2024年3月13日
〈幸齢社会〉
1億総おひとりさま時代
生涯安心に向け準備を
OAG司法書士法人 代表司法書士
太田垣章子さん
著書
あなたが独りで倒れて困ること30 (一般書)
人生の最期はピンピンコロリ――それが理想でも、皆が希望通りというわけにはいきません。事故やけが、病気などリスクはさまざま。備えておけば、困り事が起きても安心です。エンディング期に向け、考えておきたい住まいやお金のことなどについて、OAG司法書士法人の代表司法書士、太田垣章子さんに聞きました。
“サザエさん”を前提にした制度
私たちは家族がいても「1億総おひとりさま時代」に生きていると言えます。おひとりさまと聞くと、生涯独身の方や離婚や死別、子どもがいない方を想像します。しかし現在、パートナーがいても、片方が病気や認知症になれば、その瞬間から頼れなくなります。子どもがいても同じです。これには“標準的な家族像”が関係しています。「夫婦で子どもが2人以上。長男の妻は専業主婦で、呼べばいつでも駆け付ける」。現在の社会制度は、「サザエさん」で描かれているような家族が支え合う家庭を前提に設計されています。
それは、エンディング期に求められる家族への役割を見ると顕著です。入院する時は身元保証人を求められます。手術の際、本人に判断能力がない場合、家族が同意書にサインします。老人ホームでも、在宅で介護サービスを受けている場合でも、「命とお金に関すること」は家族の役割とされます。
しかも、病院や老人ホーム、ケアマネジャーさんに、死後のお世話をする権限はありません。遺体の引き取りから、葬儀まで家族が進めます。
何かあった時、普段一緒に住んでいない働き盛りの息子、娘が平日、昼夜を選ばず、遠方から駆け付けられますか。子がいない場合は、親族として、おい、めいに連絡が行く場合もあります。普段交流のない彼らが、あなたの意思を尊重した判断を下せるでしょうか。しかも、エンディング期における対応は、一度だけではありません。何度も決断を求められます。
現状の制度は、家族の変化に追い付いていません。最近は、その不備を補うように、「病院が求める身元保証を請け負う」「認知症になった時に財産管理を行う」といった個人向けサービスが広がっています。そうしたサービスを利用することで、急に倒れても、自分の心配事は自分で備えておける時代になったと言えます。
二つの不安に対策して「住」を確保
さて、おひとりさまの準備を何から始めればよいでしょうか。生活の基本「衣食住」の中でも、「住」について考えるのがオススメです。
なぜなら、高齢者にとっては、住宅を貸してもらえない厳しい現実があるからです。
大家側には、大きく二つの不安があります。それは①事故物件②認知症などによる家賃滞納の不安です。私は司法書士として、のべ3000件近くの賃貸トラブルを解決してきました。この二つへの対策ができれば、借りられる物件の幅が広がります。
まずは、「事故物件の不安」から対策をお伝えします。事故物件とは、入居者が部屋で死亡した賃貸物件を指します。事故物件になると、貸し手は借り手に告知する義務を負います。次の入居者が見つからなかったり、家賃を下げる必要が生まれたりします。
本来、自然死は事故物件に当たりませんが、発見が遅れ、遺体の放置で特殊な清掃が行われた場合は該当します。そうならないためにも、何かあった時に駆け付けてくれる見守りサービスを契約しましょう。安否の確認方法は、センサーや家電の使用状況、訪問型など、自分に合ったものを選択できます。
続いて、「家賃滞納の不安」には、財産管理を任せるサービスの契約が有効です。具体的には、任意後見人契約や財産管理等委任契約が当たります。これは、自分の判断能力が衰えた時に、適切に対応してもらえるように代理人に依頼するものです。死後事務委任契約までしておけば、死後の葬儀の手配なども頼めます。
自分と相性の合う専門家を探す
お金の扱いも整理をしておきましょう。
お金は使いやすい形にしておきます。例えば、用途別に口座を分けている人は、一目で財産管理ができるように、一つにまとめることをオススメします。
いまは、ネットで何でも買える時代です。しかし、それが無駄遣いの落とし穴になっていることも。よくあるのが、サブスクリプション(サブスク)の放置です。クレジットカードの支払先などで、使っているサービスを確認してみましょう。過剰な出費や不要な契約がないか、検討しましょう。
また、出費を抑え、一生懸命貯蓄しても、使い方が分からない人も多くいます。「死んだ時が、一番貯金額が多い」と、聞いたことはありませんか。遊興・交際費などは70、80歳代より、90、100歳代の方が少なくなります。
しかし、高齢になるほど貯蓄が減るのは当たり前。なかなかできませんが、死んだ時は貯金ゼロでいいんです。
仮であっても、現時点で考え得る将来の見通しが立てば、不安は減ります。ただ、体力と同じで、高齢になると考え続ける力も衰えます。未来のリスクに何を、どのように備えればいいか――1人で思案を巡らせるのは大変です。ぜひ、専門家を有効活用してください。
生活の支援や財産管理をする民間サービスは増えています。私は、おひとりさま対策の専門家窓口として、司法書士をオススメします。
司法書士から聞かれる質問に答えていくことで、物事が整理され、頭の中のもやもやもすっきりします。良い相談先を見つけるコツは、1カ所目で決めないこと。「初回の相談無料」は結構あります。相談時間は、まちまちですが、30分~1時間程度。できれば、自分と相性の合う人に巡り会えるまで探しましょう。1日でたくさん回る必要はありません。時間を使ってじっくりと吟味してください。
2024年2月21日
〈介護〉
誤嚥を防ぐ食事介助
㊦
実践編
歯学博士 菊谷武さん
スプーンはまっすぐ
食事介助の正しい方法を知ることは、スムーズに食事を進めるだけでなく、誤嚥を防ぐために不可欠です。㊦の今回は、歯学博士の菊谷武さんに、食事介助の実践で、特に心がけたいポイントを聞きました(㊤は2月7日付に掲載)。
団らんより静寂声かけより見守り
介護の中で、最も時間がかかりがちなのが、食事の介助です。食べる機能が低下した人の場合、“1回の食事に1時間以上かかる”ケースも少なくないでしょう。それを1日3食、おやつが加わることもあります。
ただ、何とか時間を短くしようと、一口の量を多くしたり、せかしたりしてしまうと、誤嚥や窒息のリスクは高くなってしまいます。
訪問介護やデイサービスなど、介護保険サービスを利用した負担の分散はもちろん、3食のうち1食は、手間のかからない高栄養のゼリー食にするなどの工夫も検討するとよいでしょう。
介護現場では、あらゆるシーンで、声かけの大切さが指摘されます。しかし、食事介助だけは、少し違います。「団らんより静寂。声かけより見守り」が大事です。食事中に話そうとすると、気が散ってしまい、むせる原因になってしまうからです。
では、どのような点に注意して見守ればよいのでしょうか。食前、食事中、食後に分けて、ポイントを紹介します(別掲)。
食前
準備を整え目覚めを確認
食事は、しっかり五感で楽しむことが大切。メガネと入れ歯、補聴器は、必ず装着します。目覚めているかの確認も重要です。うとうとしている状態では、誤嚥のリスクが高くなります。
食事中
喉仏の動きをチェック
一口ずつ、のみ込むまで確認しましょう。喉仏の動きを観察するといいでしょう。のみ込む時、喉仏は上下に動きます。のんでいない時は、「お口の中に残っているよ」「もう一回のんで」と促し、もう一回のみ込んでもらいます。これを追加嚥下と言います。
食後
1時間は寝かさない
食後1時間程度は、寝転がることなく、座ったままにするなど、リラックスした姿勢をキープしましょう。すぐ横になると、残留物が気管に入ってしまうリスクがあります。また、胃から逆流してきて誤嚥するケースもあります。すぐに寝るのは避けてください。
顎を引き気味に
誤嚥を防ぐためには、顎を引き気味にするのがポイントです。例えば、テーブルまでの距離が遠かったり、介護ベッドがリクライニングしたままの状態だったりすると、顎が上がってしまいます。
食事介助をする人が、目線を相手と同じ高さにすることも重要です。目線が上がると、自然と顎も上がってしまうからです。
スプーンはまっすぐ
自分の唇で食べ物を取り込める人の場合は、口の前までスプーンで食べ物を運び、自分で口の中に取り込んでもらいましょう。
一方で、口の中までスプーンを運ぶ必要がある場合は、口の中央から入れ、口を閉じてもらい、まっすぐ引き抜くようにします。
上唇に沿って、上方向にスプーンを抜くと、顎が上がってしまい、誤嚥のリスクが増すので注意しましょう。
※1回でのみ込める量は、一人一人違います。のみ込みきれないようなら、一口の量を少なくするようにしましょう。
基本姿勢
食事の時は、できるだけ車いすやベッドから、テーブルといすに移動することをお勧めします。
