2022年9月20日
第2107回
傲慢な人間、
庶民をバカにする人間を許すな
<四恩を知る者を「人倫」といい、
知らない者を「畜生」>
イギリスの文人ハズリットはつづっている。
「本当に偉い人物になると、
偉そうな様子は全然見せないのである」
「つまらぬ人間に限って人を見下すものである」
(『ハズリット箴言集』彩流社)
そのとおりであろう。
さらに彼は、こう述べている。
「およそこの世にうぬぼれほど
軽蔑すべきものはなく、
またこれほど忌わしいものはない」(同前)
たいしたことはないのに、
「自分が偉い」とうぬぼれる。
傲慢になる。
そうした人間は多い。
私どもが交流しているペルーの国立教育大学で、
初代総長を務めたファン・ホセ・ベガ博士は、
「『謙遜』には『謙虚さ』で、
『傲慢』には『堂々たる強さ』で立ち向かいたい」と述べている。
傲慢な人間は、
放っておくとつけあがるものだ。
戸田先生は、
偉ぶった人間、
庶民をバカにする人間を許さなかった。
遠慮なく怒鳴りつけておられた。
悪人と戦わないのは、臆病である。
それでは多くの友を守ることはできない。
牧口初代会長と親交のあった、
教育者の新渡戸稲造博士は述べている。
「恩ということは、
人間から起ったのである。
畜生には恩ということはあるまいと思う」
(「世渡りの道」、『新渡戸稲造全集』8所収、教文館)
御聖訓には、こう仰せである。
「恩を知ることを最高とし、
恩を報ずることを第一とする。
世の中には、四つの恩がある。
これを知る者を人倫(人の道に適った人間)と名づけ、
知らない者を畜生というのである」(御書491㌻、通解)
学会に助けられ、
学会のおかげで社会的に偉くなりながら、
ついには学会を裏切り、
攻撃する。
同志を見下し、
バカにする。
畜生以下の所業である。
断じて許してはならない。
戸田先生は、
大切な広宣流布の組織を守るために、
賞罰については、大変に厳格であられた。
「いったん除名したら、絶対に復帰は許さない」
「組織を重んずるかぎりには、厳罰をもってあたる」
これが戸田先生の信念であり、遺言であった。
2005.8.15代表幹部研修会
2022年5月14日
第1998回
報恩こそ仏法の正道
<「悪」を滅してこそ「善」が生ずる>
日蓮大聖人は「恩」について厳しく教えておられる。
「仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし」(御書192頁)
恩を知り、恩に報いることこそ、
人間の道であり、仏弟子の要件である。
大聖人は、″動物ですら恩を知り、恩に報いる。いわんや人間をや″とも仰せである。
(「報恩抄」の冒頭に「老いた狐は、自分が生まれた古塚を忘れず、必ず首を古塚に向けて死んでいく。また、中国の武将・毛宝に助けられた白い亀は、後に毛宝が戦いに敗れると、彼を背に乗せて、河を渡って助け、その恩に報いた。畜生すら、このように恩を知り、恩に報いる。まして人間が恩を知り、恩に報いないでよいはずがあろうか」〈御書293頁、通解〉とある)
恩を忘れ、恩を裏切ることが、
どれほどの悪行であるか。
学会においてもこれまで、
退転・背信の輩が、
例外なく、卑しい「恩知らず」であったことは、
皆さん方が、よくご存じのとおりである。
「恩知らず」は、
仏法の道に背き、
人間の道、生命の道を外れた、
最低の生き方なのである。
「報恩抄」では、
通じて、「四思」に報い、
別して、「師匠の恩」に報いていく道を説いておられる。
ここでは、「四恩」として、
(1)父母の恩
(2)師匠の思
(3)三宝(仏法僧)の恩
(4)国王の恩(社会の恩)
が挙げられている。
(「報恩抄」には「ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほう報ぜんがため」等と仰せである。「父母の恩」に一切衆生の恩」を含む)
私たちが尊崇の対象とする
「仏法僧の三宝」のうち、
「仏宝」とは日蓮大聖人、
「法宝」とは「南無妙法蓮華経の御本尊」、
「僧宝」とは日興上人である。歴代法主は含まない。
また「僧」とは、
広く言えば、
三宝を正しく伝え広めていく「和合僧」をさす。
現代で言えば、
創価学会こそが「和合僧」なのである。
広宣流布を忘れた坊主たちが、「僧」であるはずもない。
「報恩抄」は、
大聖人が「大事の大事どもをかきて候ぞ」(御書330頁)
と言われた重書である。
その中で示された「報恩」の根本の道とは何か。
日寛上人の「報恩抄文段」を拝すれば、
報恩の根本の道とは、
「邪法を退治すること」であり、
