2022年4月12日
第1970回
ヒトラー
(完)
<『悪』に気づいたら、断固、即、立ち上がれ!>
ラインの川面は、金波から赤紫に変わり、街の明かりを映し始めていた。
山本伸一は、静かに言葉をついだ。
「最初から迫害のターゲットになっていた、ユダヤ人たちにとっては、ナチスの本性はあまりにも明白であったはずだ。ところが、一般のドイツ人にしてみれば、ナチスの暴虐も、自分たちに火の粉が降りかかるまでは、対岸の火事でしかなかった。その意識、感覚が、『悪』を放置してしまったんです」
谷田昇一が、深い感慨を込めて言った。
「人間は、他の人が迫害にさらされていても、それが自分にも起こり得ることだとは、なかなか感じられないということなんですね……」
伸一が答えた。
「そうかもしれない。しかし、ナチスにとっては、ユダヤ人への偏見や悪感情が広がり、ユダヤ人と他の人びとの間に、意識的な隔たりが大きくなればなるほど、迫害も、支配も容易になり、好都合ということになる。それは、ある意味で、民衆自身の意識の問題といえるかもしれない。
ともかく、民衆の側に、国家権力の横暴に対して、共通した危機意識がなかったことが、独裁権力を容易にした理由の一つといえるだろうね。
今、学会がなそうとしていることは、民衆の心と心の、強固なスクラムをつくることでもある」
伸一の話に頷きながら、谷田が言った。
「今のお話は、本当に大事な問題だと思います。日本にも平和と民主のすばらしい憲法があっても、それが踏みにじられることにもなりかねないですね」
「そうなんだよ。たとえば、明治憲法でも、条件付きながら、信教の自由は認められていた。それが、なぜ、かつての日本に、信教の自由がなくなってしまったのか。
政府は、神社は『宗教に非ず』と言って、神道を国教化していった。やがて、治安維持法によって、言論、思想の自由を蹂躙し、宗教団体法によって、宗教の統制、管理に乗り出した。そして、いつの間にか、日本には、信教の自由はおろか、何の自由もなくなっていた。小さな穴から堤防が破られ、濁流に流されていくように。
こうした事態が、これから先も起こりかねない。しかも、『悪』は最初は残忍な本性は隠し、『善』や『正義』の仮面を被っているものだ。だからこそ、『悪』に気づいたら、断固、立ち上がるべきだよ。それを、私たち日本人も、決して忘れてはならない」
日の落ちたラインの川面を渡る風は、肌寒かった。伸一は、同行のメンバーと一緒に、岸辺を歩き始めた。彼は、しみじみとした口調で語った。
「ヒトラーの蛮行が残したものは、結局、無数の死と破壊であった。犠牲になった人たちのことを考えると、胸が痛んでならない。また、最も苦しんだユダヤの人びとが幸福になれないなら、人間の正義はいったいどこにあるのだろうか」
<新・人間革命> 第4巻 大光 328頁~346頁
2022年4月11日
第1968回
ヒトラー
(9)
<「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」>
山本伸一は、ヒトラーのユダヤ人迫害の経緯を語ったあと、強い口調で言った。
「忘れてならないのは、ヒトラーも、表向きは民主主義に従うふりをし、巧みに世論を扇動し、利用していったということだ。
民衆が、その悪の本質を見極めず、権力の魔性と化した独裁者の扇動に乗ってしまったことから、世界に誇るべき〝民主憲法〟も、まったく有名無実になってしまった。これは、歴史の大事な教訓です」
十条潔が、憤りを浮かべながらつぶやいた。
「こんなにひどいことが行われていたのに、ナチスに抵抗する動きはなかったのでしょうか……」
伸一は言った。
