2022年3月22日
第1942回
欧州とロシアと日本
<「そこに人間がいるから」>
きょうは、海外での苦労の一端を偲んで、「シベリア鉄道」などを使って、日本と欧州を行き来した同志の姿を紹介したい。
欧州から日本へ
欧州からの同志が、一九六四年(昭和三十九年)ごろ、パリから日本へ来るために、どういう経路をたどったか。
それは、パリから列車でモスクワへ。
モスクワから飛行機でハバロフスクへ。
ハバロフスクから列車でナホトカへ。
そしてナホトカから船で横浜へ、という経路であった。
まず、パリからモスクワは、列車で二泊三日。
道中、チェコスロバキア、ポーランドなどの旧東欧諸国を通った。
冷戦下でもあり、共産圏の国々を行くのは不安がともなったという。
ソ連(当時)が近づくと、線路の幅が違うので、全車両の車輪を取り替えた。車輪の交換に四時間ほどかかったことも、記憶に残っている。
モスクワに着くと、ホテルで一泊。
モスクワからハバロフスクへは、飛行機で約十時間。
ハバロフスクから、ナホトカまでは、列車で一泊二日の旅となる。
さらに、ナホトカから横浜へは、船で二泊三日であった。
「列車や船の中で、同志とともに、小さな声で唱題会を行ったものです」と、皆、懐かしく語っていた。ある欧州副女性部長は、モスクワからハバロフスクへ向かう機中、飛行機のプロペラの騒音で、落ち着いて話もできなかったことが、強く印象に残っているという。
また以前、私の妻が、フランスの総合婦人部長と懇談したときのことである。
「当時、旅の間、ずっと、お題目をあげていました」と総合婦人部長。
妻は深く感動し、「その題目が種となって、ロシアの大地から地涌の菩薩が躍り出たんですね」と語っていた。
日本から欧州へ
オーストリアの理事長は、日本から欧州へ向かうさい、陸路、シベリア鉄道で移動した。
そのときの旅程もうかがったことがある。
一九六九年(昭和四十四年)六月十日、横浜港を出航。当時、二十七歳。携えていたのは、御本尊と御書。そして、トランク一個。片道切符を握りしめての旅立ちであった。
横浜港からナホトカまで二泊三日。ソ連の船で、一番安い四人部屋。
津軽海峡では、船の揺れが激しく、ほとんどの人が、食事もできなかったという。
ナホトカに着いてからは、港、空港、駅での写真撮影は禁止。
ナホトカからハバロフスクへは十時間。夜行列車で朝に到着。
ハバロフスクからモスクワまでは、シベリア鉄道で七日間の旅となる。
シベリア鉄道は、全長約九千三百キロの壮大な道のりである。
二等寝台は、四人部屋だった。食事は食堂車でする。朝、昼、タが、それぞれ、毎日、同じメニューで困る。味も、あまりおいしくない。途中の駅で、停車するが、どれくらい停車するか時間がわからない。停車中は、駅のホームを散歩した。
「六月のシベリアの自然は、本当にすばらしい。花と緑のじゅうたんのようでした」と理事長は言う。
とはいうものの、平原と森だけで、人や家は見えない。食べて、寝て、外の景色を見るだけの単調な一週間は、やはり、つらかったという。ずっと題目を唱えながらの旅であった。
モスクワに到着後、モスクワ大学を見学。その建物の威容に圧倒された。その後、モスクワから列車「ショパン号」で三十六時間。音楽の都ウィーンへ到着したのである。
初めてロシアへ
私が妻とともに、初めてロシアを訪問したのは三十一年前(一九七四年)の九月であった。
当時、「宗教否定の国に何をしに行くのか」との偏見と悪意の批判もあった。
「そこに人間がいるから行くのです」と、私は答えた。
どんな国の人であっても、同じ人間である。
この一点で心を開いて話しあえば、
必ず理解しあうことができる。
それが私の信条であった。
ロシアへ向かう機中からも、またロシア滞在中も、ユーラシアの広大な大地にしみ込ませるような思いで、民衆の幸福を祈り、間断なく題目を唱えた。
今、わが同志が妙法のために往来したロシアにも、SGIの友が誕生し、活躍している。
シベリア鉄道沿線の諸都市にある文化・学術機関からも、顕彰が続いている。すべては、平和と文化の連帯を広げゆくSGIの皆さまへの絶大なる賞讃に、ほかならない。
2005.1.2新春代表協議会
2022年2月9日
