2023年1月9日~14日
第2170回
強敵との大闘争から
仏界の大生命が!
<今年は殊ことに仏法の邪正たださるべき年か>
「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、
今の世間を見るに人をよくなす成ものは
かたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(全917㌻)とは、
「種種御振舞御書」の有名な一節である。
邪悪な強敵との勇猛果敢な大闘争のなかにこそ、
広宣流布の前進がある。
またそこに、
本然の仏界の大生命も赫々と現われてくる。
これが、人生の方程式であり、
仏法の法理なのである。
大聖人が、お正月に認められた御聖訓に、こう仰せである。
「勝負を以て詮と為し」(全1002㌻)
「今年は殊ことに仏法の邪正たださるべき年か」(全893㌻)
――今年は、ことに仏法の邪正がただされるべき年であろう――。
私たちは、この断固たる希望と誇りと確信をもって、戦ってまいりたい。そして、厳然と勝利の歴史を飾りたい。
2004.1.3第二総東京代表協議会
2015年12月5日6日
反逆者の本質は修羅の“慢”
<他人を見下す慢心>
外面では人格者を装い、
内面では「勝他の念」で燃えている
修羅界──他人を見下す慢心
遠藤 修羅界の「修羅」とは「阿修羅」のことで、梵語のアスラの音訳です。古代インドでは、正義の神の一つでしたが、やがて魔神として位置づけられるようになりました。
須田 日蓮大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「諂い」「曲がった」心のことです。「諂」も「曲」も「心が曲がっている」ことです。なかんずく「自分の本心を見せないで、従順をよそおう」のが「諂い」です。
遠藤 「修羅」というと、何か「肩をいからせて、いばっている」姿を思い浮かべそうですが、「へつらう」というのは、イメージが反対です。修羅の境涯は、一見、大変に謙虚にさえ見えるということでしょうか。
池田 そこに問題がある。修羅は「慢」の生命です。「慢」は、七慢・九慢など、いろいろ分類されているが、要は、他人と自分を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩です。
いわば″自分はすばらしい″という自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていくのです。だから人にも「すばらしい人だ」と思われるために、「本心を明かさない」──すなわち「諂う」のです。
遠藤 本心と外見が違っているわけですね。だから、心にもないことも言う。これは三悪道にはなかったことです。かなり知能犯というか、ある意味で、高級になっているわけですね。
斉藤 たしかに、修羅について天台は、内面と外面が違うと述べています。
「常に他人に勝つことを願い、それが叶わなければ、人を見下し、他者を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろすようなものである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を見せようとして、下品の善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(『摩訶止観』)。内面では、自分より優れた者の存在を許せない。人を心から尊敬することができない。自分だけが偉いと思っている。「勝他の念」を燃やしている。
しかし外面では、そういう心を、おくぴにも出さない。仁・義・礼・智・信を備えた人格者のように振る舞う。そうすることによって、「人格面でも優れている」と人に思わせ、あるいは、自分でも思いこもうとするのかもしれません。
遠藤 「これほど謙虚な自分は立派なのだ」と慢心したり(笑い)。
須田 内面と外面が違う。「うそつき」だということが修羅の特徴ですね。
池田 同志を裏切っていった反逆者は、そういう連中であった。外面に、だまされてはならない。
斉藤 たしかに、「諂曲」とある通り、かなり「曲がって」います。
池田 そう。心が「曲がっている」から、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、すばらしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長がない。
「御義口伝」には「上慢(増上慢)」と「我慢」についての文句記の文を挙げられています。『疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す』(御書718頁)と。
斉藤 自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが「増上慢」。とくに、仏道修行の成果を得ていないのに、得たと傲ることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしないのが「我慢」です。
池田 法華経の方便品には、悪世の衆生は「我慢にしてみずから矜高し諂曲にして心不実なり」(法華経132頁)と説いている。我慢の心が強く、みずからを誇り、高ぶっていながら、心は曲がり、率直でも誠実でもない、と。その通りの世相ではないだろうか。
法華経の智慧 如来寿量品(第十六章)十界論(中)
2015年12月2日
純一なる信仰の世界を守りぬけ!
