2024年10月1日
2024年
10月度座談会拝読御書
聖人御難事
御書新版1620ページ4行目~7行目
御書全集1190ページ10行目~12行目
師の大願の実現へ新たな仏縁拡大を
拝読御文
たとい大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆえに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし。
月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし。
〈池田先生の指針から〉 不断の精進行に仏の生命が涌現
強大な権力をもつ「大鬼神のつける人」が弾圧しようとしても、宇宙大の仏法を受持する人を、あらゆる諸天善神が守護することは「道理」なのであると述べられている、慈愛と確信に満ちた一節です。
この箇所は、戦時中、当局に押収された戸田先生の御書にも、朱線が引かれています。
諸天の守護も、「信心の強さ」によります。惰性やあきらめ、また油断があれば、魔がその隙に乗じて、その人の生命に付け入り、心も身も破られてしまいます。ゆえに大聖人は、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(全1190・新1620)と強調されているのです。
青年部時代、私は恩師・戸田先生の名代として、埼玉の川越地区で本抄を講義しました。その時、この「月月・日日につより給へ」の一節を通し、広宣流布とは、魔との壮絶な戦いであることを同志と確認し合いました。
昨日まで、どんなに頑張っても、慢心を起こせば、魔に付け入る隙を与えてしまう。魔の狙いは、ともかく精進を忘れさせて、広宣流布の流れを停滞させ、破壊することにある。それに勝つには、日々前進、日々挑戦、日々向上していくしかない――と、私は、共戦の友に強く訴えたのです。
たゆまざる信心の実践こそ、人生勝利の要諦です。釈尊は、仏になってからも「未曾暫廃」でした。大聖人は、「一度もしりぞく心なし」(全1224・新1635)と仰せです。
では、釈尊や大聖人が、生涯をかけて戦い続けた魔性とは何か――。それは人間の根源的無明との戦いでした。魔の本質は、「奪命者」「奪功徳者」です。この魔を打ち破っていく源泉こそ、月々日々に「強める」心です。不断の精進行に、仏の生命が涌現するのです。
(2015年11月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)
心が強い人を諸天は守る
「日蓮、生まれし時よりいまに一日片時もこころやすきことはなし」(新1892・全1558)――妙法流布に人生をささげられた日蓮大聖人の御生涯は、障魔との間断なき連続闘争でした。命に及ぶ大難の背景には、「大鬼神のつける人」となって、強大な力で正法を受持する人を迫害する権力者の策謀がありましたが、大聖人は一切の魔性を勝ち越えられたのです。
大聖人は本抄で、いかなる権力者の弾圧があっても、あらゆる諸天善神によって守護されるので、危害を加えられることはないとの御確信を宣言されています。
諸天善神とは、正法を実践する人を守護する種々のはたらきを指します。当時、熱原の法難に直面していた門下たちに、大聖人は妙法を貫く人に諸天善神の加護が厳然と輝くことを示されたのです。
諸天善神のはたらきは、全ての人に同じく現れるわけではありません。大聖人は「諸天善神の守護といっても、人の心が強いことによるということである」(新1608・全1186、通解)と仰せです。諸天善神の守護の力は、信仰を持つ人の信心の厚薄によって決まるのです。
池田先生は「“いかなる苦難があろうとも、断じて負けない。絶対に勝利してみせる”――この決定した『一念』から湧き上がる祈りと実践に、諸天善神は感応し、人々を厳として守る働きとして現れる」とつづっています。周囲の人々や環境にそなわる善のはたらきを呼び起こせるかどうかは、全て現在のわが一念にかかっているのです。
“昨日よりも今日”の信心
広宣流布は、仏と魔との絶え間ない攻防戦です。一瞬でも油断すれば、すぐに魔に付け入られてしまいます。
大聖人は、仏の軍勢を阻止しようとうごめく魔の勢力について、「第六天の魔王は、十種の魔の軍勢を用いて戦を起こし、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海の中で、凡夫と聖人がともに住んでいるこの娑婆世界を“取られまい”“奪おう”と争っている」(新1635・全1224、通解)と仰せです。本源的な魔のはたらきである「第六天の魔王」は、あらゆる手段を講じて法華経の行者に迷いや恐れを生じさせ、成仏の道から引き離そうとします。
この第六天の魔王は、自身から遠くかけ離れた存在ではありません。「元品の無明は第六天の魔王として顕れるのである」(新1331・全997、通解)とあるように、「元品の無明」という万人の生命に潜む根源的な無知が魔のはたらきとなります。魔は自身の外に特別な形で存在しているのではなく、その本質は、仏の生命がそなわることを信じられない「臆病な心」「迷いの生命」なのです。
元品の無明を打ち破る要諦こそ、師匠の大願に心を合わせた、「月々日々に」のたゆみない信心の実践です。池田先生が願われた世界広宣流布の実現へ、“昨日よりも今日”“今日よりも明日”と、新たな仏縁の拡大に生き抜く不退の前進の中に、自身の境涯革命も成し遂げられるのです。
誓願の祈りで勇気を奮い立たせ、眼前の壁を破る師弟不二の共戦譜をつづっていきましょう!
2024年9月1日
2024年
9月度座談会拝読御書
高橋殿御返事
(米穀御書)
御書新版1953ページ6行目~7行目
御書全集1467ページ5行目
「体験」と「確信」をありのままに語る
拝読御文
『その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。「仏種は縁より起こる。この故に一乗を説く」なるべし。』
〈池田先生の指針から〉
誠実の対話こそ仏性を薫発する縁
日蓮大聖人は、在家の門下に「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(全1467・新1953)と信頼し託されたうえで「仏種は縁に従って起る」(同)と仰せられました。仏性を薫発する下種結縁という「縁」が、どれほど大切か。
相手の生命に必ずある仏性を呼び覚ますには、仏種を植えるしかありません。仏の性分は、仏縁によって発動するからです。だからこそ、仏法対話をするのです。それが必ず、相手の仏性を呼び覚ます最極の縁となるのです。また、「仏の種」を蒔けば、「一句妙法に結縁すれば億劫にも失せずして」(全793・新1105)と仰せのように、その種は未来永遠に消えてなくなることはありません。
私も十九歳で入信以来、家族や友人へ、近隣の知人へと、身近な関係から対話を広げていきました。私の話に、頷いて耳を傾けてくれる人もいれば、そうでない態度の人もいました。真心込めて書いた手紙を全部、送り返されたこともあります。どうして、こんなに仏法を求める人が少ないのかと思った時もありました。
しかし、人間は誰人たりとも生老病死の苦悩は避けられない。心の奥底では皆、この生死流転を乗り越える妙法を欲しているのです。
私は、ともかく少しでも、仏縁を結べるように、そして出会った人たちが絶対に幸福になるようにと祈り抜き、語り抜きました。その中で、誠実に対話を重ねて実った折伏は、何にも増してうれしいことでした。
私の折伏の場に、わざわざ戸田先生が来てくださったこともあります。未熟な一青年のために、本当にありがたい師匠でした。
「折伏すれば信用が残る」と、先生は言われました。相手の幸福を祈り、真剣に語るのです。信心する、しないにかかわらず、その大誠実が通じないわけがありません。
青年時代に対話しながら信心できなかった友人とも交流を続けてきました。若き日の詩に詠んだ通り、たとえ人生の歩む道は異なっても、「君に幸あれ わが友よ」と願う心は今も決して変わりません。
そうやって積み上げてきた一つ一つの対話は全て、黄金不滅の人生の財です。そして、この挑戦の一切が、やがて世界の知性との対話にも生かされていくのです。(『調和と希望の仏法――「人間の宗教」の時代へ』)
地域広布の責任を担う
本抄は、日蓮大聖人が、駿河国(現在の静岡県中央部)富士地方の中心門下に宛てられたと考えられています。「その国の仏法流布は、あなたにお任せします」との万感こもる呼びかけからは、門下に対する大聖人の全幅の信頼がうかがえます。
別の御抄で「法が自然と広まることはなく、人が法を弘めていくゆえに、人も法もともに尊いのである」(新2200・全856、通解)と仰せのように、仏縁を拡大する「人」がいてこそ、それぞれの地域の広宣流布は伸展していきます。ゆえに大聖人は、弟子の主体性と責任に基づいて、勇んで妙法流布に生き抜くように指導されています。
遠大に思える世界広布も、その実現は足元の挑戦から始まります。学会員が自他共の幸福を祈り、わが町、わが地域で築く友情や信頼の積み重ねによって、仏法理解の輪が広がっていくのです。
肝心なのは“自らが地域広布の全責任を担う”との「一人立つ精神」を体現していくことです。“誰かを頼る心”を排して、“自分こそが地域の幸福責任者”との深き自覚に立ち上がった時、自身の内に具わる無限の力を存分に発揮することができるからです。
広布の使命に目覚めた一人から次の一人へと、励ましの連鎖が広がり、人間主義の連帯は192カ国・地域に発展しました。全世界の創価家族は、各人の使命の天地で“希望の光源”と輝いています。わが国の仏法流布を誓う世界中の同志と手を携え、地域の繁栄を願い、仏縁の拡大に走り抜いていきましょう!
万人を敬う不軽の実践
本抄では、一切衆生の生命に内在する仏の生命は、「縁」という間接的な原因に触れることで現れるとの道理が示されています。ゆえに大聖人は、仏の生命を触発するための「対話」の実践を、門下に促されているのです。
仏性を薫発する対話の模範として挙げられるのが、不軽菩薩です。“常に人を軽んじなかった菩薩”である不軽菩薩は、万人に内在する仏性を敬う「二十四文字の法華経」を説き、出会う人全てに差別なく語りかけていきました。怯むことなく、多くの人々に法華経の精神を伝え続ける実践が因となり、やがて不軽菩薩は最高の覚りを得て、成仏に至ることができたのです。
他者の幸福を願い、積極的に心の絆を結ぶ学会員の勇気の対話は、まさに現代における不軽菩薩の実践にほかなりません。広布の使命に生き抜く中で、必ず自他共に境涯を開いていけるのです。
拝読御文に「一乗(法華経)を説く」とあります。万人成仏を説いた法華経こそ、一切衆生を救う唯一の教えです。この法華経に脈打つ「生命尊厳」「万人尊敬」の思想は、希望の哲学として、友の仏の生命を触発します。
池田先生は「どこまでも誠実に、自身のありのままの信仰の『体験』と『確信』を語ることです。その真心の一言一言が、希望の種、幸福の種として、友の心に植えられていくのです」とつづっています。対話に臨む上で重要なのは、妙法を力の限り語り抜く姿勢です。私たちの勇気の対話拡大こそが、自他共の幸福を築く大道となるのです。
2024年7月2日
2024年
7月度座談会拝読御書
三三蔵祈雨事
(成仏用心抄)
御書新版1940ページ1行目~3行目
御書全集1468ページ1行目~3行目
創価学会は最高の善知識のスクラム
拝読御文
『夫れ、木をうえ候には、大風ふき候えども、つよきすけをかいぬればたおれず。本より生いて候木なれども、根の弱きはたおれぬ。甲斐なき者なれども、たすくる者強ければたおれず。すこし健げの者も、独りなれば悪しきみちにはたおれぬ。』
〈池田先生の指針から〉
善き友と進むことが仏道の全て
釈尊と弟子の阿難との対話のエピソードがあります。
――ある時、阿難は釈尊に尋ねました。「私どもが善き友を持ち、善き友と一緒に進むことは、すでに仏道の半ばを成就したに等しいと思われます。この考え方は、正しいでしょうか」
それに対して、釈尊は明確に答えました。「阿難よ、その考え方は、正しくない。善き友を持ち、善き友と一緒に進むということは、仏道の半ばではなく、仏道の全てなのである」と――。
ここに、仏道修行の本来の在り方が、端的に示されています。最後まで正しき信心を全うし、真実の勝利の人生を歩み抜くためには、自分を支えてくれる「善き友」、すなわち「善知識」の存在が絶対に必要なのです。
もともと仏法用語の「知識」とは、サンスクリット(古代インドの言語)の「ミトラ(友人)」を漢訳した言葉です。
ですから、「善知識」とは、正しい仏法に導いてくれる人、すなわち「善き師匠」であり「善き同志」「善友」のことを指します。
大聖人は、「わが智慧なににかせん」(全1468・新1940)と述べられ、善知識を求めていくことが、何にもまして大切になることを強調されています。
なぜなら、仏になる道以外に、「生死」という人生の根源的な悩みを乗り越える方途はありません。自身を支え、励ましてくれる善知識に縁することで、私たちは信心を鍛え、幸福への智慧を出し、絶対的な仏の境涯を開いていくことができるからです。
しかし、善知識は「爪の上の土」よりも少なく、出会うことは極めて難しい。一方で、信心の実践を妨げる存在として「悪知識」があります。(中略)悪知識は、実に紛らわしい姿で、私たちの心を揺さぶり、求道の善心を破壊しようと迫ってきます。しかも、悪世末法はなおさら善知識が少なく、悪知識が充満しているのです。
したがって、善知識にめぐりあうこと、善知識の世界に縁することが、どれだけ貴重であり、幸運なことか、計り知れません。(『調和と希望の仏法――「人間の宗教」の時代へ』)
自ら勝利の軌道求める
本抄では、信心を教え、正しい方向に導いてくれる善知識という縁が、いかに重要であるかを示されています。
仏道修行の途上には、成仏を妨げようとする三障四魔が競い起こってきます。「少し頑健な者でも、独りであれば悪道に倒れてしまう」とあるように、誰にとっても、生涯にわたって信心を貫き通すためには、支えてくれる師匠や同志の存在が不可欠なのです。
本抄を頂いた西山殿は、幕府権力者の領地が多い駿河国・富士方面の有力な門下でした。日蓮大聖人に敵対する高僧や幕府権力者の働きかけによって、西山殿にも種々の圧迫が加えられたと考えられています。しかし、たびたび大聖人に御供養をお届けするなど、求道の志あふれる信心を貫きました。こうした弟子を取り巻く苦境を踏まえて、大聖人は西山殿に対して、善知識の同志と励まし合うように教えられたと拝されます。
幾多の苦難に襲われても、支えてくれる存在がいれば、成仏の道を違えることはありません。ゆえに、自らすすんで善知識を求めていく姿勢が大切です。そして、自らも善知識になろうと、同志と共に前進することが、人生勝利の軌道にほかならないのです。
池田先生は「少しでもつながっていこう! その心をもって、同志という善縁にふれていくなかで、生命力が増す。ここに、何ものにも負けずに、成長と向上の青春を謳歌しゆく道がある」とつづっています。皆で励まし合いながら、信心を錬磨しゆく創価学会こそが、最高の善知識のスクラムなのです。
信心の実証を語り合う
いつの時代にあっても、正しく導いてくれる善知識に巡り合うことはまれである――大聖人は、善知識との出会いが、どれほど難しいのかを示すために、「一つ眼の亀が、大海で浮き木の穴に入る」「天上(梵天)から糸を下げて、大地に置いた針の穴に通す」など、およそ不可能に思える譬えを用いられています。
なぜ巡り合うことが難しいのか。大聖人は「悪知識は大地を微塵に砕いた数よりも多く、善知識は爪の上に乗るわずかな土よりも少ない」と仰せです。末法は、人を正法から退転させる働きをする悪知識が充満する時代なのです。
この悪知識にたぶらかされず、仏道修行を遂げるためには、悪を悪と見破る智慧が必要です。大聖人は、仏法の正邪を判定する基準として、文証・理証・現証の三証を挙げられています。そして、「一切は現証にはしかず」(新1672・全1279)と、現証こそが最も重要であると教えられています。
大聖人の仰せ通り、創価三代の師弟は、どこまでも現証を重視しながら、広宣流布を推進してきました。文化や民族の差異を超えて、192カ国・地域への世界広布を現実ならしめた事実こそ、創価学会が仏意仏勅の団体である証しにほかなりません。
また、学会員が信心の実証を語り合う場となっているのが、学会伝統の座談会です。互いに触発し合う中で団結が生まれ、善知識同士の絆が一段と強固に結ばれているのです。私たちも宝の同志と手を携えながら、人間革命の勝利劇をつづっていきましょう。
2024年6月2日
2024年
6月度座談会拝読御書
曽谷殿御返事
(成仏用心抄)
御書新版 1435ページ12行目~13行目
御書全集 1056ページ13行目~15行目
「いまだこりず」の心で語り抜く
拝読御文
『この法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らう道理なるが故に、流罪せられ、命にも及びしなり。しかれども、いまだこりず候。法華経は種のごとく、仏はうえてのごとく、衆生は田のごとくなり。』
〈池田先生の指針から〉
勇猛精進が成仏の要諦
「いまだこりず候」――この御金言を拝するたびに、胸が熱くなります。日蓮大聖人の大慈悲と大勇猛心が凝結したお言葉でもありましょう。
私たちが日夜読誦する法華経方便品には、「勇猛精進」とあります。これは、仏自身が、なぜ仏に成れたのかを明かした理由の一つです。
困難にも勇敢に挑戦し、不可能をも可能にと智慧を尽くすこと。それが「勇猛」です。
「精進」について、妙楽大師は、「無雑の故に精。無間の故に進」と記しています。余事を交えず、ただ一筋に進むのが「精進」です。仏自身が、いくつもの過去世で、「勇猛精進」して成仏したと宣言されています。
そして、真実の仏の慈悲の行動は、寿量品に「未曾暫廃」とあるように、久遠以来、瞬時も弛むことはないというのです。
大聖人は、あらゆる大難を受けながらも、勇猛精進、未曾暫廃の不撓不屈の大闘争に貫かれた生涯を示されました。ただただ民衆の安穏と幸福のためです。これほどありがたい、大慈大悲のお姿はありません。(中略)
戸田先生は、豊島公会堂で行われた「一般講義」で、本抄(=曽谷殿御返事)を講義されました。
拝読御文の箇所で、先生は熱を込めて、「これだよ。“いまだこりず候”だよ」と参加者に呼び掛けました。皆、思わず身を乗り出して次の言葉を待ちました。
先生は、力強く、こう語られたのです。
「私どもは、もったいなくも日蓮大聖人の仏子である。地涌の菩薩である。なれば、わが創価学会の精神もここにある。不肖私も広宣流布のためには、“いまだこりず候”である。大聖人の御遺命を果たしゆくのだから、大難の連続であることは、当然、覚悟しなければならない! 勇気と忍耐をもつのだ」
その言葉は、今も鮮烈に耳朶に響いて離れません。(2021年10月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)
負けじ魂こそ仏法の真髄
「山に山をかさね、波に波をたたみ、難に難を加え、非に非をますべし」(新72・全202)――建長5年(1253年)4月28日の立宗宣言以来、日蓮大聖人の御生涯は大難に次ぐ大難でした。
なぜ大聖人に迫害が競い起こったのか。それは、自然災害や飢饉、疫病などの苦しみにあえぐ庶民を救うため、人々を不幸に陥れる誤った思想に対して、正義の言論を展開されたからです。
「忠言耳に逆らう」との一節の通り、怨嫉した幕府の権力者や諸宗の僧らが結託し、激しい弾圧を加えました。しかし、大聖人は「いまだこりず候」(新1435・全1056)、「日蓮、一度もしりぞく心なし」(新1635・全1224)と微動だにすることなく、一切の魔性を打ち返していかれたのです。
「竜の口の法難」や二度の流罪をはじめ、命に及ぶ幾多の危機を、大聖人は敢然と勝ち越えられました。この崇高な御闘争は、やむにやまれぬ民衆救済の大慈悲の表れと拝せます。
池田先生はこの御文について、「『いまだこりず候』――ここに、日蓮仏法の真髄の負けじ魂がある。正義の魂は絶対にこりない。魔王の方が『こりた』と音をあげるまで、攻めて攻めて攻め抜くのだ」とつづっています。
閉塞感が蔓延する現代社会にあって、友の心に「生命尊厳」「万人尊敬」の哲学を広げる仏法対話の価値は、一段と高まっています。正義と真実を語り抜く“勇気”を備えた一人によって、人間主義の新時代は開かれるのです。
誓願を共有する師弟の絆
「この法門」とは、仏の真意である法華経に基づいて、“根本とすべき師匠を誤ってはならない”との意味です。
本抄では、法華経を説いた釈尊は、一切衆生が従うべき“根源の師”であることが述べられています。しかし、大聖人の御在世当時、人々は釈尊をないがしろにして、阿弥陀仏や大日如来を信奉していました。
間違った法や仏法の道理を知らない師に従ってしまえば、成仏の道が閉ざされてしまいます。ゆえに、大聖人は「本従の師」を違えてはならないと、諸宗の謗法を厳しく責められたのです。
拝読御文の直前で、「いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず」との経文が引かれています。法華経に説かれている“三世にわたる師弟の縁”は、仏法の師と弟子が妙法弘通の誓願を共有し、現実社会の人々を救い続ける絆で結ばれていることを示しているのです。
それでは、師の仰せ通りの実践とは、具体的に何を指すのでしょうか。本抄では、衆生の心に“成仏の種”を植え、仏性を呼び覚ます下種の対話であると示されています。
大聖人の仰せのままに、自他共の幸福の実現へ、仏縁の拡大に力を尽くしてきたのが、創価三代の師弟です。学会の同志は、師と同じ時代に生まれ合わせた誇りも高く、広宣流布に走り抜き、宿命転換を遂げてきました。
師弟の大道を歩み抜く限り、いかなる苦難も乗り越えられる――この確信を胸に、友の心に希望をともす語らいに挑んでいきましょう。
2024年5月5日
2024年
5月度座談会拝読御書
妙密上人御消息
御書新版 1713ページ1行目~2行目
御書全集 1241ページ18行目~1242ページ2行目
友をたたえるほど福運と勢いがつく
拝読御文