「もちろん、抵抗した人たちもいる。しかし、本気になって抵抗しようとした時には、ナチスは、ドイツを意のままに操る、巨大な怪物に育ってしまっていた。結局、立ち上がるのが遅すぎたのだ。多くの人びとは、ナチスのユダヤ人迫害を目にしても、黙って何もしなかった。無関心を装うしかなかった。それが、ナチスの論理に与することになった。
牧口先生は、『よいことをしないのは悪いことをするのと、その結果において同じである』と言われているが、『悪』を前にして、何もしないで黙っていたことが、悪に加担する結果になってしまったわけだね」
たとえば、ドイツのキリスト教会からは、後に、強い抵抗運動も起こっているが、ナチスの政権ができた当初は、むしろ協力的であった。
キリスト教会における、反ナチ闘争の中心的人物となった牧師マルティン・ニーメラーは、ナチスの暴虐が進んでいくのを目の当たりにして、自分がどう思ったかを、概要、次のように回想したという。
──ナチスが共産主義者を襲った時、不安にはなったが、自分は共産主義者ではなかったので抵抗しなかった。ナチスが社会主義者を攻撃した時も不安はつのったが、やはり抵抗しなかった。次いで、学校、新聞、ユダヤ人……と、ナチスは攻撃を加えたが、まだ何もしなかった。そして、ナチスは、遂に教会を攻撃した。自分はまさに教会の人間であり、そこで初めて抵抗した。しかし、その時には、もはや手遅れであった──と。
こうした悲惨な時代を生きた人びとは、すべてが起こってしまったあとに、その教訓として、次のような格言を、苦い思いで噛み締めたという。
すなわち、「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」と。
悪の芽に気がついたら、直ちに摘み取ることだ。悪の〝発端〟を見過ごし、その拡大を放置すれば、やがて、取り返しのつかない〝終末〟をもたらすことになる。
(つづく)
2022年4月10日
第1967回
ヒトラー
(8)
<悪法によるユダヤ教徒への大弾圧>
ヒトラーが権力を掌握すると、それを待っていたかのように、ユダヤ人に対する暴行や略奪が相次いだ。
当然、国際的な非難が強まり、ドイツ製品のボイコットまで起こった。すると、ナチスは、この責任はユダヤ人にあると言い出し、〝懲らしめ〟のためと称して、国内のユダヤ人ボイコット運動に移った。
さらに、次々に、反ユダヤ立法が行われる。ユダヤ人を狙い撃ちし、追い詰めるために、道理を曲げ、〝民主憲法〟を踏みにじり、悪法を量産していった。ナチス政権の誕生から五年ほどで、そうした法律や規定は、実に一千件を超えるといわれている。
まさに、白昼堂々、ユダヤ人は、人間として、ドイツの市民として、生きる権利を制限され、自由を奪われていったのである。
また、ナチスは、ユダヤ人の経済力の破壊と収奪を目論んだ。一九三八年に、ユダヤ人の財産登録を義務化すると、これをもとに、情け容赦なく、財産を没収していった。
いったい「生き血」を吸っていたのはナチスか、ユダヤ人か。真実は明らかであろう。
なかでも、ユダヤ人の運命に、決定的な影響を与えたのは、一九三五年に制定された、悪名高いニュルンベルク法であった。これによって、ユダヤ人は、法的に、ドイツ人に従属する別の人種、〝二級市民〟と規定され、公民権を奪われたのである。
その際、ナチスが定めた〝ユダヤ人の定義〟では、祖父母の代まで遡って、ユダヤ教徒かどうかが基準になっていた。このことからも、「ユダヤ人は人種である」とのナチスの主張がウソであったことは明白であろう。結局、それは、特定の宗教を信じる国民への差別を合法化するものであった。
一九三八年十一月には、ユダヤ系青年による、ドイツ外交官の暗殺事件をきっかけに、ドイツ全土で、ユダヤ人に対する大迫害が起こる。夜陰に乗じて、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)や、ユダヤ人の商店が壊され、百人近いユダヤ人が殺された。さらに、二万から三万人が逮捕され、強制収容所に送られた。
