2022年9月9日
第2096回
学会のために、同志のためにと、
すがすがしい決意で
一方、幹部でありながら、
信心が停滞していたり、
仏意仏勅の学会を軽んじるようなことがあれば、
それまで、どれほどの功労があったとしても、
未来は暗い。
下り坂を転落していくばかりである。
広布の世界に、特別な人間などいない。
全員が平等である。
これまで、清らかな学会の世界にいられなくなり、
反逆していった人間たちは、
″自分はみんなとは違う″
″うちは特別なんだ″などと増上慢を起こし、
自分も、家族も学会活動をし、なくなっていった。
学会活動を何か下に見たり、
おろそかにしてはならない。
そういう人間に共通する心根は、
「自分中心」という一点である。
自己の利益に汲々とし、
学会のこと、同志のことを、
第二、第三に考えているのである。
それでは、本当の信心はわからない。
仏法の偉大さはわからない。
宿命転換もできない。
″学会のために尽くそう!
同志のために働こう!″と、
すがすがしい決意に立っことだ。
皆と一緒になって、
心広々と進んでいくことだ。
「異体同心」こそ、
学会の根本精神である。
自分も懸命に学会活動に励み、
子どもにも、きちんと信心を教えていく。
わが子を断じて広布の人材にとの決心で、
ともに学会の中で生きぬいていくのである。
その心に福運が集まる。
その心から道が開ける。
「心こそ大切なれ」
――これが日蓮大聖人の仏法の一つの結論である。
法華経二十八品も、
八万法蔵といわれる膨大な経典の数々も、
「心」がもつ不可思議な力を説いている。
もちろん、個人がどう生きるかは自由である。
しかしわれわれは「同志」として、
言うべき時には、
創価の魂を厳然と言いきっていく。
それが本当の正義の叫びだからだ。
戸田先生は言われた。
「広宣流布のために戦って、
実績をあげるからこそ、幹部であり、
会員も幹部として待遇するのだ。
戦いなき者を幹部として待遇すれば、
組織は動脈硬化を起こして死んでしまう。
一兵卒、一会員になっても、
広宣流布のために戦ってこそ、
戸田の弟子である」
いつになっても、どんな立場になっても、
太陽が赫々と昇りゆくような、
不退の信心を貫いていってほしい。
2005.8.15代表幹部研修会
2022年8月16日
第2075回
大事なのは、
心を変革すること
<まず題目をあげることだ。
そうすれば、生命力がわいてくる>
人生において、さまざまな悩みにぶつかることもあるだろう。どうにもならない現実に直面することもあるにちがいない。
しかし、同じ状況にあっても、
ある人は、生き生きと進む。
ある人は、嘆き、悲しむ。
喜びというのは、心が感じるものだからだ。
この人生を、喜んで、楽しんでいければ、
その人は「勝ち」である。
ゆえに、大事なのは、
心を変革することだ。
これが仏法である。
人が見て、どうかではない。
皆がうらやむような境遇でも、
不幸な人は少なくない。
心が強い人。
心が賢明な人。
心がたくましい人。
心が大きい人。
その人は、
何があっても、へこたれない。
「心こそ大切なれ」
ここに幸福の根幹がある。
それを打ち立てるのが妙法なのである。
大聖人は、
「真実に、すべての人が、身心の難を打ち破る秘術は、
ただ南無妙法蓮華経なのである」
(御書1170㌻、通解)と断言されておられる。
幸福とは、
たんなる言葉ではない。
物でもない。
財産や地位や名声で、幸福は決まらない。
まず題目をあげることだ。
そうすれば、生命力がわいてくる。
何があっても楽しい。
友人と語り、心ゆくまで題目を唱えながら、
日々の一つ一つのことを、うれしく感じられる――。
その姿に幸せの一実像があるといえよう。
創価の運動は、
この幸福の根本の軌道を教えているのである。
信心に生きぬくならば、
「生も歓喜」
「死も歓喜」
の人生となる。
いかなる山も悠々と乗り越えて、
楽しく、にぎやかに進んでまいりたい。
2005.8.6各部合同研修会
2019年4月8日
第1658回
心は工なる画師の如し
不動の自身を富士のごとく
きょうは、ここ「牧口城」(東京牧口記念会館)から、見事な白雪の富士が一日中、見えた。美しき富士。素晴らしき富士。富士の姿を見ると、自然に合掌したくなる。ちなみに、合掌には「十界互具」の意義がある。(十の指が十界を表し、十指を合わせるのが十界互具を表す)
富士と言えば、小説『宮本武蔵』(吉川英治著)を思い出す。小学五年生の時、恩師の檜山浩平先生が、授業で読んでくださった書である。その『宮本武蔵』の次の一節が、当時から私の脳裏を離れない。これまでも幾度となく申し上げてきた、あまりにも正しい言葉である。
「あれになろう、これに成ろうと焦心あせるより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚こびずに世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」(『吉川英治全集』19、講談社)
何があろうと、だれが何を言おうと揺るがない。あせらない。迷わない。これが本当の人生である。人間の証である。
いわんや日蓮大聖人の仏法の真髄は「殉教」である。自分が決めた、その場で生ききっていくのである。使命の場所で死んでいくのである。
戸田先生も、富士を仰いで言われた。青年部時代、先生と私の二人だけの時であった。
「大作、静かに見えるようだが、富士山のてっぺんは烈風だよ。頂点に立つ人間は、烈風を受けなければならない」と。
この言葉を、私は生涯、忘れることはない。
ともあれ、この『宮本武蔵』の一節を、きょう、私は皆さまに贈りたい。
戸田先生は、言われた。
「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」と。
あと数年で二十一世紀。創価学会も、いよいよ青年部が広宣流布の一切を引き継ぐ儀式の時代に入ってきた。青年部の存在が、決定的に大事になってきた。時代は変わる。変わらざるを得ない。変わらなければ、新しき世紀は開けない。
ゆえに、壮年部、婦人部の皆さまも、青年部を最大に守り、鍛え、「後継の道」を立派につくっていくよう、応援をお願いしたい。
また、青年部も、その決意で進んでいただきたい。そして「世界第一の仏意仏勅の団体」「尊き広宣流布の団体」である創価学会を、見事に引き継いでいただきたい。
さらに、その意味から提案したい。二十一世紀に向けて、明年から毎月、新たに青年部の幹部会を開催してはどうだろうか。