『金はやけばいよいよ色まさり、剣はとげばいよいよ利くなる。法華経の功徳は、ほむればいよいよ功徳まさる。二十八品は正しきことはわずかなり、讃むる言こそ多く候えと思しめすべし。』
〈池田先生の指針から〉
妙法を賛嘆する心に功徳が増す
悪世末法で信心を貫き通していること自体、どれだけ偉大なことなのか。どこまでも共に戦う門下を、本当に大切にされたのが大聖人です。
真心の激励に、妙密上人夫妻が新たな決意で立ち上がったことは想像にかたくありません。
「金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる」(全1241・新1713)とあります。
金は精錬すればするほど輝きを増します。剣は研げば研ぐほど鋭くなります。法華経の功徳も、賞讃すればするほど、ますます功徳が勝っていきます。
法華経そのものにおいて、法理の真髄が述べられた箇所はわずかです。法華経二十八品全体が、その万人成仏の法理の功徳を、釈迦・多宝・十方の諸仏をはじめ、あらゆる衆生が口をそろえて賞讃し、全人類に妙法の受持を勧めている経典であるといえます。
文底から拝するならば、法華経全体が、南無妙法蓮華経の功徳を賞讃しているのです。
妙法を賞讃する心に功徳があふれます。また、妙法を持ち、弘める人を賞讃する心に功徳はいや増していきます。(中略)
学会員は、御本尊の功力を実証し、その喜びを万人に広げようと、御本尊を弘めていきました。本格的な御本尊流布は、わが創価学会によって始まったのです。
世界広宣流布・仏法西還の基盤が盤石になった今、まさに世界の「国ごと人ごと」に、仏法の人間主義に期待する声が高まっています。
法華経の生命尊厳の思想を体現している学会員に対する賞讃は、日増しに高まっています。いよいよ、世界広宣流布の本格的な大前進が始まる時が到来しました。
どこまでも大切なのは、宝の如き学会員の存在です。日々、学会活動で生命を磨かれている皆さまです。
日蓮大聖人の広宣流布の御精神、そして、創価学会の八十年の歴史と伝統は、全部、皆さまの胸中に受け継がれています。大聖人が皆さま方を賞讃してくださっていることは絶対に間違いありません。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第6巻)
焦点は「一人の人間」
日蓮大聖人は本抄の前段で、人々の煩悩の病を治す大良薬である法華経の題目を末法で唱え弘め始めたのは、御自身一人しかいないと明かされています。
その大聖人を支える妙密上人の真心は、日本国に法華経の題目を弘めることと同様であり、その功徳は絶大であると仰せです。
文永11年(1274年)に大聖人が佐渡流罪を赦免されてから、本抄が執筆された建治2年(1276年)にかけて、各方面の門下は師の呼びかけに応えて、幾多の障魔に屈せず、次々と正法の弘通に立ち上がりました。
本抄で大聖人は、万人が南無妙法蓮華経を唱える時が到来すると御断言になっています。広宣流布の拡大は、決して抽象論ではありません。どこまでも、焦点は「一人」にあります。
使命に目覚めた「一人」が立ち上がり、次なる「一人」に希望の灯をともす。「一人」を育むために、“眼前の一人”を支え、間断なき勇気の励ましを送る――大聖人から続く“広宣流布の方程式”は、192カ国・地域に広がる創価の連帯に受け継がれています。
池田先生は「創価学会は、どこまでも『一人』を大切にし、『一人の人間』が持つ『世界を変える力』を限りなく発揮していく。これこそが『人間のための宗教』であり、『民衆の側に立つ宗教』であるからだ」とつづられています。
私たち一人一人の日々の前進が、世界広布の躍進に直結しているのです。
広布の仏子を大切に
法華経には、仏や法華経そのものを賛嘆する言葉が数多く記されています。同じように、日蓮大聖人は本抄で、法華経の功徳をたたえるほどに、ますます功徳が豊かになると仰せです。
大聖人は、法華経の真髄である諸仏の成仏の根源法を、南無妙法蓮華経として顕されました。法華経は南無妙法蓮華経の偉大さをたたえる経典であり、妙法の受持を人々に勧めている経典です。
ゆえに、南無妙法蓮華経を称賛する心に、無量の福徳があふれるのです。
“法華経の功徳をたたえる”実践とは、どういうことでしょうか。それは、学会活動を通して培った人間革命の実証、信仰の喜びを生き生きと語り抜く希望の対話です。また、同志と互いに尊敬し合う姿勢もそうでしょう。
なかなか会合に参加できなくても、自らの立場で広布拡大に尽くす友や、陰の労苦に徹する友をはじめ、学会の発展は、多くの尊き同志の真心によって支えられています。互いの奮闘をたたえ、エールを送り合う――この“創価の励ましの連帯”にこそ、皆が自他共に幸福の軌道を歩みゆく力が脈打っているのです。
かつて池田先生は語られました。「広宣流布の仏子を大切にすることは、わが身の仏界を大切にし、強めることになる。頑張っている人を、たたえればたたえるほど、自身にも組織にも『福運』と『勢い』がつく」
同志の奮闘に思いをはせれば、挑戦への活力がみなぎります。同志と励まし合い、勝利劇をつづっていきましょう。
2024年4月2日
2024年
4月度座談会拝読御書
生死一大事血脈抄
御書新版 1777ページ1行目~3行目
御書全集 1338ページ8行目~10行目
広布に戦う生命に妙法の無限の力が
拝読御文
『相構えて相構えて、強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え。生死一大事の血脈、これより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、これなり。信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり。』
〈池田先生の指針から〉
苦難をもバネに
日蓮大聖人の仏法を正しく持ち、正しく行じ、現実に大聖人の仰せ通りに世界に広宣流布して、大聖人から生死一大事血脈を受け継いでいるのは創価学会以外にありません。それゆえに、広宣流布に戦う私たち学会員一人一人の生命それ自体に、妙法の無限の力があふれんばかりに開かれてくるのです。
妙法の当体であるがゆえの生命の奥底からの大歓喜を事実として我が身に現せば、いかなる牢固たる悩みをも智慧に変え、自在に価値創造の力としていくことができるのです。
自身の生命の大地には、「もう限界だ」という局面を、いくらでも打開していける本源的な力が、本来、厳然と秘められています。いかなる苦難をもバネにして、絶対的な幸福を成就しゆく「変毒為薬」の力を確信すれば、恐れる必要はもう何もありません。
妙法は、自身が本来もっている無限の力を引き出すための根本法則です。その無限の力用で、火が薪を燃やして光に変えるように、煩悩を智慧に変えていくのです。さらにまた、春の陽光が氷雪を溶かして流れに変えるように、生死の苦悩に固まっていた自身を、躍動する大歓喜の境涯に変えていくのです。
「自身が変わる」――これが仏法の根本主題です。日蓮大聖人の仏法は、「自分自身」の生命を現実に変革するための宗教です。どこまでも「私自身」であり「あなた自身」の人間革命から出発する。この一点を忘れては、日蓮仏法は存在しません。創価学会の実践も成立しません。(『生死一大事血脈抄講義』)
「即」とは変革の法理
「生死一大事」つまり、誰しもが直面する生死の苦悩を根本的に解決する法は、万人成仏を明らかにした妙法をおいてほかにありません。
日蓮大聖人は本抄で、「強盛の大信力」を起こし、南無妙法蓮華経と唱え抜くことによって開かれる仏の境涯を「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と示されています。
それぞれ、相反するような言葉を結ぶ「即」の一字には、どのような意味が込められているのでしょうか。
池田先生は、次のように講義しています。
「『即』とは変革の法理です。生命の真実の姿を仏の智慧の眼で見れば、煩悩と生死の苦悩に支配された境涯にも、菩提・涅槃という覚りの境涯が内在しています。つまり、九界の衆生にも仏界が必ず具わるからこそ、煩悩を菩提に、生死を涅槃へと転換でき、即身成仏、凡夫成仏が可能になるのです」
苦境の真っただ中にいる時、“もうだめかもしれない”と、自身の可能性を見いだせないことがあるかもしれません。しかし本来、万人の生命には無限の勇気と智慧が具わっています。その力を引き出すことで、あらゆる困難や試練を乗り越えられるのです。
大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(新1021・全732)と仰せです。
直面する悩みも、立ちはだかる壁も、御本尊に真剣に祈り抜き、自身の内にある仏界の生命を開くことで、飛躍のためのバネへと大きく転換していくことができます。日蓮仏法は、究極の希望の哲理なのです。
創価三代の師弟に連なる
「信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である」――本抄の末尾で、日蓮大聖人はそう断言されました。
法華経を身で読み、生涯を広布にささげられた大聖人が示す通りに実践することで「信心の血脈」を受け継ぐことができます。
本抄を頂いた最蓮房は、佐渡の地で何らかの圧迫に遭いながらも屈することなく、信仰に励んでいたようです。
“私に続き、信心の血脈を受け継ぐのだ”との大聖人の熱情に触れた最蓮房は、いよいよ強盛に師匠直結の信心に励んでいったことでしょう。
では、現代に生きる私たちが、日蓮仏法の信心を継承するためには、どのような実践が必要でしょうか。
池田先生は指導しました。
「『信心の血脈』は、広宣流布の祈りと拡大なくしては、ありえません。この『信心の血脈』を身命を惜しまず受け継いできたのが、創価の師弟です。したがって、師弟不二と異体同心の創価の信心に徹していく限り、地涌の使命の人材は澎湃と涌現するのです」
大聖人が願われた通り、世界中に日蓮仏法を広げ、人々を幸福境涯へと導いてきたのは、創価三代の師弟にほかなりません。
私たちもまた、創価三代の師弟に連なり、日々、たゆまぬ祈りと広布の実践に挑戦することが大切なのです。
激動する社会にあって、行く先の見えない不安を抱えている人も多いでしょう。今こそ、私たちは広布の師匠の闘争に学び、励ましの対話を広げながら、信心の血脈を継承していきましょう。
2024年3月31日
〈教学〉
4月度「御書講義」の参考
生死一大事血脈抄
御書新版 1775ページ14行目~1776ページ9行目
御書全集 1337ページ12行目~1338ページ2行目
師と同じ誓願に立ち上がる
4月度「御書講義」の拝読御書は「生死一大事血脈抄」です。範囲は「総じて、日蓮が弟子檀那等……よも虚事候わじ」(御書新版1775ページ14行目~1776ページ9行目、御書全集1337ページ12行目~1338ページ2行目)です。ここでは学習の参考として、本抄の背景と大意、また、拝読範囲の理解を深める解説を掲載します。「大白蓮華」4月号と共にご活用ください。(御書講義の映像は4月8日から30日まで配信されます。「SOKAnet会員サポート」のほか、会館や個人会場、「モバイルSTB」〈インターネットを通してダウンロードが必要〉で視聴できます)
背景と大意
本抄は、文永9年(1272年)2月11日、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地・佐渡の塚原で著されました。「生死一大事血脈」について質問した最蓮房への御返事と伝えられています。
最蓮房について、詳しいことは分かっていませんが、天台宗の学僧であり、何らかの事情があって流罪された佐渡の地で、大聖人に帰依したと考えられます。
題号にある「生死一大事」とは、生死を繰り返す生命において根本の大事。「血脈」とは、親から子へ血筋が受け継がれるように、法が仏から衆生へ伝えられていくことを意味します。
大聖人は本抄の冒頭で、「生死一大事の血脈」とは「妙法蓮華経」であると結論を示されます。「妙法蓮華経」こそ、釈迦仏・多宝仏から上行菩薩に付嘱された根本の法であるからです。
さらに、衆生が生死一大事の血脈を継承するための肝要について、3点述べられています。
第一に、仏と法と衆生の生命に違いがないと信じ、題目を唱えること。
第二に、三世にわたって妙法を受持し抜くこと。
第三に、異体同心の団結で南無妙法蓮華経と唱え抜くことです。
続いて、困難と戦っていたであろう最蓮房に対し、三世の絆で結ばれた師弟の宿縁の深さを強調されます。
末尾には、いよいよ強盛な信心を奮い起こすよう励まし、「信心の血脈」がなければ法華経を持ったとしても意味がないことを断言され、本抄を結ばれています。
正しい生命観が幸福開く
「生死」をどう捉えていくか――宗教にとって根幹ともいえるテーマに対し、仏法では三世の生命観を説きます。
日蓮大聖人は、「生死」についての「根本の重要事」を説いた本抄で、次のように示されています。
「天地・陰陽、日月・五星、地獄から仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。このように、生死もただ妙法蓮華経の生死なのです」(新1774・全1336、通解)
生も死も三世の生命に具わる変化の姿であり、「生」は生命が顕在化している状態、「死」は冥伏し潜在化している状態のことです。仏の智慧から見れば、生命は過去から現在、そして未来に向かって、生死のリズムを永遠に繰り返しているのです。
一方、三世の生命観が分からない衆生は、死を忌み嫌い、今世の生だけに執着して苦悩します。いわば「迷いの生死」に陥ってしまうのです。
大切なことは、南無妙法蓮華経の実践によって、自身の仏界を開いていくことです。そうすれば、現在の「生」を最高に輝かせることができます。
また、妙法を持つ人の生命は、「死」によって大宇宙と一体となり、再び大宇宙の無限の生命力を体現し、生となって顕在化します。ゆえに、「妙法蓮華経の生死」の法理を確信すれば、死をむやみに恐れることはないのです。
「生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経これなり」(新1774・全1336)――本抄の冒頭の一節に仰せの通り、妙法こそ、生死の苦悩を乗り越え、三世にわたる幸福境涯を開くカギなのです。
異体同心こそ広布の要諦
日蓮大聖人は拝読範囲で、「異体同心」で南無妙法蓮華経と唱え抜くことこそ、広宣流布の大願を成就する要諦であると断言されています。
異体同心の「異体」とは、一人一人の姿形や持ち味、立場などが異なること。その上で「同心」とは、目的観や志を同じくすることです。
つまり、「異体同心」とは、個性を持つ各人を最大に尊重しながら、共通の目的に向かって心を合わせて団結していくことです。
大聖人が示された異体同心の精神は、今、創価学会に受け継がれています。
学会では草創以来、会員同士が互いの幸福を祈り、励まし合いながら、広宣流布という大目的の実現へ前進してきました。
「どんな人にも分け隔てなく、温かく接しよう」
「同志と仲良く、広布に前進していこう」
と決意し、実践することで、わが境涯が仏の大願と合致し、大きく広がっていきます。それぞれの人が自分らしく輝き、使命を果たしていくことで、広布の勢いもまた加速していくのです。
池田先生は、「広布の誓願に向かって異体同心で進む学会だからこそ、一人一人が人間革命できるのです。そして、人々が希求してやまなかった恒久平和への連帯を創り広げながら、やがては国土、そして全人類の宿命の転換をも可能にしていくのです」と。
分断と対立が深まる現代にあって、あらゆる差異を超え、人と人とを結ぶ創価の連帯は、世界中で存在感を増しています。どこまでも学会と共に歩み抜き、自他共の幸福を実現していきましょう。
不屈の“真実の弟子”に
「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめん」(新1776・全1337)――あらゆる法難を勝ち越え、日蓮大聖人は広宣流布の誓願に尊き生涯をささげられました。
流罪地の佐渡における大聖人は罪人の身であり、念仏者らから命をも狙われる状況でした。大聖人の弟子となったことで、最蓮房もまた何らかの圧迫に遭っていたようです。それでも決して屈しなかった最蓮房を、大聖人は「真金の人」と称賛されました。苦難に襲われようとも、師と共に広布のために戦い抜いてこそ、真金の人、すなわち“真実の弟子”なのです。
さらに大聖人は、「あなたは過去世の縁のゆえに、今世で日蓮の弟子になったのでしょうか」(新1776・全1338、通解)と、深遠な師弟の縁について教えられています。
弟子が師と同じ誓願に立ち上がり、自他共の幸福に生き抜く――その時、師弟は一体となり、三世の広布旅を歩んでいくことができるのです。
池田先生は本抄について、「師弟の絆は今世だけでなく、生々世々、常に一緒であり、なおかつ、絶えず、共に民衆を救う行動を貫いていくという法華経の崇高な精神の真髄が示されています。師と弟子が、いかなる場所をも仏国土へと変えるため、また全民衆の宿命転換のために戦っていく。そのことは、久遠(遠い昔)からの約束であり、自らの誓願にほかなりません」と講義しています。
私たちも、広布の師匠と共に歩めることに無上の喜びを感じ、日々の学会活動に前進していきましょう。
2024年3月3日
2024年
3月度座談会拝読御書
兵衛志殿御返事
(三障四魔の事)
御書新版 1488ページ4行目~6行目
御書全集 1091ページ15行目~16行目
障魔の坂を上り切り成仏の大境涯を築く
拝読御文
『しおのひるとみつと、月の出ずるといると、夏と秋と、冬と春とのさかいには、必ず相違することあり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり。』
〈池田先生の指針から〉
戦うことは喜び
三障四魔といっても、できるものなら、困難には遭遇したくない。そう思うのは、人間の素朴な心情かもしれません。
しかし日蓮大聖人は、三障四魔が出来することは「喜び」であると仰せになっています。
なぜ、障魔が競い起こることが「喜び」なのか。どうすれば「喜び」となるのか。
結論を先に言えば、その障魔の坂を上り切るなかで成仏の境涯が築かれ、頂上には常楽我浄の大眺望が開かれるからです。
三障四魔について、戸田先生は幾度も語られました。三障四魔が出来することは、小さな功徳の山から、成仏という大境涯の山に登る際の谷間に生ずる生命の鍛錬である、ということを打ち込んでくださったのです。
大切なのは、三障四魔の捉え方です。「これは、自分が呼び起こした障魔だ!」と自覚することです。
一見、障魔から攻め込まれているように思うことがあるかもしれない。しかし本質は逆です。私たちが自ら勇んで成仏の峰に挑んだがゆえに、障魔が競い起こったのです。
魔が競うのは、正法である証です。実践が正しいことの証明です。
どこまでも、主体者は自分です。永遠の常楽我浄の幸福境涯を得るために避けて通ることのできない試練である――こう覚悟した者にとって、障魔と戦うことは最高の喜びとなるのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第13巻)
不退の人生をまっすぐ
本抄をいただいた当時、兵衛志、つまり池上兄弟の弟・宗長は人生の岐路に立たされていました。
極楽寺良観を信奉する父が兄弟の信仰に反対し、兄・宗仲に2度目の勘当を言い渡したのです。武家社会における勘当は、家の相続権を失うことを意味します。それでも宗仲は信心を貫く決意でした。
一方で、兄が勘当されれば、自分が家督を譲り受けることになる宗長は、信仰を取るのか、社会的な地位や財産を取るのか、選択を迫られていたのです。
大聖人は「あなたは目先のことにとらわれ、信仰を捨ててしまうでしょう。道理の分からない世間の人々は、それをほめるでしょう」(新1487・全1091、趣意)と、宗長の揺れる心境を鋭く指摘されます。
その上で、潮の満ち引きや四季の変わり目に変化が起こるように、凡夫が仏に成る時も三障四魔が競い起こるのです――と、信心に励んできた兄弟にとって、この苦難は障魔によるものであると見破られています。
そこからは、“今こそ一歩深い信心に立ち、勝利の人生を開きゆくのだ!”との、大聖人の厳愛が伝わってきます。
その後、師の指導通りに信心を貫いた池上兄弟は、父親を入信に導くなど、一家和楽を築くことができたのです。
試練に直面し、悩み迷う時も、仏法の眼があれば障魔を見破り、正しき方向へと進むことができます。いかなる時も信心を貫き、不退の人生を真っすぐに歩み抜いていきましょう。
どこまでも学会と共に
賢者はよろこび愚者は退く――三障四魔が競い起こった時に、喜び勇んで前進するのが賢者の生き方であることを教えられた御文です。
まさに、迫害に遭うほど、いよいよ強盛な信心で広布の闘争を貫かれたのが日蓮大聖人でした。その尊きお姿を模範とし、多くの門下が、難と戦い、仏の境涯を開いていったのです。
苦難に立ち向かうことで、境涯を大きく広げることができます。では、現代に生きる私たちが魔を打ち破り、賢者になっていくためには、どのような実践が必要でしょうか。
池田先生は本抄の講義の中で次のように教えています。
「魔と戦う時に大事なことは、第一に『題目』です。自身の仏の境涯が躍動すれば、魔に打ち勝つことができます。そして、第二に『和合僧』の世界に入ることです。環境によって自分の生命を支配されてはならない。勇んで『信心の世界』に飛び込むことです。不惜身命の師と共に、異体同心の同志と共に進むことです」
大聖人直結の「賢者の信心」は今、あらゆる障魔をも追い風に変えて、世界広宣流布にまい進する創価学会に受け継がれています。
日々、題目を唱え抜くとともに、仏意仏勅の和合僧(集い)である学会の中で、同志と励まし合うことが大切なのです。
「どこまでも学会と共に!」と信心を実践する時、わが生命が仏の大生命に連なり、いかなる障魔にも、喜び勇んで立ち向かっていく生命力が湧き上がるのです。
2024年2月4日
2024年
2月度座談会拝読御書
大悪大善御書
御書新版2145ページ1行目~3行目
御書全集1300ページ1行目~3行目
使命を自覚すれば喜びに包まれる!
