2022年3月27日
第1947回
喜びの春風を届けよう
春が来た!
寒風を乗り越えて、
春が来た!
春は喜びだ!
正しき信仰に生き抜く
私たちの生命は、
三世の諸仏の
護りと笑顔に、
春のごとく包まれている。
勇気を出して、
一人の友に会う。
相手の幸福を祈り、
誠実に、
情熱込めて語っていく。
その一人立つ挑戦が、
己心の壁を破り、
友の心を動かす。
自分から周囲へ、
わが家から近隣へ、
春風のごとく、
自然のうちに、
温かい声、明るい声、
力強い声を
広げゆくところに、
民衆の幸福と
平和の地盤が
出来上がっていくのだ。
何歳になっても、
新しい出会いを求め、
友人を
つくっていくことだ。
友が増えれば、
世界が広がる。
未来が広がる。
声は、人の心を動かし、
社会、世界を変えていく。
声をあげることから、
新しい一歩が始まる。
楽しくやろう。
肩肘張る必要はない。
心軽やかに、
どんどん人と会い、
信心の喜びと
確信を語ることだ。
そこに
自身の人間革命の修行も、
広宣流布の拡大も、
全部、含まれている。
私たちが
仏縁を結んだ分だけ、
人々の生命に具わる
仏の生命が呼び起こされ、
地域も輝きを増していく。
さあ、
勇んで打って出よう!
あの友、この友の心に、
希望と励ましの
春風を届けよう!
2022年3月27日池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」
2020年9月22日
第1695回
高齢者にとって、
孤独ほど生命力を
弱らせるものはない。
<今こそ恩返しをする時だ>
高齢者の知恵と経験は、
現在と未来を豊かにする、
かけがえのない宝である。
高齢者を真に尊ぶ気風を
確立することは、
社会の持続的な
繁栄の基礎となる。
高齢の方々には、
「尊敬」をもって
接することが大事だ。
長年、
家族と社会のために働いて
年をとったのだから、
周囲が「今こそ
恩返しをする時だ」と
思ってあげてほしい。
高齢者にとって、
孤独ほど生命力を
弱らせるものはない。
温かい愛情と心の絆、
そして楽しい会話が、
何よりの元気の素である。
守り合い、励まし合う
友がいる幸福――
それは、
年配になればなるほど、
ありがたさを
増していくにちがいない。
その「宝の友情」の
スクラムを、
学会は、地域に、社会に
広げているのである。
人のため、社会のため、
自分のために、
何かを為す。何かを創る。
何か貢献する。
そのために、生ある限り、
一生涯、
挑戦し抜いていく。
それでこそ
「充実の人生」である。
大切なのは
“自他共の満足”だ。
その追求のなかにこそ、
人生の輝きがあり、
だれもが真に安心して
幸福に暮らせる社会、
そして長命であることを
心の底から
寿ぐことができる
長寿社会を築く道がある。
共に広布に戦った同志は、
永遠に
私の胸から離れない。
君も私も、
人生の
ゴールデン・ステージを、
常楽我浄の妙法と共に、
朗らかに
勝ち進んでゆこう!
