※参考→ 一人を大切に
2021年10月22日
第1752回
人種差別は
「人間革命」による以外に解決はない!
<他者支配のエゴイズムを
人類共存のヒューマニズムに転換>
山本伸一は、あの少年への仕打ちを目にして、人種差別の問題に深く思いをめぐらしていった。
──理不尽な差別を撤廃するうえで、”黒人”の公民権の獲得は不可欠な課題である。しかし、それだけで、人びとは幸せを獲得できるのだろうか。答えは「ノー」といわざるをえない。なぜなら、その根本的な要因は、人間の心に根差した偏見や蔑視にこそあるからだ。この差別意識の鉄鎖からの解放がない限り、差別は形を変え、より陰湿な方法で繰り返されるにちがいない。
人間は、人種、民族を超えて、本来、平等であるはずだ。その思想こそ〝独立宣言〟に表明されているアメリカの精神である。しかし、〝白人〟の〝黒人〟に対する優越意識と恐れが、それを許さないのだ。
問題は、この人間の心をいかに変えてゆくかである。それには「皆仏子」「皆宝塔」と、万人の尊厳と平等を説く、日蓮大聖人の仏法の人間観を、一人ひとりの胸中に打ち立てることだ。そして、他者の支配を正当化するエゴイズムを、人類共存のヒューマニズムへと転じゆく生命の変革、すなわち、人間革命による以外に解決はない。
伸一は、アメリカ社会の広宣流布の切実な意義を噛み締めていた。戸田城聖は生前、人類の共存をめざす自身の理念を「地球民族主義」と語っていたが、伸一は、その実現を胸深く誓いながら、心のなかで、あの少年に呼びかけていた。
”君が本当に愛し、誇りに思える社会を、きっとつくるからね”
<新・人間革命> 第1巻 錦秋 178頁~179頁
2020年3月14日
第1648回
信心をしているか否かで
人を決めつけてはならない!
〈サンフランシスコで伸一は、信心に励む妻を支える未入会の夫への感謝を語る〉
「信心をしていないのに、学会をよく理解し、協力してくれる。これほどありがたいことはない。私は、その尽力に、最大の敬意を表したいんです。
みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。しかし、それは間違いです。その考え方は仏法ではありません。
信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。また、逆に信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。
だから、信心をしているから良い人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。いや、人権問題でさえあると私は思っているんです」
伸一の思考のなかには、学会と社会の間の垣根はなかった。仏法即社会である限り、仏法者として願うべきは、万人の幸福であり、世界の平和である。
また、たとえば広い裾野をもつ大山は容易に崩れないが、断崖絶壁はもろく、崩れやすいものだ。同様に、盤石な広布の建設のためには、大山の裾野のように、社会のさまざまな立場で、周囲から学会を支援してくれる人びとの存在が大切になってくる。
更に、そうした友の存在こそが、人間のための宗教としての正しさの証明にほかならないことを、彼は痛感していたのである。
新・人間革命 1巻 新世界
2014年10月(未掲載)
広宣流布とは、
万人の幸福を勝ち取る人権闘争
<「水の信心」の実践が重要>
広宣流布は今、世界同時進行です。
各国ともに、広布の大河が滔々と流れ始めました。
広宣流布は人類が希求してやまぬ大理想です。
学会しか成し遂げられません。
私たちの地涌の使命は、あまりにも深く大きい。
戸田先生は「広宣流布とは、
万人の幸福を勝ち取る人権闘争である。
正義の闘争である。
それが、学会青年の使命だ!」と言われました。
大いなるわが使命だからこそ、
それを実現しゆくためには、
私たちの一日一日の
「水の信心」の実践が重要なのです。
宿命や障魔の嵐があろうとも、
魔の十軍が心を揺さぶろうとも、
わが日々の仏道修行をたゆみなく繰り返す。
不動の信心を貫き、
朝晩の勤行、座談会、仏法対話、教学、人材育成にと、
着実に信行学の実践を貫き通す人こそが、
信仰の王者です。
本物の仏弟子です。
この積み重ねが、
自身の生命に永遠に崩れざる「心の財」を刻み、
仏の境涯を築くあげるのです。