「第一回全国男子部幹部会」「第一回全国女子部幹部会」(明年一月は男女合同の予定)と、今再びの陣列で、出発してはどうだろうか!(賛同の大拍手)
できれば会長はじめ全幹部が出席し、全力で応援していきたい。どうか、この幹部会を前進の節目としながら、二十一世紀への盤石な伝統を築き、人材の大河をつくり上げていってほしい。そして青年部の力で、新しき「創価の時代」を、見事に切り開いていただきたい。
「内面の豊かさ」こそが美しい
私は今年(一九九六年六月)、キューバを訪問した(六月)。思い出深いキューバ。その「救国の父」「キューバ共和国の父」と言われるのがホセ・マルティである。
彼は、おもに亡くなる前の二年間(一八九四年〜九五年)、ある少女に励ましの手紙を書き送った。その一部を紹介したい。
「内面的な豊かさを持つ人は、外面的に着飾る必要はないのです。外面にこだわる人ほど、内面世界が乏しく、着飾ることによって、その乏しさを隠そうとするのです。自らの内面的な美しさを自覚する者は、借り物の美しさなど、外に求めないのです。美しさを自覚しているがゆえに光を放っているのです。そして他人を明るくし、楽しくさせるよう、つとめるでしょう。なぜならば、他人に悲嘆ではなく、歓喜をもたらすことが、人間としての義務だからです。そして美を認識している人は、他人にも美しさを見いだすことができます。それゆえ他人と自分を尊び、大切にすることができるのです」(スペイン語版『ホセ・マルティ書簡集』社会科学出版)
また彼は、次のようにつづっている。
「お母さんを慈しみ、包んでいきなさい。母親という、その女性から(=あなたが)この世にやってきたこと自体、大いなる誇りなのです。自らの内面を見つめた時、そして今の行いを振り返った時に、朝の光に照らされた大地のような自分があればよいのです。朝の光の素早さと清らかさを感じればよいのです。
軽薄な世界など他の人間に任せればよいのです。あなたは、それ以上に価値ある人間です。微笑みを浮かべて、(=軽薄な世界を)通り抜けていきなさい」(同前)
″何があろうと、微笑みを浮かべて、軽薄な世界を通り抜けていきなさい″――正しき真理の言葉である。
私どもが見ているのも、目先の「軽薄な世界」などではない。深く尊き「永遠の世界」である。「永遠の幸福の追求」が仏法なのである。うつろいゆく世相を悠然と見おろしながら、「わが信念の道」に生ききってまいりたい。
我らは我らの道を行く。堂々と「永遠の幸福」の大道を、そして「永遠の発展」の大道を進んでまいりましょう。
サーツ女史の信念の戦い
先日、金秋のモスクワから一冊の本が届けられた。それは、ロシアの「児童芸術の母」として世界の子どもたちから愛されたナターリア・サーツ女史の自叙伝(ロシア語版『人生――縞模様』、ノーボスチ出版社)である。
女史は三年前(九三年)、九十歳で亡くなられた。女史の遺作を、彼女が創立したモスクワ児童音楽劇場の会長(V・プロフォロフ氏)が贈ってくださったのである。
女史と築いた友情の絆は、このように、今でも固く結ばれている。私には、そして創価学会には、そうした友情で結ばれた人々が世界中にいる。
自叙伝には、女史と私との出会いの思い出もつづられている。
(名誉会長と女史との出会いは八一年五月、モスクワで。以来、七回にわたり語らいを。また、モスクワ児童音楽劇場は、民音の招聘で二度、来日公演を行っている)
女史は生前、″池田先生から学んだ仏法の永遠の生命観が、人生に限りない希望を与えてくれた″と語っていた。
今、ロシアでは、二年前に出発した、わがロシアSGIの友が、元気に「行学の二道」に励んでいる。女史が生きておられれば、必ずや、よき理解者になられたにちがいない。
女史は若き日に、何の罪もない夫を、独裁者スターリンによって銃殺された。さらに、自らも、いわれのない罪をでっちあげられて、シベリアなどで五年間も投獄された。そんな目にあいながらも、「信念」のためには自分を曲げず、戦ったのである。
自伝では、この収容所での体験も回想されている。取り調べは、あまりにも卑劣であった。″早く家族のもとに帰してほしければ、友人を陥れるウソの証言をせよ″と迫られたのである。しかし、彼女はきっぱりと断った。
「私は子どものころから、ウソをついてはいけないと教わってきました。親しい人(家族)の幸せをウソで買いとるなんて、私にはできません!」
女史は人間としての尊厳を、誇り高く守り通した。堂々たる人生であった。立派な人生であった。
私たちは信仰者である。信仰とは究極の「信念」である。少々の難くらいで、文句を言ったり、引いてしまうならば、あまりにも、なさけない。あまりにも、愚かである。
御書には「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」――賢いのを「人間」といい、愚かなのを「畜生」というのである――と仰せである。
愚かであってはならない。賢明な「信念の人」でなければ仏法者ではない。
女史が投獄された部屋には、他にも冤罪(無実の罪)で捕われた女性が何人かいた。皆、恐怖におびえ、悲しみに打ちのめされていた。
サーツ女史は、自分も絶望的な状況にありながら、それでも自分のことだけに心を閉ざしてはいなかった。″生きる希望をなくした同室の人々が、どうすれば立ち上がれるか″を、女史は考え始めたのである。他者のことを思いやることによって、彼女の心に再び太陽が昇りはじめた。
女性は強い。やはり婦人は「太陽」である。「元始、女性は太陽であった」(平塚らいてう)という言葉があるが、これは世界共通の真理と思う。
女史は思った。「何とか皆が生き抜いていけるよう助けなければならない。そして自分も生き抜いていこう。頭を切り替えよう。そして信じよう。『今この時が決して終末ではない』ことを」
姿は敗北者のようであっても、これで人生が終わったわけではない! これで戦いが終わったわけではない!――これが女史の信念であった。
戸田先生は言われていた。「負けた時に、勝つ原因をつくることができる。勝った時に負ける原因をつくることもある」と。
日蓮大聖人の仏法は「本因妙」の仏法である。「現当二世」の仏法である。過去を振り返るのではない。常に「現在」から「未来」への挑戦を始める。永遠に「これから!」「これから!」である。ゆえに行き詰まりがない。
創価学会は、御本仏がつくられた仏意仏勅の教団である。末法万年尽未来際までの行進である。目先のことに右往左往するのではいけない。世の毀誉褒貶をはるかに見おろしながら、永遠に「これから!」の決心で進んでいただきたい。