「正法を弘通すること」である。
すなわち、
不惜身命の広宣流布の信心である。
身命を惜しまず「邪法を退治」し、
「正法を弘通」すれば、
一切の恩に報いることができるからであると、
日寛上人は教えてくださっている。
(文段にこうある。「問う、報恩の要術、その意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。調く、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通すれば、即ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」〈文段集323ページ〉)
真実の「師匠への報恩」の道は、
悪を破折し、
正義を拡大する以外にない。
反対に、悪を傍観し、
放置しておくことは、
師匠に対する忘恩であり、
裏切りである。
また、たとえどんなに小さなことであっても、
同志を苦しめる悪を、
絶対に見逃してはならない。
放っておけば、その毒気が、
いつしか全体に蔓延して、
清浄な和合の世界が破壊されてしまう。
「悪」を滅してこそ「善」が生ずる。
正義の言論で悪を一つ一つ退治していかねばならない。
そして、
仏に等しい善良な同志を守りぬき、
広宣流布の正義の勢力をいちだんと拡大しながら、
断固として勝ち進んでいくことである。
これこそが、弟子の「報恩の戦い」なのである。
「師匠の恩に報いる」という言葉を、
民主主義の現代から離れた
古い価値観のように受け取る人もいるかもしれない。
しかし、
「師弟の道」「報恩の道」こそ、時代を超えた、
人間の永遠の勝利の道であることを知っていただきたい。
また、師弟の心といっても、
口先で論ずるものではない。
みずからが深く決意し、行動するなかに、
「不二」の魂が脈動していくのである。
「報恩抄」の最後には、こう仰せである。
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(御書329頁)
わが創価学会は、
この御聖訓の正しさを実証をもって示した。
末法万年尽未来際への令法久住の流れをつくった。
そして、人類の不幸の流転を押しとどめるために、
世界広宣流布の道を開いている。
世界の心ある知性も、
この創価の前進に、
二十一世紀の希望を託している。
2005.2.23全国最高協議会
2023.10.10整理
2022年1月18日
第1868回
「忘恩」は自らを滅ぼす
<仏法は″報恩の人間学″>
四十五年前(当時)、
「永遠の都」ローマを訪問したことも懐かしい。
古代ローマの哲学者セネカが、
「恩」について論じている。
「報恩」の人生は美しい。
「忘恩」の人生は醜い。
恩に対する一念によって、
人生は決定的に変わってしまう。
トインビー博士も高く評価していた、
古代ローマの初代皇帝アウグストウスの時代。
皇帝は、一人の貧しい男に力を貸した。
やがてその男、
グナエウス・レントゥルスは、
「執政官」になり、国家の第一人者になった。
セネカいわく
「この男は自分の栄達のすべてを
神皇アウグストゥス帝の恩義に被った」
(『道徳論集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会。
以下、引用は同書から)
にもかかわらず、
男は、感謝するどとろか、
恩ある皇帝への不満を口にしていた。
「いつもアウグストゥス帝について
不平を並べ、
帝は自分を仕事から遠ざけよう
としたなどと言っていた。
帝が自分に施しているというよりも、
むしろ自分のほうが能弁を捨てる
という損失を被ったとも言っていた」
人間は慢心によって、
人生の軌道を狂わせていくものだ。
高慢の罪は立場が重くなり、
責任が大きくなるほど、
戒めていかねばならない。
この男は、のちの皇帝によって、
自殺に追い込まれたうえに、
財産も取りあげられるという
悲惨な末路をたどった。
セネカは語る。
「自分たちのために
最も良く尽してくれた人々のことを、
最も悪く言う者たちもいる」
「忘恩は重大な悪徳であって、
われわれの堪えがたいもの」である。
恩知らずになる最大の原因は何か。
セネカは鋭く喝破している。
「その原因は
余りにも自分を過信することであるか、
自分自身や自分のことを自惚れる
という人間生来の欠点であるか、
あるいは貪欲であるか、
あるいは嫉妬である」
自惚れ、貪欲、嫉妬
――学会に恩を受けながら裏切っていった者たちも、
ことどとく、こうであった。
セネカは、
「報恩」について、
どこまでも厳格であった。
