えのままに行動しぬくことです。
御書の世界(下)第十四章 弟子の法難
2014年5月14日
師弟の劇を心の奥底に!
戸田先生は、牧口先生の法要(1954年、昭和29年、11回忌)の折、言われた。
「牧口先生と私とは、親子であると信じています。親子という意味は、先生の精神的財産を、私が受け継いだことであります。もし私が先生とお会いしていなければ、いまの私はありません」
私も皆さんのことを“わが子”と思っている。
「(牧口)先生にお別れした最後は、昭和十八年、警視庁の二階でした。先生が先に東京拘置所に行くことになり、私が後になりました」
「顔を見合わせたときは、なにもいえず、顔を見て泣いているだけであり、ただ『おからだをお大事に』と申し上げたのが、お別れの最後でした」
すごい師匠であった。すばらしい弟子であった。ちょうど五十年前の「師弟の厳粛な劇」である――私の心には永遠に刻まれている。
「私は、先生が死んだのも知りませんでした。ちょうど、二十年一月八日、忘れもしません。その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」
「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
「かならずや一生を通して、先生の行動が正しいか正しくないか、その証明をする覚悟です」――と。
戸田先生の命の叫びであった。巌窟王となって、必ず、仇を討ってみせる。一生をかけて、師の正しさを証明してみせる――これこそ「弟子」である。
この峻厳なる師弟の「心」を私は受け継いだ。ゆえに、何も怖くない。ただ信念のままに進む。
この師弟のドラマに創価教育の原点がある。
これほどの気高く、深く、そして強い、人間の信頼の世界はどこにもない。「ここ」にしかない。
1993.5.5創価同窓の集い
2014年5月1日
こ・れ・だ・け・です!
(“地区をどうすれば発展させられるか”の質問に対して)
「私は、“全学会員の最高責任者として、真心込めて、御本尊に力をいただいて、指導しよう”――。
これが一つ。
それから、御本尊を通して“全学会員に題目を送ろう”――。こう決めた。
もう一つは、“責任者として、事があったら私が矢面に立って三障四魔を防ごう”――。
これだけです!」
大白蓮華No.774号2014.5月号11頁
2014年4月2日
桜花の「4・2」に恩師を想う
(前略)
ああ!
恩師と共に過ごし来た
あの日あの時は
すべてが
また すべてが
私にとっては
輝く黄金の思い出となっている。
(中略)
恩師はあまりにも偉大であり
私は幸福者であった。
いな 師も弟子も
永遠不滅の
幸福と勝利の生命が
輝きわたって
流転してゆくにちがいない。
私の心には
いつも いつでも
笑顔輝く戸田先生がいる。
いまもなお
「先生なら どうされるか」
師との対話の日々の連続である。
いかに暗黒の時代に遭遇しても
偉大なる師を念うときに
必ず一本の光の大道が
広がってくるのだ。
ああ!
師匠は鑑である。
師匠は希望である。
師匠は力である。
心に師を持つ人生には
絶対に逡巡はない。
心に師を持つ人生には
断じて敗北はない。
おお!
わが恩師
戸田先生!
世界第一の師匠
戸田先生!
永遠の人生の師
戸田先生!
弟子・池田大作は
晴れ晴れと勝ちたり。
師弟不二の詩を
不滅の歴史と残したり。
一段と
決意深まる
師弟かな
聖教新聞2014.3.30付 桂冠詩人の世界
「師弟不二の詩 ああ恩師 戸田城聖先生」より
2014年3月29日
師匠の通りに実行
「師匠の一言を、
私は『その通り』
全力で実行してきたつもりです。
『その通り』に実行するから
『師弟不二』なのです」
大白蓮華No.773号2014.4月号23頁
2014年3月28日
『師弟不二』論
「昭和25年・・・戸田先生が非常に事業の上でも苦境にあった。・・・体の調子もお悪い様子。
私はどういう縁か、戸田先生のもとで働かざるをえない境遇にあった。・・・何人かの同志は、だんだん退転していく。その中で、戸田先生を批判している」
「私の体も13貫(約49キロ)を欠けてしまった。
非常に体の調子が悪い。もう自分も、このまま長生きできないかもしれない、と予感までした。
その時に決意した。
それは何か!」
「公私ともに、戸田先生の広宣流布への証明をする者は誰か!」
「それは自分しかない!」
「絶対に、題目をあげ、御本尊を疑わず、御本尊にしがみついて、戸田先生の証明をするんだ! こう決めた」
「所詮、自分が成長して、健康になって、力を持って、戸田先生の偉業を証明するのだ!