その場で輝け! その場を変えよ
「心」を変えれば、「環境」も変わる。仏法でも「依正不二」「一念三千」と説く。
周りを見渡せば、獄中にも多彩な人材が集まっていた。いつまでも嘆いていてもしかたがない。女史は思った。
″それぞれの持ち味を生かして、学び合う機会をつくろう。学校をつくろう″
″あの人は化学の講義ができるだろう。あの人には医学の講義をしてもらおう″
女史自身は、見事な歌声を披露した。ある時は、よく響く澄んだ声で、プーシキンの詩を朗読した。皆、感動した。勇気がわいてきた。
暗く閉ざされた牢獄。だからこそ、静かに勉強できる学校となった。芸術を存分に味わう劇場ともなった。心一つで何でも変えられる。
″さあ、今いるこの場所で、楽しく有意義な一日一日を送ろう″と。
本当に賢明な人は、どんな状況でも価値を創造する。
いわんや仏法では「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し」と説く。「心」は名画家のごとく、一切を自在に描き出していく。したがって、人生そのものが、「心」の描く「名画」である。「心」が創り上げる芸術である。
また、指導にあたっても、こちらの「心」次第で、いくらでも美しいドラマを描いていける。おなかがすいている人にはパンをあげよう。パンがなければ″言葉のごちそう″だけでもあげよう、と。顔色の悪い人、体が心配な人には、心が軽くなり、「よし健康になろう」と希望を出せるような話をしてあげる。
会ったら「何か」を与えなければいけない。喜びを、勇気を、希望を、安心を、また哲学を、知恵を、展望を――何かを与えてあげることである。
また、花を見る余裕もない女性がいる。うちに帰っても、花を見て楽しむどころか、お母さんに文句だけ言って、寝てしまう。そういう人には、ちょっと角度を変えて、美しい花や芸術に心が向くようにしてあげる。それだけで、ぱっと開ける場合がある。
わが「心」を絵筆のごとく自在に使える名指導者であっていただきたい。
喜びの″一波″を起こせ、友の心に
サーツ女史の牢獄は小さかった。しかし、そこで偉大な歴史はつくられた。
″小さな集い″が大切なのである。大きな会合で、大勢の人に拍手されて話すことが偉いのではない。人目につかない小さな集い――座談会が、また家庭指導が大事なのである。個人指導が大事なのである。
大きな会合だけでは一方通行になる。それでは皆の本当の力を引き出すことはできない。
一対一で、いい味のある対話ができ、人間味のある励ましで人を発心させられる人が本物である。その発心こそ長続きする。その決意が起爆剤になる。
その「一波」から「万波」が広がる。丹念に一軒一軒を回る。真心で一人一人と語る。この苦労でつくった一波こそが万波に広がっていくのである。創価学会のこれまでの発展の秘けつもここにある。
したがって、もう一度これに徹していけば、また再び「万波」を起こせる。そこに末法万年の広宣流布の発展の道が開かれていく。
サーツ女史は、皆と決めていた。「人間は一人きりで悲しんではいけない」と。
一人では悲しみが余計に深まる。救いがなくなる。
″人の間″と書いて、人間と読む。人間と人間の切磋琢磨のなかでこそ、「人間」ができていく。「自分」が豊かになっていく。
時には、組織がわずらわしく、「一人きり」になりたいと思う場合もあるかもしれない。しかし実際に一人きりになり、退転してしまえば、どれほど寂しいか。どれほど、わびしいか。同志とともに、喜怒哀楽を繰り返しながら、にぎやかな″人間の世界″で生き抜いてこそ、成長できるのである。
このように、サーツ女史は優れた哲学者であり、人間主義者であった。
人間主義とは、何も高尚な理論である必要はない。どこまでも人間を信ずること、人間と人間を結ぼうとすること。ここに人間主義がある。つまり「友情」をつくっていくことである。
友情は強い。学会も、根底は友情である。同志愛である。異体同心の信心の団結である。それがあって、組織の機構がある。それを反対にしてはいけない。
組織は、友情を、同志愛を、そして信心を深めるための手段である。それをあべこべにしたら大変である。組織を目的にした場合には、権威主義の組織悪になってしまう。
ともあれ、友情を地域に社会に広げゆく学会活動は、毎日毎日、「人生の宝」を積んでいるのである。
私どもは信仰者である。「あの人は素晴らしい!」「ああいう人間に、なりたいな!」――人々から、そう思われる人生を生きていただきたい。人生の「人間革命の劇」を自分らしく、つくっていただきたい。
「人間革命」とは何か
きのうまで遊んでばかりいた人間が、きょうから勉強を始めた。これも、ひとつの人間革命である。
きのうまで、あまり御書を読まなかった人間が、きょうから御書を読み始めた。きのうまで、あまり働かなかった人間が、きょうから朝早く起きて働き始めた。
これも人間革命である。何でもいい、自分らしく自分自身を革命していくことである。″自分が変わる″ことである。
日々、自分らしく、自分の人間革命の劇をつづっていくのが最高の人生である。その成長の姿それ自体が、偉大な折伏なのである。
「まことのとき」に戦う人が賢者
ここで御書を拝したい。これまで繰り返し拝してきた「開目抄」の一節である。
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」
――我ならびに我が弟子は、諸難があろうとも、疑う心がなければ、必ず自然に仏界にいたるのである。諸天の加護がないからといって、(法華経の大利益を)疑ってはならない。現世が安穏でないことを嘆いてはならない。我が弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、(大難が起こってみると)疑いを起こして、皆、信心を捨ててしまったのであろう。愚かな者の常として、約束した事を、(まさに、その約束を守るべき)本当の時には忘れるのである――。
「自然に仏界にいたる」――この一生を戦い通せば、必ず、仏になると仰せである。だからこそ、どんなにつらいことがあっても、「一生成仏」をとげなさい、と。
「一生はゆめ(夢)の上・明日をご(期)せず」である。一生は夢のようなものである。明日さえ、どうなるかわからない。自分でどうすることもできない。そのなかで、永遠に自由自在に生き抜ける自分をつくるのが「一生成仏」である。そのための信心である。そういう境涯を、つくれるかどうかが″今世の勝負″である。
生命の境涯を変える――これは科学でも経済でも政治の次元でも、どうしようもない。仏法しかない。その仏法に、私どもは今世でめぐりあったのである。
