仏法対話の決定打


(建築中)

2023.10.10現在


生命とは何か 

<生死という人生の根本のテーマ>

 

◆永遠の生命と因果の理法◆

 

 伸一は、笑いが静まると、力を込めて語り始めた。

「これは極めて大事な問題です。

 死の解明は、

 人間の、そして、宗教の重要なテーマです。

 

 いくら語っても、語りつきない問題ですので、今日は、その一端だけ、お話しましょう。

 

 現代人のなかには、生命というのは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。

 

 日本の国に生まれる人もいれば、

 香港に生まれる人も、

 アメリカに生まれる人もいる。

 あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。

 

 さらに、金持ちの家に生まれる子もいれば、貧困の家に生まれる子もいる。

 生まれながらにして、不治の病に侵されていたり、不自由な体で生まれてくる子どももいます。

 

 生まれる境遇も、顔や姿も、千差万別です。

 まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。

 

 また、生命が今世限りなら、

 不幸な星の下に生まれた人は、親を恨み、無気力にならざるを得ません。

 あるいは、何をしようが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、

 刹那主義に陥ってしまうことになる。

 

 この宿命がどこから生じたのかを、

 徹底して突き詰めていくならば、

 どうしても、今世だけで解決することはできない。

 

 生命が永遠であるという

 観点に立たざるを得ません

 

 伸一は、参加者に視線を注いだ。

 皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。

 

 三世にわたる生命の因果の法則のうえから、

 この宿命の根本原因を明かし、

 宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。

 

 では、仏法では、宿命はいかにしてつくられると、説いているのか──。

 自分以外のものによってつくられたのではなく、

 過去世において、

 自分自身がつくり出したものだというんです。

 

 少し難しくなりますが、

 身・口・意の三業の積み重ねが、

 宿業となるのです。

 

 つまり、

 どのような行動をし、

 何を言い、

 何を思い、考えてきたかです。

 たとえば、

 人を騙し、不幸にしてきたり、

 命を奪うといったことが、

 悪業をつくる原因になります。

 

 さらに最大の悪業の因は、

 誤った宗教に惑わされて、正法を誹謗することです。※6 ※7 ※8

 これは生命の根本の法則に逆行することになるからです。


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◆死ねばどうなるのか? 宿業とは?

 

 さて、人間は、死ねばどうなるのかという問題ですが、

 生命は大宇宙にとけ込みます。

 

 戸田先生は、その状態を、

 夜になって眠るようなものであると言われている。

 さらに、眠りから覚めれば新しい一日が始まる。

 

 これが来世にあたります。

 生命は、それを繰り返していくのです。

 

 ここで大事なことは、

 死後も、宿業は消えることなく、来世まで続くということです。

 

 たとえば、

 一晩、眠っても、昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。

 今世の苦しみは、また来世の苦しみとなります。

 

 今世で、七転八倒の苦しみのなかで死ねば、

 来世も同じ苦を背負って生まれてきます。

 

 人を恨み抜いて、怨念のなかで死を迎えるならば、

 来世も、人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。

 

 死んでも、

 宿命から逃れることはできない。

 ゆえに、自殺をしても、

 苦悩から解放されることはないんです。

 

 反対に、

 幸福境涯を確立し、

 喜びのなかに人生の幕を閉じれば、

 来世も、善処に生まれ、

 人生の幸福の軌道に入ることができます。

 

 こう言うと、なかには、

 来世も宿業で苦しむなら、

 生まれてこないで、

 ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、

 そうはいきません。

 

 生まれる前の、

 大宇宙にとけ込んだ状態であっても、

 生命は苦しみを感じているんです。

 

 ちょうど、

 大変な苦悩をかかえている時には、

 寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

 

 彼は、生死という根本の問題を、

 わかりやすく、噛み砕いて語っていった。

 

