2022年1月21日
第1871回
大阪事件
<春の嵐>
ところで、彼は、この時、
権力の魔性との激しい攻防戦のさなかにあった。
あの大阪事件の裁判が、
いよいよ大きな山場に差しかかっていたのである。
この事件は、
一九五七年(昭和三十二年)四月に行われた、
参議院議員の大阪地方区の補欠選挙で、
東京から来た一部の会員が
引き起こした買収事件と、
熱心さのあまり、何人かの同志が戸別訪問し、
逮捕されたことから
始まった事件であった。
伸一が、
この選挙の最高責任者であったことから、
彼にも嫌疑がかけられ、
その年の七月三日から十五日間にわたって
逮捕・勾留されたのである。
また、
買収事件を起こし、
逮捕された首謀者らが、
当時、
理事長であった小西武雄の
許可を得たかのように供述したことから、
小西も逮捕されたのである。
この大阪事件には、
会員の選挙違反を契機にして、
新しき民衆勢力である
創価学会の台頭を打ち砕こうとする
権力の意図が潜んでいたといってよい。
検察は、
取り調べの段階で、
選挙違反が山本伸一と無関係であることに、
気づき始めたようだ。
しかし、
違反を伸一の指示による
組織的犯行に仕立てあげるために、
検事は、
彼が罪を認めなければ、
会長である戸田城聖を
逮捕するなどと言い出したのである。
伸一が逮捕されたのは、
戸田の逝去の九カ月前のことであった。
当時、戸田の体は、
既に衰弱しており、
逮捕は、死にも結びつきかねなかった。
伸一は、
呻吟の末に、
ひとたびは一身に罪を被り、
法廷で真実を証明することを
決意したのである。
裁判は、
一九五七年(昭和三十二年)十月十八日から始まった。
起訴の段階から、
伸一の買収関係の容疑は外されていた。
そして、
この六一年(同三十六年)の二月末、
買収の嫌疑がかけられていた、
理事長の小西武雄に、
判決が出された。
当然のことながら、
小西は無罪となった。
判決に対して、
検察の控訴はなかったが、
彼らは会長の伸一だけは、
なんとしても有罪に追い込もうと
躍起になったようだ。
この三月六日、七日、八日も、
大阪地裁で裁判が開かれていたのである。
その間に、
伸一は弁護団と打ち合わせを行った。
その時、弁護士の一人が言った。
「山本さん、
事態はかなり厳しい見通しです。
逮捕されたメンバーの警察調書にも、
検事調書にも、
あなたの指示で選挙違反を行ったという発言がある。
しかも、あなたも、検事に、
それを認める供述をしている。
私どもは一生懸命にやりますが、
有罪は覚悟していただきたい」
伸一は、
憮然とした顔で言った。
「無実の人間が、
どうして断罪されなければならないのでしょうか。
真実を明らかにして、
無罪を勝ち取るのが、
弁護士の使命ではありませんか」
「それは、
そうなんですが、
検察は、巧妙に証言を積み上げてきている。
それを覆すことは、
容易ではないのです」
「私は、
自分が有罪になることを
恐れているのではありません。
ただ、検察という国家権力の、
そんな横暴が許されてしまえば、
正義も、人権もなくなってしまう
ことを恐れるのです。
だから、
私は戦います。
断固、無罪を勝ち取ってみせます」
彼は弁護士の言葉に、
孤立無援を感じていた。
大阪事件の裁判は、
常に、重く伸一の心にのしかかっていた。
場合によっては、
会長である自分が、
無実の罪で服役する
事態になりかねないのである。
弁護士さえ、
それを覚悟しろと言うのだ。
同志の悲しみを思うと、
たまらなく苦しかった。
しかし、
彼は思った。
”広宣流布の遥かな道程を思えば、
こんなことなど、
まだ小難にすぎない。春の嵐だ。未来には、
想像もできない大難が待ち受けていよう”
広宣流布への決定した一念から発する、
彼の烈々たる生命力は、
その苦難をはねのけ、
愛する同志への励ましの闘魂を
燃え上がらせていったのである。
<新・人間革命> 第4巻 春嵐 38頁~41頁