2023年2月9日10日
第2187回
永遠の勝利の方程式
<人の振舞にて候けるぞ>
御書に「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(全1174・新1597)――釈尊が世に出現された根本目的は、人の振る舞いを示すことである――とある
有名なお言葉です。
この「振る舞い」とは、
人間を最大に敬い、
尊重し、
守りゆくことであります。
人を子分のように思って尊大ぶる輩がいる。
権力をかざしていばりちらす魔性の人間がいる。
それと戦うのが真実の仏法者であります。
「友のため」
「地域のため」
「社会のため」
――それを真剣に考え、
悩み、努力していけば、
自然のうちに、
みずみずしい知恵がわき、
勇気が出、
人格ができていく。
そういう人生は、何があっても絶対に負けません。
そして、
そういう「一人」が本気になって立ち上がれば、
その地域も、組織も、必ず栄えていくものだ。
これが永遠の「勝利の方程式」です。
『池田大作全集』第91巻、66ページ
2022年5月8日
第1992回
大事業は一朝一夕にならず
仏法は、「振る舞い」である。
振る舞いとは、「行動」である。
SGIの皆さまは、本当に立派な行動をされている。遠い道のりを、はるばるやって来られたこと自体に、深い信心があらわれている。
古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは語った。
「人生を建設するには一つ一つの行動からやって行かなくてはならない」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)
深き英知の言葉である。
大事業は、一朝一夕には成らない。
一つ一つの行動を、確実に、
粘り強く積み重ねていくしかない。
今の世の中は、苦労をさけ、
要領よくやって、早く偉くなろう、
早く金もうけしようという人間が、
あまりにも多くなってしまった。
私どもの仏法の世界は、そうではない。
朝はまず、朗々たる勤行・唱題でスタート。
わが生命を大宇宙と交流させながら、
その日の目標を明確にして、
生き生きとした生命力で出発する。
そして、目前の課題一つ一つに、
決して手をぬかず、全力で取り組んでいく。
そのように、一日一日を、
一切の行動を大切にして生きぬいている。
生き生きと動いているところが、必ず勝つ。
これは鉄則である。
今、このとき、
具体的な手を打っていくことが、
未来の勝利の原動力である。
そのとおりにやってきたから、
学会は大発展したのである。
2005.2.10第四十六回本部幹部会、第四回関東総会
2019年3月24日
第1593回
人の胸を打つのは「真剣さ」だ。
「必死の一念」だ!
人間の価値は、
財産でもなければ、地位でもない。
どのような哲学を持ち、
どのような
実践をしているかで決まる。
ゆえに、最高無上の妙法を持ち、
行じ、弘めゆく創価の同志こそ、
男女はきらわず、
最高無上の大人材なのである。
たとえ不遇な状況におちいっても、
笑われても、けなされ、
謗られ、迫害されても――
いかなる苦難にあっても、
決して屈しない。
まったく動じない。
そのような、
堂々たる「人格」を鍛え、
自分自身として輝き続ける。
そのための信仰である。
それが真の学会員の誇りなのだ。
人の胸を打つのは「真剣さ」だ。
「必死の一念」である。
そこから、勝つための智慧も
わき出てくるものだ。
「もういいだろう」
「このへんでやめておこう」と
手を抜いてしまえば、
それ以上は絶対に前に進まない。
妙法の力は、無限である。
もう一歩、あと一歩の執念で、
わが目標の完遂へ
勇んで突き進んでまいりたい。
仏は
対話に臨んで逡巡しない。
遠慮もしない。
いかなる違いや葛藤があっても、
相手の仏の生命を呼び覚まし、
広宣流布の味方に変えていける。
誰に対しても
臆さずに真実を訴える。
悩める友を真心から励ます。
この同志の声ほど、尊く強く、
妙なる生命の名曲があろうか。
信念と希望と決意の声を響かせ、
前進だ!