これが『師弟不二』論であると思うのです」
大白蓮華No.773号2014.4月号19頁
2014年2月9日
敵など、断じて恐れるな!
「大作!
大聖人をいじめ抜いた、極悪の仏敵である平左衛門尉に対して、御書には〝彼は、自分にとって善智識だ〟と仰せになっておられる。
敵など、断じて恐れるな!
全部、自分自身を完成させ、仏にしてくれる、闇の烈風に過ぎない」と。
戸田先生との語らいは、私の青春時代の生命に、すべて宝となって、刻みつけられている。
師匠というものは、本当にありがたく、師をもたぬ者は、かわいそうだ。
師をもたぬ者は、増上慢になる。はかない毀誉褒貶の自己中心を自由と錯覚して、最も不自由な人間の欠陥をもってしまうのである。
2000.5.28随筆 新・人間革命 忘れ得ぬ五月の静岡
2014年2月3日
師弟の絆は時空を超える!
人間の絆は国を超え、民族を超え、時代を超える。
インドのマハトマ・ガンジーが非暴力の民衆運動への絶対の確信を固めていく上で、「私の師」と仰いだのは、ロシアの文豪トルストイであった。
若きガンジーは、南アフリカでインド系住民の人権闘争を推進する中で、トルストイの非暴力抵抗の信念と行動を学んだ。そして、仏教などインドに脈打つ不殺生の民衆運動へと展開していったのだ。
戦う場所は離れていても心はつながる。ガンジーが南アから手紙を送り、深い共鳴を伝えると、トルストイは大変喜び、交信は三度に及んだのである。
トルストイは逝去の二ヶ月目前に認めた手紙で、ガンジーの活動を、「それは地上におけるこんにちのあらゆる活動のうちでもっとも重要なもの」と賞讃した。
ガンジーとトルストイと直接会うことは一度もなかった。しかし、生涯をかけた自らの実践で、その言葉を証明し抜いたのである。
トルストイが泣くなって二十年余年が過ぎたある年、スイスで講演会に臨んだガンジーは、「トルストイは私の一生の師です」と。
ガンジーの非暴力運動は、その後、アメリカのキング博士の公民権運動や南アのマンデラ元大統領のアパルトヘイト(人種隔離)撤廃運動へもつながった。
非暴力の魂――この人類の宝が、国境や言語の壁を超えて輝き広がりゆく底流には、師弟という精神の道があったといえまいか。
2014.1.29聖教新聞 民衆凱歌の大行進[1]「師弟の道」一筋に
2014年2月1日
師と同じ力と智慧が涌現
私の胸には、いつも恩師がいる。会長就任の時も、世界への一歩を踏み出した時も、非難の嵐の中でも、我が生命の奥には師匠が厳然といらっしゃった。
「御義口伝」に、「師弟が感応し、仏の生命を自身の中に顕現して、『如我等無異』の文の如く、わが身仏なりと悟る。これが悟仏知見である」(御書717頁)と仰せである。
師である仏と、弟子である衆生が一体不二で誓願を立てて戦う――そこに仏法の師弟の真髄がある。
師を求め、師の心に迫りながら、弟子が広宣流布の誓願の題目を唱え、戦いを起こす。その弟子の生命には、師と同じ力と智慧が脈々と涌現してくるのだ。
2014.1.29聖教新聞 民衆凱歌の大行進[1]「師弟の道」一筋に
2014年1月9日
師匠が獅子ならば、
弟子もまた獅子
私たちの永遠の師匠である牧口初代会長が、獄中にあって、軍国主義の官憲から不当に起訴された日――それが、十一月二十日だったのであります。(中略)
後に、牧口先生の葬儀の模様をしのぶ時、戸田先生は激昂して、熱い涙を流されるのが常でありました。そして、雷鳴がとどろくように憤怒され、こう叱咤されました。
「(牧口)先生の法難におどろいて先生を悪口した坊主どもよ、法を捨て、先生を捨てたるいくじなしどもよ」と――。(中略)
師匠が獅子ならば、弟子もまた獅子であらねばならない。
今、私に続く、本物の弟子はどこにいるのか――。師匠の難を傍観視して、自分はうまく難を避けていく。そんな卑怯な人間は、学会にいらないのであります。
2014年1月8日
「勇敢」は最高の人生、
真の弟子は戦闘開始せよ!
