宿命転換(転重軽受)

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2023年9月25日(未掲載)

転重軽受

 

<電車に、はねられながら、

不思議なことには、ほとんど外傷もない。

眠るような臨終の相>

 

 

 一月二十六日の日曜日のことである。思いもかけない痛ましい事故が起こった。男子第四十四部隊の部隊長である大野英俊が、”交通事故によって不慮の死を遂げた”との報告が入った。

 彼は、この日の午後、仕事でオートバイに乗り、新宿区内で私鉄の踏切を渡ろうとして、電車にはねられたのだ。踏切には、警報機はあったが、遮断機はなく、彼は、上り電車が通過した直後に飛び出した。そこに下り電車が来たのだ。一瞬の出来事であった。彼は、電車に三十メートルほど引きずられた。即死である。

 山本伸一は、この日、疲労から熱を出して寝込んでいた。そこに事故を知らせる電話が入った。伸一は、知らせを受けると、戸田に一報し、直ちに大野英俊が運ばれた病院を訪ね、大野の遺体と対面した。

 電車に引きずられたにもかかわらず、外傷は、額にわずかな擦過傷があるだけであった。眠るような、安らかな臨終の相だった。

 それから、伸一は、事故現場に向かい、事故の状況を詳細に確認した。そして、大野の関係組織の青年たちと、葬儀の手配などの打ち合わせをし、翌日、戸田城聖の自宅に報告に訪れた。

 戸田は、仏壇に向かい、大野の冥福を祈り、唱題しながら伸一を待っていた。

 伸一は、開口一番、戸田に詫びた。

 「先生、大切な弟子を亡くすようなことになり、まことに申し訳ございません」

 彼は、部隊長という青年部の中核である幹部の死を、青年部の室長である自分の責任として、とらえていたのである。

 「これを契機に、全男子部員が、”事故など絶対に起こさない”という決意を固めることだ。今は大事な時だけに、魔も強いのだ。わずかでも油断があってはならない」

 戸田は、厳しい表情で、こう言うと、大野の家族の状況を尋ねた。大野には、子どもはなく、妻と二人で暮らしていた。

 「かわいそうなのは、奥さんだな。後々のことも、皆で、よく考えてあげなさい。それから、葬儀は部隊葬として、皆で、彼を送るようにしなさい。ところで、藤川はどうしているのだ。本来ならば、彼こそ、大野のために奔走すべき立場ではないか」

 「はぁ……」

 伸一は、答えに窮した。藤川というのは、第七部隊長の藤川一正のことである。彼は、当時、戸田の事業の関連会社である大洋精華の営業部長をしていた。大洋精華は、家庭用品や電気器機などの販売会社であった。大野は、ここの営業部員であり、学会の組織にあっても、第四十四部隊の部隊長になるまで第七部隊に所属していた。

 戸田は、怒りの表情を浮かべ、押し黙っていた。

 彼は、深い思いに沈みながら、この事故について考えをめぐらしていった。”本質的には、大野の宿業ゆえの事故ではあるが、転重軽受の姿であったといえよう。しかし、注意力が散漫になっていたことが、直接的な事故の原因であることは間違いないだろう。それは、過労による可能性もある。あるいは仕事に追われ、焦りがあったのかもしれない……”

 戸田は、こう思うと、数カ月前の彼の指摘が、現実となってしまったことが、残念でならなかった。

 ──前年の夏、戸田は、大洋精華の社員の表情が暗いことが気になった。関係者に聞くと、営業部長である藤川の、常軌を逸したやり方に、社員が苦慮しているとのことであった。社員に休日も与えずに働くことを強い、営業成績が悪いと怒鳴りつけ、時には、コップを床に叩きつけたりもするという。そして、社長をしている十条潔が、社員を温かく激励するのを冷ややかに見ながら、自分は、社員への監視の目を光らせているというのである。

 戸田は、その話を耳にすると、十条に厳しく言った。

 「社員を、よく休ませなさい。大事故を起こすぞ。社員を犠牲にするようなことがあっては、絶対にならない!」

 社長の十条も、その強引なやり方を心配し、悩み抜いていた。大野英俊は、生真面目で責任感の強い青年であった。理不尽なことにも耐え、休みの日曜日にも仕事に出かけて行ったのであろう。

 戸田城聖は、今、彼の憂慮の警告にもかかわらず、無残な事故が起こってしまったことに、悔しさをかみしめながら、藤川という人物について考えていった。

藤川は、区議会議員でもあったが、一九五五年(昭和三十年)の六月、河口湖畔で行った水滸会の野外訓練の折、議員になって間もない彼が、〝故郷に錦を飾るとはどういうことか〟と尋ねたことがあった。

 戸田は、青年たちに、偉大なる政治家や大実業家になることを説いてはきたが、人生の至高の価値は、広宣流布の使命に生きること以外にないと訴え続けていた。それだけに、その問いは、ピントのずれた妙な質問といえた。