テーブルとの距離を近くし、背中の後ろにクッションを置くと、のみ込みやすい、少し前かがみの姿勢になります。
足の裏が床についていると、のみ込む力がアップします。高さを調整する台を置いてもよいでしょう。
車いす
車いすに、もたれた状態で食事をしないよう、頭の後ろや背中にクッションを入れると、少し前かがみの姿勢をつくれます。また、脇にクッションを入れると安定感が増します。
足は、車いすの足置きではなく、床に直接置くと安定します。
介護ベッド
なるべく立ち上げ、頭の後ろには枕などを当て、後頭部と背骨が一直線にならないようにしましょう。
ベッドの場合でも、足の裏に支えがあると、のみ込む力は増します。台や丸めた布団など、足の下に置くようにしましょう。
2024年2月7日
介護〉
誤嚥を防ぐ食事介助
㊤
基礎知識編
歯学博士 菊谷武さん
食事介助の正しい方法を知らないと、介護者の負担が多くなるだけでなく、誤嚥や窒息につながることもあります。今回は、歯学博士の菊谷武さんに、誤嚥を防ぐための基礎知識と正しい食事介助の方法について聞きました。
のみ込む力の衰えが原因
年齢を重ねると、足腰が衰えていくのと同様に、かむ力やのみ込む力も徐々に衰えていきます。一般的に、かむ力が先に弱くなり、その後、のみ込む力の低下が続きます。
食べ物などをのみ込み、胃に送ることを「嚥下」といいます。この嚥下のタイミングがずれたり、力が足りなかったりして、食道を通るべき飲食物が、気管に入り込んでしまうのが「誤嚥」です。“たかが誤嚥”と侮ってはいけません。誤嚥性肺炎や窒息を引き起こし、命に関わることも少なくないのです。
では、どのような時に誤嚥しやすいのでしょうか。
誤嚥のタイプは、タイミングによって「嚥下前誤嚥」「嚥下中誤嚥」「嚥下後誤嚥」に分けられます。今回は、比較的、食事の介助によって対策しやすい「嚥下前」と「嚥下後」について解説します(別掲)。
むせるのは大事な防御反応
異物が気管に入りそうになった時、むせたり、咳が出たりするのは、誤嚥しないように防御反応ができている証拠です。また、のみ込む力が衰えたことを知らせてくれる、体からのサインでもあります。
周囲の方は、「食事中に咳ばっかりしないで」と言ったり、嫌な顔をしたりしないようにしてください。むせないように我慢してしまっては、誤嚥のリスクが高まってしまうからです。
一見、咳き込んでいないように思えても、耳をそばだてると、小さくむせているケースがあります。そういう場合は、「しっかり咳を出してね」「むせていいんだよ」と声をかけてあげるよう、心がけましょう。
口内環境を清潔に保とう
65歳以上の肺炎の大半が誤嚥性肺炎で、日本人の死因の上位となっています。誤嚥性肺炎にならないためには、口内環境を清潔に保つことが重要です。
口の中は細菌にとって、最高の環境。程よい温度で、唾液という水分も常にあり、栄養となる食べ物が定期的に入ってくる。当然、時間とともに細菌は増殖していきます。
増殖した細菌が、誤嚥によって気管に入ってしまうことで、誤嚥性肺炎は起こります。
食後の歯磨きはもちろん、誤嚥することが多い人は、食前のケアも加えてほしいところです。また、寝ている間に、唾液を誤嚥してしまうこともあります。就寝前にも、口の中を清潔にするようにしてください。
誤嚥をしやすい人の中には、うがいが難しいケースもあると思います。その場合は、ガーゼやケア用のウエットティッシュで拭き取るようにしましょう。
食事介助が必要になると、誤嚥性肺炎のリスクも高くなります。正しい介助方法の実践とともに、口腔ケアの心がけも重要なポイントです。
どっちのタイプ?
嚥下前誤嚥
タイミングが苦手
食べ物が入ってくるスピードに対し、食道を開いたり、気管を閉じたりするタイミングが間に合わないタイプです。水を飲もうとした時、むせやすいのが特徴です。
苦手な物は、水やお茶などの液体、果物や煮物のように水分が含まれている物、せんべいやクッキーなど、かんだ後のかけらがパラパラと口に残る物です。
対策
喉に流れ込むスピードが速いから間に合わなかったり、まとまりがない飲食物に対応できなかったりします。そのような場合は、とろみを付ける工夫が効果的です。スピードを落とし、まとまりを作ることで、のみ込みやすくなります。
嚥下後誤嚥
パワー不足が原因
嚥下のパワー不足になると、のみ込んだつもりでも、喉に残ることがあります。嚥下の時は呼吸を止めているのですが、呼吸を再開した時に、残った物が気管に入ってしまうのです。食事の最中にむせることが多いのが特徴です。
苦手な物は、おにぎりや餅のような、粘り気のある喉にくっつきやすい物、肉やこんにゃくのような弾力が強い食材、また、そぼろやチャーハンなどパラパラした食べ物です。
対策
弱い力でものみ込める食品にすることが誤嚥の予防になります。例えば、ご飯はおかゆ状にしたり、ペースト状の食事に切り替えたりすることも検討してください。
きくたに・たけし 歯学博士。1988年、日本歯科大学歯学部卒業。日本歯科大学口腔リハビリテーション科教授、日本歯科大学口腔リハビリテーション多摩クリニック院長。専門分野は、摂食・嚥下リハビリテーション、老年歯科医学。著書多数。
2023年11月8日
〈介護〉
テーマ投稿
介護のホンネ
排せつケアの苦労と工夫
今回のテーマは、「排せつケアの苦労と工夫」です。排せつケアといっても、トイレの付き添いや着替え、ベッドや部屋の掃除など、その内容はさまざまです。皆さんから寄せられた体験、悩みの声、アイデアを紹介します。
「水まわり用車いす」を活用
重金健司 (59歳)
母が立てなくなってから、トイレ介助が難しくなりました。
利用しているデイケアでは、トイレ介助は2人で行います。一人が母を立ち上げ、もう一人が着替えのサポートをします。しかし、家では私しかいませんので、それができません。
また、病院にあるような広いスペースのトイレなら、便座に対し、直角に車いすを置き、移乗することも可能ですが、家のトイレは幅が狭く、それはできません。
試行錯誤の結果、私が活用しているのは、TOTOの「水まわり用車いす」です。これは、座る所がトイレの座面のような形になっている車いすで、座ったまま、トイレに入ることができるのです。
同様の商品は他にもありますが、わが家のトイレのサイズや形に合うか、デモ機で試した上で、購入を決めました。
隣の部屋で「水まわり用車いす」に乗せ、そのままトイレに行くことができます。
また、お尻の拭き取りも、車いすの下からできて、とても便利です。
この方法が通用するうちは、「トイレはトイレで」を続けていこうと思っています。
「10分チャレンジ!」で切り替え
樋口幸子 (主婦 55歳)
今は亡き父と同居していた時のことです。父の認知症は徐々に進行していきました。最初は、トイレの場所が分からなくなり、次第に間に合わないことが増えてきました。さらには、“排せつしたい”感覚も分からなくなっていったのです。
男性用のおむつやパッドを使いましたが、使い始めた頃は、違和感からか、夜中に取ってしまい、朝になると布団が大変なことになっていました。
風邪をひいては寝たきりのようになったり、普段食べない物を食べておなかが緩くなったり、さまざまな状況を経験する中で、介護には慣れていきました。
それでも大変だったのは、タイミングと臭いです。自分が出かける直前に排せつトラブルがあると焦ります。また、どうしても臭いが耐え難いこともありました。
そんな時は、自分の中で「10分チャレンジ!」と気持ちを切り替えていました。
息を止めつつ、テキパキと処理をした後には、アロマスプレーや空気清浄機で、少しでも気持ちの良い空間にすることを心がけました。
男性も座って用を足して
池田佳江 (主婦 54歳)
父が脳梗塞から認知症になり、同居していた私が在宅介護をすることになりました。父は、自力でトイレに行けましたが、失禁しても全く気付かない状態で、一日中リハビリパンツをはいていました。
脳梗塞の後遺症で、片まひになった父は、便器の中にうまく排尿できず、毎回トイレの床に水たまりができる状態でした。
子どもの頃から、立ったまま用を足すのが普通だった父。洋式トイレでも座る習慣がなく、「座って用を足してね」と、何度言っても忘れてしまいます。そのたびにトイレが汚れ、毎日こんなことを繰り返す父に腹が立ち、涙が止まりませんでした。
夫の闘病生活も重なり、私はうつ病を患い、父の在宅介護は3年で限界を迎え、父はグループホームに入所。それから2年後、父は、がんで他界しました。
その後、私は父の介護体験を生かし、グループホームに勤務しました。
男性に伝えたいのは、いずれ介護が必要になった時のために、トイレは座ってする習慣を身に付けておくとよいということです。介護する方、される方、お互いにとって、楽になると思います。
こんな声もありました!