拝読御文
『大事には小瑞なし。大悪おこれば大善きたる。すでに、大謗法、国にあり。大正法、必ずひろまるべし。各々なにをかなげかせ給うべき。迦葉尊者にあらずとも、まいをもまいぬべし。舎利弗にあらねども、立っておどりぬべし。上行菩薩の大地よりいで給いしには、おどりてこそいで給いしか。』
〈池田先生の指針から〉
大善に転じていく
大悪が起きた時こそ、自身がどのように受け止めるのか。今こそ最高のドラマを演じるのだと決意し、「師子王の心」を取り出して行動に打って出てこそ、実際に大善に転ずることができるのです。
当時、一国を挙げて大謗法となり、大聖人の門下も大変な環境の中にいました。大聖人は、そうした時こそ広宣流布が大きく前進する瑞相であると断言されています。
◇ ◇ ◇
人々のために戦う菩薩の誓願に目覚めた生命こそが、無上の大歓喜に包まれるのです。それは、「舞」や「踊り」で象徴されるように、誰も止めることができない無限の生命の躍動です。この菩薩の誓願に立ち戻れば、必ず、いかなる大悪も断じて大善に変えていくことができる。その自身の本源的な生命の力に目覚めれば、何も嘆くことなどないではないかと、御本仏は教えてくださっているのです。
今、まさに、この菩薩の誓願の躍動は、一人立つ学会員の行動そのものの中にあります。地涌の使命を担う創価の同志は「人間革命」の舞によって、また、踊るが如く菩薩の生命を涌出する「平和・文化・教育」の貢献によって、さらに、凍てついた不信の大地に動執生疑を起こす草の根の「普賢の対話」の力によって、世界広布を現実としてきたのです。(『広布共戦の師弟旅』)
今こそ語り抜く時
相次ぐ災害や疫病の流行、内乱や蒙古襲来による社会の混乱――日蓮大聖人の御在世当時、人々は不安と恐怖におびえていました。
そのような時代にあって、日蓮大聖人は門下を鼓舞されました。
“大正法が必ず広まるであろう。何も嘆くことはないのだ!”と。
そこには、妙法流布による「立正安国」の実現への御確信があったのです。
しかし、ただ傍観しているだけで、正しい法が自然に人々に広まっていくのではありません。
生涯、不惜身命の闘争を貫かれた大聖人のごとく“社会の安穏と人々の幸福を、必ず実現してみせる”と、自ら行動する「一人」の存在があってこそ、広宣流布は進んでいくのです。
池田先生は「大悪を乗り切るだけではない。さらには、大善にまで転ずることができる。いな、断じて転じてみせる。これが、他の思想哲学の次元を遙かに凌駕した、日蓮仏法の正義のダイナミズムであります」と指導しました。
地球規模で広がる深刻な環境問題や、絶えることのない戦火や紛争――人類がかつてない試練に直面する現代だからこそ、日蓮仏法の生命尊厳の哲学はいやまして光を放っています。
現実を嘆き、諦めても何も変わっていきません。世界の青年と手を取り、“今こそ、私たちが人間主義の哲学を語り広げ、社会に、人々に希望を送る時!”と決意し、時代変革の旗手として立ち上がろうではありませんか。
歓喜が前進の原動力
いかなる時も、喜び勇んで行動する人に停滞はありません。歓喜こそ、あらゆる前進の原動力となります。
日蓮大聖人は本抄で、釈尊の十大弟子である迦葉、舎利弗の歓喜の姿を描いています。両者とも、成仏できないとされていた二乗でしたが、法華経において、釈尊から成仏の法を教わります。そして、自分も成仏できることを知った歓喜に舞い踊ったのです。
さらに、地涌の菩薩についても触れられています。法華経の会座で、釈尊が末法の広宣流布を託す弟子を呼び出した時、無数の地涌の菩薩が踊りながら出現しました。
上行菩薩は地涌の菩薩のリーダーです。人々を救う“地涌の使命”を自覚した喜びを全身で表さずにはいられなかったのでしょう。
今、世界の同志が「伝統の2月」を駆けています。1952年、若き池田先生が指揮を執り、広布拡大の突破口を開いた蒲田支部の「二月闘争」。その原動力もまた、一人一人の会員が実感した信心の歓喜にありました。
偉大な師と出会い、仏法を実践する中で自らの無限の可能性に気づいた喜び。さらに、“この信仰の素晴らしさを、自身の体験を友に語り広げていこう!”と、自らの使命を自覚した時の大歓喜――その生命の躍動によって、対話の輪が大きく広がっていったのです。
広布拡大の方程式はいつの時代も同じです。師と共に、同志と共に広布へ走れる喜びを忘れず、一人一人が「私の二月闘争」に勝利していきましょう。
2024年1月7日
2024年
1月度座談会拝読御書
崇峻天皇御書
(三種財宝御書)
御書新版1596ページ7行目~10行目
御書全集1173ページ14行目~16行目
生命を荘厳しゆく「心の財」は永遠に
拝読御文
「中務三郎左衛門尉は、主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねも、よかりけり、よかりけり」と、鎌倉の人々の口にうたわれ給え。あなかしこ、あなかしこ。蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは、心の財をつませ給うべし。
〈池田先生の指針から〉
「仏法即社会」の妙法
「よかりけり」とは、言い換えれば周囲からの信頼であり、社会からの賞讃です。
四条金吾が、主君の出仕の供に加えられ、鎌倉市中を進んだ時のことです。その馬上豊かな雄姿に、辻々から感嘆と賞讃の声が上がったのです。「あの偉丈夫といい、面魂といい、馬や従者といい、中務三郎左衛門尉が第一である。あっぱれ、なんと立派な男よ、男よ」(全1175・新1599、通解)と。
それは、師が念願された通り、皆に「よかりけり」と讃えられる姿そのものでした。
大聖人は、金吾に、仏とは「世雄」であり、“仏法は勝負である”と教えられました。人生も勝負です。社会もまた勝負です。「仏法即社会」の妙法を抱き、「法華経の兵法」という絶対勝利の信心を持った私たちは、不屈の勇者、不敗の賢者として、誇り高く戦い抜き、断固と勝ち切っていきたい。(2021年1月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)
◇ ◇ ◇
心の力は無限である。たとえ、「蔵の財」や「身の財」が剝奪されたとしても、「心の財」があれば、生命は歓喜に燃え、堂々たる幸福境涯を確立することができる。
「心の財」は、今世限りではない。三世にわたり、永遠にわが生命を荘厳していく。それはまた、「蔵の財」「身の財」をもたらす源泉ともなる。
人間の本当の幸福は、蔵や身の財によって決まるのではない。心の豊かさ、強さによって決まるのだ。どんな逆境にあろうが、常に心が希望と勇気に燃え、挑戦の気概が脈打っているならば、その生命には、歓喜と躍動と充実がある。そこに幸福の実像があるのだ。(小説『新・人間革命』第22巻「命宝」の章)
今いる場所で信頼を
仏法の実践者は、どんな苦境をも、さらなる成長と躍進の舞台へと変えていくことができます。
本抄をいただいた四条金吾は主君との人間関係が悪化し、所領没収の危機に陥りました。窮地の中、医術の心得のあった金吾が、疫病に倒れた主君の治療を担うことになったのです。
信頼を回復する好機であるものの、日蓮大聖人は、金吾に対する同僚からの嫉妬が一層強まることを懸念されていました。
だからこそ、本抄で金吾に対して、誠意をもって行動し抜く中で、“あの人は素晴らしい”“立派だ!”と、人々からたたえられる人になるよう指導されました。
仏法の根本目的とは、いかなる時も人を敬い、感謝を忘れない「人の振る舞い」を示すことにあるからです。
大聖人が仰せの「主の御ため」「仏法の御ため」「世間の心ね」とは、現代でいえば、それぞれ“職場・仕事において”“広宣流布の活動において”“縁する人々との交流において”と捉えられます。
そして、金吾における「鎌倉中の人々に称賛される」とは、私たちに当てはめれば、今いる場所で“なくてはならない人”として輝いていくことにほかなりません。
“君がいると皆の心が明るくなるよ”“あなたが一緒に祈ってくれたから、悩みを乗り越えることができました”――そのように周囲の人々から感謝と信頼の声が寄せられる人こそ、仏法の偉大さの証明者であり、人生の勝利者なのです。
師と共に広布を実践
「心の財第一なり」
「心の財をつませ給うべし」
日蓮大聖人は、「心の財」すなわち、生命に積んだ福徳や、心の豊かさこそ、人生における最も大切な価値であることを教えられました。
お金などの財産を示す「蔵の財」も、健康や才能を表す「身の財」も、生活の充実のためには欠かせません。一方で、それらは移ろいやすく、環境が変われば失われてしまうものです。
しかし、信心の実践で築き上げた「心の財」は、決して壊れることはありません。では、具体的にどのようにすれば、「心の財」を積んでいくことができるのでしょうか。
池田先生は「ほかの人のために悩んだ分だけ、戦った分だけ、『心の財』を積むことができる。そして、どんなことが起ころうとも揺るがぬ幸福境涯を確立していくことができるのです」と、指導しています。
悩める友のために、共に祈り、真心の励ましを送る――自他共の幸福をめざす、日々の学会活動に挑戦する中で福運がつき、心は大きく豊かに広がっていくのです。
小説『新・人間革命』のあとがきには「創価の同志が『山本伸一』として立ち、友の幸福のために走り、間断なき不屈の行動をもって、自身の輝ける『人間革命』の歴史を綴られんことを、心から念願している」と記されています。
本年も、偉大なる師と同じ心で広布の実践に尽くしていきたい。その時、「心の財」が積まれ、わが人生を幸福の軌道へと導いていくことができるのです。
2024年1月1日
〈新年勤行会 拝読御書〉
諸法実相抄
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は、男女はきらうべからず、皆地涌の菩薩の出現にあらずんば唱えがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり。未来もまたしかるべし。これ、あに地涌の義にあらずや。あまつさえ、広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えんことは、大地を的とするなるべし。』
(新1791・全1360)
悪世末法の妙法弘通を託された地涌の菩薩。智慧と勇気にあふれたその地涌の生命に、全ての人が目覚めていくと、日蓮大聖人は宣言されています。
池田先生は地涌の使命を自覚した崇高な生き方について、つづっています。
「民族や人種、国籍や性別など一切の差異を超え、生命の大地の奥深くに広がる大いなる創造的生命――人類共通のルーツに基づく使命といってもよい。
それに気づくことを『地涌』というのです。
いかなる人も尊極の生命の当体です。互いに励まし合い、尊敬し合いながら、今この地上に生きる仲間として、自他共の無限の可能性を開き、幸福と平和という価値を創造する底力がある。偉大な使命があるのです。
その使命に生きることを誓って現実社会に躍り出たのが、私たちなのです」
混迷の社会を照らす平和への確かな哲理を時代は求めています。
昇りゆく太陽のような地涌の大生命力をたぎらせ、新たな前進を開始しましょう!
2023年12月3日
2023年
12月度座談会拝読御書
日妙聖人御書
御書新版1681ページ6行目~8行目
御書全集1215ページ18行目~1216ページ1行目
師匠と「同じ心」で妙法を弘通し抜く
拝読御文
『我ら具縛の凡夫、たちまちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云わく「我がごとく等しくして異なることなし」等云々。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。』
〈池田先生の指針から〉
まっすぐな信心を
「如我等無異」の仏法だからこそ、まっすぐな信心を貫き通した人の胸中には、必ず仏の広大な世界が現れ出るのです。
大聖人は、日妙聖人の行動の中に、この法華経の実践の肝要が脈打っていることを御覧になられたのでありましょう。命を賭した女性の求法の旅は、あまりにも健気で、あまりにも尊貴な法華経の行者の振る舞いであります。それゆえに、「日本第一の法華経の行者の女人なり」(全1217・新1683)とまで賞讃されていると拝されます。
誓願の行動は、一人ひとりが異なります。もとより誓願は自発の行為です。それぞれの境遇や環境で、具体的な行動は皆、違います。
しかし、そこに流れるのは、「皆が仏である」「皆を仏にする」という法華経の極理と実践を師匠と共有し、自ら立ち上がるという「師弟共戦」の誓願ではないでしょうか。
師匠と「同じ心」で同じく妙法を弘通する。「一人の人を大切にする」「目の前の一人を徹して励ます」という行動が同じであれば、その人は、まぎれもなく師弟不二の人です。
◇ ◇ ◇
衆生がいかに仏道修行を積み重ねても、「釈尊と斉等なり」とならなければ、仏法の目的を成就したことにはならない。「斉等」とは、両字とも「ひとしい」という意味です。「釈尊と平等」なのです。
大聖人は本抄(=日妙聖人御書)で、「師子王の子は師子王となる」(全1216・新1681)、法華経の行者は「教主釈尊のごとく法王とならん」(同)と仰せです。
仏が「吾子」として、一切衆生を「仏子」と呼ぶのも、「仏」にするためです。仏子がいつまでも「子」のままでは、親である「仏」は、永遠に使命を全うすることはできません。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第19巻)
信頼と励ましの世界
“私たち凡夫も、仏と全く等しい境涯を得ることができるのです”――けなげに信心に励む乙御前の母(日妙聖人)に対し、日蓮大聖人が送られた、慈愛の言葉です。
何らかの理由で夫と別れた後、幼い娘を育てていた乙御前の母。自然災害や戦乱が続く、騒然とした社会にあって、人知れぬ不安や苦労も抱えていたに違いありません。
それでも、乙御前の母は求道の心を燃やし続けました。鎌倉から遠く佐渡の地まで、厳しい道のりを越え、大聖人のもとをお訪ねしたのです。
その不屈の信心と、命がけともいえる広布の実践を、大聖人は本抄で重ねてたたえられています。
「あなたは、日本第一の法華経の行者の女人ですよ」(新1683・全1217、通解)と、弟子の陰の労苦を思いやり、最大限の賛辞を送る師匠。温かな真心と、妙法への大確信あふれる言々句々に、乙御前の母は、どれだけ勇気づけられたことでしょう。
池田先生は、「三世永遠の深き生命の絆で結ばれた信頼と励ましの奇跡の世界が、我ら創価家族である」と、つづりました。
大聖人の大願を受け継ぎ、人々に励ましを送りゆく善知識の連帯が、創価の三代会長、なかんずく池田先生が築いた創価学会の世界なのです。
「師を求め抜いた一年」
「広布に走り切った一年」
「苦難に負けなかった一年」――本年の奮闘を互いにたたえ合い、一層の前進を決意したい。不二の師匠、そして同志と共に、弾む心で明年を迎えていきましょう。
「如我等無異」の仏法
一切衆生の幸福こそ、仏の願いです。その大慈悲が込められているのが「如我等無異」、すなわち“すべての人々に、仏と同じ境涯を開かせたい”との、法華経の一節といえましょう。
日蓮大聖人は、仏の大願の実現へ、万人成仏を可能にする南無妙法蓮華経の大法を確立されました。さらには、苦悩に沈む民衆に具わる仏界の生命を呼び覚まそうと、一人一人を慈愛で包み込みながら、妙法を弘め抜かれました。
弟子として大切なことは、偉大な師に続き、「如我等無異」の仏法を、力の限りに展開していくことです。
拝読御文で「法華経を心得る」実践を強調されているように、経文通りの行動の中に、弟子の成長と幸福があり、広宣流布の未来が開かれていくのです。
池田先生は本抄を拝して、次のようにつづりました。
「『如我等無異』とは、同じ心で弟子が立ち上がってこそ、初めて真の価値を生みます」「仏と同じ願いに立って、さらに多くの周囲の人を『釈尊と斉等なり』と励ましていく。この壮大な民衆革命にこそ、法華経が人類の経典として存在する目的があるといえましょう」
今こそ私たちも、「一人」のために真心の声をかけ、励ましの輪を大きく広げていきたい。
“あなたにも無限の可能性が絶対にあります”“一緒に祈り、共に幸せな人生を歩んでいきましょう!”――と。
その時、仏の大願、仏の大慈悲と、自身の境涯が合致していくのです。
2023年11月5日
2023年
11月度座談会拝読御書
寂日房御書
御書新版1270ページ1行目~2行目
御書全集903ページ7行目~9行目
自行化他の実践に地涌の生命が脈動
拝読御文
『かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。』
池田先生の指針から
師弟の宿縁を自覚する
法華経は、過去世からの「宿業」に縛られて生きるのではなく、誓願によって「使命」に生きることを教えました。
今ある境遇を運命だと諦めるのでも、全てが偶然だと虚無的になるのでもない。自分はあえて願って生まれてきた、使命あってここにいる、と深く捉え返していくのです。
大聖人は、太陽のごとく末法の衆生の闇を照らす上行菩薩の御自覚を示され、弟子たちに仰せです。
「かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり」(新1270・全903)
師弟の深き宿縁を自覚し、師の大恩に報いようと、共に広宣流布の誓願に生きていく。そして、いかなる逆境にあろうと、宿命を使命に変え、人間として最も力強い生き方を貫いていく――これ以上に崇高な人生はありません。(『誰もが輝く「人間主義の世紀」へ!』)
◇ ◇ ◇
広宣流布こそ、大聖人の大願であり、その実践にこそ、門下の根本要件がある。したがって、日蓮仏法の仏道修行とは、自行化他であり、布教が不可欠な実践となるのである。(中略)
いかに日蓮大聖人の門流を名乗り、権威を振り回そうが、広宣流布への実践がなければ、そこには、大聖人の御精神はない。それは、儀式化した“死せる宗教”に等しい。
広宣流布の使命を自覚し、人びとに救済の手を差し伸べる、弘教という行動のなかに、大聖人の大精神が、地涌の菩薩の大生命が脈動するのである。(小説『新・人間革命』第24巻「厳護」の章)
共戦の人生を歩み抜く
「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(新1269・全902)――本抄の前半で、日蓮大聖人は、そう高らかに宣言されました。
続いて、「八十万億那由他の菩薩は、口には宣べたれども修行したる人一人もなし」(同)と仰せです。決意の言葉を口にするだけではなく、「行動」の大切さを示されています。法華経に説かれる通りに、襲いかかる法難にも屈することなく、不惜身命で広布の実践を貫き、経文を身読された大聖人こそが、真実の「法華経の行者」なのです。
御自身の立場を明確にされた上で、大聖人は拝読御文で「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と、門下に対し、師弟一体の闘争を貫くことを強調されました。
“わが弟子たちよ。私と同じように、広布に生き抜いていくのだ!”――。
師の気迫こもる呼び掛けに、お手紙を手にした門下は師弟共戦へ奮い立ったに違いありません。
池田先生は今回の御文を拝して、「『宿縁ふかし』とは、まさしく『共戦の門下』と言い換えることができるでしょう。常に師匠と広布の庭で、共戦の人生を歩んでいく――これほどの誉れはありません」とつづっています。
今こそ、師弟の宿縁に感謝し、広宣流布大誓堂完成10周年の佳節を、報恩の心で勝ち飾る時です。
師弟の誓いを果たしゆくのは、日々のたゆまぬ実践にほかなりません。自身が掲げた、人間革命と広布の目標の成就へ、勢いよく前進していきましょう。
広布の使命に目覚めよ
日蓮大聖人は、門下たちが「法華経の行者」と呼ばれることについて「不祥」、つまり“不運”“災難”と表現されています。
信仰を貫くゆえに試練が立ちはだかる――世間一般の価値観からすれば、望ましいことではないかもしれません。