 戸田は、瞬間的に藤川の心を察知した。区議会議員となった彼には、社会の栄誉や権力の威光が、よほど尊く、まばゆく思えたにちがいない。

 戸田は、質問を聞くと、言下に、こう答えた。

 「戸田の弟子となって、広宣流布に戦っている姿が、最高にして永遠の錦じゃないか! この錦こそ、最高にして不変の錦なんです!」

 戸田は、青年の心に兆した名聞名利の心を、砕いておきたかったのである。以来、戸田は、彼の生き方を危惧してきた。根底の一念の、微妙なずれを感じたからである。

 藤川は、やがて、女子部の幹部である松田幾代と結婚するが、その後、彼の名聞名利を欲する心は、ますます強くなったように思えた。

 戸田は、怒りを込めた声で、山本伸一に言った。

 「藤川は、一将功成りて万骨を枯らすことになる。とんでもないことだ。しかし、女房も女房だ。あの見栄っぱりの性格が、ますます亭主をおかしくさせている。悪いのは女房だ。

 今度の事故も、上司である彼に、社員を思いやる心があれば、あるいは防ぐことができたのかもしれない。大野の死は、宿業であることは間違いないが、藤川は、真摯に自分を反省する機会としていかなければならない……」

それにしても、戸田にとって、部隊長という青年部の最高幹部の不慮の死は、初めてのことである。彼は、大野の死は、仏法のうえから見る時、何を物語っているのかを考えざるを得なかった。

 ”三障四魔のなかに、死魔とあるが、幹部である彼の死から、信心に不信をもつ人がいるならば、それは死魔に翻弄された姿といえよう。彼の死には、何か大きな意味があるはずである……”

 戸田は、愛する弟子の大野のためにも、また、多くの会員たちのためにも、彼の死が何を意味するかを、明らかにしておかなければならないと思った。

 戸田は、伸一が帰って行くと、原稿用紙を広げた。万年筆を手にし、一行目に「大野君の死を悼む」と記した。かわいい弟子の痛ましい死を思うと、彼の手は、小刻みに震えた。

 戸田の脳裏に、大野の屈託のない笑顔が浮かんだ。戸田の目は潤み、熱い涙が頰を濡らした。彼は、しばらく思索にふけっていたが、あふれる情愛をペンに託して、堰を切ったように書き始めた。

「大野君、君の死を聞いて、ぼくは非常に驚いた。わが学会は、ぼくが会長就任以来、大幹部の死は一人もみない。また、青年部において、いかなる意味においても、部隊長級の死は、いまだこれをみない。

 大御本尊様に奉仕する身として、一時は、ただ驚くのみであった。

 生命について、これを論ずれば、三世の宿命を基礎としなければならぬ」

 戸田は、込み上げる悲しみをこらえ、努めて冷静に、論を運ぼうとしていた。部隊長として、健気に信心に励んでいた同志が、なぜ不慮の死を遂げたのか。大聖人の仏法は、宿命の転換を可能にする大法ではないのか──戸田は、今、会員たちの心に兆すであろうこの問いに対し、三世の生命のうえから、真っ向から答えようとしていた。死の解明こそ、仏法の偉大なる法理の証明である。

 「その三世の宿命について、健康とか、智慧とか、家庭不和とか、金銭とか、という問題は、わりあいに簡単に解決ができることを、釈尊も、天台も、妙楽も説いているが、生命の転換については、釈尊、天台大師、日蓮大聖人の深く悩まれたところである。

釈尊は、釈尊の立場において、天台は、天台の流儀において、大聖人は、大聖人の流儀において、いずれも解決はしている。これには、深い思索と強い信仰とが必要であることを、先哲は強く主張せられている。

 日蓮大聖人は、三大秘法の本尊を根本として、生命問題を解決しておられる。もし、われらが、これに随順するならば、必ずや大聖人の仰せのごとき結論を得られるのである。

 佐渡御書に、般泥洹経を引いていわく、『善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ……』、又云く『及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり』(九五九㌻)」

 この経文は、過去世において、多くの罪や悪業をつくった者が、その報いによって、人びとから軽んじられるなどの苦しみに遭うことを説いたものである。そして、本来、その苦しみは深く、大きく、未来世にわたるところを、仏法を守った功徳によって、現世で軽く受けることを示している。

 戸田は、黙々と万年筆を走らせていった。

 「この御文によれば、君の横死も軽く受けたるの部類に属するか。かく論ずれば、死というものを解決しえぬがゆえに詭弁を用いるというかもしれぬが、それは三世の生命観を知らず、仏法のなにものかも解しえぬやからの妄言である」

 また、戸田は、「兄弟抄」に引用されている涅槃経の「横に死殃に羅り訶嘖・罵辱・鞭杖・閉繋・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」(御書一〇八二㌻)の御文を引いて論じていった。

 この「横に死殃に羅り」とは横死のことである。経文の意味するところは、今世で横死しなければならないことも、また、人から呵責されたり、罵られ、辱められたりすることも、現世にあって報いを軽く受けている姿であり、それによって、地獄に堕ちることを防いでいるとの教えである。

 大聖人は、この経文から、さまざまな苦報を受ける因を明かされ、「我身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ」(御書一〇八三㌻)と、池上兄弟に御指導されている。つまり、私たちの苦報の因は、過去世に正法を行ずる人に怨をなした、謗法の罪にあることを明示されているのである。

 そして、その罪は深くとも、今世で正法を信受し、行ずる功徳が大きいために、それが、未来の大苦を招き寄せ、今生の少苦となって現れていると仰せになっている。

 まさに、転重軽受の法門であり、苦しく、悲惨に見える報いも、三世にわたる仏法の法理に照らすならば、偉大な功徳といえるのである。

 さらに、大聖人は、それを疑って、現世の軽苦を忍ぶことができず、退転するようなことがあってはならないと、戒められている。

 

