2020年3月2日
第1647回
「善の根本」は法性、
「悪の根本」とは無明
<三災七難は一国謗法が原因>
大聖人は「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」と仰せです。大聖人は、この仏の智慧によって予言をされたのです。
「善の根本」とは法性(妙法の悟り)、
「悪の根本」とは無明(根本的な迷い、妙法に対する迷い・不信)です。無明が「悪の根本」であるのに対して、先ほどの貪欲・愚癡・瞋恚の三毒や、三毒から起こる飢饉・疫病・戦乱の三災、さらにはそれらが複合して起こる五濁などは「悪の枝葉」に当たるでしょう。
大聖人は「立正安国論」で、
当時の三災七難の根本原因は、一国の「謗法」にあると仰せです。
謗法は、妙法への不信・誹謗ですから、悪の根本である無明に等しい。 この一国の謗法を放置する限り、あらゆる悪の枝葉が起こってくるのです。善悪の根本を悟り、当時の社会に悪の根本である謗法が盛んであることを洞察された大聖人は、経典に説かれた三災七難という悪の種種相のうち、当時、まだ起こっていない戦乱、すなわち他国侵逼難と自界叛逆難が必ず起こると予言されたのです。
日蓮大聖人は、言うならば「妙法の智慧」に基づき、打ち続く災難の根本原因を解明し、民衆を苦悩から解放しようとされたのです。
「御書の世界」(下)
2020年3月2日
第1646回
妙法に背いた罪による病は、
妙法に帰することによってしか治らない
<広布の時、三災七難は逆次に起こる>
「実相」は必ず「諸法」に顕れる
〇〇 次元は違うかもしれませんが、中国の古典に「一葉落知天下秋(一葉落ちて天下の秋を知る)」(『淮南子』)とあります。「一葉が落ちる」姿を見て、「秋」の到来を知ることができる。あえて諸法実相に置き換えれば、「一葉が落ちる」姿は諸法、「秋」は実相でしょうか。
池田 見えない「秋(実相)」は、見える「一葉(諸法)」に自分を映し出すのです。諸法は実相の顕れです。また諸法に顕れない実相はありません。
〇〇 諸法を見て実相を知る智慧は、学者や芸術家、商売上手な人、家庭をきりもりする聡明な母など、それぞれ一面的には持っているのではないでしょうか。
池田 当然、そうでしょう。法眼・仏眼にいたらなくとも、慧眼・天眼がある。
何と言っても、戸田先生は鋭かった。現象を通して本質を見抜く天才だった。先生ほどの指導者は、ほかにいないでしょう。
はじめに話題になった、日本の敗戦と荒廃の姿──これは「諸法」です。それを見て、先生は、「大仏法興隆の時」であると叫ばれた。これこそ諸法実相の智慧ではないだろうか。
逝去された年(一九五八年〈昭和三十三年〉)の「年頭の言葉」にも書かれていた。
「政治、労働、文化、経済、教育等々、各界がみな自界叛逆の相を呈して、五濁悪世の名にもれず、泥沼にうごめくがごとき状態を続けている。そして、これが一国謗法の総罰のすがたであるとは、だれも考えおよぶ者がいない」(『戸田城聖全集』3)と。
〇〇 具体的には何をさして、おっしゃったのでしょうか。
池田 政界では、組閣や閣僚ポストをめぐる内部分裂。労働界では、指導者層の、一般組合員層からの遊離。文化面では、健全な文化の育成を阻む学閥抗争──等々を挙げられていた。
〇〇 そうした傾向は、今も変わっていません。問題は、なぜこうなるのかだと思いますが。
池田 そう。戸田先生は、指摘された。
「もともと、あらゆる機構は相争うために生みだされたものではない。それは人類福祉のために考えられ、採用されたものであったはずである」(同前)
〇〇 まったく、その通りです。
池田 そして結論的に、こう言われた。
「それにもかかわらず、いま、まったく反対機能の場となってしまった理由は、一国こぞって正法に反対し、これを説く者を迫害し、こぞって誹謗正法の罪をつくっているところにある。
すなわち、日蓮大聖人の立正安国のお教えに背いているためなのである」(同前)と。
〇〇 「立正安国論」で大聖人は、経文に照らして警告されました。人間の根本である思想・宗教が乱れ、それを放任したまま正法に目覚めないならば、その乱れは必ず国土・社会に反映するであろうと。
池田 思想・宗教の乱れとは、「諸法の実相」を見られない智慧の乱れであり、ひいては生命の乱れです。依正不二が実相であるゆえに、その「正報」の乱れが、「依報」である社会・国土にも不調和を起こすのです。
〇〇 三災七難ですね。
池田 大聖人の当時は、軽い難から重い難へと、順次、起こった。数々の天変地夭。権力抗争による内乱(自界叛逆難)。そして最後は、蒙古襲来という最大の難「他国侵逼難」です。
時移り、戸田先生は「いま広宣流布の時をむかえて、難の出方が大聖人御在世と逆次にでてきている」と指摘された。つまり最初に、未曾有の大敗戦という「他国侵逼難」。そして、各界の分裂・抗争に見られる「自界叛逆難」にさしかかっていった。
妙法に背いた罪による病は、妙法に帰することによってしか治らない。だから全民衆の幸福のためには、妙法の広宣流布しかないのだと叫ばれたのです。
〇〇 戸田先生は、経典と大聖人の仰せに照らし、民衆のゆく末を憂えて、戦後社会という諸法の実相を洞察されたのですね。
池田 そう。身近なことでは、広宣流布の大進展が、まちがいないという一つの証拠(諸法)として、「交通の便」の発達をよく挙げられていた。多くの人が集まれること自体、すごいことなのだと。その通りであった。
ともあれ、諸法実相は、どこまでも「現実を変革」する哲理です。苦悩に満ち満ちた現実を絶対に離れない。逃げない。その現実のなかから、人々の仏界の生命を開発し、世界の安穏を実現していく智慧なのです。
法華経の智慧 方便品(第二章)
2020年2月25日
第1644回
なぜ次から次へ、
三災七難が打ち続くのか?
