2023年2月6日
〈人間主義の哲学の視座〉
第14回
対談集「対話の文明」に学ぶ②
テーマ:宗教と対話
【池田先生】
「対話」がなければ独善になる
共に人類共通の大地を広げて
【ドゥ博士】
互いの差異をマイナスでなく
プラスの価値に転換していく
中国思想研究の大家であるドゥ・ウェイミン博士と10年ぶりの再会(2005年4月、創価大学で)。対談集『対話の文明』では、誠実で粘り強い対話を貫き、新たな価値創造の道を模索していく先に、「対話の文明」ひいては「平和の世紀」の創出があることなどが語り合われた
池田大作先生の著作から、現代に求められる視点を学ぶ「人間主義の哲学の視座」。前回に続き、「宗教と対話」をテーマに掲げ、ハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士との対談集『対話の文明』の「第2章 文明の差異を超えて」をひもとく(前回は1月19日付に掲載)。
耳を傾けて聞く
この対談の大きな焦点の一つが、相手から「学ぶ文明」、互いに「学び合う文明」の重要性にある。
そのために欠かせないのが、自分と相手との差異の尊重、多様性の尊重といえよう。
では、どうすればそうした関係性を社会の基盤にできるのか。ドゥ博士は異文化間のコミュニケーションについて、自身の経験を紹介している。
台湾の東海大学に在籍していた時代、アメリカの三つの大学の大学院生たちが英語教師として赴任してきた。
彼らと毎日のように接するなかで、博士は「文化的な違いを超えて真に理解し合うためには、“耳を傾けて聞く”という優れた技術が必要」だと感じたという。
池田 “耳を傾ける”ことは、相手に心を開き、受け入れていく姿勢といえますね。それは、他者を敬い尊重することにも通じます。まさに、“耳を傾けて聞く”ことこそ、対話の第一歩といえるでしょう。
私が対談した、「平和研究の母」として著名なアメリカのエリース・ボールディング博士も、“聞くこと”こそ「平和の文化」を創造しゆく第一歩であると語っています。
ドゥ 相手の立場に立って意見を聞くという姿勢は、人間同士の関係にあっても、また国と国との関係にあっても、重要な要素となるものです。
◇
異なる他者を“敵”と見るのではなく、自己を拡大し、自己をよりよく理解するのに役立ってくれる存在としてとらえていくべきなのです。すなわち、他者は自己の鏡であると考えるのです。
池田 さまざまな他者と接することで、新しい光を受けて自分自身を見つめ直すことができる。いつも一つの同じ光だけを手がかりに進むのでは、独善という落とし穴に足をすくわれてしまいかねない。思うに「対話」とは、互いに異なる光を当て合うなかで、それぞれの生き方や進むべき道を、より豊かに、より鮮やかに、より広々と照らし出していく、創造的精神の営為といえましょう。
相手の話に耳を傾ける対話の姿勢が失われた時、ソクラテスが「言論嫌い」が「人間嫌い」に通ずると説いたごとく、個人も集団も自己の殻に閉じこもり、他者を拒絶する独善に陥ってしまう。
互いに学び合う対話の価値は、自分の「正しさ」を一方的に主張しがちなSNS(※注1)時代の今、ますます重要性を帯びている。
価値創造の源泉に
インターネットの普及とSNSの拡大で、私たちの情報環境は大きく変わった。世界の人々と瞬時につながることができ、行政機関の重要な発信も手軽に触れられるようになった。日本でのSNS普及率は8割を超え、さらに上昇を続けているという。
アメリカでSNSを使った、ある調査が行われた。利用者自身の考えと対立する意見に触れさせると、どのような反応を示すのかを調べたのだ。
結果は、多様な意見を受け入れるどころか、むしろ自らの意見が正当だという確信を強めてしまったという(クリス・ベイル著『ソーシャルメディア・プリズム』松井信彦訳、みすず書房)。
SNSの登場で多様な意見が発信され、民主主義が強まり、文化の多様性が豊かになるという21世紀の夢は悪夢に終わってしまうのだろうか。いつの間にかSNS上の言論は左右両極端な意見に集約され、対立を生んで平和を遠ざけ、民主主義を危機に陥れている。
多様な意見が対立したままの社会では、それぞれの“正義”がぶつかり合う。かつて世界を席巻した植民地主義や文化帝国主義は、自文化を絶対化し、画一的に他の民族や地域へ押し付けた。
国と国が衝突し、多大な犠牲を払ったことへの反省から、“互いの文化を対等に扱う”という「文化相対主義」(※注2)や「寛容」の概念が注目を浴びた。
対談では、この概念の脆弱さを指摘する。
池田 しかし、単に他の人々の存在を認めるといった、認識論的な「消極的寛容」(※注3)では、いざ対立が生じた時には、いとも簡単に吹き飛んでしまう脆弱さがあるといわざるをえません。
そうではなく、他者の存在を尊び、積極的に関わって、学んでいく。むしろ、互いの差異を価値創造の源泉としながら、ともに、より豊かな人間性の開花を目指していく。そういう生き方こそが求められているのではないでしょうか。
ドゥ 同感です。差異へのこだわりを乗り越えることは大切ですが、そのために私たちが早まって、さまざまな差異を台無しにしてしまうのは、決して望ましいことではありません。社会の幸福と平和という共通の目的に向かって、慎重に注意深く進むことが重要だと思います。
多様性輝く世界観
ドゥ博士は、他文明を「“認める”だけでは、『否定はしないが、無視もする』という心根を脱却できない」とも。差異をたたえ、差異から学び合う対話こそ、分断の危機を乗り越える方途といえよう。
差異の尊重は個性の尊重。それは多様性が輝く世界――池田先生は仏法の世界観を紹介した。