 戸田は、一文の結びとして、こう記していった。

 「この大聖人の御心を拝するに、君の横死は現世の少苦である。少しも悩まず、いたまずして死に、しかも大地獄に堕ちずして成仏の相をいたす。また、死後は大聖人のもとにありて、次の生命活動の強き根源を与えられる。喜びとするか、悲しみとするか。その人びとによるともせよ、ぼくは君のために喜びとするものである。

 願わくは大野君、今や広宣流布の途上にある。一日も早く、この地上に返り咲き、われら同志と手を握って、大聖人の御遺命を達成しようではないか。若々しき青年として、君を見る日も遠からじと思う。速やかに、学会のもとへ帰り給え。同志は君の帰り来らんことを待望している」

 

 愛弟子の、無残な交通事故死という不可解に思える現象も、広宣流布に命を捧げ、大難を忍んできた戸田には、御聖訓に照らして、その真意を明らかに知見することができた。彼は、信心の眼をもって、生死の深淵を凝視していた。

 大野英俊の通夜は、一月二十八日に営まれた。

 戸田は、通夜の席に駆けつけ、大野の遺体を抱き締めてやりたかった。しかし、いまだ整わぬ彼の体調が、それを許さなかった。彼は、やむなく、山本伸一に、遺族へのお悔やみの伝言を託した。

 伸一は、通夜の席で大野の冥福を祈り、懇ろに読経・唱題した。そして、悲しみにやつれた夫人を、力の限り、励ますのであった。

 「奥さん、今は、ご主人を亡くした悲しみでいっぱいであると思います。しかし、一日も早く、その悲しみを乗り越えてください。

 大野さんは、電車に、はねられながら、不思議なことには、ほとんど外傷もない。眠るような臨終の相をしています。

 それは、彼が見事に宿業を転換し、成仏を遂げた証であるといえます。夫を亡くしたとしても、家族が、真剣に信心に励んでいくならば、必ず崩れざる幸福を築いていけるのが仏法です。(275頁)

 あなたが、強く、強く、生き抜いて、幸せになることが、ご主人の願いであり、彼は、それをじっと見守っているはずです。負けてはいけません」

 伸一は、悲しみに凍てついた夫人の心に、勇気の明かりをともそうと、懸命に語りかけていった。

 社長の十条潔は、出張中であったが、急遽、引き返し、通夜に駆けつけた。彼は、大野の遺体の顔をなでながら、肩を震わせて泣いた。

 「大野君、痛かっただろう。辛かっただろう……」

 それは、十条の精いっぱいの言葉であった。そこには、万感の思いが込められていた。しかし、大野と最も関係の深かった藤川一正は、この通夜にも姿を見せなかった。

 伸一は、彼に憤りを覚えた。そして、そんな人間の未来を案じた。

戸田城聖は、翌日、藤川が通夜にも参列しなかったと知ると、顔を真っ赤にして激怒した。

 「なにっ! 藤川は、人間として許せん。先輩でありながら、無責任極まりない態度ではないか。今後、藤川のことは、一切、信じるな!」

月四日、大野の部隊葬が、東京・池袋の常在寺で厳粛に営まれた。

 親しかった同志の弔辞などのあと、戸田城聖の綴った、あの哀悼の辞を、小西理事長が代読した。切々と愛弟子に呼びかけるような戸田の言葉に、場内のあちこちから、すすり泣きの声が漏れ始めた。

 三世の生命の実在を説き、永遠の生命観から導き出された戸田の結論、「ぼくは君のために喜びとするものである」との言葉を聞いた時、青年たちの表情に、一筋の光芒が走ったかのように思えた。

 厚い雨雲の一角から、光が差し込み、雲を払うかのように、戸田の哀悼の辞は、人びとの心に安堵と希望をもたらしたのである。

 

<人間革命> 第12巻 後継 264頁~277頁

2023年9月25日


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2018年10月22日

第1540回
「宿命」との戦いは

「一生成仏」の道

 

<苦難に負けない強く清らかな生命>

 

 戸田先生は、入会間もない友を、よく励まされ、言われていました。
 「われわれには、過去遠々劫といって、無限の過去から積んできた罪業がある。だから、中が詰まったり、汚れたホースのようなもので、そこに信心によって仏界という清らかな水を流しても、はじめのうちは、それまでの汚れが押しだされてくる。ゆえに宿命との戦いがある。
 しかし、信心を続けていけば、必ず、清らかな功徳が、どんどん出てくるようになる。『一生成仏』といって、今世で必ず宿命を転換できる。
 御本尊は、それだけの、すごい力のある大良薬であり、幸福への尊極の機械であられる」と。
 絶対に幸福になれる信心です。
 信心をして試練を受けるということは、宿命転換、一生成仏への道を進んでいる証拠なのです。それは、断じて間違いはありません。(中略)
 日蓮大聖人の仏法は、現実を離れたところに幸福を求める宗教ではありません。
 泥沼から清らかな蓮の花が咲くように、どこまでも現実社会の真っ只中で、苦難に負けない強く清らかな生命を涌現し、この一生で崩れざる幸福を勝ち取るための宗教です。

 

大白蓮華2018年10月号№828 37頁


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2016年10月2日

 「あきらめ」の人生から

「挑戦」の人生へ

 

<宿命転換>

 