現代の思想や哲学は、

 今世のみに目を奪われている。

 それは、地表の芽を見て、根を見ないことに等しい。

 ゆえに、

 人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。」


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◆宿業転換

 

 伸一は話を続けた。

 

「それでは、

 その宿業を転換し、幸福を実現する方法はあるのか。

 あります。※1 ※7

 それを、末法の私たちのために説いてくださったのが

 日蓮大聖人です。

 

 そして、

 その方法こそ

 御本尊への唱題であり、折伏です。

 

 それが、

 生命の法則に則った最高の善の生き方であり、

 歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する

 唯一の道なんです。

 

 こう申し上げると、

 初代会長の牧口先生は、

 牢獄で亡くなったではないか、

 不幸ではないかと言う人がいます。

 

 しかし、

 一番大切なことは、

 死を迎えた時の心であり、境涯です。

 

 苦悩と不安と恐怖に怯えて息を引き取ったのか、

 獄中であっても、

 安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。

 

 牧口先生は獄中からの便りに、

 経文通りに生き抜いた大歓喜を記されている。

 

 また、学会員でも、

 病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、※3

 思う人もいるでしょう。

 その場合でも、

 信心を全うし抜いた人は転重軽受であることが、※9

 仏法には明確に説かれております。

 

 つまり、

 本来、何度も生死を繰り返し、

 長い苦悩を経て、少しずつ宿業を消していくところを、

 今生で過去世の宿業をことごとく転換し、成仏しているんです。

 

 その証明の一つが臨終の相です。 ※3

 大聖人は御書のなかで、経文のうえから、

 体も柔らかいなど、成仏の相について論じられています。

 

 戸田先生も、

 微笑むような成仏の相で亡くなりました。 ※4

 私は数多くの同志の臨終を見てきました。 ※2 ※11

 

 ともあれ、

 広布のために、

 仏の使いとして行動し抜いた人は、

 いかなる状況のなかで亡くなったとしても、

 恐怖と苦悩の底に沈み、

 地獄の苦を受けることは絶対にない。

 

 経文にも、※5

 千の仏が手を差し伸べ、抱きかかえてくれると説かれている。

 

 臨終の時、一念に深く信心があること自体が成仏なんです。

 

 まさに、

 生きている時は、『生の仏』であり、

 死んだあとも『死の仏』です。

 さらに、その証明として、

 残された家族が、必ず幸福になっています。

 

 だから、

 信心をし、難に遭い、

 いかに苦労の連続であったとしても、

 退転してはならない。

 難に遭うことは宿業を転ずるチャンスなんです。10

 

 永遠の生命から見れば、

 今世の苦しみは一瞬にすぎない。

 未来の永遠の幸福が開けているんです

 

※1 宿命転換の原理

※2 転重軽受(交通事故死)

※3 日寛上人の臨終

※4 戸田城聖先生の臨終

※11 池田先生の実感

※5 生死一大事血脈抄(新1775・全1337)

 『詮ずるところ臨終只今にありと解って信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を、「この人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれて候。悦ばしいかな、一仏二仏にあらず、百仏二百仏にあらず、千仏まで来迎し、手を取り給わんこと、歓喜の感涙押さえ難し。法華不信の者は「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わんずらん。浅まし、浅まし。十王は裁断し、俱生神は呵責せんか。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱えんほどの者は、千仏の手を授け給わんこと、譬えば瓜・夕顔の手を出だすがごとくと思しめせ。


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先祖供養と先祖の成仏の証明

 

  日蓮大聖人は

 「されば、まず臨終のことを習って後に他事を習うべし(妙法尼御前御返事<臨終一大事の事>、新2101・全1404)と述べられている。

 

 「死とは何か」の正しい究明がなければ、

 人間として「なんのために死ぬか」

 「いかに死ぬか」を考えることはできない。

 そうであれば、「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。

 

 生と死とは、本来、表裏の関係にほかならないからである。

 