池田 仏法では、「桜梅桃李」という原理が説かれています。すべてが桜に、あるいはすべてが梅になる必要はない。また、なれるはずもない。桜は桜、梅は梅として、それぞれが個性豊かに輝いていけばよく、それが最も正しい生き方である、と。もとより「桜梅桃李」は一つの譬喩であり、それが人間であれ、社会であれ、多様性の尊重という点では同じです。
さらに、仏法では、「自体顕照」といって、それぞれが自身の本然の個性を内から発揮しゆくことが重んじられます。それぞれの個性の開花があってこそ、さまざまな花が咲き薫る花園のような調和を織り成していくことができる。その多様性が輝く豊饒な世界観を、仏法は説き示しているのです。
ドゥ とてもわかりやすい譬えですね。お話を伺って、よく似た譬喩を思い出しました。
それは、あらゆる川が流れ込むことによって、湖をつねに豊かに保ち続けるという譬えです。さまざまな起源をもつ川がつねに新しい水を注ぎ込むことによって、湖はいつまでも新鮮な状態を保つことができるのです。
差異を強調して自己の正当性を確保するのか、それとも、まず相手の言葉に耳を傾け、多様性を尊重しつつ、人間として共通の地平を見いだしていくのか。人類は岐路に立っている。二人は「今こそ対話を」と結論する。
ドゥ 差異をマイナスではなく、プラスの価値に転換していくことが大切です。ゆえに、対話は、他者の考えを変えさせるために説得したり、自分の立場を一方的に主張したりするだけの行為であってはなりません。対話とは、他者に耳を傾け、それによって自分自身を拡大し、自己認識、自己理解、自己批判を深めていける、大いなるチャンスなのです。
池田 その通りです。対話がなければ独善になってしまう。相反し、異なるものをも包み込んでいくところに、対話の深い意義があると、私は思っています。
異なる価値観を尊重し合いながら、真の対話を通じて、いかに人類の共通の大地を広げていくか。対話の力で、どう世界を結び、人類を高めていくか。それが大事です。
憎悪や利害や対立などが幾重にも絡み合った、複雑きわまりない現実の世界をみるとき、それは迂遠な方法に映るかもしれません。しかし、いかに現実が困難であろうとも、私たちは、時代の底流を見据え、変革への挑戦を決して手放してはならない。二十一世紀の地球に「対話の文明」を開花させていくことこそ、世界平和への壮大にして着実なる挑戦であると、私は信ずる一人です。
〈注1〉SNS ソーシャル・ネットワーキング・サービスの略称。代表的なものにツイッター、フェイスブック、インスタグラム、LINE(ライン)など。
〈注2〉文化相対主義 自分の文化が最高だと考える「自民族中心主義」を乗り越えようとして生まれた概念。自分の文化を中心に優劣をつけるのではなく、相対的に多様性を認めることが必要と主張する。
〈注3〉消極的寛容 互いの差異に優劣をつけず、多様性を認める姿勢から生まれる弊害。単に全てを認めるという姿勢では積極的な理解が進まず、表面的な交流に終わってしまうということ。
2023年2月6日〈人間主義の哲学の視座〉
2023年1月19日
〈人間主義の哲学の視座〉
第13回
対談集「対話の文明」に学ぶ①
テーマ:宗教と対話
【池田先生】
対話とは“他者を変える”よりも
まず“自分を変える”壮大な挑戦
【ドゥ博士】
宗教者は“信仰共同体の言語”と
“地球市民の言語”を語る必要が
創価大学で語り合う池田先生とドゥ博士(2005年4月)。先生は「対話の文明――まさに現代世界を変革する急所を、博士は見つめておられる」とたたえた。博士は「SGIからは、さまざまな知的な刺激を受けています。私の精神を啓発する源泉です」と
池田大作先生の著作から、現代に求められる視点を学ぶ「人間主義の哲学の視座」。感染症のパンデミックによる混乱やウクライナ危機などに象徴される、世界の分断化にどのように向き合えばよいのか。今回からは「宗教と対話」をテーマに掲げ、ハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士との対談集『対話の文明』の「第2章 文明の差異を超えて」をひもとく。
差異を超えて
第2章の冒頭、「21世紀を開く対話の要件」と題された節には、次のエピソードが紹介されている。
夏の浜辺でくつろぐ、互いに見知らぬ2組の家族がいた。
1組の家族の子どもが海に入り、溺れてしまう。それを見つけた、別の家族の父親が海に飛び込み、子どもを助ける。しかし、子どもを連れ戻す際、今度は自分が溺れてしまう。
助けられた子どもの家族が信仰するのはユダヤ教で、助けた父親はイスラム教を信仰していた。そうした垣根など一切越えて、目の前の子どもの命を、自分の命を懸けて救ったのだ――。
これは国連が定めた2001年の「文明間の対話年」に当たって設置された賢人会議の報告書「差異を超えて」に収められているものだ。同会議は、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領やノーベル経済学賞のアマルティア・セン教授ら18人の識者によって構成され、ドゥ博士もそのうちの1人として報告書をとりまとめた。
あらゆる文明において、「差異を超えて」地球的課題に取り組むことを促すには、その基盤となる宗教にもまた、その宗派性を超えた行動が求められる。池田先生は「いかなる高等宗教も、究極的には『人間の幸福』『社会の平和』を志向している。その共通の大地に立てば、希望の未来の建設へ共に協力し合っていけるはずです」と展望する。
「開かれた」姿勢
そうした高等宗教の取り組みにあって、宗教指導者の役割は重要だ。その集団に直接関わる問題のみに取り組む「閉ざされた」姿勢にとどまることなく、地球的問題を視野に入れて行動する「開かれた」姿勢であることが求められよう。
ドゥ 私たちがとくに関心をもっていることは、宗教指導者たちが地球市民の一員として、その精神的源泉を人類全体の幸福のために活用し、人類が置かれている状況に関する私たちの認識と理解を助けてくれるよう、働きかけることです。
