2023年12月3日
第2277回
真心の供養に大福運が
弘安二年(一二七九年)の年の瀬。
正月を祝う真心の品々をお届けした
窪尼御前に対して、
日蓮大聖人は、こう仰せであられる。
「あなたが、これまで法華経に供養してこられた尊い御志は、さきざき御礼を書き尽くして、筆も尽き、指も動かないほどです。
三千大千世界に七日間降る雨の数は、数え尽くすことができるかもしれない。また、十方世界の大地の微塵の数を知る人もいるかもしれない。しかし、法華経の一字を供養した功徳を知ることはむずかしい、と仏は説かれています」(全1483・新1975、通解)
大聖人のお言葉には、絶対に噓がない。
この悪世末法にあって、
一閻浮提の広宣流布に尽くし、
仏意仏勅の創価学会を守っておられる
皆さま方は、わが永遠の生命に、
宇宙大の大福運を積まれているのだ。
『池田大作全集』第95巻、407頁
2015年9月17日
ブロック長・白ゆり長のために(8)
<財務>
大聖人の大願を
成就するための供養に
勝る大善はない
(前段追加)
山本伸一は、続いて「衆生身心御書」を拝した。
その後段で、彼の視線は止まった。
そして、何度もそこを読み返した。彼は、深い意味を感じた。
『……設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや』(御書1595頁)
<たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。たとえ、信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない>
一言に供養といっても、何に対して供養するかによって、善にもなれば、悪にもなってしまうとの御指南である。
山本伸一は、「衆生身心御書」のこの御文に基づいて、学会の供養、財務について考えていった。
学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。
ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。
そう思うと、伸一自身、一人の学会員として、その機会に巡り合えたことに、無量の福運と喜びを感じるのであった。
(後段追加)
この御書では、最後に、身延の山中に供養の品々を送った一人の門下の志を称えられて、次のように述べられている。
『福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず』(1596頁)
<福田に、すばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとまらない>
広宣流布に尽くすことは、福田に善根の種を蒔くことである──それは、伸一が青春時代から、強く確信してきたことでもあった。
彼は、戸田城聖の事業が窮地に追い込まれ、給料の遅配が続くなかで、懸命に広布の指揮を執る戸田を守り、仕えてきた日々を思い起こした。
伸一は、広宣流布に一人立った獅子を支えることは、学会を守り、広布を実現する道であると自覚していた。
彼は、自分の生活費は極限まで切り詰め、給料は、少しでも、広布のため、学会のために使うことを信条としてきた。それは伸一の喜びであり、密かな誇りでもあった。
そのために、オーバーのない冬を過ごしたこともあった。ようやく出た給料の一部を、戸田の広布の活動のために役立ててもらったこともあった。
そして、その功徳と福運によって、病苦も乗り越え、今、こうして、会長として悠々と指揮を執れる境涯になれたことを、伸一は強く実感していた。
彼は人に命じられて、そう行動してきたわけではない。それは、自らの意志によって、喜び勇んでなした行為であった。また、広宣流布のために生涯を捧げようと決めた伸一の、信心の至誠にほかならなかった。
小説『新・人間革命』第4巻 凱旋の章
2014年11月9日
供養(3)
<福田に善根の種を蒔くこと>
学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。
ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。そう思うと、伸一自身、一人の学会員として、その機会に巡り合えたことに、無量の福運と喜びを感じるのであった。
この御書では、最後に、身延の山中に供養の品々を送った一人の門下の志を称えられて、次のように述べられている。
「福田によきたねを下させ給うか、なみだ(涙)もとどまらず」(1596頁)―福田に、すばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとまらない―
広宣流布に尽くすことは、福田に善根の種を蒔くことである――それは、伸一が青春時代から、強く確信してきたことでもあった。
彼は、戸田城聖の事業が窮地に追い込まれ、給料の遅配が続くなかで、懸命に広布の指揮をとる戸田を守り、仕えてきた日々を思い起こした。
伸一は、広宣流布に一人立った獅子を支えることは、学会を守り、広布を実現する道であると自覚していた。
彼は、自分の生活費は極限まで切り詰め、給料は、少しでも、広布のため、学会のために使うことを信条としてきた。それは伸一の喜びであり、密かな誇りでもあった。そのために、オーバーのない冬を過ごしたこともあった。ようやく出た給料の一部を、戸田の広布の活動のために役立ててもらったこともあった。
そして、その功徳と福運によって、病苦も乗り越え、今、こうして、会長として悠々と指揮を執れる境涯になれたことを、伸一は強く実感していた。
彼は人に命じられて、そう行動してきたわけではない。それは、自らの意志によって、喜び勇んでなした行為であった。また、広宣流布のために生涯を捧げようと決めた伸一の、信心の至誠にほかならなかった。
新・人間革命 第4巻 凱旋134~137頁
2014年11月7日
供養(2)
<何に対して供養するかで善悪が分かれる>
「松野殿御消息」には、釈尊に土の餅を供養した徳勝童子が、その功徳によって阿育(アショーカ)大王として生まれ、やがて、成仏していったことも述べられている。(御書1380頁)
まだ小さな徳勝童子にとって、土の餅は、自分にできる、最高の供養であった。精いっぱいの真心を尽くしての供養であったがゆえに、たとえ、土の餅であっても、大王となって生まれたのである。
伸一は、続いて「衆生身心御書」を拝した。
その後段で、彼の視線は止まった。
そして、何度もそこを読み返した。彼は、深い意味を感じた。
「……設いこう(功)をいたせども・まこと(誠)ならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろか(愚)に・すこ(少)しきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう(功)大なり、何に況(いわん)や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや」(御書1595頁)
<たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。たとえ、信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば、功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない>
一言に供養といっても、何に対して供養するかによって、善にもなれば、悪にもなってしまうとの御指南である。伸一は、「衆生身心御書」のこの御文に基づいて、学会の供養、財務について考えていった。
(つづく)
2014年11月6日
供養(1)
<供養の根本は、信心の志にある>
山本伸一は、手元にあった御書を開いた。供養の本義を、御書に照らして、熟慮したかったからである。
彼は、まず「白米一俵御書」を拝した。身延にいらした日蓮大聖人に、一人の信徒が白米などを供養したことへの御手紙である。
大聖人は、その真心を称えられ、「凡夫は志ざしと申す文字を心へ得て仏になり候なり」(御書1596頁)と仰せになっている。つまり、信心の志、仏法への至誠の一念が、成仏の要諦であることを示されているのである。
この「白米一俵御書」では、命をつなぐ食べ物を供養したことは、過去に、雪山童子や薬王菩薩、聖徳太子などの賢人、聖人が、仏法のために命を捧げた功徳にも劣らぬものであると称賛されている。
伸一は、更に御書の別のページを開いた。弘安三年の十二月二十七日、南条時光に与えられた「上野殿御返事」(1574頁)であった。
当時、時光は、熱原の法難によって、夫役の人手などを過重に負担させられ、経済的に苦境に立たされていた。自分が乗る馬も、妻子が着るべき着物もないなかで、身延で冬を過ごされる大聖人の身の上を案じて、鵞目(銭)一貫文を供養したことに対する御手紙である。
諸御抄に記された時光の供養の品々を見ると、多くは食べ物である。しかし、この時、銭を送っているのは、大聖人に供養する物が、もはや、何もなくなってしまったからではないだろうか。おそらく、いざという時のために取っておいた銭を、供養したのであろう。
大聖人は、その真心を尊び、絶賛されたのである。
時光の身なりは貧しくとも、その心は気高く、金色の光を放っている。供養の根本は、どこまでも信心の志にある。
(つづく)