 現代人は、

 葬儀の形式などには、強い関心をもち始めているが、

 死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。

 

 実はそこに目先の利害や虚栄、

 快楽に流されがちな風潮を生み出している、

 根本的な要因が潜んでいるといえよう。

 

 山本伸一は、

 ここで、先祖供養に話を移した。

「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、

 どうしているかというと、

 既に生まれ、宿業に苦しんでいることもあれば、

 まだ、生まれていない場合もあるでしょう。

 

 あるいは、

 生まれていても、人間に生まれているとは限りません。

 宿業のいかんによっては、

 畜生、つまり動物に生まれることもある。

 これは、経文に明確です。

 むしろ、

 人間に生まれることの方が、はるかに難しい。

 

 しかし、

 先祖が何に生まれ、どこにいて、いかに苦しんでいても、

 生者が正しい信仰をもって、

 その成仏を願い、

 唱題していくならば、

 それが死者の生命に感応し、

 苦を抜き、楽を与えることができる。

 

 南無妙法蓮華経は

 宇宙の根本法であり、

 全宇宙に通じていくからです。

 

 ましてや、

 畜生などに生まれれば、

 自分では題目を唱えることはできないわけですから、

 私たちの唱題だけが頼みの綱になります。

 

 また、先祖が人間として生まれてきている場合には、

 私たちの送る題目によって

 先祖が誰かの折伏を受け、

 仏法に縁し、信心をするようになるんです。

 

 したがって、

 先祖を供養するには、真剣に唱題する以外にありません

 

 お金を出して、

 塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。

 もし、そうだとするなら、

 金の力で成仏できることになってしまう。

 

 一方、信心を全うし、成仏した人は、

 死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、

 引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる。

 

 そして、

 先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、

 さきほども申しましたように、

 子孫である自分が、幸福になったかどうかです。

 それが、先祖の成仏の証明になります」


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一生成仏の千載一遇のチャンス

 

 人間は、

 過去世も未来世も見ることはできない。

 しかし、

 三世にわたる生命の因果の理法を知る時、

 いかに生きるかという、

 現在世の確かなる軌道が開かれる。

 そして、それが未来世を決定づけてゆく。

 

 伸一は、情熱を込めて訴えた。

私たちは今、

 人間として生まれてきた。

 しかも、

 大宇宙の根本法を知り、

 学会員として、

 広宣流布のために働くことができる。

 これは大変なことです。

 

 たとえば、

 森に足を踏み入れると、

 その足の下には、

 数万から数十万の、

 ダニなどの小さな生物がいるといわれています。

 さらに、細菌まで含め、

 全地球上の生命の数を合わせれば、

 気の遠くなるような数字になります。

 

 そのなかで、

 人間として生まれ、信心することができた。

 それは、

 何回も宝くじの一等が当たることより、

 遥かに難しいはずです。

 

 まさに、大福運、大使命のゆえに、

 幸いにも、

 一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。

 

 ところが、

 宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、

 人間と生まれて

 信心ができたすばらしさがなかなかわからないで

 退転していく人もいます。※6 ※8

 残念極まりないことです。

 

 私たちにとっては、

 この生涯が、

 一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。※7

 どうか、この最高の機会を、

 決して無駄にしないでいただきたい。

 

 永遠の生命といっても、

 いっさいは『今』にあります。

 過去も未来も『今』に収まっている。

 

 ゆえに、

 この一瞬を、今日一日を、この生涯を、

 感謝と歓喜をもって、

 広宣流布のために、

 力の限り生き抜いていってください。

 ザッツ、オーケー?(よろしいですね)」

 

 伸一が英語で話を締めくくると、

 弾けるような声と明るい笑いが広がった。

 彼が、この質問に、

 かなり長い時間をかけて答えたのは、

 生死という人生の根本のテーマ

 明確にしておきたかったからである。

 

 