<大聖人(創価学会)に
前代未聞の大瞋恚を起こしているから>
正法の人を憎む故に三災七難が
御書の「治病大小権実違目」に、こう仰せである。
「此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず日本・一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起せり(中略)結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」
──この三十数年間の三災・七難等の原因は全く他のことではない。日本一同に日蓮をあだみ、国ごと、郡ごと、郷ごと、村ごと、人ごとに、上一人より下万民にいたるまで(大聖人に対して)前代未聞の大瞋恚(怒り、うらみ)を起こしているからである。(中略)結局は、勝負を決する以外に、この災難を止めることはできない──。
自然の災害、悪賊による騒乱、また内乱、他国からの攻撃、飢饉など深刻な経済の不況、身の病・心の病の蔓延など……。
なぜ次から次へ、三災七難が打ち続くのか?
その根本原因が、この御文に明快に示されている。そして、この苦悩の流転を止めんがために、大聖人は、権威・権力の魔性と戦い、三類の強敵に真っ向から挑まれたのである。
この正義の大闘争こそが広宣流布である。
時代の混迷を目の当たりにしながら、何もせず、ただ傍観している──それほど無責任な、卑怯なことはない。
今、創価学会が立ち上がり、全力で、誠実に行動している。これこそ大聖人の御心に適っていると確信する。
「仏法は勝負」である。ひとたび戦いを開始したからには、断じて負けるわけにはいかない。師子として仏敵を打ち破り、勝ち抜いていく以外ない。すべては、ただ民衆の安穏のためである。」
幸福の種をまく人
ここで、大聖人が婦人門下の妙法尼に送られた「法華初心成仏抄」の一節を拝したい。
この御書でも「女人成仏」の法理が明快に示されている。
ご存じのように、法華経以前の仏典や仏教以外の多くの教えでは、女性は不当に差別されてきた。しかし、大聖人は、女性が「やすやすと仏になるべし」──やすやすと仏になれる──と高らかに宣言なされている。
この一点から見ても、日蓮大聖人の仏法こそ、女性の時代たる二十一世紀をリードしゆく「平等」と「調和」の哲理なのである。
大聖人は、妙法尼に、こう語りかけておられる。
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」
──とにもかくにも法華経を、あえて説き聞かせるべきである。(それを聞いて)信ずる人は仏になる。謗る者も、それが″毒鼓の縁″となって仏になるのである。どちらにしても仏の種は法華経よりほかにはないのである──。
(「毒鼓の縁」とは、毒薬を塗った太鼓(毒鼓)の音を聞けば、聞くつもりがなくても死に至るとされていることから、不信の者でも正法を「聞く」ことによって成仏に至ることを譬えたもの)
皆さまが勇気をもって、仏法を語れば語るほど、人々の心の奥に、最高の「幸福の種」をまくことができる。たとえ、今は相手が反対したとしても、必ず花開く時が来る。
なかんずく、婦人部の確信の弁舌は、観念論ではない。言葉だけの空まわりでもない。強き一念、深き体験より発する、我が婦人部の一言一言には、人々の心を打つ響きがあり、心を動かしていく力がある。
皆さまが祈り、しゃべった分、仏縁を結び、広宣流布のすそ野は広がっていく。
ところで、大聖人は御書のさまざまなことろで、よき僧侶の条件を明確に挙げておられる。
すなわち、(1)これといった世間的な罪がない(2)権力などに、いささかもへつらわない(3)少欲知足(4)慈悲がある(5)経文の通りに法華経を読み持つ(自ら修行する)(6)人にも勧めて法華経を持たせる(布教する)──である。
この基準に、ことごとく違背しているのが、日顕宗の悪僧なのである。
(1)世間的な罪、反社会的な行為(2)権力に迎合(3)貪欲(4)無慈悲(5)修行しない(6)布教しない。
ゆえに、御聖訓に照らして、厳然たる仏罰、なかんずく冥罰(すぐに表面には出ないが、後々に必ずあらわれる罰)は絶対にまぬかれない。
一切衆生の仏性を妙法の一音が呼び顕す
大聖人は、この御書の結びにこう仰せである。
「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」
──ひとたび妙法華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵天・帝釈・閻魔法王・太陽と月・星々・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界という一切衆生の心の中の仏性を、ただ一声で呼びあらわせる、その功徳は無量無辺である──。
妙法の音声に、どれほどの力が秘められていることか。
それは、全宇宙のあらゆる衆生が具えている尊極の仏性を呼び覚ましていく。ゆえにすべてを仏天の加護に変え、味方へと転じられるのである。
功徳の「功」とは、「悪を滅する」こと。功徳の「徳」とは、「善を生ずる」ことである。
学会の正義が、このように堂々と証明されゆくのも、学会員なかんずく婦人部の皆さまの懸命な祈りと戦いの功徳なのである。
皆さま方の大闘争に呼応して、今、諸天善神もグングン勢いを増し、働いている。
さらに朗々と、妙法を世界へ宇宙へ響かせながら、人々の心に「希望の種」をまく一日一日でありたい。
1995.10.8 滋賀県最高協議会