「勇敢なる人生を生きる人は、最高の人生である。
臆病な人生を生きねばならない人間は、畜生のようなものである。
勇敢な人生を生ききる人は幸福である。
臆病な人生を生きる人は卑怯であり、不幸である」
これは、戸田先生の正月の指導でありました。(中略)
創価学会の青年部の諸君も、この「命をかける精神」を学んでいただきたい。
時代は違っても「悪との闘争」の方程式は同じです。侵略者とは、断じて戦わなければならない。断じて「撃退」しなければならない。
私の青年時代は、全闘争を一人で担って立ちました。仏敵がいれば、日本中どこへでも行きました。
大事なのは人数ではない。真剣の一人です。
戦うべき時に戦えないような、だらしのない青年であってはならない。今、立たなければ、日本はまた人権抑圧の強権的な社会になってしまう。(中略)
五十五年前(1945年)の一月、創価学会の戸田第二代会長は、日本の軍国主義と戦い、獄中で、二度目の新年を迎えておりました。
厳寒の牢獄にあって、戸田先生は「若い自分が、あらゆる難を一身に受けて、高齢の牧口先生は一日も早く、無事に釈放され、ご帰宅されますように」と、ただ、ひたすら祈りに祈っておられました。有名な事実であります。
しかし、一月八日に、突然、判事から、師匠の獄死を告げられたのであります。
戸田先生叫ばれた。
「だれが牧口先生をいじめ、苦しめ、殺したのか!永遠に忘れない!牧口先生の仇を返す!」
仏の敵を一人も残すな!これが先生の口くせであった。
断じて仏敵を倒す!――これが、牧口先生の精神であり、戸田先生の精神であり、私の精神です。これがわからない人間は、真の「師弟」とはならない。(中略)
声です。声が大事です。最近の青年は、おしゃべりは長いが、「正しいことを言いきる」強さがない――とも言われる。堂々と正義を、「いい声で」「人の胸の中に」入れなくてはいけない。
仏法では、「声仏事を為す」(御書708頁)と説く。また、「言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書563頁)と説いています。
わが「生命」それ自体が、妙なる音声を、朗々と、またりんりんと発しゆく尊貴な「楽器」であり、敵を打ち破る「大砲」なのであります。
誠実にして真剣なる「声の響き」が、人間の魂を、どれだけ揺り動かしていくか。ゆえに、「いい声」で明快に語ることである。
とくに末法では、いちばん乱れた時代であり、経文には「闘諍言訟」と説かれている。争いや論争が絶えない時代である。ゆえに強く、恐れなく、正義を叫び、真実を訴えきっていったほうが勝つ。おとなしく黙っていては敗北であります。
語りに語ることである。人権弾圧の悪書を追放することである。
断じて軍国主義にさせない、平和主義へと変えていく戦いである。正義の声を出しきって、戦いましょう!(中略)
断固、「戦闘開始」して、勝ちましょう!
