2014年8月28日
優・し・さ(後半)
・牧口先生は、勇気のない傍観者には厳しかった。「弱い善人」は、結局、悪に負けてしまう。先生は、いつも口癖のように語られていた。
「『善いことをしない』のは『悪いことをする』のと、その結果において同じである。道路の中央に、大きな石を置くのは悪であり、後からくる人が迷惑をする。それを承知しながら、『私が置いたのではないから』と取り除かないで通り過ぎれば、『善いことをしない』だけであるが、後の人が迷惑をする結果は同じである」
・釈尊はいつも「自分から声をかける人」だったという。相手が声をかけてくるのを傲慢に待っているのではない。「声をかけて、冷ややかな反応だったらどうしよう」などども思わない。軽やかに、温かく「声をかける」人だった。
・「臆病は残酷の母」であり、「勇気は優しさの母」です。
・また、日本人は「あの人が悪い」という話があると、確かめもしないで、うわさをする。悪宣伝をする。優しさの反対です。優しさには公平さがある。本当かどうかを、自分で確かめ、納得していく誠実さがある。
・牧口先生は「小善」「中善」「大善」ということを言われた。優しさにも「小さな優しさ」「中くらいの優しさ」「大きな優しさ」があると言えるかもしれない。広宣流布というのは、最高に「優しい」行動なのです。最高のヒューマニズムです。
仏法以外でも、「大きな優しさ」の場合は、かえって相手に誤解されることもある。親が子どものために、あえて厳しく「しつけ」をする心なども、そうかもしれない。
・諸君も大善――「大きな優しさ」の場合には、優しくした相手から、反対に憎まれたりするかもしれない。しかし、それでも相手の幸福を祈って、尽くしていくのが本当の優しさではないだろうか。そして、その時はわからなくても、大誠実を尽くしておけば、きちんと信用が残るものです。いつか、「あの人は、自分のことをこんなにも思ってくれたのか」とわかるものです。
・優しさには、人間の崇高さがある。仏法の慈悲に通じる。また西洋での「人格」の根底である「愛」にも通じる。
また、先ほど「だれもが多くの人の優しさに支えられて生きてきた」と言ったが、じつは、もっと大きく見れば、だれもが、地球と宇宙の無数の命に支えられて、ここに存在しているのです。花たちも鳥たちも、ありとあらゆる生きものも、太陽も大地も、“一切が、たがいに支えあって”生命のシンフォニーを奏でています。
地球では、生きものの誕生は四十億年前という。それ以来、連綿と、命が命を育み、命が命を支えて、私たちを生んだのです。この“生命の輪”が、一つでも欠けていたら、あなたは今、ここにいない。
生命が次の生命を育んだのも、根本的な意味で「優しさ」とは言えないだろうか。もっと根本的には、その生命を生んだ地球全体が、一つの大きな生命体であり、大きな優しさの固まりなのではないだろうか。
・戸田先生は「全宇宙が本来、慈悲の活動をしている」と言われていた。
・自分の背後に、四十億年の、いな全宇宙の「優しさの歴史」が支えてくれているのです。だから、絶対に自分を粗末にしてはいけない。
生命以上の宝はありません。諸君は皆、その生命をもっている。皆、かけがえのない宝の存在です。生命を生んだ宇宙は、地球は、そして母は、わが子を「かけがえのない存在」として大切にします。そういう絶対的な優しさ――「生命への慈愛」を、社会に広げていくことが、二十一世紀にとって、いちばん大切なのではないだろうか。
・そのためには、まず自分が成長することです。
「自分が人間として向上していこう」という姿勢の心は、優秀な心であり、それ自体、優しさに通じる。人を押しのけて、自分だけは、という姿勢の心は、傲慢の心であり、怒りを含んだ醜い心です。
青春対話(1) 161頁~180頁(抜粋)
2014年8月27日
優・し・さ(前半)
・優しさとは「心」の問題です。「心」は見えない。また「心」はじつに微妙で、デリケートなものです。
だから「優しさとは何か」と言われて、一口で答えられる人はいないのではないだろうか。それくらい大きな問題です。それは「人間とは何か」という問題と一体なんです。
・「優しさ」というのは、「人間を人間として見る」「人間を人間として大切にする」ということではないだろうか。
・優しい牧口先生は、「子どもたちの幸福のためなら、何でもしよう」という心だった。
・そして牧口先生は、最後は軍国主義に抵抗して獄死です。先生は、わが身はどうなろうとも、民衆を不幸にする軍国主義は許せなかった。間違った思想は許せなかった。
優しさは、悪に対しても強い。仏法では、「怒り」は善にも悪にも通ずると説いている。善のための怒りは必要なことです。
自分の感情だけで怒るのは畜生の心です。人間は偉大であるほど、その愛も大きい。愛が大きいから強いのです。優しいのです。
・「性格が優しい」イコール「優しい」ではない。不正に対して戦わない、いざという時に力がないのは、「弱い」ことにすぎない。
・今まで自分自身が多くの人たちの「優しさ」に支えられて生きてきたという事実を忘れているということです。お母さんの優しさがなかったら、この世に生まれ、大きくなることはできなかった。
また、お父さんや、他の家族、親戚。友人。保育園・幼稚園以来の先生方。創価学会の先輩。思い出せば、無数の優しさに包まれて生きてきたのではないだろうか。
・優しさとは、損・得を度外視した友情です。人が苦しんでいれば、苦しんでいるほど、その人に愛情を持つ。「立ち上がらせてあげよう」という勇気の心を与える。
・人の不幸を、不幸として見つめつつ、苦しみをわかろうとする。分かちあおうとする。そのなかで、自分も成長していく。相手も強くなっていく。優しさとは、よい意味での“励ましの道場”です。
・大切なことは、相手に同情する――あわれむ――ということではなくて、「わかってあげる」ということです。「理解」することです。人間は、自分のことを「わかってくれている人がいる」、それだけで生きる力がわいてくるものです。
(つづく)