池田 まさに急所を突いた洞察です。もはや、一宗一派に閉ざされた宗教であっては、時代の遺物といわざるをえません。なかんずく、地球的問題群の解決のためには、あらゆる宗教が英知を結集し民衆の幅広い連帯を築いていくことが要請されます。
仏法では“差異へのこだわり”を乗り越えて、対話によって、ともに社会の平和と幸福を目指していくべきことが説かれております。
私どもが信奉する日蓮大聖人の「立正安国論」は、思想や信条が異なる二人の人物が対話を交わす形式で、論が進められています。時に議論を戦わせながら、ともに社会を憂えるという共通の土台に立って、粘り強く真剣に対話を続けていく。そして、悲劇を生み出す原因は何か、悲劇を止める術はあるのか、人間はそのために何をすべきなのか、といった問題意識を共有し語り合うなかで、その方途を見出し、社会のために行動することを確認していくのです。そこでは「対話の力」が生き生きと示されているのです。
ドゥ博士は1989年7月から14カ月間、ハワイ・東西センターの文化・コミュニケーション研究所の所長を務め、世界における「平和の文化」構築への出発点として、「文明間の対話」を推進し、「宗教間の対話」を探求した。その際、あらゆる人間の宗教性を包括する「世界精神性」という土台に立ったことを語った。
池田 博士のお話を伺いながら、私の師である戸田第二代会長が語っていたことを思い起こしました。
「釈尊やキリストやマホメットらが一堂に会したならば、大きい慈愛の心で語り合い、譲り合い、尊重し合っていくであろう。そして根本的目的である人類の恒久の幸福に向かって、戦争・暴力・紛争を断じて食い止めようと、ともに手を携えて立ち上がっていくことだろう」と。
師は、宗派性を超えた大きな志向性をもっていました。それは、いかなる宗教も人間の幸福に奉仕するものであらねばならないとの信念から出発したものでした。
ドゥ 「宗教間の対話」のあり方を示す、示唆に富んだお話に心から共鳴します。
現代の宗教者は、一方で“それぞれの信仰共同体の言語”を語るとともに、他方で“地球市民としての言語”を語っていく必要があると思います。この二種類の言語に通じることが、“文化的独自性の要求”および“人類共通の幸福”の両方に応えていくことになるのです。
分断を克服する道
この世から「悲惨」の二字をなくしたい――この恩師の願いを胸に、世界の知性との1600回を超える池田先生の文明間対話、宗教間対話は、まさに差異を超え、人間と人間を結び、分断や対立を協調と連帯へと導く“地球市民の語らい”であるといえよう。
池田 ナチスと対峙し、亡命先のアメリカで活躍した、思想家のハンナ・アレントは、「ただ世界が人間的となるのはそれが語りあいの対象となった場合に限ります」(『暗い時代の人々』阿部斉訳、河出書房新社)と述べています。
真の「対話」は、人々を結びつけ、相互の信頼をつくり出していくためのかけがえのない磁場となる。対話による善なる力の内発的な薫発こそが、互いの人間性を回復し蘇生させるといえましょう。
ドゥ まさに、そのとおりだと思います。対話方式というのは、単に同一性や均一性を求めることではありません。それは「人間になる」ための豊かで効果的な方法なのです。私たちは、異なった生活様式との出合いによって、「聞く」技術や思いやりの倫理観、自己発見の感覚を磨いていくのです。
池田 おっしゃるとおり、対話の海のなかでこそ、人間は「人間になる」。対話とは、“他者を変える”というよりも、まず“自分を変える”壮大な挑戦といえるでしょう。
政治家や宗教者である前に、「一人の人間」であり、そこに立ち返る。そのためには「対話が不可欠」という点で一致した両者。その「一人の人間」が持つ偉大な力に期待を寄せた。
ドゥ 私は、池田会長が指摘されてきた「人間主義と共生の『希望の新世紀』を創り出す力は私たち自身のなかにある」という哲学に深く賛同しています。
今や、私たちは、進歩や個人主義にとりつかれた西洋の啓蒙主義(※注)が主流をなしてきた、現代社会の方向性を変えなければなりません。そのために不可欠なのが対話です。相手を説得するというよりも、みずからの視野を広げるために対話を重ねていくことが、分断や対立を克服する道であると、私は信じています。
◇
ドゥ 真の対話は、相互の信頼と理解に基づいて行われなければなりません。そして、真の「文明間の対話」とは、自分のなかに相手の文明を共存させることによって、みずからの文明の地平を開いていくものでなければなりません。こうした真の「文明間の対話」こそが、地球共同体のための「対話の文明」を創出するうえでの有望な手段だと考えるのです。
これに対し、池田先生は、対話が日常のあらゆる場面でなされることを念頭に、この節を次の言葉で結んだ。
池田 政治、経済をはじめ、あらゆる分野において、正しき対話の精神が最大に重んじられていく。そして、互いに敬い、学び合いながら、自他ともの幸福と繁栄を目指していく。そうした「対話の文明」を築いていくことが、今こそ求められています。
〈注〉啓蒙主義 近代の自然科学確立とともに、中世ヨーロッパのキリスト教神学を根本とした学問体系から脱し、合理性や科学によって真実を究明しようとする考え。
ドゥ・ウェイミン ハーバード大学名誉教授。1940年、中国・雲南省生まれ。ハーバード大学で博士号を取得後、カリフォルニア大学バークレー校の歴史学教授、ハワイ・東西センター文化・コミュニケーション研究所所長、ハーバード・イエンチン研究所所長などを歴任。中国史・思想の大家であり、儒教研究の第一人者。
2023年1月19日〈人間主義の哲学の視座〉
2022年7月5日
第2043回
夢を実現する武器は何か。
それは「対話」である。
<「核兵器は絶対に無用」>