「恩知らずの種類は多い」
「恩恵を受けたが、
受けたと言わない者は恩知らずである。
恩恵を受けなかったように
偽る者も恩知らずである。
また恩に報いない者も恩知らずであるが、
しかし何と言っても一番の恩知らずは、
恩を忘れた者である」
「恩知らずの者たちには、
弁解の余地を閉ざさねばならない」
思えば、
私が友情をはぐくんだヨーロッパの方々は、
ひとたび結んだ友情は
絶対に裏切らないという厚い信義で、
共通していた。
人が何を言おうと、
わが信念を貫くという
「屹立した人格」があった。
ヨーロッパの方々との友情は、
私の人生の宝である。
ともあれ、
大聖人は「報恩」の生き方を
繰り返し教えておられる。
仏法とは、
いわば″報恩の人間学″である。
ゆえに、
忘恩、不知恩、背恩があれば、
決して許してはならない。
2006年1月7日欧州代表協議会
2023.10.10整理
2021年12月26日
第1843回
報恩は人間性の証明
感謝の心から歓喜が湧く。
歓喜は意欲と活力と
創造の源となる。
ゆえに、
人生の勝利もまた、
感謝から生まれる。
今の自分があるのは、
多くの人々の
おかげであることを知り、
感謝の心を持って、
今度は自分が人々のために
尽くしていく。
この行為こそが、
「知恩」であり
「報恩」である。
報恩は、人間性の証明だ。
「心こそ大切」――
ここに信仰の極意がある。
人に真心を尽くす。
受けた真心は大切にする。
私はそれを、
厳格に実行し抜いてきた。
私は、お世話になった
方々のことは
絶対に忘れない。
御礼と
感謝の言葉によって、
信頼と友好の絆は
強まっていく。
人に対して、どれだけ
「ありがとう」と言えるか、
感謝の言葉を語れるか――
実は、そこに
人徳が表れるといっても
過言ではない。
我ら創価家族は、
この一年も大いに動き、
大いに語って、
広宣流布の前進を
成し遂げた。
希望を広げた。
未来を開いた。
夏の炎暑にも、
冬の寒風にも負けず、
堂々たる
完勝の一年を飾った。
わが弟子、
わが同志の大勝利が、
本当に嬉しい。
誰が知らなくとも、
誰が誉めなくとも、
仏天は全て
お見通しである。
陰の献身は、
一切合切が
自らの福徳となり、
命の輝きとなる。
「陰徳陽報」という、
生命の究極の栄光が
ここにあるのだ。
2021年12月26日 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」
2023.10.10整理
2021年12月21日
第1836回
報恩こそ
最高の人間の道
広宣流布の戦闘は師匠とともに進む。
ここに勝利の道がある。
第二代会長の戸田先生が、
牧口初代会長に、お仕えする姿は、
それはそれは厳粛であった。
豪放語落なあの戸田先生が、
牧口先生の前に行くと、
ひれ伏しておられた。
それを目にした人が、
「これほどまでに師弟は峻厳なものか」
と襟を正していた。
日蓮大聖人は仰せである。
「恩を知ることを最高とし、
恩を報ずることを第一とする」
(御書491㌻、通解)
恩を知るのが人間の道であり、
なかんずく仏法者の道である。
私は今日まで、戸田先生、牧口先生に、
最大にご恩返しをしてきたつもりである。
「開目抄」には、
仏弟子であるならば、
必ず恩を知り、
恩に報いるべきであると述べられている(御書192㌻)。
恩知らずには、
仏弟子を名乗る資格はない。
2006年3月17日最高協議会
2018年12月21日
第1573回
報恩の人こそ人生の勝利者
報恩の人生は美しい。
お世話になった人に
恩返しをしていこうという心が、
一番、自分を成長させる。
限りない向上の
エネルギーとなっていく。
報恩の人こそ、人生の勝利者である。
何事も皆の支えがあってこそ
成り立つという考えをもつならば、
おのずから、
人々への感謝が湧くものだ。
しかし、自分中心で、
“周囲の人が何かしてくれて当然”
という考え方でいれば、
感謝の思いをいだくことはない。
胸には不平と不満が渦巻いていく。
人を思いやる心は、
相手によって
生まれてくるものではなく、
まず、自分の心の中に
築き上げるものである。
鏡に向かってお辞儀をすれば、
鏡の自分もお辞儀をするごとく、
自分自身の心が、
相手の心を呼び醒ましていくのだ。
「陰徳あれば陽報あり」
(御書1178ページ等)である。
使命の「陰徳」に徹する生命には、
どれほど偉大な「陽報」が
輝きわたることか。
一日一日、また一年一年、
心の財を積み、福徳の境涯と
眷属を広げていけるのが、
創価の人生である。
一年間、本当にありがとう!