10年、20年と、わが人間革命の坂道を、
一歩一歩、登り続けた人には、誰もかないません。
不退は、信仰の最高の勲章です。
民衆の大地で人を育てる人。
人を幸福にする人。
人を励ます人。
地道に長年戦ってきて、
さらに戦い進む人。
すなわち地涌の庶民こそが、
真実の人間の英雄であり、
生命の勝利者なのです。
大白蓮華No.779号2014.10月号42、43頁
2023.10.17整理
2014年9月17日
人権
(6)
<子どもは「皆、平等」を知っている>
「星の王子さま」(サン=テグジュペリ)といえば、“二十世紀の古典”と呼ばれる傑作です。こんな一節があった。
「新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです」(内藤濯訳、岩波書店)
人間を「数字」で見る大人の愚かさです。そこでは「肝心かなめ」の「人間」が、すっぽり見えなくなってしまう。
そもそも、子どもの心は、本来、人を差別したりしない。親が偏見を植えつけなければ、黒人も白人もアジア人の子どもも、一緒に楽しく遊ぶものです。
また家がお金もちだとか、お父さんがどんな地位だとか、子どもの世界には何の関係もない。子どもは本来、「人間は皆、平等だ」ということを知っているのです。
青春対話Ⅰ 人権
2023.10.16整理
2014年9月13日
人権
(5)
<教育で人権意識を高めよ>
「人間として」という根本を教えなければならない。まず、教育で人権意識を大いに高めなければならないでしょう。
教育でも人権を教え、宗教でも人権を教え、政治では人権を尊重していく。その他、万般にわたって、人間を「手段」ではなく、「目的」として見られる社会を作らなければ、永久に差別社会、不幸な社会、不平等な社会、弱肉強食の動物的な社会は、なくならない。流転を繰り返すだけです。
水俣病は、戦後最悪の公害病の一つです。人々は、あおむけのまま、両手両足を天につきだすようにして悶え死んだ。また、口もきけなくなり、意識も戻らなかった。多くの人が、胎児の時に水銀に侵されて生まれてきた――。
その原因となったチッソ本社(東京)に、水俣病の患者さんたちが行った。熊本から不自由な体で、無理をして。患者さんたちは訴えた。
「人間としてどうおもうな。あんたも人間、わたしも人間。あんたは東大を出たかもわからんばってん、切ればおんなじ血の出るばい」
東大閥とも言われ、エリートが集まる同社の社員は答えた。
「はあ、それはわかります、しかしこれはたんなる交渉事でございますから」
話が、かみ合わない。それどころか、「あんまり皆さんがそう言われると、わが社は倒産しますから、これは重大な社会問題ですよ」と、反対に、患者さんを脅し始めたのだという。(石牟礼道子「石の想い」、『陽のかなしみ』所収)
「人間としてどうおもうな」。この言葉が受け止められない。生きた生身の人間の苦しみ、痛みが、少しも感じられない。それが、日本の「一流コース」と呼ばれる教育の結果なのだとしたら――本当に病は重い。
(つづく)
2014年9月12日
人権
(4)
<外国人を差別する日本の子ども>
――どうして、人間は人間を差別するのでしょうか。ラオス出身の女の子(中学二年生)が語っていたそうです。「(=小学校)5年生の頃、私がラオス人だから、新聞やテレビに載った時、ある子に、『スターでも何でもないのに、テレビなんかに出てバカじゃないの』と言われました。私は何のことかよくわからず、『どうしてそんなこと言うの?』と聞くと、『あんたは、日本に住まわせてもらっているんだから、あんまり目立つな』と言われ、ものすごく悔しかったです」(喜多明人著『わたしたちの独立宣言』ポプラ社)と。
外国人を「同じ人間」として見られない。それは心が貧しいからです。自分が「人間として」どう生きるかという哲学をもっていないからです。
哲学を学ばず、目先しか見ていない。欲望のままに貪る「餓鬼」の心、強い者にはへつらい、弱い者はいじめる「畜生」の心――その悪根性でできあがった社会であるから、人を差別する心、人権を無視する社会ができてしまった。
大事なのは「人間として」生きることです。それなのに、多くの日本人は、「人間として」生きる前に、「日本人として」発想してしまう。心の狭い島国根性です。少しでも「異質」だと思うと排除したり攻撃する。その閉鎖性が、国際的にも孤立を招いているのです。