母の介護で紙パンツを使いましたが、朝起きると漏れていることが多く、毎日、大量の洗濯物。疲れてしまいました。ケアマネジャーさんに相談したところ、尿取りパッドを併用する方法を教えてもらい、解決しました。ささいなことでも相談してみることが大事だと思いました。
(57歳 女性)
夜中に、バスタオルの上に便をする母。ポータブルトイレに移動しようとして、部屋中に便の汚れが付くことも……。私の精神が壊れそうです。でも、介護は長い。デイサービスやショートステイを利用しながら、頑張ります。
(62歳 女性)
父が80代後半の時、ベランダに放尿していることが分かりました。トイレが間に合わないのかもしれないと思い、ポータブルトイレをベッドの横に置くことにしましたが、立って用を足すため、尿を周囲にまき散らしてしまいます。そこで、ポータブルトイレの周りにペットシーツを敷いてみました。すると、水分を吸い込んでジェル状になり、あとは捨てるだけ。こんなに良い物はないと、感動しました。
(64歳 女性)
2023年10月25日
〈こころの絆 読者の体験談〉
「ありがとう」
東京都昭島市 吉川実 (75歳)
昨年末、妻が大腸がんの末期であることが判明。余命3カ月の宣告を受けました。かねて、うつ病を患っていた妻は、「入院は嫌だ」「家に帰りたい」と言うばかり。要介護3の認定を受け、在宅介護が始まりました。
今年の2月初旬までは、ベッドから起き上がることはできたので、一緒にトイレに行き、私が紙おむつを替えました。そのたびに、「お父さん、ありがとう」と言ってくれました。
自分で起き上がれなくなってからは、ベッドの上でおむつ替えをするようになりました。初めて看護師さんがおむつ替えをする時、妻は「お父さん」と私を呼び、看護師さんが「私じゃダメかしら」と、困ったこともあります。
夜中も2時間おきのおむつ替え。小柄な妻でしたが、動かなくなってきた体は意外に重く、そのたびに体を拭いてあげるのは大変でした。
ついには、「お父さんありがとう」も言えなくなり、今年の2月24日、眠るように霊山へと旅立ちました。
私は、妻の耳元で最後に、今まで48年間の思いを込め「お母さん、ありがとう」と伝えました。
絆の結び直し
岐阜県高山市 村田幸子 (主婦 58歳)
私が子どもの頃、両親が離婚。父とは、次第に疎遠になりました。
時はたち、父は介護が必要になりましたが、継母に任せきりでした。ある時、継母も倒れて入院。90歳の父は、施設へ入所することになりました。
兄と一緒に入所手続きを進める中で、あらためて父との接点ができました。穏やかな性格だった父は、安らかに施設での生活を送るものと思っていました。ところが、父は「家に帰りたい」と、言動が激しくなっていったのです。
“まさか、あの柔和な父が……”と驚きました。父の心をくみ取ろうと、面会を試みました。しかし、コロナ禍の影響で、土日に面会ができず、兄の休みに合わせられません。
そこで施設に、「外出して、親子3人でドライブしていいですか」と提案してみました。すると、「本人の気分転換になり、脳の刺激にもなるから」と、快諾してくれました。
2週間に1度の親子3人のドライブ。疎遠だった親子の絆の結び直しです。
思い出話をする父の笑顔、これまでの時間を取り戻すかのように、何度も私たちの名前を呼ぶ声。“寂しい思いをさせてごめんね”と、目頭が熱くなりました。
現在は、もうドライブをすることができなくなりましたが、「また“小旅行”に行きたい」と話す父との時間を、これからも大事にしていきます。
毎日が思い出
東京都北区 大澤いづみ (パート 59歳)
父を7年間、母は1年間、在宅介護してきました。
父は、いつもニコニコしていて、どんなにつらくても、弱音を吐かない人でした。そんな父が4年前に89歳で他界しました。
母と「これからは、二人三脚で頑張ろうね」と言っていた時のことです。私が朝の仕事を終え帰宅すると、母が台所で倒れていたのです。膝を骨折し、約3週間の入院。退院後は、車いすと介護ベッドでの生活になりました。
以来、母は誤嚥性肺炎を繰り返すようになり、昨年11月には、おかゆを喉に詰まらせ、救急車を呼びました。一度は呼吸が止まりましたが、救急隊の方が電話越しに指示してくださり、一命を取り留めることができました。
退院後は、自宅での看取り介護。訪問医療・訪問介護の方にお世話になりました。
一日一日が、母との大切な思い出づくり。穏やかに過ごすことができました。
「お母ちゃん、ずいずいずっころばしする?」と言うと、うれしそうに指を丸めて出します。わざと、最後の「だーあれ♪」と、母の指にすると、「またー! いづみさん、おかしいー」と笑う母。それを聞くのが私にとっての楽しみで、二人だけのかけがえのない時間でした。
今年の3月、最期は私と姉が見守る中、安らかに息を引き取りました。91歳でした。お母さん、楽しい時間をありがとう。私もお姉ちゃんも、お母さんの娘で、本当に良かったです。
後悔も今は・・・
山形市 川村京子 (主婦 67歳)
18年前、長年勤めていた看護師の仕事を辞め、ケアマネジャーとして働き始めました。その直後、実家の父が他界。母のショックは大きく、あきらかに様子が変わっていきました。
幻聴・幻視の症状が現れ、診察を受けると、認知症でした。さらに、家で転倒し大腿骨を骨折。“とても一人での生活はさせられない”と思い、家族に相談。車で10分ほど離れた実家に、ペットの犬と一緒に戻り、仕事を続けながら、母の介護を始めました。
デイサービスも利用しつつ、看護師とケアマネジャーの知識を生かし、回想療法やペットセラピー、毎日のクイズ大会など、母の介護と向き合い続けました。徐々に母の認知症が改善していくのを感じていました。
しかし、母は、くも膜下出血で急逝してしまったのです。“私が付いていながら、どうして急死させてしまったのか”“具合の悪そうな時、なぜ気付けなかったのだろう”と、後悔の念ばかり押し寄せ、母を失った直後の記憶は、ほとんど残っていません。
数年たった今、振り返ると、たくさん思い出をつくれた期間だったと、感謝の気持ちになります――お母さん、ワンちゃんたちと過ごした7年間は、本当に楽しかったね。
2023年9月6日
〈介護〉
テーマ投稿 介護のホンネ
施設入所を決めた 正直な気持ち
今回のテーマは、「施設入所を決めた 正直な気持ち」です。介護施設の入所に至る経緯はさまざまです。在宅介護の限界を感じて入所を決めるケースや、周囲の助言に後押しされるなど、葛藤と決断のエピソードが数多く寄せられました。
“本当によかったのか”何度も自問自答
相原豊子 (主婦 58歳)
寝たきりの父を介護していた母は、父が他界した後、認知症になりました。朝の5時から近所のお宅を訪問したり、ガスコンロで鍋を焦がしたりすることもありました。そんな母が心配で、一日に何度も様子を見に行き、夜も実家に泊まるようになりました。
母中心の生活が続くと、自分の家のことや子どものことに手が回らなくなりました。何度も同じ話をしてくる母に、きつい言葉で接してしまうことが多くなり、在宅での介護に限界を感じるようになりました。