この地上から「悲惨」の二字をなくしたい――これが戸田先生の夢であった。そして私の夢である。
夢を実現する武器は何か。それは「対話」である。
日本と世界の指導者、さらに各界の識者と、私は、胸襟を開いて対話してきた。
イギリスでは、バッキンガム宮殿で、アン王女を表敬し、難民問題等について意見を交換した。
チャールズ皇太子からは私邸に招かれ、青少年の教育について話が弾んだ。
冷戦終結の立役者、ロシアのゴルバチョフ元ソ連大統領とも、これまで八度にわたって親しく語りあった。
一九九六年には、アメリカとキューバの関係が悪化するなか、両国を相次ぎ訪問した。キューバの革命宮殿で、背広姿のカストロ議長とお会いしたことも、思い出が深い。議長とは、「核兵器は絶対に無用」との信条で一致した。
また私は、世界の″知性の府″から招聘を受けて、講演を行ってきた。
アメリカのハーバード大学では二度、スピーチした。フランス学士院でも、厳粛な雰囲気のなかで講演を行った。温かい賛同の拍手を送っていただいたことも懐かしい。
アジアにも、南米にも、アフリカにも、オセアニアにも、創価の人間主義に共感してくださる友人が数多くいる。
われらの「友情の太陽」で世界を照らしたい。一生涯、大いなるロマンに生きぬきたい。そこに平和の緑野が広がっていくのである。
2005.7.16各部合同協議会
2022年5月6日
第1990回
会って語れば道は開ける
<心の壁を取り払う武器は「対話」>
日蓮大聖人は、「仏種は縁に従つて起る」(御書1467頁)仰せである。
私は「一人」との出会い、「一回」の語らいを大切にしてきた。
その一つ一つが、友情を結び、信頼を広げゆく「種」となる。その種は、時とともに、計り知れない希望の花と咲き薫り、平和の結実をもたらしていくのである。
また御聖訓には、
「他人であっても心から語りあえば、命にも替わるほど大切な存在となるのである」(御書1132頁、趣意)とある。
誠心誠意の対話で結んだ絆というものは、それほど深く、強くなる。
私が初めて旧ソ連を訪れたのは、一九七四年である。当時、日本には、「ソ連は、なんとなく怖い。冷たい」というイメージが広められていた。しかし、空港で出迎えてくださったモスクワ大学のホフロフ総長は、知性と人格の光る、すばらしい笑顔の方だった。
人間である以上、立場が違っても、対話によって理解しあえることが必ずある――この信条で、私は語りに語ってきた。みずから足を運び、直接会って、交流を結ぶ。その積み重ねが、多くの人々のソ連観を一変させていったのである。
私はロシアに、深い友情で結ばれた方々が、大勢いる。
(=モスクワ大学のサドーヴニチィ総長は、名誉会長の平和行動が「露日の外交関係において突破口を開いた」と語っている)
あいまいな情報をもとに、「思い込み」や「先入観」だけで判断することほど、危険なことはない。つくられた「イメージ」を悪用する、ずるい人間もいる。
私たちが進める「対話」は、そうした心の壁を取り払うための武器なのである。
2005.4.15「5・3」記念祝賀代表者会議
2022年5月1日2日
第1988回
「会う」ことから世界は変わる
<「一対一」の納得と執念の対話こそ常勝の王道>
平和と幸福の大法を
弘めゆく我らには、
何も恐れるものはない。
「会う」ことが
「世界を変える」ことに
つながる。
直接会って、
相手のことを知っていく。
意見に耳を傾ける。
真剣に、
誠実に語っていく。
それでこそ、
新たな拡大のうねりを
巻き起こしていける。
まず、誠実な対話で
一人の友をつくることだ。
その一人の先に、
二人、三人、さらに十人、
ひいては
千万の友の
笑顔の花また華が
広がっていく。
一切の偏見を排除し、
相手の尊厳なる生命に
接していく時、
そこには
必ず人間の善性が
輝きを放っていく。
相手の仏性を
尊敬していくところから、
深い信頼が育まれ、
対話の扉が必ず開ける。
「声」である。
「勇気」である。
「勇気の声」が、
善を拡大するのだ。
勇気を胸に、
朗らかに、
活力に満ちあふれた声で、
友情の対話を
広げていきたい。
相手を思う深き祈りは、
必ず通じていく。
心が心を
動かしていくのだ。
すべての勝利も栄光も
「一人」から開かれる――
これが、広布前進の
変わらざる鉄則だ。
どこまでも
「一対一」で、
納得と執念の対話に、
敢然と
飛び込んでいくのだ。
遠回りのように見えても、
これこそ
共感と理解を広げゆく
直道であり、
常勝の王道なのだ。
2022年5月1日池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」
2022年4月24日
第1982回
ベルリンの壁をなくすには
<対話と文化交流>
一九六一年(昭和三十六年)十月八日、ベルリンの壁の前に立った伸一は、その夜、ホテルの彼の部屋で、同行のメンバーとともに、深い祈りを込めて勤行をした。
彼は、強い誓いの一念を込めて、東西ドイツの統一と世界の平和を祈った。
”東西冷戦による分断の象徴となった、このベルリンを、必ずや平和の象徴に転じなければならぬ……。現在の世界の悲劇も、結局、人間が引き起こしたものだ。ならば、人間が変えられぬはずはない”
伸一は、地球を一身に背負う思いで、人類の融合と平和への挑戦を開始したのである。
唱題を終えると、彼の額には汗がにじんでいた。
それから、懇談が始まった。皆、悲惨なベルリンの現実を目にし、複雑な思いをいだいていた。ある人は興奮気味にベルリン市民の苦しみを嘆き、ある人は悲観的に展望を語った。
同行のメンバーの一人が、伸一に尋ねた。
「先生は、ブランデンブルク門の前で、この壁は三十年後にはなくなるだろうと言われましたが、そのための、何か具体的な対策があるのでしょうか」
彼は、笑みを浮かべて答えた。
