仏法西還
2021年11月25日
第1799回
強き決意の一念で
一切が決まる!
<人間革命は「一念の変革」から始まる!>
人生の戦いも、広布の活動も、すべては強き決意の一念によって決まる。
敗北の原因も、障害や状況の厳しさにあるのではない。自己自身の一念の後退、挫折にこそある。
山本伸一が会長に就任して以来、未曾有の弘教が成し遂げられてきた源泉も、彼の確固不動なる一念にあった。それは戸田城聖の弟子としての、誇り高き決定した一心であった。
〝先生の構想は、必ず実現してみせる!〟
それが、伸一の原動力であり、彼の一念のすべてであったといってよい。
伸一には、障害の険しさも、状況の難しさも、眼中になかった。困難は百も承知のうえで、起こした戦いである。困難といえば、すべてが困難であった。無理といえば、いっさいが無理であった。
人間は、自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。そして、それが動かざる〝現実〟であると思い込んでしまう。実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。
伸一は今、一人ひとりの一念の変革を成そうとしていた。人間革命といっても、そこに始まるからである。
<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 19頁~20頁
2021年11月26日
第1800回
呼吸を合わせよ!
<互いに補完し合う強き団結を!>
伸一は、ここでも幹部自らの一念の変革を訴えた。勝利の太陽は、わが胸中にあり。臆病という、己心の敵を討て──と。
さらに、呼吸を合わせることの大切さを強調した。
「組織の強さは、どこで決まるか。それは団結であり、幹部が呼吸を合わせていくことです。幹部同士の呼吸が合わない組織というのは、一人ひとりに力があっても、その力が拡散してしまうことになります。
たとえば、会合で支部長が『学会活動をしっかりやって、功徳を受けていきましょう』と指導する。それに対して、隣にいる副支部長が『生活を離れて信心はない。仕事を一生懸命にしよう』と言えば、まとまる話も、まとまらなくなってしまう。
あるいは、支部長が『わが支部は教学をしっかり勉強していきたい』と言った時に、『実践のない教学は観念です。折伏しなければ意味がない』と支部の婦人部長が言えば、聞いている人は、何をやればよいのかわからなくなってしまう。
これは呼吸が合わない典型です。どの人の話も学会が指導してきたことではありますが、これでは、指導が〝対立〟して混乱をきたすことになる。
これは、呼吸を合わせようとしないからです。呼吸が合えば、同じ趣旨の発言をしても、自然に言い方が違ってきます。
たとえば、支部長が『教学をやりましょう』と言ったら、『そうしましょう。そして、実践の教学ですから、題目を唱え、折伏にも頑張っていきましょう』と言えば、聞いている人も迷うことはない。これは〝対立〟ではなくて、〝補う〟ことになります。
野球でも、強いチームは巧みな連係プレーができます。一塁手が球を追えば、誰かが代わりに一塁に入っている。これも呼吸です。一塁を守るのは彼の仕事だから、自分には関係ないといって何もしなかったら、試合には勝てない。
また、ランナーが出て、得点のチャンスとなれば、自分がアウトになっても、送りバントや犠牲フライを打つこともある。大切なのは、自分を中心に考えるのではなく、勝利という目的に向かい、呼吸を合わせていくことです。そこに、自分自身の見事なる成長もある。
ともかく、今年もまた、鉄の団結をもって、壮大なる凱歌の歴史を開いていこうではありませんか」
<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 21頁~23頁
2021年11月22日
第1794回
生命とは何か
(1/5)
<永遠の生命と因果の理法>
伸一は、笑いが静まると、力を込めて語り始めた。
「これは極めて大事な問題です。
死の解明は、
人間の、そして、宗教の重要なテーマです。
いくら語っても、
語りつきない問題ですので、
今日は、その一端だけ、お話しましょう。
現代人のなかには、
生命というのは、
今世限りだと考えている人も多いようですが、
もしも、生命が永遠でなければ、
生まれながらの不公平を、
どうとらえればよいのかという問題が残ります。
日本の国に生まれる人もいれば、
香港に生まれる人も、
アメリカに生まれる人もいる。
あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。
さらに、金持ちの家に生まれる子もいれば、
貧困の家に生まれる子もいる。
生まれながらにして、
不治の病に侵されていたり、
不自由な体で生まれてくる子どももいます。
生まれる境遇も、
顔や姿も、千差万別です。
まさにもって生まれた宿命という以外にありません。
もし、神が人間をつくったのであるならば、
皆、平等につくるべきです。
また、生命が今世限りなら、
不幸な星の下に生まれた人は、
親を恨み、無気力にならざるを得ません。
あるいは、何をしようが、
おもしろおかしく生きていけばよいと考え、
刹那主義に陥ってしまうことになる。
この宿命が、
どこから生じたのかを、
徹底して突き詰めていくならば、
どうしても、
今世だけで解決することはできない。
生命が永遠であるという
観点に立たざるを得ません」
伸一は、参加者に視線を注いだ。皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。
「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、
この宿命の根本原因を明かし、
宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。
では、仏法では、
宿命はいかにしてつくられると、説いているのか──。
自分以外のものによってつくられたのではなく、
過去世において、
自分自身がつくり出したものだというんです。
少し難しくなりますが、
身・口・意の三業の積み重ねが、
宿業となるのです。
つまり、
どのような行動をし、
何を言い、
何を思い、考えてきたかです。
たとえば、
人を騙し、
不幸にしてきたり、
命を奪うといったことが、
悪業をつくる原因になります。
さらに最大の悪業の因は、
誤った宗教に惑わされて、
正法を誹謗することです。
これは生命の根本の法則に
逆行することになるからです。
(つづく)
2021年11月23日
第1795回
生命とは何か
(2/5)
<死ねばどうなるのか? 宿業とは?>
さて、人間は、
死ねばどうなるのかという問題ですが、
生命は大宇宙にとけ込みます。
戸田先生は、その状態を、
夜になって眠るようなものであると言われている。
さらに、
眠りから覚めれば新しい一日が始まる。
これが来世にあたります。
生命は、
それを繰り返していくのです。
ここで大事なことは、
死後も、
宿業は消えることなく、
来世まで続くということです。
たとえば、
一晩、眠っても、
昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。
今世の苦しみは、
また来世の苦しみとなります。
今世で、
七転八倒の苦しみのなかで死ねば、
来世も同じ苦を背負って生まれてきます。
人を恨み抜いて、
怨念のなかで死を迎えるならば、
来世も、
人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。
死んでも、
宿命から逃れることはできない。
ゆえに、自殺をしても、
苦悩から解放されることはないんです。
反対に、
幸福境涯を確立し、
喜びのなかに人生の幕を閉じれば、
来世も、
善処に生まれ、
人生の幸福の軌道に入ることができます。
こう言うと、
なかには、
来世も宿業で苦しむなら、
生まれてこないで、
ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、
そうはいきません。
生まれる前の、
大宇宙にとけ込んだ状態であっても、
生命は苦しみを感じているんです。
ちょうど、
大変な苦悩をかかえている時には、
寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」
彼は、
生死という根本の問題を、
わかりやすく、噛み砕いて語っていった。
「現代の思想や哲学は、
今世のみに目を奪われている。
それは、地表の芽を見て、
根を見ないことに等しい。
ゆえに、
人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。」
(つづく)
2021年11月23日
第1796回
生命とは何か
(3/5)
<宿業転換>
伸一は話を続けた。
「それでは、
その宿業を転換し、
幸福を実現する方法はあるのか。
あります。
それを、
末法の私たちのために説いてくださったのが
日蓮大聖人です。
そして、
その方法こそ御本尊への
唱題であり、
折伏です。
それが、
生命の法則に則った最高の善の生き方であり、
歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する
唯一の道なんです。
こう申し上げると、
初代会長の牧口先生は、
牢獄で亡くなったではないか、
不幸ではないかと言う人がいます。
しかし、
一番大切なことは、
死を迎えた時の心であり、
境涯です。
苦悩と不安と恐怖に怯えて息を引き取ったのか、
獄中であっても、
安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。
牧口先生は獄中からの便りに、
経文通りに生き抜いた大歓喜を記されている。
また、学会員でも、
病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、
思う人もいるでしょう。
その場合でも、
信心を全うし抜いた人は転重軽受であることが、
仏法には明確に説かれております。
つまり、
本来、何度も生死を繰り返し、
長い苦悩を経て、
少しずつ宿業を消していくところを、
今生で過去世の宿業をことごとく転換し、
成仏しているんです。
その証明の一つが
臨終の相です。
大聖人は御書のなかで、
経文のうえから、
体も柔らかいなど、
成仏の相について論じられています。
戸田先生も、
微笑むような成仏の相で亡くなりました。
私は数多くの同志の臨終を見てきました。
ともあれ、
広布のために、
仏の使いとして行動し抜いた人は、
いかなる状況のなかで亡くなったとしても、
恐怖と苦悩の底に沈み、
地獄の苦を受けることは絶対にない。
経文にも、
千の仏が手を差し伸べ、
抱きかかえてくれると説かれている。
臨終の時、
一念に深く信心があること自体が成仏なんです。
まさに、
生きている時は、『生の仏』であり、
死んだあとも『死の仏』です。
さらに、その証明として、
残された家族が、
必ず幸福になっています。
だから、