いわゆる「水晶の夜」である。破壊の嵐のあと、ガラスの破片が散乱していたことから、こう名づけられた。ユダヤ人にとって、最悪の〝ポグロム(迫害・虐殺)の夜〟であった。
これらは、すべて、一九三九年の九月一日、ドイツがポーランドに電撃的に侵攻し、第二次世界大戦が勃発する前のことである。
(つづく)
2022年4月9日
第1965回
ヒトラー
(7)
<思い通りにならないユダヤ人を絶滅しようとした>
ともあれ、ヒトラーは自分の気に入らないものは、すべてユダヤ人に結びつけた。
民主主義も、議会主義も、自由主義も、国際主義も、また、人びとの自由と平等を広げる人権思想も、いっさいが〝ユダヤ人がアーリア人を支配しようとして考え出した道具〟だと見た。
だが、そのような強大な〝支配者ユダヤ人〟がどこにいるというのか。結局、ヒトラーの妄想のなかにすぎない。にもかかわらず、彼の偏見と差別意識に満ちた妄想は、文字通り、狂気の暴走を始めてしまったのである。
こうして作られた虚構の「ユダヤ人問題」を「最終解決」するために、ユダヤ人の「排除」を叫び、それは遂に、〝アウシュビッツ〟に代表される「ユダヤ人絶滅計画」にまで行き着いてしまうのである。
なんという狂気か。なんという惨劇か。
ヒトラーの政権に抗議し、アメリカに亡命していた物理学者のアインシュタインは、その迫害者の心理を、次のように鋭く分析している。
「ユダヤ人についての憎悪感は民衆の啓蒙を忌み嫌うべき理由をもつ人々によるものなのです。この種の人々は、他の何物にもまして知的独立の精神に富む人々の感化を恐れています。(中略)彼らはユダヤ人をドグマを無批判に受け入れるように仕向けることのできない非同化的な一要素と見なしており、したがってユダヤ人なるものが存在するかぎり、それが大衆の広範な啓蒙を主張し続けることによって彼らの権威を脅かすものと考えているのです」
この指摘のように、権力の亡者は、民衆が賢くなり、自分たちの思い通りにならなくなることを、何よりも恐れる。それゆえに、民衆を目覚めさせ、自立させようとする宗教や運動を、権力は徹底的に排除しようとするのである。それは、いつの時代も変わらざる構図といえよう。
(つづく)
2022年4月8日
第1964回
ヒトラー
(6)
<ヒトラーの喧伝への反証>
ヒトラーが喧伝したことを、具体的に検証してみればどうなるか。
たとえば、ユダヤ人の手先だと非難中傷されたワイマール政府にしても、ヒトラーが政権を握るまでの十四年間に、閣僚の数は、延べ四百人近くに上ったが、このうち、ユダヤ系の大臣は、わずか五人に過ぎなかったという。しかも、皆、短期間で交代しているのである。とても「ユダヤ人が牛耳っている」とはいえまい。
また、一部のユダヤ人が金融業界に力をもっていたことは事実だが、それには、歴史的な背景がある。中世以来、キリスト教会が、金を貸して生業とすることをキリスト教徒に禁じたため、差別され、職を得られぬユダヤ人たちは、やむなく、それを生業としてきたのである。好んで、金融業界に狙いを定めたのでもなければ、社会を、支配しようとしたわけでもない。
さらに、ユダヤ人が、学術・芸術などの世界で、多くの偉人を輩出してきたことは確かである。たとえば、ノーベル賞が制定されてから、ヒトラー政権の誕生までで、ドイツ国籍の受賞者は三十八人を数えている。そのうち、相対性理論で知られる世界的な物理学者アインシュタインなど、十一人がユダヤ系であった。実に、全体の三割近くにあたっている。