「特効薬のようなものはないよ。ただ、東西冷戦の氷の壁をとかすために、私がやろうとしているのは『対話』だよ。西側の首脳とも、東側の首脳とも、一人の人間として、真剣に語り合うことだ。どんな指導者であれ、また、強大な権力者であれ、人間は人間なんだよ。
権力者だと思うから話がややこしくなる。みんな同じ人間じゃないか。そして、人間である限り、誰でも、必ず平和を願う心があるはずだ。その心に、語りかけ、呼び覚ましていくことだよ。
東西両陣営が互いに敵視し合い、核軍拡競争を繰り広げているのはなぜか。
一言でいえば、相互不信に陥っているからだ。これを相互理解に変えていく。そのためには、対話の道を開き、人と人とを結んでいくことが不可欠になる」
同行の幹部たちは、真剣な顔で、山本伸一の話を聞いていた。
伸一は、皆に視線を注ぎながら、話を続けた。
「また、もう一つ大切なことは、民衆と民衆の心を、どう繋ぐことができるかです。
社会体制や国家といっても、それを支えているのは民衆だ。その民衆同士が、国家や体制の壁を超えて、理解と信頼を育んでいくならば、最も確かな平和の土壌がつくられる。
それには、芸術や教育など、文化の交流が大事になる。その国や民族の音楽、舞踊などを知ることは、人間の心と心を近づけ、結び合っていくことになる。本来、文化には国境はない。これから、私は世界の各界の指導者とどんどん会って対話するとともに、文化交流を推進し、平和の道を開いていきます」
<新・人間革命> 第5巻 開道 7頁~9頁
2022年4月17日
第1975回
創価の青年たちが、
さらに太く力強い″民衆交流の大道″を!
<「対話」で開く「友好」の道を>
広宣流布とは、一面からいえば、わが国土に、そして世界に、平和・文化・教育を興隆させることである。
その意味で私は、中国との友好の道を、私なりに懸命に開いてきた。
東西冷戦の渦中、一九六八年九月には「日中国交正常化提言」を発表した。
(=中日友好協会副会長を務めた黄世明氏は、「この提言が、そして創価学会が、中国と日本の友好関係を発展させる大きな発端となり、起点となったと思います」と振り返っている。
また、記者として提言を本国に打電した劉徳有氏は、「当時の複雑な状況のもとで、このような大胆な提言をするには、危害を加えられる覚悟をしなければならないほど、たいへんに勇気が必要であり、容易なことではありませんでした」と語っている)
周恩来総理、中日友好協会の廖承志会長をはじめ、心ある指導者の方々との真剣な語らいは、いずれも忘れがたい。国交正常化の後、新中国から日本への正式な留学生を初めて受け入れたのは、わが創価大学である(一九七五年春)。私自身が六人の留学生の身元引受人となり、彼らが、存分に勉強できるよう、心を尽くしたことも、よき思い出である。
一九七四年の九月には、モスクワでコスイギン首相と会談した。
その三カ月前、私は中国を訪問し、北京の人々がつくった地下防空壕を視察していた。当時、中国の民衆はソ連を脅威に感じていた。ソ連もまた、中国の動向に不安を覚えていた。おたがいに、不信感にとらわれていた。
不信を、信頼に転換するために――その心で私は、コスイギン首相に率直に聞いた。
「中国はソ連の出方を気にしています。ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」
首相は、「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と答えた。
私はさらに「それを中国の首脳に、そのまま伝えてよろしいですか」と聞くと、首相は「結構です」と。
同じ年の十二月、ふたたび訪中した私は、このソ連の意向を、中国の要人に伝えたのである。
また、アメリカとキューバの関係が悪化していた時期に、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長と会見したことも鮮烈に覚えている。(一九九六年六月)
日本の指導者とも、真剣な対話を重ねてきた。
どんな国や団体との交流であれ、
「主義主張が違っても、同じ人間ではないか」
「そこに人間がいるかぎり、私は行く」との信条を貫いた。
これまで、ずいぶんと偏見に満ちた非難中傷を受けたが、すべて厳然と勝ち越えてきた。
私が世界各地で結んだ″信頼の道″を、
二十一世紀に生きる創価の青年たちが、
さらに太く力強い″民衆交流の大道″として
いってくれることを、心から期待している。
2005.4.4総東京代表協議会
2021年11月7日
第1775回
対話で世界を味方に
2021年9月26日
第1732回
ハーバード講演30周年
対話で世界を味方に
語り合うことは、
学び合うことである。
知り合うことである。
そして、
尊敬し合うことである。
対話は、人類を友とし、
世界を味方にすることだ。
対話の出発点は、
乱れ切った社会への
悲憤である。
苦しみ悩む民衆に
同苦する心である。
この共通の地平に立てば、
いかに差異があっても、
同じ人間として、
真摯な対話が、
いつでも可能なのだ。
仏法の師弟の大誓願である
「広宣流布」には、
その文字の中に、
すでに対話の魂が
込められている。
「広宣」とは
「広く宣べる」との
意味である。
対話の実践がなければ、
広宣流布は
成し遂げられない。
私たちには、
生命の真髄を解明した
仏法がある。
そして、現実の社会に
積極果敢に関わっていく
「立正安国」の
理念と行動がある。
ゆえに誰人に相対しても
萎縮することはない。
毅然と闊達に、
よりよき人生と
社会を開く対話を
繰り広げていくことが
できるのだ。
対話は、何幕もの
劇のようでもある。
火花の散る瞬間があり、
共鳴の音楽が
高鳴る至福の時がある。
生き生きとした対話には、
充実があり、活力が漲る。
さあ、いよいよ
強盛な信心に立ち、
生き生きと
対話に打って出よう!