後悔しているのは、だますように母を施設に入居させてしまったこと。“本当によかったのか”と、何度も自問自答しました。面会に行くと、母はいつも「家に帰りたい」と訴えましたが、私は毎回、逃げるように施設を出ては泣いていました。
それでも、半年ほどたつと、母は施設での暮らしを楽しむようになりました。音楽療法では小太鼓を調子よくたたき、風船バレーも好きでした。
私も心に余裕ができ、笑顔で会いに行けるようになりました。家族のように愛情深く母に接してくれた職員の皆さんに、心から感謝しています。
満足そうな顔で旅立った母を見て、一人で抱え込まず施設に頼ってよかったと思えました。
寄り添う言葉に罪悪感が消え
匿名希望 (会社員 女性 48歳)
4年前、認知症の父を介護していた母が、認知症になりました。
実家から遠く離れた住まいで、仕事をしていた私は、介護と仕事の両立は難しいと判断。両親の施設入所を決めました。
ところが、父は施設になじめず、わずか2カ月で退所を検討。母は認知症が急激に進行し、入所した施設では対応できない状況になりました。
“認知症になった両親を誰かに押し付けてはいけない”との後ろめたさもあり、介護離職を考えるようになりました。
そんな時、次の入所候補だった施設の方が、状況を親身になって聞いてくれ、「認知症の人は、そういうもの。頼ることは悪くないんやで」と言ってくれたのです。
両親だけでなく、私の心に寄り添ってくださる言葉に、“自分の気持ちも大事にしていいんや”と思え、罪悪感なく預けることができました。
悩んでいると「あんたが大変だから」
松村優子 (主婦 58歳)
母の体調が急変したのは、95歳の時。風邪をひいたのがきっかけで、車いす生活となり、在宅介護が始まりました。
毎回のトイレの介助など、体力的にも精神的にも限界を感じるように。一方で、親の介護をしないとの決断はつらく、施設入所に踏み切れず、悩んでいました。
ある日、母の世話をしている時に、「私、疲れちゃった……」とこぼしてしまいました。すると母から、「あんたが大変だから、お母さん、施設に行くよ」との言葉。この時、2人で泣きながら、入所を決めました。
母は現在99歳、穏やかに過ごしています。施設のスタッフの方は、ささいなことも連絡をくれるので、安心しています。
「あんたが大変だから」との言葉に、母はやっぱり母だなあと、感謝しています。
お母さん、本当にありがとう。100歳までもうすぐ。また、お祝いしようね!
こんな声もありました!
デイサービス、ショートステイと、段階を踏んで、長期入所が決まりました。ケアマネジャーから、「今までよく頑張られましたね」と、優しい言葉をかけてもらい、張り詰めていた心が解放されました。(66歳 女性)
母が入所したのは、私も高齢になったら入りたいと思うほどきれいな施設。月々の料金も年金に少し足す程度です。プロに任せることは、人生の最終章を豊かに暮らす選択と考えてよいと思います。(65歳 女性)
母がパーキンソン病を患い、在宅介護が始まりました。私が仕事などで留守の時に転倒することが多くなり、施設でお世話になることにしました。不安もありましたが、母も徐々に慣れ、私も仕事や生活に集中できるようになり、感謝しています。(51歳 男性)
あまりの寝不足で、限界でした。介護していても、母に対して優しくできない自分がとても嫌でした。今では、面会しても話すこともできなくなってしまった母。あの時は、優しくしてあげられなくてごめんねと、謝りたいです。(66歳 女性)
2022年12月14日
〈介護〉
こころの絆
読者の体験談
加計呂麻島へ
大阪府岸和田市
松浦八重子(主婦 68歳)
両親は、鹿児島県の奄美群島の一つ、加計呂麻島で2人暮らし。雑貨店を営んでいました。母は腰が曲がると、家の中でも手押し車を使うようになり、要介護2の認定を受けました。転ぶ回数が増え、弟夫婦と交代で介護することにしました。
私は3月から10月まで加計呂麻島で両親と暮らし、それ以外は大阪という生活を7年間続けました。
母に優しく接しようと決めて介護を始めました。ところが、母がはさみやコップを持ち歩いたり、コンロの火を付けたりと、危ないことをすると、つい大声で怒ってしまいます。大阪に帰っては反省の繰り返しでした。
母は「嫁は優しいが、娘はうるさいね」と言いながらも、「あんたが帰ってきて良かった。ありがとう」と、笑っていました。
美容院でパーマをあてたり、父も一緒に島内をドライブしたり、私が行くと、母はとても喜んでくれました。
「お父さんを大事にしてよ」と、いつも父のことばかり気遣っていた母。3年前の12月22日、朝食の後、いすに座ったまま、眠るように霊山へ旅立ちました。95歳でした。前日のデイサービスで、元気に歌うなどしていたので、信じられませんでした。
母のことが大好きな父は現在、96歳。要介護2ですが、デイサービスに通いながら、弟夫婦と元気に暮らしています。
7年間、自宅を留守にしての介護生活を支えてくれた夫と娘に、心から感謝しています。
24時間態勢で
大津市
藤吉美津子(71歳)
8人きょうだいで長女の母は、小学校を卒業後、すぐ働きに出て弟や妹を養いました。結婚するも、父は病弱で、母が50歳の時に帰らぬ人に……。
私は母を尊敬しつつ、若い時は、よくけんかをしました。仕事で中国に渡ってからは、母のことが心配で、頻繁に電話をかけました。娘を思う母の愛情を感じ、帰国して、再度、一緒に暮らすように。老人性うつ病発症後の母との生活は、約20年になります。
昨年末、母が危篤状態に。医師からは“手だてがない”と言われましたが、諦められず、自宅で介護を続けました。
身動きできない母に、水やアイスクリームを10分おきにスプーンで口に含ませました。
母のベッドの横に布団を敷き、24時間態勢が3カ月続きました。兄も泊まって支えてくれました。
介護関係者の支援のかいもあって、奇跡的に回復。今では、自分でトイレに行き、ミキサー食を食べ、テレビを見て大笑い。それを親族19人が見守ってくれています。
100歳の誕生日には、友人や地域の方によるお祝いの飾り付けで、にぎやかな部屋になりました。
母の介護をするという選択は、私にとって、一つの幸せな道だったと思います。のんきで愉快な母が、一日でも長く元気でありますように。
うらやましい
岡山市北区
山田久美(パート 64歳)
最愛の母が、7月に97歳で旅立ちました。早くに父が亡くなり、私もシングルマザーになりましたが、母が家族を支えてくれました。
90歳を迎えてから、大動脈弁狭窄症の手術、乳がんの手術、肺がんの放射線治療を2年ごとに経験。つらかったはずなのに、弱音を吐かず、一つ一つ病に打ち勝つ姿に、医師も驚いていました。
気丈な母でしたが、足腰が不自由になり、「入院中も付き添って」と言うので、仕事を退職して4カ月間、毎日、朝から晩まで病院に。泊まり込む日もありました。
看護師長さんから「仲がいいわね。うらやましい」と言われ、母はうれしそうでした。
退院後の母は、家の中では手押し車を使い、外は車いすで移動。週2回はデイケアに通っていました。4世代同居のわが家で、かわいいひ孫に癒やされながら、にぎやかに過ごしました。