 インドのメンバーとの語らいを通して山本伸一が感じたことは、多くの人が宿命の転換を願って信心を始めたということであった。
 インドでは、業(カルマ)という考え方が定着している。
 ――すべての生命は、永遠に生と死を繰り返す。その輪廻のなかで、業、すなわち身(身体)、口(言語)、意(心)による行為で宿業がつくりだされ、その結果として、現在の苦楽があるということである。
 つまり過去世からの悪い行いの積み重ねが悪因となって、今世で悪果の報いを得る。反対に、良い行いをすれば、善果の報いを得られる。また、今世の悪業は、さらに来世の悪果となり、善業は善果となる。
 この生命の因果は、仏教の教えの基調をなすものでもあるが、問題は、悪果に苦しむ現世の宿業をいかにして転換していくかにある。
 こうした考え方に立てば、いかに善業を積み重ねても、今世にあって悪業の罪障を消滅することはできない。苦悩の因となっている悪業は、遠い過去世から積み重ね続けてきたものであるからだ。罪障の消滅は、現在はもとより、未来世も永遠に善業を積み続けることによってなされ、今世では、自身の苦悩、不幸に甘んじるしかないのだ。
 この世で苦悩からの解放がなければ、人生は絶望の雲に覆われてしまう。
 しかし、日蓮大聖人の仏法では一生成仏を説き、今世において自身の仏の生命を顕現し、宿業の鉄鎖を打ち砕く道を教えている。信心によって人間革命し、何ものにも負けない自分をつくり、一切の苦悩を乗り越えていくことができるのだ。
 私たちは、この苦悩の克服という実証をもって、日蓮仏法の真実を証明し、広宣流布を進めていくのである。いわば苦悩は、正法の功力を示すための不可欠な要件であり、宿命は即使命となっていくのだ。
 信心によって「あきらめ」の人生から「挑戦」の人生へ――インドのメンバー一人ひとりが、それを実感し、歓喜に燃えていたのだ。

 

小説新・人間革命 29巻 源流26


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2016年9月7日

宿命転換するには・・・!

 

<唱題で仏の大生命を涌現する以外にない!

 

 香港ホンコン滞在たいざい二日目となる二月四日の午後一時半、山本やまもと伸一しんいちは、九竜きゅうりゅうのビクトリア港近くにある九竜会館をはつ訪問ほうもんし、香港こう十八周年しゅうねんいわねん勤行ごんぎょうかい出席しゅっせきした。

 九竜会館は商店街しょうてんがいの中にあり、十四階てのビルの四階(日本の数え方では十五階建ての五階)にあった。勤行会には、かくの代表二百五十人ほどがつどっていた。
 勤行のあと、女子部の人材じんざい育成いくせいグループである「明朗めいろうグループ」がグループ歌を、男子部のゆうが「広布に走れ」を広東カントンろうした。よく五日にインドへ出発する伸一たちのそうしゅくしての合唱がっしょうであった。 
 席上せきじょう、伸一は、宿命転換しゅくめいてんかんについてべた。
 「人間は、だれしも幸せになりたいとねがっている。しかし、人生にあっては、予期よきせぬ病気や交通事故じこぜん災害さいがいなど、自分の意志いし努力どりょくだけではどうしようもないたい遭遇そうぐうすることがある。そこに、宿命しゅくめいという問題があるんです。
 

 その条理じょうりとも思える現実げんじつに直面した時、どう克服こくふくしていけばよいのか――題目です。
 ほんぞんへの唱題しょうだいによって、自身の胸中きょうちゅうそなわっている、妙法みょうほう蓮華経れんげきょうというほとけだいせいめいげんしていくがいにない。
 強い心をもち、生命力せいめいりょくにあふれた自分であれば、どんなれんにさらされても、負けることはない。何があろうが、悠々ゆうゆうと宿命の大波おおなみを乗りえていくことができます。
 日蓮にちれん大聖人だいしょうにんに流された時、けきょうのゆえに大難だいなんうことで、罪障ざいしょう消滅しょうめつし、宿命を転換てんかんすることができるとべられている。そして、『にんなれどもえつはかりなし』(しょ一三六〇ページ)と感涙かんるいされた。
 私たちも、この大聖人の御境涯ごきょうがいつらなっていくならば、『宿命にく人生』から『使命に生きるかんの人生』へと転じていくことができる。大聖人の仏法ぶっぽうは、宿命打開、宿命転換の仏法であることを確信かくしんしてください」
 じょうせいねがいは、アジアのたみの宿命転換にあった。伸一は、香港ホンコンどうに、そのさきけとなってほしかったのである。

 

小説新・人間革命 29巻 第3章 源流6


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2014年8月10日

“不幸の習性”を断ち切るんです!

   
 「人それぞれの宿命があり、人生には、事業の失敗や病気など、さまざまな試練があります。その烈風にさらされた時、ともすれば“もう駄目だ”とあきらめ、無気力になったり、自暴自棄になったりしてしまう。そこに“不幸の習性”をつくりあげる罠がある。これが怖いんです。
 信心というのは、その“不幸の習性”という鎖を断ち切る、不屈の挑戦の力なんです。
 試練に直面した時に、“こんなことでは負けないぞ! 今こそ宿命転換をするんだ!”と、敢然と挑み立つ勇気を湧かせていくための信仰であることを知ってください」


 小説 新・人間革命 25巻 共戦 177頁


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2014年7月31日 

宿命転換の原理

(13)

 