〈池田大作先生 四季の励まし〉勇気と信念の声を高らかに 2019年3月24日
2017年1月23日
当起遠迎 当如敬仏
<釈尊最後の28品で説いた8文字の最上第一の相伝>
大聖人の「御義口伝」には、この普賢品の文について、次のように仰せである。
「此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎とうきおんごう当如敬仏とうにょきょうぶつの文なり、此の文までにて経は終るなり」
──この普賢品第二十八の中には、最上にして第一の相伝がある。すなわち、釈尊が八年間にわたって説いた法華経を八文字に留めて、末法の衆生に譲り与えられたのである。その八文字とは「当起遠迎当如敬仏(当まさに起たって遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如ごとくすべし)の文である。この経文までで、法華経の説法は終わるのである──。
「当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」
──「当(まさ)に)」という「当」の字は、未来のことである。「当起遠迎」とは(末法において)必ず仏の如くに法華経の行者を敬っていきなさいという経文である──と。
妙法受持の人を、最大に尊敬し、大切にすること。その教えこそ「最上第一の相伝」であると述べられている。「当に」とは「未来」、つまり末法の「今」の時であると仰せである。また「法華経の行者」とは、別しては大聖人であり、総じては末法広宣流布に生きゆく大聖人門下であると拝される。
「仏子」を尊敬せよ。「人間」を尊重せよ。ここに最第一の「相伝」がある──。釈尊、そして大聖人の仏法に脈々と通う「人間主義」「人間愛」に、私どもは深く感動する。感謝する。心から納得する。その教え通りに、永遠に進みゆくことを誓い合いたい。
反対に、広布の実践に励む学会員を奴隷のように軽蔑し、虐しいたげる言動は、仏法への、この「相伝」への根本的な違背いはいである。大聖人、また釈尊への「師敵対」であり、その罪は無限であると断じておきたい。
1991(平成3).12.21豊島・文京・台東文化音楽祭、県・区代表者幹部会
2016年10月14日
「献身なき祈り」は
観念の遊戯
<ガンジーの「7つの罪」に学べ>
人類の歴史が明白に示しているように、不当な侵略や支配、略奪、虐殺、戦争等々の暴力、武力がまかり通る弱肉強食の世界が、現実の世の中であった。
そのなかで、マハトマ・ガンジーが非暴力、不服従を貫くことができたのは、人間への絶対の信頼があったからだ。さらにそこには「サティヤーグラハ」(真理の把握)という、いわば宗教的確信、信念があったからだ。
ガンジーは、道場(アシュラム)での祈りに「南無妙法蓮華経」の題目を取り入れていたという。
仏法は、十界互具、一念三千を説き、万人が仏性を具えているという永遠不変の真理を明かした教えである。その宗教的確信に立つ私たちには、ガンジーの非暴力運動を継承しうる、確かな精神的基盤がある。
山本伸一は、ガンジーの碑に献花し、祈りを捧げながら、深く心に誓った。
――非暴力の象徴たる対話の力をもって、人類を結び、世界の平和を築くために、わが生涯を捧げていこう、と。
さわやかな風が吹き渡り、木々が揺れた。
献花のあと、一行は、管理者に案内され、園内を視察した。
太陽の光を浴びて緑の樹木は輝き、色とりどりの花々が咲き乱れていた。
敷地内の一角に、「七つの罪」と題したガンジーの戒めが、英語とヒンディー語で刻まれた碑があった。
――「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき娯楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき祈り」
いずれも、ガンジーのいう真理に反するものであり、「悪」を生み出し、人間を不幸にしていく要因を、鋭くえぐり出している。
伸一は、「献身なき祈り」を戒めている点に、ことのほか強い共感を覚えた。行為に結びつかない信仰は、観念の遊戯にすぎない。信仰は人格の革命をもたらし、さらに、人びとの幸福を願う献身の行為になっていくべきものだからだ。
小説新・人間革命 源流 35
2016年10月11日
言葉を大切に
<一つの言葉に一つの心あり>
○友情ほど、人生の勝利と
栄光の縮図となるものはない。
友情と信義に生き抜く人は、
何倍も価値ある青春を築き、
何倍も価値ある人生を
勝ち取っていくことができる。
友情は、永遠に朽ちることのない
人生の宝であり、
自身の勝利の証しでもある。
○人を尊敬する人は、
人からも尊敬される。
人に慈愛をそそぐ人は、
自分も人から守られる。
環境とは、根本的には
「自分の姿が映った」結果である。
○釈尊は「自分から先に
話し掛ける人」であった。
自らが明るく
爽やかに声を掛けて、
相手の心を開いていく。
いささかも権威ぶらない。
この人間性そのものの振る舞いに、
生きた仏法の出発がある。
○一つの言葉で
争いもすれば、
仲直りもできる。
一つの言葉が
忘れ得ぬ希望の人生の
きっかけにもなる。
一つの言葉は
一つの心をもっている。
ゆえに言葉を大切にすることは、
心を大切にすることに通じる。
○対話という“懸け橋”がなければ、
人々の心は
通じ合うことができない。
人々の心と心に
“懸け橋”を築いていくことは、
仏法者の使命である。
妙法に照らされた
出会いと友情こそ、
もっとも深い信頼と安心、
そして“魂の触発”をもたらす
最極の絆となるのだ。
2016年10月9日 四季の励まし 友情と信頼の懸け橋を!