だが、これもユダヤ人が「教育」を大切にしてきた賜物であった。迫害され、土地を追われても、教育さえあれば、どこでも生きていけるからだ。まさに苦難の嵐をバネに、多大な努力を重ねてきたのである。この教育の伝統が、優秀な才能を生む土壌となったのである。また、そうした優れた知性は、本来、ユダヤ人社会のみならず、ドイツの社会全体を、ひいては人類を豊かにするものであったといえよう。偏狭なユダヤ人憎悪は、こうした精神的な財産さえも拒否したのである。
さらに、ヒトラーは、ユダヤ人の謀議の記録と称する『シオンの議定書』という、かつて流布した偽造文書まで持ち出し、ユダヤ人の「世界支配の陰謀」があると攻撃した。出所不明の〝怪文書〟による中傷である。これもまた、不当な弾圧を行う際、権力者が用いる常套手段といってよい。
しかも、ヒトラーは、ユダヤ人が〝議定書〟を執拗に否定すること自体が、この書の真実性の証拠だとまで言ったのである。
当時の多くのマスコミは、ヒトラーの代弁者となり、反ユダヤ主義を煽る記事を書き立てた。それが、いかに真実とかけ離れたものであったかを物語る、こんなジョークが伝えられている。
──一人のユダヤ人の男が、ナチス系の新聞を、なぜか満足げに読んでいた。
「どうして、そんな新聞を読むのかね」
ほかのユダヤ人が尋ねると、その男は言った。
「ユダヤの新聞は、ユダヤ人への迫害の話ばかりだが、この新聞には、俺たちが一番金持ちで、世界を支配していると書いてあるんだもの」
(つづく)
2022年4月7日
第1963回
ヒトラー
(5)
<「ウソも百回言えば本当になる」>
ヒトラーが政治活動を開始したのは、このように、ドイツ国内に、ユダヤ人へのゆえなき反発が高まっていた時代であった。
彼は、アーリア人種が、他のあらゆる人種に優越するとし、その頂点にドイツ民族を置いた。そして、奴隷的な条約である、べルサイユ条約を破棄して、ドイツ民族にふさわしい「生存圏」の確保、領土の拡張をと訴えていった。
その一方で、彼は、ユダヤ人がアーリア人種の純血性を侵し、ドイツの衰退をもたらす劣等人種であるとして、徹底的な排斥を主張したのである。だが、そもそも〝ユダヤ人種〟や〝アーリア人種〟という「人種」自体が、存在しない。反ユダヤ主義は、まさに、政治的な「人種差別主義」であった。
今日のイスラエルの帰還法の定義では、ユダヤ人とは、〝ユダヤ人の母親から生まれた人、およびユダヤ教に改宗した人〟をさす。つまり、ユダヤ教に基づく独自の宗教的・文化的な伝統を共有する人びとをいうのである。
だが、ヒトラーは〝ユダヤ人は、決して「宗教」ではなく、「人種」である〟と強弁し、ありとあらゆるウソを捏造していった。
その代表的なものが、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」ということであった。
ヒトラーは、〝ユダヤ人は「宗教」を称することによって、自らの政治的な野望を隠している。自分はこのユダヤ人の「野望」を叩きつぶすだけなのだ〟と、弾圧を正当化し、こう喧伝していった。
──ユダヤ人は、
「寄生虫」であり、
その金融資本の力で労なくして巨利を得ている。
「吸血虫」のように、
ドイツ人の毛穴から生き血を吸っている。
現世主義者のユダヤ人は金と権力をひたすら求め、
そのためには、いかなる手段も選ばない。
ユダヤ人こそ「われわれのすべての苦しみの原因」であり、
「南京虫のように」除去しなければ、
自分たちが食われてしまう。
危険な事態は、
人びとが気づかないうちに進行している。
既に、政治、経済、官界、学術界へと、
ユダヤ人はあらゆる分野に忍び込み、
背後で牛耳っている。
今のワイマール政府も、
議会も、ユダヤ人の「手先」なのだ──と。
これらは、すべて悪意のデマであった。
だが、こうしたデマも、
反ユダヤ主義の風潮のなかで、
「ウソも百回言えば本当になる」とばかりに、
繰り返し喧伝されることで、
巨大な力をもったのである。
権力の魔性の虜となり、
ドイツを、さらには、