<人類の宿命転換>

  
 ――それが、先生がよく語られている「宿命を使命に変える」生き方ですね。

 そうです。だれしも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見すえて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鑑となっていく。
 すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。
 「宿命を使命に変える」人は、誰人も「願兼於業」の人であると言えるでしょう。
 だから、すべてが、自分の使命であると受け止めて、前進しぬく人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです。
 今、私たち創価学会が世界に向かって挑戦しているのは、人類の宿命を転換できるかどうかです。
 ――トインビー博士が池田先生に、次のように尋ねられたとうかがいました。
 博士は、こう質問されました。
 「仏教には宿業論があるが、過去世から続くという宿業を、人間は変えることができるのか」という内容だったと聞きました。
 そうです。はっきりと覚えています。人生の栄光も労苦も経てきた人のみが、醸し出す、あの柔和な笑顔で、眼光には知性の輝きがありました。鋭い質問でした。
 私は、はっきりと答えました。
 「日蓮大聖人の仏法では、因果倶時で、自身の宿命転換を果たしながら、社会を変えていくことができる。これが二十一世紀の世界と人類を変革していけるかどうかの急所ではないかと思います」
 私が語ると、博士は深くうなずかれていた。
 私は博士に誓ったままに、一点も悔いなく、人類の宿命転換のために行動してきました。私の後に青年が続くことを固く信じながら。
 私は、日本だけでなく、SGI(創価学会インターナショナル)の青年たちが、人類の宿命を転換しゆく大いなる挑戦の炎を、さらに赫々と燃やして闇を照らしゆくことを確信しています。

(おわり)

御書の世界(下)第十章 佐渡流罪


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2014年7月30日 

宿命転換の原理

(12)

 

<願兼於業>

  

 宿命転換論の真髄は「願兼於業(願い、業を兼ぬ)」です。
 日蓮大聖人の御境地そのものです。
 大聖人は「開目抄」で、御自身が妙法を流布して三類の強敵の迫害を受けていることは、経文に説かれた末法の法華経の行者の姿そのものであると仰せられています。そして、佐渡流罪に処せられたことで、ますます悦びを増していると宣言されています。


 大聖人にとって、今、自分が受けられている大難は、御自身の使命を果たすために願って受けている大難である。つまり、一切衆生を救うために受けている苦しみだから大いなる悦びであると宣言されているのです。
 苦悩する民衆を救うためには、その民衆に同苦し、しかも、その苦しみを同じ人間として克服していく道を示すしかないのです。その偉大な戦いをなされた大聖人であるがゆえに、私たちは大聖人を末法の御本仏と拝するのです。


 ここに仏の説く師弟の意義もある。
 仏法の師匠というのは、

 どこまでも現実に模範の行動をする人です。

 まず、師匠みずから、大いなる使命の人生を生きる。

 それを今度は、弟子が真剣に学び会得していこうとする。

 その如説修行のなかに法の体得もあるのです。

 この師弟が仏法の魂です。


 大聖人は佐渡流罪という

 大難のなかでの御振る舞いを通して、

 宿命転換の人生の範を、弟子たちに、

 そして後世に示してくださった。

 「かく、生きよ」という偉大な魂の軌跡です。

 大聖人は、御自身の一人の人間としての戦いを通して、悪世に生きる私たち凡夫の宿命転換の道を教えてくださったのです。


 いかに進退きわまった、

 業に縛られたような境遇にいる人であっても、

 その本質を見れば、

 願兼於業の人生であることを示されているのです。

(つづく)

2023年9月25日整理


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2014年7月29日 

宿命転換の原理

(11)

 

<「久遠の凡夫」は「使命の凡夫」>

  

 戸田先生は、この「大いなる因果」に生きる凡夫を、「久遠の凡夫」と絶妙に表現されました。
 「久遠の凡夫」とは、久遠元初の本源の生命に目覚めた凡夫です。
 戸田先生は、久遠の世界は「楽しく、清く、晴れ晴れとした、仲のよい世界」であるとも言われた。
 戸田先生の言葉で言えば、爾前の因果=「常の因果」は「途中の因果」です。凡夫自身が過去の途中の因果を破り、凡夫の身に、根源の因果、因果倶時の蓮華仏を顕すことができるのです。
 いわば、宿業に縛られている凡夫から、十界互具に生きる仏界所具の凡夫に変わる。
 宿命に汲々としていた凡夫が、民衆の宿命を転換しようと立ち上がる「使命の凡夫」に変わるのです。
 ――そこで、最初の質問に戻ります。途中の因果が消え去るというのは、決して、中間の因果がなくなるということではありませんね。
 そうです。先の譬えで言えば、空に浮かぶ星が消えているからといってなくなるわけではない。
 ――そこで、新たな疑問なのですが、そうすると「久遠の凡夫」にとって、宿命があるかないか、その有無はもはや、本質的な問題ではないということになるのでしょうか。
 極端に言えば、そうなります。爾前教的な「宿命を無くす」ための努力は方便と言える。
 しかし、やはり現実に生きる人間にとって、宿命というものは重くのしかかります。私たちは、日蓮大聖人の御本尊を縁として、唱題によって仏界を涌現する方途を知っています。しかし、「知る」ことと、わが身で「仏界」の力を「味わう」こととの間には、まだ距離がある。
 車もそうでしょう。免許が発行される。それで車の運転は可能です。しかし、実際には、運転を繰り返して本当の意味で安全な運転技術をマスターすることができる。
 パイロットだって、通産の飛行時間が大事だとされている。
 私たちの実践で言えば、現実に宿命と戦うなかでこそ、宿命を乗り越えていく力を身につけることができる。実際に宿命に遭遇するからこそ、だれよりも、その苦悩と戦う術を身につけることができるのです。