2020年9月20日〈池田大作先生 四季の励まし〉
2020年3月1日
第1645回
どうすれば、
皆が元気に喜んで進んでいけるか
<大切なのは、心を「軽く」してあげること>
どうすれば、
皆が元気に喜んで
進んでいけるか。
具体的に手を打つことだ。
何があろうと、
妙法の力で
変毒為薬していく。
共に祈り、
苦難を乗り越える。
これが、
我ら創価家族だ。
分け隔てなく、
励まし合い、支え合う。
心と心の絆が
安心社会をつくるのだ。
「大丈夫?」「元気?」
「頑張ってね」と、
常に励ましの言葉を
かけ合っていきたい。
「心」が通えば、
「力」に変わる。
「力」を出せば、
必ず「道」は開けてくる。
また人を励ますことは、
自分自身をも勇気づける。
「励まし」は人を変え、
自分を変えるのである。
大切なのは、
心を「軽く」して
あげることだ。
「強く」「明るく」して
あげることだ。
たとえ会えなくても、
電話の一言で、
目の前の壁が
破れることもある。
一通の置き手紙が、
その人の人生を
変える場合だってある。
相手の言うことに、
じっと耳を傾ける。
じっくりと
話を聞いてあげる。
それだけで、
スッキリする。
心が軽くなる場合が多い。
聞いてあげること自体が、
仏法で説く慈悲の実践、
「抜苦与楽(苦を抜き、
楽を与える)」の
「抜苦」となるのだ。
励ましとは、
安心と希望と勇気を
与えることである。
相手の生命を
燃え上がらせ、
何ものにも
負けない力を引き出す、
精神の触発作業である。
励ましの本義は、
相手の
幸福を願う心にある。
2020.3.1 聖教新聞〈池田大作先生 四季の励まし〉
2020年1月18日
第1637回
励ましの金言
<大きな心の人は小さい心の人よりも多くの悩みを持つ>
御聖訓には、「法華経の功徳はほむれば弥いよいよ功徳まさる」と仰せである。
妙法のすばらしさを讃えれば、いよいよ、功徳は大きくなる。
リーダーは、妙法を弘める同志の活躍を、真心から讃え、ねぎらい、そして、励ましていくことだ。その分だけ、妙法の功徳はいちだんと輝き、いちだんと広がっていく。
大聖人の御書も「励ましの金言」である。
人間の世界は励まし続ける以外にない。家庭でも、学校でも、団体でも、社会でも、励ましがなくなれば発展はない。
励ましから、前進への勢いが生まれる。人間としての生きがいが広がる。
励まさない幹部は、もはや幹部とはいえない。それでは、自分自身も成長しない。
「善をなす力を持ちながら、善をなさぎる者は、一層の罪人である」(Heineich Pestalozzi, ''THE EDUCATION OF MAN,'' translated from German to English by Heinz and Ruth Norden, Philosophical Libary, Inc., New York,
1951)とは、スイスの大教育者ペスタロッチの戒めであった。
「声仏事を為す」である。声の力で、仏の仕事ができるのである。
ゆえに、リーダーは、一人一人と会い、声を惜しまず、同志を、後輩を、青年を徹底して激励しぬいていくことだ。
そして邪悪に対しては厳しく破折していくことだ。
経済苦や病苦と格闘している友もいる。また人生は、だれしも悩みとの戦いだ。
フランスの作家シャトーブリアンがつづったように、「大きな心の人は小さい心の人よりも多くの悩みを持つ」(『アタラ ルネ』畠中敏郎訳、岩波文庫)ものであろう。
なかんずく、広宣流布の使命に生きゆく人生は「煩悩即菩提」であり、大きく悩んだ分だけ、大きく境涯が広がり、大きく福運が積まれる。
仏法は「変毒為薬」の大法である。何があろうとも、必ず乗り越えていくことができる。また一つずつ絶対に打開できるように試練が現れてくるのが、「転重軽受」の甚深の法門である。
ゆえに、宿命転換の戦いに、断じて負けてはならない。
どんなに大変なことがあろうと、妙法を唱え、仏意仏勅の学会とともに生きぬく人は、厳として守護され、必ずや良い方向へ向かっていく。所願満足の幸福の軌道を歩んでいけることは、御聖訓に照らして、間違いない。
2002.12.25全国最高協議会
2017年1月29日
人にはいつも励ましが必要です!