自他共の幸福のため、
社会と世界のため、
希望の未来のために、
永遠に輝く
常勝の 民衆城を
築いていこうではないか!
2021年9月26日〈池田大作先生 四季の励まし〉
2021年10月15日
第1744回
まことの対話
メンバーが伸一の部屋に入ると、そこは、さながら座談会場のようになってしまった。
メンバーは、それぞれ伸一に自己紹介し、近況を報告していった。皆、彼の来訪を待ちわびていた人たちである。話しながら感極まって泣きだす人もいた。
伸一は、一人ひとりの話を聞き終わると言った。
「さあ、せっかくの懇談の機会ですから、どんなことでも、聞きたいことがあったら聞いてください」
メンバーは、この機会を待っていたかのように次々と質問をぶつけた。仕事の悩みもあれば、病気の問題もあった。
一人のアメリカ人の壮年からは、英字で表記した経本をつくってほしいとの、要望が出された。それまで英字の経本がなかったために、日本語がわからないメンバーは、人の勤行を聞いて、耳で覚えるしかなかったのである。
「わかりました。それはお困りでしょう。すぐに検討します」
伸一は帰国後、直ちにこれを進めていった。
彼は、どこにあっても、常に同志との率直な語らいを心がけた。その対話のなかから人びとの心をつかみ、要望を引き出し、前進のための問題点を探り当てていったのである。そして、問題解決のために迅速に手を打った。提起された問題が難題である場合には、何日も考え、悩んで、なかなか寝つけないことも少なくなかった。
まことの対話には、同苦があり、和気があり、共感がある。対話を忘れた指導者は、権威主義、官僚主義へと堕していくことを知らねばならない。
伸一の思いは、いつも広宣流布の第一線で苦闘する同志とともにあった。いな、彼自身が最前線を駆け巡る若き闘将であったといってよい。
<新・人間革命> 第1巻 錦秋 145頁~146頁
2021年8月29日
第1728回
幸福の地図を朗らかに
人間は、対話の中でこそ、
真の人間に成長する。
対話とは、
相手から学ぶことである。
そこには
相手への尊敬がある。
相手から学べば、
自分も豊かになる。
だから豊かな対話には
喜びがある。幸福がある。
平和がある。
対話それ自体が、
人間の勝利の証しなのだ。
人間として
爽やかな好感を
広げていくことだ。
そこから、対話がはずみ、
友情が生まれ、
仏縁が結ばれる。
御本尊に
「皆と仲良くできる自分、
信頼される自分に
成長させてください」と
祈るのだ。
困難であればあるほど、
舞を舞うごとく、
喜び勇んで進むのだ。
民衆のために――
この一点を
忘れてはならない。
人に尽くす人こそが
真実の王者だ。
広宣流布のために、
動いた分、走った分、
語った分、
真の友情の道が開ける。
自他共の
幸福の地図が広がる。
これ以上、充実した、
悔いなき歴史はない。
向かい風であっても、
泥沼であっても、
友と手を携え、前へ前へ
進み抜いていけば、
崩れざる「異体同心」の
スクラムができあがる。
対話には納得がある。
信頼がある。知恵がある。
生き生きとした対話は、
民主主義の基盤である。
対話で民衆を励まし、
民衆の心と心を結べ!
これが、
広宣流布の不変の軌道だ。
皆が力を出し切ろう!
胸を張り、声も惜しまず、
わが信念を語ろう!
朗らかに伸び伸びと、
笑みを湛えて、
友情を結ぼう!
2021年8月29日〈池田大作先生 四季の励まし〉
2018年10月8日
第1532回
話すことの二倍聞け
対話、懇談で大切なのは何か。
それは「よく聞く」ことであろう。これは平凡に見えて、むずかしいことである。
古代ギリシャの哲人ゼノンは、「人間は一枚の舌と二つの耳を持って生まれた。ゆえに話すことの二倍だけ聞け」と述べている。
とくに女性は、聞いてもらうだけで、気持ちが晴れる場合がある(笑い)。
漢字では、「聡」の字も「聖」の字も「耳」が意味の中心である。「よく聞ける」人が「聡明」なのであり、その究極が「聖人」なのである。
1991年6月10日第一回ベネルクス三国最高会議
(池田大作全集77巻)
大白蓮華2018年10月号№828 11頁
2018年1月26日
「大事なのは、たくさんの人ではない。
『一人』だ!」
<膝づめの対話>
一、終戦後、1945年(昭和20年)の9月22日。戸田先生が出獄されてから、2カ月半たっていた。
師匠の牧口先生は、すでにいない。学会の組織は全滅。戸田先生の事業も多額の借金。焼け野原。社会も殺伐。生きる糧も、生きる柱もない。荒れ果てた、すさんだ時代であった。
その最大の苦境のなかで、戸田先生は、この9月22日、ご自身のノートに、こう厳然と記されたのである。
「南無妙法蓮華経の信仰は、向上を意味する。無限の向上である。朝に今日一日の伸びんことを思い、勇躍して今日一日を楽しむ。しかして無限に向上して行く」
「まだまだ、その上へその上へと向上して行く法である」
きょう一日、自分はぐんぐん成長しよう。生き生きと生きよう。楽しんで生きよう。無限に向上していくのが信仰なんだ。南無妙法蓮華経なんだ――そういう先生の大確信であった。
皆が絶望し、何の希望も見えない時代。その時に、戸田先生は一人、戦いを開始された。
「お金もない。何もない。しかし、妙法がある! 皆に『無限の希望』の妙法を与えよう!