(つづく)


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2014年7月28日 

宿命転換の原理

(10)

 

<「常の因果」をも包み込む「大いなる因果」>

  

 『一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食ソ疎五には求財不利六には生貧賤家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり』(佐渡御書、960頁、編474頁)
 『高山に登る者は必ず下り』という譬えで大聖人は説明されているね。仏教一般の考え方です。日蓮大聖人は「佐渡御書」で、これを「常の因果」と仰せられている。
 『此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりし』とあるが、それが爾前教の因果の限界です。長遠な期間にわたって業を清算しようとしても、現実には、その間にまた新たな悪業を積んでしまう恐れもある。
 結局、「常の因果」=因果応報では、宿命転換の原理は成り立たないのです。大聖人の仏法は、そうした因果ではないとはっきり仰せです。


 『日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり』(佐渡御書、960頁、編475頁)
 正法誹謗の正体は、正法への不信です。自他の仏性を信じられない心です。この不信が仏界の涌現を妨げる根本です。
 また他の種々の悪業の根でもあるのです。この不信を破り、仏界を現していくことが、宿命転換を可能にする、より根底的な因果なのです。
 仏界の力によって、悪業を包み込み、浄化していくのです。
 譬えて言えば、仏界の涌現は、太陽の出現を意味する。太陽が現れれば、天空に浮かぶ無数の星の光はまたたくまに見えなくなる。
 ――「見えなくなる」のであって、空の星が「なくなる」わけではありませんね。
 そうです。なくなってしまえば、因果の道理に反してしまう。しかし、月の光がかき消されてしまうように、個々の業の報いに苦しまなくなる。
 つまり、「常の因果」を否定するわけではない。まず、基本として「常の因果」が存在する。それは仏教の前提です。
 しかし、「常の因果」をも包み込む、いわば「大いなる因果」が存在する。その「大いなる因果」こそ成仏の因果です。それが法華経の因果であり、妙法の因果です。

(つづく)


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2014年7月26日 

宿命転換の原理

(9)

 

<「大願の生命」が苦難や宿業をすべて飲み込む>

  

 大願に立たれる大聖人は『大難・風の前の塵なるべし』(開目抄下、232頁、編462頁)と仰せられた。大願に立脚した透徹した境涯から見れば、宿業の有無は本質的な問題ではない。仮にいかなる苦難や宿業があっても、大願の生命はすべてを大きく飲み込んでいくからです。
 「佐渡御書」で御自身の宿業について記されているのも、難に苦しむ門下を励まされるためです。“難を受けている今こそ、罪障消滅して成仏の境地を確立する時である”ということを、どこまでも御自身の御姿を通して示されているのです。
 ありがたい御本仏であられます。
 ――よく「御本仏なのに宿業があるのはおかしい」と問われますが
 仏を人間以上の何か特別の存在と考えるか否か、の違いであると思います。日蓮大聖人は、どこまでも凡夫の身に仏界の生命を現された「凡夫即極」の仏であられる。また、仏界の生命を中心として表現すれば「示同凡夫」(仏が凡夫と同じ姿を示す)とも言える。
 大聖人にも生老病死があられた。万人と同じその人間の身に、偉大なる仏界の生命を現されたのです。
 仏界が涌現しても、凡夫の身を改めて特別な姿になるわけではありません。同じ人間として、しかも民衆の出自であることを誇りとされた人間として、大難が宿業転換への道であることを身をもって証明されたのです。それこそが偉大なのです。末法の衆生の主師親であられるゆえんです。
(つづく)


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2014年7月24日 

宿命転換の原理

(8)

 

<『鉄は炎打てば剣となる』が宿命転換の主題>

  

 『鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし』(佐渡御書、958頁、編473頁)
 『鉄は炎打てば剣となる』――これが日蓮仏法の宿命転換の主題です。
 鉄が鍛えられて剣になる。同様に、生命を鍛えるための信仰であり、宗教なのです。
 マイナスの罪障をゼロに戻す。そうしたことのために宿業を凝視しているのではありません。
 マイナスの罪障を大いなるプラスに転ずるのです。それが日蓮仏法の宿業転換です。それを可能にするのが、万人の生命に内在する仏性です。「宿業の凝視」は、「仏性への徹底した信」に裏づけられているのです。
 そして、生命凝視の場が、大難です。最も苦しんでいる時が、最も深まる時です。
 『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』(開目抄下、232頁、編462頁)と、大聖人は最大の難である佐渡流罪の結論として叫ばれた。
 何もかも奪われ、天が見捨てても、われはわが信ずる道を堂々と歩む。決然と立ち上がった生命は、何ものも侵すことはできない。その強い生命を築くのが信仰です。
 その眼から見れば、大難は罪障消滅のための契機です。そして、罪障消滅の先には、成仏という偉大なる境涯の確立がある。
(つづく)


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2014年7月22日 

宿命転換の原理

(7)

 

<『宿業はかりがたし』>

  