今年になって、肺がんが再発し、治療をしていました。苦しい症状が全くないので、医師も不思議がっていました。
医療関係者やデイケアスタッフ、地域の方々に守られ、天寿を全うすることができました。全ての皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです。
最後の最後まで、自分のことより人の心配ばかりしていた母。何があっても強く生き抜くことを教えてくれた母でした。
お母さん、本当にありがとう。私もあなたのようになれるよう頑張るね。
夫が代わって
東京都足立区
伊藤加代子(主婦 65歳)
私の兄が10月27日、74歳で亡くなりました。
8月中旬に救急搬送され、診断は肺がんのステージ4。兄は独身のため、退院後は、わが家で介護することにしました。
介護認定がおりるまで1カ月ほど。その間も日に日に弱って、1人で立ち上がることも難しくなりました。食事やお風呂、トイレの介助など、慣れない介護に、気持ちの余裕がなくなり、感情を兄にぶつけてしまうこともありました。
覚悟の上で連れてきたのに、“何でこんなに動けないの”“諦めないで頑張ってよ”と、イライラした気持ちが出てしまうのです。
そんな時、夫が代わって、兄に優しくしてくれました。感謝しかありません。
兄は最後の10日間、緩和ケア病棟に入院。痛みが出ることもなく、穏やかに旅立ちました。最後の期間を兄と暮らせてよかった。兄も喜んでくれていたらいいな。
2022年12月14日 介護〉 こころの絆 読者の体験談
2022年8月24日
〈介護〉
こころの絆
読者の体験談
私も妻も幸せ
和歌山市
上辻正七郎(85歳)
よく働いた妻が病に倒れた。私の定年後のことだ。
「俺に任せろ!」と、主夫になって、妻の食べやすい物を買うために、スーパーマーケットに走る毎日。「おじいちゃんの料理、おいしいねえ」と、喜んで食べてくれると、私もうれしい。
血糖値の高くなる病気だから、毎日が工夫の連続。でも、夫婦での生活。それはそれで楽しい。
「おはようさん」と朝のあいさつ。返事で体調が分かる。
「今日は何が食べたいの?」と聞くと、「お魚の煮付け。上手だから」と褒めてくれたり、「カレーライスがいい」と甘えてみたり。
嫁いだ2人の娘も、静かに見守ってくれていたが、妻の人工透析や2度の救急搬送があり、“見ていられない”と心配してくれ、娘夫婦の家に同居することに。その後、妻は入院中に容体が変化し、眠るように霊山へ。
顔を見ると、“おじいちゃん、ありがとう”と言っているような、きれいな顔。十数年介護ができて、私も幸せ、妻も幸せと、涙が止まらなかった。
介護の時は、つらい。でも、今となっては、楽しい思い出となって浮かんでくる。60年間、ありがとう。安らかに眠ってください。
「明日も行く」
奈良県橿原市
筒井豊(71歳)
「行ってらっしゃい」と、デイサービスの車に乗り込む母を最後に見送ったのは4年前――その年、94歳で霊山へ旅立っていきました。
亡くなる数年前から少しずつ物忘れが多くなり、きょうだいや家族で、介護サービスを受ける相談をしていました。ところが、介護サービスを受ける話をすると、母は、かたくなに拒み、揚げ句には怒って、行き先も告げずに自宅を飛び出してしまうことも。
何度説得しても、全く耳を貸さない。「私をそんな施設に入れるのか」と、大きな声で怒鳴り、自分の部屋に閉じこもり、食事もそこで取るように。市の担当者が来ても、話を聞こうともせず、怒るだけの毎日でした。
そんな折に、母の先輩から電話があり、母は喜んで先輩宅を訪問しました。
先輩から「じっと自宅にいるより、一度、私の通っている施設へ遊びにおいで。気が紛れるよ」と誘われて、初めて施設に足を踏み入れることになりました。
あれほど嫌がっていた母が、施設の玄関先で先輩の姿を見ると、こわばった表情から笑みがこぼれて、そのまま一緒に半日過ごしてきました。
帰ってから感想を聞くと、楽しかったらしく、「明日も行く」との言葉に、家族もホッと一安心。以来、デイサービスは母の楽しみになりました。
「今日はこんな算数の計算もした」と、施設でのことを楽しく語る母の姿――今は見ることができませんが、近所の介護サービスの車を見るたびに、当時のことが鮮明によみがえってきます。
103歳の誕生日
新潟県三条市
栗山郁子(主婦 76歳)
「ありがとう」と、いつも感謝を忘れずに頑張っている母が、先週、103歳になりました。
父が亡くなってから、99歳までデイサービスに通い、「今日も楽しかった」と話していました。
そんな母が、トイレで転び、大腿骨を折り、車いすの生活に。在宅介護をしていましたが、夜中に何回かトイレに起き、そのたびに補助が必要な日々。私が体力の限界を感じ、母は介護老人保健施設に入所することになりました。
コロナ禍の影響で、会えないつらさもありますが、約4年間、介護や看護の優しい方々に支えられ、生き生きと暮らしています。
先日、誕生日に会いに行くと、ちょうどお祝いをしてもらっていました。別室で、タブレット越しでしたが、うれしそうな母の姿を見て、安心しました。
私がいつも手紙を書いて持って行くと、母は時折、返事をくれます。
そこには「私もおかげさまでピチピチしています。まだ生きそうです。喜んでいます」などと書かれています。最近は力がなく、読めない字が多くなりましたが、返事をもらえるのは、うれしいものです。
ばあちゃん、今日も元気で、生きてくれて本当にありがとう。なかなか会えないけれど、今日も転ばないで、元気で感謝の一日をね。
“二人三脚”で
大阪市港区
野田薫(60歳)
4度の心臓手術をした父が、2017年に再度、心不全を起こして入院しました。10日後に退院し、自宅で療養。いよいよ明日から、また母と一緒にデイサービスに行こうと、散髪に行き、風呂に入り、新しい下着を身に着けて、いつものように、母と介護ベッドを並べて休みました。翌朝、父は静かに旅立ちました。
「病院で最期を迎えたくない」と、生前から口にしていた父。まるで、最後に母と過ごす時間を与えられたようでした。
亭主関白の父は、いつも母と一緒。苦難も“二人三脚”で乗り越えてきました。
突然、夫を失い、心細く、落ち込んでいた母には、父と25年間暮らした埼玉を離れ、私の住む大阪に来てもらうことにしました。当時は80歳、要介護3でした。
大阪で一緒に暮らし始めた翌年の秋、あめをなめたような母の話し方に違和感を覚え、救急病院に連れていくと、早期の脳梗塞が発覚。点滴治療で回復しましたが、持病のぜんそくもあり、弱気になることがよくありました。
また、昨年、2度目の胃がんが見つかり、内視鏡で手術。今年の検診では、医師から「体力的に最後の胃カメラになる」と言われました。「娘や息子の重荷になるから、早く父ちゃんのところへ行きたい」と、父の遺影の前で涙する姿を何度も見ました。
生前、父は「父ちゃんがあの世に行ったら、母ちゃんは頼むで!」と遺言のように言っていました。
早いもので、母と同居して5年の月日が流れました。気が弱く、すぐ泣き、子どもに「ありがとう」を繰り返す母です。
これからは私と“二人三脚”で頑張ろうな。長生きしてや。大好きやで。頑張れ母ちゃん!
