2021年10月27日
第1759回
災害救助
1960年5月24日未明チリ地震大津波
(チリ地震5月23日日本時間午前4時過ぎ)
<一旦緩急の責任と行動>
また、伸一は、会長就任の日から、全同志に題目を送ろうと、常に唱題しながらの指導行を続けていた。
そのさなかの五月二十四日未明、大津波が、東北、北海道などの太平洋岸を襲った。津波の高さは、最高四、五メートルに達した。
これは、南米のチリで、前日の二十三日午前四時過ぎ(日本時間)に起きた地震によるもので、それが太平洋を越えて、一昼夜をかけ、日本の岸辺を襲ったのである。死者は全国で百三十九人、被害家屋は四万六千戸余りとなり、特に被害が大きかったのは三陸、北海道南岸であった。
伸一は、早朝、目覚めると、すぐにラジオのスイッチを入れた。前日、チリで大規模な地震があったことをニュースで知った彼は、現地の被害を憂慮するとともに、それに伴う津波を懸念していたのである。深夜にも、何度か目を覚まし、ラジオのスイッチを入れたが、午前三時の段階では、津波警報は出されていなかった。
しかし、この時は、臨時ニュースとして、岩手の釜石市などで、津波が発生したことを告げていた。
伸一は、急いで本部に向かった。彼が着いた時は、本部はまだ閑散としていた。職員もほとんど出勤していなかった。
しばらくすると、副理事長の十条潔がやって来た。一旦緩急の際に、どう反応するかに、その人の責任感が表れるといってよい。さすがに午前八時過ぎには、大半の職員が顔を揃えた。
伸一は、ワイシャツの腕をまくり、
次々と被災地に見舞いと激励の電報を打っていった。
さらに、被災地の各支部に被災状況の調査を依頼する一方、
最も被害の大きい地域に、直ちに幹部を派遣することを決めた。
あわせて、災害対策本部を設け、救援活動を行うように指示し、
津波の被害のなかった地域に、救援を呼びかけた。
迅速にして、的確な手の打ち方であった。
山本伸一は、同志がどんな状況にあるかと思うと、食事もほとんど喉を通らなかった。
打つべき手を打つと、
彼は、広間の御本尊の前に座り、人びとの無事を祈った。
間もなく被災地から、続々と報告がもたらされた。
市の中心部まで津波が及んだ宮城県塩釜市からは、興奮した声で、こう伝えてきた。
「幸いにして学会員は全員無事です。みんな『守られた。功徳だ』と言っています。そして、先生の激励の電報に、同志は元気いっぱい頑張っています。
また、船が、津波のために陸の上に押し上げられているような状態です」
岩手県宮古市からは、簡潔にして、力強い報告の電報が寄せられた。
「功徳顕著。御本尊の流失なし。浸水四、床下浸水七。今夜御授戒、前進の意気高し」
幸いなことに、どの地域でも、会員の被害は極めて少なかった。
被災地には、全国の同志から続々と救援物資が届けられた。
また、現地で指揮をとる幹部たちも、学会員であるなしに関係なく、全力で人びとに激励と援助の手を差し伸べた。
この学会の迅速な救援は、全被災者にとって、大きな復旧の力となったのである。
しかし、この時、政府の対応は極めて遅かった。
それは、衆議院で自民党が新安保条約を強行単独可決したことから、社会党が国会審議を拒否し、国会が空白状態にあったからである。
とりあえず内閣に津波災害対策本部を設置することが決まったのは、津波から三十数時間が経過した二十五日の昼であった。
だが、国会がその機能を果たしていないために、抜本的な対策は何一つなされなかった。被災地の人びとにしてみれば、迷惑このうえない話である。二十七日には、岩手県の副知事らが上京。この津波災害に対して、特別立法による国庫補助の要請も出された。
津波自体は自然災害であるが、適切な措置を講ずることができず、人びとが苦しむのは、人災以外の何ものでもない。
政治家の第一義は、国民を守ることにある。災害に苦しむ人びとの救援こそ、最優先されねばならない。
伸一は、被災者の苦悩を思うと胸が痛んだ。そして安保をめぐる党利党略に固執し、民衆という原点を見失った政治に、怒りを覚えるのであった。伸一は「立正安国」の実現の必要性を、痛感せざるをえなかった。
<新・人間革命> 第2巻 先駆 38頁~41頁