 『又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし』(佐渡御書、958頁、編473頁)
 『宿業はかりがたし』です。万人の魂を救うための徹底した人間生命の凝視なのです。人間の生命に対するこれほどの厳愛はありません。人間生命の可能性への深い慈しみと、人間生命の弱さへの同苦が、この生命凝視の根本にあると拝したい。
 鎌倉で弾圧を受け、歯をくいしばって戦っている門下を根本から救うための大慈悲が流れ通っているのです。
 前にも話したが、大難を受けている門下を励ます時に、中途半端な慰めなどでは魂の反転攻勢などできるわけがない。時には疑って疑って疑いぬく。ありとあらゆる虚飾を剝いでいき、それでも崩れない結晶が本物の証です。
 大難にあって、自分は乗り越えた、大丈夫だ、という人が一番危ない時がある。そういう人ほど、魂がもろい場合がある。謙虚な人ほど大丈夫なものです。
 頂門の一針(急所をついた痛切な戒め)というか、大聖人御自身がここまで御自分のことを厳しく見つめられていると思ったら、皆、襟を正さずにはいられないでしょう。月々日々に、強る心をもって成長していこうとする人には、魔も付け入りようがありません。
 どこまでも同じ人間として「同苦」していくことです。自分も迫害者の一類かもしれない――この生命に立てば、あらゆる人の宿業を根本的に救うことができる。
 創価学会の偉大さも、同苦の実践にあります。自分自身も宿業転換の途上で苦しんでいる。その人が他の人の宿業転換のために戦うから、崇高なのです。

(つづく)


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2014年7月20日

宿命転換の原理

(6)

 

<大聖人の自己凝視>

 

 すべて、難に苦しむ門下のためです。真の人間を創ろうとされているのです。今は、薄っぺらな精神の漂白がなんと多いことか。人々の魂が浅くなるのが末法です。残念ながら、日本はとりわけ、その傾向が顕著だと多くの識者も見ている。
 難を自身を深める契機としていく。難に遭えば遭うほど人間が完成されていく。それが日蓮仏法のいき方です。
 だから、人間革命の理念と実践が重要なのです。人間を深めることを忘れると、どうしても、難に遭えば卑屈になり、周囲を恨むようになる。それが人間の常とも言える。
 そうならないためにも、深く自分を見つめ、自分自身を絶えざる成長へと高めていく努力が必要になってくる。


 それでは、大聖人がどのように御自身を凝視されていかれたのか。「佐渡御書」を拝してみよう。
 『日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二滞とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ』(佐渡御書、958頁、編473頁)
 御自身の「心」に対する洞察も、いささかの妥協もなく掘り下げていかれている。
 『心こそすこし法華経を信じたる様なれども』と仰せですが、大聖人が色心二法で経を読まれ、二十八品悉く身読されたことは言うまでもありません。それでも、「すこし」「信じたる様」と仰せられている。
 そして、最後は『心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ』と、あくまで畜心である肉体に対比して心を月や金に譬えることができるのであって、その心自体もおぼつかないのであると仰せです。
 これは、無明に酔い、魔性に負けていく人間の心のはかなさを言われている。この心の弱さを越えていくのが宿命転換の道です。心には、弱い面と強い面の二面がある。
 信心は、妙法と一体になり、仏界の無限の力を現していく強い心に通じていきます。それゆえに『心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず』と仰せなのです。
 大聖人の自己凝視は、まだ続きます。次は、過去世でどうだったのかを述べられていく。いよいよ宿業の問題です。
(つづく)


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2014年7月18日 

宿命転換の原理

(5)

 

<徹底した自己凝視と自他共の宿業転換>

 

 「宿業の転換」を明確に示してこそ、人類は宿業、宿命から解放される。
 仏教で宿業を説くのは、「宿業の転換」を示すためです。反対に言えば、「宿業の転換」を明確に示し切らずに宿業論を振りかざすのは、仏教の邪道です。人間を宿業の鉄鎖で縛りつけるだけです。
 そして、日蓮仏法のもう一つの特徴は、宿業について、徹底した自己凝視をしているということです。自身の宿業を真正面から見つめ、それを自身に具わる法の力で転換していこうとする。
 宿業をありのままに見つめ、宿業に真っ向から切り込んでいくからこそ、仏界を現せるのです。自分を徹底的に掘り下げていくから、九識論で言えば、「九識心王真如の都」が開発されていく。この道筋を離れて六根清浄もなければ、人間革命もありません。言い方を換えれば、人間が深まらない。
 そして、宿業を見つめるというのは、自分自身のことだけではありません。最終的には、人類の宿業を見つめなければならない。それでこそ、自行化他の成仏への軌道です。
 自分も自身の宿命転換のために戦いながら、友の宿命転換のために尽力していく。それが学会活動です。これこそ究極の仏法の正道にほかならないのです。
 もちろん、真摯に悩み、自分を見つめていくことは大切です。しかし、それが自分だけに閉ざされ、中途半端に終われば、観念にすぎないとも言える。
 大聖人には万人を救うという大願があられた。ゆえに徹底的に凝視できたのです。そして、その究極の生命が開かれた。宿命転換の確かな方途を、全門下に、否、一切衆生に教えられようとしたのです。

(つづく)


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2014年7月16日 

宿命転換の原理

(4)

 

<爾前教は業で人間を縛る>

 