<師弟の勝利の物語に光あれ!>
これまでも私は、さまざまな報告に対して、即座に応え、一人一人に細かく激励の手を差し伸べてきた。
文豪ゲーテは、「ひとにはいつもはげましが必要なのです」と述べている。ゲーテ自身も、小さなことでもほめ讃え、元気づけ、励ます名人だったといわれる。
あまりに健気な、尊き同志の奮闘を、広布のリーダーであるならば、ゆめゆめ忘れてはならない。
「大変な環境のなかで、これまでに!」と皆が感嘆せずにはいられない。偉大な歴史を開いている友が、たくさんおられる。
日本と世界の、そうした友の勇姿を、私は、これまで以上に宣揚し、大きく光を当てて差し上げたい。いまだ知られていない、師弟の勝利の物語が、無数にある。
2009年4月14日 全国代表協議会
2015年12月12日
励まし(完)
斉藤 よくわかりました。この「勧発」について、天台は「恋法(法を恋う)」のことであると言っています。これは、妙法の素晴らしさを恋慕し、渇仰しているゆえに、人にも勧めないでいられない心を指していると思います。
遠藤 仏法の偉大さを知った学会員が、語らずにいられなくなる姿も、これですね。
池田 「御本尊が大好きだ」
「勤行が大好きだ」
「学会活動が大好きだ」という信心です。
そうなれば、
「生きていることが楽しい。
人生が大好きだ」という生活になるのです。
遠藤 御書にも仰せです。「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」(上野殿御返事、1558頁)
(飢えた時に食べものを願い、のどが渇いて水を欲しがるように、恋しい人に会いたいように、病気になれば薬を頼るように、きれいな人が紅や白粉をつけるように、御本尊には信心をしていきなさい。そうでなければ後悔しますよ)
池田 信心は「心」です。
形式ではない。
時間の長さでもない。
法を求める「心」に「功徳」はある。
たとえば、忙しくて、なかなか活動できない。
しかし、三十分でも会合に出よう。
週に半日でも活動しよう──その「心」に大いなる功徳がある。
また周囲も、そういう人を理解し、
励ましてあげることだ。
いつも出てきていないと相手にしないというのでは無慈悲です。
むしろ、いつも会合に来ている人は安心だ。
来られない人を
どう励ましていくかを考えなければならない。
これができれば、
広宣流布は今の何倍も広がっていくに違いない。
法華経の智慧 普賢菩薩勘発品(第二十八章)
2024.12.17整理
2015年12月11日
「むだな会合や報告」はないか
池田 そして、会合で人を集める時は、
覚悟して集めなければならない。
それぞれ予定をもっている人、
忙しい人を集めるのだから、
皆が「来てよかった!」
「行かなければ損だ!」
という会合にしなければならない。
幹部が話す内容や順番も、
よく検討して、
たとえ一人でも「つまらなかった」
と言わせない決心で臨むべきです。
何も、長くやらなければいけないというわけでもない。
短時間で終われたら、
そのほうがいいのだし、
一番価値的にやるべきです。
「価値創造の団体」なのだから。
それが「一人の人を大切に」ということに通じる。
会合ひとつでも「勝負」なのです。
また、皆を消耗させるだけの、
不必要な報告も、
「実質本位」とは言えない。
数字をいじくっても、
何にも出てこない。
少ないお金を何回、計算しなおしても、
それでお金が増えるわけではない(笑い)。
そんなひまがあるなら、
稼いだほうがいい(笑い)。
報告や集計や書類づくりのために、
大切な皆が疲れては本末転倒です。
座談会に行った後、
「あまり盛り上がっていませんでした」などと報告したって、
何にもならない(笑い)。
報告するために行ったわけではない。
集まった人を満足させるために行ったのです。
しかも、いやいやながら報告させても、
うそが多くなる(笑い)。
それでは組織が、よどんでしまう。
もちろん、機構上、
必要な報告をとるのがいけないというのではない。
皆が喜んで行動し、
喜んで報告してくるような雰囲気をつくることです。
そのためには、
入魂の「励まし」であり、
「勧発」です。
弘教ができたら、
皆、喜んで「できました!」と報告したくなるでしよう。
(つづく)
2024.12.17整理