いったん、この地球で一生成仏すれば、次は、地球以外の仏国土に生まれることもできる。この地球だけが人間の住むところではない。宇宙には無数の国土がある。そのなかでとくに悪い国土が、この裟婆世界なのである。
たとえば「四恩抄」には「此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば人の心もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず」云々とある。
「法華経の大利益を疑ってはならない」――長い目で見れば「大利益」は必ずある。一時は悪く見えても、絶対に「変毒為薬(毒を変じて薬となす)」できる。
「現世が安穏でないと嘆いてはならない」――安穏であれば、生命は鍛えられない。食べたい時に食べ、寝たい時に寝ていれば堕落しかない。
難と戦ってこそ、生命の金剛の大境涯はできる。ゆえに大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。
仏道修行に苦労は多いけれども、安穏なだけの人生では、とうてい得られない「人間革命」という大歓喜がある。だから大聖人は「まことの時にこそ、信心の約束を忘れてはなりませんよ」と、厳しく仰せになっているのである。
1996.12.16第6回本部幹部会
2018年4月2日
第1500回
「心の一法より国土世間も出来する事なり」
<一人の人間革命が
家庭を変え、地域を変え、社会を変え、国土をまで変える>
一、戸田先生が、最晩年、「方便品・寿量品講義」の締めくくりに掲げてくださった法華経の経文があります。
それは、寿量品の「我本行菩薩道(我は本 菩薩の道を行じて)」(創価学会版法華経482ページ)――。すなわち、仏の境涯を得るための根本の原因は、「菩薩の道」を行ずることであると明かされた一文です。この「菩薩の道」の究極こそ、南無妙法蓮華経を信じ、唱え、弘めゆくことであります。
その実践によって、誰人たりとも仏の境涯を開くことができると教えてくださったのが、末法の御本仏・日蓮大聖人であられます。
この大聖人の法理のままに、真の「菩薩の道」を行じているのは、誰か。戸田先生は、現実の娑婆世界の真っただ中で、あらゆる苦悩に立ち向かいながら、広宣流布に励みゆく学会員に他ならないと、高らかに宣言されました。
先生とご一緒に北海道を旅した折にも、勇敢に戦う愛弟子たちに、いつも慈しみの眼差しを注がれて、「大作、この人たちこそ、まことの地涌の菩薩だ。尊い仏さまだよ」と言われ、そして「北海家族と共に、牧口先生と私の故郷に、世界一の幸福の仏国土を築いてくれ!」と託されたのです。
一、御聖訓には、「心の一法より国土世間も出来する事なり」(御書563ページ)と仰せであります。
仏法の生命哲理の眼で見れば、様々な国土の違いも「心」から出てきます。
ゆえに、どんな境遇にあっても、妙法を受持するならば、今いる、その場所で、わが心を変革し、「人間革命」の挑戦を起こすことができる。
そして、一人から一人へ、その波動を広げながら、身近な家庭を変え、地域を変え、社会を変え、国土までも変えていける。この壮大なる実験証明を、我ら創価の師弟は、いずこにあっても示し切ってきました。
なかんずく、雄大にして峻厳な大自然の天地で、法華経に説かれる「三類の強敵」と敢然と戦い、「冬は必ず春となる」(同1253ページ)と楽土建設のドラマを、粘り強く勝ちつづってきたのが、わが誇りも高き北海道の宝友であり、さらにまた、ここに集われているSGIの各国・各地の皆さん方なのであります。
一、世界は、ますます不安と混迷の闇を深めています。だからこそ、我らは、大聖人の仰せ通り、「苦楽ともに思い合せて」(同1143ページ)題目を唱え抜き、日々、心に元初の太陽を昇らせて、「希望の光」「英知の光」「平和の光」を赫々と放っていこうではありませんか!
その意味において、思い出深き厚田の「戸田墓園」開園の折、共々に約し合った三つの指針を、改めて確認しておきたい。
第一に、「自身の人間革命を根本に!」。
第二に、「地域に友好・信頼の拡大を!」。
第三に、「一家一族の信心の継承、そして後継の育成を!」との3点です。
毎年、桜前線が日本列島を北上する絵巻の中で、戸田先生の像を彩る厚田の8000本の桜が咲き誇るのは、5月の上旬です。
4月の2日から5月の3日へ、創価桜の「対話の花」「功徳の花」「人材の花」を、いよいよ爛漫と咲かせゆく「歓喜に躍る花の旅」を、皆で心豊かに決意し合って、私のメッセージとします。
本部幹部会・北海道総会への池田先生のメッセージ 2018年3月26日(抜粋)
2015年7月11日
心の一法
<国土にも境涯が、我が一念で仏国土に!>
『心の一法より国土世間も出来する事なり』(総勘文抄、563㌻)との御聖訓は、仏法の奥義です。「一念」は即「三千」の次元に広がる。人間の「心の一法」のあり方しだいで、国土が善くも悪くもなる。
人類の精神史は、この「心の一法」の探求の歩みでもあったといって過言ではない。戦争も、飢餓も、地球環境の問題も煎じつめれば、すべて人間の「心の一法」に帰着するからです。
一念三千の法理に照らせば、国土にも「境涯」があります。「依正」──「依報(環境)」と「正報(主体)」は不二ですから、そこに住む人間の境涯が乱れれば、国土も荒んでしまう。人間の境涯が強く高く輝けば、国土も光を放っていくのです。
この青き地球を、平和と繁栄と幸福の光で包むには、「心の一法」を究め、深め、磨いていくことが、絶対に不可欠です。科学技術や情報技術も、この根本を疎かにすれば、人間の幸福に生かすことはできない。国土をも栄えさせゆく「心の一法」──その究極が、妙法への信心です。
戸田先生は「広宣流布への信心があるところが、仏の国土なのだ」と断言されました。
わが尊き地域本部(団地部・地域部・離島部・農村部)や社会本部(社会部・専門部)の方々をはじめ、学会の同志の奮闘は、力強く地域を、社会を支え守っています。皆様方が、一人ももれなく幸福と健康に輝く人生を勝ち飾ることが、そのまま一国の宿命転換の道となる。
庶民が立ち上がり、青年の熱と力を引き出すことが、国土全体の繁栄につながります。
その意味において、私とともに「″まさか″が実現」の歴史を打ち立てた関西をはじめ、宿縁深き同志が、幸福・勝利の人生を歩んでおられることが、私の何よりの喜びであります。