私も先頭をきって戦います。一人、戦います。本当の弟子はついてきていただきたい。
2013年11月17日
誓願の継承
2013年11月6日
永遠なる創価の師弟の流れ
2013年8月29日
弟子の覚悟で全ては決まる
師匠からの
厳しき訓練を受けてこそ、
人間の土台ができるのだ。
戸田先生の弟子として、
すべてを捧げて
お仕えし抜いた私には、
それがよくわかる。
師弟は、弟子で決まる。
「師匠に一生懸命、
お仕えしていこう!」
――この一点に心を定めることだ。
そうすれば、
すべて良い方向に変わっていく。
覚悟が定まらず、
心が散り散りばらばらになっている人は、
何をやってもうまくいかない。
誠実な人かどうか。
要領の人間かどうか。
師匠は、
弟子のことをすべてわかっている。
大白蓮華No.766号2013.9月号93頁
2013年8月11日
歴史をつくることだ。人類のために、社会のために、何か歴史をつくった。勝利の歴史を残した。これが人生の価値である。 希望の歴史、平和の歴史、文化薫る歴史――それを生みだす大地が、創価学会である。 今は民主主義である。民衆こそ王である。 しかし、権力は魔性をもつゆえに、民衆を奴隷にしようとする。そんな転倒は、断じて許してはならない。民衆に仕え、民衆を守るために、権力者はいるのである。 民衆を苦しめる、あらゆる邪悪を打ち破り、勝利また勝利の金字塔を打ち立てていく。それが、新世紀の「本門の時代」である。 私は戸田先生の弟子として、すべての山を勝ち越えた。大難の嵐に耐えながら、同志を励まし、一人、広宣流布の道を開いた。師弟ほど崇高な人生はない。師弟ほど無敵の力はない。 師弟不二が仏法の魂である。弟子が心を定め、総立ちになる時、新しい時代は開かれる。 きょうから出発だ。毎日が真剣勝負である。 とくに青年は気取りを捨てることだ。地道に、一心不乱に、勝利の突破口を開いてもらいたい。栄光輝く広宣流布の歴史を、ともどもにつづってまいりたい。
2003.9.30全国最高協議会
2013年8月10日
最も幸福な弟子とは
戸田先生は
「何がいちばんうれしいですか?」
と聞かれて、
こう答えられた。
「広宣流布のために戦っていく弟子たちが、
どんどん成長することだ。
青年と会うことが、
語ることが、
最高の喜びである」。
私もまた同じ気持ちである。
ブルガリアの芸術史家、
ジュロヴァ博士は、
(中略)
「師匠を持つ人は幸福であり、
自分は彼の弟子だと言える人は
もっと幸福です。
しかし、もっとも幸福なことは、
師匠から弟子と呼ばれることです」
そのとおりだと思う。
2003.11.25全国最高協議会
2013年7月24日
師匠 『熟慮の末、思うところあって、理事長職を辞任する』
弟子 『理事長が変われば、師匠も変わってしまうのでしょうか』
師匠 『いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまうが、君の師匠は僕だ!』
弟子は決意する。
『先生に襲いかかる、ありとあらゆる難は、断じて私がはね返してみせる。そして、必ず必ず、戸田先生に会長になっていただくのだ』
※法華経講義の終了後、事業が最悪の苦境に陥った恩師が、創価学会理事長辞任の意向を発表した・・・
2013年6月20日
2013年5月28日
2013年4月22日23日
五月三日