 根本的に、法華経の「罪障消滅」観が違うのです。
 先ほど、人間の自由意思を尊重するのが仏教の業思想の特徴であることを確認しました。
 しかし、その出発点に反して、現実の仏教の展開は、業そのものに人間が縛られていく方向にあったことは否めない。
 要するに、過去からの無量の罪障を積んで現在に至ると説くものです。しかし、それでは、あまりにも肥大化した業に立ち向かうことができなくなる。
 業を自身の問題としてとらえることは、内道である仏教の真骨頂です。しかし、爾前教は誤った方向に行ってしまった。
 ――そこには、誤った聖職者が介在している面もあったのではないでしょうか。人々を業で縛りつけ、業の清算を振りかざし、宗教の権威を用いて脅していく――
 そうした仏教の方向性を乗り越えているのが日蓮仏法です。
 一つは、宿業は必ず転換できる。そのことを教えるために宿業を説いているということです。
(つづく)


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2014年7月14日

宿命転換の原理

(3)

 

<不軽菩薩の実践>

 

 『不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり』
 (転重軽受法門、1000頁、編379頁)
 大聖人は、竜の口の法難以降、依智滞在中や佐渡流刑中に、この不軽菩薩の留難を強調されている。
 佐渡に向かう船が出る港で書かれた「寺泊御書」で、大聖人は、こう強調されている。
 『法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し』
 (寺泊御書、953頁、編384頁)
 じつに重要な仰せです。法華経には三世にわたる仏法の弘通が説かれている。そして、その仏法弘通において大難が必ず出来することが普遍的な原理であると示されている。そう拝することができます。
 また、過去の法華経の儀式を、今に移した時、その儀式の主人公は日蓮大聖人にほかならないことを宣言されている。
 大聖人は、経文に説かれた不軽菩薩の実践は御自身の実践と一体不二の闘争であると読まれている。
 そのことによって、大聖人は門下の人々に、大難によって自身の過去世の罪が滅するということを教えられているのです。そして、法華経二十八品を身をもって読まれたことで成仏は間違いないことから、
 『いよいよたのもし』(転重軽受法門、1001頁、380頁)
 経文に説かれているとおりの大難を受けることで成仏は疑いがない。“いよいよ頼もしいことだ”――これが、大聖人に随順して難を受けている門下に対する御言葉です。
 大難を受けている渦中にあって、その御自身の御姿を通して、成仏は間違いないという大激励です。
(つづく)


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2014年7月12日

宿命転換の原理

(2)

 

<業(カルマ)とは何か>

 

 業とは何か。
 もともと「業(カルマ)」という言葉は、善と悪の両方を含むものであったということだね。しかし、いつしか「業」というと、おおむね「悪業」のことを指すようになった。
 「業」という概念は、現代人には、「運命」と置き換えたほうが分かりやすいかもしれない。
 運命は転換できるのか。国家の運命、人間の運命、人類の運命は、転換できるのかどうか。これは、宗教や思想だけでなく、芸術や文学でも重大なテーマです。
 (ベートーベンの「運命」を)大森のアパートの一室で、レコード盤の溝がすり減るまで聴きました。今の若い人たちには、レコードの溝がすり減るといっても分からないかもしれないが。
 嵐の咆哮が激しく扉を叩くような旋律は、なんど聴いても衝撃でした。(中略)
 仏教は、業思想を絶対的なものによる支配から解放し、人間の自由意思を強調した。自分自身の運命の形成も、また運命からの解放も、あくまでも自分の意思と行為によるととらえたのです。そこに、「内道」の本質があります。
 詳しくはまた別の機会に譲るとして、真の成仏の因果を探求する「五重の相対」の従浅至深の道筋は、そのまま宿業からの解放の道筋に他ならない。
 結論的に言えば、万人に仏性が内在していることを説く法華経こそが、宿業から根源的な解放を実現した経典です。
 ここが急所です。爾前経の因果では不十分であることが分かり、法華経の宿命転換が分かれば、日蓮大聖人の仏法の宿命転換の功力が浮き彫りになっていく。
 そこで焦点を法華経に絞って語っていきたい。
(つづく)


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2014年7月10日

宿命転換の原理

(1)

 

<転重軽受の法門>

 

 「宿命転換」の原理は、大聖人の人間主義を示す法理の一つです。大聖人は佐渡流罪の時に、この原理を明確に示されました。それは、真面目に信仰を貫く門下が弾圧に直面し、苦しんでいたからです。その門下の苦しみに同苦され、仏法者がどうしてこのような苦しみを味わわなければならないかを明かされたのです。
 そのために大聖人は、苦悩の原因となる「宿業」に注目されます。
 じつは、大聖人の教えられる宿命転換の原理は、「難即成仏」、「難即悟達」と本質的には同じです。
 その生命変革の原理を、人生の苦難に焦点を当てて示した法理が、大聖人の宿命転換論です。
 大聖人は、まず、涅槃経の「転重軽受」の法門に注目されています。「重い宿業の報いを軽く受ける」という法理です。この法門について最初に明確に記された御書は「転重軽受法門」です。竜の口の法難から一ヶ月余、依智に滞在されている折に、大田左衛門尉、曾谷入道、金原法橋の三人に与えられた御消息です。
 『涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦(くるしみ)を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候』(1000頁、編379頁)
 大聖人は「地獄の苦みぱつときへて」と仰せられている。ここがポイントです。そして、成仏の利益を挙げられています。これがもう一つのポイントです。
 すなわち、仏法のために受ける大難で感ずる苦しみは、永劫の地獄の苦しみをただちに消していくための小苦であり、成仏に通ずるのです。これが大聖人が説かれる「宿命転換」の原理です。

(つづく)

 

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