また来年も勇敢に戦おう!
すべてに勝とう!
勝てば楽しい。うれしい。
皆が大歓喜に包まれる。
「仏法は勝負」である。
勝つための仏法だ。
正義は断じて勝たねばならない。
新しい一年を
晴れやかに勝利しよう!
〈池田大作先生 四季の励まし〉報恩の人こそ人生の勝利者 2018年12月16日
2018年12月1日(未掲載)
上野殿御消息
建治元年 五十四歳御作 与南条時光
三世の諸仏の世に出でさせ給いても皆皆四恩を報ぜよと説き・三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の古の賢人は四徳を修せよとなり、
四徳とは・
一には父母に孝あるべし・
二には主に忠あるべし・
三には友に合うて礼あるべし・
四には劣れるに逢うて慈悲あれとなり、
一に父母に孝あれとは・たとひ親はものに覚えずとも・悪ざまなる事を云うとも・聊かも腹も立てず誤る顔を見せず・親の云う事に一分も違へず・親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり、
二に主に合うて忠あるべしとは・いささかも主にうしろめたなき心あるべからず、たとひ我が身は失しなはるとも主にはかまへてよかれと思うべし、かくれての信あれば・あらはれての徳あるなりと云云、
三には友にあふて礼あれとは友達の一日に十度・二十度来れる人なりとも千里・二千里・来れる人の如く思ふて礼儀いささか・をろかに思うべからず、
四に劣れる者に慈悲あれとは我より劣りたらん人をば・我が子の如く思いて一切あはれみ慈悲あるべし、此れを四徳と云うなり、是くの如く振舞うを賢人とも聖人とも云うべし、
此の四の事あれば余の事にはよからねどもよき者なり、是くの如く四の得を振舞ふ人は外典三千巻をよまねども読みたる人となれり。
一に仏教の四恩とは一には父母の恩を報ぜよ・
二には国主の恩を報ぜよ・
三には一切衆生の恩を報ぜよ・
四には三宝の恩を報ぜよ、
一に父母の恩を報ぜよとは父母の赤白二渧・和合して我が身となる、母の胎内に宿る事・二百七十日・九月の間・三十七度死るほどの苦みあり、生落す時たへがたしと思ひ念ずる息・頂より出づる煙り梵天に至る、さて生落されて乳をのむ事一百八十余石・三年が間は父母の膝に遊び人となりて仏教を信ずれば先づ此の父と母との恩を報ずべし、父の恩の高き事・須弥山猶ひきし・母の恩の深き事大海還つて浅し、相構えて父母の恩を報ずべし、
二に国主の恩を報ぜよとは・生れて已来・衣食のたぐひより初めて・皆是れ国主の恩を得てある者なれば現世安穏・後生善処と祈り奉るべし、
三に一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり・女は母なり・然る間・生生世世に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり、
四に三宝の恩を報ぜよとは・最初成道の華厳経を尋ぬれば経も大乗・仏も報身如来にて坐ます間・二乗等は昼の梟・夜の鷹の如くして・かれを聞くといへども・耳しゐ・目しゐの如し、然る間・四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間・母の恩報じがたし、
次に仏・阿含小乗経を説き給いし事・十二年・是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば・男は五戒・女は十戒・法師は二百五十戒・尼は五百戒を持ちて三千の威儀を具すべしと説きたれば・末代の我等かなふべしとも・おぼえねば母の恩報じがたし、況や此の経にもきらはれたり、方等・般若・四十余年の経経に皆女人をきらはれたり、但天女成仏経・観経等にすこし女人の得道の経文有りといへども・但名のみ有つて実なきなり、其の上未顕真実の経なれば如何が有りけん、四十余年の経経に皆女人を嫌われたり、
又最後に説き給いたる涅槃経にも女人を嫌はれたり、
何れか四恩を報ずる経有りと尋ぬれば法華経こそ女人成仏する経なれば、八歳の竜女・成仏し・仏の姨母憍曇弥・耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ、されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ・畜生にもあらず蛇身にもあらず・八歳の竜女だにも仏になる、如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき、されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり。