世界を支配しようとの野望をいだいていたのは、
ヒトラー自身であった。
しかし、彼はそれを、そっくり、
ユダヤ人のこととしたのである。
邪悪な権力者が、ともすれば用いる、
卑劣な排斥の手法といえよう。
(つづく)
2022年4月6日
第1961回
ヒトラー
(4)
<ドイツでのユダヤ人への偏見と差別>
彼らが、ようやく人間らしい権利を得るのは、近代のフランス革命の時代に入ってからである。しかし、市民社会の形成が遅れたドイツでは、ユダヤ人が市民権を獲得するのは、十九世紀の後半であった。
だが、それとても、極めて不安定なものであり、反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人の宗教的な共同体を、「国家の中の国家」と言って危険視していた。
つまり〝ユダヤ人の忠誠は、彼らだけの「国家内国家」に対するもので、彼らがキリスト教国家に対して忠誠であるわけがない〟というのである。
ユダヤ人が互いに強く結び合っていたのは確かだが、実際には、彼らは、ドイツ国民として、懸命に国家に貢献しようとしてきたのである。それにもかかわらず、ユダヤ人が、流浪の歴史のなかで世界に散在し、国家を超えて国際的に結びついていることから、〝国際ユダヤ主義〟だとして、国家にとって危険極まりないものと喧伝されてきた。
そして、第一次世界大戦で、ドイツの経済が危機に瀕すると、一部のユダヤ人に財界人がいたことなどから、根拠のない噂が流されたのである。
「ユダヤ人が、大儲けするために戦争を起こしたのだ」
「戦場に出て戦うのはドイツ人、陰で社会をあやつり、甘い汁を吸うのがユダヤ人だ」
しかし、事実は、多くのユダヤ人がドイツのために血を流していた。この大戦では、全ドイツのユダヤ人の、実に二割近くにあたる十万人が従軍し、戦死者は一万二千人にも上ったといわれるのである。
(つづく)
2022年4月5日
第1959回
ヒトラー
(3)
<なぜヒトラーの独裁を許してしまったのか?>
すると、黒木昭が、不可解そうな顔で尋ねた。
「でも、どうしてヒトラーの独裁を許してしまったのでしょうか。ドイツには、当時、世界で最も民主的といわれたワイマール憲法があったはずなんですが……」
「うん、それは、大事な問題だね」
伸一は、さらに、歴史的な背景を語っていった。
──第一次世界大戦の末期、革命が起こり、皇帝はドイツを去った。帝政の崩壊、敗戦、そして、ワイマール憲法のもとで民主政治の時代が始まる。
しかし、長らく封建的な体制に馴染み、近代市民国家としての伝統が浅かったドイツでは、憲法の理想主義的な理念に比べて、社会の実態は、いまだ家父長的な封建主義が根強かった。
つまり、民主という時代の流れに対し、人びとの意識が立ち遅れていたといえよう。
しかも、ドイツは、ベルサイユ条約によって、莫大な賠償を課せられていた。それは、ドイツ経済に大変な重荷になったばかりか、結果的に、深刻な経済危機を招き、民衆の生活を破壊させた。
特に、一九二三年に起こったドイツ貨幣(マルク)の大暴落は、目を覆うばかりであった。八月に、戦前の貨幣価値の百十万分の一になったかと思うと、十月には、なんと六十億分の一に下落してしまった。当時、丸二日間、働いて、やっとバター一ポンド(約四百五十三グラム)が買えるような惨状であったという。
こうした経済の破綻が、国民の生活を窮地に追い込んでいたのである。
経済の混乱による生活苦のなかで、保守勢力や大衆は、その不満のはけ口をユダヤ人に向け、彼らに非難が集中していった。
当時のドイツには、全人口の約一パーセントにあたる五十数万人のユダヤ人が住んでいたとされる。
ユダヤ人は長い間、流浪を強いられながらも、独自の宗教的な共同体を守り抜いてきた。しかし、キリスト教社会にあって、ユダヤ人は異質な存在とされ、一般の市民と同等の諸権利は与えられず、租税、職業、結婚など生活全般にわたって徹底して差別された。