2015年12月10日
励まし(4)
<悩める人を救うための学会>
会合は手段です。
会合をこなすだけの組織になっては本末転倒
池田 会合にしても、むだな会合は悪です。
昭和三十一年(一九五六年)の参院選で、大阪は勝ったが、東京は敗れた。その時、戸田先生は「形式主義を排して、実質主義でいけ!」と、厳しく指導された。(当時、会合の数が、あまりにも多く、実質的な個人指導などが十分にできていなかった。そこで少人数の「組座談会」一本の方針が打ち出され、皆が第一線に飛び出した)
悩める人を救うための学会です。
会合は手段です。
それが会合をこなすだけの組織になっては
本末転倒です。
苦しんでいる人がいないか、
行き詰まっているところはないか、
サーチライトを当てて、
探し出すのです。
問題は必ずある。
そこへ直ちに飛んでいって指導し、
「励まし」を贈ることです。
私は、一度会った人は、
最後まで励まします。
その人が、千里の果てに行こうとも、
信心を少々休んでいようと、
どんなことがあっても守ってあげたい。
退転しそうな人は、
背負ってでも、
抱いてでも、
引っ張ってでも、
一緒にすばらしい妙法の功徳に浴させてあげたい。
「戦った功徳は、こんなにすごいのか!」
ということを実感させてあげたい。
相手を幸福にしたいという真心が通じれば、
「はっぱ」などかけなくとも、
皆、立ち上がるのです。
また「真心が通じますように」と祈っていくことです。
(つづく)
2024.12.17整理
2015年12月9日
励まし(3)
<一人の人を大切に>
私が願うのは、
私に代わって、
幹部の皆が、
会員の面倒を優しく見てもらいたい
ということです。
創価学会が、ここまで広宣流布できたのも、
「励まし」に徹してきたからです。
人間は、ロボットではない。
どんなに決意していたって、
くじけそうになることもある。
だから、ありとあらゆる方法を使って、
「元気づける」ことに、
私は徹してきた。
如来の滅後──それは悪世です。
悪世とは
「正しい者が少なく、悪人が多い世」です。
悪人が多いのだから、
当然、少ない善人が迫害されてしまう。
だから「団結」が大事です。
だから互いの「応援」が大事なのです。
遠藤 池田先生が、会員の一人一人に贈られた「メッセージ」「和歌」「俳句」「贈言」「揮毫」をはじめ、形に残っているものだけでも何十万あることか、わかりません。
目に見えない励ましも含めて、本当に無量の「勧発」をしてくださっていると思います。「負けるな! 頑張れ」と行動を勧め、皆を発奮させてこられました。
誠心誠意で、人の心を満たす
斉藤 世間の人は、創価学会を「強固な組織」のように見がちですが、じつは「組織が強固」なのではなく、池田先生と会員一人一人の「心の絆」が強靭なんですね。その一点を見ないと、学会はわからないと思います。
また、悪人のほうが、そのことをわかっていて(笑い)、この絆を断ち切ろうと、そこに焦点を定めてくることも事実です。
池田 私のことはともかく、
現代において、組織の命令だけで、
人がついてくるなんて考えるほうが、おかしい。
何の強制力があるわけではなし、
いやいややっていて、
力が出るわけもない。
「一人の人を大切に」。
これしかない。
これに徹したところが勝つ。
このことは、何度でも言っておきます。
たとえば、幹部がだれかを指導してきたとする。
「次、いつ会うことにしたのか」と聞くと、
約束をしていない場合がある。
それでは、相手は目標をもてない。
「二ヵ月後に会いましょう」とか、
「三カ月後に会うまでに、こう頑張ろう」とか、
目標を一緒に決めることによって、
一念が定まっていく。
これが「勧発」です。
そして、約束したら、
こちらも、どんなことがあっても実行しなければならない。
そのために、どんなに苦労しようとも。
この「誠心誠意」の積み重ねによって、
広宣流布は進んできたのです。
須田 だいぶ前ですが、先生が、ある人材グループの会合一人の青年をずっと激励しておられたのを覚えています。
「○○君、頑張れ!」と、何度も何度も、名前を呼んで。
じつは、彼は信心から遠ざかっていました。先生の励ましで、がぜん元気になったのですが、驚いたのは懇談会の最後に、先生が言われたことです。「彼がきよう参加した裏には、必ず、だれかが激励に行ったはずです。だれですか?」と。