信心をし、
難に遭い、
いかに苦労の連続であったとしても、
退転してはならない。
難に遭うことは宿業を転ずるチャンスなんです。
永遠の生命から見れば、
今世の苦しみは一瞬にすぎない。
未来の永遠の幸福が開けているんです」
(つづく)
2021年11月24日
第1797回
生命とは何か
(4/5)
<先祖供養と先祖の成仏の証明>
日蓮大聖人は
「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書一四〇四㌻)と述べられている。
「死とは何か」の正しい究明がなければ、
人間として
「なんのために死ぬか」
「いかに死ぬか」を考えることはできない。
そうであれば、
「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。
生と死とは、
本来、表裏の関係にほかならないからである。
現代人は、
葬儀の形式などには、
強い関心をもち始めているが、
死という問題自体を、
徹して掘り下げようとはしない。
実はそこに目先の利害や虚栄、
快楽に流されがちな風潮を生み出している、
根本的な要因が潜んでいるといえよう。
山本伸一は、
ここで、先祖供養に話を移した。
「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、
どうしているかというと、
既に生まれ、
宿業に苦しんでいることもあれば、
まだ、生まれていない場合もあるでしょう。
あるいは、
生まれていても、
人間に生まれているとは限りません。
宿業のいかんによっては、
畜生、つまり動物に生まれることもある。
これは、経文に明確です。
むしろ、
人間に生まれることの方が、
はるかに難しい。
しかし、
先祖が何に生まれ、
どこにいて、
いかに苦しんでいても、
生者が正しい信仰をもって、
その成仏を願い、
唱題していくならば、
それが死者の生命に感応し、
苦を抜き、
楽を与えることができる。
南無妙法蓮華経は
宇宙の根本法であり、
全宇宙に通じていくからです。
ましてや、
畜生などに生まれれば、
自分では題目を唱えることはできないわけですから、
私たちの唱題だけが頼みの綱になります。
また、先祖が人間として生まれてきている場合には、
私たちの送る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、
仏法に縁し、
信心をするようになるんです。
したがって、
先祖を供養するには、
真剣に唱題する以外にありません。
お金を出して、
塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。
もし、そうだとするなら、
金の力で成仏できることになってしまう。
一方、信心を全うし、
成仏した人は、
死んでも、
すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、
引き続き歓喜のなか、
広宣流布に生きることができる。
そして、
先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、
さきほども申しましたように、
子孫である自分が、
幸福になったかどうかです。
それが、先祖の成仏の証明になります」
(つづく)
2021年11月24日
第1798回
生命とは何か
(5/5)
<一生成仏の千載一遇のチャンス>
人間は、
過去世も未来世も見ることはできない。
しかし、
三世にわたる生命の因果の理法を知る時、
いかに生きるかという、
現在世の確かなる軌道が開かれる。
そして、それが未来世を決定づけてゆく。
伸一は、情熱を込めて訴えた。
「私たちは今、
人間として生まれてきた。
しかも、
大宇宙の根本法を知り、
学会員として、
広宣流布のために働くことができる。
これは大変なことです。
たとえば、
森に足を踏み入れると、
その足の下には、
数万から数十万の、
ダニなどの小さな生物がいるといわれています。
さらに、細菌まで含め、
全地球上の生命の数を合わせれば、
気の遠くなるような数字になります。
そのなかで、
人間として生まれ、
信心することができた。
それは、
何回も宝くじの一等が当たることより、
遥かに難しいはずです。
まさに、大福運、大使命のゆえに、
幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。
ところが、
宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、
人間と生まれて信心ができたすばらしさがなかなかわからないで、
退転していく人もいます。
残念極まりないことです。
私たちにとっては、
この生涯が、
一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。
どうか、
この最高の機会を、
決して無駄にしないでいただきたい。
永遠の生命といっても、
いっさいは『今』にあります。
過去も未来も『今』に収まっている。
ゆえに、
この一瞬を、
今日一日を、
この生涯を、
感謝と歓喜をもって、
広宣流布のために、
力の限り生き抜いていってください。
ザッツ、オーケー?(よろしいですね)」
伸一が英語で話を締めくくると、
弾けるような声と明るい笑いが広がった。
彼が、
この質問に、
かなり長い時間をかけて答えたのは、
生死という人生の根本の
テーマを明確にしておきたかったからである。
<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 62頁~70頁
2021年12月3日
第1809回
東洋広布
忘れまじ!
日本が「地獄の使い」の歴史を!
<人間の幸福には、生命の根本的な解決が必要>
それから、夜更けて机に向かった。『大白蓮華』の編集部から依頼されている三月号の「巻頭言」を執筆するためであった。
彼は鞄から取り出した原稿用紙を開くと、「東洋広布」とタイトルを記した。
そして、冒頭に、「諫暁八幡抄」の、あの「仏法西還」を予言された御文を書くと、一気に筆を走らせた。
「インドに生まれた釈尊の仏法は、中国から、朝鮮を経て、日本に伝来した。それは、あたかも、月の輝き始める位置が、西天から次第に東天へ移る自然の道理と合致している……」
彼は、さらに末法に入り、日本に日蓮大聖人が出現して、三大秘法の大仏法を打ち立てられたことを述べ、今、その大法が新しき平和の哲理となって西に渡ることは間違いないと、烈々たる確信を記した。
そして、日本と東洋諸国との交流の歴史を振り返っていった。
「長い歴史の間には、兵火を交えるような不幸な事態も、幾度か繰り返された。なかでも、太平洋戦争中は、惟神の道をもとにした超国家主義が横行し、創価学会の幹部は弾圧をうけて投獄され、全東洋にわたって、多くの日本人が地獄の使いと化し、互いに悲しまなければならないこともあった」
伸一は、そこから、いかなる思想、宗教、哲学が、人間に幸福をもたらすかを論じた。そのなかで彼は、共産主義についても、生命の根本的な解決を図ろうとしない限り、行き詰まらざるを得ないことを指摘していった。
次いで、過去に、釈尊の仏法が東洋に広く流布され、民衆の幸福と平和に大きく寄与してきたことを述べたあと、今、まさに、日蓮大聖人の仏法が東洋に流布される時が来たことを訴え、こう結んでいる。
「東洋広布は、大聖人の御予言であらせられるとともに、じつに、われら末弟に与えられた御遺命なりと拝し、東洋広布への重大な一歩を踏み出さんとするものである」
伸一は、戸田の遺言通りに、東洋広布の第一歩を印した感慨を噛み締めながらペンを置いた。既に時刻は午前一時を回っていた。
<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 75頁~77頁
2021年11月27日
第1802回
家族(夫)の折伏
<思いやりにあふれた良き妻、良き母に!>
香港島に渡るフェリーのなかで、伸一は岡に話しかけた。
「今回、岡さんのご主人とお会いできなかったのは残念だったね」
「申し訳ありません。仕事が忙しいようなんです。それに、まだ信心ができずにいるものですから……」
「ご主人に信心をさせようと決意するのは当然ですが、家のなかで、信心のことでケンカをするようなことがあっては、絶対にいけませんよ。
ご主人に対しては、どこまでも妻として愛情をもって接していくことです。
壮年の場合は、会社での立場や、自分なりの人生観もあるから、すぐには入会しないかもしれない。しかし、信心によって奥さんが健康になり、子どもさんがすくすく育っていく姿を見ていけば、必ず信心します。
自分の家族の折伏は、理論ではなく、実証がことのほか大切になる。特に人間的な成長が肝要です。つまり、あなたが、どれだけ、思いやりにあふれた良き妻となり、良き母となるかにかかっている。そして、根本は祈りしかありません。お題目の目標を決めて、願い切っていくことが大事です」
伸一は、岡が香港の婦人のリーダーとして、自在に力を発揮できるように、彼女の夫のことを、気遣っていたのである。
<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 77頁~78頁
月氏
2021年12月11日
第1822回
ガンジー
(1/6)
一九四七年(昭和二十二年)の八月十五日、インドは長年のイギリスの植民地支配を脱し、遂に「独立」を達成した。
その日は、十九歳の山本伸一と戸田城聖との、運命的な出会いの翌日であり、彼にとっても、忘れ得ぬ〝時〟であった。
このインド独立の偉大なる〝父〟こそ、マハトマ・ガンジーその人である。
彼は、ある時、〝私の人生が世界へのメッセージです〟と語ったという。まさに、彼の人生、彼の行動そのものが、インド、そして、世界に大きな光を投げかけたのである。
五十年以上にわたる、ガンジーの休みなき戦いは、インドから遠く離れたアフリカの地で始まった。
一八九三年、二十三歳の時、彼はインド人の商人の顧問として、南アフリカに赴く。そこで体験したのが、「人種差別」の分厚い壁であった。
列車の一等車に乗ったガンジーは、「有色人種」であるというだけで、冬空の下に放り出される。彼は怒りに震えた。生涯にわたる人権闘争の契機となった、有名な「マリッツバーグ事件」である。
さらに、南アフリカでの用件を片付け、帰国しようとした矢先、南アフリカ在住のインド人の選挙権を奪う法案が提出されたことを知る。
〝この法案は、われわれインド人の柩に、最初の釘を打つものだ!〟
事態の本質を見抜いた彼は、一カ月ほど帰国を延ばし、理不尽な人権侵害と戦い始めた。ところが、その戦いは、実に二十年以上にも及んだのである。
この闘争でガンジーが組織したのが、「非暴力」の民衆抵抗運動であった。
一九一五年、南アフリカでの長い戦いに勝利し、帰国したガンジーを、同胞は英雄として迎えた。彼は四十五歳になっていた.。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 112頁~113頁
2021年11月27日
第1801回
見過ごすな!