しかし、仏法に照らせば、広宣流布の途上における苦難に打ち勝つ中に、人間としての成長や、人生の充実があります。
何より、自ら労苦を重ねながらも、偉大な師と共に人々の幸福に尽くし抜けることは最上の誇りです。
その確信に立てば、大聖人が仰せの「まぬかれがたき身」とは、過去からの宿命に縛られた、狭い境涯を示すのではありません。過去世での誓いにより、必然の因果として、広布の使命を担い立った「使命深き身」なのです。
だからこそ、大聖人は“自らの使命に目覚めよ!”との確信を込め、門下の心を鼓舞されたのでしょう。
小説『新・人間革命』第25巻「共戦」の章で、山本伸一は同志にこう訴えています。
「私たちは、地域、社会の人びとに、正しい仏法を教え、一人も漏れなく幸せにしていくという、使命をもって生まれてきたんです。その使命に生き抜こうと心を定め、信心に励む時、仏、菩薩の生命が涌現し、無限の力が、智慧が、湧いてくるんです」
自分だからこそ果たせる使命が必ずある――そう深く自覚し、懸命に広布に走る人こそ、御本尊の功力によって、三世に崩れぬ福徳に包まれていくのです。
2023年10月1日
2023年
10月度座談会拝読御書
報恩抄
御書新版261ページ4行目~6行目
御書全集328ページ16行目~329ページ1行目
仏の仕事を行うのは民衆の声と振る舞い
拝読御文
日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきらわず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。このこといまだひろまらず。一閻浮提の内に仏の滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もおしまず唱うるなり。
池田先生の指針から
学会が大法弘通を実現
今や、創価の人間主義の連帯は世界百九十二カ国・地域へと広がりました。一日二十四時間、一年三百六十五日、地球上に絶え間なく題目の音声が響きわたる時代が到来したのです。
「報恩抄」には、「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(全328・新261)と綴られております。この御聖訓を胸に、学会員が、現実に大法弘通の道を開いてきたのです。
「御義口伝」には、「梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり」(全708・新984)と説かれ、全世界の一切衆生の幸福を実現せんとの仏の願いが込められています。
今、世界の各地にあって、この題目の功力を獲得する信心によって蘇生の人生を歩み、その一人の「振る舞い」が共感を呼び、信心の「歓喜」が、一人また一人へと伝播し、立ち上がっていく。いわば「五十展転」の随喜の功徳が広がる姿となっています。(『調和と希望の仏法』)
◇ ◇ ◇
御書には、「声もをしまず」(全328・新261)、「声仏事を為す」(全708・新985)等と記されている。仏の仕事を行うのは、妙法に生きる民衆の声であり、一つ一つの振る舞いである。友を勇気づけるには、まず自分が勇気を奮い起こすことである。
友に確信を与えるには、まず自分が確信の祈りに徹することである。友に希望を贈るには、自分が希望を見いだし、一歩踏み出すことである。私たちの「声」一つ、「心」一つで、これらすべてを行うことができる。(『池田大作全集』第99巻)
唱題こそ最高の実践
南無妙法蓮華経こそ、日本のみならず、全世界に広まるべき大法なのだ――日蓮大聖人が、世界広宣流布の未来を確信されていたことが伝わってきます。
遠大な展望を抱きつつ、大聖人の慈愛の眼はどこまでも、一人一人の「人間」に分け隔てなく向けられていました。この大聖人の民衆救済の精神が込められているのが、万人成仏を実現しゆく南無妙法蓮華経の大法なのです。
だからこそ、「人ごとに有智・無智をきらわず」と、仏法についての智慧がある、ないにかかわらず、あらゆる人々に対して、南無妙法蓮華経の唱題を実践することが大切であると呼びかけられているのです。
また、「他事をすてて」と唱題行の要諦を教えてくださっています。
人は苦難や逆境に直面すると、ともすれば、表面的な策に走ってしまいがちです。ゆえに大聖人は、いかなる時も南無妙法蓮華経を根本にしていく、強き信心の姿勢を強調されたのです。
“決して、一人も置き去りにしない”“妙法の力で全ての人を仏の境涯に導こう”との、大聖人の思いを感じずにはいられません。
池田先生は教えています。
「最高の仏道修行となり、この上ない歓喜の源泉となる南無妙法蓮華経の題目を唱えられること自体、どれほど福徳のあることか。これ以上に深い生命の喜びはありません」
日々、唱題を実践できる喜びと、大聖人の大慈悲への感謝を忘れず、題目根本の生き方を貫いていきましょう。
「一人立つ」信心を
「日蓮一人だけが、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、声も惜しまず唱えているのである」と仰せのように、釈尊の滅後に妙法を説き弘められたのは、日蓮大聖人ただお一人です。
この広宣流布に一人立つ御覚悟について、大聖人は他の御書で次のように記されています。
「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(新1790・全1359)、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり。未来もまたしかるべし」(新1791・全1360)――等と。
池田先生は「日蓮一人」について、「一切衆生を救いゆかれる末法の御本仏としての峻厳な闘争からのお言葉でありましょう。しかし、同時に、この『一人』とは、『唯一人』との御自覚であるとともに、無限の広がりを含んだ『先駆の一人』であるとも拝せます」と指導しています。
私たちにとって大切なことは、大聖人に連なり、「自他共の幸福」という使命に生き抜くことです。それは、大聖人のごとく、今いる場所で一人立ち上がり、広宣流布の全責任を担うことなのです。
「声も惜しまず」とは、大聖人が身命を惜しまず、妙法を弘通し抜かれたことを示していると拝せます。
私たちもまた、自らが「声も惜しまず」題目を唱え抜き、縁する友に「声も惜しまず」仏法を語り、励ましの声を広げていきたい。
その積み重ねが、一人一人の胸中に不動の信心を築いていくのです。
2023年9月3日
2023年
9月度座談会拝読御書
御義口伝
御書新版1027ページ4行目~6行目
御書全集736ページ12行目~13行目
悩める人々の心に希望と勇気を送る
拝読御文
御義口伝に云わく、「大願」とは、法華弘通なり。「愍衆生故」とは、日本国の一切衆生なり。「生於悪世」の人とは、日蓮等の類いなり。「広」とは、南閻浮提なり。「此経」とは、題目なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るなり。
池田先生の指針
人類の境涯革命を
「御義口伝」に、「大願とは法華弘通なり」(全736・新1027)と示されている通り、広布大願は日蓮門下の魂である。「一切衆生の成仏」の法理を明かした法華経を弘めることは、社会に広く深く生命尊厳と人間尊敬の思想を打ち込むことだ。
悩める人びとの心に、生きる希望と苦難に負けぬ勇気の火を灯しゆくことだ。
立正安国の旗を掲げて、崩れざる世界の平和の基礎を断固と築きゆくことだ。
広宣流布の前進の中にこそ、世界の民衆の命運を変えゆくカギが厳然とある。(『随筆 平和への大道』)
◇ ◇ ◇
「御義口伝」の御文にあるように、「大願」とは「法華弘通」、つまり「広宣流布の大願」にほかなりません。それは、地涌の菩薩の「誓願」とも一体です。
日々、御本尊を拝し、自他共の幸福の実現へと対話に走る――。学会員は、この濁世にあって、広布の誓願を掲げながら、世界中で菩薩行を生き生きと実践しているのです。
牧口先生は「仏法は生活法」であるといわれました。仏法は、私たちの「生」を、最大に「活」かす「法」です。私たちは日々、折伏・弘教で、自他共の「生」を活性化させています。人生の道に迷い、苦悩に沈む友に、また生きる意味を見いだせない人に、対話という最も地道な行動を通して、希望と蘇生の光を送り、「生命の意義」を共々に高め合っています。それは、人類の境涯革命を進める尊き実践でもあります。(『信仰の基本「信行学」』)
我らの久遠の大誓願
一切衆生の幸福の実現こそ、仏法の根本目的であり、仏の願いです。
日蓮大聖人は「大願」とは「法華弘通」すなわち、万人成仏の法を広げゆくことであると教えられています。
大聖人の御在世当時、災害や疫病、飢饉が打ち続き、社会は乱れ、人々は明日のわが身もわからない状況でした。
自分のことだけにきゅうきゅうとする時代にあって、大聖人は、自身の幸せを願うだけではなく、他者に尽くす広布の誓いに生きることを教示されています。それは、仏と同じ誓願を貫く時、「仏の智慧」「仏の勇気」が湧き、自身の境涯を大きく切り開くことができるからなのです。
現代において、大聖人のお心のままに民衆救済を誓い、世界中に自他共の幸福を広げているのが創価学会です。
東京・信濃町の「広宣流布大誓堂」に設置された「広宣流布 誓願の碑」の碑文に、池田先生は認めました。
「広宣流布は、世界の平和と社会の繁栄を開きゆく大道なり。全人類を救わんとする、我らの久遠の大誓願なり」
「日蓮大聖人に直結し創価三代に連なる宝友が異体同心の団結で、末法万年にわたる『広宣流布』即『世界平和』の潮流をいよいよ高めゆかんことを、ここに強く念願するものなり」
誓願を果たしゆく、日々の実践の中に、自身の人間革命もあるのです。
いざ、「広宣流布大誓堂」完成10周年の「11・18」へ。一人一人が、広布の目標を明確にし、縁する人々の幸福を願う対話を広げていきたい。
民衆とともに幸福に
自らも苦難と戦いながら、悩める友のもとへ歩み寄り、同苦し、共に祈り、共に乗り越えていく――この実践を貫くところに、仏法者の崇高な生き方があります。
法華経法師品には、過去に大果報を積み、本来は清浄な世界に生まれるはずの菩薩が、苦悩する衆生を救済するために、あえて、衆生と同じ悪世に生まれることが説かれています。
日蓮大聖人は、この法師品の文について、「御義口伝」に、衆生を慈しむゆえに悪世に生まれてくるのも、正しい法を世界に弘めゆくのも、「日蓮等の類い」であると仰せです。
大聖人に直結し、妙法を弘める創価学会員は、混迷する現代社会に、広布の使命を果たしゆく偉大な菩薩です。ゆえに、今、自身が抱える困難や葛藤は、他者を救うために、自らが願って選んだ宿業であり、必ず乗り越えることができるのです。
私たちが信仰の実践で宿命転換する姿は、仏法の偉大さの証明になります。さらに、悲嘆に沈む友の心に、「自分も必ず幸せになることができるんだ!」と、希望の火を灯していくことができるのです。
池田先生は語られました。
「多くの人々と同じように『悩める民衆』の姿で生まれ、どこまでも『民衆とともに』幸福になっていく――それが私どもの使命のドラマなのです」
今日も、民衆の中へ、苦悩する「一人」のもとへ。温かな励ましと、揺るがぬ確信の声を、自ら勇んで届けていきましょう。
2023年8月1日
2023年
8月度座談会拝読御書
四条金吾殿御返事
(衆生所遊楽御書)
拝読御文
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え。
池田先生の指針
強く大きな自分に
現世安穏・後生善処が、法華経が説く妙法の功徳です。安穏とは、決して悩みや苦しみなど、人生の波乱がないことではありません。何があっても信心一筋に生き抜き、師子王のごとく勇敢に戦い勝っていくことです。
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(全1143・新1554)です。
いかなる時も題目を唱え抜いていくこと自体が、「自受法楽」の境涯です。ですから、大聖人は金吾に、「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(同)と言い切られているのです。
つらい時も、苦しい時も、四条金吾夫妻は大聖人のお手紙を拝し、強盛の信心で、自分の置かれている状況を悠々と見下ろしながら、師弟一体で戦い、そして見事に勝利の実証を勝ち取りました。(『世界広布新時代の指針』)
◇ ◇ ◇
今は苦しみの連続かもしれない。しかし、永遠に続く楽しみなどないように、永遠に続く苦しみもない。人生には、楽もあれば、苦もある。勝つこともあれば、負けることもある。
苦も楽もともにあるのが人生の実相である。
だからこそ、苦しくとも、また楽しくとも、ありのままの姿で、南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさいと、大聖人は教えておられるのである。
その人は、妙法の智慧と力によって、最高の幸福境涯となっていく。何ものにも負けない人生を生きることができるのである。
「自受法楽」の「自受」とは、「自ら受ける」ということである。人ではない。自分自身で決まる。人に何かをしてもらったり、他から与えられるものではない。
自分が自分で幸福をつくり、自分で幸福を味わっていく。どんな苦楽の道も、悠然と楽しんでいける強く大きな自分になっていく。それが「自受法楽」である。また、必ずそうなっていくのが、南無妙法蓮華経の力なのである。(『池田大作全集』第98巻)
苦しい時も、楽しい時も
「一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外の遊楽はありません」(新1554・全1143、通解)
本抄の冒頭で、日蓮大聖人はそう断言されています。
さらに、「世間の種々の難が起こってきても、とりあってはいけない。賢人や聖人でも、この留難は逃れられない」(同)と仰せです。
大聖人が指摘されている通り、
現実社会で生き抜く以上、苦難はつきものです。
しかし、“祈れること以上の幸福はない”との確信があれば、
何があっても、恐れることはありません。
あらゆる人々にとって、
唱題こそが、
障魔に打ち勝ち、
境涯を変革できる、
最上にして唯一の方途だからです。
拝読御文では「苦も楽もともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱え抜いていきなさい」と、教えられています。
苦楽の波に翻弄されてしまえば、信心が揺れ動き、幸福の軌道から外れてしまいます。一喜一憂することなく、苦しい思いも、うれしい気持ちも、ありのままの姿で、御本尊にひたぶるに、題目を唱え続けることが大切なのです。
池田先生は「生きていること自体が楽しいという絶対的な幸福境涯を築くには唱題以外にない。何があろうと唱題に徹すれば、何の心配もありません。わが身に、広大無辺の仏界の生命が開かれていくからです」とつづっています。
自身の宿命転換も、人間革命も、日々の積み重ねの先にあります。どんな時も、「自分には御本尊がある!」との確信で、たゆまぬ唱題に挑戦していきましょう。
「いよいよ」の信心を
本抄を頂いた建治2年(1276年)当時、四条金吾は悪戦苦闘の真っただ中にいました。
この2年前、金吾は主君を折伏。しかし、日蓮大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者であった主君から、疎まれるように。さらに、金吾をねたむ同僚たちからは根拠のない中傷を受けていたのです。
拝読御文では、そのような状況の金吾に、「いよいよ強盛の信力をいたし給え」と励まされています。
金吾は、大聖人が「竜の口の法難」に遭われた時、死を覚悟で同行しました。さらに、鎌倉から佐渡流罪中の大聖人を訪ねるなど、不惜身命で師を支えてきました。
このような模範の門下にさえ、大聖人はあえて、“今こそ、強き信心で立ち向かう時なのだ!”と、厳愛の指導を送られました。まさに、「いよいよ」の姿勢こそ一生成仏の要諦であることを大聖人は強調されたのです。
師の仰せ通りに信仰を貫いた金吾は、後に、主君からの信頼を回復。新たな領地を受けるなど、信心の功力を証明することができました。
池田先生は、本抄を拝して講義しています。
「『いよいよ』です。過去ではない、『今これから』です。『信力』です。『信』は『力』です。人間のもつ最強のエネルギーなのです。信力と行力に応じて、御本尊の仏力・法力を頂戴できます」
苦難の時に、いよいよの信心で立ち上がり、宿命や悩みを乗り越えていく。それこそが日蓮仏法を実践する、私たちの生き方なのです。
2023年7月2日
2023年
7月度座談会拝読御書
檀越某御返事
御書新版1718ページ11行目~1719ページ2行目
御書全集1295ページ7行目~8行目
今いる場所が信心の主戦場
拝読御文
さておわするこそ、法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ。あなかしこ、あなかしこ。
御みやづかいを法華経とおぼしめせ。「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」とは、これなり。
〈池田先生の指針〉
全てが人間革命の光となる
学会では草創以来、「御みやづかいを法華経とおぼしめせ。『一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず』とは、これなり」(新1719・全1295)との仰せを生活実践の根本としてきました。仕事こそ自身を鍛える修行の場であると捉えて、各自が職場の第一人者となるよう挑戦してきたのです。
その中で、多くの同志が見事な実証を示し、信頼を勝ち取ってきました。
それは、「法華経を持ち奉る処を、『当詣道場』と云うなり」(新1086・全781)と、今いる場所で敢然と課題と向き合い、粘り強く努力を重ねてきた結実であり、この原動力こそが信心にほかなりません。
そして今や、日本のみならず、世界中の同志の体験と実証が、この仏法の厳たる力を示しているのです。
(『誰もが輝く「人間主義の世紀」へ!』)
◇ ◇ ◇
日蓮大聖人が「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(全1295・新1719)と仰せの通り、職場をはじめ自分が活動する場所こそ、仏法実践の主戦場である。
戸田先生は、何より大事なのが「信用」だと、鋭く指導されていた。
それには、自分の為すことに確信を持つのだ。惰性と慢心を排し、何ものにも揺るがぬ自己を確立していくのだ、と。
アメリカの思想家エマソンは、「正しい努力が成功をおさめなかったためしはない」(「生活について」小泉一郎訳、『エマソン選集』3所収、日本教文社)と言った。
真面目に信心を貫いての努力は、全てが人間革命の光となる。その戦いの中で、力強さも風格も、そして信用も磨かれ輝いていくことを忘れまい。(『随筆 民衆凱歌の大行進』)
日々の実践に福運が
“そのようにおられることこそが、法華経を昼夜にわたり修行されていることになるのです”――。
日蓮大聖人は、武士であると考えられる門下に、信心根本に主君に仕える日々が、そのまま妙法の修行になり、福運が積まれゆくことを教えられています。
本抄は弘安元年(1278年)、身延で著されました。当時、大聖人に対して、伊豆流罪、佐渡流罪に続く、3度目の流罪が企てられていたようです。
門下にも執拗な弾圧が続き、お手紙をいただいた門下も、自らが難に遭うことを覚悟していたのでしょう。
そのような状況の弟子に対し、大聖人は、信心といっても決して特別なことではなく、誠実に、真面目に、今いる場所で地に足をつけ、使命を全うすることであると励ましを送られました。
現代に生きる私たちも、一人一人がそれぞれの課題に向き合っています。
仕事での苦闘、家族や自身の病、子育てや介護の悩み――一つ一つを信心と切り離すのではなく、使命の舞台と捉えていけば、全てが成長のための飛躍台になるのです。
