2015年9月20日21日
久遠の凡夫
<“発迹顕本”をもって即身成仏を万人に開く>
『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて』(開目抄下、223頁)
大聖人の御生涯における「発迹顕本」の宣言です。宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿)を開いて、凡夫の身に、永遠の妙法と一体になった自在の境地である久遠元初の自受用報身如来という本来の境地を顕されたのです。
法華経寿量品において、釈尊は、始成正覚という迹の姿を発いて、久遠実成という真実の姿を顕しました。
その元意は、釈尊が九界の衆生(凡夫)から超絶した永遠の仏の姿を顕したのではなく、むしろ反対に、「人間釈尊に帰れ!」というメッセージであったと、私たちは拝してきました。
言い換えれば、人間釈尊を手本として、いまだ人間自身が気づいていない生命本来の偉大さに目覚めよと、訴えているのです。
大聖人は御自身の発迹顕本をもって、事実の上で、凡夫の身に仏界の生命を顕す「即身成仏の道」を万人に開いてくださったのです。
自身の利己的な欲望に突き動かされ、宿業と苦悩に覆われていた凡夫の身が、久遠元初の生命に立ち返り、宿業の軛(くびき)を断ち切り、万人成仏を願う慈悲と智慧に満ちあふれた仏の身となるのです。それは、人間として最も本然の尊貴な姿です。
その姿を戸田先生は、「久遠の凡夫」と言われました。
この人間本来の生命こそ、久遠元初の自受用身という仏です。何万年もの闇に閉ざされた洞窟も、ひとたび太陽の光が注げば、ぱっと明るくなる。そのように万人の成仏の道を厳然と示してくださったのです。
大白蓮華2015年9月号№791 p36
2015年6月27日
朝夕に発迹顕本
「御義口伝」に『朝朝(ちょうちょう)・仏と共に起き夕夕(せきせき)仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す』という傅大士の釈が引かれています。(中略)
時々刻々の「顕本」です。私どもは毎朝・毎夕、発迹顕本しているのです。久遠の大生命を己心にわき立たせて、広宣流布へと前進している。それ自体が、総じては、日々、寿量品を身で読んでいることに通じるのです。
法華経の智慧 如来寿量品 第十六章
2014年4月30日
行き詰まりとの戦いに勝て!
人生は、どこまでいっても、行き詰まりとの戦いです。
大聖人は、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書、1448頁)と仰せになられた。
難が競い起こったならば、いよいよ強盛の信心を奮い起こして、挑み立つ。そして、一つ一つの行き詰まりを、喜び勇んで打開しながら、一歩また一歩と、粘り強く仏の境涯を開いていく。
これが、私たちの「発迹顕本」です。
聖教新聞2014.4.20付メッセージ
2014年4月23日
人類の発迹顕本
私の敬愛する友人であった故ノーマン・カズンズ氏は、重病など、多くの苦難を受けた人であるが、人間の力を信じ、楽観主義を終生貫かれた。
氏は、こう言われている。
「人間は恐らく、現代世界の変化に対処するだけの理解力を養うことはできまいと言う人々がある。しかし人間をもっとも高く評価する、別の見方もある。歴史に裏書するのは、そちらの方であろう。その見方によれば、すでに人間の内部に、変化に対応する大きな能力が存在していて、きっかけさえ与えられれば、すぐに発揮されるはずである。人間は無限の順応力、無限の向上力、無限の包容力を持っているのである。その巨大な可能性に呼び掛けるのが、指導者の地位にある人の特権である」(『人間の選択』角川書店)
人類の持つ無明の転換――文字どおり人類の宿命の転換です。二十一世紀は人類全体の発迹顕本の岐路とも言える。
転換できなければ、二十一世紀は二十世紀以上に無明が広がってしまう。人類には先がありません。人類にとって苦難と試練が続く現代は、人類が地球規模で目覚める大きなチャンスなのです。
人類の発迹顕本――。日蓮仏法は、その必要性と可能性を教えています。ゆえに、二十一世紀に必要不可欠な人類宗教であると私は信じています。それを証明するのが、二十一世紀の青年たちであることも、私は固く信じています。
御書の世界(上)第八章 法 難
2014年4月21日
大聖人の発迹顕本
『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくれば・・・』(開目抄下、223頁、編453頁)
ここで、実際に頸をはねられたわけではないのに、「頸をはねられた」と仰せられているのは、それ以前の御自身は竜の口の刑場で終わったという表現です。分かりやすく言えば、新しい自分に生まれ変わったということです。
また、次の「魂魄・佐土の国にいたりて」の「魂魄」とは、その新しい御自身のことです。竜の口の法難で顕(あらわ)になった大聖人の御内証を言われたものです。
そして、この一節こそが大聖人の発迹顕本を表す仰せであると拝されます。(中略)
日寛上人は、この「開目抄」の一節を次のように解説しています。
「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫※の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」(文段集192頁)
つまり、日蓮大聖人が竜の口の法難の時に、名字凡夫という迹を開いて、凡夫の身のままで久遠元初自受用報身如来という本地を顕されたことをいいます。
言い換えれば、凡夫の身のままで、宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の「永遠の如来」を顕すということです。
※名字凡夫とは、名字(仏の教えの言葉)を信受し理解するという仏道修行の初歩の段階にあって、まだ何らの修行の証果も得ていない凡夫のこと。すなわち仏の教えを信ずる心がある普通の人間のこと。
御書の世界(上)第八章 法 難
2014年4月20日
すべての難に立ち向かえ!
発迹顕本、我にあり!
信心が深まってから難に向かうのではありません。難に向かっていくなかに生命が鍛えられ、金剛の信心が築かれていくのです。どんな悩みも、そのまま御本尊に祈っていけばいいのです。題目を唱えることで悩みを乗り越えていくことができる。
微妙な順番の違いかもしれないが、行動に現れるかどうかは決定的な違いです。
それぞれの使命の人生には“苦難”が必ずあります。しかし、心さえたしかであれば、信心さえ揺るがなければ、乗り越えられない困難はありません。打ち勝てない試練はありません。人間にはもともと、計り知れない力が具わっています。それが久遠元初自受用身の力だ。だから、戦えば戦うほど、自分自身の力が引き出せる。信心は、その秘法を引き出す力です。大難があれば、即悟達に通じる。大難が即成仏を決定づける。
大聖人は、一つ一つの大難をみずからが乗り越えられることで、門下にその生き方を教えられたと拝したい。そして、その究極の生き方を、四条金吾に対して、まざまざと指南されたのが、竜の口の法難であったとも言える。弟子のためであり、未来のためです。
金吾もまた、迷いの心がなかった。だから、師弟ともに仏果に至ったのです。竜の口が寂光土になったのです。
捨てるべき迹とは「弱気」です。「臆病の心」です。大聖人は、「勇気」の本地の御姿を示すことで、発迹顕本を万人に示された。
この大聖人の「勇気」の御心を、自身の決意として、あらゆる困難に莞爾として立ち向かっていくことが、今度は私たちの発迹顕本につながる。
御書の世界(上)第八章 法 難
2014年4月18日
我らも発迹顕本
(発迹顕本について)もう一つ、大事なことを言いたい。それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。苦難を越えて、信心を貫き、広宣流布に生きぬく人は、発迹顕本して、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
日寛上人は次のように仰せです。
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集548頁)
「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖聖人と顕るるなり」(文段集683頁)
「法の本尊を証得して、我が身全く本門の戒壇の本尊と顕るるなり」(同頁)
ありがたい仏法だ。超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たちは今世で幸福になることはありえなくなる。
御書の世界(上)第八章 法 難