毎年、この「5・3」を迎えるたびに、私どもは「偉大な自覚」と「偉大な確信」をいちだんと強めながら、晴ればれと集い、また晴ればれと出発してまいりたい。「自覚」ある人は強い。不屈である。無限の知恵がわいてくる。そして「確信」のある人は強い、何ものにも恐れない。無量の力があふれてくる。無辺の福運につつまれていく。それが偉大なる御本仏の「仏子」としての、すばらしき功徳であり、栄誉なのである。
1989.5.3「創価学会の日」記念勤行会 全集(72)419頁
2013年4月7日
毎日が3・16
聖教新聞2013.3.20付我らの勝利の大道100
2012年12月19日
創価学会の生命線
「ともかく、学会の生命線は、
師弟を中心にした心の絆にある。
目に見えないが、
これがあるから、
学会は難攻不落なんです。
強い団結もできるんです。」
2012年10月21日
弟子の道
戸田先生も、
生涯、牧口先生に対して「弟子の道」を貫かれました。
牧口先生を語る時、常に峻厳な表情であられた。
「弟子は弟子の道を守らねばならぬ」と言われ、
大事なことは、
師匠の教えを自身の生活の中で
現実に現すことだと教えてくださいました。
そして、
仏法で最も大事な「師弟の世界」を破ろうとする輩には厳しかった。
純真な広布の世界を破壊するものを断じて許すな、
とそれはそれは厳粛でした。
「師弟の世界」を絶対守り抜けとは、
戸田先生の厳命です。
仏法の根幹は「師弟」です。
「師弟」という、
何よりも深く、強く、そして美しい
生命の交流の中でこそ、
若き生命は「小我」への執着を打ち破り、
「大我」に立脚した境涯を開くことができるからです。
大白蓮華747号2012.3月号39、40頁
2023.7.5整理
2012年10月17日
よき弟子・あしき弟子
『よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず』(900頁)(中略)
師弟不二であれば何事も成し遂げ、一切に勝利していけます。「師弟の道」は「絶対勝利の大道」なんです。「万人成仏の大願」を果さん!
大白蓮華747号2012.3月号39~41頁
2012年9月15日16日
本物の弟子
「牧口先生のときは、
戸田先生が一人、立ち上がった。
戸田先生のときは、私一人であった。
今、その一人が、どこから出てくるのか。
私はじっと見ている。
『私が広宣流布の全責任を担います!』
『誰が何と言おうとも、私が一人、立ち上がります!』
こう天に向かって叫び抜き、祈り抜き、戦い抜いていく。
その『真剣の一人』が必要なのである。
『本物の弟子』を育てたいのである。」
聖教新聞2011.3.7付未来への一歩No.5
2023.7.5整理
2012年8月18日
牧口先生の殉教
学会の創立から14年後の1944年(昭和19年)、軍部政府と生命を賭して戦われた枚口先生は、東京拘置所で殉教された。 それは奇しくも「創立の日」である11月18日の午前六時過ぎであった。この日は土曜日で、東京は雨であった。戦時中の弾圧で、学会は壊滅状態に陥った。(中略)
創立者を大切にしたところは栄える。師匠をないがしろにし、創立の原点を忘れたところは、必ず派閥ができ勢力争いが盛んになって、乱れる。分裂と混乱の道におちていく。これは戸田先生の厳粛なる指導であった。 創価学会の原点は、牧口先生、戸田先生の死身弘法の闘争にある。そして、戸田先生と私の一体不二の戦いによって、学会は世界的な大発展を遂げた。この三代の師弟の精神こそ、学会の根幹である。この一点を絶対忘れてはならない。
聖教新聞2008年11月14日付 創立78周年記念最高協議会
2012年8月8日
今こそ師弟不二の人材城を!
