2020年5月26日
第1678回
正義の師を求めよ、悪師を見ぬけ
<法華経のとおりに「難」を受けているかどうか>
ここで御聖訓を拝したい。「師弟契約御書」と言われる「最蓮房御返事」の一節である。
「今の時代は、師に正師と邪師、善師と悪師がいる。その違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである」(御書1340㌻、通解)
師匠といっても、
正義の師匠もいれば、
邪悪の師匠もいる。
正義の師を求めよ!
邪悪の師を避けよ!
その違いを、鋭く見ぬけ!
決して、だまされるな!――これが、蓮祖の峻厳なる戒めである。
邪悪な師には、従つてはならない。
従えば、皆が悪に染まってしまうからだ。
日顕がそうである。
宗門が、あれほど腐敗し、堕落したのも、
誤った指導者に従ったゆえである。
邪悪な人間は、たとえ師であっても、
それを遠ざけ、叩き出していかねばならない。
どこの世界でも、同じことである。
わが学会も、断じて油断してはいけない。
役職や立場を利用してインチキをしたり、
同志を苦しめる人間が出たならば、
絶対に許してはならない。
「あなたは、間違っている!」
「おかしいではないか!」と厳しく責めぬいて、
その悪を暴いていくのだ。
そうでなければ、学会を破壊し、
同志を不幸にしてしまうからだ。
その点を厳しく見極めていかねばならない。
これが大聖人の厳命であり、
私の遺言であると申し上げておきたい。
「日蓮こそが、正義の師匠」
それでは求めるべき
「正義の師」とは、だれか?
それは三類の強敵と戦い、
身命を惜しまず、
妙法を唱え広めていく人である。
つまり、法華経のとおりに「難」を受けているかどうか。
それを大聖人は、最大の眼目とされた。
そして、「自分こそ法華経を知り、法華経を修行している者である」と思いあがっている輩に対しては、「日蓮が受けたような難にあっていないではないか」と厳しく切り返し、責め返しておられる。(=「最蓮房御返事」のなかで、大聖人は「先に挙げた諸宗の人々は、自分こそ法華経の意を心得て、法華経を修行する者であると名乗っているけれども、日蓮が受けたような難にあっていない」〈御書一三四一ページ、趣意〉と仰せになっている)
大聖人の御生涯は、まさしく迫害の連続であられた。卑劣な讒言などによって二度、流罪された。頸の座にもつかれた。種々の難は数知れない。すべて経文どおりであられる。
ゆえに大聖人は、「難を受けていない格好だけの者は、ことごとく邪な師である。難を受けきってきた日蓮こそが、正義の師である」と厳然と宣言されたのである。(=「日蓮は弘長元年には、伊豆の固に流され、文永八年には、佐渡の島に流され、あるいは竜の口で頸の座にすえられる等の難を受け、このほか種々の難は数え切れないほどである。経文のとおりであるならば、自分こそ正師であり、善師である。諸宗の学者は、ことごとく邪師であり、悪師であるとお考えなさい」〈御書1341㌻、通解)
創価三代の師弟こそ広宣流布の礎
それでは、御本仏であられる大聖人に直結して、「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の難を受けながら、末法の五濁悪世の現代に、世界広宣流布の道を聞いてきたのは、いったいだれか?
初代、二代、三代の創価の師弟しかいない。
初代の牧口先生は、大聖人の正法正義の命脈を守られて牢獄につながれた。そして、獄中で殉教である。
第二代の戸田先生も同じく牢に入った。そして圧迫に耐え、寿命を削りながら、二年間におよぶ獄中闘争を生きぬかれたのである。
第三代の私も、広宣流布のゆえに、無実の罪で牢獄に入った。反逆者に乗せられた、売らんがための卑劣なマスコミのウソ八百によって、数限りない悪口罵詈を浴びせられた。
すべては、法華経のとおり、御書のとおりである。
この初代、二代、三代の会長だけが、御聖訓にいささかも違わず、一切の矢面に立って三障四魔、三類の強敵と戦いぬいてきた。それはだれよりも、皆さんがご存じのとおりである。
青年よ「闘う魂」を受け継げ
戸田先生がどれだけ、私を訓練したか。どれだけ、私を大事にしてくださったか。
戸田先生が事業に失敗され、生きるか、死ぬか――その時も、私が一人で奔走して、先生をお守りした。莫大な借金もすべて清算した。
先生を誹謗中傷する人間がいれば、ただ一人で飛んでいった。相手がだれであろうと、青年らしく、勇敢に、誠実に、まっすぐに語りぬいて、師の真実を認めさせていったのである。
難と戦う師匠を断じて守る。その祈り、その行動に、「仏法の師弟」の真髄がある。
牧口先生と戸田先生は「不二」であった。戸田先生と私もまた「不二」であった。「生死不二」の師弟であった
戸田先生の本当のご精神を受け継いで、私は、三類の強敵と戦い、創価学会を、ここまでつくりあげてきた。
創価の師弟は、牧口先生、戸田先生、そして私で決まったのである。
根本は、三代の師弟である。三代の「師弟の精神」を守りぬいていくかぎり、創価学会は永遠に発展する。世界広宣流布は、必ず実現できる。
この三代の広宣流布へ「戦う魂」を、後継の青年部は、断じて受け継いでいっていただきたい。勝っていただきたい。よろしく頼みます!