第1896回
ヨーロッパの美しき「平和の先進国」
ウクライナで初の座談会
(2006年2月5日、11日当時)
<今こそ、ウクライナに平和の祈りを!>
今、世界中で、人と人を結び、社会に信頼と友情を広げゆく希望の座談会が活発に繰り広げられている。先日もうれしいニュースが届いた。それは、SGIのロシア語の公認通訳である女性からの報告である。彼女は、関西創価学園、創価大学を卒業。哲学博士号を持つ最優秀の方である。
その報告によると、ヨーロッパの美しき「平和の先進国」ウクライナでも、わがSGIの座談会が初めて開催されたというのである。(二月五日と十一日の二回)
ウクライナは、ロシア連邦の西隣にあり、南端には黒海が広がる。南部のクリミア半島は、世界的な保養地としても有名である。現在、首都キエフ在住のメンバーは五人。座談会は、マイナス二〇度以下の厳寒のなか、メンバーと二人の友人も参加して、首都キエフで、はつらつと行われた。
小さな集いのようであるが、まことに大きな歴史である。
釈尊も、「鹿野苑」において法を説き始めたときは、五人との語らいから出発した。
日蓮大聖人は、広宣流布の方程式として、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」と仰せである。
「一人」が大切なのである。万波の勢いも「一人」からである。
ウクライナSGIの中心者は、創価大学大学院を修了した男性である。私が「名誉博士号」を拝受した「キエフ国立貿易経済大学」で日本語を教えている教育者である。
世界中で創価同窓の友が、社会のため、人々の幸福のために、わが使命の道を厳然と切り開いている。これほど、うれしいことはない。「いつも本当にご苦労さま! ありがとう!」と、この場を借りて、心から讃嘆申し上げたい。
世界に広がる「創価の女性のスクラム」
このSGIでも、女性の活躍が光っている。キエフ在住の五人のメンバーのうち四人が女性である。それぞれ、グラフィックデザイナー、翻訳家、舞台美術専門家、大学教員として社会の第一線ですばらしい貢献をされている。
そして、この四人の女性に仏法を語り、入会に導いたのも、イタリア、フランス、日本の女子部、婦人部の方々なのである。まさに、世界中、至るところで、創価の女性の幸福と平和のスクラムが広がっている。
ウクライナの座談会では有名な「日女御前御返事」の一節を拝読し、学び合ったとうかがった。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」
この究極の「生命尊厳」の法理が、今、地球上のすみずみで学ばれ、実践されている。日蓮大聖人の御生誕の日である「二月十六日」を、広宣流布の拡大の見事な上げ潮のなかで迎えることができ、これほどの喜びはない。
ウクライナといえば、コステンコ駐日大使ご夫妻とは、私も何度も、お会いし、交友を結ばせていただいている。コステンコ大使邸は、信濃町の学会本部の近くにあり、ご夫妻はSGIの思想を深く理解してくださっている。
ある時は、学会本部に喜々として集い来る学会員の姿が、じつに生き生きとしていですばらしい!――とご夫妻で口をそろえて語ってくださっていた。不思議な縁のお二人であられる。
(=コステンコ大使はこうも語っている。
「じつは私たち夫婦は、″幸運の星″のもとに生まれてきたのではないかと思っています。それは……池田先生のすぐ、お近くに住むという幸運です!」「近い将来、池田会長、奥様にわが国をぜひご訪問いただき、ウクライナ国民がお二人に抱いている深い尊敬の気持ちに直接ふれていただけるよう念願いたします」
また、リュドミラ大使夫人も次のように。
「現代の世界に、哲学者と呼ばれる人たちは、たくさんいます。しかし、池田先生ほど、人類の一番、基礎的な価値である『女性』と『子ども』と『家庭』に光を当てた哲学者を、私は知りません。これは驚きです! 池田先生が、家庭や女性について語っているのは、たんなる哲学ではない。『人々を幸福にするための』信仰だと思います。先生の本を読んで、私は、この地球上に先生のような方がいらっしゃって本当に良かったと思いました」)
2006年2月14日女子部・婦人部合同協議会