我らの天地に、永遠に崩れぬ「師弟不二の人材城」を築く時は、今である。断固として、誉れ高き「勝ち戦」の歴史を開いてもらいたい。(中略)新時代の「将の将」と立つ君よ!師弟一体の「諸葛孔明」となって、悠々と、堂々と、皆を鼓舞する名指揮を執るのだ。呼吸を合わせ、心を合わせて、楽しく、「異体同心」の出発を頼みます。
聖教新聞2012.7.29付 今日も広布へ24
2012年8月6日7日
常に心に師を
師弟とは、
形式ではない。
常に心に師があってこそ、
本当の師弟である。
心に師がいてこそ、
人間としての「自律」があり、
また、真の「自立」があるのだ。
小説 新・人間革命 22巻 新世紀 12頁
2023.7.5整理
2012年7月16日
師と同じ心
頼らない。
自分が立ち上がる。
同情もいらない。
感傷もいらない。
だれが励ましてくれなくてもいい。
自分が決然と、そして朗らかに立ち上がって、
自分を変え、
周囲を変え、
社会を変え、
国土まで変えていくのです
大白蓮華 №749 2012.5月号
※1260年7月16日立正安国論上程の日を記念して(サイト・マスタ)
2012年7月3日
2012年6月19日
■2022年1月6日第1853回「池田門下生も、かくあれ!」<君よ卑怯者になるな!倣慢になるな!恩知らずになるな!>2006年1月2日 第二総東京最高協議
■2021年12月21日第1837回永遠の創価の魂<いささかたりとも私利私欲があれば>2006.3.17最高協議会
■2021年12月13日第1825回正師(1/3)<正義の師を求めよ、悪師を見ぬけ>(つづく→2/3)
■2021年12月14日第1826回正師(2/3)<大聖人こそ、正義の師匠>(つづく→3/3)
■2021年12月7日第1815回戸田城聖先生の証明<無私>
■2021年11月13日第1782回『牧口は死んだよ』<誰がやったか忘れるな!敵を討て!><新・人間革命> 第2巻 勇舞 260頁~262頁
■2021年10月24日第1755回 師弟の勝利の大叙事詩を2021年10月24日〈池田大作先生 四季の励まし〉
■2021年4月11日第1710回 師弟桜に誇りあり2021年4月4日〈池田大作先生 四季の励まし〉
■2020年5月16日第1667回自分は師によって救われた。2006.4.5 「5・3」記念最高協議会
■2019年7月7日第1612回弟子の使命<師の心を現実社会に>2002.7.25 第十九回本部幹部会、第二回信越総会
■2019年6月22日第1610回牧口先生獄中の崇高なる最期<師の正義を証明するのが弟子>2002.7.25 第十九回本部幹部会、第二回信越総会
■2018年11月28日第1562回1943年10月11日どこまでも師とともに<東京拘置所>2001年10月11日 第十回本部幹部会、第二回関東総会
■2018年10月13日第1537回『師弟』を忘れたら学会は崩壊する『師弟の道』を誤ったら成仏はできない<全員が池田大作たれ>大白蓮華2018年10月号№828 28頁
■2018年9月19日第1526回師弟の真実を正しく後世に残せ!<師弟は不二でなければ仏法の生命はない>1991年10月16日の「世界広布新時代第37回本部幹部会」関西総会
■2018年9月8日第1522回一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる2018年9月8日付 聖教新聞一面
■2018年7月28日第1516回弟子が本当に勝負すべき時<師が、直接、指揮を執らなくなった時こそが勝負>新・人間革命 第30巻 上 大山 85頁
■2018年7月16日第1515回創価の師とは、現代に出現した「地涌の菩薩」の棟梁<師弟の結合こそが創価の生命線>新・人間革命 第30巻 上 大山 34頁
■2017年6月10日師弟不二の道戸田先生と池田先生(6/6)<創価の中核中の中核たれ!> 2004年1月6日 随筆 人間世紀の光1(135) 新しき一年の旅立ち
■2017年6月1日師弟不二の道戸田先生と池田先生(5/6)<仏法の生命は師弟不二にあり> 1991年10月16日 関西総会
