2022年9月13日
第2100回
妙法のために行動した功徳は、
自分だけでなく、すべての縁ある人々の
成仏への力となっていく
<「妙法の不思議な力用」を確信>
さて、
大聖人の門下が激しい弾圧を受けた
熱原の法難。
この大難に対し、
恐れることなく立ち上がった青年に、
南条時光がいる。
時光が数えで21歳の時に
与えられた御手紙では、
こう激励されている。
「『願くは
此の功徳を以て
普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆共に
仏道を成ぜん』」(全1561・新1895)
――願わくは、
仏に供養する功徳を
あまねく一切に及ぼし、
自分たちと衆生が皆、
ともに成仏できますように――。
皆さまの広布への献身は、
仏への最大の供養である。
妙法のために行動した功徳は、
自分だけでなく、父母、兄弟など、
すべての縁ある人々の成仏への力となっていく。
皆を幸福の方向へ向かわせてあげられる。
ゆえに「一人」が立てばよい。
一切は「一人」から出発する。
「一人」の勇気と確信の信心で決まる。
このことを、
私はきょう、強く申し上げておきたい。
また、
人の幸福を祈れば、
その分、自分が幸福になっていく。
人の健康を祈れば、その分、
自分の健康も守られる
――これが妙法の不思議な力用である。
「利己」と「利他」のどちらに力点があるかで、
人間の偉大さは決まる。
信心が本物かどうかも決まる。
皆さまは、法のため、友のため、真剣に祈り動いて、
「利己」から「利他」へと、
ダイナミックな生命の転換を、
偉大なる人間革命を実現していただきたい。
1993年4月の全国青年部幹部会
2022年9月6日聖教新聞3面
2016年7月27日
功徳は
自分の生命のうちから涌き出でる
<『悪を滅するを功と云い
善を生ずるを徳と云うなり』>
「御本尊には、『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』、また『若し悩乱する者は頭七分に破れん』とお認めであります。
これは、御本尊の偉大なる功徳を示されているとともに、正法を誹謗するならば、罰があることを示されております。
仏法は生命の因果の法則であり、幸福への方程式です。その法則を否定し、逆らうならば、当然、行き詰まらざるを得ません。ゆえに、正しく、力のある教えであるならば、功徳と罰という二つの現証が必ず生じるのです。
また、大聖人は、この功徳について、『悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり』(御義口伝巻下、762頁)と、仰せになっています。これは、自身の生命の悪を滅して、善を生じていくことが功徳であるとの意味です。
つまり、功徳といっても外から与えられるものではなく、自分の生命のなかから、泉のごとくわき出してくるものです。そして、依正不二という仏法の原理で、自分の環境を変え、幸いを万里の外から集めることができるのです。
更に、人の悪を滅し、善を生じさせていく行為が折伏です。ゆえに、折伏を行ずること自体が、人に功徳の道を開くことであり、同時に、それによって、自分自身も功徳を受けていくことになります。これが日蓮仏法です。
小説新・人間革命 4巻 凱旋
2015年4月30日
一切を決するのは自分である!
<功徳とは何があっても負けない自分になること>
(溝渕)義弘は、静恵に言った。
「私は、創価学会に入ったよ」
最初、彼女は、
“何か医学を研究する学会なのだろう”と思った。
しかし、ほどなく宗教団体であるとわかり、ショックを受けた。
やがてノイローゼを克服した義弘は、
静恵にも入会を勧めた。
彼女も“この信心には何かあるのかもしれない”
という思いはあったが、
実家は他宗の檀家総代であり、
世間体も気になった。学会をさんざん批判し、
「信仰は自由です!」と、頑なに入会を拒否した。
だが、義弘に、
「何も知らないのに批判するのは感心できないな。
人格が問われるぞ」と言われ、活動はしないつもりで入会した。
すると、婦人部の幹部が激励に訪れた。
「私は、夫の顔を立てるために入会しただけですから、
活動は一切しません」
「入会の契機はなんであれ、
信心に励んでいけば、功徳がありますよ。
仏法では、『発心真実ならざる者も、
正境に縁すれば功徳猶多し』と教えているんです」
「功徳ってなんですか」
「あなたは、なんだと思いますか」
「衣食住に恵まれることでしょ」
「それも功徳には違いないけど、
それだけではありません。
もっと大事なことがあります。
何があっても負けない、強い自分になること。