2016年8月6日7日
三種類の人間
<教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ>
牧口先生は、よく、こう指導されていた。
「世の中には三種類の人間がいる。いてもらいたい人、いてもいなくてもどちらでもいい人、いては困る人である。家庭でも職場でも、いてもらいたい人にならなければならない」と。
家庭でも、職場でも、地域でも、皆から信頼され、尊敬され、好かれ、皆のために必要であり、欠かせない人になっていくことが、正法の信仰の証であり、広宣流布の前進なのである。
大聖人は、四条金吾に対して、こう教えられている。
『中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ね根もよ吉かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ』(御書1173頁)──「中務三郎左衛門尉(四条金吾)は、主君のためにも、仏法のためにも、世間に対する心がけにおいても、立派であった、立派であった」と鎌倉の人々から口々に言われるようになりなさい──と。
当時、四条金吾は、讒言されて主君からうとまれ、所領を取り上げられるなど、苦難の最中にあった。
大聖人は、苦境にあっても嘆くことなく、自己を磨き、人間として成長することこそ、真実の人間の生き方であり、仏法者の道である、と教えられているのである。
世間から、いわれのない批判や圧迫がなされたとしても、紛動されることなく、人間としての正しい生き方を貫いていく。その人は、最後には、必ず人々の称賛と尊敬を勝ち得ることができる。
大聖人は、また、『教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』──教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった──と仰せになっている。
人間としての振る舞いの中に、仏法は脈動し、信仰の実証が現れるのである。さわやかな、人として立派な振る舞いこそ、正しい信仰の発露といえよう。
皆さまは、よき信仰者であるとともに、よき国民であり、よき市民であり、よき社会人であり、よき隣人であっていただきたい。
その振る舞いによって、人々から称賛され、尊敬され、信頼される存在になってほしい。その信頼の輪が広く、深く、輝かしく広がっていくところに「広宣流布」がある。
1993年2月10日ブラジル・リオデジャネイロ代表者会議(抜粋)
2015年9月19日
法を体現するのは人
<人の振る舞いが広布伸展のカギ>
各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。
長崎県・五島列島の福江島をはじめ、
対馬や壱岐、鹿児島県の沖永良部島などでは、
学会員が中心となって、
島ぐるみのフェスティバル等が開催されていった。
メンバーは、
島に受け継がれてきた郷土の歌や踊り、
伝統文化の保存、継承にも力を注いだ。
また、学会員の多くが、
島や集落のさまざまな仕事を積極的に引き受け、
責任を担いながら、島民のために献身した。
学会員が島に貢献する姿を通して、
島民は創価学会の実像を知り、
学会への理解を深めていったのである。
法を体現するのは人であり、
人の振る舞いが広布伸展のカギとなる。
学会への偏見や誤解から、
迫害の嵐が吹き荒れた地域でも、
学会員への信頼は不動のものとなり、
「非難」は「賞讃」へと変わっていった。
各島の同志は、広宣流布への決意を、
いよいよ燃え上がらせたのである。
小説『新・人間革命』 28巻 勝利島50
2015年4月8日
化城即宝処
<広宣流布を目的とする行動自体が仏の所作となる>
すべての活動を楽しんでいくことです
池田 仏界を目的とするならば、九界はそれまでの過程となる。しかし「九界を脱却して仏に至る」という発想では、九界と仏界は相容れないものとなり、九界即仏界にならない。それは、御義口伝に示されているように、三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)を断じて悟りに至る、という爾前権教の考え方です。
法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処※は別々のものではない。化城即宝処なのです。
その立場に立てば、じつは過程がそのまま目的である。つまり、仏道修行の果てに成仏があるというのではない。仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです。(中略)
池田 人間ではない、「超人」的な仏がどこかに存在するというのではない。大聖人が『仏とは九界の衆生の事なり』(御書717頁)と仰せのように、妙法を持ち、弘める凡夫がじつは仏である、ということが大聖人の仏法の真髄なのです。