私自身のことにもなって恐縮だが、万年の未来のために、本当のことを残させていただきたい。
2006.3.9第五十八回本部幹部会、全国壮年部幹部会、第三回九州総会
2024.4.11整理
2018年9月24日
第1528回
本物と偽物
(前略)大聖人が、
「旃陀羅が子」と名乗られたのは、
御書では二回。
「佐渡御勘気抄」と「佐渡御書」である。
どちらも、佐渡流罪の、
まっただなかでの御書なのである。
そこには、さまざまな意味があるが、
大聖人は、
政治権力という社会的に最高の立場からの弾圧の嵐の中で、
敢然として
「我は旃陀羅が子なり!
民衆の代表なり!」との
御自身の立脚点を宣言なされたのである。
飾り立てた
「虚栄の最高(権力者)」が偉いのか。
否、飾らない
「まる裸の凡夫(人間)」が、
正義に殉ずる姿が尊いのだと、叫ばれた。
嵐の中の″人間宣言″であった。
ここに重大な意味があった。
この御精神に、弟子たちは続くべきであった。
しかし、大聖人の直弟子でさえ、
それがわからなかった。
弟子たちも″見栄″を張るようになってしまった。
(中略)
あの五老僧も、
大聖人が生きておられる間は、まだ良かった。
しかし、
厳しい師匠の目が無くなったとたんに、
だめになった。
偉大な大聖人が亡くなられて、
敵たちは、
ここぞとばかりに弾圧を始めた。
その時に、
五老僧は一致団結して迫害と戦うどころか、
「天台沙門」(天台宗の僧侶)と名乗って迫害を避けた。
当時の権威であった
天台宗の″権威の屋根″のなかに逃げ込んだのである。
そうやって、身は守ったが、
大聖人の正義を地に落としてしまった。
釈尊が亡くなった時も、
「やっとこれで、われわれは好きなことができるぞ!」
と叫んだ老僧がいたと伝えられている。
師匠が見ている時は、
だれでも頑張る。
師匠の目から離れた時にこそ、
どう振る舞うか。
そこに″本物″と″にせもの″の違いが出る。
師匠が見ていようがいまいが、
自分自身の信念で、
師匠の恩を報じきっていくのが、
本当の弟子である。
心が師匠と″分離″しては、
おしまいである。
何をしても空転であり、
何の価値も生まない。
結局、わがままになり、
堕ちていってしまう。
1998年10月24日 日米各部協議会(抜粋)
2024.4.11整理
2018年2月9日
「真剣さ」
「努力する姿」
「戦い続ける執念」
<苦難、苦労の中でこそ、偉大なもの、本物が生まれる>
戸田先生は、どんな忙しくても、青年たちを温かく迎えられた。
「よく来たな! 未来に大きく羽ばたく諸君だ。私は期待し、信頼している」
先生は、青年を、こよなく愛された。
とくに晩年は、″もう青年しかない。青年しか信頼できない。青年が後を継ぐのだ。青年が伸び、青年が増えれば、学会は大きくなり、広宣流布はもっと早く進んでいく″というお心であられらた。
私も今、戸田先生とまったく同じ気持ちである。
創価学会は、これから一段と、青年に力を入れていきたい。
また戸田先生は言われた。
「広宣流布は、
思想戦であり、言論戦だ。
書きに書かねばならない、
しゃべりにしゃべり
まくらなければならない作業であり、
大運動なのだ」と。
どんどん書け。
しゃべりにしゃべれ。
黙っていてはいけない。
言うべきことは、強く言い切っていけ。
それでこそ、広宣流布は進むのだ、
との戸田先生の厳命である。
もちろん、聞くべきときは、
きちんと聞かなければならない。
そのうえで、青年ならば、
邪悪を許さぬ、鋭い言論の力を持つべきだ。
「一」言われたら、
「十」言い返し、
打ち返す「反撃力」を磨いていくのである。
いわれない非難を受けて、
黙って下を向いているような
意気地なしの青年であってはいけない。
おとなしくして、
かしこまっていては損するだけである。
相手の生命に叩き込むくらいの執念と勢いで、
これでもかと反論することだ。
真実を語ることだ。
沈黙しないことだ。
生命力に満ち満ちた私たちの力強い「声」
――それが″広宣流布の弾丸″である。
偏見や無理解の壁を破る″正義の大砲″である。
わが信念を、
わが正義を、
どんな相手にも、
しゃべって、しゃべって、
しゃべり抜いていくのである。
それが愉快で、
楽しくてしかたがないという
一人一人になっていってこそ、
広宣流布は、一段と勢いを増して進んでいく。
(中略)
結論から言えば、
広宣流布に生き抜くことが最高に「名をあげる」ことである。
広宣流布の人生こそ、最も偉大な人生なのである。
それが大聖人の御確信であられた。
青年部の皆さんは、
この一点を生涯、忘れないでいただきたい。
戸田先生は
「人間の″偉さ″は、地位や肩書にあるのではない。
本当の『実力』があるかどうかで決まる」と指導された。
学会のリーダーの条件は、
社会的地位とか肩書は関係ない。
どこまでも信心が根本であり、
人間としての力がどうかである。
つまり、
「真剣さ」であり、
「努力する姿」であり、
「戦い続ける執念」である
――それがある人かどうかを見抜いていく以外にない。
先生は常々、おっしゃっていた。
「恵まれた環境だからといっても、
いいものができるのではない。
苦難、苦労の中でこそ、
偉大なもの、本物が生まれる」
2017年7月19日付聖教新聞、2005年7月本部幹部会(抜粋)
2024.4.11整理