そして、“生きていること自体が、楽しくて、
楽しくてしょうがない”という境涯になること。
さらに、人の幸せを願い、
幸せへの確かな道を教えてあげることができる、
歓喜の人生を送ることですよ」
「強い自分」という言葉が、静恵の心を射た。
人の良さから、
多額の負債を背負ってしまった夫を見て、
“人間は、いつ、不幸の落とし穴に嵌るかわからない。
一寸先は闇だ”との、不安をいだいていたのだ。
「人間の中に光が生ずるや否や、
人間の外にも、もはや闇はない」とは、
ドイツの文豪シラーの言葉である。
一切を決するのは、自分である。
だから、その自分を強く光り輝かせていくのだ。
そのための信仰である。
小説 新・人間革命 第26巻 勇将
2015年2月26日
人知を超えた一切平等の功徳
<「誰にでも分かりやすく」が
真の民衆仏法>
「今日は、わかりやすくお話しさせていただきます。釈尊は、さまざまな修行を積み、そして、その結果として仏になられた。それを因行果徳といいますが、その功徳、福運は無量無辺です。日蓮大聖人は、〝この釈尊の因行果徳は、ことごとく題目に具わっており、題目を受持するならば、自然に、その功徳を譲り受けるのだ〟と仰せになっています」
「観心本尊抄」の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(御書二四六㌻)の御文を、平易に彼は語ったのである。
「それほど、御本尊、お題目の功徳というものは偉大なんです。そこには、人知をもってしては測ることのできない力がある。
また、その功徳は、社会的な立場や学会の役職も、一切関係ありません。誰の唱えるお題目の功徳も、すべて平等です。
たとえば、財布の中にお金が入っている。財布はさまざまに異なっていても、中に入っているお金の価値は一緒です。
また、ロウソクに火をつける。どんな人が火をつけても、火に変わりはない。
題目の場合も、これと同じで、万人が等しく、功徳を受けることができるんです」
誰にでもわかるように仏法を語り説く。その努力があってこそ、真実の民衆仏法となり、そこに広宣流布の広がりがある。
2015年2月3日
大功徳を受けられる信心
<広宣流布の大願に生きよ>
遠藤 経文には「貧人此の珠を見て其の心大いに歓喜し」(法華経341頁)とあります。この経文について御義口伝で「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せです。
池田 そう。「本来の仏なり」です。
五百弟子品では「深心の本願」と表現されているが、要するに全人類を救っていこうという「大願」です。この「大願」を思い出したのです。
大聖人は「大願とは法華弘通なり」と仰せです。この「大願に立つ」ことが、「宝珠を見つける」ということなのです。
遠藤 「無価の宝珠」というと、なんとなく、何でも願いが叶う「打ち出の小槌」のようなイメージでしたが(笑い)。
池田 「大願に生きることによって、他のすべての願いが叶うのです。
戸田先生は、ある会合で、信心の功徳に満ちあふれた体験発表を喜ばれたあとで、「さきほどの体験にあるような功徳は功徳のうちには入りません。私の受けた功徳をこの講堂一杯とすれば、ほんの指一本ぐらいにしか当たりません」と、もっともっと大功徳を受けなさいと言われていた。(1953年〈昭和28年〉、星薬科大学講堂で行われた蒲田支部総会)
私も、その会合に出席し、青年部幹部として話をしたので、情景を鮮明に覚えています。戸田先生は、妙法の不可思議の大功徳を、生命で実感しておられた。その大功徳を、全学会員に一人残らず、等しく実感させたかったのです。その慈愛を痛いほど感じました。
そのためにも、広宣流布の大願に生きよ、と叫ばれたのです。広宣流布へ働くことによって大功徳を受けさせるために、そう言われたのです。広宣流布に働くことは、他のだれのためよりも、「自分のため」なのです。(中略)
池田 私どもでいえば、久遠以来の「大願」を果たすために、今世に生まれてきた。そう確信すれば、今世の苦悩の姿も、迷いの姿も、全部、人を救うための方便だとわかるのです。
すなわち、初めから何の悩みもない恵まれた姿で人々の前に現れたのでは、だれも妙法の偉大さがわからない。また、そういう人には、民衆の心もわからないでしょう。
どんな宿業の苦しみも、それを克服して勝利の実証を示すために「あえて自分が選んだ苦しみ」なのです。そう確信することです。勝つために自分があえてつくった苦悩なのだから、勝てないわけがない。負けるはずがないのです。