2022年8月10日
〈介護〉
こころの絆
読者の体験談
介護を仕事に
岩手県遠野市
先崎信子(74歳)
看取るまでの18年間、母を介護しました。
認知症だった母は、窓ガラスを割って外に出たり、排せつ物を隠したりと、とても大変でした。気付けば、私も疲れて大声を上げて怒ってばかり……。
このままではいけないと思い、介護のことを学ぶために図書館へ。勉強を重ねる中で、多くの人が介護について悩んでいることを知り、介護職になることを決意。58歳ごろからヘルパーとして介護施設で働き、先月末まで続けることができました。
夜勤もある仕事と母の介護の両立は大変でしたが、訪問介護や訪問入浴などのサービスを利用。徐々に、自分なりのストレス解消法も分かるようになりました。ちなみに私の解消法は、趣味の温泉に行くことです。
母を介護していたことは、仕事の支えにもなりました。“施設の利用者を、母と同じように大事にしよう”と思うこともできたのです。
寝たきりで何年も話さなくなっていた母が、突然、私の名前を呼び、「ありがとう」と言ってくれました。私はびっくりして涙が止まりませんでした。それから1週間後、母は安祥として霊山へ。今でも母が、私のことを見守ってくれているように感じます。
私が介護職に就いた影響は、家族にも。夫は58歳で漁師を引退し、介護の仕事に就職しました。娘も介護タクシーのドライバーとして毎日頑張っています。
全部、母のおかげです。「お母さん、ありがとう」と、感謝を伝えたい気持ちでいっぱいです。
新しい土地で
新潟市西区
石川かほる(主婦 71歳)
昨年8月、義母が104歳で天寿を全うしました。
約40年前、夫の転勤に伴い、神奈川から大阪へ2人の娘と共に転居。この時、故郷の新潟で1人暮らしをしていた義母も呼んで、5人家族での新たな生活になりました。
窓の外から聞こえるご近所さんの会話に、「外国に来たみたいだねー」と、義母は新鮮で楽しそうでした。新しい土地での刺激的な日々は、私たち家族にとってかけがえのない時でした。
その後、一家で新潟に戻り、義母は98歳でデイサービスに通うようになりました。レクリエーションやランチ会に進んで参加するほど元気でしたが、その後、要介護4まで進み、ベッドでの介護が必要に。義母は体の痛みを訴え、私も腰痛を抱えるようになりました。在宅での介護に限界を感じ、102歳で介護施設に入所しました。
コロナ禍で会うことも難しくなり、さみしい思いをしているかと心配しましたが、施設で一番の年長者だった義母は、他の入所者から親のように慕われていたようでした。心穏やかに過ごせたことに、ケアマネジャーさん、スタッフの皆さんには感謝しかありません。
約3年前、夫と共に娘家族の住んでいる町の近くに越してきました。私は、義母が故郷を離れた年齢とほぼ同じ年齢になりました。今度は私が義母のように、新しい地での出会いを楽しんでいます。
2羽のスズメ
埼玉県三郷市
山本披露武(89歳)
認知症の義父を介護していた時のことです。徘徊しないか心配しながら、見守りの介護。義父が少しでもさみしくないように、“小鳥が遊びに来てくれたら”と思い、小皿にご飯を入れてベランダに置いてみました。すると、2羽のスズメがやってきました。
義父は、それを見て目を丸くしています。
「お義父さん、右にいるのが『鈴』、左にいるのが『白』というのです」と、私が冗談で言うと、「名前があるのかよ」と、また目を丸くしました。
「僕が名前を付けてやったんです」と言うと、さらに義父が驚き、「何? あのスズメがお前の子どもたち? わしの孫がスズメになってしもたと言うのかよ? これは大ごとじゃよ」と言ったまま、頭を抱えてしまいました。
少し冗談が過ぎたかなと思って心配しましたが、しばらくすると、義父が顔を上げ、「けんどまあ、元気なのが何よりじゃ。『鈴』と『白』か。よしよし、さあ飯を食え。うんと食うて、早う大きゅうなるんやぞ」と言って目を細め、スズメを見続けているのです。
20年以上も前のことですが、認知症になっても、思いやりの心を持ち続けている優しい義父の言葉に、強く心を打たれたことを今も覚えています。
「大丈夫か?」
埼玉県朝霞市
代田裕子(64歳)
私の母は、現在91歳です。朝食の準備や服薬の補助のため、4、5年前から毎日、実家に通っていました。一人での生活が大変になってきた約1年前からは同居しています。
週2回のデイサービスには、「いろんな人と出会えるから楽しいよ」と、母はいつも笑顔で通っていました。ところが徐々に、昼間から寝ている時間が多くなっていきました。母は「寝ている方が楽だから、元気で寝ているんだよ。大丈夫だ」と言っていましたが、本当は体調が優れず、起きるのもつらかったのだと思います。
それでも、一日3食は、必ず起きて食べる母。私が「大丈夫か?」と聞けば、いつでも「大丈夫だ」と答えてくれました。
2カ月に1回の通院の時は、渾身の力を振り絞り、タクシーで病院に行き、長い待ち時間もじっと我慢。この時も、「大丈夫か?」「大丈夫だ」の繰り返し。
歩いている時、「長生きするのは、きつい」と、小声でこぼす母。私は祈るような思いで母の手を握り、「頑張っているよ、偉いよ、お母さん。すごい人だね」って語り掛けました。
そんな母が、大きな手術を終えて、久しぶりに家に戻ってきます。ベッドも用意し、今までとは、また違った介護が始まります。
私は今、母と一緒に生きています。母がとてもいとおしい。宝の時間です。
ありがとう、お母さん。いつまでも一緒に暮らそうね。
2022年8月10日聖教新聞
2022年7月27日
〈介護〉
介護疲れ
㊦
解消するためのポイント
介護者メンタルケア協会代表
橋中今日子さん
介護を続けるためには、疲れをためない工夫が必要不可欠です。㊤に続き、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんの登場です。㊦の今回は、介護疲れを解消するポイントや施設利用の考え方などについて聞きました。(㊤は7月13日掲載)
サービスの見直し
介護疲れに気付いたら、介護サービスの見直しから始めてみましょう。
介護サービスには、大きく分けて、介護保険サービスなどの公的な「フォーマルサービス」と、地域のボランティアやNPO法人などによる「インフォーマルサービス」があります。大切なのは、“使えるものは全部使う”という考え方です。
“自分でできているから大丈夫”と思っていても、いざサービスを利用すると、自身の疲れに気付くこともあります。
多くの人は、「夜中のトイレ対応」など、大変なところから介護の負担を減らしたいと思うもの。ところが、ピッタリのサービスが見つからないこともあります。そこで諦めてはいけません。不必要に感じる小さなサービスから利用することで、負担は想像以上に軽減するものなのです。
家事の負担を減らす
買い物や食事の準備、洗濯、ごみ出し、庭の手入れ……家事は、本当に大変です。そこに、仕事や子育て、介護が重なれば、できないことが出てきて当然です。それなのに、家事が滞ると、自分を責めてしまいがちです。
介護サービスだけでなく、ネットスーパーや家事代行など、家事の負担を減らすサービスを利用する視点も大切です。
近くに頼れる人がいれば、介護は難しくても、家事をお願いするなど、役割分担できるといいでしょう。ただ、きょうだいや親族と、介護のことでもめる恐れがあれば、家事サービスをフル活用することも考えてみましょう。
どのようなサービスを受けられるのか、調べるだけでも大変です。困ったときは遠慮せず、“助けてください”と、行政の窓口をノックすることから始めてほしいと思います。
睡眠時間は最優先
介護疲れを解消するために、やってほしいことを挙げたいと思います。
・起こされずに、ゆっくり眠れる日をつくる
・1日2時間、一人になれる時間をつくる
・週1回、文化的な活動
・週2~3回の適度な運動
・第三の場所をつくる
これは、あくまで理想です。“そんなの無理”と思う人がほとんどではないでしょうか。ただ、どれも介護を理由に削りがちな時間です。こういった時間を確保できるように、サービスを追加したり、ショートステイを活用したりするのが重要なのです。
“自分のためにサービスを使うなんて……”と、ためらう人もいるかもしれません。ただ、自分のケアがない介護は、基礎や柱のない家に住むようなもの。“いつ壊れるか分からない……”そんな不安を抱えたままでは、誰も幸せになりません。
中でも、睡眠時間の確保は最優先です。その上で、映画館や美術館に足を運んだり、自然に触れたり、心が豊かになることをできるとよいでしょう。また、家庭の顔でも仕事の顔でもない、“自分の役割”から外れられる場所をつくることも大事です。
人に委ねられる力
“家族だから”との責任感や、相手の期待に応えるうちに、知らない間に介護負担を一人で抱え込んでしまいます。私もそうでした。
介護は長期化しやすいものです。一人で頑張るだけでなく、“もし自分が倒れたら、要介護者の情報を誰も知らない”という、リスクを意識することも大切です。
「いざとなったらショートステイ」と思っていても、実際の緊急時、利用できないケースもあります。事前情報がないことで、受け入れてもらえないのです。日頃から、デイサービスやショートステイを利用しておくことで、緊急対応の幅が広がります。
「人に委ねる」ことを、ステップアップだと考えてみてください。「自立の上が、相互依存」だと、学んだことがあります。自分でしっかり立てるからこそ、お互いに助け合えるという考え方です。助けてあげられるのは、もちろん力です。一方で、助けを受け取れるのも、また力なのです。
施設入所は悪くない