仏の境涯とは、一つ一つの振る舞い、一瞬一瞬に仏の智慧と慈悲が現れているということです。まさに「念念の化城念念の宝処」なのです。
斉藤 そしてまた「即の一字は南無妙法蓮華経なり」と仰せられていることが重要ですね。九界の現実の上に仏の境涯を現していく、その原動力が南無妙法蓮華経であるとの仰せですね。
遠藤 化城即宝処の法理に関連して、先生がかつて「広宣流布とは流れそれ自体である」と言われたことを思い出します。私たちは、広宣流布とは大多数の人が正法に帰依したという一つの到達点をイメージしていたのですが、先生はそのような発想を超えて、仏法弘通の実践そのものが広宣流布であると教えてくださいました。
また先生は、戸田先生との出会いを通して入信されるさい、「いつかは目標に通じる歩みを一歩々々と運んでいくのでは足りない。その一歩々々が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)というゲーテの言葉を引いて、その時の心境を述べられたそうですが、化城即宝処の法理は、このゲーテの言葉を思い起こさせます。
池田 広宣流布を理想が成就した時点ととらえることも無意味ではないが、やはり、仏法弘通の息吹そのものが大切であるということを示しておきたかった。
“途中”はすべて“手段”だと考える人間が出てきてはいけない。そういう人は、目的のために人間を手段にし、多くの犠牲を生んだ、従来の革命運動の過ちを犯してしまう危険がある。
仏法は、あくまでも「人間のための宗教」です。どのような場合であれ、人間を手段とし、犠牲にするようなことがあってはならない。これが仏法者としての私の信念です。
前進するためには、目標という「化城」を設定しなければならない。しかし、その「化城」に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作なのです。その舞台が、すでに「宝処」なのです。
斉藤 成仏といっても双六の「上がり」のようなものではないですね。最終的な到達点があるというように説くのは、やはり一つの「方便」であって、実際の生命は生きている限り動いているのですから、動かない到達点があるというものではない。広布のために戦い続けていくことそれ自体が仏である、というべきですね。
池田 だから、すべての活動を楽しんでいくことです。苦しみきった仏の所作などない(笑い)。
「さあ喜んで、広宣流布の苦労をしていこう」「さあ、またこれで福運がつく」「また境涯を広げられる」と喜べる自分になれば、それ自体、仏界が輝いている証拠でしょう。
遠藤 反対に、「ああまた次の目標か」(笑い)と、グチをこぼしているのでは、「化城即宝処」になりませんね。
池田 グチをこぼすのも楽しい境涯になればいい(爆笑)。生きている限り、何か問題があるのは当然です。それをいちいち一喜一憂していたのではつまらない。
目標に向かって、懸命に挑戦する、ひたぶるに戦う。歯をくいしばって道を開いていく──振り返ってみれば、その時は苦しいようでも、じつは一番充実した、人生の黄金の時なのです。三世のドラマの名場面なのです。
大聖人は『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野(せんごくこうや)皆(みな)皆常寂光(かいじょうじゃっこう)の宝処なり』と仰せられています。これはまさに、妙法を持ち、行ずる私たちの境涯を教えられています。
いずこにあっても、いかなる境遇にあろうとも、私たちの根底は『歓喜の中の大歓喜』(御書、788頁)なのです。
※「化城宝処の譬え」(法華経309頁)
譬喩の題材になっているのは砂漠を旅する隊商の一行です。
宝のある場所(宝処)を目指して五百由旬もの険しい遠路を、一人の導師に導かれた隊商が行きます。しかし、途中で人々は疲労の極に達し、もうこれ以上進むことはできない、と導師に言います。ここで引き返しては、これまでの苦労がむだになってしまいます。
すばらしい宝を捨てて、なぜ帰ろうなどというのか、と人々を憐れんだ導師は、三百由旬を過ぎたところに神通力によって一つの城(都市)を作り、あの城に入れば安穏になれると励まします。この言葉を聞いて歓喜した人々は進んでその城に入り、疲れ切っていた体を休めました。
人々が休息を十分にとったことを確認した導師は、その城をたちまちに消し去り、あの城は、あなたがたを休息させるために私が作った幻の城に過ぎない、真の目標である宝処は近い、と説くのです。
導師が見せた幻の城(化城)とは、仏が衆生を導くために説いてきた三乗の方便の教えを譬え、宝処とは衆生が最終的に目指すべき一仏果を譬えています。
とくに二乗の悟り(化城)は方便で、仏の無上の悟り(宝処)のみが目指すべき真実の悟りであることを明かしています。
法華経の智慧 化城喩品 第七章