さっと何人かが手を挙げました。じつは、彼らは忙しい合間をぬって、交代で激励に通っていたのです。だれも知らないところで頑張っている人のことが、どうして、先生には、ぱっとわかるのか──と自分を反省したものです。
斉藤 先生ご自身が「陰で」苦労してこられたからなんでしようね。
(=会長時代、名誉会長は語った。「久しぶりに自宅に帰り、床についても、電車の音を聞いては登山列車の安否を思い、車の音を聞いては、バス登山者の無事を祈らずにはおれなかった。さらに、幹部の健康、きのう指導を受けにきた人の無事安穏を祈っての唱題──かたときも心の休まることはなかった」と)
池田 私が願うのは、
私に代わって、幹部の皆が、
会員の面倒を優しく見てもらいたいということです。
″気がきかない″幹部ではいけない。
昔の日本ではおうように、
大ざっぱなのが大物のような風潮があったが、
とんでもない時代錆誤です。
仏法は、徹頭徹尾、「人間の世界」だ。
だから、
「人間が人間を満足させる」ことが、
仏法の修行なのです。
皆が何を今、求めているのか。
疲れていないか。
おなかはすいていないか。
何か言いたいこと、
聞いてもらいたいことがあるのではないか
──敏感すぎるくらい敏感でなければならない。
(つづく)
2024.12.17整理
2015年12月8日
励まし(2)
<私が守るから、頑張れ!負けるな!>
池田 広宣流布の苦労に、むだはない。
全部、大福徳に変わります。
全部、生かされていく。
御本尊中心の活動であれば、
矛盾や行き詰まりがあるわけがない。
御本尊は「事の一念三千」の御当体です。
十界の衆生が、
すべて妙法に照らされて、
仏の働きをするのが、
御本尊中心の世界です。
私は、ある時は
「地獄界の衆生も、餓鬼界の衆生も、畜生界の衆生も、全部、広布の法戦に参加させたまえ!
全部、味方とさせたまえ!」と祈って、戦った。
十界の衆生が「普く(すべて)」、
「賢き」価値創造者となるのが「普賢」です。
また、いつだって、
魔軍を叱りとばしながらの闘争だった。
「大切な、清浄な学会に、
指一本、触れさせてたまるか」という決心できた。
皆も、そうあってもらいたい。
これが普賢菩薩の精神のはずです。
斉藤 はい。「四つの条件」を聞いた普賢菩産は、
「悪世で法華経の行者を死守します!」と誓いを立てます。
「その人が苦しんでいたら、必ず苦しみを取り除きます!」
「魔や悪鬼がつけ入らないように、この人を守ります!」
「その人を守護し、心を慰め、もしその人が法華経の一句一偈でも忘れたら、教えてあげて一緒に読誦します!」
「その人が命を終えた時は、千仏の手を授けて(千仏授手)、恐れさせず、悪道に堕ちないように、いたします!」
「世尊よ、こうして世尊の滅後に、
私は法華経を守護し、
全世界に広宣流布させて、
断絶がないようにいたします!」
池田 そうだ。この誓いを聞いた人は、
どれほどの「勇気と希望」を得たことか。
「励まし」を与えたのです。
普賢菩薩は、遠くから駆けつけて、
「私が守るから、
頑張れ! 負けるな!」とエールを贈ったのです。
それが(普賢菩薩勃発品の)「勧発」です。
須田 人に仏法を「勧めて」、信心を「発させる」ことですね。
池田 激励です。鼓舞です。
「励まし」という字は、
「万の力」です。
これほど偉大な力はない。
法華経の最終章は、
「普賢菩薩の励まし」の章なのです。
ここに意味がある。
(つづく)
2024.12.17整理
2015年12月7日
励まし(1)
<全員に会って励ましたい!>
本来ならば、
まじめな学会員さん全員に、
一人一人お会いして、
御礼も言い、
“励まし”も贈りたい。
それが私の本当の気持ちです。
生身の体だし、
それは不可能だが、
全部、
その思いを御本尊に祈りきって、
生きています。
だから幹部の皆さんは、
私の代わりに、
大切な会員の面倒を
優しく見てあげていただきたい。
皆、仏様の子どもです。
法華経の智慧 妙荘厳王本事品(第二十七章)
2024.12.17整理
2015年12月4日
“一個の生命”が宇宙生命の全体
<だからこそ、一人の人を大切に>
陰の人を徹して“励まし”、
“幸福”になってこそ、
それが広宣流布の全体!