■2017年5月25日師弟不二の道戸田先生と池田先生(4/6)<師弟の誓い(後半)>2006年1月6日 第56回本部幹部会、第13回全国婦人部幹部会
■2017年5月24日師弟不二の道戸田先生と池田先生(3/6)<師弟の誓い(前半)>(つづく)
■2017年5月9日師弟不二の道戸田先生と池田先生(2/6)<本当の弟子には厳しい>〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 三十五 2017年5月4日
■2017年5月8日師弟不二の道戸田先生と池田先生(1/6)<戸田先生の人物像> 1986年12月25日 東京第三・第四総合本部合同代表者会議
■2017年4月9日師弟不二の道牧口先生(6) <同じ獄中で師の証明を誓う弟子>1989年8月24日第一回東京総会
■2017年4月8日師弟不二の道牧口先生(5)<三畳の板の間の独房で軍国主義と戦いぬいた牧口先生>1989年8月24日第一回東京総会
■2017年4月6日師弟不二の道牧口先生(4)<すべては民衆の幸福のためにある> 1993年12月8日各部協議会での語らい
■2017年4月4日師弟不二の道牧口先生(3)<教育勅語> 2001年8月21日北陸・信越合同研修会
■2017年4月3日師弟不二の道牧口先生(2)師とはだれより「強く」だれよりも「優しい」青春対話
■2017年4月2日師弟不二の道牧口先生(1)<初めての「広宣流布」宣言>1997年7月9日第13回本部幹部会
■2017年4月1日弟子に課せられた責務〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 八 2017年4月1日
■2017年3月30日師弟関係<師弟ほど尊いものはない。美しいものはない。>2012年3月12日聖教新聞 「新時代第26回本部幹部会」(2009年2月)でのスピーチ抜粋
■2017年3月14日 万策尽きた師匠と弟子の決意〈小説「新・人間革命」〉 大山 五十九 2017年3月13日
■2017年2月16日 先生にお仕えする<「有言実行」で悔いのない自分を!>2007年9月28日 全国代表協議会
■2017年1月24日本物の弟子よ、出でよ!<いよいよ、これからだ!>2009年4月14日 全国代表協議会
■2016年11月4日恐れるな!我が弟子ではないか! <広布の大ドラマを創るのだ!>小説新・人間革命 源流 53
■2016年9月28日 不二の弟子が立ち上がる時<師匠の死>2001年10月11日第十回本部幹部会、第二回関東総会
■2016年8月15日師弟不二への決意は三世永遠の広宣流布の道なり<正義と真実> 2016年8月14日聖教新聞 四季の励まし 師弟の道は 永遠の正義の道
■2016年8月13日原爆許すまじ!<師弟して人間革命挑みゆく> 2016年8月11日<随筆 永遠なれ創価の大城10>被爆七十一年に誓う(抜粋)
■2016年7月21日師弟とは物理的な触れ合いのなかにあるのではない<心に師をいだき、その師に誓い、それを成就しようとする、必死の精進と闘争のなかにこそある>小説新・人間革命29巻第3章清新30
■2015年11月2日「師弟の大道」を進むことこそ世界広布新時代<「創価の師弟」の本舞台の開幕>大白蓮華2015.11月号 №793 41頁
■2015年8月1日師弟は「三世の契り」大白蓮華2015年8月号№789 秋元殿御返事 12頁
■2015年7月29日師弟の因果(完) <「師弟不二」の栄光>御書と師弟(2009.1.8付聖教)
■2015年7月28日師弟の因果(3)<人生は強気でいけ>(つづく)御書と師弟(2009.1.8付聖教)
■2015年7月18日師弟の因果(2)<祈った瞬間、生命はすでに勝っている>(つづく)
■2015年7月17日師弟の因果(1)<「師弟不二」の烈々たる一念を因として全てに勝利!>(つづく)
■2015年6月18日本物の弟子<牧口先生の獄中の戦い>1998.4.20 5・3記念第21回本部幹部会
■2015年5月22日真実の師弟の心<戸田先生の夢が、私の夢>1992.6.12 中欧・東欧・ロシア合同会議