国家神道の大罪を
<戦前、戦中は"国家神道"こそ「政教一致」>
明治憲法では、その第二十八条に「信教の自由」は規定されていたが、神社神道は国家の祭祀とすべきものであり、〝宗教に非ず〟として、国家の特別な保護下に置かれた。そして、事実上、国家宗教に仕立て上げられていったのである。
戦前、戦中と、軍部政府は、この国家神道を精神の支柱として戦争を遂行するために、その考えにそぐわぬ宗教を、容赦なく弾圧していった。そのなかで創価教育学会への大弾圧も起こったのである。
神札を祭らぬことなどから、「不敬罪」「治安維持法違反」に問われ、会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖をはじめ、学会幹部が相次ぎ投獄されていった。しかし、牧口も戸田も、「信教の自由」を守るために戦い抜いた。「屈服」は人間の「魂の死」を意味するからだ。そして、牧口は獄死したのである。
こうした歴史を繰り返さないために、現在の憲法で定められたのが、政教分離の原則であった。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 126頁~127頁
2021年12月1日
第1807回
政教分離
<悪用を許すな!>
日本国憲法の第二十条には、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とある。
そして、それに続いて、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と謳われている。
この条文は、「信教の自由」を確保するために、国や国家の機関が、その権力を行使して宗教に介入したり、関与することがないように、国家と宗教の分離を制度として保障したものである。そのために、特定の宗教団体が、国家や地方公共団体から、立法権や課税権、裁判権などの統治的な権力が授けられることを禁止したものにほかならない。
一方、宗教団体が選挙の折に候補者を推薦したり、選挙の支援活動を行うことは、結社や表現、政治活動の自由として、憲法で保障されている。また、そうして推された議員が、閣僚などの政府の公職に就くことも、それ自体は、決して政教分離の原則に反するものではないことは明白である。
ところが、それを逆手に取り、条文を拡大解釈し、宗教団体の選挙の支援や政治活動を違法だと言うなら、宗教者の基本的人権を奪うことになってしまう。さらにそれは、宗教を不当に封じ込め、差別しようとする、宗教弾圧以外の何ものでもない。しかし、〝学会は政教一致をめざしている〟といった意図的な喧伝が、この当時から行われていたのである。
伸一は話を続けた。
「こうした類いの学会への中傷が続くことは、覚悟しなければならない。
これまで権力をほしいままにしてきた人たちにとっては、民衆の側に立った政治を実現しようという学会員の議員が増えれば、自分たちの基盤が失われてしまうという、強い危機感があるからだろう。また、宗教界にしても、学会の前進に、大きな脅威をいだいている。教義をめぐっての論議となれば、敗北は明らかだからだ。
そこで、両者が手を結んで、学会を排斥しようとする。そのために、評論家やマスコミを使い、学会が国教化や一国支配の野望をいだく危険な団体であるかのように、喧伝しているというのが実情です。たとえ事実無根であっても、『反民主的』というレッテルを貼ることができれば、大きなイメージダウンになるからだ」
清原かつが、憤りを込めて言った。
「それにしても、卑劣な話だわ。島国根性は困ったものね」
マスコミの力は大きい。それが、ひとたび悪用されれば、無実の人が「悪」の汚名を着せられ、名誉も、人権も、社会的信用も、時には、生活の糧まで剥奪されてしまう場合もある。そして、その非道な仕打ちに対して、個人や民衆の集団は、あまりにも無力であるといわざるを得ない。
結局、マスコミを操作しうる権力者や勢力の横暴に対して、民衆は、泣き寝入りを余儀なくされてきたのが、厳しい現実であったといえよう。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 127頁~129頁
2021年11月30日
第1806回
アショーカ王が
仏教を国教化しなかった意図
<『信教の自由』の持つ意味>
森川一正が質問した。
「アショーカ大王が、仏教を国教化しなかったのは、どのような考えによるのでしょうか」
「当時の宗教事情も詳しく研究してみなければ、確かなことはわからないが、私の推測では、為政者として、今日でいうところの、思想や信教の『自由』を守ろうとしたからではないかと思う。それは、精神の独立の機軸であり、人間を尊重するうえで、最も根幹をなすものだからです。
また、宗教戦争を避けようと考えたからではないだろうか。
宗教戦争というのは、単に宗教上の教義の相違からではなく、宗教と政治権力とが結びつくところから起こっている。つまり、権力を得た宗教が、武力を背景にして、他の宗教を差別し、排斥すれば、抑圧された宗教もまた、武力をもってそれに抗することになる。
アショーカ大王は、平和を願う仏教徒として、そうしたことも考慮したうえで、今でいう、いわゆる『政教分離』を考えたように、私には思えてならないのだ」
山本伸一の話に、熱心に耳を傾けていた日達法主が頷きながら言った。
「なるほど……。深い考察ですね」
伸一は答えた。
「いえ、これはまだ推測にすぎません。もっと研究が必要です。
いずれにせよ、アショーカ大王が、仏教を国教化しなかった意味は大きいと思います。国教化されれば、仏教は、なんらかの強制力をもつことになります。そうなれば、人びとの信仰も、次第に自発的なものではなくなってくる。すると、形式上は仏教が栄えるように見えても、本質的には、仏教そのものを堕落させることになってしまう。
宗教は、どこまでも一人ひとりの心に、道理を尽くして語りかけ、触発をもって弘めていくものです。それには、それぞれの宗教が、平等に自由な立場で布教できなければならない。
そのなかで、人びとの支持を得てこそ、本物の宗教です。国教化や権力による庇護を願う宗教は、本当の力がない証拠ではないでしょうか。
学会がこうして折伏し、広宣流布ができるのも、憲法で『信教の自由』が保障されているからです。その意味でも、創価学会は、永遠に『信教の自由』を守り抜かねばなりません」
伸一の言葉には、力がこもっていた。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 130頁~131頁
2021年12月3日
第1810回
絢爛豪華の陰
<民衆の苦しみを見逃すな!>
タージ・マハルの庭を歩きながら、日達法主が伸一に語りかけた。
「昨日のジャマー・マスジッドも、また、このタージ・マハルにしても、立派で大きな建物ですね。日本とはスケールが違う。まさか、これほどとは思いませんでしたよ」
「確かに豪華で、立派ですね。しかし、強大な権力をもっての造営です。そこには、人びとの苦役という犠牲があります。私は、どうしても、その民衆の苦しみを考えてしまうんです。すると、この絢爛豪華な建物も色褪せて見えます。
私たちが、これから総本山に造ろうとしている大客殿は、権力によるのではなく、民衆の力によるものです。一人ひとりが喜びと誇りをもって、建設のための御供養に参加しようとしています。だから、最も尊いのではないでしょうか」
太陽の光に輝く白亜のタージ・マハルが池に映り、それが、微風の立てるさざ波に、静かに揺れていた。
日達が、微笑みながら答えた。
「確かにその通りです。権力というものは、いつかは必ず滅んでいる。ムガル帝国も、ほぼインド全域に勢力を広げましたが、最後は滅んでいます。でも、イスラム教という宗教は、今もこのインドに生き続けている」
伸一が言った。
「やはり、深く民衆の心に根差したからであると思います。結局、民衆とともに進むなかに、仏法の永遠の栄えがあるのではないでしょうか」
「そうです。本当にそうです。私は、そこに学会の強さもあると見ています。
今、私は五十八歳になりますが、山本先生が私の年になるころには、学会も、宗門も、広宣流布も、どのように発展しているかと思うと、本当に楽しみです」
日達と伸一の語らいは尽きなかった。この天地が興亡盛衰の歴史の舞台であったことから、二人の話は、自然に未来への展望と決意となって、弾んだのであろうか。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 145頁~146頁