十法界──三種の読み方
池田 不思議だね。
大聖人は「法界とは広きに非ず狭きに非ず」と仰せですが、
天台は「十法界」を三種に読んでいるでしょう(法華玄義)。
斉藤 はい。三種類というのは、「十の法界」「十法の界」「十即ち法界」と読む読み方です。それぞれ、空諦・仮帝・中諦に対応しています。
第一に、「十の法界」と読みます。
これは十界の違いはあっても、
どれも「法界」である。
仏が悟った実相の世界、
つまり全宇宙であるということです。
地獄界なら地獄界、
人界なら人界のそれぞれが、
すべて「法界」として平等である。
宇宙生命、妙法の当体として平等であるということです。
遠藤 それが空諦の見方ですね。
斉藤 地獄界とか人界とかの「違い」はあっても、それらの違いは「実体ではない」と見るから「空諦」です。
池田 つまり、個々の界が、
そのまま大宇宙の全体と見る。
いわば「諸法即実相」であり、
「個即全体」です。
一粒の砂に全世界を見る見方だ。
その反対に、
「実相は必ず諸法」だから、
「全体即個」の側面がある。
宇宙生命は、
無限の違いをもつ
森羅万象となって顕れるという側面です。
須田 それが「仮諦」の見方です。平等に法界であるといっても、現実には十界の違いがあります。そこで「十法の界」と読みます。この「界」は「違い」という意味です。
池田 それでは、どうして、そういう「違い」が出てくるのだろうか。
遠藤 それは、平等の「法界」をどうとらえるのか、衆生によって、とらえ方が違うし、感じ方が違います。その違いに十種類あるということではないでしょうか。
池田 そうでしょう。
その意味で、十法界(十界)というのは、
宇宙の客観的な姿というよりも、
主体的なとらえ方──境涯の世界を表している。
同じ大海に浸っていても、
海水をくむ人の器の大小によって、
くみとられた水の多い少ないは違ってくる。
智慧の海も同じです。
本来、十界のどの衆生も、
宇宙生命の全体そのものである。
それが仏の悟った宇宙の実相です。
しかし、衆生の側では、
そうとらえられずに、
地獄界に苦しみ、
餓鬼界に苦しみ、
あるいは修羅界に争い、
二乗界に満足している。
しかし、そのように地獄界にいたとしても、
それでもなおかつ、
その地獄界に全法界が具している。
そう見るのが「中諦」です。
これが天台の第三の読み方だ。
斉藤 はい。「十即ち法界」と読みます。つまり、地獄界は地獄界のままで法界です。地獄界から他の界に移るのではなく、そのままで一切法を具している。一切法(諸法)とは「十界の依正」のことですから、地獄界に十界を具しているということになります。他の九界も同様です。
遠藤 それが十界互具ということですね。だんだんわかってきた気がしますが、やはりむずかしいですね(笑い)。
須田 むずかしいのは、通常のわれわれの考え方を超えているからではないでしょうか。ふつうは「部分が集まって全体になる」ととらえるわけですが、仏法が説く生命の世界には、これは通用しない。「部分(個)がそのまま全体である」というのですから。
「一人」の幸福に、広布の「全体」が
池田 だからこそ
「一人の人を大切に」と何度も言うのです。
「一人の人」が全宇宙と同じ大きさであり、
最高に尊貴なのです。
これが皆、なかなかわからない。
なかんずく、
いわゆる陽の当たるところにいる人だけでなく、
「陰の人」に徹底して励ましを送ることだ。