■2015年4月4日民衆の求めに応えよ!<師弟に徹せよ!求道せよ!使命を自覚せよ!>法華経の智慧 化城喩品 第七章
■2015年3月23日前進だ! 追撃だ! 最激戦地へ打って出よ!<闇が深いほど、希望の夜明けは近い>2015.3.22付聖教新聞 新時代を駆ける10
■2014年10月1日師に学び続けよ!聖教新聞2014.9.29付寸鉄
■2014年9月27日己心の師小説 新・人間革命 27巻 求道66
■2014年9月20日いざという時の信心大白蓮華No.778号2014.9月号44~46頁(抜粋)
■2014年9月7日師弟の生命は永遠に若い聖教新聞2014.8.31付 光の言葉 幸福の曲
■2014年8月3日師弟不二の永遠の闘争「小説 新・人間革命 27巻 求道39
■2014年6月18日恩師の広布の半生(後半) 小説 人間革命 12巻 憂愁 179頁
■2014年5月17日弟子の道は、如説修行の道 御書の世界(下)第十四章 弟子の法難
■2014年5月14日師弟の劇を心の奥底に! 1993.5.5創価同窓の集い
■2014年5月1日 こ・れ・だ・け・です!大白蓮華No.774号2014.5月号11頁
■2014年4月2日桜花の「4・2」に恩師を想う聖教新聞2014.3.30付 桂冠詩人の世界「師弟不二の詩 ああ恩師 戸田城聖先生」より
■2014年3月29日師匠の通りに実行大白蓮華No.773号2014.4月号23頁
■2014年3月28日『師弟不二』論大白蓮華No.773号2014.4月号19頁
■2014年2月9日敵など、断じて恐れるな!2000.5.28随筆 新・人間革命 忘れ得ぬ五月の静岡
■2014年2月3日師弟の絆は時空を超える!2014.1.29聖教新聞 民衆凱歌の大行進[1]「師弟の道」一筋に
■2014年2月1日師と同じ力と智慧が涌現2014.1.29聖教新聞 民衆凱歌の大行進[1]「師弟の道」一筋に
■2014年1月9日師匠が獅子ならば、弟子もまた獅子1999.11.20ブラジル「文化市民功労第十字勲章」叙勲式、他
■2014年1月8日「勇敢」は最高の人生、真の弟子は戦闘開始せよ!2000.1.6ロシア・サンクトペテルブルク大学「名誉博士」授賞式、他
■2013年11月17日誓願の継承 小説 新・人間革命 27巻 若芽19
■2013年11月6日 永遠なる創価の師弟の流れ 小説 新・人間革命 27巻若芽14
■2013年8月29日弟子の覚悟で全ては決まる大白蓮華No.766号2013.9月号93頁
■2013年8月11日 人類・社会のために歴史を残せ!2003.9.30全国最高協議会
■2013年8月10日 最も幸福な弟子とは2003.11.25全国最高協議会
■2013年7月24日 師弟の会話、1950年8月24日大白蓮華No.764号2013.8月号13頁
■2013年6月20日 師匠を求めてどこへでも!小説 新・人間革命 26巻 奮迅 36
■2013年5月28日 師弟の道1989.11.18第23回本部幹部会
■2013年4月22日五月三日1989.5.3「創価学会の日」記念勤行会 全集(72)419頁
■2013年4月7日毎日が3・16聖教新聞2013.3.20付我らの勝利の大道100
■2012年12月19日創価学会の生命線新・人間革命25巻 福光 53
■2012年10月21日弟子の道大白蓮華747号2012.3月号39、40頁
■2012年10月17日よき弟子・あしき弟子 大白蓮華747号2012.3月号39~41頁
■2012年9月15日本物の弟子聖教新聞2011.3.7付未来への一歩No.5
■2012年8月18日牧口先生の殉教聖教新聞2008年11月14日付 創立78周年記念最高協議会
■2012年8月8日今こそ師弟不二の人材城を!聖教新聞2012.7.29付 今日も広布へ24
■2012年8月6日常に心に師を 小説 新・人間革命 22巻 新世紀 12頁
■2012年7月16日師と同じ心大白蓮華 №749 2012.5月号
■2012年7月3日7・3師弟勝利の日と人間革命2012年7月1日付 聖教新聞 (5) 桂冠詩人の世界大白蓮華№751 2012.7月号 39頁