※6 佐渡御書(新1291・全960)文永9年(ʼ72)3月20日 51歳 門下一同

 『日蓮を信ずるようなりし者どもが、日蓮がかくなれば、疑いをおこして法華経をすつるのみならず、かえりて日蓮を教訓して我賢しと思わん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらんこと、不便とも申すばかりなし。』

 

※7 新池御書(新2062・全1439)弘安3年(ʼ80)2月 59歳 新池殿

 『うれしきかな、末法流布に生まれあえる我らかなしきかな、今度この経を信ぜざる人々。そもそも、人界に生を受くるもの、誰か無常を免れん。さあらんにとっては、何ぞ後世のつとめをいたさざらんや。

 つらつら世間の体を観ずれば、人、皆、口にはこの経を信じ、手には経巻をにぎるといえども、経の心にそむくあいだ、悪道を免れ難し。

 譬えば、人に皆五臓あり。一臓も損ずれば、その臓より病出で来て余の臓を破り、終に命を失うがごとし。ここをもって伝教大師は、「法華経を讃むといえども、還って法華の心を死す」等云々。文の心は、法華経を持ち読み奉り讃むれども、法華の心に背きぬれば、還って釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり。終に世間の悪業・衆罪は須弥のごとくなれども、この経にあい奉りぬれば、諸罪は霜露のごとくに法華経の日輪に値い奉って消ゆべし。しかれども、この経の十四謗法の中に一も二もおかしぬれば、その罪消えがたし。所以はいかん。一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、いかでか一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失う罪なり。このおきてに背くを謗法の者とは申すなり。

 

※8 新池御書(新2063・全1440)同上

 皆人のこの経を信じ始むる時は信心有るように見え候が、中ほどは信心もよわく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終わりまで、いよいよ信心をいたすべし。さなくして、後悔やあらんずらん。譬えば、鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成って歩みをさしおきては、何として都の月をば詠め候べき。何としてもこの経の心をしれる僧に近づき、いよいよ法の道理を聴聞して、信心の歩みを運ぶべし。

 

※9 佐渡御書(新1289・全959)文永9年(ʼ72)3月20日 51歳 門下一同

 『般泥洹経に云わく「善男子よ。過去に無量の諸罪、種々の悪業を作るに、この諸の罪報は、あるいは軽易せられ、あるいは形状醜陋、衣服足らず、飲食麤疎、財を求むるに利あらず、貧賤の家および邪見の家に生まれ、あるいは王難に遭う」等云々。また云わく「および余の種々の人間の苦報あらん。現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由るが故なり」等云々。この経文は、日蓮が身なくば、ほとんど仏の妄語となりぬべし。一には「あるいは軽易せらる」、二には「あるいは形状醜陋」、三には「衣服足らず」、四には「飲食麤疎」、五には「財を求むるに利あらず」、六には「貧賤の家に生まる」、七には「および邪見の家」、八には「あるいは王難に遭う」等云々。この八句は、ただ日蓮一人が身に感ぜり。

 『高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服・飲食をうばえば必ず餓鬼となる。持戒・尊貴を笑えば貧賤の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑えば国土の民となり王難に値う。これは常の因果の定まれる法なり。

 日蓮はこの因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は、月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるがごとくなる御経を、あるいは上げ、あるいは下して嘲弄せし故に、この八種の大難に値えるなり。この八種は、尽未来際が間一つずつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによって一時に聚め起こせるなり。譬えば、民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等におおせたれども、いたくせめず、年々にのべゆく。その所を出ずる時に競い起こるがごとし。「これ護法の功徳力に由るが故なり」等はこれなり。

 

※10 御義口伝(新1045、全750)

 『御義口伝に云わく、妙法蓮華経を安楽に行ぜんこと、末法において、今、日蓮等の類いの修行は、妙法蓮華経を修行するに、難来るをもって安楽と意得べきなり。

 

 

<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 62頁~70頁

2023.9.12整理

2023.9.23整理

2023.10.2整理

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