古くから、「天下の台所」と呼ばれてきた大阪。そして大関西。ある学者は、昭和二十年代から三十年代初頭の関西の庶民の熱気が、日本の高度経済成長の推進力になった、と着眼されていました。わが常勝関西が日本を動かしてきたのです。私がお会いした経済学者のサロー博士や、アメリカのシーファー大使など、多くの識者も異口同音に感嘆しているように、関西の力は、まだまだ無限です。
ともあれ、必死の一人の力は、百万軍に勝る。
「心の一法」を変革し、自分が変われば周囲が変わる。周囲が変われば世界が変わる。
混迷の闇が深いほど、仏法の智慧が光ります。勇気が光ります。私たちの前進は、日本、そして世界の輝ける未来を開く前進です。ゆえに、断じて歩みを止めてはならない。
戸田先生は叫ばれました。
「『仏法は勝負』である。本当の仏法は社会での大闘争の中にある。仏法を現実社会の中で行じ、人間のため、国のため、世界のために戦ってこそ、真の大聖入門下であり、真の革命児ではないか。これが創価学会だ」
御書と師弟(2008.12.11付聖教)
2015年6月16日17日
革心から革新へ
<真の社会改革は革心から>
社会の「革新」のためには「革心」すなわち、心を革めることが不可欠である――そのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。
日蓮大聖人は、「ただ心こそ大切なれ」(御書一一九二ページ)と仰せになっている。心は、一切の根本をなす。ゆえに、その心を常に磨き抜いていくことが肝要となるのだ。
社会改革がなされ、いかに優れた制度をつくり上げたとしても、それを運用していくのは人間である。
したがって、人間の心の改革がなければ、制度は形骸化され、悪用されるという事態も起こりかねない。そうなれば、より良き社会を築くことも、人びとが幸せを享受することもできない。改革の理想は、藻屑のごとく、権力を得た者の欲望の海にのみ込まれ、消え去ってしまう。
自身を見つめ、正すこと、すなわち「革心」なくしては、真の社会改革もない。
小説新・人間革命 革心 40
2015年4月11日12日
日々唱題し、
みずからを照らし、
境涯を深めよ!
<己心の「仏界」が強まれば、
他の人の「仏界」も確信できる>
かつて私はこう記した。
「昼は太陽と共に謳いながら 生命を燃やそう 夜は静かな月光の道で 友の休むのを待って自分という人間を考えよう」と。
多くの詩人や歌人が月をとおして人生を詠み、それはまた日本人、東洋人の、一つの精神史をつづってきた。いわば月は、心を映す鏡である。古来、人々は月に思いを託し、月と語り、月にわが人生を映して、心の内を見つめてきたのである。
人は“自分を見つめる”ことを忘れたとき、必ず進歩がなくなる。また、自分を見つめない人は、人間的な深みも魅力も出てこないし、最後は枯渇せざるをえない。
だからといって、ただ自分を見つめてばかりいて行動のない人には、前進も成長もない。大切なことは、実践のなかで自分を凝視しつつ、そこで深められた精神を、さらなる価値創造へのバネとしていくことである。
その意味で私どもは日々、御本尊に向かい、唱題することによってみずからを照らし、境涯を深めながら、限りなく前進していくことができる。これほど偉大な世界はないし、価値ある人生はない。
大聖人は妙一女に『御身は忽に五障の雲晴れて寂光の覚月を詠め給うべし』(御書1262頁)――あなたは、たちまちに五障の雲が晴れて寂光の覚月をながめられることでしょう――とのお手紙をしたためられている。
五障とは、爾前経において、女人は①梵天②帝釈③魔王④転輪聖王⑤仏の、どれにもなれない、とされた五つの障りのことである。しかし、たとえそのような身であっても、三大秘法の御本尊に真剣に題目を唱えるならば、「寂光の覚月」をながめられる自分になっていく。すなわち、仏界の悟りの知恵が輝いていく。
己心の「仏界」の満月に照らされた、その「知恵」の光は自身を見つめさせ、同時に他の人をも導く根源の力となる。そして自身を照らす光が強ければ強いほど、他人への洞察や尊敬が深くなり、慈愛も深まっていく。指導の力も深まる。
「守護国家論」の中で、大聖人は『内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕われず』(御書67頁)――自身の仏界を知らないうちは、外の諸仏も姿を顕さない――と述べられている。
この御文は「十界互具」の意義を説かれたものである。また、私どもの信心の一念についても重要な示唆をあたえてくださっていると拝する。すなわち、己心の「仏界」の光が強まれば強まるほど、他の人の「仏界」も確信できる。本来、仏であるという本源的な尊敬の念が起こってくるのである。
反対に、権威をカサに仏子を見くだし、“我尊し”と威張っている人間は、それ自体、己心の仏界を現じていない証拠である。
当然、「自分を見つめる」力もない。成長も止まる。堕落が始まる。人からも信用されない。そして表には立派そうに振る舞いながら、なかには裏で学会を利用しようと策動する者さえ出てくる。まことに“偽りの精神生活”である。それが、責任ある立場にありながら退転し、反逆した人間の正体でもあった。
信心の世界は全部「自分」の内実がどうかが根本である。表面的な“組織の論理”で決まるのではない。
大切なのは、いわゆる話のうまさでも、多くの人を動かしていく立場でもない。どこまでも信心である。一個の人間として、信仰者として偉大なる境涯を開いていくことである。それが自身の成仏を決定していく。また実質的に広宣流布を進めていくのである。この原理・原則を、私は厳然と言い残しておきたい。
1989.9.15 第二十一回本部幹部会
2015年2月5日
ただ心こそ大切なれ
<「慢心」と「真心」>
昨日、ある人と語りあった。御書全編を通しての大聖人の仰せは、つまるところ何だろうかと。その一つの結論として、まず「御本尊根本」ということである。(中略)妙法のみを純粋に唱え行じきっていくという「但南無妙法蓮華経」の一念である。
そして「ただ心こそ大切なれ」(御書1192頁)の御聖訓である。これらが、もっとも要となるともいえるのではないかということになった。
とくに後者については、たとえ御本尊を受持し、題目を唱えていても、自身がいかなる信心の「心」であるのか。広布へと向かう「心」なのかどうか。その奥底の「心」が一切を決める。
幸・不幸、成仏・不成仏、また仏界の方向へ行くのか、苦悩の境涯へ向かうのか。すべては、わが一心の妙用であり、厳しき結果である。この一事は、どれほど強調しても、しすぎることはない。