然る間・釈迦・多宝等の十方・無量の仏・上行地涌等の菩薩も・普賢・文殊等の迹化の大士も・舎利弗等の諸大声聞も・大梵天王・日月等の明主諸天も・八部王も・十羅刹女等も・日本国中の大小の諸神も・総じて此の法華経を強く信じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり、相構て相構て心を翻へさず・一筋に信じ給ふならば・現世安穏・後生善処なるべし、恐恐謹言。
日 蓮 花押
上 野 殿
上野殿御消息(御書、1526頁)
2017年2月14日
報恩とは、
自身の可能性を最大に開いていく
「人間革命」の挑戦なのだ。
<報恩感謝に徹すれば、
自ずから為すべき行動は定まる>
感謝がある人は幸福である。
心には豊かさがあふれ、
喜びに満ち、
生き生きとして明るい。
福徳が輝く。
感謝のない人は不幸である。
いつも、不平と不満、
嫉妬と恨みと愚痴の
暗雲が渦巻いている。
だから、人も離れていく。
わが人生を輝かせゆく源泉は、
報恩感謝の一念にこそあるのだ。
誰のどのような行いによって
今の自分があるのか。
そのことを深く知り
感謝することで、
自己を最も強く肯定し、
自分自身の存在の基盤を
確立することができる。
自身の基盤を確立することは、
自分自身の大いなる
発展の土台となるのである。
報恩とは、
自身の可能性を最大に開いていく
「人間革命」の挑戦なのだ。
大文豪ゲーテは言う。
「感謝しなければならぬ人と
出あいながら、
感謝をわすれていることが、
どんなにしばしばだろう」
その通りである。
陰で支えてくれた方々に、
感謝の声を掛けていくことだ。
決して
当たり前と思ってはならない。
声一つ、言葉一つで、
人間の心は動く。
その心が一切を決める根本だ。
感謝を忘れず、
報恩に徹すれば、
自ずから為すべき行動は定まる。
必ず無限の勇気と智慧が、
滾々と
湧き起こってくるのだ。
感謝の人は光る。
報恩の世界は栄える。
池田大作先生 四季の励まし 感謝の心で人生は輝く 2017年2月12日
2023.10.17整理
2016年11月29日
学会に育てられた大恩に応えるのは
「今」
<今一重強盛に御志あるべし>
広宣流布大誓堂の誓願勤行会には、全国、全世界から尊き同志が集われている。忘れ得ぬ「大分21世紀会」の代表750人も、勇んで参加された(27日)。
1981年(昭和56年)、私が大分の天地で長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表した折、一緒に歴史を刻んだ宿縁深き男女青年部の友である。
長編詩で、私は訴えた。
「不幸と幸福 邪悪と正義 魔と仏との戦いが 仏法の真髄である!」
「いかなる大難をも乗り越え 確固不動なる姿を示していくところに 人間革命の勝利の旗が 天空高く永遠になびいていくからだ!」と。
この青春の誓いのバトンを握りしめて、35年間、真っ直ぐに走り抜いてきた、「正義のメロス」たちだ。
私は万感を込めて御聖訓を贈った。一番大変な時に信心を貫き通した門下を讃えられた一節である。
「古への御心ざし申す計りなし(=これまでのあなたの信心の深さは言い表すことができません)」(御書1220頁)と。
日蓮大聖人は、その上で、「其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし」(同頁)と仰せである。
わが愛弟子たちも「今一重強盛に」と、いよいよの心でスクラムを拡げている。とりわけ、学会に育てられた大恩に応えるのは今と、後輩を励まし、青年拡大に尽くしてくれているのだ。うれしい限りである。
21世紀の広布の山の登攀も、「直面する日々の現実の山」を登り切ることだ。
ゆえに、今日も、地涌誓願の張りのある勤行・唱題を忘れまい。御書を常に拝し、最高の善知識である同志と、学会活動という究極の仏道修行に挑みゆくのだ。
共に険難の峰を勝ち越えて、新たな世界広布の希望峰が眼前に開かれている。今再び、学会歌を声高らかに響かせ、前へ前へと共進を開始しようではないか!
