2021年12月1日
第1807回
政教分離
<悪用を許すな!>
日本国憲法の第二十条には、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とある。
そして、それに続いて、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と謳われている。
この条文は、「信教の自由」を確保するために、国や国家の機関が、その権力を行使して宗教に介入したり、関与することがないように、国家と宗教の分離を制度として保障したものである。そのために、特定の宗教団体が、国家や地方公共団体から、立法権や課税権、裁判権などの統治的な権力が授けられることを禁止したものにほかならない。
一方、宗教団体が選挙の折に候補者を推薦したり、選挙の支援活動を行うことは、結社や表現、政治活動の自由として、憲法で保障されている。また、そうして推された議員が、閣僚などの政府の公職に就くことも、それ自体は、決して政教分離の原則に反するものではないことは明白である。
ところが、それを逆手に取り、条文を拡大解釈し、宗教団体の選挙の支援や政治活動を違法だと言うなら、宗教者の基本的人権を奪うことになってしまう。さらにそれは、宗教を不当に封じ込め、差別しようとする、宗教弾圧以外の何ものでもない。しかし、〝学会は政教一致をめざしている〟といった意図的な喧伝が、この当時から行われていたのである。
伸一は話を続けた。
「こうした類いの学会への中傷が続くことは、覚悟しなければならない。
これまで権力をほしいままにしてきた人たちにとっては、民衆の側に立った政治を実現しようという学会員の議員が増えれば、自分たちの基盤が失われてしまうという、強い危機感があるからだろう。また、宗教界にしても、学会の前進に、大きな脅威をいだいている。教義をめぐっての論議となれば、敗北は明らかだからだ。
そこで、両者が手を結んで、学会を排斥しようとする。そのために、評論家やマスコミを使い、学会が国教化や一国支配の野望をいだく危険な団体であるかのように、喧伝しているというのが実情です。たとえ事実無根であっても、『反民主的』というレッテルを貼ることができれば、大きなイメージダウンになるからだ」
清原かつが、憤りを込めて言った。
「それにしても、卑劣な話だわ。島国根性は困ったものね」
マスコミの力は大きい。それが、ひとたび悪用されれば、無実の人が「悪」の汚名を着せられ、名誉も、人権も、社会的信用も、時には、生活の糧まで剥奪されてしまう場合もある。そして、その非道な仕打ちに対して、個人や民衆の集団は、あまりにも無力であるといわざるを得ない。
結局、マスコミを操作しうる権力者や勢力の横暴に対して、民衆は、泣き寝入りを余儀なくされてきたのが、厳しい現実であったといえよう。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 127頁~129頁
2021年11月30日
第1806回
アショーカ王が
仏教を国教化しなかった意図
<『信教の自由』の持つ意味>
森川一正が質問した。
「アショーカ大王が、仏教を国教化しなかったのは、どのような考えによるのでしょうか」
「当時の宗教事情も詳しく研究してみなければ、確かなことはわからないが、私の推測では、為政者として、
今日でいうところの、思想や信教の『自由』を守ろうとしたからではないかと思う。それは、精神の独立の機軸であり、人間を尊重するうえで、最も根幹をなすものだからです。
また、宗教戦争を避けようと考えたからではないだろうか。
宗教戦争というのは、単に宗教上の教義の相違からではなく、宗教と政治権力とが結びつくところから起こっている。つまり、権力を得た宗教が、武力を背景にして、他の宗教を差別し、排斥すれば、抑圧された宗教もまた、武力をもってそれに抗することになる。
アショーカ大王は、平和を願う仏教徒として、そうしたことも考慮したうえで、今でいう、いわゆる『政教分離』を考えたように、私には思えてならないのだ」
山本伸一の話に、熱心に耳を傾けていた日達法主が頷きながら言った。
「なるほど……。深い考察ですね」
伸一は答えた。
「いえ、これはまだ推測にすぎません。もっと研究が必要です。
いずれにせよ、アショーカ大王が、仏教を国教化しなかった意味は大きいと思います。
国教化されれば、仏教は、なんらかの強制力をもつことになります。そうなれば、人びとの信仰も、次第に自発的なものではなくなってくる。すると、形式上は仏教が栄えるように見えても、本質的には、仏教そのものを堕落させることになってしまう。
宗教は、どこまでも一人ひとりの心に、道理を尽くして語りかけ、触発をもって弘めていくものです。それには、それぞれの宗教が、平等に自由な立場で布教できなければならない。
そのなかで、人びとの支持を得てこそ、本物の宗教です。国教化や権力による庇護を願う宗教は、本当の力がない証拠ではないでしょうか。
学会がこうして折伏し、広宣流布ができるのも、憲法で『信教の自由』が保障されているからです。その意味でも、創価学会は、永遠に『信教の自由』を守り抜かねばなりません」
伸一の言葉には、力がこもっていた。
<新・人間革命> 第3巻 月氏 130頁~131頁