表の人を激励するだけでは官僚主義です。
陰の人に、また陰の人にと、
徹底的に光を当てるのが仏法者です。
一人の人を励まし、
一人の人が幸福になっていく。
その中に「広宣流布」の全体が含まれている。
この一点を離れて、
上から″組織を動かそう″というのは転倒なのです。
ともあれ、
「個」即「全体」という実相は、
たしかに通常の思考(思議)を超えている。
「不可思議」すなわち「妙」と言われるゆえんです。
遠藤 天台も、十界互具によって、自分が悟った「不可思議境」(『摩訶止観』)を表そうとしたわけですから、わかろうとするのが無理なのかもしれません。
池田 しかし、その「不可思議境」というのは、
われわれ凡夫の現実を
離れたところにあるのではない。
いな、凡夫の現実こそが「妙」なのだ、
人間はすばらしいのだと
宣言したのだということを忘れてはならない。
この現実を離れて、
どこかに″妙なる所″があったり、
すばらしい″妙なる存在″がいるのではない。
これを信心に約して言えば、
「信心以外にない」と決めることです。
「信心で勝とう」
「信心で道を開こう」と決心することです。
「不可思議境」と言っても、
究極は「御本尊」のことであるし、
「信心」の二字に納まる。
「心こそ大切」です。
格好だけ御本尊を拝んでいても、
惰性であったり、疑ったり、
文句の心や逃避の心があれば、
本当の功徳は出ない。
大聖人は『叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず』(御書1262頁)と仰せです。
(〈祈りの〉叶う叶わないは、あなたの御信心によって決まります。まったく日蓮のせいではありません)
信心以上のすばらしい世界はないのだ。
御本尊以上の宝聚はないのだ。
これこそ「不可思議境」であり、
「妙」であり、
最高にすばらしい宝をもっているのだ──
こう歓喜に燃えていけば、
功徳はどんどん出てくる。
どこか他の世界に、
もっとすばらしいところがあるのではないか。
信心以上の何かいい方法があるのではないか。
そういう一念は、
仏界の涌現の力を弱めてしまうのです。
そして、仏界が涌現してこそ、
事実の上で仏界即九界、
九界即仏界になり、
十界互具になるのです。
斉藤 「信心」がなければ、十界互具といっても言葉だけのことですね。
遠藤 さきほど『観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり』(御書240頁)の御文を拝しましたが、日寛上人の仰せによれば、この「我が己心を観じて」とは、文底の仏法でいえば「御本尊を信ずる」ことです。「観心の本尊」といわれるゆえんです。また「十法界を見る」とは「妙法を唱える」ことです。(文段集471頁)
池田 そう。妙法を唱える──
唱える私どもは九界。
唱え奉る妙法は仏界。
妙法を唱えることで、
九界と仏界が一体となり、
十界互具になっていく。
大いなる「境涯革命」が、
そこに起こる。
仏界が涌現しなければ、
十界互具といっても、
理論的な可能性(理具)に終わってしまう。
信行があって初めて
事実の上(事行)で十界互具になるのです。
その意味で、
十界互具の「理論」は、
きわめてむずかしいが、
その「現証」は創価学会の世界には無数にある。
いな、学会の世界にしかないと断言できる。
法華経の智慧 如来寿量品(第十六章)十界互具(下)
2024.12.17整理