『宇宙の宝』の妙法を与えよう! これ以上の宝はないのだから! そのために、勇気を出して、自分は戦闘を開始しよう!」――そういう思いで。
人生、何かを始めなければいけない。
やるんだか、やらないんだか――すぐに舞台の裏に隠れてしまうような、そんな人生ではつまらない。
わが「使命の舞台」に、さっそうと立ち、「さあ、やるぞ!」「何かをやってみせるぞ!」「観客に感銘を与えてみせるぞ!」――こういう人生でありたいと思うが、どうだろうか(拍手)。
一、戸田先生は考えられた。どうしていこうか。会場もない。お金もない。なんにもない……そうだ! 「膝づめの対話」でやろう! こう決められた。
これが知恵である。慈悲である。
一人一人、悩める人に耳を傾けながら、徹底して「この一人を幸せにしよう!」「妙法を教えていこう!」――そこに執念を燃やされた。「大事なのは、たくさんの人ではない。『一人』だ!」と。
あるとき、戸田先生は、経済苦で悩む人を、ユーモアを込めながら、こう激励された。
「今に必ず幸せになる! 心配しなくてもいいよ。必ずなるんだから。
仏に仕えた功徳は大きい。必要なときには、どっと功徳が出てくるんだ。
ちょうど水道の蛇口のようなものだ。ふだんは、余計なお金は使えないように、蛇口が閉まっている(笑い)。必要なときに、その蛇口を開ければいいんだ。そういう功徳あふれる自分の生命に必ず、なっていくんだよ」と。
また、ある人には、先生は、こう教えられた。
「この仏法は、どんなことがあっても、最後は、幸せで幸せで困るような境涯になることが決まっているんだ。それが、すぐに良くなってしまったら、もう死ななければいけないことになる(笑い)。若いうちには、うんと苦労したほうがいい。
最後に、絶対に、『幸福でたまらない境涯』『楽しくてたまらない境涯』になる。そういう人生を飾っていくのが、この妙法なんだ。学会活動の功徳なんだ」
事実、その通りになっている。
一、日蓮大聖人は仰せである。「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書1143ページ)
“妙法を唱える以上の幸福はない”との御断言である。これを心から確信していただきたい。
皆に「自信」を与える!
「勇気」を与える!
「希望」を与える!
それには妙法しかない。創価学会しかない(拍手)。
2018年1月16日付聖教新聞 1月7日の本部幹部会で紹介された池田先生の指針(1998年9月当時、抜粋)
2017年8月21日
人間と人間を結ぶには何が必要か
<諦めずに対話を続けること>
人間と人間を結ぶためには何よりも大切なのは、対話を続けることです。
私たちが、法華経の修行の鑑である不軽菩薩のように、目の前の一人また一人と、諦めずに対話を貫くことは、自身の仏性を呼び覚まし、相手の仏性を呼び覚ますことでもあります。(中略)
まさしく大事なのは、人間革命の連動です。常に一人の変革から始まるのです。
大白蓮華2017年8月号№814 38頁
2017年3月27日
対話は「人間を信ずる力」
“対話の春”である。
“行動の春”である。
“成長の春”である。
私たちの対話が、
社会を変え、世界を結び、
未来を創る。
私たちの対話には、希望がある。
生命の可能性を開く
蘇生の力がある。
勝利と勇気と確信がある。
「人間を信ずる力」によって
民衆の時代を築くのが、
私たちの対話なのである。
「人に会う」ことである。
「会う」ことから
何かが始まる。
何かを学べるし、
自分の世界も広がる。
次の、新しい出会いへと、
つながっていく。
勢いも出る。
知恵もわく。
対話を避ける菩薩はいない。
声を惜しむ仏もいない。
人と会い、
人と語り合うことなくして、
仏道修行は
あり得ないのである。
民主主義の出発も、対話である。
対話は、
一人の人格を
平等に尊重する営みだからだ。
「自分の心の中にある思想」を
人に語ることによって、
自分自身の知恵がいっそう輝き、
豊かになっていく。
語れば語るほど、
その思想を、
よりはっきりとつかみ、
自分自身のものにしていける。
自在に展開していける。
正義を語り抜く人は、
どんどん輝いていく。
徹底して
叫ぶ人が勝っていく。
さあ! “対話の春”である。
“行動の春”である。
“成長の春”である。
〈池田大作先生 四季の励まし〉心を広げる「対話の春」に 2017年3月26日
2017年3月25日
対話の力
<時代を開く平和力>
さあ、対話をしよう!
友の眼に秘められた
哀しみ、苦しみを見すえ、
ためらいの言葉に耳をそばだて、
勇気を奮い起こして
励ましの対話を始めよう!
同苦の腕を広げ、
弾む生命で、
希望と正義の哲学を語ろう!
ほとばしる情熱と
金剛の確信をもって、
忍耐強く、
共感の調べを奏でよう!
さあ、対話を続けよう!
一個の人間に
内在する力は無限だ!
一人の発心は、
友から友へと
蘇生の波を広げ、
やがて万波を呼び起こす。
「一は万が母」(御書四九八ページ)と。
われらは、
対話をもって
人びとの心田に幸福の種子を植え、
この世の尊き使命を呼び覚ます。
対話をもって
心をつなぎ、世界を結び、
難攻不落の
恒久平和の城塞を築く。
さあ、今日も、対話を進めよう!