池田先生は「妙法を持つ人が“今いる場所”こそ、広宣流布の本舞台です。自分にしか切り開くことのできない広布の曠野が必ずあります」とつづられました。
たとえ、どんな苦難に直面しようとも、「今から」「ここから」わが人間革命の劇が始まると確信し、自分らしく、たゆまぬ挑戦を続けていきましょう。
仏法は現実を変える力
現実社会を離れて仏法はありません。
この「仏法即社会」の原理を、学会の同志は大切にし、信仰を実践してきました。
拝読御文の「御みやづかい」とは、現代に生きる私たちに当てはめれば、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活といえます。
日蓮大聖人は、「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」との天台大師の言葉を引用されています。
これは、法華経法師功徳品が説く、法華経を行ずることで得る「六根清浄」のうち、「意根清浄」の功徳について説明したものです。
心の働きが浄化されれば、一切の物事を正しく捉えることができるようになり、その人が世間のどのような分野の事柄を説いたとしても、全て仏法にかなった正しい言葉になります。
ゆえに、信心の実践に励むことによって、職場や地域、家庭において、安心と信頼の存在と輝くことができるのです。そこに、仏法者の使命があります。
池田先生は「信仰の喜びと、人生や生活の喜びは一体です。別々のものではない。真実の仏法は現実の生活と人生のためにこそあるからです。仏法の智慧と慈悲の光は、苦悩渦巻く現実社会を照らし、人々の勇気と希望の原動力となっていくものです」と、指導されています。
信心を根本とすれば、社会における私たちのあらゆる振る舞いが、現実を変革する力となり、さらには、自身の幸福境涯をも開いていくことになるのです。
2023年6月4日
2023年
6月度座談会拝読御書
上野殿御返事(水火二信抄)
御書新版1871ページ11行目~1872ページ2行目
御書全集1544ページ9行目~11行目
常に新たに発心し「水の信心」を貫く
拝読御文
そもそも、今の時、法華経を信ずる人あり。あるいは火のごとく信ずる人もあり、あるいは水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもえたつばかりおもえども、とおざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり。これは、いかなる時も、つねはたいせずとわせ給えば、水のごとく信ぜさせ給えるか。とうとし、とうとし。
〈池田先生の指針〉
「不退」は最高の勲章
大いなるわが使命だからこそ、それを実現しゆくためには、私たちの一日一日の「水の信心」の実践が重要なのです。
宿命や障魔の嵐があろうとも、魔の十軍が心を揺さぶろうとも、わが日々の仏道修行をたゆみなく繰り返す。不動の信心を貫き、朝晩の勤行、座談会、仏法対話、教学、人材育成にと、着実に信行学の実践を貫き通す人こそが、信仰の王者です。本物の仏弟子です。
この積み重ねが、自身の生命に永遠に崩れざる「心の財」を刻み、仏の境涯を築き上げるのです。
十年、二十年と、わが人間革命の坂道を、使命の汗を光らせながら、粘り強く、一歩一歩、登り続けた人には、誰もかないません。
「不退」は、信仰の最高の勲章です。
民衆の大地で人を育てる人。人を幸福にする人。人を励ます人。地道に長年戦ってきて、さらに戦い進む人。すなわち地涌の庶民こそが、真実の人間の英雄であり、生命の勝利者なのです。
「水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」(全1544・新1871)との御聖訓を、私たちは共々に心肝に染め、大聖人より、「水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」(全1544・新1872)と讃えていただける、堂々たる大躍進を、世界の友と開始しようではありませんか!(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第21巻)
逆境を打開する
日蓮大聖人は、本抄を送られた南条時光に対し、「いかなる時も常に退することなく」と、これまでの水の流れるような信心をたたえられています。
その上で、拝読御文に続く箇所では、「あなたの家に病人がいるということは本当でしょうか」「法華経の行者を守護する十羅刹女が、信心の強さを試しているのでしょう」(新1872・全1544、趣意)とつづられました。
時光の苦悩に心を寄せつつ、仏法の法理に照らし合わせて、一家を悩ませる病という宿命を、使命へと転じていくよう、励まされたのです。
さらに大聖人は、「釈迦仏、法華経に虚妄があるはずがないと、深く信じていきなさい」(同、通解)と強調されています。時光に対して、御本尊を深く信じ抜いていくよう教えられ、本抄を結ばれています。
たとえ、これまで真剣に信仰に励んできたとしても、宿命に直面した時に疑いを起こせば、苦難に打ち勝つことはできません。不退の人生を歩む要諦は、どこまでも強盛な信心を貫き通すところにあるのです。
池田先生は本抄を拝して、講義しています。
「日蓮仏法は、どこまでも自身の強盛な信仰心を根本に、わが生命力を湧きたたせ、自らの意志と努力で断固として逆境を打開していく『現実変革の宗教』なのです」
水滴がやがて石をもうがつように、不退の信心を貫くことで、現実に立ちはだかる壁を必ず打開していくことができるのです。
「歓喜」と「感謝」
「(法門を)聴聞する時は燃え立つように思うけれども、時がたつにつれて、それを捨ててしまう心を起こしてしまう」――日蓮大聖人は、決意が持続しない「火の信心」ではなく、停滞のない「水の信心」の大切さを訴えています。
絶えず前進し続けるには、常に「原点」に返り、決意を新たにすることが大切です。
南条時光は、大聖人との原点を忘れずに不退の信心を貫きました。
時光が7歳の時、父・兵衛七郎が逝去。訃報を聞かれた大聖人は、南条家を訪問されます。この時、大聖人の振る舞いと真心に触れた時光は、父と同じように、師弟の道に生き抜く誓いを新たにしたことでしょう。その後、大聖人が佐渡流罪を赦免され、身延に入られた時、16歳の時光は、師のもとを訪れています。
本抄をいただいた時、時光は20歳。大聖人門下への弾圧が強まる中、時光はたゆまず師を求め、師弟の道を歩み抜いていきました。
池田先生は教えています。
「正しき師匠と正しき仏法に出あった時の『歓喜』と『感謝』を忘れず、苦難に直面するたびに、繰り返し原点に立ち返る。たとえ順風満帆の時にも、自らの羅針盤を手放さず、油断なく勇気の舵をとる。そして、常に新たに発心し、挑戦して勝ち越え、成長の節を刻んで、さらにまた前進を続ける――これが『水の信心』です」
私たちも、大聖人の仏法に巡り合い、創価の師弟に連なる喜びと誇りを胸に、新たな広布拡大へ勇んで前進していきましょう。
2023年5月2日
2023年
5月度座談会拝読御書
顕仏未来記
御書新版610ページ5行目~6行目
御書全集508ページ2行目~4行目
世界広布を開いた創価の師弟の闘争
拝読御文
月は西より出でて東を照らし、日は東より出でて西を照らす。仏法もまたもってかくのごとし。正像には西より東に向かい、末法には東より西に往く。
万人照らす「太陽の仏法」
本年は日蓮大聖人の立宗宣言から満770年。立宗の頃、大聖人は自らを「日蓮」と名乗られました。そこには、御自身こそ、万人の闇を照らす「太陽(日)」との意味が込められていると拝せます。
拝読御文では、東天から太陽が昇るように大聖人の仏法が東の日本から広がり、西のインドへと伝わっていく――「仏法西還」には、「南無妙法蓮華経」の大法が必ず世界に広まる、との大確信が表れています。
同時に、大聖人の仏法が、あらゆる人々を救う普遍性をもった「太陽の仏法」であることが示されているといえましょう。
大聖人の御在世当時、大災害が起こり、疫病が流行。他国からの侵略の脅威も社会に暗い影を落としていました。
そのような状況の中、大聖人は敢然と南無妙法蓮華経の題目を唱え、語り広げ、無明の時代を照らしていかれました。大聖人の仏法は、自らの胸中に仏の境涯である太陽を昇らせるとともに、あらゆる人々の胸中に幸福の太陽を昇らせる仏法なのです。
池田先生は語られました。
「太陽の仏法は、万人の生命を等しく照らし、一人一人の生命を妙法の福田に変えていくのです。そして社会に、世界に、妙法の人華を爛漫と咲き薫らせていくのです。人間革命、立正安国、世界広宣流布こそ、太陽の仏法が目指すものです」
分断や対立――現代もまた、社会を無明の闇が覆っています。今こそ太陽の仏法を実践し、希望の光で人々を照らしていきましょう。
一人一人が後継者
本抄の題号の「未来記」とは、一面では「釈尊の未来記」を示します。しかし、日蓮大聖人が本抄を執筆した本来の目的は、「大聖人御自身の未来記」を明らかにすることにあったと拝せます。
拝読御文に続く箇所では、仏法を後世に伝え、持つ「伝持の人」(新610・全508)の重要性が述べられています。たとえ、経典や教えがあっても、その法を持ち伝える後継者がいなければ、木像や石像が法衣を着て、鉢を持っているようなもので、何の役にも立たない(同、趣意)と仰せです。
大聖人が描いた世界広布の未来像も、受け継ぐ人がいなければ虚妄となってしまいます。
大聖人の未来記を実現したのは創価学会です。創価の師弟によって、世界192カ国・地域にまで日蓮仏法は広がりました。
その上で、末法万年の民衆を救う広宣流布の戦いは永遠に続きます。妙法を流れ通わせるためには、「伝持の人」の存在が不可欠です。
では、私たちの日々の実践において、信心を「伝え」「持つ」とはどのようなことを指すのでしょうか。
「顕仏未来記」の講義の中で池田先生は、「一人一人が自身の生命の無限の可能性を信じて『人間革命』の実践を貫くことにほかなりません」と、教えています。
創価家族の一人一人が、仏法を未来に伝え、広げゆく伝持の人です。私たちが正しい仏法を信仰し、人間革命していくことで世界広布の未来が永遠に開かれていくのです。
<池田先生の指針>
我らこそ未来記の主人公
末法の無明の時代を照らすためには、根本的には信仰を自覚した一人一人が胸中に法性の太陽を昇らせるしかない。
万人が太陽と輝く以外に、末法の深き闇を晴らすことはできない。
そして、目覚めた民衆が、万人の胸中に太陽を赫々と昇らせていこうと立ち上がる。その目覚めた民衆のスクラムが広がってこそ、点から線、線から面へと慈悲の光明が拡大していく。
太陽の光明で百花が繚乱と咲き誇るように、仏法の光明は、人々の慈悲と智慧を育み、人間性の開花をもたらします。その「人間の善性のスクラム」が地球上に広がれば、人類の境涯が変革されていく。
日蓮仏法には、現実変革へ無限の可能性がある。万人の生命に仏や菩薩の境涯を確立し、真の平和を実現していくことが日蓮仏法の目的です。(『池田大作全集』第33巻所収、「御書の世界〈下〉」)
◇ ◇ ◇
(創価学会は)無数の地涌の菩薩を全世界に呼び覚まし、万年の未来にわたる堂々たる平和への大行進を続ける尊貴なる和合僧団であります。
戸田先生は「広宣流布のさきがけをしようではないか」と叫ばれ、「創価学会は宗教界の王者である」と宣言されました。
私は、私とともに戦ってきてくださった皆様とともに、「我らこそ御本仏の未来記の主人公なり」と、誇り高く宣言したい。
そして「私は勝った! 我らは勝ちに勝った!」と言える輝かしい人生を、愉快に、朗らかに、はるかな未来へ向かって共々に生き切っていきましょう。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻)
2023年4月2日
2023年
4月度座談会拝読御書
呵責謗法滅罪抄
御書新版1539ページ4行目~5行目
御書全集1132ページ10行目~11行目
強き一念と勇気が不可能を可能に!
拝読御文
いかなる世の乱れにも各々をば法華経・十羅刹助け給えと、湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり。
題目が結ぶ師弟の絆
“不可能を可能にするほどに、強盛にあなた方のことを祈っています”――門下たちは、遠く離れた佐渡の地から届いた、日蓮大聖人の大慈悲の御手紙に、“自分は一人じゃないんだ”と、ますます奮い立ったに違いありません。
本抄を送られた当時、佐渡にいる大聖人だけでなく、門下に対しても、激しい迫害が加えられていました。
そうした絶体絶命ともいえる状況下で大聖人は、決して諦めることなく、諸天をも揺り動かす祈りの大切さを教えられました。
師匠の御真情に触れた門下は、“どのような状況にあろうとも、我らには祈りがある”と、師の一念と合致する祈りを猛然と開始したことでしょう。
小説『新・人間革命』第30巻〈下〉「勝ち鬨」の章では、障魔を勝ち越えてきた同志に、山本伸一が語っています。
「私の心には、いつも皆さんがいます。題目を送っております。皆さんも、題目を送ってくださっている。それが師弟の姿です。普段はお会いできなくとも、私たちの心はつながっています」
いかなる困難に直面しようとも、誓願を同じくした強盛な祈りによって、師匠と弟子の絆は、強く結ばれていくのです。
日蓮仏法は“師弟の宗教”です。故に、師弟の絆が強く結ばれてこそ、自身の生命に秘められた力を最大限に引き出していくことができます。
立正安国の凱歌へ、師匠と祈りを合わせ、自身の最高の生命力を湧き出しながら、進んでいきましょう。
最高の祈り、作戦、行動を
拝読御文で仰せのように、“濡れた木から火を出し、乾いた土から水を得る”のは、実際には不可能なことのように思われます。
しかし、そうした不可能とも思える、厳しい現実に直面していようとも、“必ず祈りは成就すると確信していくことが大事である”と、日蓮大聖人は、門下に教えられています。
何事も「無理だ」と思って諦めてしまえば、可能性はなくなってしまいます。しかし、諦めずに挑戦を貫けば、必ず困難を打開することができます。この確信の祈りこそ、信仰者にとって最も重要なものではないでしょうか。
小説『人間革命』第10巻「一念」の章では、1956年(昭和31年)、“まさかが実現”の「大阪の戦い」に臨むにあたって、山本伸一が、“戦いの要諦”について、語っています。
「戦いは、全関西の強盛な祈りから始まるわけであります。これが第一の要諦です。ただ、唱題して、祈りに祈っていけばよいかというと、それだけでは、どうにもなりません。第二の要諦は、最高の作戦、最高の行動です。これがなければ、勝機をつかむことは、絶対にできない。第一の要諦だけでも駄目であり、第二の要諦だけでも駄目です。この二つの要諦が調和した時、不可能も可能となり、勝利を得ることができると確信いたします。この調和をさせるものは何かというと、それが信心なんです」
どこまでも信心根本に、最高の祈り、最高の作戦、最高の行動を起こす時、勝利が開かれるのです。
<池田先生の指針>
わが舞台に勝利の旗を
(日蓮)大聖人は、法難の地・佐渡から、鎌倉の弟子たちに書き送られた。
「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(全1132・新1539)
この御聖訓を拝しつつ、私と妻も、「わが宝友を守り給え!」「わが同志よ負けるな!」と、諸天を揺り動かす一念で、題目を送り続けている。
(中略)どんなに深い苦悩と悲痛にあろうとも、我らには、妙法がある。同志がいる。学会がある。信心の光で打ち破れない闇など、断じてないのだ。(『随筆 平和への大道』)
◇ ◇ ◇
御聖訓には「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(全1132・新1539)と仰せである。
私はこの御文を命に刻み、強き祈りと行動で「不可能を可能」にしてきた。行くところ、行くところで勝利の旗を打ち立ててきた。
現実に勝利の歴史を残せなければ、真実の仏法者とはいえない。本物の弟子ではない。
古代ギリシャの大詩人ホメロスが綴った叙事詩『イリアス』。そのなかで、敵に囲まれた仲間の兵士たちに向かって、一人の勇者がこう叫ぶ場面がある。
「さあ、勇気を出せ」「戦うしか道はない。死にものぐるいで戦うのだ」(『〔完訳〕イリアス』小野塚友吉訳、風濤社)
大事なのは「勇気」だ。どんな劣勢をも、はね返してみせるとの「死にものぐるい」の強き一念だ。皆さんもまた、わが舞台で、断じて「師弟の勝利」の証しを打ち立てていただきたい。(2008年9月23日、秋季彼岸勤行法要でのスピーチ)
2023年3月5日
2023年
3月度座談会拝読御書
弥三郎殿御返事
御書新版2085ページ7行目~9行目
御書全集1451ページ10行目~12行目
“断じて勝つ”と 喜び勇んで戦う!
拝読御文
ただひとえに思い切るべし。今年の世間を鏡とせよ。そこばくの人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは、このことにあわんためなりけり。これこそ宇治川を渡せし所よ。これこそ勢多を渡せし所よ。名を揚ぐるか、名をくだすかなり。
仏法の力を証明する時
“今まで生きてきたのは、この戦いに臨むためである!”――日蓮大聖人は、念仏僧との法論に臨む門下の弥三郎に励ましを送られました。
当時、四条金吾や南条時光ら大聖人の門下は、法華経を信仰するがゆえに競い起こった迫害等の難に直面していました。
そのさなかにあって、弥三郎が念仏僧との法論に勝つことは、日蓮門下の正義を示す意義があったといえます。
ゆえに大聖人は、重大な広布の使命を担う弥三郎に対して、“今まで生きてきた意味は、法華経ゆえの難である法論に臨み、勝利することにあったのだと思い切りなさい”と、深き使命を自覚し、全力を出して戦うように教えられたのです。
渾身の師の励ましに、弥三郎は、大きな境涯で法難を捉え返し、立ち向かう勇気が湧き出てきたことでしょう。
厳しい戦いの時こそ、自身が試されます。いざという戦いの時に、“広布のために”という大願に立ち返れば、これまで以上の大きな力を出すことができるのです。
小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」の章には「逆境であればあるほど、人生の勝負の時と決めて、挑戦し抜いていくことである。そこに御本尊の功力が現れるのだ。ゆえに逆境はまた、仏法の力の証明のチャンスといえる」とつづられています。
眼前の困難な戦いもすべて、自身の広布への誓願によって、必ず乗り越えていける!――本抄に込められた、大聖人の力強いメッセージに心が奮い立ちます。
諸天をも動かす行動を
琵琶湖から流れる瀬田川とその下流の宇治川は、東国と畿内の境界に当たります。“戦いの急所”となるそれらの川を、先陣を切って渡った者の勲功は大きかったと思われます。
拝読御文では、その例えを用いて、“法華経ゆえの難と戦えば、境涯が開ける!”と、大聖人は仰せです。
続く箇所では、「『釈迦・多宝・十方の仏、来集して我が身に入りかわり、我を助け給え』と観念せさせ給うべし」(新2085・全1451)と、強盛な祈りで法論に臨むよう弥三郎に教えられています。
大聖人は迫害に遭われる中、御書の随所で、三世十方の諸仏や菩薩、諸天善神に“法華経の行者である日蓮を守護せよ”と厳しく諫められています。さらには、「諸天善神も日蓮を見捨てるなら見捨てよ。諸難に遭うなら遭おう。身命をなげうっていくだけである」(新114・全232、通解)とも仰せです。
困難を恐れて、諸仏や菩薩、諸天善神の守護を待つのではない。強き祈りで、「必ず勝つ」と行動を起こすことで、諸天をも動かしていくことができるのだ!――大聖人に連なる法華経の行者の魂は、ここにあるのです。
池田先生は「大事なのは行動だ。何もしなければ、何も変わらない。祈り、そして一歩を踏み出して、行動を起こしていくところから、すべてが始まる。智慧が生まれ、諸天が動く。状況も好転していくのである」と語っています。
広布の“急所”に直面した時こそ、勝利へ、喜び勇んで行動を起こしていきましょう!