住む場所も、市民とは切り離され、「ゲットー」と呼ばれる、城壁の外の強制居住地区とされた。そのうえに、疫病が流行すれば、ユダヤ人が井戸に毒を入れたといって虐殺され、ユダヤ教では幼児を生け贄にするといっては迫害されてきた。
ユダヤ人は、こうつぶやくほかなかった。
「海は底知れない、ユダヤ人の悩みも底知れない」(ユダヤの格言)
(つづく)
2022年4月4日
第1958回
ヒトラー
(2)
<ヒトラーの戦争はユダヤ人への戦争>
「(略)ヒトラーの戦争は一面、『ユダヤ人への戦争』だった。ドイツ国内はもちろん、ナチスが侵略した地域で、約六百万人ものユダヤ人が殺されたといわれているんだから……」
思いがけず、ナチスのユダヤ人迫害の話になり、同行の友も、にわかに真剣な顔で耳をそばだてていた。
──ヒトラーは、彼の政治活動の初めから終わりまで、ユダヤ人への憎悪を燃やし続けていた。
たとえば、最初の政治的な発言とされる、一九一九年に書かれた文書には、早くも「反ユダヤ主義の究極の目標は、断固としてユダヤ人そのものを除去することにあらねばならない」という一節が見える。
また、彼の自伝『わが闘争』では、「このユダヤ人問題を解決することなしに、ドイツの再生や興隆を別に試みることはすべてまったく無意味であり、不可能でありつづける」とし、執拗なユダヤ人攻撃を、叫んでいる。
そして、彼が引き起こした戦争の敗北が決定的であった、一九四五年の四月の時点でも、ヒトラーは、ユダヤ人虐殺を自画自賛していた。
「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、ひとびとは国家社会主義に永遠に感謝するであろう」
数百万人の無辜の民衆を大虐殺(ホロコースト)の地獄に突き落としながら、何の良心の呵責もなく、こう言って憚らなかったのである。
(つづく)
2022年4月3日
第1956回
ヒトラー
(1)
<独裁者となるまでの経緯>
アドルフ・ヒトラーは、一八八九年四月、オーストリアの税関吏の子として生まれた。十三歳で父を、十八歳で母を亡くし、ウィーンに出て、画家を志すが果たせなかった。
一九一三年、兵役を拒否してドイツのミュンヘンに逃れるが、第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍に志願兵として入隊した。
敗戦後、彼は、ミュンヘンの反動的な弱小政党であったドイツ労働者党に入党する。大衆の不満や欲望を扇動する才に長けた彼は、たちまち頭角を現し、党勢を拡大していく。
ヒトラーは党内で影響力を強めて、次々と権限を掌中に収め、党名も国家社会主義ドイツ労働者党(この通称がナチスである)に変更する。そして、とうとう独裁的な党首の座に就くに至るのである。
ヒトラーがナチスの党首になったのは一九二一年七月。そして、彼がドイツの首相に任命され、遂にナチス政権が誕生するのは、十一年半後の、三三年一月三十日であった。
それから一カ月後、ベルリンの国会議事堂が炎上するという事件が起こった。すると、ナチスは、この事件は共産主義者の陰謀だと騒ぎ、人びとの不安と危機感を利用して、共産主義者など反ナチ勢力に大弾圧を加えていった。
さらに、国難に対処すると称して、巧妙に世論を操作し、国会の選挙に勝利すると、議会に圧力をかけ、ヒトラーに全権を委任する法案を承認させてしまう。
続いて、ナチス以外の政党を解散・禁止し、翌年の八月には、ヒトラーは首相と大統領を兼ねた「総統」に就任するのである。
こうして、ドイツ第三帝国──ヒトラー独裁の暗黒時代が始まったのである。
山本伸一は、かいつまんで、ヒトラーが独裁者となるまでの経緯を語った。
(つづく)