2016年9月20日
信心利用/学会利用
の魔物と戦え!
<魔物に断じて勝て!>
■傲慢に命令しているだけでは、学会利用である。
「あれは、まだか」「これは、どうなっているのか」などと、いばる資格は絶対にない。
皆、幸せになるために学会に入ったのである。幸せになるための学会活動である。
同志から、心から尊敬され、信頼されてこそ幹部である。傲慢に命令しているだけでは、学会利用であり、信心利用である。
1998年7月20日ブラジリア 名誉市民証 等授与式,第24回本部幹部会
■「祈り」こそ「魔との戦い」の要諦
戸田先生は、「学会利用の悪人、同志を裏切った卑劣な輩は絶対に許してはならない」と厳命された。とくに男性幹部には、「悪に対しては、仇を討たずにはおかないというくらいの根性と忍耐と意地を持て!
」と厳しかった。これが学会の伝統である。
悪鬼入其身の「魔物」から、同志を守り、広布の組織を守っていくのが幹部の責務である。
根本は「祈りで勝つ」ことだ。諸天を揺るがす「強盛な祈り」は、全宇宙を動かしていく。いかなる敵にも断じて勝つことができるのだ。「祈り」こそ「魔との戦い」の要諦である。
2005年2月3日第二総東京最高協議会
■悪に対しては、勇敢に声をあげることだ。
建設は死闘。破壊は一瞬である。悪が盛んになれば、善が滅びる。
不惜身命で悪と戦う勇者がいる限り、善は守られる。しかし、もしその精神が失われれば、崩壊はすぐに始まってしまう。このことを、よくよく心に留めていただきたい。
学会利用、信心利用の、醜い利己心の輩を許してはならない。また、皆がおかしいと思っても、それを口に出せないような特別な存在を、つくってはならない。学会は、峻厳な師弟の精神に貫かれた、平等な同志の世界である。
悪に対しては、勇敢に声をあげることだ。徹して強く責めることだ。臆病ではいけない。臆病は、ずるい。ずるいのは「悪」である。悪を見ながら、放っておいて戦わないと、自分が悪と同じになってしまう。積んできた福徳も消してしまう。
2006年1月2日第二総東京最高協議
■戸田先生は、学会利用の人間を、断じて許さなかった。
「信心以外では、学会員は皆、対等である。学会をタテに人を利用するのも、されるのも、両方、信心ができとらん」と厳しかった。
インチキな人間。同志を苦しめる人問。広宣流布を妨げる人問。こうした人間を、先生は容赦なく糾弾された。
「学会がこんなに本気で広宣流布へ打ち込んでるのにこれを邪魔する奴がある。しかも内部から出るとは言語道断だ。学会青年部の怒りを知らぬか。怒りは善悪に通ずるものだぞ」
2006年3月19日最高協議会
2016年9月19日
仏子を見くだし、 圧迫を加えた人間の末路
仏子を見くだし、圧迫を加えた人間はどうか。
御書には『始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず』 (聖人御難事、1190頁)
――はじめは、何も起こらないようでいて、結局、滅亡していかないものはない――とある。
因果の法則は、厳しい。
やがて必ず、相応の果報となって現れていく。
1990年10月16日第二十四回本部幹部会
2016年9月14日
「学会に何かしてもらおう」
という根性は、信心利用である。
<「広宣流布のために」という心に、功徳がある>
私も戸田先生を、ただ一人、お守りした実践者である。戸田先生を一人で、すべて支えきった。学会の「伝統の二月」も、ただ「戸田先生にお応えしよう」という私の一念から始まったのである。
当時(昭和二十七年〈一九五二年〉)は、戸田先生が会長になったものの、弘教がなかなか進まなかった。先輩たちは、いばっていたが、何もできない。そこで戸田先生が、「しかたがない。そろそろ大作を出すか」と決断された。
厳たる師匠の命令である。「やります」。私は師の心を抱きしめて走った。そして、いっぺんに、弘教の突破口を開き、「道」を開いた。そこから今日までの広宣流布の「大道」が開いていったのである。戸田先生は、いつも「大作にまかせておけば、おれは悠々と、ウイスキーを飲んでればいいんだから」と言っておられた。「大作がやれば必ず勝つ」。そう確信しておられた。この師弟不二こそ、学会の真髄である。
ともあれ、私には「日蓮大聖人」と「戸田先生」以外に何もない。「御本尊」と「戸田先生」と「誠実」が、私の「三つの宝」である。私は誠実で勝ったのである。
いちばん、正しく生きて、いちばん、悪口雑言されながら、信心で勝った。人間として勝った。仏法の目から見れば、三世という目から見れば、いちばんの勝利者であると自負している。
要するに、「自分中心」は仏法ではない。「法」によらなければ、仏法ではない。
ドイツの大詩人シラーいわく「けなげな人間は、自分のことならあとまわしにするよ」。(『ヴィルヘルム・テル』桜井政隆・桜井国隆訳、岩波文庫)
「不惜身命」の精神に通じる。「身は軽く、法は重し」である。「法」が中心であり、「広宣流布」が中心である。ゆえに「学会」が大切なのである。
「広宣流布のために何かしよう」という心に、功徳がある。「学会に何かしてもらおう」という根性は、信心利用である。それは地獄の心である。反逆者は皆、この心であった。
1998年1月25日婦人部代表協議会、「紅梅会」「常磐会」総会