<池田先生の指針>
真剣勝負の強盛なる祈り
(日蓮)大聖人は、「思い切れ」と仰せです。同じ戦うのなら、「断じて勝つ」と腹を決めて戦い切るのです。人は敵と戦う前に、己心の弱さに負ける。何よりもまず、その心中の賊に勝たねばならない。とともに勇気と蛮勇は違う。現実と真正面から向き合うところに真の勇気があります。そこから今、何を為すべきか、明瞭に見えてくるのです。
宇治川も瀬田川も、「源平合戦」「承久の乱」など、古来、激しい攻防戦を繰り広げた、歴史に名高い戦場です。ここで競り勝つか、後れを取るか、勝負を決せんと、勇者たちは必死でした。同じく、広宣流布の戦いにあっても、「ここが勝負」という急所がある。(『信仰の基本「信行学」』)
◇ ◇ ◇
戸田先生は語っている。
「魔が強いからこそ、勝てるのだ。信心が毅然として、そのうえで、魔が強いということは、必ず勝てるという証拠なのである。要は自分自身の信心の決心にかかっている」
魔が競い起こったときこそ、もう一歩も二歩も、大きく成長していくチャンスなのである。
大聖人は、大事な破邪顕正の戦いに挑む弟子に言われた。
「但偏に思い切るべし」(全1451・新2085)と。
そして、「『釈迦・多宝・十方の仏よ! 来り集まって、わが身に入りかわり、我を助け給え!』と祈念しなさい」(同、通解)と。
大事なのは「勝つための祈り」だ。真剣勝負の強盛なる祈りだ。
今こそ一人一人が、わが生命に、仏菩薩も、梵天・帝釈も、「入其身(其の身に入る)」させるのだ。そして仏の力、仏の智慧を思う存分に発揮していくのだ。(2010年1月、全国各部協議会でのスピーチ)
2023年2月7日
2023年
2月度座談会拝読御書
日女御前御返事(御本尊相貌抄)
御書新版 2088ページ8行目~10行目
御書全集 1244ページ14行目~15行目
強盛な信心の人に恐れるものはない
拝読御文
南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべきこと、もっとも大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信をもって源とす。
祈りから一切は始まる
拝読御文では、南無妙法蓮華経の題目を唱えて、わが身に仏界の生命を開くことが最も大事であると仰せです。
拝読御文に続く箇所では、“李広将軍が、草原の中にある石を親の敵の虎だと信じ切って矢を射たところ、石に矢が刺さった”との故事に触れられています。“強き一念”で、不可能を可能にすることができると教えられているのです。
小説『新・人間革命』には、「行き詰まったら原点に返ることだ。唱題から出発するのだ。妙法は宇宙の根源の法なるがゆえに、妙法への祈りこそ、一切を動かす原動力となるのだ」(第22巻「潮流」の章)とつづられています。
私たちも、強き一念で題目を唱え、自身の人生の苦悩との闘争、広宣流布の大闘争に臨んでいくことが大切です。
池田先生は「二月闘争」の際、「祈りから始める」ことを同志と約し合い、広布拡大の突破口を開きました。
“まさかが実現”の大勝利を築いた「大阪の戦い」も、池田先生の御本尊への深き祈りから始まりました。
先生は教えています。
「唱題行こそ究極の若さと、無限の活力の源泉なのである。地涌の菩薩たる我らの題目は、誓願の祈りである。いわゆる何かに弱々しくすがる願いなどではない。自ら誓いを立て、その成就へ一念を定め、大宇宙の根本法則に合致し、全生命で轟かせゆく師子吼なのである。これほど強く、これほど荘厳な力はない」
「強き祈りから一切は始まる」と定め、広布に打って出ていきましょう。
迷いや弱さを打ち破れ
仏法の根本は信をもって源とする――大聖人は今回の拝読御文をはじめ、御書の随所で「信」の一字を強調されています。
釈尊の十大弟子の一人で“智慧第一”と言われた舎利弗でさえも、自身の智慧ではなく、ただ法華経への信によって仏の境涯を開きました。
「信」は、法華経の行者にとって成仏の根幹となる重要なものなのです。
ここで確認したいのが、“私たちはどのように、この「信」を深めていけばよいのか”ということです。
御書には「疑いなきを信と曰う」(新1047・全751)――“「疑いが無い」ことこそ「信」である”との言葉が出てきます。池田先生はこの言葉について、「疑問を明確にし、実践の中で徹底して考え抜いて、心の底から納得することが、信仰を深めていきます」と教えています。
「疑ってはいけない」のではありません。この信仰の実践に励み、仏法を探究していくならば、「疑いが無い」といえる確信を深めていくことができるのです。
また小説『新・人間革命』には、「信仰とは、不信、すなわち揺らぐ心との精神の闘争である。“自分など、幸せになれないのではないか。何もできやしないのだ”といった心の迷い、弱さを打ち破り、胸中の妙法を涌現させ、絶対的確信を打ち立てる戦いであるといってよい」(第26巻「法旗」の章)とあります。
自らの弱さや迷いと戦う信仰の実践の中で、妙法への確固たる「信」は深まっていくのです。
<池田先生の指針>
逆境を乗り越える師子王の心
多くの学会員が自らの体験で実証してきたごとく、“もう駄目だ”と思うような時にこそ、御書を開き、学会指導を学び、また同志の励ましを受けて、あらためて「信」を奮い起こしていくことです。胸中の妙法を確信して、御本尊に向かって真剣に唱題行を貫いていけば、必ず、わが胸中から変革が始まります。
自身の仏性が開かれて、歓喜と確信が込み上げ、挑戦する勇気が湧いてくる。そこに絶対勝利への仏の無限の智慧と力が現れるのです。
まじめに信行学を貫く学会員は、こうした体験を幾重にも重ねながら、また何度も困難を乗り越え、確固たる不撓不屈の自分自身を築いていける。もう何も恐れるものはない、何も怖いものはないという“多宝の友”の確信ある姿は、言うならば「仏の境涯」そのものです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第8巻)
◇ ◇ ◇
大願であった七十五万世帯成就が目前となった本部総会で、戸田先生は叫ばれました。
「学会には信心がある!」
多くの取材陣もいる場です。当時、学会の大発展の理由を皮相的に臆測する論評が多い中、“私たちは、信心で勝ったのだ”と断じられたのです。先生の師子吼は今も、耳朶に響いて離れません。続けて先生は烈々たる気迫で語られました。
「ただ信心が中心! 信心をやるんです。それさえ腹に入れたら、誰が何と書こうと、何を言おうと、驚くことなどは絶対にないだろう!」
信心とは、いかなる逆境をも乗り越えていく師子王の如くなる心です。
強盛な信心の人に、恐れるものなど何もない。信心さえあれば、不撓不屈の信念がこみ上げてきます。信心の強さは、豊かな人生を約束します。正しい信心を貫き通した時に、人生の幸福勝利が開けないわけがないのです。
先生は、学会員として、世間の毀誉褒貶などに右往左往することなく、どこまでも信心根本に進んでいく覚悟を、と訴えられました。「信心」こそ根本であり、「信」こそ源である。これが日蓮仏法の真髄です。(『信仰の基本「信行学」』)
2023年1月8日
2023年
1月度座談会拝読御書
諸経と法華経と難易の事
御書新版1346ページ10行目~11行目
御書全集992ページ14行目~15行目
一人ももれなく平和の主体者に
拝読御文
仏法ようやく顚倒しければ、世間もまた濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり。
生命尊厳を時代精神に
体が曲がれば影が曲がるように、根本とする思想が確かな、正しいものでなければ、現実社会にその負の影響を及ぼしてしまいます。ゆえに真実の教えである法華経を用いるべきであると仰せです。
拝読御文の前の部分には、「仏、九界の衆生の意楽に随って説くところの経々を随他意という。譬えば賢父が愚子に随うがごとし。仏、仏界に随って説くところの経を随自意という。譬えば聖父が愚子を随えたるがごとし」(新1345・全991)とあります。
法華経以外の教えは、人々の機根に合わせて説かれた随他意の教えであり、理解しやすいですが、説かれた真実は部分的です。仏の真実の覚りをそのまま説いた法華経は、生命尊厳を説く随自意の教えであり、難信難解です。しかし、信じることで仏の偉大な境涯を開くことができます。
ゆえに、民衆の幸福のためには、仏の真実の教えを知らない、迷い悩む人々に「随う」――合わせるのではなく、迷える人々を「随える」――すなわち、生命尊厳の思想へと導いていくことが重要です。
学会の伝統は「指導主義」です。指導とは、目指すべき方向へ、共に進むことで導いていくことです。池田先生は「一人だけでは、道をはずれる場合がある。絶対的幸福を目指して、互いに励まし合い、支え合い、正しい軌道を進んでいく。学会は、いわば『幸福と平和の学校』なのである」と教えています。
生命尊厳の思想を時代精神に――この心で、友に語り、安穏の世界を創り広げていくのが学会の使命なのです。
「人間革命」即「社会変革」
真実の仏法は、現実の社会や生活を離れて存在するものではありません。仏法は、民衆の幸福、つまり人々の日々の生活、人生のためにあるからです。
ゆえに学会員は、「信心即生活」「仏法即社会」と、一切を仏道修行の場と捉えていくのです。
「信心即生活」とは、個人の信心の姿勢が、そのまま生活に直結していることです。日々の生活全てが、信心の挑戦の舞台となっていくことを教えているのです。
また、職場や家庭、学校など私たちが日常を過ごす場は、すべて「社会」です。
私たちは、世界平和と立正安国を誓いながら社会で活躍し、貢献しようと奮闘を重ねます。これが「仏法即社会」です。私たちの信仰は、社会と調和し、世界をより良く変革していく力となるのです。
社会は、一人一人の人間が集まって構成されています。ゆえに、個々人の思想や生き方は社会に大きな影響を与えます。世界平和を目指し、生命の尊厳を第一とする日蓮仏法を持つ私たち一人一人の存在は、とても重要なのです。
池田先生は「一日一日の勝利が真の勝利です。その積み重ね以外に、人生の大勝利もありません。一人一人が、日々の生活を営むその場所で、人生の幸福と勝利の花を咲かせ、励ましの輪を広げる。それが、『人間革命』即『社会変革』への最も確かな道です」とつづられています。
本年も、日々の挑戦が、自身と社会の勝利を開くとの新たな決意で前進していきましょう。
<池田先生の指針>
根本は朝晩の勤行・唱題
とかく仕事が忙しいと、“いつか暇になったら、学会活動に励もう”と考えてしまいがちです。しかし、それは間違いです。どんなに多忙であっても、自分のできることを精いっぱいやっていくんです。というのは、信心が後退すれば、仕事の面でも、行き詰まりが生じてしまうからです。
日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(全992・新1346)と仰せになっています。体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも、順調に進んでいくんです。また、たとえ、仕事等で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力が出るんです。(小説『新・人間革命』第26巻「奮迅」の章)
◇ ◇ ◇
(戸田先生は)「信心は一人前」とは、広宣流布をわが使命と定め、決然と「一人立つ」ことだと教えられた。決定した、この「一人前」の信心があってこそ、「三人前」といえる堂々たる仕事を成し遂げ、職場に勝利の旗を打ち立てることができる。(中略)
我々には、妙法という永遠不滅の宝がある。広宣流布という善の行為の宝がある。
ともあれ、妙法は円教である。欠けるところがない絶妙の調和の法則である。「自分のために」が「社会のために」なる。そして「広布のために」が「自分のために」なる――完璧な充実と満足の軌道なのだ。(『池田大作全集』第135巻所収「随筆 人間世紀の光」)
◇ ◇ ◇
「信心即生活」「仏法即社会」といっても、その根本は朝晩の勤行・唱題にほかなりません。「朝々仏とともに起き、夕々仏とともに臥す」(新1027・全737)です。私たちの勤行・唱題は生命変革の祈りです。
その祈りが、人間革命と宿命転換を力強く推し進め、立正安国と世界平和への着実な行動に昇華していくのです。混迷する時代にあって、学会員が、どれほど偉大にして尊い使命を担っているか。一人ももれなく全員が、「変革の主体者」であり、偉大な「平和の建設者」なのです。(『誰もが輝く「人間主義の世紀」へ!』)
2022年12月4日
2022年
12月度座談会拝読御書
新池殿御消息
御書新版2056ページ5行目~8行目
御書全集1435ページ3行目~5行目
広布の苦労は全て生命の大勲章に!
拝読御文
千里の野の枯れたる草に蛍火のごとくなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草二草、十・百・千・万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ。竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば、三千世界に雨をふらし候。小善なれども、法華経に供養しまいらせ給いぬれば、功徳かくのごとし。
一波は万波へと広がる
「枯れた草に、蛍火のような火を付けると、たちまち燃え広がっていく」――本抄では、信心の行動であれば、ささやかでも大きな功徳があることを教えられています。
起こした一波は、万波へと広がるのです。私たちの「立正安国」「世界広布」の戦いも同じです。混迷の世界を、安穏な世界へと変えていくのも、最初は小さな行動から始まるのです。それは目の前の一人を大切にすること、すなわち、心から励まし、ありのまま語らいゆくことです。
法華経には、法華経を聞いた人が他の人にその喜びを伝え、その人がまた別の人に伝え、50人目に至っても、法華経の功徳と法を聞いた歓喜は莫大であることを表した「五十展転」が説かれます。
これは最初の「一人」が一歩を踏み出して歓喜を語ることで、多くの人に広がっていくことを示しています。
大切なことは、私たち一人一人が信仰の喜びを生き生きと語っていくことです。
池田先生は「広布の拡大は、常に『一人への励まし』から始まる。そして団結もまた、『一人への励まし』が原点だ。一人また一人が師子となって、真剣に立ち上がり、偉大なる目標へ、一日また一日を勝って勝って勝ちまくるなかで、互いの生命の麗しき勇気と正義の絆が強く結ばれていくものだ」と語られています。
その最初の一人こそ、ほかでもない自分自身であり、目の前の一人への励ましこそ、地道な一歩となります。
今この瞬間から、率先の行動に打って出て、広布の大波を起こしていきましょう。
信心に無駄はない
「小善ではあっても、法華経に供養されるなら、その功徳は、計り知れない」と仰せです。「法華経に供養する」とは、財物などをささげることだけではなく、法を敬い、その法を自身の根幹として持ち、広めゆく行動をも含んでいます。
法華経では、自分にも、他者にも、仏と同じ尊極な生命があると説かれています。だからこそ法華経は、いかなる境遇の人も実践し、成仏していくことのできる「大善」の法なのです。
日蓮大聖人は、この法華経に、根本の一念が通じていれば、一見、「小善」のように思えるささやかな行動であっても、「大善」の働きとなり、その功徳は限りなく大きいと教えられているのです。
ゆえに大切なのは、法華経の行者として“全ては広宣流布のために”との気概を常に持って、どんなささいなことにも全力で挑戦することではないでしょうか。
その一念で動けば、私たちの日常の一つ一つの行動も、「大善」の働きとなって、おのずと自身の境涯も大きく開かれていくのです。
池田先生は、こう語られています。
「信心に、絶対に無駄はない。広宣流布のための苦労は、自身の生命の大勲章となって輝く。日蓮大聖人が、三世十方の諸仏・菩薩・諸天善神が、最大に御賞讃くださることは、間違いない」
今の苦労は、信心によって、必ず意味あるものに転換していくことができます。広布に生き抜く凱歌の人生を確信し、進んでいきましょう。
<池田先生の指針>
妙法のため真心尽くす
妙法のため、広宣流布のために真心を尽くすことが、どれほど尊いことか。どれほど偉大な功徳があるか。大変な時に護られる。一家も栄える。人間革命していける。生々世々、そして子孫末代まで豊かな福徳に包まれゆくことは間違いない。それこそ、世界一の王者のごとき境涯になれるのである。
広布のための行動は、結局はすべて、自分自身のためになる。その根本は「信心」である。「心」である。(2008年12月、各部代表協議会でのスピーチ)
◇ ◇ ◇
御本仏日蓮大聖人の仰せのとおりに、来る日も来る日も、広宣流布のために行動を続けておられる尊き皆さまの功徳は、計り知れない。学会活動が第一である。学会活動には、一分のムダもない。すべての苦労が、自分自身と一家・眷属の大福運に変わる。(中略)
広宣流布の仏国土は、この大宇宙に限りなく広がっている。まじめな学会員の皆さまが、生々世々に、この大宇宙を舞台に、大指導者となり、大王のごとき威光勢力をもって活躍し、乱舞しゆくことは、法華経に照らし、御書に照らして絶対にまちがいない。その「永遠の大福徳」を受けきっていくための今世の闘争であり、今日のわが地域での戦いなのである。(1999年3月、全国県長会議でのスピーチ、『池田大作全集』第90巻所収)
2022年11月1日
2022年
11月度座談会拝読御書
千日尼御前御返事
(雷門鼓御書)
御書新版1746ページ4行目~6行目
御書全集1316ページ15行目~18行目
弟子の誓願で師弟不二は決まる
拝読御文
譬えば、天月は四万由旬なれども、大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども、打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来れり。仏に成る道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候え。
常に師と共に
本抄を贈られた千日尼は、日蓮大聖人が流罪に処され、佐渡に移られた際に帰依しました。塚原の三昧堂で、満足な食事も衣服もない過酷な環境下にある大聖人のもとへ、千日尼は夫の阿仏房を送り出しました。阿仏房は監視の目をかいくぐり、何度も供養の品々を届けます。このことで夫妻は屋敷を取り上げられるなどの難に遭います。
千日尼は、大聖人が流罪赦免となった後も、佐渡から身延の大聖人のもとへ、約20日もの道のりを阿仏房に食料等を持たせて何度も送り出します。品物の中には、山中では手に入らないワカメなどもあり、大聖人の生活を配慮していたようです。
直接会えなくとも、まるで目の前に師匠がいるかのように、師匠の身を案じ、真心で尽くしたのです。だからこそ本抄で大聖人は「お顔を見たからといってなんになるでしょう」と、千日尼の心情を思いやり、心で結ばれていると強調されたのでしょう。
“師はどうしておられるだろう”――この千日尼の求道心こそ、弟子の模範の姿ではないでしょうか。
池田先生は「“私には師匠がある”と一生涯、胸を張って、堂々と言い切れる自分自身であることが、自分を無限に成長させるのだ」「師弟不二とは、弟子の側の決意、誓願によって決まる。創価学会は、師が創って弟子が続いたのではない。その最初から、師弟不二の尊き結晶なのである」とつづっています。
“心は常に師と共に!”との決心で、師弟不二の信心の道を開きましょう。
今いる場所こそ霊山
本抄で大聖人は、「私たちは穢土に住んではいますが、心は霊山浄土に住んでいます」と呼びかけられています。
“心は共に仏国土にありますよ”との師匠の温かな励ましがあったからこそ、千日尼は、その後の夫・阿仏房の死去などの苦難にも立ち向かい、信心を純粋に貫き通すことができたのでしょう。
池田先生は語っています。「強盛な信心を燃え上がらせて、広宣流布に戦う人は、来る日も来る年も、その生命の中に霊山浄土が実在する」
いかなる現実の苦闘の中にあっても、私たちの心は共に霊山にあります。御義口伝に「『霊山』とは、御本尊ならびに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(新1055・全757)とあります。御本尊に向かい、題目を唱え、広布に走る時、心が霊山にあるだけでなく、その人がいる場所もまた「霊山」となるのです。
さらに池田先生は、法華経の二処三会を通し、語っています。「『現実』から『悟り』へ、そして再び『現実』へ――法華経が示す、この壮大な生命のドラマを、わが生命に再現し、生き生きと生きゆくための源泉が、朝晩の勤行である。仏界の力を現して、悠然と、現実世界の苦難と戦い、勝利していくことができる。自分自身の生命に、仏界という巨大な力が満ち満ちてくるのだ」
私たちの広宣流布の戦いは、現実世界の「穢土」をわが使命の舞台として、常寂光土と照らしゆく戦いにほかなりません。日々の勤行・唱題で、生命力を漲らせて、進んでいきましょう。
<池田先生の指針>
信心強く、大満足の人生を
佐渡という山海を遠く隔てた地にあっても、強い求道心の千日尼の一念は、大聖人と共にあった。地理的な距離と、精神の距離とは、全く別です。
どんなに遠く離れた地にあっても、自分がいる限り、ここを絶対に広宣流布してみせる、人びとを幸福にしてみせると決意し、堂々と戦いゆく人は、心は大聖人と共にあります。(中略)
さらに大聖人は、「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」(全1316・新1746)と仰せになっている。
私たちの住む娑婆世界は、穢土、つまり汚れた国土ではあるが、正法を持った人の心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるとの大宣言です。ここが、わが使命の舞台であると心を定め、広宣流布に邁進する時、どんな場所も、どんな逆境も、かけがえのない宝処となっていきます。(小説『新・人間革命』第13巻「北斗」の章)
◇ ◇ ◇
汚れきった社会であり、人間の世界である。しかし、信心あるところ、そこが、じつはもう、胸中では「霊山浄土」なのである。「信心」を離れて、どこか別のところに浄土があるのではない。
そして、この「穢土」にあっても、信心の“心の王国”、胸中の“信心の宇宙”には、汚れた世の悪は一歩も侵入することはできない。させてもならない。その王国は、まっすぐに御本仏と結ばれているのである。
ゆえに、信心の「心」強ければ、人生は「自在」にして「安穏」である。一念どおりに開けてくる。「大満足」の“わが生涯”となる。(1991年4月、本部幹部会でのスピーチ、『池田大作全集』第76巻所収)
2022年10月2日
2022年
10月度座談会拝読御書
佐渡御書
御書新版1285ページ16行目~1286ページ3行目
御書全集957ページ7行目~10行目
“創価の誇り”胸に
人間革命の前進を!