サービス活用を検討し、ショートステイや施設入所を選択することもあると思います。
中には、「施設入所は悪いこと」と考えている人がいるかもしれません。しかし、大事なのは、家族が要介護になった後、どのような時間を過ごし、どのような思いを分かち合うか、ではないでしょうか。日常的にイライラしたり、怒鳴ったりでは、本来の目的は果たせません。
また、「施設に行ったら、最期まで施設」とは限りません。一時的に施設へ入り、自宅に戻ることもできるのです。
自身の介護を振り返り、“本当にこれでよかったのか”と、後悔や罪責感を持って、悩んでいる人はいませんか? 頑張ってきた人ほど、自分を責めるからつらいです。介護者の皆さんは、どんなときも最善を選択してきたはずです。自分を責めないでください。
誰かに届けてきたその優しさを、自分にも届けてあげてください。それが、目の前の人を幸せにすることにつながるのです。
はしなか・きょうこ 理学療法士。公認心理師。リハビリの専門家として病院に勤務する傍ら、家族3人の在宅介護を21年間続けた。自身の介護疲れを機に、心理学やコーチングを学ぶ。現在は、介護者メンタルケア協会代表として、介護と仕事の両立で悩む人、介護することに不安を感じている人に「がんばらない介護」を伝える活動を全国で展開している。
2022年7月20日
〈幸齢社会〉
意識を変化させ、
続けよう無事故ドライバー
実践女子大学教授
松浦常夫さん
車の運転中、道路脇の看板に気を取られ、前方に視線を戻した時には、前を走る車とぶつかる寸前だった――。若い頃であれば即座に反応し回避できたヒヤリハットも、年とともに大事故につながることがあります。高齢ドライバーが交通事故を起こさないため、注意したいポイントについて実践女子大学教授の松浦常夫さんに聞きました。
出合い頭や右折時に事故は起こしやすい
世代によって、車の運転事故が起きやすい場所や原因の傾向は異なります。他の世代に比べて高齢ドライバーは、交差点での出合い頭や右折時に事故を多く起こしています。
共通しているのは、短時間に多くの認知を必要とすることです。出合い頭の事故を防ぐには、交差点に一時停止の標識があることを認知して一時停止、左右から車や歩行者、自転車が来ていないことを確認するという多くの課題をクリアする必要があります。また右折には、対向車に加え、右折先を横断する歩行者や自転車にも注意を払わなければなりません。赤信号にならないうちに右折する時間的プレッシャーもある中、危険への素早い認知と判断が問われます。
高齢者の事故には、老いが影響しています。若い時に比べ、注意力を働かせ、状況を認知したり、判断したりする力は衰えます。衰えるといっても日々の変化は、自分で認識できないほどささいなものです。
無事故運転を続けるために、例えば65歳を超えた頃から、意識して運転を変化させるのはどうでしょう。運転寿命を長く維持することを目的に、私は運転技能が衰えた分を補う「安全ゆとり運転」(別掲)を提唱しています。
速度を落として走行するのもその一つです。若い時に30キロで曲がっていたカーブを、同じスピードで走れば、状況を認知し、それを車の動きに反映させる力が衰えている分、安全走行が難しくなります。同じカーブでもスピードを20キロに落とせば、状況を判断する余裕ができ、事故を起こしにくくなります。
また、加齢とともに頭では分かっていても、一つ一つの認知と判断に時間がかかる、右だけにとらわれるなど注意の配分がうまくできないことも起きてきます。それらは事故の原因になります。ちょっと見たつもりの「脇見」でも、実際は随分時間がたっていたなんてこともあります。
危険な状況では運転しない判断も
「安全ゆとり運転」の項目には、運転前の心掛けについても取り上げました。運転を控えることや安全運転に向けた準備をすることは、技能が低下してもできることです。運転を全くしないというわけではありません。危険な状況を避け、安全な環境を選択することが、事故をなくすための基本となります。
例えば――。「夜間や雨の日や長距離の運転を避ける」「移動時間が短くなるからとわざわざ危険なルートを選ばず、迂回しても、安全に走行できる道を選択する」
どんなことにも言えますが、準備を怠れば、実力は発揮できません。運転に向けて、体調を整えておきましょう。
また、車は運転者の心理的状況が大きく反映します。焦ることのないよう、時間にはゆとりを持つ意識が重要です。
予定時間に間に合わせようと「急ぎ運転」をしても、実はさほど時間は短縮できません。走行実験では、急ぎ運転をしても12・5キロ移動するのに、平均2分45秒しか変わりませんでした。焦った状態で車に乗れば、時間短縮のメリットが少ないにもかかわらず、事故の危険性が増します。そういった状況に陥らないよう、余裕を持って出発しましょう。
車両点検や、車内の整頓をしておくことも大切なポイントです。日頃からの心掛け次第で危険を回避することができます。
サポカー(安全運転を支援してくれる車)を買う、安全をサポートしてくれる同乗者がいる。これらは誰にでもできることではないですが、こういった安全支援策があることを知っていただければと思います。
乗車前の安全対策について3000人超の高齢ドライバーに調査したことがあります。雨の日の運転を控えたり、体調を整えたりといった準備は、半数から3分の2の人が実行していました。対策は、「知っているだけ」では効果を発揮しません。安全ゆとり運転を実践すると、交通事故に遭う危険を回避できるだけでなく、気持ちに余裕を持つことができます。その結果、運転寿命を延ばし、車と長く付き合うことができます。
安全ゆとり運転の項目
運転前の対処
◇運転制限
1、夜間の運転を控える
2、雨の日の運転を控える
3、長距離の運転を控える
4、安全に走行できるルートを選ぶ
◇運転準備
5、安全運転をサポートする車を運転する
6、時間に余裕を持って出発する
7、体調を整えてから運転する
8、車の点検や車内の整頓をする
9、安全運転をサポートしてくれる同乗者を乗せる
安全志向運転
◇速度抑制
10、制限速度を守って運転する
11、以前よりスピードを出さないで運転する
12、自分が優先であっても見通しの悪い交差点では徐行する
13、しっかり止まって安全を確認する
◇注意集中
14、イライラしたり、あせったりしないで運転する
15、ながら運転をしない
16、脇見をしないで運転する
◇防衛運転
17、危ない車や人・自転車には近づかない
18、車間距離を十分に取る
19、後ろから車が来たら脇によけて先に行かせる
20、狭い道で対向車が来たら停止して待つ
調査から得られた「安全ゆとり運転」の具体例
出典:松浦常夫著『高齢ドライバーの意識革命 安全ゆとり運転で事故防止』(福村出版)
2022年7月13日
〈介護〉
介護疲れ
㊤
まずは気付くところから
介護者メンタルケア協会代表
橋中今日子さん
介護は“ゴールの見えない長距離走”に例えられます。だからこそ、日々の介護疲れをためない工夫が大切です。㊤の今回は、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんに、介護疲れに気付くためのポイントについて聞きました。(㊦は7月27日掲載予定)
気持ちを伝える
私自身、3人の在宅介護を21年間、1人で続けました。認知症の祖母、寝たきりの母、重度の知的障害の弟の3人です。
その経験から、介護を続ける上で、周囲の人に状況を知ってもらうことが、とても重要であることを痛感しています。
しかし、相談すること自体、エネルギーを必要とします。トラブルの連続で、相談する余裕すらないこともあります。
当時、働いていた私は、上司に「母が〇〇なので」「弟が△△な状態で」と、一生懸命、介護の大変さを伝えていたつもりでした。それでも、具体的な対応をしてもらえず、“なんで伝わらないんだろう”と思ったこともあります。
ところが、ある時、私自身が限界を感じ、「疲れました」「もう頑張れません」と伝えると、すぐに親身になってくれ、対応してくれたのです。家族の状況説明だけでなく、自分の気持ちを率直に伝えることも大切なのだと知りました。
休業明けが一番
介護は、大きく四つの期間に分けられます。けがや病気が発生した直後の「パニック期」。介護申請や生活環境を整える「環境調整期」。実際に介護生活をする「生活期」。最後に、看取りに備えた「看取り期」です。
生活期になり、介護が軌道に乗った後、再度のけがや病気で、パニック期に戻る――看取り期以外の三つの時期を、ぐるぐる回るケースは少なくありません。
そのため、何度も仕事を休み、周囲からは「またなの?」と、理解されないこともあります。
介護休業を活用している人もいると思います。「介護休業」という名称ですが、介護者は休んでいるわけではありません。介護に追われ、心身をすり減らしながら頑張っています。この期間が終わって職場に戻った時期が、実は、一番疲れているということを知ってほしいと思います。
体からのサイン
ある時、母から「そんな怖い顔して怒らないで」と言われ、ハッとした経験があります。感情のコントロールができず、怒鳴ってしまうなど、介護疲れが表面化することがあります。
・忘れ物をする
・約束を忘れる
・物をなくす
・よく食器を割る
・体をよくぶつける
これらは、介護疲れがたまっている人の多くに当てはまります。
自分がそそっかしいんだと思いがちですが、全て、体が教えてくれる、疲れがピークを迎えているサインなのです。“しっかりしなきゃ”と、自分を責めないようにしましょう。
音と臭いに敏感
音や臭いに対して、敏感になっていませんか?