宇宙にも心法すなわち「心」がある。自身にも「心」がある。自身の信心の「心」が、宇宙にも通じていく。まことに心には不可思議なる働きがある。
わがままな心、愚痴と文句の心、疑いの心、要領主義の心、慢心、増上慢の心などは、自他ともの不幸の因である。
それらにとらわれてしまっては、飛行機が濃霧の中をさまようようなものである。何ひとつ定かには見えない。善悪の基準もわからなくなる。自身のみならず、乗客ともいうべき眷属も不幸に堕としてしまう。
また「慢」の心とは、たとえていえば、暴れ馬が止まらないで狂ったかのように、心がグルグルと駆けまわっていて、自分で自分がわからなくなっているようなものだ。そばにいる人たちも、けとばされてしまう。要するに、人間として正常ではない。また、自分が思っているのとは正反対に、少しも偉くはない。それどころか、慢心とか増上慢の人は、仏法上、いちばん危険な人物である。
反対に、友を思う真心、主義主張に生きる信念の心、広布への使命を果たそうと戦う責任の心、仏子を守り、尽くしきっていこうという心、感謝と報恩と歓喜の心は、自身のみならず、一家も一族も、子孫末代まで、無限に福徳を開いていく。諸天善神が守りに守っていく。まっすぐに成仏への軌道を進めてくれる。ゆえに「心こそ大切なれ」との仰せを、強く深く胸に刻んでの一生であっていただきたい。
1988.2.25第1回各部代表者会
2014年12月20日
信心は強盛かつ純粋に、
必ず所願満足の境涯に!
<御本尊も題目も同じだから方程式も同じ!>
「信心は強盛かつ純粋でなくてはなりません。それが大聖人の仰せだからです。
御本尊も題目も同じだから、会長であっても、支部長であっても、地区部長でも班長でも、全部、方程式は同じです。信心の強盛な人が功徳を受けるのです。
信心が強盛であれば、悠々たるものだ。洋々たる気持ちで、広々とした気持ちで、信心をしていってほしい。あくせくする必要はありません。笑みを湛え、朗らかに題目をあげて、一家和楽の生活をし、生命力豊かに、楽しく生活をしていく。そして、有意義に、晴れ晴れとした気持ちで学会活動に励めば、信心即生活のリズムになるのです」
「大聖人の仏法は冥益です。今日、題目をあげたからといって、明日、一切が良くなるとは限らない。しかし、仏法は因果倶時ですから、信心した以上、幸福になるべき一切の根本が決まっているようなものです。
種を蒔けば、必ず花が咲く。10年、20年と信心に励んだ人が、『これほどまでに幸せになった』『ありがたい。想像もしなかった幸福生活である』となる。これが所願満足です」
「御本尊だけは離さないで、所願満足の境涯をつかみ切っていただきたい。これが私の、心からの願いです!」
大白蓮華No.781号2014.12月号18頁
2014年11月30日
無限の希望、無量の力を開く
「志ざし」
人間の心ほど、偉大なものはありません。
心には、無限の希望があります。
心には、無辺の福徳が収まります。
心は、無量の力を発揮します。
個人の宿命転換も、民衆の幸福の実現も、平和社会の創出も、すべては、まず、人間の心の変革から始まります。
「一心の妙用」※1です。
心には、不思議な働きがあります。
日蓮大聖人は「心の不思議を以って経論の詮要と為すなり」(御書564頁)と仰せです。仏法は、この心の無量の宝の蔵を開くための価値創造の教えです。
「心こそ大切」です。
すべては「志ざし」で決まります。
その時、その瞬間、心がどう感じ、どう決意し、どう行動を起こすか。それによって、結果はいくらでも変わります。それが「信心」です。一念三千です。人間の真の大きさは、その心に何を持っているかで決まります。
※1 「一心の妙用」衆生の生命に具わっている本有の不可思議な働き
大白蓮華No.781号2014.12月号勝利の経典
2014年11月17日
「心」が変われば一切が変わる
<「できると思えば必ずできる」>
「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」(『お気の召すままに』、『シェークスピア全集Ⅳ』)
仏法が教えるのは、人生劇の「脚本(シナリオ)」を書くのも、「演じる」のも、自分自身ということである。
他の何ものかが、脚本を書くのではない。自分が書いて、自分が名優として演ずる。これが「一念三千」の法理にこめられた、きわめて積極的な人生哲学である。
自分が作家で、自分が主人公である。大切なことは、すばらしい劇(ドラマ)を演じるためには、まざまざと鮮やかに目に浮かぶまで、“脚本”を頭にたたきこまねばならないということである。心の中でリハーサル(練習)も必要かもしれない。「勝利劇」の目標(受験や、会社の成績など)を、紙に書いて、何度も何度も心にしみつくまで繰り返すことが効果的な場合もあろう。
ある男の子は、小さいころの事故で片足が短くなった。しかし両親は、どんなことでも、「お前にはできない」とか「お前には無理だ」とか、絶対に言わなかった。何でも他の子どもと同じようにさせ、スポーツもさせた。「できると思えば必ずできる」「『できない』としたら、お前が、やる前に『できない』と思ったからだ」――と。
それは精神主義や観念論ではなく、人間の潜在能力(眠っている力)への確信であった。その子は、学生時代はフットボールの名選手となり、社会でも成功した。
ロシアの作家ゴーリキーが「才能とは、自分を信じることだ、自分の力を信ずることだ」と。
イギリスの大小説家ウォーター・スコット(1771年―1832年)は言っている。
「臆病な人間にとっては一切は不可能である。なぜなら、彼には一切が不可能に見えるからだ」(中略)
御書には、華厳経(大乗仏教の経典)を引いて仰せである。『心は工(たくみ)なる画師(えし)の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し』(564頁)――「心」は、すぐれた画家が自在に種々の姿を描くように、世の中のあらゆる現象を造りだしていく――。
『心の外に別の法無し』(同頁)――心の外には別の法はない(すべての現象は心の産物である)――。
大聖人の御手紙を拝するとき、つねに相手に応じた“たとえ”を引かれ、“文証”を引かれて、何とか「心」を変えよう、「一念」を強めよう、「確信」と「自信」をあたえようとされている。
つねに「希望」と「励まし」を太陽のように送っておられる。「心」が変われば「一切」が変わることを熟知されていたからであろう。
大白蓮華No.776号2014.7月号52頁
2014年10月25日
友よ、精神の世界で勝て!