仏陀
2021年11月28日
第1804回
偉大なる「人類の教師」の最期
(前半)
<人間仏陀>
釈尊は、すべてに平等であった。彼には、貴族も庶民も、男も女も、貧富の差も、関係なかった。王に法を説く時も、遊女に法を説く時も、彼の態度は決して変わらなかった。どんな人に対しても、同じ人間として接した。
やがて雨期に入った。
釈尊と阿難の二人は、ほかの弟子たちとしばらく別れ、毘舎離の近郊の竹林村にとどまることにした。
釈尊は、ここで病の床についた。旅の疲れに加え、インドの雨期の暑気と湿度が、衰えた老躯をさいなんだのであろう。病名は不明だが、彼は死ぬほどの激痛に苦しみ、悶えた。
しかし、釈尊は思う。
〝弟子たちに別れも告げずに、ここで、死ぬわけにはゆかぬ!〟
釈尊は、生命力を奮い起こして、病に挑んだ。病に伏す師匠・釈尊を前に、阿難はなす術もなかった。
釈尊は激痛をこらえ、不屈の精神力をもって、病魔を退けた。そして、久し振りに病の床から立って、外に出た。
阿難は、喜びを隠せなかった。
「世尊が病床にあった間は、私は心配で、何も手につきませんでした。でも、お元気な姿を見て、安心いたしました。世尊は、最後の大法を説かれない限り、亡くなるはずはないと、確信できました」
釈尊は静かに言った。
「阿難よ。お前は、何を期待しているのだ。私は、皆に、わけへだてなく、いっさいの法を説いてきた。まことの仏陀の教えというのは、奥義や秘伝などといって、握り拳のなかに、何かを隠しておくようなことはないのだ。全部、教えてあるではないか」
当時のバラモンたちは、大切なものを握り拳に隠すように、奥義は明らかにせず、死の直前に、気に入った弟子にだけ教えるのが常であった。しかし、釈尊は、そうした考えにとらわれていた阿難の心を打ち砕くように、万人に対して、真実の法を説いてきたことを宣言したのであった。
教団の混乱は、後に弟子たちが自らを権威づけるために、秘伝や奥義など、何か特別な教えを、自分が授かったと主張し始めるところから起こっている。
この話は、本来、仏法には、そうした特別な法の伝授などないことを明確に物語っている。すべての法が説かれた以上、あとは、その実践しかない。行動しかない。また、それが弟子の戦いである。
それから、釈尊は、自分の体は衰え、余命いくばくもないことを告げた。
阿難は、この師が亡くなったあと、自分は、何を頼りに生きていけばよいのかと思うと、たまらない不安と悲しさを覚えた。
すると、それを見透かしたように、釈尊は言った。
「阿難よ、強く生きよ。強くなるんだ。自分が弱ければ、どうして幸福になれようか。悩める人を救っていけようか。
そのために、自分を島とし、自分を頼りとし、他人を頼りとしてはならない。そして、法を島とし、法を拠り所とし、ほかのものを拠り所としてはならない」 揺るぎなき島のごとく、確かな「自己」によって、「法」によって生きよ──それは、釈尊が、生涯、説き続けてきた、核心ともいうべき教えであった。
(つづく)
<新・人間革命> 第3巻 仏陀 244頁~247頁
2021年11月29日
第1805回
偉大なる「人類の教師」の最期
(後半)
<人間仏陀>
涼風がそよぎ、木々の葉が揺れた。既に雨期は明けていた。
健康を回復した釈尊は、阿難に向かって言った。
「さあ、旅立とう!」
釈尊は、また、新しい村へと向かった。一つの村から、さらに次の村へと、彼の布教の歩みは続いた。
パーバーという村に来た時、釈尊は、鍛冶職人の在家信徒が供養したキノコ料理を食べた。すると、激しい下痢をした。下血もしていた。
しかし、彼は、それでも旅を続けた。喉の渇きを訴え、よろけながらも足を運んだ。
彼がめざしたのは、故郷の迦毘羅城に向かう道筋にある拘尸那城(クシナーラー)であった。故郷をひと目、見たいという思いもあったのかもしれない。
拘尸那城に着くと、釈尊は、沙羅双樹の木と木の間に寝床を用意するように、阿難に頼んだ。
「私は疲れた。横になりたい……」
つぶやくように言うと、阿難の整えた寝床に、身を横たえた。
阿難は、釈尊の死期が迫ったことを感じた。彼は泣いた。諸行は無常であることは、幾度となく釈尊から教えられてきた。しかし、師が永遠の眠りについてしまうかと思うと、泣かずにはいられなかった。
釈尊は、そんな阿難を気遣い、傍らに呼んで励ますのであった。
釈尊の死が間近に迫ったことを聞きつけ、町の人たちが、次々と訪ねて来た。人びとはそっと礼をし、目頭を拭いながら帰っていった。
そこに異教の遍歴行者の須跋陀羅(スバッダ)がやって来た。
釈尊に会って、教えを請いたいというのである。阿難は断った。
「世尊は疲れ切っておられる。重体なのです。世尊を悩ませるようなことは、おやめいただきたい。どうかお引き取りください」
しかし、須跋陀羅は引き下がらなかった。二人は押し問答になった。
そのやりとりを耳にしていた釈尊は言った。
「やめなさい、阿難。その方をお連れしなさい。聞きたいことは、なんでも尋ねればよい」
釈尊は、質問に答えて、諄々と法を説いていった。命を削っての説法であった。須跋陀羅は、感激して、弟子となることを申し出た。これが釈尊の最後の布教であり、須跋陀羅は最後の直弟子となった。
沙羅双樹の間にしつらえた寝床の上で、釈尊は、うっすらと目を開けていた。その木には、時ならぬ花が咲いていた。周りには弟子たちが心配そうに集っていた。
釈尊は静かに言った。
「私に聞きたいことがあったら、なんでも聞きなさい。今後、どんな疑問が起こるかもしれない。その時になって、聞いておけばよかったと、後悔しないように、今のうちに、なんでも聞きなさい……」
釈尊は、三たび繰り返したが、質問するものは誰もいなかった。臨終を前にして、なお、自分たちを教え導こうとする師の心に、弟子たちは感涙を抑えるのに精いっぱいであった。
阿難が、やっと口を開いた。
「これまで、世尊からさまざまな教えを賜ってまいりましたので、誰も、疑いや疑問はございません」
「そうか……。疑いの心がなければ、皆、退転することなく、正しい悟りに達するであろう」
それから、最後の力を振り絞るようにして言った。
「すべては過ぎ去ってゆく。怠りなく励み、修行を完成させなさい……」
こう告げると、釈尊は静かに目を閉じた。そして、息絶え、安らかに永久の眠りについた。
「世尊!……」
弟子たちは、口々に彼を呼んだ。
沙羅双樹の淡い黄色の花が、風に舞い、釈尊の体の上に散った。
これが、人間・仏陀の、偉大なる「人類の教師」の最期であった。
<新・人間革命> 第3巻 仏陀 247頁~250頁
平和の光
2021年12月7日
第1815回
戸田城聖先生の証明
<無私>
そのホテルには、戸田城聖が、生前、懇意にしていた実業家が宿泊していた。伸一もよく知っている人物であった。
夜更けて、この実業家が、伸一の部屋を訪ねて来た。二人の話題は、戸田の思い出になっていった。
「山本さん、戸田さんのすばらしいところは、学会を組織化したことではないだろうか。
そうしなければ、学会はここまで発展しなかったと、私は思う。これからは組織の時代だ。組織があるところは伸びる」
伸一は言った。
「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。
組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、組織化すれば、うまくいくかといえば、逆の面もあります。組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。
組織というのは、人間の体にたとえれば、骨格のようなものではないでしょうか。必要不可欠なものですが、それだけでは血は通いません。
戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。
私の知っているだけでも、先生から直接、指導を受け、人生の最大の窮地を脱し、人間として蘇生することができたという人が、何万人といます。苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、信心によって立ち上がることができたという事実──これこそが学会の発展の源泉です。