「大願」を自覚すれば、すなわち「我、本来仏なり」と自覚すれば、自身の宿命すら使命に変わるのです。多くの人々と同じように「悩める民衆」の姿で生まれ、どこまでも「民衆とともに」幸福になっていくそれが私どもの使命のドラマなのです。
法華経の智慧 五百弟子受記品・授学無学人記品
2014年10月24日
「信心」を
我がいのちに染め抜いた人は強い
(3)
<臨終の姿一つ一つが御聖訓の通り>
ともあれ私は、
すべての同志の皆さま方の、
ご長寿とご健勝を心からお祈りしたい。
それとともに、どうか、
何歳になっても“心若々しい”人であっていただきたい。
どんなに長生きしても、
まるで“三百歳”の枯れきったような、
生気も希望もない生き方であっては、
かえって不幸であろう。
そして“楽しい総仕上げ”の人生であってほしい。
悩みや不安ばかりの最終章であっては、
あまりにもさびしい。
「本当に楽しかった」
「充実の人生であり悔いは何もない」――
そうした所願満足の人生を創造しゆくための信仰である。
私事で恐縮であるが、
私の母の死去も、
まことに安らかな姿であった。
まさに笑(え)みを浮かべるがごとき
最期であったといってよい。
義父もそうであった。
兄も弟もそうであった。
そして、次男もまた、
眠るがごとき姿で逝(ゆ)いた。
肉親の死去にあうたびに、
私は、この大白法が、
いかに素晴らしき「生死不二」の大法であるか確信してきた。
それ以外にも、
見てきた多くの臨終の姿の一つ一つが御聖訓の通りであった。
信順の人は「福十号に過ぎ」、
謗逆(ぼうぎゃく)の徒は「頭破作(ずはさ)七分」となる。
「死」の姿にこそ、
厳粛にして厳然たる“人生の総決算”が
凝縮されるといえよう。
1988.11.3練馬・町田・葛飾合同総会
2014年10月23日
「信心」を
我がいのちに染め抜いた人は強い
(2)
<最後まで正しき信心の道を歩みゆけ!>
日蓮大聖人の門下の一人「石河の兵衛(ひょうえ)入道」の娘は、病のため、若くして亡くなった。一説には、彼女は南条時光の姪にも当たり、こうした縁からか、早くから親子ともども純真な信心に励んでいたようだ。
この「ひめ御前」は、亡くなるすぐ前に死を覚悟し、「さいご(最後)の御ふみなり」(これが最後の御手紙になります)としるした手紙を大聖人にお届けした。そして、臨終の折には題目を粛然と唱え、亡くなっている。
その姿に対し、大聖人は「此の女人は・なにとなけれども自然に此の義にあたりて・しををせるなり、たうとし・たうとし」(御書1546頁)と仰せになっている。
つまり、彼女は、なんとはなしに、自然のうちに、正しい実践にかなった信心を貫き通した。これは、まことに尊いことである、尊いことである、と御本仏自ら最大の賛嘆の言葉をくださっている。
真実の「勝利」と「幸」の生涯であったかどうか──それは人生の途中の姿では分からない。また、単に長生きしたかどうかで決まるものでもない。最後の最後まで、正しき信心の道を歩み抜いたかどうか。ここに、すべてを決する要諦がある。
生命は永遠である。かりに病気等で早世(そうせい)したとしても、妙法を根本に広布のため、人々のために戦いきった場合には、今世よりは来世、来世よりはその次の世と、限りなく福徳を増し、生命力を強めながら三世永遠に「幸福」の軌道を飛翔していけるというのが妙法の絶大なる力用である。
ゆえに“若死にしたから信心がおかしい”とか、“子供を亡くしたから信心が弱い”とかいうことは絶対にないし、単純にそう考えることは誤りである。
たとえ平凡であれ、短命であれ、妙法に則って生き抜いた人は、まぎれもない「生命の王者」であり「生命の王女」となる。
(つづく)
2014年10月22日
「信心」を
我がいのちに染め抜いた人は強い
(1)
<信心が中途半端で終わってはならない!>
「信心」を我がいのちに染め抜いた人は強い。
永遠に輝く不壊(ふえ)の生命となる。
尽きぬ無限の知恵と力がわいてくる。
妙法は宇宙大の法であり、
信心の「心」を開けば、
宇宙の大生命力が満々とみなぎってくる――。
これほどの宝をもちながら、
信心が中途半端で終わってしまっては、
あまりにも、もったいない。
三世にわたる最大の損失である。
食べ物のオデンでも、
“ダシ”がよく染みこんでいるかどうかで味がきまる。
幹部であっても、
また社会的地位があっても
尊い仏子である同志を見下し、
利用したり、うまく組織を泳いでいったのでは、
本当に信心を生命に染め抜くことはできないし、
最後は自分が不幸である。
どうか、一日また一日、一年また一年、
いよいよ強き強き信心を重ねて、
これ以上はないという人生の醍醐味を
味わいきっていただきたい。
(中略)
私は、これまで、
数えきれぬほど人々の
「生」と「死」のドラマを見守ってきた。