2016年11月28日 池田先生と共に 新時代を創る ㉚ 青年拡大の希望峰へ共進を
2015年2月16日
仏法には犠牲がない
<福運積みゆく感謝の信心>
戸田先生はよく、「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやっていかねばならない」と語っておられた。私もその通りであると思う。
仏道修行は本来、厳粛なものであり、苦しみが伴うことも多い。しかし、折伏行に、会員の指導・激励にと、自ら率先して仏道修行に励んでいる人は、いのちも輝いている。またそれ自体が最高に楽しいものとなる。
また折伏については、たとえ相手が御本尊をお受けしなかったとしても、御本尊の偉大さを賛嘆し、法を説き聞かせること自体が、聞法下種で立派な折伏になっていることを、重ねて申し上げておきたい。
戸田先生はまた、「仏法には犠牲がない。信心し、勤行し、広宣流布のために戦って、犠牲になるものはない」と指導してくださった。
私も長年、多くの人々の姿を見てきた。そこでつくづくと、強盛な信心に励んでいけば、たとえ障魔による苦難があったとしても、それらはすべて変毒為薬され、ゆるぎない幸福へと転じていけることを実感している。
また「持っている福運は感謝していきなさい。そうでなければ、その福運は、消えてしまう」と語っておられる。
すなわち、御本尊への感謝の心がある人は、福運がますます増していく。そして、その福運は、自分自身のみならず、家族にも、また子々孫々まで輝かせていけるのである。
反対に、自身の慢心から退転したり、感謝するどころか仏法を誹謗(ひぼう)し、学会を利用し、侮辱していくような人は、当然のことながら完全に福運を消していってしまう。これが仏法の厳しき因果の理法なのである。
1986.11.23婦人部合同研修会
2014年12月17日
″感謝″ある人には″歓喜″がある
いよいよ栄える。福運がいよいよまさる
「第二代会長の戸田先生は、よく、こう言われていました。
『御本尊に常に感謝の念をもっている人は、いよいよ栄える。福運がいよいよまさる』『感謝を忘れた人は、福運が消えていく』
″自分は信心で守られてきた。御本尊あればこそだ!″との感謝の心から、喜びも、希望も、勇気も生まれます。また、感謝は、心を豊かにします。
反対に不平や不満をいだいていれば、心を自ら貧しくしていきます。御本尊への感謝をもって、日々の学会活動に取り組んでいくなかに、自身の境涯革命があるんです。
御本尊、仏への、報恩感謝の行動として供養があります。供養には、飲食や衣服などの財物を供養する『財供養』と、仏を恭敬、讃歎し、礼拝する『法供養』があります。弘教や同志の激励に歩くことは、『法供養』にあたります。
学会活動に励み、喜々として『法供養』を実践していくなかで、目には見えないが次第に福運が積まれ、やがて大利益を顕現していきます。これが冥益です。それによって、揺るぎない人生の土台が確立され、絶対的幸福境涯が築かれていくんです」
広宣流布の伸展は、全同志が、会長の伸一と呼吸をあわせて、欣喜雀躍して活動できるかどうかにかかっている。もし、歓喜がなくなり、単に義務感で動いているようになれば、人びとを啓発していくことはできないし、功徳、福運もなかなか積むことはできない。
大事なことは、御本尊への、その御本尊を教えてくれた創価学会への感謝の念をもって、喜び勇んで広宣流布の″戦い″を起こしていこうという″心″である。
″感謝″ある人には″歓喜″がある。そして、燃え立つ歓喜の生命こそ、挑戦、前進、勝利、幸福の活力源となるのだ。
小説 新・人間革命 26巻 奮迅 367頁
6月17日
2013年4月25日~29日
師恩に報いる
2012年7月5日