2014年12月21日
師の振る舞い
(3)
<色紙の揮毫>
「東京の地から、題目をしっかりあげて、皆さんに送ります。今日からは、何倍、何十倍も力が出る、功徳を受けていける、折伏ができるという気持ちで進んでいきましょう」
この日の全ての行事を終えた会長は、夜、机に向かっていた。参加者に贈呈する揮毫を認めるためであった。
この揮毫の作業は、地方指導で会長が自らに課していた握手などで、手が腫れ上がっている。それでも、手を休めようとはしない。その心情を、こう綴っている。
「彼の肩は凝り固まり、首筋も腫れていた。
しかし、これによって同志が奮い立ってくれるかもしれないと思うと、筆を止めるわけにはいかなかった。
“もう一枚”“もう一枚”と筆は走り、作業は深夜にまで及んだ。
体の疲労は極限に達していたが、心が晴れやかであった」(小説『新・人間革命』第13巻 楽土)
大白蓮華No.781号2014.12月号19、20頁
2014年12月6日
師の振る舞い
(2)
<人を頼るな!自分が汚れることを厭うな!>
支部長の西坂勝雄は、最後に、ひときわ力を込めて訴えた。
「一昨年、山本先生は、『恐るるな 功徳したたる 妙法の 法旗高らか 奈良は厳たり』との和歌を、奈良の同志に贈ってくださいました。私は、この和歌のごとく、力の限り前進してまいります!」
真剣であった。懸命であった。
山本伸一は、新支部長の、その心意気が嬉しかった。彼は、西坂にも、激励に記念の品を贈りたかった。しかし、何もない。
御宝前に供えられた直径五十センチほどの鏡餅を見ると、彼は県長らに言った。
「これを差し上げようよ」
拍手が起こった。伸一は、鏡餅を台ごと一人で持ち上げようとした。重さは二十キロ以上もある。県長の沖本徳光は、運ぶのを手伝おうと、手を差し出した。しかし、伸一は、一人で抱えるようにして、西坂支部長のところまで運んだ。餅についていた粉で、スーツは白くなっていた。だが、そんなことは、全く気にも留めず、「頼むよ!」と言って渡した。受け取った西坂の足がふらついた。
沖本は、伸一の行動から、リーダーの在り方を語る、師の声を聞いた思いがした。
“人を頼るな! 自分が汚れることを厭うな! 同志を大切にし、励ますのだ。それが、学会の幹部じゃないか!”
沖本の五体に電撃のような感動が走った。
小説 新・人間革命 26巻 勇将 307頁
2014年12月4日
師の振る舞い
(1)
<写真パネル、空き時間、陰の努力>
彼は、写真パネルの一点一点に視線を注ぎながら、感慨を込めて語った。
「懐かしいね。この老婦人は、今はどうされていますか。こちらの少年は、もう大学生ぐらいだね。みんなとお会いしたいな」
写真の一コマ一コマが、忘れ得ぬ思い出として、伸一の胸に深く焼き付いていた。それは、“もう二度とお会いできないかもしれない。断じて忘れまい!”との心で、一回一回の出会いを、わが生命に刻みつけてきたからである。
彼は、恩師記念室に入ると、直ちに、激励のため、色紙などに次々と揮毫していった。(中略)
伸一は、会合などの行事と行事の間の時間こそが勝負であると思っていた。地方などを訪問した場合、幹部との打ち合わせも、個人指導も、決裁書類に目を通すことも、原稿の執筆も、この時間内に行わなければならなかったからである。
彼にとっては、皆が“空き時間”と思う時間もまた、真剣勝負の激闘であった。
わずかな時間をも無駄にせず、いかに有効に使うか。いかに見えざる努力をするか――そこに、一切の勝敗の分かれ目がある。
また、見えないところで、黙々と頑張る人こそが人材なのである。
小説 新・人間革命 26巻 法旗 149頁
2014年9月4日
日ごろの振る舞いが信心
女子部の幹部が質問した。
「私の母は信心していないので、家に帰り、母と顔を合わせると、歓喜が薄らいでしまいます。どのようにすればよいでしょうか」
「家のなかを明るくするために信心しているのに、あなたが暗くなってしまったら、意味がないではありませんか。
また、お母さんを信心させたいと思うなら、あなた自身が変わっていくことです。『そもそも仏法とは……』などと、口で偉そうに語っても、お母さんから見れば、いつまでも娘は娘です。ですから、そんなことより、お母さんが、本当に感心するような、優しく、思いやりにあふれた娘さんになることの方が大切なのです。
たとえば、本部の幹部会で東京に行った時など、お土産を買って帰るぐらいの配慮が必要です。また、家に帰ったら、『ただ今、帰りました。ありがとうございました』と、素直にお礼を言えるかどうかです。
信心といっても、特別なことではありません。あなたの日ごろの振る舞い自体が信心なのです。
お母さんから見て、“わが子ながら本当によく育ったものだ。立派になった”と、誇りに思える娘になれば、必ず信心しますよ。お母さんの心に、自分がどう映るか――それが折伏に通じるのです」
小説 新・人間革命 2巻 勇舞 209頁