幾千、幾万の臨終の姿を見、
また報告も受けてきた。
その経験に照らして、
断言できることは、
たとえ一見、短命のように見えたとしても、
必ず「更賜寿命(きょうしじゅみょう)=さらに寿命を賜え」
の経文のままの功徳の実証が、
何らかのかたちで厳然と、
あらわれているということである。
いわゆる世間の眼や肉眼だけではわからない。
信心の眼から見る時、
そのことは、おのずから感じられるものである。
(つづく)
2023.10.10整理
2014年2月28日
「冥の照覧」の勝利劇を
『かく(隠)れての信あらば・
あら(顕)はれての徳あるなり』(御書1527頁)と、
目先の毀誉褒貶など、小さなことだ。
誰が見ていなくても、諸天が見ている。
「神々しいな」
「けなげだな」という振る舞い。
その行動に諸天は動く。
その人が一番光る。
これからも誇りも高く、
「冥の照覧」の勝利劇を示してもらいたい。
どうか、自行化他の題目を声高らかに唱え、
獅子奮迅の大生命力を発揮して、
何ものをも恐れざる磐石の日々であってください。
2014.2.25各部代表者会議
2023.10.10整理
2014年2月27日
功徳とは六根清浄なり
断じて悪と戦うことである。
極悪と戦えば、極善になる。
反対に、悪を許せば、
自分が悪になってしまう。
また、悪と戦わなければ功徳が出ない。
大聖人は「功徳」について
「悪を滅するを功と云い
善を生ずるを徳と云うなり」
(御書762頁、編1608頁)と仰せである。
悪を責めることによって
自分自身の濁った生命も滅し、
清らかな心が生じる。
これが「功徳」である。
2000.11.20九州最高協議会
2023.10.10整理
2013年10月5日
「功徳は、われにあり」
「一生成仏抄』には、こう仰せである。
「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(御書383頁)
広宣流布の祈り、広宣流布に連なる行動を起こしていくことは、すべて尊極の仏道修行である。
法のため、人のため、社会のために尽くしゆく学会活動は、全部、功徳となって、自分自身に、そして、わが一家一族に還ってくるのである。これが厳粛なる「生命の因果の理法」だ。
大聖人も、わかりやすく、「人のために灯をともせば、(その人の前を明るくすると同時に)自分の前も明るくなるようなものである」(御書1598頁、通解)と譬えておられるとおりである。
また、たとえ病弱であっても、広布のために働こう、同志とともに戦おうとの強い一念があれば、限りなく生命力がわいてくる。心身ともに、健康の方へ向かっていくことは、間違いない。
広宣流布のために苦労している皆さま方である。だれが見ていなくとも、仏が見逃すわけがない。三世十方の仏菩薩が見つめている。だれが知らなくとも、無量無辺の諸天善神が、ほめ讃え、守ってくれる。
「功徳は、われにあり」――そう自分が自分で決めて、使命を果たしていくのが仏法である。
2003.9.5海外代表協議会
2013年3月7日
先輩が模範の姿を
「功徳が現れていない人は
怨嫉しているか、
要領が良いか、
ウソをついているか、
またはヤキモチか、
または何もやっていないか、
カラ回りか、
それは自身の心の中で反省してみれば
分かることであります」
「大勢の後輩が、
皆さん方の姿を見ております。
その責任も感じて、
これだけ自分は証拠を示したという、
一人一人になっていただきたい」
「どうか背伸びすることなく、自分らしく」
大白蓮華No.759号2013.3月号22頁
2023.10.10整理
2012年9月24日
広布の活動はすべて功徳・福運に
「大聖人は、『一生成仏抄』のなかで、
『仏の名を唱え、
経巻を読み、華を供え、
香をたくことまでも、
すべて自分自身の一念に
功徳・善根として納まっていくのだと、
信心を起こしていきなさい』
(御書三八三頁、通解)と仰せになっています。
つまり、勤行をはじめ、
広宣流布のための私どもの活動の一つ一つが、
自身の、また一家の、功徳、福運となり、
幸せを築く大切な根っこになっていることを、
強く確信していただきたいのであります。
そして、活動に際しては、
常に積極的であることです。
さらに、組織としての目標だけでなく、
自分個人の目標を明確にし、
その成就と、自身のさまざまな苦悩の転換をかけて、
祈り抜いて戦っていくんです。
『広布の勝利』は『生活の勝利』になります。
『活動の歓喜』は『人生の歓喜』になります。
『学会活動が大好きだ!』
『折伏が大好きだ!』
という人の境涯は、仏なんです」
小説 新・人間革命 26巻 厚田 61
2023.10.10整理