(前略)
私の誓いは/言葉だけのものではない。
私自身の/魂の名誉と/勝利のためのものだ。
人々の嘲笑などは/くだらぬことだ。
人々の嫉妬の悪口などは/くだらぬことだ。
人々の/危険をはらんだ富など/真っ平だ。
人々の見栄の出世に/焦燥していく姿は哀れだ。
我々には
権力よりも/名誉よりも/財宝よりも
一瞬また一瞬/そして
永遠に屈折なき/無限の安住の/幸福の魂の城が/輝いている。
精神の世界で/勝った人は/すべての世界に/勝った人だ。
精神の世界で/脱落した人には
いかなる名声も/嵐の前の/貪欲な群衆の陶酔にすぎない。
(中略)
友よ/来れ!
真実の友よ/来れ! と
忘れ去られた舞台から/今一度/金の星に見つめられながら
悲劇を去って/喜劇の歓びの舞を/見せてゆけ!
(後略)
聖教新聞2014.2.9付「生命の栄冠 人間の凱旋門」より
2014年10月7日
「心の財」を分かち合おう!
何ものも恐れない、何ものにも屈しない。どんな苦しみも喜びに変えられる――この信心こそ、究極の「心の財」です。(中略)
こに金剛不壊の信心という「心の財」に、黄金の輝きが備わっていくのです。負けない心、たくましい生命力、広々とした境涯、温かな人間性・・・要するに、風雪を越えた堂々たる人格です。
そうした人格に触れれば、皆がほっとする。安堵する。希望が湧いていくる。元気になる。
人に希望を贈ると、自分の希望は減るだろうか。相手が明るくなった姿に、自分もまた力をもらうはずです。それは、「心の財」を分かち合っているからでしょう。「心の財」は、分かち合えば合うほど、増えるのです。
大白蓮華No.779号2014.10月号67頁
2014年7月4日
「こころ」を
断じて破壊されるな!
宗教には、苦難が信仰を鍛えるという面がある。弾圧がむしろ発展のきっかけとなる場合があることは、古今東西の歴史が証明している。
大聖人は「堂舎を焼き、僧尼を殺すなど、権力の強制的は力をもってしては、仏法は失われることはない。むしろ悪僧が仏法を滅ぼす」と仰せです。本来、仏法を正しく持つべき聖職者こそが仏法を破壊するということです。
権力者による建造物の破壊は目に見えるが、悪僧の思想・宗教の誤りは目には見えない。その目に見えない狂いが仏法を滅ぼすのです。
人々がその狂いによって誤った行動をとるようになり、明らかに目に見えて異常だと分かるようになった時は、すでに手遅れになってしまう。
要するに、宗教で一番重要なことは、教えを信ずる人の「心」です。
弾圧を受けて法に殉ずる人は、むしろ「心」において勝利しているのです。「心」が破られなければ、仏法は滅びることはない。
「心」こそ大切です。だから本当の弾圧は、信仰者の「心」を破壊しようとする。(中略)
魔性に魅入られた権力が、信仰の心を破壊するために企(たくら)む常套手段は「離間工作」です。師弟の絆を断ち切り、和合僧を破壊しようとする謀略です。
御書の世界(下)第十章 佐渡流罪
2014年7月2日
人の振舞こそ“心の財”
山本伸一は、草創期以来、東北の同志を、じっと見続けてきた。そのなかで実感してきたことは、どんな困難に遭遇しても、決して弱音を吐かないということであった。
東北の人びとは、冷害をはじめ、チリ津波など、さまざまな災害に苦しんできた。
しかし、彼らは、「だからこそ、御本尊がある!」「だからこそ、地域中の人たちを元気づけるために、俺たちがいる!」「だからこそ、広宣流布に一人立つのだ!」と、そのたびに、一段と闘魂を燃え上がらせてきた。
苦難の烈風に叩きつけられ、倒れ伏した大地から、敢然と頭を上げ、立ち上がる姿をもって、学会への理解と共感の輪を広げてきたのが、東北の同志である。
この宝友たちが示した信仰の最大の実証とは、“蔵の財”を得て、物欲を満たすことではなかった。「人は、ここまで強くなれるのか! ここまで他者を思いやれるのか!」という、人間のもつ、まばゆいばかりの生命の輝きをもって、“心の財”をもって、真実の仏法の力を証明してきたことだ。
日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書一一七四ページ)と仰せである。仏法という大法は、人間の生き方、行動のなかにこそある。
伸一は、そうした東北の同志を思うにつけ、東北広布は、やがて一段と加速し、“広布模範のみちのく”が現出することを、強く確信するのであった。
小説 新・人間革命 27巻 求道15
2014年4月29日
「やろう!」と決めると全てが動く
「やろう!」と決めることが大切である。心が動けば、その方向に頭脳も体も環境も動き出す。
戸田先生の若き日の日記に、印象深い一節がある。1920年(大正九年)の春四月、牧口先生との師弟の出会いを刻んだ当時の決意である。
「国家の材、世界の指導者としての大任を授かるべく練り(=心身を鍛錬し)、(=その大任を)果たすべく(=自己を)磨かざるべからず。(中略)今日の人のそしり、笑い、眼中になし。最後の目的を達せんのみ」と。
目先の毀誉褒貶などに紛動されているようでは、まことの人格はつくれない。卑しい低次元の批判など眼中に置くな!