たとえば、在日朝鮮・韓国人の方々が大勢おられるが、その二世、三世の方が韓国・朝鮮語を学び、祖国の文化や歴史を学ぶためには、朝鮮学校や韓国学校に通うしかない。
しかし、一般の高校と違い、「各種学校」扱いであるため、長い間、インターハイ(高校総体)も参加できなかった。通学のための学生定期も、もらえなかった。現在でもなお、一部の私立・公立大学を除いて、大学を受験する資格が得られないのです。
これは、ほんの一例にすぎない。(2009年9月15日現在)
(つづく)
2014年9月3日
人権
(3)
<いじめは「人道上の犯罪」>
――犯罪といえば、ヨーロッパでは「差別は犯罪である」と、はっきり認識している国が多いと言われています。その点、日本は、まだまだ人権後進国だと思います。
多くの人が、そう指摘しています。そういう「社会のゆがみ」が、陰惨な「いじめ」にも影を落としている。
――「いじめ」について、こういう声がありました。
「『こいつはオレより弱そうだ』とか思って、弱い者をいじめるやつがいる。そのかわり、自分より強いと思われるやつの前ではペコペコしている。そういうやつは、本当に人間として許せないと思う」
「自分自身、いじめを受けました。友達といえる人がいたので、その人のおかげで助かりました。あと、いじめてくる人に反抗することです。勇気をもって反抗すれば、だんだん少なくなっていきます。あと、私一人が苦しいんだと思わないことです。絶対に負けない!あいつらのために一生を棒にふってたまるか!という気持ちでがんばってきました」
(中略)
いかなる理由があろうと、いじめは絶対にいけない。いじめる側にも、言い分はあるかもしれない。自分の苦しさを、他の人にぶつけているのかもしれない。しかし、どんな理由があろうとも、いじめや差別を正当化することは絶対にできない。
いじめは「人道上の犯罪である」ことを、皆の共通認識にすべきでしょう。
悪い人間に対しては厳しさも必要です。これも人権闘争です。良い人間を守る。これも立派な人権闘争です。
(つづく)
2014年9月2日
人権
(2)
<いじめは小さな戦争>
――「差別」や「いじめ」は、身近なところにもあります。また戦争とか弾圧とか、極端な形をとることもあります。形は違っても、根っこは同じと考えていいでしょうか。
その通りでしょう。「いじめは小さな戦争です」と言った人もいる。
戦時中のことです。私は高校生の諸君くらいの年齢か、もう少し若かった。
蒲田(東京・大田区)の「大鳥居」の駅前で、ゆで玉子を売っていた。食べたいと思ったが、お金がないので食べられなかった。
そこに、ある兵士が女性と連れだって、やってきた。たまたま、そこには上官がいた。兵士が上官とすれちがったとき、上官は「貴様は、ちゃんと敬礼しなかった」と言って、兵士を、めちゃくちゃに殴ったり、けったりした。
本当は、きちんと敬礼したんだが、上官には、女性連れの兵士に「焼きもち」があった。そこで彼女の前で、さんざん殴った。大勢の人も見ている中です。兵士は反抗するわけにもいかない。あの時の、泣いていた彼女の顔が忘れられない。
私は、それを見て、本当に日本人はいやだなと思った。軍隊は横暴だ、間違っていると思った。こういう「狭い心」「いばる心」「嫉妬」「自己本位」――それら低次元の感情が人権を壊すのです。その延長に「戦争」や「犯罪」もある。
(つづく)
2014年9月1日
人権
(1)
<人を尊敬できる「自分自身の確立」を>
何度も言うように、仏法では「桜梅桃李」と説いている。桜には桜の美しさがある。梅には梅の香りがある。桃には桃の彩りがある。李(すもも)には李の味わいがある。
人それぞれに使命があり、個性があり、生き方がある。それを認め、尊重することです。それが自然です。
現に、花たちの世界はそうなっている。百花繚乱です。
ところが人間の世界は、違いを尊重できないで、「差別」をしたり、「いじめ」をしたりする。人権の破壊です。ここに根本的な不幸が生まれる。
だれもが、人間として、人間らしく開花し、人間としての使命をまっとうしていく権利がある。自分にもある。人にもある。それが人権です。
人権を尊重しないで、人の人権を侵害するのは、すべての秩序を破壊しているようなものです。人権を大切にし、人を尊敬できる――そういう「自分自身の確立」が必要です。
(つづく)