<師子身中の虫が仏法を破壊>
(前略) 純一なる信仰の世界を守りぬくために″不純物との戦い″に、ともどもに挑んでいかねばならないということである。清純であればあるほど、わずかの″不純″でも大きな″乱れ″の因となり、やがては広布を破壊しゆく重大な要素となっていく。ゆえに、信心の世界の″濁り″に対しては、徹底して戦い、排除していかねばならない。(中略)
御書の有名な御文に『うるし千ばいに蟹の足一つ』(御書1056頁)――千ばいものたくさんの漆も、わずか蟹の足一つ混じっただけで性質が変わってしまう――と教えられている。
個人においても、和合僧の組織にあっても、「信心」という一点では、いささかの″濁り″も許されない。わずかでも不純なものがまぎれ込めば、信仰の世界全体が侵され、変質し、やがて堕落してしまうからだ。
不純なる悪と戦い、信心の純度を限りなく高めていく、そこに福徳が限りなく増幅され、さらに広布の勢力がますます拡大していく。
文永元年(一二六四年)、大聖人が南条時光の父・南条兵衛七郎に送られたお手紙に、次のような一節がある。
『いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし』(御書1494頁)
――いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道(成仏)はできない――と。
これは、末法今時における天台仏法の修行を破折された御文であるが、私どもの信心のあり方をも示されている。
日々、仏道修行に励み、多くの善根を積んでいるという人がいる。また、教学の研鑽に励み、仏法のことは深く知っているという人もいるかもしれない。しかし、いくら善根を積み、仏法を深く究めているといっても、正法正義を破壊しようとする敵と戦わなければ、すべて無意味なものとなる、成仏は絶対にできない、との厳しき仰せなのである。
それは、あたかも『朝につかふる人の十年・二十年の奉公あれども・君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還つてとがに行はれんが如』(御書1494頁)――朝廷に仕える人が、十年、二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上(報生じもせず、個人としてもその敵を憎み、責めなければ、長年の奉公の功績もみな消えてしまい、かえって罪に問われるようなものである――と。
ゆえに、私は、信心の世界、妙法の世界を破壊しようとする敵と戦っている。そのために数々の迫害もあった。非難、中傷も受けている。しかし、それが御聖訓どおりの正しき信心の道と知っているがゆえに、私は行動している。
たとえ、信心の年数も長く、幹部になったとしても、仏法の敵を見ながら、知りながら、戦いもせず、責めようともしなければ、本当に仏法を知ったことにはならない、真実の信心の実践とはならないことを教えられた御書である。
それでは「成仏」など思いもよらない。大聖人が教えられた正しき信心の道に連なってこそ「成仏」はあることを、よくよく銘記しなければならない。
いずこの世界にあっても、悪人を放置しておけば、内側から破壊されてしまう。これほど怖いことはない。また、そうした悪がはびこるのを、黙って許しておくことも、重大な罪である。いわんや、仏法の世界は、より峻厳である。
御書に『師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり』(御書1271頁)――師子の身中の虫が師子をむしばむ、と言うとおり、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こってきて、仏道は失われてしまうだろう。これは仏の遺言である――と説かれている。
清らかな、うるわしい、この正法の世界に、悪が巣くうようなことは、断じて許してはならない。そうでないと『師子の中の虫・師子をくらう』とのごとく、内部から妙法の世界がむしばまれ、永遠なる広宣流布の道がふさがれてしまうからである。
有名の人がいる。栄誉の人がいる。功績の人がいる。人は、おうおうにして、これらの″飾り″に幻惑されやすい。
しかし、それらは信心とは何の関係もないことである。これまで学会にも、有名や栄誉、功績の仮面をかぶって、学会を利用しようとしたり、増上慢となり退転していった者が出た。これからも、そのような名聞名利の人物が出るかもしれない。しかし私どもは、絶対に、こうした「悪」の蠢動を許してはならない。
正法の「敵」を鋭く見抜いていくことだ。仮面の策略に翻弄されてはならない。そして信心の世界で「悪」の働きができないように、責めだしていかねばならない。
1989年10月1日第八回親善文化祭