拝読御文
畜生の心は、弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者等は畜生のごとし。智者の弱きをあなずり、王法の邪をおそる。諛臣と申すはこれなり。強敵を伏して始めて力士をしる。
悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これおごれるにはあらず。正法を惜しむ心の強盛なるべし。
何があっても前へ
“いかなる迫害があったとしても、信心を貫けば必ず成仏の境涯が開かれる”――。
流罪地の佐渡から、逆境の嵐と戦う弟子たちの勝利を願い励ます、日蓮大聖人の烈々たる御確信が拝されます。
当時、諸宗の僧たちは権力者と結託し、たったお一人で末法広布に戦う大聖人を侮り、大聖人とその門下に弾圧を加えてきました。そういった状況だからこそ、大聖人は「強敵を伏して始めて力士をしる」と、弟子たちの勇気を呼び覚まされます。
本抄の前半では、「身命に過ぎたる惜しきもののなければ、これを布施として仏法を習えば必ず仏となる」(新1284・全956)、「世間の浅きことには身命を失えども、大事の仏法なんどには捨つること難し。故に仏になる人もなかるべし」(新1285・全956)と仰せです。末法という時に、世間の毀誉褒貶に惑わされることなく、「不惜身命」の精神で折伏にまい進することこそが仏界涌現の道です。ただし、「不惜身命」といっても、仏法はいたずらに命を捨てるような、「殉教主義」ではありません。
池田先生は「不惜身命」についてつづっています。
「広宣流布のため、人々の幸福のために、自分の命を使うと決め、生命力を燃え上がらせて、生きて生きて生き抜いていくことなのです。
ゆえに皆さんは、何があっても尊い命を大切にしていただきたい。どんなに辛く苦しいことがあっても、絶対に負けないで、聡明に前へ前へ進んでいっていただきたいのです」
友に励ましを送る日々に、仏界の生命は輝くのです。
勇気を奮い起こす
迫り来る迫害に不安や恐れを抱いていた弟子たちも、日蓮大聖人のお手紙を拝し、“師と同じ「師子王の心」で立ち上がろう”と決意したに違いありません。
拝読御文の後には、「日蓮は、この関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり」(新1286・全957)と宣言されています。
これは、御執筆前年の「竜の口の法難」の際、大聖人の命を狙い、襲いかかってきた平左衛門尉らに「大音声を放って」(新1286・全958)諫暁された言葉です。
ここでいう「関東の御一門」とは北条氏一門を指し、幕府の中枢、ひいては日本国全体を指すとも拝されます。
大聖人は、御自身こそが末法の御本仏であることを示され、「聖人去らん時は、七難必ず起こらん」(新1286・全957)との、仁王経の経文に照らし、「日蓮捨て去る時、七難必ず起こるべし」(同ページ)と御断言されています。
実際に、大聖人が予言された、「自界叛逆難・他国侵逼難」という二難は、その後、現実のものとなります。
“絶対に戦乱を起こしてはならない”――。大聖人は末法の民衆の幸福と安穏のため、「師子王の心」で権力の魔性と戦い抜かれたのです。
大聖人直結の創価学会もまた、三代会長と共に「師子王の心」を受け継ぎ、平和の連帯を広げてきました。社会が困難や混迷に直面する今、「立正安国」「立正安世界」を目指す私たちの使命はいやまして大きいと実感します。
“創価の誇り”を胸に、今いる場所で勇気を奮い起こし、人間革命の前進をしていきましょう。
<池田先生の指針>
師子王の心で一人立つ
大聖人は、佐渡流罪という大難の中にあって「強敵を伏して始て力士をしる」(全957・新1285)と師子吼された。
敵がいるからこそ強くなる。迫害があるからこそ仏になれる。本物の人材が出てくる。
「難こそチャンス」。ここに仏法の真髄がある。境涯を開けるか、大福運を積めるか、本物の広布の指導者と立てるかどうか――魔が競い起こる時こそ、その重大な境目なのである。
ゆえに、勇気を奮い起こして戦う以外にない。そして皆を励まし、勝利の要諦を教えて、新しい人材をどんどん育てることだ。(2006年5月、「5・3」記念最高幹部協議会でのスピーチ)
◇ ◇ ◇
「師子」とは、仏の異名です。師が師子王であれば、弟子も師子王となるのです。何があっても負けない。師子となって戦っていく。これこそ、誇り高き創価の人間革命の真髄です。(中略)
いかなる苦難の嵐があろうとも、師子王となって一人立つ。この負けじ魂の勇者が「必ず仏になるべし」なのです。
さあ、我らの凱歌の大潮流が「民衆の世紀」を創ります。「新時代」の開幕です。私は全世界の地涌の同志に、なかんずく後継の青年たちに呼びかけたい。
「君たちよ、貴女たちよ、師子王の心で立ち上がれ! 今いる場所で、『わが人間革命の姿を見よ!』と、勝利の旗を掲げゆけ!」(『人間革命の宗教』)
2022年9月4日
2022年
9月度座談会拝読御書
経王殿御返事
御書新版1633ページ5行目~6行目
御書全集1124ページ10行目~11行目
「師子王の心」で 広布と人生を開く
拝読御文
ただし御信心によるべし。つるぎなんども、すすまざる人のためには用いることなし。法華経の剣は、信心のけなげなる人こそ用いることなれ。鬼にかなぼうたるべし。
“けなげなる人”に
拝読御文の前の箇所で、日蓮大聖人は、師子王はどんな獲物を捕らえる時も、万全の構えで全力を尽くすと述べられ、「御本尊を認めたことも、その姿勢は師子王に劣るはずがない」(新1632・全1124、通解)と御断言になっています。
大聖人が全生命を注いで御図顕されたのが御本尊です。だからこそ、この御本尊に強盛に祈念していくならば、成就しないことはありません。
ここで大事なことは、私たちが、「信心のけなげなる人」、すなわち「勇気ある信心の人」であるかどうかです。
いかに立派な剣でも、使う人が臆病では役に立ちません。「法華経の剣」も、勇敢な信心の人が振るうから、“鬼に金棒”でより大きな力を発揮するのだと教えられています。
“私には勇気などない”と思う人もいるかもしれません。しかし、大聖人は別の御書で「各々、師子王の心を取り出だして」(新1620・全1190)と仰せです。「師子王の心」とは“最高の勇気”ともいうべき仏界の生命です。その生命は、十界互具で万人に具わるからこそ「取り出だして」と仰せなのです。
池田先生は語っています。
「勇気は、特別な人だけがもっているのではない。だれでも平等にもっている。
しかし、どれほど多くの人々が、この無尽蔵の宝を封印して、臆病、弱気、迷いの波間に漂流していることか。これほど、もったいない人生はない。勇気を『取り出して』、胸中の臆病を打ち破ることだ」
勇気の信心こそ、幸福を勝ち開く源泉なのです。
強盛な祈りと行動
仏法には、祈りをかなえるための要の力である「四力」が説かれています。信力、行力、仏力、法力です。
「信力」とは御本尊を信じる心の強さのこと。「行力」とは教えの通りに実践する力のことです。
「仏力」とは仏が持つ力用のことであり、「法力」とは妙法に具わる広大深遠な利益のことです。
強盛な信力、行力を奮い起こしていく時、それに応じて仏力、法力が現れ、祈りが成就するのです。
池田先生は、分かりやすく語っています。
「『祈りが叶う』といっても、オカルト的なものではない。また人間とかけ離れた神仏が、“お情け”で願いを聞き届けてやるといった、神秘的な、いいかげんな話ではない。(中略)生命と宇宙の法則を研究したのが仏法です。その仏法の最高理論をもとに、日蓮大聖人が御本尊をつくってくださったのです。電気の理論で電灯ができたようなものです」
「こちらが一の信力、一の行力だと、一の仏力、一の法力となって現れる。百の信力・行力は、百の仏力・法力となって現れる。万の信力・行力は、万の仏力・法力となって現れるのです」
仏法は道理です。“必ずかなえてみせる”との強盛な祈りと行動――いわば“百千万の信力・行力”こそ、無限の仏力・法力を引き出し、広布と人生を開きゆく要諦です。
強き信心で勇敢な実践を貫く人は、限りなく境涯を開き、勝利、勝利の人生を飾っていけるのです。
<池田先生の指針>
日蓮仏法の魂は「勇気」
日蓮仏法の魂も、「勇気」であります。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(全1282・新1675)と、明快に断言されている通りであります。
あの身命にも及ぶ佐渡流罪の大難の渦中、大聖人は厳然と仰せになられた。
「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(全957・新1286)と。
「師子王の心」とは、どんな強敵が、群れをなして襲いかかってこようとも、恐れない。どんな大難が山また山となって立ちはだかろうとも、断じて負けない。その最極にして無敵の勇気が、「師子王の心」であります。
いざという苦難の時に、この勇気を奮い起こし、師匠と共に、思い切って戦い抜いた人が、仏になれる。勇気こそが、己心の無明を打ち破り、自他共に仏界の生命を開くのであります。(中略)
戸田城聖先生のもとで、女子部の「華陽会」が学んだ、『トム・ソーヤーの冒険』の作者である、アメリカのマーク・トウェインは語っている。
「どれだけ多くの人間が自分の力を知らないことか! 人間には宇宙を動かす力が秘められている」(ドロシー・クイック『マーク・トウェインと私』野川浩美訳、ほんのしろ)のだと。
人間生命に秘められた、この宇宙大の力を解き放つ鍵こそ、「勇気」であります。
そして、その極致こそが「勇気ある信心」なのであります。
戸田先生は「信心とは、要するに、どんなことがあっても必ず勝つと、心を決めることだ」と結論されました。
無名にして無冠の庶民が、この勇気ある信心に立ち上がって、いかなる悪口にも、いかなる圧迫にも、いかなる陰謀にも屈せずに戦い切ってきたからこそ、世界の柱たる平和と文化と教育の創価の大連帯が築かれたのであります。(2012年1月、新時代第55回本部幹部会へのメッセージ)
2022年8月2日
2022年
8月度座談会拝読御書
妙密上人御消息
御書新版1711ページ12行目~15行目
御書全集1241ページ2行目~5行目
「一人立つ」信心で新たな歴史を築く
拝読御文
日本国の中にただ一人、南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり。二人・三人・十人・百人、一国・二国、六十六箇国、すでに島二つにも及びぬらん。今は謗ぜし人々も唱え給うらん。また上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品のごとく、一同に南無妙法蓮華経と唱え給うこともやあらんずらん。
創価の誇りを胸に
「須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露」との譬えからは、日蓮大聖人が、末法の一切衆生を救いゆく、法華経の題目を弘める“最初の一人”となられた誇りと御確信を拝することができます。
そして現実に2人、3人と伝え広げ、当時の日本全国に妙法を弘通され、今日まで続く、世界広布の流れを開かれたのです。
創価学会は、この大聖人の妙法流布の御遺命と、“一人立つ誇り”を継承し、三代の会長と共に、あらゆる障魔に打ち勝ってきたのです。
草創期には、“貧乏人と病人の団体”と悪口されることもありました。そんな世間の風評などに紛動されることなく、何があっても大聖人に連なる“創価の誇り”を胸に、信心の炎を燃やしてきたのです。
戸田先生はかつて、「今、威張っている人間が、しまったと思う時が広宣流布だよ」と語られました。
その言葉を現実のものとするため、学会員は、世間をあっと言わせるような勝利の姿を示してきました。“必ず幸せになってみせる”と一人立ち、懸命に題目を唱え抜きながら、岩盤に爪を立てるようにして幸福境涯を開き、広布を前進させてきたのです。
一人一人の宿命転換の実証が積み重なり、須弥山のような人材山脈が築かれ、“七つの海”に創価の連帯が広がったことは、仏法史上、未聞の快挙であるといえます。
下半期も“創価の誇り”を胸に、一人立ち、自分自身の新たな歴史を築いていきましょう。
真心は必ず伝わる
100人いれば、100通りの考え方があります。職場や地域において、時には意見が異なり、ぶつかることもあるでしょう。
その時、大切なことは、“あの人とは考え方が合わない”と決め付けないことです。そして、諦めずに対話を続けることではないでしょうか。
「あるいはののしられ、打たれ、あるいは傷を受け、あるいは流罪に二度遭い、死罪に一度定められた」(新1711・全1240、通解)――。日蓮大聖人は拝読御文の直前で、妙法流布に捧げられた二十数年間を振り返り、述懐されています。
それでも、大聖人は万人に具わる仏界の生命を信じ、大慈悲の御闘争を続けられます。その中で、「今は謗ぜし人々も唱え給うらん」とあるように、敵をも味方に変えながら、一人、また一人と正法に目覚めさせていったのです。
広宣流布といっても、「一対一の対話」から始まります。心を込めて語っても、相手から反発されることもあるでしょう。その時こそ、相手の幸福を祈り、粘り強く対話しつづけることが大切です。
池田先生は「信心に反対であるという人に対しても、幸せを願い、大きな、広い心で、笑顔で包み込むように接して、友好に努めていくことが大事です。それが、仏縁を結び、広げていくことになるからです」とつづっています。
一人から一人へ――今がどうあれ、相手を思う真心は、必ず伝わります。地道な対話によって、自他共の幸福境涯が開かれるのです。
<池田先生の指針>
“一対一”の伝統を継ぐ
「法」そのものは、無始無終の永遠の真理です。しかし、「法」を覚知した一人が立ち上がって伝え広めなければ、万人が「法」の利益に浴することは永久にあり得ません。
思えば、仏教の創始者である釈尊は、菩提樹の下で覚りを得た後、この法を説くべきか否かと逡巡しました。あまりにも未聞の法だからです。しかし、遂に決断し、民衆のために一人立ち、法を弘め始めました。「一人立つ精神」は、仏教の誕生から変わることのない、根幹であるといってよいでしょう。(中略)
全ての人には本来、仏性が具わっています。ですから、どこまでも堂々と、そして誠実に、この仏法の偉大さ、学会の素晴らしさを語り抜いていけばよい。仮に無理解からの非難があっても、やがては、相手の仏性が発動していくのです。(『わが「共戦の友」――各部の皆さんに贈る』)
◇ ◇ ◇
ある時、牧口先生は、座談会よりも講演会形式にしたほうがいいと語る青年に、鋭くこう語られました。「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ。日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」
また、戸田先生も、「広宣流布は一対一の膝詰めの対話によって成し遂げられる」とよく語っていました。
私も同じ信条で、常に一対一の対話を重ねてきました。どこまでも大切なのは、一対一の人間味ある励ましと信心の触発です。この伝統が継承される限り、学会は永遠に発展していくことは間違いありません。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第6巻)
2022年7月5日
2022年
7月度座談会拝読御書
四条金吾殿御返事
(世雄御書)
御書新版 1590ページ14行目~15行目
御書全集 1169ページ8行目~9行目
信心を貫き通し 幸福勝利の人生に
拝読御文
日蓮は少きより今生のいのりなし。ただ仏にならんとおもうばかりなり。されども、殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。その故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。
大願に生き抜く
本抄が送られる直前の建治3年(1277年)6月、四条金吾は、周囲からの讒言や中傷を信じた、主君の江間氏から“法華経の信仰を捨てなければ、所領を没収する”と命じられました。
今回の拝読御文の直前で、日蓮大聖人は、門下が大弾圧を受けた時も、一歩も引かずに戦い続けた金吾に、あえて「以前よりも、百千万億倍、用心していきなさい」(新1590・全1169、通解)と、所領を惜しむのではなく、強盛な信心に立つように教えられています。
信心を貫き通すことで、ものごとの道理として、必ず勝利していくことができるからです。
「ただ仏にならんとおもうばかりなり」とは、どこまでも万人の成仏を願われた、大聖人の誓願です。
目先の毀誉褒貶にとらわれず、師と同じ広宣流布の大願に立つならば、自身の悩みや願いなど「今生のいのり」も全て包み込むように叶えていくことができる――。弟子である金吾のために、呼び掛けられていると拝することができます。
池田先生は「自身の宿命転換を願い、広宣流布の実現を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です。最後に勝つ人です。ここに信心の極意があります」とつづっています。
師の教えの通りに仏法の実践を貫いた金吾は、「仏法は勝負」と仰せの通り、主君からの信頼を回復し、新たな所領を得ることになるのです。
皆が“宝の存在”
どんな時も信じてくれる壮年部、女性部の同志が支えになった――。
未来部・青年部時代に、そういった経験をした学会員は、多いのではないでしょうか。
日蓮大聖人は本抄で、苦闘する四条金吾のことを“絶えず祈っている”と仰せです。何があっても弟子の勝利を信じ、祈ってくださる師匠の存在に、金吾はどれほど感動し、心強く思ったことか、計り知れません。
末法に妙法を弘め、一切衆生の成仏の道を開かれた大聖人は、万人の幸福を実現するという“仏の願い”をよみがえらせました。その大聖人のお心を拝していく時、仏法に縁するだれもが、「法華経の命を継ぐ人」であるといえます。
大聖人の御精神に連なる創価三代の師弟も、“だれもが宝の存在”と、眼前の一人を大切にし、世界中に地涌の連帯を広げてきました。どこまでも「一人」の可能性を信じ、励まし、見守り続けることが大切です。
真心を込めた祈りは、たとえ時間がかかったとしても、必ず伝わります。その思いに立ち上がった同志の体験は、枚挙にいとまがありません。
池田先生は「たとえ諸君が、自分なんかダメだと思っても、私はそう思わない。私は信じている。私は諸君を尊敬している。必ず、あなたにしかできない使命をもった人だと信じている」と語っています。
師の心をわが心とし、未来部・青年部をはじめとした後継の友が、“自分自身が宝の存在”と、希望の前進ができるよう、励ましを送っていきましょう。
<池田先生の指針>
妙法の「師弟の道」を
皆、今世に妙法の力を涌現して宿命転換し、幸福の大境涯を開いて、活躍する使命がある。皆、広宣流布の誓願のままに、悪世末法に生まれてきた地涌の菩薩である。その人でなければ果たせぬ尊極の使命があるのだ。
良き友人となり、温かく接し、見守っていくことだ。自らが受けた恩と励ましを何倍にも変え、後輩に注いでいくことだ。手作りで「法華経の命を継ぐ人」を育てていくのである。
学会員に尽くすことは、広宣流布に尽くすことであり、仏に尽くすことだ。
まず、自ら一人立て! そして人材を育て、人材と共に進みゆけ!
君が開きゆく勇敢な勝利劇の舞台にこそ、一人また一人と、頼もしき人材が陸続と躍り出てゆくのだ!(『随筆 我らの勝利の大道』)
◇ ◇ ◇
人生の勝負は、長い目で見なければ分からない。ましてや、仏法という永遠の次元から見れば、移ろいゆく、さまざまな評価など、どれも、はかないものである。
我らの広宣流布は、人類の幸福の大道を開きゆく永遠の大事業である。この広布に生き抜く創価の師弟こそ、永遠の栄光と福徳に包まれる、生命の大勝利者なのである。(中略)
一日一日、生まれ変わったように生きる。その人生には感傷もない。愚痴もない。堅実な一歩一歩が、必ず偉大な使命の人生となっていく。これが「創価の道」であり、妙法の「師弟の道」である。(2009年9月、新時代第32回本部幹部会でのスピーチ)
2022年5月31日
2022年
6月度座談会拝読御書
四条金吾殿御返事
(法華経兵法の事)
御書新版 1623ページ9行目~11行目
御書全集 1192ページ15行目~1193ページ2行目
大確信の題目が障魔を打ち破る
拝読御文
なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし。「諸余の怨敵は、みな摧滅す」の金言むなしかるべからず。兵法・剣形の大事もこの妙法より出でたり。ふかく信心をとり給え。あえて臆病にては叶うべからず候。
師弟一体の祈り
苦難や宿命の壁にぶつかった時、ともすれば、厳しい環境や状況を前に、打つ手なく立ちすくんでしまうことがあります。目の前の課題を解決しようと、小手先の“策”に走って、結局は右往左往してしまうこともあるでしょう。
“師匠がいるじゃないか!”“信心があるじゃないか!”――。学会員一人一人は、困難に立ち向かう途上で、たとえどんなに打ちのめされたとしても、師との誓い、信心の原点に立ち返り、何度でも立ち上がってきました。
そしてわが心を奮い立たせ、「法華経の兵法」で人生の艱難辛苦を勝ち越えてきたのです。
「法華経の兵法」とは、“必ずかなう”との、大確信の祈りといえます。わが生命に湧き上がる無限の力で、不信の心を破る、絶対勝利の信心のことです。
拝読御文の直前には、「ただ、心こそが大切なのである。どれほど日蓮があなたのことを祈ったとしても、あなた自身が不信であるならば、濡れた火口に火を付けるようなものである」(新1623・全1192、通解)と仰せです。
門下の勝利を祈り待ってくださる、大聖人の大慈悲のお心を拝すことができます。そして、“師と同じ祈り、同じ心で立ち上がれ!”との師子吼が胸に迫ります。
あらゆる障魔を打ち破る「法華経の兵法」は、大聖人と同じ心、つまり「広宣流布の大願」に立った時に、わが身に脈打ちます。その心で御本尊に向かう“師弟一体の祈り”こそが、“最強の兵法”となるのです。
勇気の信心貫く
日蓮大聖人が、“生きて帰ることは望めない”とされる佐渡流罪から御帰還された後、四条金吾は歓喜の決意に燃えて、主君である江間氏を折伏します。
しかし、江間氏は大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者でした。当時の状況を考えると、金吾の実践がどれほど勇気のいることであったのかは、計り知れません。
金吾は主君から法華経の信仰を捨てるように迫られ、同僚からも迫害を受けるようになります。
それでも金吾は、決して屈することなく、大聖人の御指導通りの実践を、勇敢に貫いたのです。
その後、江間氏からの信頼を回復し、新たな領地を受けるまでになった金吾を、嫉妬に狂う敵が襲撃します。
命の危機を乗り切った金吾に送られたのが本抄です。
大聖人は、法華経薬王品の「諸余の怨敵は、みな摧滅す」との文を引用し、一切の魔を粉砕する、妙法の偉大な力を示されます。
“どこまでも勇気ある強盛な信心で、邪悪な勢力の襲撃を防ぐのだ”との仰せです。
広宣流布は、仏と魔との闘争です。心に隙があれば魔が付け入ってきます。勢いよく前進している時こそ、より一層深く祈り、油断を排していくことが肝要となります。
その上で、あらゆる大難を悠然と勝ち越えられた大聖人は、「臆病であっては、何事も叶わない」と仰せです。
何ものをも恐れない、勇気ある信心を貫いていくならば、必ず勝利の実証を示すことができるのです。
<池田先生の指針>
師匠と共に戦う弟子へ
広宣流布の師匠と心を合わせて、法華経の兵法で戦えば必ず勝てる! 勇気ある信心を貫けば、必ず正義を宣揚できる! 異体を同心とする善の団結を築けば、いかなる悪をも打ち破れる!