同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです。ゆえに、それぞれが戸田先生を自身の師匠と決めて、喜々として広宣流布の活動に励んできたんです。
同志は、決して先生の役職や立場についてきたわけではありません。ですから、もしも、戸田先生が会長をお辞めになっていても、先生は常に皆の先生であり、仏法の指導者であり、人生の師であったはずです」
実業家は、驚いたように伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、静かな声で言った。
「なるほど……」
「しかし、社会はそれがわからないんです。この同志の心を知ろうとしない。したがって、学会を論ずる評論家も、マスコミも、浅薄この上ない批判に終始してきました」
「確かにそうかもしれない。私も、学会のことはよくわかっているつもりでいたが、そこまではわからなかった。また、そうした学会への批判の背景には、おそらく嫉妬もあったでしょう。戸田さんへの、そして、学会の力に対する……。
正直なところ、私だって嫉妬したいくらいだ。今の世の中、金の力で動かせぬものはない。しかし、学会は、金の力なんかではびくともしない、偉大な精神の世界をつくってしまったんだから……。
こんなことは、誰もできやしないだろう。だから、ほかの勢力にしても、また、為政者にしても、悔しいし、怖いようにも感じるのだろうね」
実業家は、率直に自分の胸の内を伸一に語った。
「もう一つ、戸田さんのすごさは、あなたという後継者を育てたことではないかと思う。
戸田さんが亡くなった時は、これから学会はどうなるのかと思った。しかし、山本さん、あなたは見事にそのあとの流れを開いた。
学会は、空中分解するどころか、ますます大きくなった。たいていは、先代の中心者がいなくなった段階で、分裂していくものだ。あなたより、古参の幹部もたくさんいたはずだ。
あなたは、それを一つにまとめ、学会を引っ張り、今やこうして、世界にまで開こうとしている。その経営手腕はたいしたものだ。どうやって、人心を掌握しているのか、ぜひ教えてほしい」
「私には、そんな策や方法はありません。ただ弟子の代表として、戸田先生の言われた通りに実践し、その構想を実現しようとしているのです。そして、先生に代わって、ひたすら、会員を守ろうとしているだけです。
そのために自分をなげうっています。もし、学会を利用し、同志を足蹴にするようなものがいれば、誰であろうと、私は命がけで戦います。あえて申し上げるとすれば、無私であるということです。そこに皆が共感し、賛同して、ついてきてくれるんです」
「あなたのような後継者をもった戸田さんがうらやましい。いや、実にうらやましい……」
この実業家は、伸一と二時間ほど懇談すると、「勉強になった。ありがとう」と言い残して、ホテルの自分の部屋に帰って行った。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 264頁~268頁
2021年12月6日
第1814回
アジアの国々の犠牲のうえに、
日本の繁栄を考えてはならない
<戦う獅子>
一行は、この日の夜、大客殿の資材の購入を依頼している商社の、カルカッタの支店長から食事に招かれていた。
約束の午後七時に、伸一たちは、支店長の社宅を訪れた。支店長は一行を慇懃に迎えたが、どこか、人を見くびっているような態度が感じられた。
自己紹介が終わると、支店長は伸一に言った。
「会長さん、今や世界ですな。有能な企業は、いずれも世界に人材を出していますよ。ところで、創価学会の皆さんのなかにも、外国に出ている方がいらっしゃるのですか」
「たくさんおります。アメリカにも、ブラジルにも支部があります」
「ほう。そうですか。信者さんは、やはり、ご年配の方が多いのでしょうな」
「いいえ。青年が多く、各地の活動の推進力になっています」
「ほう。会長さんがお若いからですかね。私は、会長さんは、もっと年配の方かと思っていましたよ。信者さんは経済的にも大変な方が多いと聞いていますし、会長さんもお若いだけに、何かと大変でしょうな。しかし、若いということは未来がありますから」
支店長は、さらに、尊大な口調で語っていった。
「まあ、日本が国際舞台で活躍する道は、経済力をつけるしかありません。その基本は貿易ですよ。なかでも、これからはアジアとの貿易が大事になります。
アジア各国が、日本の経済協力を求める時代も来るでしょう。しかも、資源は豊富だし、人件費もまだ安い。はっきり言って、アジアには〝うま味〟がある。
ところが、このカルカッタというのは、非常に商売が難しいところで、なかなか抜け目がない。かなり商売上手でも、ここでは成功しないといいます……」
話を聞いていると、大手商社などの大企業だけが日本の国を担い、ことに自分が、その最前線でいっさいの命運を握っているといわんばかりである。
支店長は一方的に話し続けた。
「こうして現地で仕事をしていますとね、日本の外交官は頼りにならんのですよ。むしろ、私たちが交渉のルートを開き、あとから国が乗ってくることも少なくありません。最近の外交官には、自分が国家を背負って立つという気迫がないですな。
山本会長さんは、まだお若いのだから、宗教という面だけでなく、広く日本の国家や世界のこともお考えになることが大事ですよ」
伸一は、しばらく黙って話を聞いていたが、ニッコリ頷くと語り始めた。
「私は青年です。したがって、青年として、理想と信念を語らせていただきたいと思います」
支店長は、驚いたように伸一を見た。
伸一は、強い口調で語っていった。
「日本の経済の発展のうえでは、確かに商社などの役割は重要でしょう。ただし、アジアの国々を食い物にするようなやり方では失敗します。経済協力でアジアに金を出す。それは結構なことです。問題は、その国の民衆に、本当に貢献できるかどうかを考えることです。
経済力によって優位に立ち、その国をいいように利用し、巧妙に搾取するようなことは、絶対にすべきではない。つまり、アジアの国々の犠牲のうえに、日本の繁栄を考えてはならないというのが私の意見です」
支店長は、眉をひそめたが、伸一は語り続けた。
「日本はかつて、軍事力をもって、アジアを支配しました。戦後は、その反省から出発したはずです。それを今度は、経済力をもってアジアを支配するようなことをすれば、再び大きな過ちを犯すことになります。
あなたはインドにいらっしゃるわけですから、日本のことだけでなく、インドの民衆が豊かになるためには、何が必要なのかを、常に考えていくべきです。いわば、インドの人びとの幸福をめざし、共存共栄の道を真剣に探し求めていかなくてはならない」
支店長は、たじろいだ表情をしていたが、それでも虚勢を張って言った。
「共存共栄は、私どもの仕事の大原則でしてね」
「ところが、その大原則を忘れているケースがあまりにも多いのです。私は、それが残念なんです。
仏法は共存共栄の大原理を説いた哲学です。他者を犠牲にして自らの繁栄を考えるような、人間の傲慢さを革命する、生命の変革の哲理が仏法です。したがって、私は日本のため、世界のために、その仏法を弘めようとしているんです。本当に日本の国家を、世界の未来を憂えているのは私たちです。
今、私が申し上げたことは、十年後、二十年後に、より明確になっていくでしょう」
支店長は額に汗を浮かべながら、彼を見ていた。
伸一は、同行のメンバーに促した。
「さあ、いろいろとご意見もお伺いすることができたし、それでは、これで失礼しましょうか」
慌てて支店長が言った。
「いや、これから食事ですから、そうおっしゃらずに、ぜひ召し上がっていってください。お願いいたします」
それは、もはや哀願といってよかった。
伸一は相手の立場を思い、食事をご馳走になることにした。
師子には誇りがある。
山本伸一が商社の支店長に、あえて厳しく臨んだのは、学会を見下したような態度に対して、戸田城聖の弟子としてのプライドが許さなかったからである。また、アジア諸国への日本人としての傲慢さを、戒めておかねばならないと、感じたからでもあった。
伸一は支店長の社宅からホテルに帰ると、同行の幹部に語った。
「私たちは、食事を恵んでもらう必要などない。相手が学会をどう思おうと勝手だが、こちらも、言うべきことは言い切っていかなければならない。食事をご馳走になるために、学会への誤った認識を正さないというのは、あまりにも卑しい生き方です」