食べている音やテレビの音量が気になったり、特に、要介護者が認知症の場合、物を探す音や、夜中に歩く音を聞いただけで、ぞっとしたり。これは介護疲れの典型で、“音疲労”と呼んでいます。
また、排せつ処理が無理になってしまう人もいます。“自分の愛情が足りないから……”なんて思う必要はありません。嫌だと思っていいんです。例えば、どんなに愛しているわが子が相手でも、排せつ物を嫌だと思うのは当然のこと。絶対に自分を責めないでください。
排せつ物専用の洗浄剤などの介護用品を活用しつつ、ケアマネジャーをはじめ、頼れる周囲の人に、「疲れているみたいです」と、SOSサインを出してください。
何げない言葉で
何げない思考や言葉でも、介護疲れに気付くことができます。チェックリスト(別掲)にあるような言葉を思ったり言ったりしていませんか?
一つでも当てはまる場合は、黄色信号ではなく赤信号。自分の限界を超えてしまっているので、立て直しの時期だと捉えましょう。一度ストップして、利用するサービスを追加するなど、介護の在り方を見直してください。
周りの人が気付くこともあります。気付いた方はぜひ、「休んだ方がいいですよ」と、背中を押してあげてください。
「もっと大変になったら相談します」という人もいますが、自分が考える“まだ大丈夫”は、信じてはいけません。実は限界を迎えていることがよくあるのです。
〈チェックリスト〉
余裕がないときの思考パターン
両極端な判断しかできなくなる「白黒思考」、周囲の人のことを決め付けてしまう「確証思考」、自分のやっていることに自信が持てない「過小評価思考」など、リストに該当するパターンはさまざまですが、いずれも余裕がなくなっている証拠です。
□仕事を辞めるしかない
□お金はないから施設には入れない
□迷惑な人だと思われている……
□どうせうまくいかない
□ケアマネジャーは当てにならない
□誰も助けてくれない
□私をバカにしている
□大したことできていない
□もっと頑張らなきゃ
はしなか・きょうこ 理学療法士。公認心理師。リハビリの専門家として病院に勤務する傍ら、家族3人の在宅介護を21年間続けた。自身の介護疲れを機に、心理学やコーチングを学ぶ。現在は、介護者メンタルケア協会代表として、介護と仕事の両立で悩む人、介護することに不安を感じている人に「がんばらない介護」を伝える活動を全国で展開している。
2022年6月29日
〈介護〉
こころの絆 読者の体験談
バカ息子やぞ
兵庫県姫路市
細川 啓子
(73歳)
わが家では、101歳の義母を介護しています。
100歳になった頃から、義母は、夫と私のことも分からなくなりました。また、101歳になる前までは、支えがあれば歩けましたが、現在は車いすの生活です。
デイサービスの出発前、夫が義母をベッドから車いすに乗せて、自分を指さします。「これ、誰か分かるか?」と尋ねると、義母は首をかしげて、きょとんとします。
夫がユーモアたっぷりに「おばあちゃまのバカ息子の賢信やぞ。言うてみ」と話すと、義母は「賢信」「バカ息子」と言うので、私たちは爆笑です。
夫は、大切なわが子のように、義母をそっと抱いて、頭をポンポンと優しくたたき、「頑張ってこい」と送り出します。その光景を見ては、“なんと親孝行な夫だろう”と、涙が出る思いです。
義母と同居して40年。私も仕事をしていたため、3人の息子たちが、高校・大学を卒業するまで、義母が家事をしながら世話をしてくれました。
恩返しをする思いで、介護しています。それでも、「介護は大変やなあ」と思う時もありますが、いつもは亭主関白の夫が「すまんな。えらい目に遭わすなあ」と、ねぎらいの言葉を掛けてくれるので、私の気持ちは前を向けるのです。
夫のユーモアと優しさのおかげで、笑顔は絶えません。これからも「悔いなく、笑顔で介護、恩返し」をモットーに過ごしていきます。
一緒に見学へ
東京都荒川区
久木田 京子
(主婦 73歳)
今年の「母の日」、98歳で亡くなった母。認知症の症状が出始めたのは、5年前のことでした。要介護認定を受け、ケアマネジャーに相談しながら、介護生活がスタートしました。
友人が多く、社交的だった母が、外出を嫌がるようになったので、一緒にデイサービスの施設を何軒か見学に行きました。
実際に行ってみると、施設の充実具合やスタッフの雰囲気など、それぞれ違うことに驚きました。そして、私自身が“ここなら入りたい”と思える場所を見つけると、母も気に入ったようで、そこに通うことになりました。
通い出すと、母は見る見る元気に。大好きだった服も買わなくなっていましたが、新しい服を着て、施設へ――「施設の友人から“すてきね”と褒められた」と、うれしそうに話す表情は生き生きしていました。
母は偏食でしたが、少しでもおいしいものを食べてもらいたいと思い、西京漬けの魚やケーキなど、ことあるごとに持っていきました。すると、いろいろな食べ物に挑戦し、いつしか魚も肉も喜んで食べられるようになりました。体力も付きました。
昨年、心不全で、入退院を繰り返しましたが、常に前向きな母。リハビリのために入所した施設でも、車いすで“自主トレ”をして、介護スタッフを慌てさせました。
そんな母の口癖は「ありがとう」。最後まで、周りの人に感謝の心を伝える姿から、たくさんのことを学ばせてもらいました。お母さん、本当にありがとう。
回復を諦めず
三重県鈴鹿市
藤林 勇一
(66歳)
母は、90歳で霊山へ旅立ちました。6年前、脳出血を患い、半身不随に。近くの介護施設に入所することができ、人生の最終章をそこで迎えました。
3年前に急性腎不全を発症し、意識障害で入院。話す元気もなくなり、とうとう食べることすらできなくなりました。医師からは、「食べられないと、長くはないでしょう」と伝えられ、介護施設での看取り介護をすることになりました。
それでも、何とか食べられるようにならないか、試行錯誤。施設の方と相談していたところ、突然、母が「焼き芋が食べたい」と言いだしました。
施設では焼き芋が作れないため、自宅で妻と焼き芋の裏ごしを作り、急いで施設に届けました。すると、少しずつ食べられるようになり、半年後には、通常介護に戻ることができたのです。
しかし、喜びもつかの間。母が新型コロナウイルスに感染し入院。軽症で完治して退院しましたが、再び食べられなくなってしまいました。
家族も施設の方も「おばあちゃんは、絶対にまた元気になる。大丈夫だ」と2度目の回復を信じ、一致団結。諦めず、介護を続けることができました。最後の最後まで、希望と固い絆を与えてくれた母に、感謝の気持ちでいっぱいです。
書き続けます
東京都小平市
山本 久実
(主婦 55歳)
大阪にいる89歳の父は、2年前に脳卒中になり、左半身まひになりました。今は、介護老人保健施設(老健)で暮らしていますが、コロナ禍の影響で会えなくなって、2年がたちます。
東京に住む私は、父を手紙で励ますことしかできません。せめて、話好きな父とおしゃべりしているようにと、自分のことや子どもたちのことを詳しく書き、イラストを添えて楽しい雰囲気に。父の脳トレになるよう、なぞなぞやクイズなど、盛りだくさんの内容を心掛けました。
施設のそばに住む姉に、手紙をファクスで送ると、姉は、父の喜びそうな聖教新聞の記事を切り抜き、私の手紙と一緒に届けてくれました。
ただ、父からの返事はありません。手紙を理解できているのか、喜んでくれているのか……。とても心配でした。
施設から、行事ごとに写真と父からのメッセージが渡されますが、父は無表情で、メッセージは、なんと書いてあるのか読めません。ただ、一生懸命に書かれた息子たちの名前だけは分かり、父の思いが伝わってくるようでした。
なんと今年4月に渡されたメッセージには、しっかり読める字で、父の名前と一緒に「いつもお世話になります。ありがとう。手紙がうれしい。涙が出ます」と書かれていたのです。
私たちの思いは、父に通じていました。こんなにうれしいことはありません。
これからも、父に喜んでもらえるように、手紙を書き続けます。大好きな父が、毎日、笑顔で過ごせるようにと祈りながら。