これが「絶対勝利の信心」の極意です。(中略)
全世界の皆さんが、和楽の道、幸福の道、栄光の道、健康の道、長寿の道、勝利の道を力強く歩んでいくことが、創価の三代の師弟の根本の誓願です。
創価学会は、永遠に師弟不二で絶対勝利の信心を貫き、凱歌の歴史を刻んでいくのです。(『創価学会 永遠の五指針』)
◇ ◇ ◇
どこまでも「師弟不二の心」で、「師弟一体の祈り」を貫き通していくことこそ、いかなる苦難や困難をも勝ち越えゆくための信心の要諦なのです。また、ここに「法華経の兵法」の肝要があります。
反対に、師弟の祈りが一致しなければ、真の力は出せません。(中略)
最初は“自分のための祈り”だったものが、そのまま“師と同じ誓願の祈り”へと発展していく。それは「師匠に守られる弟子」から、「師匠と共に戦う弟子」への一大転換劇ともいえるでしょう。
これは、「超越的絶対者に救済を求める宗教」とは異なります。「万人が民衆救済の慈悲(慈しみと同苦の仏の生命)の行動者」になるというのが、仏教の根幹の原理なのです。
「師弟」とは、目覚めた民衆の陣列を築く、師匠の「精神」と「行動」を共戦の弟子が継承していくことなのです。(『調和と希望の仏法――「人間の宗教」の時代へ』)
2022年5月1日
2022年
5月度座談会拝読御書
開目抄
御書新版 117ページ7行目~9行目
御書全集 234ページ7行目~9行目
仏性を呼び覚ます人間革命の劇を
拝読御文
『我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。』
苦難は“生命鍛錬”の好機
人生は、順風満帆な日ばかりではありません。宿命の嵐に遭った時には、“なぜ?”“自分にはどうすることもできない”と、疑いや諦めの心が生じることもあるかもしれません。
我ならびに我が弟子……。厳しい現実を前に、心が折れそうになった時。困難の壁を前に、信心の前進を止めてしまいそうになった時。多くの学会員が、自身の心を奮い立たせるように拝してきたのが、この御文です。
日蓮大聖人は、命に及ぶ大難を勝ち越え、末法の全民衆を救う妙法を弘められました。本抄には、諸天の加護を求めたり、難を避けたりするような生き方を突き抜けた、大聖人の、末法の御本仏としての大境涯がつづられています。
法華経の経文に照らせば、末法に正法を実践する人には、必ず三障四魔が競い起こります。その障魔に打ち勝つからこそ、自身の生命が鍛えられ、宿命転換していくことができるのです。つまり、法華経の行者にとって、苦難とは“避けるべきもの”ではなく、“生命鍛錬”の好機となるのです。
だからこそ、大聖人は門下に、いかなる難に遭ったとしても、妙法を信じ切っていくように呼び掛けられているのです。仏道修行を貫くならば、「自然に仏界にいたる」と仰せのように“誰でも”“必ず”仏の境涯を開くことができるとの御断言です。
学会員一人一人が、この一節を身で読んできました。何があっても朗らかに人間革命のドラマをつづる姿は、初夏の太陽のようにまばゆく、自他の仏性を呼び覚まします。
常に誓いに立ち返る
人生勝利の歩みを止めるのは、自分自身です。厳しい環境や、難しい境遇ではありません。自身の内に巣くう、不信や臆病の心によって人生を諦め、いつしか、自ら足を踏み出すことをやめてしまうのです。その根底には「元品の無明」があります。
「元品の無明」は、生命に対する根本的な迷いのことです。さまざまな形で法華経の行者の修行を阻み、責め立てる「第六天の魔王」の働きとなって現れるため、簡単に打ち破ることはできません。
御書には「元品の無明を対治する利剣は、信の一字なり」(新1047・全751)とつづられています。無明との戦いに打ち勝つには“信の利剣”が必要であるとの仰せです。
私たちに即していえば“必ず成仏の境涯を開く”“絶対に幸福になってみせる”という、強き一念といえます。
今回の拝読御書につづられている「約束せし事」とは、広布に挑む一念を合わせた“師弟共戦の誓い”と拝することができます。
その師との誓いを忘れてしまった時、無明に生命を侵され「つたなき者」となってしまうのです。
どんな人にも“無明の闇”は生じます。それを払うには、常に“師弟共戦の誓い”に立ち返り、広布への一念を、より深く強くしていくことです。その繰り返しが、自身に具わる仏界の生命を必ず輝かせていくのです。
師と共に生きる喜びを胸に、同志と励まし合いながら、きょうも心新たに前進を開始していきましょう。
<池田先生の指針>
不退の信心を貫く
「我並びに我が弟子」「自然に仏界にいたるべし」(全234・新117)と言われているように、大聖人の生命に本来的に具わる元初の仏の境涯は、私たち一人一人にも具わっているのです。
しかし、衆生は、自身の生命を覆っている迷いや苦悩にとらわれている限り、奥底の仏の境涯に気づくことができないのです。
そこで大聖人は、御自身のお姿、お振る舞いや御教示を通し、また、門下と対話するように手紙を書き続け、一人一人が御自身と同じ仏の境涯を開いていけるように激励を重ねてくださっています。
それは、門下が師子王の心を取り出して、どこまでも不退の信心を貫いた時に、本来自身が持っていた仏と同じ智慧と勇気と慈悲の大境涯を現していけるということです。(2021年9月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)
◇ ◇ ◇
自分の仏性を信じ、人々の仏性をも信じて行動し抜いていく。
このような精神革命の時代を築いていくこと自体が、実は、広宣流布にほかなりません。私たちは、その偉大なる人類の宿命転換に率先して戦っているのです。
学会員は、自他共の幸福を目指して、広宣流布への「信心」を貫きます。大聖人が仰せのままの「信心の二字」「信の一字」です。(中略)
学会員の「信」には、大いなる真理に生きる智慧、不幸を根絶しようと戦う勇気、そして、“万人が皆、仏なり”との確信に満ちた慈悲が備わっています。永遠の幸福境涯を開いていく「信」が確立されているのです。(『信仰の基本「信行学」』)
2022年4月3日
2022年
4月度座談会拝読御書
四菩薩造立抄
御書新版 1341ページ3行目~4行目
御書全集 989ページ11行目~12行目
諸天を動かす師弟不二の信心
拝 読 御 文
『総じて、日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮がごとくにし候え。さだにも候わば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。』
◆求道の心を燃やす◆
本抄を与えられた富木常忍は、日蓮大聖人が建長5年(1253年)に立宗宣言をされて間もないころに入信したとされています。その後、門下の中核として活躍し、大聖人から、「観心本尊抄」をはじめ、30編以上の御書を頂きました。
本抄では、常忍が住む下総国(現在の千葉県北部などの地域)の門下の一部が、大聖人と異なる、自分勝手な教義を唱えていることを、厳しく戒められています。
慢心を起こし、大聖人の教えに背く己義を弘めれば、人々を惑わすことになります。それでは、自身も他人も、共に「無間大城に堕つ」(新1341・全989)ことになってしまうと仰せです。
だからこそ、拝読御文で大聖人は、「日蓮がごとくにし候え」と教えられています。長年にわたって師匠と共に広布に歩んで来た常忍に、あえて“師のごとく”と、信仰の根幹を教えられているのです。
“師弟不二の信心に立ち返れ”――。信頼を寄せる常忍だからこそ、誰よりも師匠の教えを貫き、周囲の門下の模範となるよう教えられていると拝されます。
私たちに即していえば、どれだけ広布に励んできたとしても、師匠を求める心を忘れてしまっては、正しい信仰は貫けません。また、“こういうことだろう”“もうこれくらいでいいだろう”という慢心があれば、信心が破られてしまいます。
“師匠ならばどうされるか”と、常に求道心を燃やし続ける師弟不二の実践の中に、行き詰まることのない、人間革命の前進があるのです。
◆味方に変える祈り◆
拝読御文の後半では、釈尊や多宝如来、十方の分身仏と並んで、諸天善神である十羅刹女までもが、日蓮門下を守るとつづられています。
諸天善神とは、正法を受持する人とその国土を守護する、種々の働きのことです。
十羅刹女は、法華経の陀羅尼品で、鬼子母神をはじめ、多くの鬼神たちと共に、法華経の行者を守護する誓いを立てています。ゆえに、真剣に広布に励む人は、必ず諸天に守護されます。
それは、強盛な信心の一念に諸天善神が感応し、人々を守護する働きとなって現れるからです。大切なことは、自分自身が広宣流布に戦っているかどうかです。
他の御書でも、「神の護ると申すも、人の心つよきによるとみえて候」(新1608・全1186)と仰せの通りです。
そのことを、日蓮大聖人は命にも及ぶ数々の大難を勝ち越えることで、厳然と示されたのです。
“我がごとく戦いゆけば、いかなる難に遭っても必ず諸天の加護がある”――。
本抄からは、門下への慈愛あふれる、日蓮大聖人の御確信が拝されます。
池田先生は記しています。
「師弟共戦の友は、『至誠天に通ず』の如く、あらゆる諸天を動かし、たとえ悪鬼魔民たりとも味方に付ける祈りで、見事な勝利劇を飾ってきた」
いよいよ春本番。一切を味方に変える強盛な題目を唱え抜きながら、自他共の幸福の花を咲かせゆく、立正安国の対話に、心軽やかに打って出ましょう。
<池田先生の指針>
大聖人がごとく大願に生き抜く
「日蓮が如く」との仰せを違えず、創価の三代は「不惜身命」「死身弘法」の決心で、「三類の強敵」「三障四魔」との大闘争を勝ち越え、「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の大難を乗り越えてきた。だからこそ、釈迦・多宝・十方の諸仏の守護も厳然と現れたのである。無量無辺の諸天善神も、じっとしてなどいられない、創価の師弟の如説修行の戦いであったのだ。(中略)
この崇高なる師弟に、学会の世界的発展の原点がある。「師弟不二」であれば、打ち破れない「壁」などない。「師弟不二」に徹しぬいていけば、今の何倍も、学会は発展していくことができる。(2006年10月、創立記念日祝賀協議会でのスピーチ)
◇ ◇ ◇
妙法弘通にあたって大聖人は、妙法を言葉や理論のみで“教えた”のではなく、妙法を確信し体現する御自身の姿、お振る舞いを通して“示された”のです。大聖人御自身の戦いの姿を離れて、仏法はありません。
したがって私たちが仏法を会得するためには、「日蓮がごとく」という実践が重要となります。どこまでも、妙法をわが身に体現し、生き抜かれた師匠の姿を通し、今度は、師匠の戦いの通りに自ら戦い、自身に体していく以外にないのです。すなわち師弟の脈動の中にこそ、仏法の真実の継承があるのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第9巻)
◇ ◇ ◇
「大聖人の如く、広宣流布の大願に生き抜く」――これが、五月三日を貫く我らの誓いである。(中略)
信心の根本は、どこまでいっても「自行化他」の行動である。慈悲の心をもって、折伏精神に燃え、友のもとへと足を運び、仏縁を結ぶことが、最も時に適った仏道修行なのである。
尊き同志が、生き生きと広宣流布のため、立正安国のため、東奔西走しゆくなかで、五月三日を祝賀してくださる。この姿こそ、戸田先生が何より喜んでおられるに違いない。(『随筆 希望の大道』)
2022年3月1日
2022年
3月度座談会拝読御書
妙一尼御前御消息
御書新版1696ページ1行目~3行目
御書全集1253ページ16行目~17行目
希望を胸に蘇生の活路開く
拝 読 御 文
『法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。』
◆不屈の挑戦の人に◆
『日蓮大聖人御書全集 新版』の「序」に、池田先生は「どんなに厳しい『生老病死』の苦に直面しても、御書に触れれば、『胸中の肉団』から元初の太陽が赫々と昇り、『冬は必ず春となる』との希望の指針のままに、『常楽我浄』へ蘇生の活路を開きゆけるのだ」と寄せています。
草創以来、多くの学会員が「冬は必ず春となる」との一節を胸に刻み、“蘇生のドラマ”をつづってきました。
本抄を与えられた妙一尼は、信仰ゆえの弾圧にも屈せず、夫と共に信心に励んでいました。そんな妙一尼に、悲しみが訪れます。夫は、大聖人が佐渡流罪から赦免されたのを知る前に、亡くなってしまったのです。
頼みの夫に先立たれ、幼い病気の子らを抱え、生活も楽ではなかったと思われます。「生老病死」の苦に直面しても、妙一尼は、師への求道心を燃やして佐渡や身延へと従者を送り、純粋な信心を貫いていました。
大聖人は、試練に立ち向かう妙一尼に、亡き夫の成仏は間違いないとの確信と希望の励ましを送られたのです。
桜の花芽は夏に形成され、秋に休眠します。この花芽は、冬の寒さに鍛えられるように低温が刺激となって目覚め、成長が促されるといいます。
苦難の底にいる時は、先の見えない苦しさを感じるかもしれません。しかし、桜の花芽が厳寒の季節に成長を開始するように、人生の冬の時にこそ、信仰を深め、生命を強く鍛え上げることができます。
不屈の挑戦の人に“人間革命の春”が訪れるのです。
◆全ての友に仏縁を◆
拝読御文にある「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」とは、法華経方便品第2の文です。この文は、本抄だけでなく、他にもいくつかの御書で、門下への励ましとして記されています。
“もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない人はいない”との一節からは、法華経の功力の偉大さとともに、“一切衆生を必ず成仏させる”との、仏の熱願が伝わってきます。
大聖人は、この仏の大願を実現するため、末法の全民衆を救いゆく、「南無妙法蓮華経」の題目を確立されました。その大慈悲の御精神で、時の権力者にも、真正面から仏法を説き、あらゆる大難を悠然と見下ろされながら、万人の成仏を開きゆく偉大な御生涯を歩まれたのです。
この大聖人の御精神に連なり、人々に等しく具わる仏性を呼び覚ましていくのが、広宣流布の実践です。
私たちは、日々の生活の中で、多くの人と出会います。その全ての人に幸福の種を植える対話に挑んできたからこそ、創価の連帯は世界中に広がったのです。
池田先生は「ともすれば一度ぐらい話をしただけで、“あの人はだめだ”“この人は無理だ”と思い込んでしまう。でも、人の心は刻々と変わる。いや、執念の対話で、断じて変えていくんです」とつづっています。
一人も残らず成仏を開くことができる――真心は必ず伝わります。心軽やかに、関わる全ての人に仏縁を広げていきましょう。
<池田先生の指針>
“冬”は、すばらしい“春”のための充電と鍛えの時である。その時にこそ、永遠に崩れぬ「成仏」へのエネルギーは蓄えられ、宇宙大の広がりを秘めた生命活動の力が培われていく。
しかも、そのエネルギーは、難にあえばあうほど大きさを増す。そして、正しき法にのっとった人は、だれもが必ず“春の時”を迎えることができる。
しかし逆に、“冬”のたいへんな時に、信心の向上のための世界から逃げたり、疑ったりして、十分に力と福運を蓄えておかなければ、すべてが中途半端となってしまう。ましてや「満足」の人生を、送ることはできない。
“冬”の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る“春”を確信し、どう深く生きるかである。時いたれば、自然界には花咲く春が間違いなく訪れる。それが生命と宇宙のリズムである。(中略)
正しき信仰とは“永遠の幸福の翼”である。苦難を乗り越えるたびに福運を積み、境涯を高めていける。今世において一生成仏すれば、三世永遠に「所願満足」の生命の“大空”を悠々と羽ばたいていくことができる。これが仏法の法理であり、生命のリズムなのである。(池田大作先生の指導選集〈上〉『幸福への指針』)
◇ ◇ ◇
一字一句でも耳にした人は一人も残らず成仏に至る――これが法華経の偉大な力だ。
妙法を聞いた人が、すぐに発心しなくても、決して落胆することはない。妙法を語れば、必ず仏縁は結ばれ、相手の生命の仏性は、既に揺り動かされているからだ。
私たちが対話した分だけ、幸と希望のスクラムは大きく広がる。さあ、勇気凜々と行動を! 楽しく朗らかに!(聖教新聞2017・2・2付、「御書と歩む 池田先生が贈る指針」)
2022年2月1日
2022年
2月度座談会拝読御書
一生成仏抄
御書新版 317ページ12行目~17行目
御書全集 384ページ2行目~5行目
不退の信心貫き 幸福境涯を築く
拝 読 御 文
『衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。』
◆一念を転換する祈り◆
いかなる迷いの生命も、苦悩に満ちた環境も、自らの一念の転換によって、希望の方向へ、幸福の方向へと必ず変えていくことができる――その根幹が、南無妙法蓮華経の「唱題行」です。
拝読御文の直前で日蓮大聖人は、仏の住む国土である「浄土」といっても、苦悩が充満する「穢土」といっても、別々の国土があるわけではなく、そこに住む私たちの「心の善悪」によって、違いが現れると仰せです。同様に、「衆生(凡夫)」と「仏」も別々の存在ではなく、生命状態が、「迷い」であるか、「悟り」であるかの違いであると示されます。
その例えとして、拝読御文では「鏡」を挙げられています。曇っている鏡でも、よくものを映す鏡でも、鏡であることには変わりません。「これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし」と仰せのように、私たちは南無妙法蓮華経の唱題行を実践することで、無明に覆われた生命を磨き、本来具わっている悟りの生命を顕していくことができるのです。
そもそも、法華経以前の爾前経では、九界の迷いの生命を断じ尽くさなければ、成仏はできないとされていました。一方、法華経では、万人に等しく仏性が具わっていることが説かれ、凡夫がその身のままで、今世において成仏できるという、一生成仏の法理が明かされています。
成仏とは、自らの内に仏の生命を開くことです。
唱題行の実践を貫く中に、絶対的な幸福境涯を築く道はあるのです。
◆たゆまず題目を◆
本抄では、「唱題行」の姿勢として、「深く信心を発して」「日夜朝暮にまた懈らず」との二つの要点が示されています。すなわち、日蓮仏法においては、どこまでも“強盛な信心”を奮い起こすこと、そして“持続の信心”を貫くことが、成仏の何よりの肝要です。
とはいえ、日頃から信心に励んでいたとしても、時に思いもよらない試練に直面して、“自分には無理だ”と諦めて無気力に陥ることや、“信心しているのに、なぜ?”と葛藤することもあるでしょう。
大聖人は「月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし」(新1620・全1190)と仰せです。広布も人生も、一日一日が、成仏を妨げようとする障魔との絶えざる戦いと言えます。
大事なことは、困難の時こそ、勇気を出して御本尊の前に座り、真剣に題目を唱えることです。そうすることで、「試練は宿命転換の好機」との確信が深まり、不退の心で困難に立ち向かい、乗り越えていけます。そして必ず、幸福をつかんでいくことができるのです。
池田先生は語っています。
「題目は『前進』の力です。題目は『勝利』の力です。あらゆる戦いは、まず祈ることから始まります。題目を唱えぬいた人には、誰もかないません」
栄光の人生を築く一切の原動力は、強盛な祈りである――。そう確信して、いかなる時も、たゆまず題目を唱えながら、日々、朗らかに前進していきましょう。
<池田先生の指針>
日蓮大聖人の仏法の唱題行は、自身の生命変革をもたらす最高の仏道修行です。また、題目を唱えることは、自身の仏の生命を呼び覚ますことです。唱題こそが仏界涌現の直道です。
涌現された仏の智慧と慈悲の生命は、自身の生命境涯を豊かにし、自他ともの幸福を実現していく。さらに、自行化他の唱題が広がっていけば、仏の慈悲の生命に彩られた民衆の連帯が可能になり、人類の宿命をも転換していけるのです。
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「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生ききるのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。
私たちの現実は、次から次へ悩みがある。しかし、自分が妙法蓮華経であると定めて、“いかなる苦難も乗り越えていける”“断じて幸福を勝ち取っていくことができる”との大確信で、すべてに向かって勇敢に挑戦していくことです。
「我は妙法蓮華経なり」との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現していけるかどうか、そこに人生の勝利の鍵があります。(中略)
どのような障魔が競い起こっても、一歩も退かない。驚かない。何事にも打ち勝っていけるのが、妙法蓮華経です。それを深く確信することが大事なのです。
(『池田大作全集』第34巻「『一生成仏抄』講義」)