彼は戦う獅子であった。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 268頁~273頁
2021年12月8日
第1816回
長兄の死
<分け合った一枚の鏡の破片>
山本伸一の長兄の喜久夫は、インパール作戦の際には、前線への軍需品の輸送にあたっていた。作戦の中止後は、撤退部隊の援護などのために、ラングーンの北方約六百キロメートルに位置する、古都マンダレー西方のミンジャン付近で、渡河の輸送を担当した。このミンジャンは、イラワジ川(エーヤワディー川)とチンドウィン川の合流地点である。
そして、一九四五年(昭和二十年)一月十一日、イラワジ川の輸送任務中に、喜久夫の乗っていた船が、イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け、戦死したのである。二十九歳であった。
明朗快活で責任感と正義感の強い兄であり、弟妹からも慕われていた。
伸一は、兄たちのなかでも、ことのほか長兄の喜久夫に信頼を寄せていた。この兄とは、いくつもの忘れがたい思い出があった。
その一つが、長兄と分け合った一枚の鏡の破片である。この鏡は、母が父のもとに嫁いだ時に、持参した鏡であった。
まだ、伸一が幼い少年のころのことだ。何かの拍子で、その鏡が割れてしまった。長兄と伸一は、破片のなかから、それぞれ手のひらほどの大きさのものを拾った。それは二人の大切な宝物になった。
長兄は徴兵されると、その鏡の破片を持って出征していった。
伸一は、兄は戦地にあって、きっと、この鏡を取り出しては母をしのび、自分のことも思い出していたにちがいないと思った。
伸一もまた、破片を見ては兄をしのんだ。
最初、長兄は中国大陸に出兵していたが一時、帰国したことがあった。
その時、長兄は憤懣やるかたない様子で、戦争の悲惨さを伸一に語った。
「日本軍は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている! 平和に暮らしていた人たちの生活を脅かす権利なんて、誰にもありはしないはずだ。こんなことは絶対にやめるべきだ」
そして、最後に、涙さえ浮かべて言った。
「伸一、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。そんなことが許されるものか。皆、同じ人間じゃないか」
「でも、兄さんは帝国軍人でしょ」
「そうだ。そして、戦地を見てきたからこそ、私はお前に言うのだ」
その長兄の話が、いつまでも伸一の心に焼きついて離れなかった。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 284頁~286頁
2021年12月8日
第1817回
戦時下の軍国主義一色と
伸一の「苦悩」
<価値観の喪失と結核>
当時、伸一は国民学校に通っていた。一九四一年(昭和十六年)の四月から、国民学校令によって、彼が通学していた羽田高等小学校も、萩中国民学校に名前が変わっていたのである。国民学校令には、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」とあるように、学校は国のために忠義を尽くす、〝少国民〟を錬成する道場となっていった。
軍国主義は、幼い魂にも、刷り込まれていったのである。
伸一も国民学校で、国のために戦い、死ぬことが、臣民としてのまことの道であると教えられていた。それだけに、長兄から聞いた戦争の話は、衝撃的であった。
やがて、国民学校の卒業が近づいてくると、伸一は思い悩んだ。
自分も国のために役立ちたいとの強い気持ちから、少年航空兵になることを考えていたからである。
〝兄さんが言うように、戦争は残酷かもしれない。しかし、日本の戦争は東亜の平和を守る聖戦なんだ〟
伸一は、純粋にそう信じていた。しかし、父も、母も、彼が少年航空兵になることには、絶対に反対であった。それでも、伸一は志願した。
志願書をもとに、彼の留守中に、海軍の係員が訪ねて来た。
父親は、猛然と言った。
「うちは、上の三人とも兵隊に行った。間もなく四番目も行く。そのうえ五番目までもっていく気か。もうたくさんだ!」
父の気迫に、係員は「わかりました」と言って帰っていった。
伸一が家に帰ると、父親は彼を怒鳴りつけた。
「俺は、どんなことがあっても、お前を兵隊にはさせんぞ!」
常にない父の見幕であった。
伸一は不満を感じた。しかし、長兄が語っていた言葉が、彼の頭をよぎった。
「あとに残って、一家を支えるのは、伸一、お前だ。親父の力になってあげてくれ。それから、お袋を大事にな……。俺の分まで、親孝行するんだぞ」
伸一は、やむなく家の近くの新潟鉄工所に就職した。
会社は軍需工場として艦船部門の一翼を担っていた。社内には、青年学校が設けられ、工場実習、勉強のほか、軍事的な教育、訓練も行われた。
指導員は、生産力を上げることが、戦地で戦う兵士を守る力になると強調していた。
それを聞くたびに、伸一は長兄の喜久夫をはじめ、戦地にいる兄たちを思い、疲れ果てた体に鞭打って、仕事に全力を注いだ。
ある時、指導員がネジの切り方に関連して、方程式を黒板に書いて説明した。しかし、大雑把な説明でもあり、伸一は十分に理解できなかった。質問すると、指導員は一喝した。
「なに! そんなことはわからんでいい! 生意気なことを言うな!」
問答無用の、強圧的な態度である。
青年学校では、指導教官や上級生による往復ビンタも、日常茶飯事であった。工場、学校も、軍隊同様であり、国民は皆、兵士といってよかった。
このころから、伸一は咳き込み、発熱することが多くなっていった。
それは一九四四年(昭和十九年)の夏、猛烈な太陽が照りつける、昼下がりのことであった。青年学校の軍事教練で、木銃を持ち、蒲田駅近くの工場から、多摩川の土手に向かって行進していた時、伸一は、突然、気分が悪くなって倒れかけた。
「どうした!」
「大丈夫か!」
周りにいた友達が、彼を支えてくれた。
苦しかったが、その日はどうにか最後まで教練をもちこたえた。しかし、血痰を吐いた。
伸一は結核に罹っていたが、無理を重ねながら、仕事と教練を続けてきたのである。三九度の熱を押して、仕事をしたこともあった。リンパ腺は腫れて、頰はこけていったが、悠々と医者にかかれる身分ではなかった。ただ『健康相談』という雑誌だけを頼りに、せめて自分で健康に気遣うことしか、対応はなかった。といっても、食糧事情も最悪な時代であり、十分な栄養をとることもできなかった。
その後、やむをえず、事務系の仕事にかえてもらった。しかし、四五年(昭和二十年)の初めごろには、とうとう医師から、地方の結核療養所に入るように言われた。もはや病状は絶望的であったようだ。
このころになると、日本の敗色は濃厚になっていた。少年航空兵になった友達が、戦死したとの話も、彼の耳に入ってきた。国のために戦い、死んでいった友人がいるのに、病に侵され、何もできずにいる自分を、伸一は恥じた。
やがて、蒲田も大空襲に見舞われた。その時も、伸一は、長兄と分け合った鏡の破片をポケットにしのばせて、焼夷弾の下をくぐり抜けてきた。
空襲によって、入院の話も、いつの間にか立ち消えてしまった。
この胸の病は、戦後も、長く伸一を悩ませ続けることになる。
だが、何よりも彼を苦しめたのは、終戦による精神の空虚感であった。
天皇に殉じよと教え込まれ、国家を信じてきた伸一にとって、終戦は、すべての価値観の喪失にほかならなかった。
なんのための戦争であったのか。天皇とは、国家とは、正義とはなんなのか。人間とはなんなのか──敗戦の焼け跡に立って、彼は悩み、考え続けた。
その確かな答えを得るには、戸田城聖との出会いまで、戦後、二年の歳月を待たねばならなかった。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 286頁~290頁
2021年12月9日
第1819回
伸一の母
<母を泣かすな!泣かせるな!>
終戦を迎えると、山本伸一が勤めていた新潟鉄工所は閉鎖になった。彼は、蒲田の下丸子にある内燃機の会社に勤め、家計を支えた。
戦後の食糧難は、病身の伸一をさいなんだが、それにも増して、彼は知識に飢えていた。精神を満たしたかったのである。伸一は働きながら、夜学に通うことにした。校長の理解もあり、簡単な筆記試験だけで、この年の九月から、神田の三崎町にある東洋商業(後の東洋高校)の夜学の二年に編入を許可された。