第三代会長を辞任し、名誉会長になった山本伸一は、一九七九年(昭和五十四年)五月三日の本部総会で、十条潔新会長のもと、新体制がスタートしたことを見届けると、世界広布の新しい雄飛のために行動を開始した。同志との励ましの対話に徹し、また、世界平和への流れを開くために、各国の大使や識者らとの語らいに努めた。
対話の力こそが、時代を開く平和力となる。
小説「新・人間革命」〉 雌伏 一 2017年3月24日
2015年9月14日
一人の本当の友人をつくろう!
<民衆と民衆の“心の絆”を!
アジアに世界に友人を!>
永遠なる友好交流を支えるのは、
何より民衆と民衆を結ぶ
“心の絆”であろう。
民衆という「大海」の上にこそ、
政治・経済の「船」は
浮かび、進む。
民衆と民衆の心の絆は、
目には見えない。
しかし、見えないがゆえに強い。
誰もが、平和を望んでいる。
どんな人にも、
他者を慈しみ、
大切にする心が具わっている。
大事なことは、
誰の心にもある良心と勇気を
一人、また一人と呼び覚まし、
地域を、社会を、
そして人類全体を
包み込んでいくことでは
ないだろうか。
平和への直道である。
対話を実らせるには、
信頼を築いていくことだ。
友情を結び、育んでいくことだ。
そのためには――
相手の話を「聞く」。
相手を「敬う」。
相手から「学ぶ」。
これが、
価値ある対話の鉄則である。
雨の一滴も、
川の水の一滴も、
大海の一滴も、
小さな世界の中の
友情であったとしても、
全世界の友情につながる。
「一人」の本当の友人を
つくることが、
「世界」の平和へと
通じている。
2015.9.13付聖教新聞 光の言葉 幸福の曲(アジアに世界に友情の海よ広がれ)
2015年3月12日
真の対話
<「対話」で開けぬ道など絶対ない!>
「真の対話」は、相手を尊敬し、相手から学ぶことだ。
そこに互いの向上があり、喜びがある。
「対話」で開けぬ道など絶対ない!――この確信で、真心と慈悲の発露のままに語ることだ。
相手の仏性を信じ抜く祈りを根底に置いて、誠実に言葉を紡ぐ時、「真の対話」が生まれる。
日蓮大聖人は、『よく・よく・かたらせ給へ』(御書1227頁)
さらに『力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし』(同1361頁)等々と繰り返し仰せである。
『声を惜まず』(同504頁)正義を叫び抜けとも言われた。
黙っていては、大善を為し得ない。臆さず、自分らしく、自信満々と声を響かせていくのだ。
民衆の真実の声、確信の声が轟くところ、必ず「立正安国」の夜明けが開かれるのである。
さあ、創立85周年の「5・3」へ、常勝の春と希望の対話の花々を爛漫と咲かせゆこう!
朗らかに
桜梅桃李の
生命にて
乱世を勝ち抜け
いまだこりずと
2015.3.11付聖教新聞 民衆凱歌の大行進19 咲き薫れ 希望の花々
2014年5月21日
対話こそ、
私の揺るがぬ確信
いずこの国であっても、人間には「生老病死」の現実があります。病気の苦しみ、生活の苦労、愛する家族との死別――人間に光をあててみれば、誰しも何らかの苦悩があるものです。
その次元に立って心を開けば、必ず理解し合えます。
そして対話を重ねていけば、変化が生まれます。
対話はあらゆる差異を超えて、相互理解と友情の橋を架ける――これが私の揺るがぬ確信です。
聖教新聞2014.5.15付生命の光、母の歌 最終章 未来へ喜びの交響曲を㊦
2014年1月11日
「情報技術革命」が進めば進むほど
「一対一の対話」が重要となる!
人間と人間の「物理的な距離」は、
どんどん近づいてきた。
にもかかわらず、
「心と心の距離」は、
遠ざかったままである。
孤独地獄は、ますます深刻である。
だからこそ、
これからの情報化社会をリードするには
「人間根本の哲学」を持って、
「人格と生命の対話」を
率先して実践していく指導者が必要である。(中略)
テヘラニアン博士は、
そうした「生命触発のモデル」として、
創価学会の座談会運動、対話運動を挙げておられる。
「私は、SGIにみられる座談会などの自主的な小規模のミーティング(会合)のもつ役割を高く評価し、注目しています。
現代の国家や企業といった、マス(大きな集まり)の次元だけでは、どうしても非個性化、非人格化、貪欲性、攻撃性が優勢になりがちです」と。
「情報技術革命」が進めば進むほど、
健全な人間と社会の発展のために、
人格と人格がふれあう「一対一の対話」が
必要不可欠となるのは当然である。
その時代の最先端の行動をし、
新たな地球文明の創造へ貢献しているのが、
わが創価学会であると、
世界の識者が注目をし始めたのである。
思えば、釈尊も、
インドの大地を歩にに歩いて
「一対一の対話」を続けていった。
大聖人の「立正安国論」も、
「対話形式」でしたためられている。
「対話」こそ、仏法の永遠なる精神である。
上からの命令では「対話」とはいえない。
心を通わせ、ともに歩き、ともに行動する。
そこに対話が生まれる。
牧口先生も戦時中、
権力の魔手が迫るなかで、
最後の最後まで折伏の歩みを進められ、
「対話」を続けられた。
逮捕されたのも、
「一対一の対話」のために、
はるばる伊豆の下田まで、
足を運ばれた時である。
「声仏事を為す」(御書708頁)
――声が仏の仕事をなすのである。
しゃべることである。対話である。
「柔和忍辱(正法を素直に受持し、難を耐え忍ぶ)の衣」
「忍耐の心」を持ちながら日々、
生き生きと声を発していく。
「希望の対話」
「哲学の対話」
「幸福の対話」
「なごやかな対話」
「励ましの対話」――。
それが人間らしい世界をつくる。
それが「勝利への対話」につながるように
戦ってまいりたい。
2000.7.18第48回本部幹部会