つねに、一流の書、一流の人にふれ、自分自身を高めよ!
これが、牧口先生とあい通ずる戸田先生の一貫した生き方であった。ゆえに、青年が、一流の書を読まなかったり、低俗な書などを読んでいると、先生は烈火のごとく叱られた。(中略)
私は、ハーディング博士の言葉を忘れることができない。
それは、「私の根本の信念は、すべての人間に、創造的な力が備わっているということです。平和で正しい社会をつくる能力がある。しかし、それは、十分に開発されていません。これをどう開発するか。これが、二十一世紀の課題です」と。
創価大学は、二十一世紀文明の創造と開拓の最前線にいる。また、そうでなければ、意味がない。諸君は、この学舎で、世界に友情を広げながら、気宇壮大に「地球次元のリーダーシップ」を発揮していただきたい。
1996.4.2創価大学第二十六回入学式、創価女子短期大学第十二回入学式、新疆大学名誉学長就任式
2014年4月25日
心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し
命をかけなければ偉大な仕事はできない。
私は十九歳から、わが理想に命をかけている。ゆえに、どんな非難も中傷も恐れない。そう恩師に訓練された私である。
「いつ死ぬかしれない。きょう倒れるかもしれない。だから、きょう中にやっておこう」――こういう思いで生きてきた。妻がいちばんよく知っている。(中略)
どんな状況にあっても、心で決まる。心一つで変えていける。
仏法は「心は巧みな画家のようなものである」(「心は工なる画師の如し」華厳経大正九巻※)と説く。わが一念で、人生のカンバスに自在の絵を描いていけるのである。
※『心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く・・・』(三世諸仏総勘文教相廃立、564頁、編1227頁)サイト・マスタ
1996.11.3創価教育同窓の集い
2014年4月11日12日
指導の心
地元の幹部から、闘病中の会員がいることを聞いた伸一は、早速、翌朝には訪問し、激励した。包み込むように、病状などを尋ねたあと、確信をみなぎらせ、朝晩の勤行の大切さなど、信心の基本を語っていった。
同行した金田は、〝御本尊の功徳に浴すことができない同志を、一人として出すまい〟とする、伸一の強い慈愛を感じた。
〝これが指導の心なのだ!〟と思った。
金田だけでなく、伸一と一緒に活動に励んだメンバーは、彼の行動を通して、学会活動の在り方と、そこに込められた魂を体得していったのである。
(中略)
金田は、個人指導ノートを作り、会った人たちの状況や指導した内容などを、克明に記していった。そして、一人ひとりが、かかえている悩みを克服できるように、真剣に題目を送るとともに、定期的に連絡を取った。
彼女は、こう考えていた。
〝本人が苦悩を乗り越え、見事な信心の実証を示してこそ、個人指導が完結する!〟
支部員の幸せを祈って生きていくなかで、彼女自身がたくさんの功徳を受けた。板橋区から、練馬区にある電話付きの大きな家に転居し、家族も皆、健康になっていた。また、何よりも笑いの絶えない家庭になった。
小説 新・人間革命 27巻 激闘18,19
2014年3月30日
心の財は不滅の財
何のための一生なのか。いかに生きるべきか。この問いに答え、所願満足の一生を送り、しかも、他者の幸福を支え、社会の繁栄と平和建設に貢献していく――これ以上の「心の財」はありません。そして、この「心の財」は永遠です。
「身の財」「蔵の財」はこの人生を飾り得るものですが、「心の財」は三世を飾りゆく不滅の財です。
大白蓮華No.773号2014.4月号30頁
2013年9月28日
信心とは純粋な心の世界
信心の世界は、どこまでも温かく、思いやりのある。真剣で、真面目な世界である。
悩んでいる人を温かく励まし、希望を送る。真面目な人を、決して裏切らない、純粋な心の世界である。
純真こそ、信心の基本である。真剣こそ、力である。大誠実こそ、信頼の絆となる。
聖教新聞2013.8.25付今日も広布へ33
2013年6月6日
2013年5月22日
2013年5月20日
2013年4月10日
胸中の創価学会
「私のなかに創価学会がある」との決意で進んできた。胸中につねに「創価学会」をいだき、戸田先生、牧口先生の魂をいだいている。だからこそ私は強い。何ものも恐れない。また何があっても変わることがない。それぞれの立場で、「私が創価学会である」「私のなかに創価学会がある」との自覚で、誇らかに、また縦横に活躍していっていただきたい。
1989.4.25第14回青年部幹部会 全集(72)406頁
2013年4月2日
精神の王者は正々堂々
「わづかの小島のぬし」(御書911頁)とは、御本仏をお護りする大梵天王、帝釈天王らの"門番"ともいえる四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)らの家来(大国の王にあたる)の、そのまた家来にも及ばない、小さな「嶋の長」である。
いかに彼らがいばり、策謀をめぐらし、大聖人をおとしいれようとしても、大聖人の広大無辺なる御境界である"精神の王国"は、だれ人も侵すことはできない。まさに信心によって開かれる"精神の世界"の強さである。
そして一次元からいえば、この"精神の王国"の王者が、"地上の王"である権力に現実に打ち勝って、その悪用を封じ込めていくのが、広宣流布の戦いなのである。「立正安国論」においても、大聖人は妙法を信仰すれば国土も安穏となると教えられて、国主を「妙法に帰依させよう」とされたのであり、権力者に「信心してもらおう」などというのではない。そんな媚びへつらいなど微塵も述べられてはいない。正法さえ厳然と確立されれば、必ず安穏に繁栄した国土が築かれていくことを、国主に堂々と示され、教えられたのである。
1989.6.26第18回本部幹部会 全集(72)561頁
2013年3月1日
真剣に全てが
新・人間革命第12巻新緑
2013年2月27日
今こそ『貧女の一灯』の如し
小説 新・人間革命 26巻 勇将 13
2013年1月31日
大切なのは心
小説 新・人間革命 26巻 法旗 42