翌一九四六年(昭和二十一年)の一月には三番目の兄が、八月には四番目の兄が、九月には二番目の兄が復員してきた。子どもたちが復員して来るたびに、父も母も明るさを増し、一家は活気づいていった。
しかし、長兄の喜久夫の消息は、依然としてわからなかった。家族がつかんでいた消息といえば、南方に向かったということだけであった。
長兄の話が出ると、母はこう言うのが常であった。
「大丈夫、大丈夫。きっと元気で戻ってきますよ。だって、『必ず生きて帰ってくる』と言って出ていったんだもの」
そう語ることで、必死に自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
終戦の日から二年近くが過ぎようとしていた、四七年(同二十二年)の五月三十日のことであった。大森の森ケ崎の家に、役所の人が訪ねて来た。ここは父の家作だったところだが、終戦直後から一家が住んでいた。
年老いた役所の人は、気の毒そうな顔で、一通の書状を母親に手渡した。長兄の戦死の公報であった。
母は丁重にお礼を言い、それを受け取ると、家族に背中を向けた。その背が小刻みに震えていた。声を押し殺すようにして、すすり泣く声が聞こえた。
その公報には「昭和二十年一月十一日、享年二十六歳 ビルマで戦死」となっていた。
この時点では、戦死の状況は何もわからなかった。また、長兄は二十九歳になっているのに、なぜか、公報では三歳も違っていた。年齢が違っているところから、家族の誰もが、戦死も間違いであってほしいと願った。
間もなく、遺骨も帰ってきた。それを目にすると、家族のはかない望みは打ち砕かれた。
伸一は、きっと長兄は、自分と分け合った母の鏡の破片を身につけたまま、息を引き取ったのだろうと思った。
母はいつまでも、長兄の遺骨を抱き締めていた。
彼女は、どんな時でも気丈であった。その母が打ち沈んでいる姿に、伸一の胸は痛んだ。
母の芯の強さを物語る、こんな思い出がある。
──戦争末期のことだ。蒲田の糀谷にあった家が、空襲による類焼を防ぐために取り壊しが決まり、強制疎開させられることになった。やむなく、近くの親戚の家に一棟を建て増して、移ることにした。
家具も運び込み、明日から皆で生活を始めることになった時、空襲にあった。その家も焼夷弾の直撃を受け、全焼してしまった。かろうじて家から持ち出すことができたのは、長持一つだった。
翌朝、途方に暮れながら、皆で焼け跡を片付けた。生活に必要な物は、すべて灰になってしまった。ただ一つ残った長持に、家族は期待の目を向けた。
しかし、長持を開けると、皆、言葉を失ってしまった。中から出てきたのは雛人形であった。その端に、申し訳なさそうに、一本のコウモリ傘が入っているだけであった。
長持を、燃え盛る火のなかから、必死になって運び出したのは、伸一と弟である。
伸一は全身の力が抜けていく思いがした。
家族の誰もが、恨めしそうな顔で、虚ろな視線を雛人形に注いだ。
その時、母が言った。
「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ……」
母も、がっかりしていたはずである。しかし、努めて明るく語る母の強さに励まされ、家族の誰もが、勇気が湧くのを覚えた。
焼け跡に一家の笑い声が響いた。母の胸には、〝負けるものか!〟という、強い闘志が燃えていたにちがいない。
しかし、そんな母にも、長兄の戦死の衝撃は大きかったようだ。遺骨を抱きかかえ、いつまでも背中を震わせて、泣き濡れていた。
伸一は、その姿を忘れることができなかった。
以来、父も、めっきりふけこんでしまった。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 290頁~294頁
2021年12月9日
第1820回
二十世紀は大量殺戮の世紀
<人間を手段とせず、目的とせよ!>
それから、十四年の歳月が流れようとしていた。
山本伸一の一行は、ラングーン市内の日本人墓地で、「大東亜戦争陣没英霊之碑」に向かい、日達法主の導師で読経・唱題した。
伸一は、長兄をはじめ、ビルマ戦線で死んでいった人びとの冥福を願い、真剣に祈りを捧げた。
唱題の声が、夕焼けの空に広がっていった。
伸一の唱題は、恒久平和への強い誓いとなっていた。
追善の唱題を終えると、彼は、心に長兄の顔を思い浮かべながら、日達に言った。
「ともに勤行していただき、ありがとうございました。兄をはじめ、ここで亡くなった戦没者の方々への最高の追善になったと思います」
伸一は、戦没者の碑の前に、しばらく佇んでいた。
彼は思った。
──戦争という愚行を、人類は決して犯してはならない。
しかし、振り返ってみれば、二十世紀は「戦争」と「革命」に明け暮れ、既に三分の二が過ぎようとしている。
そして、戦時中の日本に限らず、どの国も「民族」や「国民」のためと言いながら、結局は、権力が人間を利用し、手段としてきた。
伸一は「汝の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決して単に手段としてのみ使用しないように行為せよ」との、カントの言葉を思い起こした。
この〝人間を手段とせず、目的とせよ〟という原則は、国家権力にも例外なく適用されなければならないはずだ。ところが、国家対国家の戦いのもとで、その犠牲になるのは、いつも人間であり、無名の民衆ではなかったか。恐るべき本末転倒といってよい。
彼は二十世紀という時代が、大量殺戮に明け暮れてきたことを思うと、胸に、怒りと悲しみがあふれた。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 294頁~295頁
2021年12月10日
第1821回
稀代の悪法
”治安維持法”
<「思想統制の脅威」には、
「思想・信教の自由」で応戦せよ!>
二十世紀の開幕からまもない一九〇三年(明治三十六年)、若き日の初代会長・牧口常三郎は、処女作『人生地理学』において、社会と社会、国家と国家の生存競争に触れている。
そこで、牧口は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」の四つをあげて、人類史が「人道的競争」に向かうことを待望していた。
日露戦争が勃発する前年のことである。驚くべき、先見といってよい。
しかし、その後の世界は「軍事的競争」に狂奔し、戦争を繰り返してきた。日本もその当事国であった。その戦争によって、膨大な数の人間の血が流され、やがて、日本は敗戦という破局を迎えることになる。
戦前の日本を軍国主義一色に塗り固め、戦争へと暴走させる大きな要因となったのが、思想統制の問題といえよう。
なかでも、その代表的な例が、治安維持法の成立である。治安維持法は今日、希代の悪法として知られているが、それはどんな状況のなかで生まれたのだろうか。
第一次世界大戦は、大戦景気をもたらし、資本家を潤した一方、物価の高騰により、民衆の生活は逼迫していった。このため、米騒動も起こっている。
そうしたなかで、民本主義や社会主義、共産主義の運動をはじめ、労働者、農民、婦人など、さまざまな大衆的な運動が広がり始めたのである。
これらの運動は、言論、出版、結社の自由の獲得や政党内閣制、普通選挙の実施などを主張していた。いわゆる「大正デモクラシー」である。
そして一九二四年(大正十三年)、護憲運動の高まりのなか、政党政治が始まると、加藤高明護憲三派内閣は、二十五歳以上の全男子に選挙権を与える、普通選挙法の制定に踏み切ろうとした。
しかし、労働者や農民が選挙権をもち、普通選挙が行われれば、社会主義者などが選挙で当選し、衆議院に進出してくるであろうという恐れがあった。
さらに二五年(同十四年)一月に、日ソ基本条約が調印されると、共産主義思想の流入を防がねばならないとの危機感も広がった。
そこで内閣は、普通選挙法によって、政治的自由を拡大する一方で、思想統制に乗り出し、同年三月、普選法案の成立に先立って、治安維持法案を可決したのである。
以来、「国体の変革」をめざしたり、「私有財産制度」を否認する「結社」が取り締まりの対象になっていく。「国体」とは、明治憲法に定められた、万世一系、神聖不可侵の天皇を中心とした政治体制である。
普通選挙という「大正デモクラシー」の果実を取り入れるその時、皮肉にも、同じ政党内閣の手で、自由を踏みにじる治安維持法が制定されたのである。しかも、多くの国民は、早い時期に、治安維持法の危険な本質を見極めることができなかった。
そして、この悪法は、三年後(一九二八年)、刑罰に死刑と無期懲役を加えるなどの〝改正〟が行われ、「蟻の一穴」のごとく、自由と人権の根幹を食い破っていくのである。
権力が暴走し、猛威を振るう時には、必ず思想や信教への介入が始まる。ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、時代は暗黒の闇のなかに引きずり込まれることを知らねばならない。これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 296頁~298頁
2021年12月2日
第1808回
音楽・芸術に「敵」は無し
<「埴生の宿」「庭の千草」>
山本伸一は、ビルマで戦死した長兄のことを考えるたびに、いつも、竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』を思い浮かべた。
──それは、ビルマ戦線に送られた一兵士が、終戦後、日本に帰らず、僧となり、同胞の遺骨を弔って生きることを決意するという小説である。
そのなかに、終戦を迎えながらも、それを知らずに敗走する日本軍の一隊が、イギリス軍に包囲される場面がある。この隊は、音楽学校出の隊長の影響で、よく歌を合唱した。この時も合唱の最中であった。
近くには爆薬を積んだ荷車がある。戦闘が始まり、その爆薬が銃火を浴びれば全滅してしまう。まず、その荷車を、移動させなければならない。
日本兵は、イギリス軍の包囲を知らぬかのように、皆で楽しげに「庭の千草」と「埴生の宿」を歌いながら、荷車を安全な場所へ運んだ。
荷車を運び、合唱が終わって、日本兵が突撃に入ろうとすると、今度は、周囲から「埴生の宿」の調べが聞こえてきた。
イギリス兵が歌っているのだ。歌は英語であったが、曲は同じである。
さらに「庭の千草」の調べが響いた。
「埴生の宿」も「庭の千草」も、イギリスで古くから愛唱されていた歌に、日本語の歌詞をつけたものである。イギリス兵にとっては、なじみ深い曲であった。
敵も味方もなく、両軍の兵士たちは、声を合わせて歌った。
戦闘は始まらなかった。互いに兵士が出て来て手を握り合った。
日本兵は、そこで三日前に戦争が終わったことを知った。
歌が人間の心と心をつなぎ、無駄な血を流さずにすんだのである。
音楽や芸術には、国家の壁はない。それは民族の固有性をもちながらも、普遍的な共感の広がりをもっている。
ラングーンの街を巡りながら、伸一の脳裏に、ある考えが兆し始めた。それは思索を重ねるうちに、次第に一つの明確な像を結び始めていった。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 308頁~310頁
2021年12月4日
第1811回
信心といっても、
決して特別なことをするのではない
翌二月九日、一行は、昼前にビルマを発って、タイのバンコクに向かった。二時間ほどの空の旅である。
バンコクの空港には、二人の日本人のメンバーの壮年が迎えてくれた。
二人とも信心を始めて間もなかったが、自分たちも、いよいよ広宣流布のために立ち上がろうかと、話し合っていたとのことであった。
夕方、一行はバンコクの日本食のレストランに食事に出かけた。
そのレストランで、女性従業員が山本伸一に声をかけた。学会員であった。
あまり信心に励んではこなかったようだが、伸一や婦人部長の清原かつの顔は、日本にいた時、聖教新聞などの写真で見て知っていたという。
伸一は、今回の訪問地には、全く学会員のいない国もあると思っていたが、これまでのところ、どの国にもメンバーがいたことになる。
夕食を終えてホテルに戻ると、空港で迎えてくれた二人の壮年がやって来た。
皆でホテルの庭で懇談した。二人とも、活動の進め方については、よくわからない様子であった。
伸一は、噛んで含めるように指導していった。
「信心といっても、決して特別なことではありません。まず、朝晩の勤行をしっかり励行し、自分の周りで悩みを抱えて苦しんでいる人がいたら、仏法を教えてあげればよいのです。つまり、周囲の人を思いやる友情を広げていくなかで、自然に布教はできていくものです。焦る必要はありません。
そして、信心する人が出てきたら、互いに励まし合い、守り合っていくことです。そのために、組織が必要になるんです。
もし、皆さんが希望するなら、近い将来、タイにも地区をつくります。また、皆さんを応援する意味から、今後は、幹部を定期的に派遣することも考えていきます。
ともかく、広宣流布の時が来ている。これからは、タイにもメンバーが、たくさん増えていくはずです」
メンバーが増えていくと言われても、彼らには、そんな実感をもつことはできなかった。しかし、地区の結成という話は、二人の壮年にとって、大きな目標となった。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 311頁~312頁
2021年12月5日
第1813回
仏の智慧と大生命力の涌現
<広布への億劫の辛労>
タイの二人のメンバーが帰ると、伸一は、引き続き彼の部屋で、同行の幹部と懇談した。
「みんな疲れてきたようだから、御書を拝そう!」
伸一はバッグから御書を取り出し、「御義口伝」を開いた。
彼は「廿八品に一文充の大事」の「涌出品」を拝読し始めた。
「……一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書七九〇㌻)
法華経の「涌出品」の「昼夜に常に精進す 仏道を求めんが為の故に」(法華経四六六㌻)の文について、述べられた箇所である。
伸一は、力を込めて語っていった。
「これは、南無妙法蓮華経と唱えるわが一念に、億劫にもわたる辛苦、労苦を尽くし、仏道修行に励んでいくならば、本来、自身のもっている無作三身の仏の生命が、瞬間、瞬間、起こってくるとの御指南です。そして、南無妙法蓮華経と唱えていくこと自体が、精進行であるとの仰せです。
この御文は、御本仏である大聖人の御境涯を述べられたものですが、私たちに即していえば、広宣流布のために苦労し、祈り抜いていくならば、仏の智慧が、大生命力がわいてこないわけはないということです。したがって、どんな行き詰まりも打ち破り、大勝利を得ることができる。しかし、それには精進を怠ってはならない。常に人一倍、苦労を重ね、悩み考え、戦い抜いていくことです。
皆、長い旅の疲れが出ているかもしれないが、今回の旅は、東洋広布の夜明けを告げる大切なアジア指導です。一人でもメンバーがいたら、命を削る思いで力の限り励ますことだ。そこから未来が開かれる。また、各地を視察しながらも、その国の広布のために、何が必要かを真剣に考えていかねばならない。
ボーッとしていれば、この旅は終わってしまう。一瞬一瞬が勝負です。大聖人は『法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず』(御書一一一七㌻)とも仰せになっている。火を起こそうとしても、手を休めてしまえば火はつかないように、最後になって手を抜き、惰性に流されれば敗北です」
伸一の御書を拝しての指導に、同行の幹部たちは、目の覚めるような思いがした。
皆、いつの間にか、スケジュールをこなすだけの旅になっていたのである。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 313頁~315頁
2021年12月5日
第1812回
大きな目標
二月十四日は、いよいよ帰国の日であった。
午前九時過ぎ、岡郁代と平田君江が、一行をホテルに迎えに来てくれた。
空港に着くと、山本伸一は、出発を待つ間、終始、二人と語り合い、励まし続けた。
「当面の目標として、香港は百世帯をめざしてみてはどうだろうか。
こう言うと、大変なことになったと思うかもしれないが、たいした努力をしなくても達成できるような目標では、皆さんの成長がなくなってしまう。
困難で大きな目標を達成しようと思えば、御本尊に真剣に祈りきるしかない。そうすれば功徳があるし、目標を成就すれば、大歓喜がわき、信心の絶対の確信がつかめます。だから、目標というのは、大きな方がいいんです」
伸一は二人に、地区の幹部としての、本格的な訓練を開始していたのである。
<新・人間革命> 第3巻 平和の光 335頁